2016年10月12日水曜日

番外20 最後の挨拶、あるいは次なる殺人の予告

とうとう百冊読み終わった。正直、このブログを書くのはしんどかった。読むのはべつにたいしたことではない。洋書はいつも一週間に二冊から三冊は読んでいるのだから。しかし読んだ本についてまとまった文章を書くのはつらい。よい作品なら書きたいことはすぐに見つかるのだが、凡作とか駄作となると、一定の分量の文章を書くのは至難の業であった。

一回の読書で作品の中から重要と思われる問題点を見ぬくというのは予想以上にたいへんな作業だった。だいたい私は気になる作品は十回でも二十回でも読み直して、ようやく意見がまとまるというタイプの人間だ。それが一回の読書で問題点を把握し、それに対する考えをまとめようとしたのだから、読書中に大量のメモを取らねばならず、ほんとうにしんどかった。もちろん問題点をうまく把握できず、その場しのぎのごまかしレビューを書いたことは何度もある。というか、それがほとんどだった。把握できたとしてもそれを深く論じることなどとてもできやしない。

しかし強行作業ではあったものの、とにかく一年以上にわたって、二十世紀前半におけるミステリのありようを考えつづけたわけで、この連続性の中で、多少は自分の考え方がまとまってきたり、広がりを見せるようになったということは(言い替えれば、自分の考えの不徹底さが露見して泥縄式に穴を補おうとし、その過程で議論がまとまるどころか、逆に論点がいたずらに拡散したということは)事実である。このブログで見出した論点については次のブログでも引き続いて考える予定である。

無名作家をずいぶん読んだが、その中にも優秀な作品があるのには驚いた。このような作品に出合うことは純粋な喜びである。また駄作を読んだからと言って時間の損になったとは言えない。多くの作家たちがトライアル・アンド・エラーを繰り返して、近代的なミステリの型ができあがったという、その歴史的過程が実感できたのだから。

百冊の中でいちばん印象に残るのは第四回にレビューしたエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」。善なるもののパソロジカルな性格を追求して圧巻だった。この本を読んだ後、アレンカ・ズパンチッチの Ethics of the Real という理論書を読んだが、ホワイトの作品を理解する上で非常に参考になった。エリザベス・フェラーズの「三月兎殺人事件」も本格ものとしてよくできている。どこかの出版社が翻訳を出すべきだろう。

これでこのブログは終了である。お読みいただいた読者の方々には心から感謝を申し上げる。こういうブログに興味を持たれる方は、ハードコアのミステリファンか、読書家のなかでも相当な「すれっからし」であろうと思われる。しかし英語圏では電子出版によって古い本、絶版本がかなり自由に手に入るようになってから、今まであまり注目されていなかった本を再評価しようという動きが、もう十年ほども前からはじまっている。ブログでは Backlisted とか The Neglected Books Page などというすぐれたサイトができているし、出版社では Valancourt とかマクミランの Bello などはそうした再発掘の努力をしている。私の試みもそうした流れの中にある。

次のブログではヴィクトリア朝の最後期からエドワード朝にかけての本を扱う予定である。年代で言うと1880年頃から1920年ぐらいのあいだである。じつは今、世紀末に書かれた、やたらと長いメロドラマ小説を(四苦八苦しながら)翻訳しているので、その頃出版された本を重点的に読んでみたいと思っているのだ。ただしジャンルはミステリにこだわらない。普通の文学書だろうが、(大学の図書館が貸してくれるなら)研究書だろうが、怪奇小説だろうが(この時期の怪奇小説には知られざる傑作、注目すべき作品が多々ある)、必要とあらば既読未読にかかわらず読みたいと思っている。

2016年10月11日火曜日

100 ウオルター・リヴィングストン 「バーンレイ邸の謎」

The Mystery Of Burnleigh Manor (1930) by Walter Livingston (1895-?)

