2016年9月14日水曜日

85 アンソニー・バークレイ 「服用すべからず」 

Not To Be Taken (1938) by Anthony Berkley (1893-1971)

アンソニー・バークレイである。しかも本格的なパズル・ストーリーである。面白くないわけがない。最終章の直前にはこうある。
 すべての証拠は読者の目の前にある。ここで一息ついてつぎの質問に答えてみていただきたい。
 1 ジョン・ウオーターハウスを殺害したのは誰(あるいは何)か。
 2 ジョン・ウオーターハウスはいかにしてヒ素を飲むことになったのか。その理由は。彼が死に到る過程を簡単に示してもらいたい。
 3 ダグラス・シェーウェルの語りから推理できること、手掛かりをできるだけあげてもらいたい。
 4 決定的な手掛かりはあるだろうか。あるとしたら、それは何か。
こういう堂々たる挑戦を受けて心ときめかないミステリ・ファンはいないだろう。しかし本書は論理ゲーム以外のところでも私を楽しませてくれた。

物語をざっと整理すると、ドルセットシャー州のアニーペニーという村で、仲のいい六人の人間がある日集まって小さなパーティーを開く。その席で主人役のジョン・ウオーターハウスが急に具合が悪くなり、結局急死してしまうのである。医者は病死と判断したけれど、ジョンの弟が無理矢理死体を検死解剖させ、その結果、臓器からヒ素が検出された。いったい誰がジョンにヒ素を飲ませたのか。そしてその方法はいかに。

事件自体はきわめて単純で、事件が起きてからは審問の様子が詳しく描かれるだけである。つまりジョンが急死するまではパーティーがあったり、医者が診療したり、看護婦が被害者の容態を見たりとあわただしく人が動くが、その後はアクションらしいアクションがとくになにもないのだ。そして審問がジョンの死を事故死と結論づけてからすぐあとに、本書の語り手であるダグラスがふと事件の真相に気づくのである。

アクションがないのでは退屈ではないか、ミステリを読まない人ならそう思うかもしれない。いやいや、そんなことはない。何度もこのブログで書いたことだが、近代的なミステリは一時代前のメロドラマを脱却したところに成立する。偶然とかセンセーショナリズムによって駆動される物語から、論理的展開と様相の変化を主眼にした物語へと移行したのである。論理的展開というのはわかりやすいが、様相の変化とはどういうことか。たとえば被害者のジョンは、殺される以前は気持ちの優しい男として描かれている。しかし彼の死後、警察やスコットランド・ヤードが捜査を開始すると、彼がこっそりとイギリス軍のためにある種のスパイ行為をはたらしていたこととか、妻に知られぬように情婦をかこっていたことが判明するのである。彼のイメージは事件の前後でがらりと変わる。

またジョンの妻も同じように印象が変化する。彼女は病弱で寝込んでばかりいるのだが、本当は彼女は身体的になんの異常もかかえていないことが事件後にわかる。彼女の病気は周囲の注意を自分に惹きつけるための贋の病気、精神的な病気なのである。さらに彼女にも恋人がいて、なんと夫のジョンもそのことを承知していたことがわかってくる。素朴な夫婦のようにみえたのが、じつは仮面夫婦だったのである。

もちろん様相の変化の最大のものは、物語の最後、犯人を指摘する場面である。もっとも罪のない見かけの人間が、もっとも罪深い人間に変貌する瞬間である。ここでは論理的展開と様相の変化が手を取り合って強力に作動することになる。

とにかく近代的なミステリはこういう様相の変化を描くがゆえに、とくにアクションがなくてもよいのである。本作はその模範的な例と言えるだろう。

そのせいだろうか、作中人物たちは、ジョンや妻が、彼らが思っていた人物とはまるで違う人物だったことにたいする感慨のようなものが何度も語られる。
 不思議というか、ほとんど怖ろしいことだね。ぼくらは、友だちがぼくらに抱いているイメージとはまるで違う存在なんだよ。
 ぼくらは誰かが自分はこういう人間なんだというと、すぐああそうなのか、そういう人なのかと思ってしまうよね。ジョンは自分がどういう人間かということをよくしゃべっていた。その結果、ぼくらは彼はそういう人なんだと、自動的に思い込んでしまったのさ。だけどそれはほとんどが間違いだった。
 ジョンの奥さんには君ら全員、だまされていたんじゃないか? まあ、驚くようなことじゃないよ。彼女自身、自分にだまされていたんだから。永年にわたって彼女は自分をだましていたんだ。神経症だな。心理学的に面白いケースだ。
 治る見込みのない哀れな病人としてぼくらはジョンの妻を扱い、機嫌を取り、同情してきたのに、じつはぼくの妻とおなじくらいぴんぴんしていて、ぼくらの同情はすべて無駄についやされたのだ、などということを信じることは簡単ではなかった。
メロドラマにおいては登場人物は多くの場合ステレオタイプ化されている。ディケンズの小説に登場する人物を見るとわかるが、同じ人物は何度も同じ形容詞で描写され、その人固有のイメージを形づくっている。陽気な人間はどこまでも陽気であり、吝嗇な人間はどこまで吝嗇である。しかし近代的なミステリにおいてはそうした人間の認識はがらりと変化する。われわれは他人のことをこうだと断定的に語ることはできない。それどころか下手をすると自分のことすらどういう人間かわからないのだ。ここに近代的ミステリと心理学・精神分析との接点がある。

ついついミステリ論を展開してしまったが、バークレイはさすが黄金時代の立役者だけあって、そういうことを考えさせる深みのある作家なのである。