2016年9月30日金曜日

92 エリザベス・フェラーズ 「三月兎殺人事件」

The March Hare Murders (1949) by Elizabeth Ferrars (1907-1995)

エリザベス・フェラーズの作品はどれもよく組み立てられていてがっかりさせられることがない。この手堅い作家は日本ではあまり紹介されていないけれど、イギリスのミステリを支えた重鎮の一人である。本作もサスペンスに満ち、しかも立派な本格ものに仕上がっている。最初からおおいに推奨しておこう。

事件の中核的人物はヴェリンダーという教授である。彼は結婚しているのだが、奇妙に女性を誘惑する力を持っていて教え子や知り合いの女と次々と情交を重ねる。ところが彼は本気で彼らを愛してはいない。彼らを自分に惹き付け、そして残酷に突き放すのが好きなのである。どうもそれによって自分の心のバランスを取っているらしい。

そんな男だから彼を憎む人間は多い。オベニー(珍しい名字だ)・デイヴィッドもその一人である。彼の恋人は昔、ヴェリンダーの教え子で、彼に誘惑され、捨てられ、自殺してしまったのである。しかもデイヴィッドはヴェリンダーに対する憎しみをあからさまに表明していた。だからヴェリンダーが射殺されたとき、彼がもっとも強い嫌疑をかけられたのである。しかも彼はつい最近まで精神を病んで療養所にいた。精神が不安定になって憎い男を殺したのではないかと、誰もが考えるだろう。さらに決定的な証拠があった。ヴェリンダー殺害に使われた銃は、彼が持っていたレヴォルバーだったのだ。

デイヴィッドは自分が犯人にされそうなので、必死になって真犯人が誰なのかを考える。彼が妹や妹の亭主と交わす推理は二転三転する、じつにスリリングなものになっている。しかしデイヴィッドには犯人はわからない。見事な推理で真犯人を突き止めるのは警察である。犯人あてゲームが好きな人は、関係者全員が一堂に会する最後の場面がはじまるまえに、ひとつじっくり考えてみるがいいと思う。手掛かりはすべて提示されている。ヒントも充分すぎるくらい出ている。(ついでにレッド・ヘリングも)しかしそれでも、作者(ちなみに彼女はCWAの創立メンバー)がしかけた謎をあなたは見破ることができるだろうか。

一点だけ指摘しておきたいことがある。この作品の登場人物はみなパソロジカル(病的)なところがある。ヴェリンダーの女癖が病的であることは明らかだろう。デイヴィッドは心を病んだだけでなく火を極度に怖れる。彼の妹の旦那は、蠅が大嫌いで、室内で蠅を見ると新聞紙を手に狂ったように打ち掛かる。またある人物は虚言癖があり……という具合だ。近代的なミステリにはどうしてかくも多くのパソロジカルな人間が登場するのか。すでに何度かこのブログで書いたことだが、もう一度まとめておこう。

十九世紀のメロドラマにおいて人物は型に従って造形された。吝嗇な人間、陽気な人間、ペシミスティックな人間、善意の人間などなど、人にはそれぞれ確たる性格が与えられ、その性格にふさわしい振る舞いをしていた。ディケンズの小説を読めばそのことはよくわかるはずだ。

ところが近代的ミステリにおいてはメロドラマを外から、徴候として見ることになる。たとえばある人物が善意のかたまりであるとしたら、もはやわれわれは彼を善意のかたまりと見ることはできない。その善意は、内に秘められたパソロジカルななにかの徴候ではないかと見てしまうのである。谷崎潤一郎の「途上」はこの認識の転換を模範的に表出している。妻の健康と幸せを気遣う愛情ふかい夫は、そのあまりの愛情のふかさ故に、探偵によってパソロジカルななにかを隠していると判断されるのである。

この認識の転換、新しい視線の獲得こそが、古いメロドラマと近代的ミステリをわける決定的要素のひとつである。

このブログで私はエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」を高く評価したが、それはこのような認識の転換をよく示しているからだ。道徳的で善意にあふれた人間は、昔のように(十九世紀の読者が素朴に信じたように)ただ好ましい人物ではないのである。そこにパソロジカルななにかを見るのがミステリ作家が獲得した新しい「視力」なのである。ホワイトの作品において探偵は、善なるものが悪と「奇怪な形でからみあっている」のを見出す。

「三月兎殺人事件」にもこのような認識の転換が描かれている。デイヴィッドの妹は、以前はヴェリンダーに惹かれて不倫をしていたが、いまは気持ちを整理して、彼との関係を清算しようとしている。その彼女がこんなことを言う。ヴェリンダーのことなんかもうなんとも思ってはいない。二人の関係のことなんか話をするつもりもない。でもヴェリンダーはそのことをもとにしてドラマをつくらずにはいられないみたい。自分をあわれむべき人間のようにみなし、責任はみんな私にあるみたいな言い方をせずにはいられないのよ、と。さらに彼女はこうも言う。彼は嘘つきだわ。たえず他の人にも嘘を言うし、自分にも嘘を言う、と。

彼女はヴェリンダーと関係を持っていたとき、兄のデイヴィッドに問い詰められてこう応えている。彼に罪はない、私はヴェリンダーのすべてを理解して彼と関係を持っているのだ、責任は全部自分にある、と。デイヴィッドの自殺した恋人もおなじことを言っていた。彼に責任はない、すべて私が悪いのだ、と。彼らはヴェリンダーのドラマの内部にいたのである。それはヴェリンダーの欲望が構成する物語、彼にとってまことに都合のいい物語である。しかし彼との関係に見切りをつけたデイヴィッドの妹は、その物語の外に立つことを知ったのだ。外に立ち、その物語のパソロジカルな性格に気がついたのである。