ニューヨークの建築家ライカーは、イギリス人のセシル卿に請われて、卿の屋敷バーンレイ邸のリニューアルのため、イギリスにおもむく。もちろんこの当時はまだ飛行機はないので、旅行は船でおこなう。ライカーは豪華な船室をあてがわれ、召使いまでつけてもらい、しかも料金はただという、まことにうらやましいご身分でイギリスに渡る。しかし同じ船に乗っているセシル卿から、不思議な命令が彼のもとに来る。しばらくのあいだはあてがわれた船室から外に出るな、ほかの乗客とも接触するな、というのである。

アメリカ人のライカーはこの無体な命令にむっとする。べつにアメリカ人じゃなくてもむっとするだろうけど。しかし後日、セシル卿からその理由、およびリニューアルを頼まれたバーンレイ邸の歴史を聞いて、彼は大いにこの仕事に乗り気になる。

セシル卿には男の兄弟が二人いて、もちろん長男がバーンレイ邸の主人になっていたのだが、彼と弟との間になにやら確執が生じ、弟はある日、忽然と姿を消してしまうのである。しかもそれとともに長男の美しいエジプト人の妻も姿を消すのだ。まあ、なにがあったかはだいたい予想がつくだろう。

ところがそれ以後バーンレイ邸には幽霊が出るようになった。こつこつと足音が邸内に響き、その足音はドアが閉まっていてもそこをすり抜けてしまうのである。これは長男だけではなく、召使いもセシル卿も実際に見て、いや、「聞いて」知っていることだった。

長男は精神を病んで自殺し、それ以後邸は入口を閉ざされ、管理人に管理されているだけだったのだが、最近その管理人から奇妙な報告がきた。何者かが入口の閉ざされた邸の中に入り込んでいるようだというのだ。しかも中に入った何者かが、その後、外に出てきた気配はない。セシル卿はこの邸をリニューアルするだけでなく、邸にからんだ謎を解明してもらおうとライカーに白羽の矢を立てたのだった。卿がライカーに外部との接触を禁じたのは、邸に入り込んだ賊が彼らを見張っているかもしれないと、警戒したからなのである。

話の出だしはこんな感じだ。もちろんすぐに読者は、ははあ、この邸には秘密の通路があるのだな、ということがわかるだろう。先の展開が非常に読みやすい小説ではある。

では、この後、ライカーが建築家=探偵として邸の謎を解明するのかというと……そうはいかない。彼は屋敷に着くなり、管理人の娘に恋をしてしまうのだ。しかもこの娘というのが事件といちばん深い係わりを持っている、怪しい、謎の娘なのである。つまり、このところ私が言い続けている事件=ドラマの外部/内部という問題に照らすなら、彼は内部に強い靱帯でもって(恋愛くらい強い靱帯もないだろう)関係をもってしまうのだ。探偵はあくまで外部に留まらなくてはならない。ライカーは内部に足を踏み込むことで探偵としての位置を失う。すなわちこれ以後、物語はメロドラマとなるのである。

こういう作品が二十世紀の前半に「ミステリ」としてたくさん書かれたことは、このブログをつけながら私はいやというほど再確認した。ここを通過して、探偵が外部にいる本格的なミステリが、型として成立するのである。

しかしこう言ったからといって、私がメロドラマを好まないわけではない。それどころか、メロドラマ的な要素がない作品は、正直ちょっとつまらないと思ってしまうくらいだ。毒々しい色彩のメロドラマは、立てつづけに読むと飽きが来るが、たまによむと面白い。じつはこのブログのあとはヴィクトリア朝の最後期からエドワード七世時代にかかれたメロドラマや、その時期を扱った研究書を読もうかと思っている。(もっとも研究書は大学の図書館が貸してくれないので何冊読めるかはわからない)

そんなことはともかく、物語のほうに戻ろう。メロドラマであることがわかってもこの作品は充分に面白く読める。管理人の娘の不可解な行動、娘を好いているライカーのフラストレーション、神出鬼没な幽霊、邸の秘密を知っているはずなのに、決してそれを話さない召使いたち、暗闇の中で展開するライカーと幽霊の闘争。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい話だ。真相がわかった読者は、物語を振り返って、登場人物たちがあんなに謎めいた振る舞いをしていたのは、ちょっとやり過ぎ、大袈裟すぎじゃないかと思うだろう。まったくその通りだ。しかしそういう「やり過ぎ」なところがいいのである。バルザックを読むと、なんというのだろう、ある種の満腹感が得られるが、それはこのように極端にまでつきつめられた情念や人間性に対する満腹感ではないだろうか。

2016年10月10日月曜日

99 フォレスト・リード 「春の歌」

The Spring Song (1916) by Forrest Reid (1875-1947)

子供向けのミステリはないかと Internet Archive を探していたらこの本を見つけた。これは奇妙な小説だ。ウエストン家の子供五人、その友だち一人、そして飼い犬一匹が夏休みに繰り広げる冒険を描いているのだが、普通の子供向けの作品よりもシンボリックな書き方がされていて、シンボルとシンボルの連関性を把握しながら読み進めるにはかなりの文学的素養と読解力を要求される。子供向けの本のようなのだが、作者が念頭に置いていた読者は子供じゃないのかもしれない。

また、この本はやんちゃな子供たちを描いているが、後半は不気味なファンタジー、あるいはホラーであって、そこに推理小説的要素が加味されるという、不思議なジャンルの混淆を見せている。かといって作品が分裂しているわけでもない。まことに珍なる作品である。

作者はアイルランド人で、今はもう忘れ去られた作家になってしまったが、生前はジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を取ったりして、それなりの評価を受けていた。私は二三冊彼の本を読んだが、いずれも少年が主人公だった。

本編の粗筋をまとめておく。ウエストン家の子供五人が家庭教師に連れられて、アイルランドの祖父母の家で夏休みを過ごすことになる。男の子が三人、女の子が二人だ。ここにペットの犬パウンサーと、長男のエドワードの友人パーマーが加わる。六人の個性豊かな子供たちと、愛嬌のある犬が主人公だ。

この中でいちばん歳上なのはパーマーで十五歳か十六歳くらいと思われる。シャーロック・ホームズやラッフルズの愛読者で、大人顔負けの直感力を持った、冷静で知的な少年である。そのほかのウエストン家の子供たちは、反抗期の少年であったり、おさなさを多分に残した少女たちだ。ただ一人異質なのはグリフィスで、彼は非常に感受性が強く、内省的な少年である。

本編の前半部分は子供たちがクリケットの試合をしたり、即席の芝居を演じたりと、大騒ぎを展開する。ところが後半に入るとパーマーとグリフィスにスポットライトが当てられ、暗く恐ろしい、幻想的な筋が展開する。前半の明るく陽気な物語が、後半になって突然薄闇の漂う内面世界に移行するところは、あざといくらいに印象的だ。

後半でなにが起きるのか言うと……ネタバレになってしまうけれども、こういうことだ。子供たちの祖父は牧師さんで、彼の教会にはブラドレーというオルガン弾きがいた。このオルガン弾きがじつは精神異常者で、かつて妄想にかられて兄を殺したことがあったのである。彼は精神病院を退院したあと、自分の過去を隠して、祖父の教会のオルガン弾きになった。そしてブラドレーはたまたま知り合いになった多感な少年グリフィスに彼の妄想を語り、少年はその恐ろしい妄想のとりこになり、体調をこわし、寝込んでしまうのである。

グリフィスはブラドレーから聞いた恐ろしい話を誰にも話そうとしなかったが、パーマーはホームズ並の直感力と独自の調査でブラドレーの正体を推測し、グリフィスの突然の病いの原因を見ぬく。そして決定的な証拠をつかむために彼はブラドレーの下宿にのりこみ……最後には驚くべき結末が訪れるのだ。

この作品を読んでいるとき、ドイルの「ヴァスカヴィル家の犬」とかジェイムズの「ねじの回転」とかフォークナーの「失われたストラディヴァリウス」など、いろいろな作品を思い出した。たぶんたくさんの先行作品から種々の影響を受けてできあがったものなのだろう。文学は文学からつくられる。

私が興味深く思ったのは探偵の役割を果たすパーマーの、物語の内部における立ち位置である。私は何度も探偵は事件=ドラマの外部に位置すると言ってきたが、それがここでもあてはまる。彼はほかの子供たちの遊びのおつきあいをするが、どこか彼らと距離をおいている。彼が夏休みを過ごすアイルランドの一小村も一歩下がったところから眺めている。彼は作中の子供たちにも大人たちにも依存しない、独立した存在である。だからこそ牧師も含めて村の人にはわからなかったオルガン弾きの正体が、彼にはわかるのである。彼は村で起きている出来事を外形においてとらえることができる。症候としてそれを読み解くことができる。

しかしこういう外部の人間は、内部の人間にはどう映るのだろうか。よく探偵の非人間性が取り沙汰されることがある。探偵は事件の真相を見ぬくことには関心があるが、事件の当事者たちがどうなろうと興味はない。彼は冷酷な観察者ではないか、と。まったくおなじ感想を、夏のあいだ子供たちを受け容れた彼らのお祖母さんが言っている。「パパはパーマーが大嫌い。私は、そうね、子供たちの遊び相手として彼を選びたくはないわね」と言う。さらに「子供たちはみんな彼が好きだわ。(とくにパーマーのことを好いている)アンは彼のためにお祈りを捧げるけれど、でも彼は彼らが好きかしら。たぶんアンのことは好きだろうし、グリフィンのことも多少は好きなんだろと思う。でも親友のはずのエドワードはどうかしら。ほかの子供たちことは? ちっとも好きじゃない。わたしたちのこともよ。彼は足もとでわたしたちが溺れていても、縄一本投げようとしないで観察するでしょう」お祖母さんのパーマーにたいするコメントは、外部の人間が内部の人間にどうみえるのかを的確にあらわしていて興味深い。もうちょっとだけ引用しよう。「パーマーは冷淡なのよ。グリフィンのために彼がしたこと、あれはすべて彼にとっては気晴らしみたいなものだったのよ。わたしは彼が賢明で勇気があるという事実を認めるにやぶさかではありません。でも彼に良心とか道徳心があるかというと、疑問だわ」

本作はミステリなのかホラーなのかよくわからない不思議な作品だが、パーマーによって描かれているものは、あきらかに外部に立つ「探偵」の姿である。

2016年10月9日日曜日

98 ジョン・ファーガソン 「狩猟場殺人事件」

The Grouse Moor Murder (1934) by John Ferguson (1871-1952)
 
作者はスコットランド生まれの牧師さんだったらしいが詳しいことはわからない。神の愛と魂の救済を説く牧師さんが、殺人をテーマにした本を書くのは矛盾しているようだが、しかしスコラ哲学を生み出し論理的な議論に長けた僧侶たちの血が、現代にいたっても彼らの血管の中を色濃く流れているのだろう、牧師さんのなかにはヴィクター・L・ホワイトチャーチとか、すぐれたミステリを書く人が多い。本編も事件の様相が二転三転どころか四転五転六転する見事な作品で、論理ゲームとしてのミステリの要諦をがっちりとつかんだ男によって書かれた作品と言える。

事件は金持ちのどら息子ども五人が雷鳥の狩猟にでかけたときに起きる。この日は濃い霧が出ており、狩猟に向いていないどころか危険でさえあるような状況だったのだが、なにせどら息子どものことだ、行こうと一決するとどやどやと全員が狩猟場にむかった。そして下の図にあるように距離を置きながら横一列になって狩猟場の坂を下に降りていった。そのときだ。霧の中で一方の端にいるブレントが撃たれ、腕を負傷したのである。

警察は霧の中で隊列を乱した誰かがブレントを撃ったのではないかと最初考えた。しかしその説が否定されると、密猟者による仕業ではなかろうかと考える。密猟者どもはある事情から地主のウィロウビイ氏を敵視していて、ブレントはたまたまウィロウビイ氏の白いカッパを借りて着ていたのである。つまりブレントは密猟者にウィロウビイ氏と間違われて撃たれたのではないかというのである。

ところが地元警察による捜査の最中にブレントは静養していた家の書斎で自殺する。最初は腕に大けがを負い、ピアニストとしての将来を悲観して自殺したのかとも考えられたが、彼の母親は断じてそんなことはない、息子は殺されたのだと主張する。そして地元の警察では頼りないからとロンドンの名探偵フランシス・マクナブが呼ばれることになる。

しかしマクナブにとってもこの事件は難物だった。狩猟場でブレントを撃ったのは誰なのか。ブレントが死んだとき、彼がいた書斎は密室状態だった。もしもそれが他殺だとしたなら、犯人はいったいどのようにブレントを殺し、書斎を出て行ったのか。難問だらけの事件で、名探偵はほとんど負けを認めて事件から撤退しようとするのだが、そのときある人物のひとことが大きなヒントとなって彼は真犯人をずばりと指摘する。

スコットランドの地元警察にもなかなか優秀な人材がそろっていて、彼らが事実を収集し、そこから事件を組み立てていく前半部分もなかなか読み応えがある。しかし事件を解決できるのは本書の後半に入って登場する名探偵のマクナブである。なぜ地元警察には解決ができないのか。最近私がブログに書いていることを読んでいる人はおわかりと思うが、地元警察は充分に事件=ドラマの外部に立っていないからである。あまり詳しく書くと本書をこれから読む人にとって興ざめとなるからおおざっぱに言うが、彼らは事件の容疑者として距離を置くべき人物となあなあの仲というか、その人物の影響下にあるのである。地元警察はその地域の人々、風習、実情をよく知っているし、頭もいい。しかし事件=ドラマに片足をつっこんでいる状態では正しく犯人を指摘できない。それができるのは外部に立ちうる人間、たとえばロンドンから来たよそ者であるマクナブのような男なのである。本格ミステリはその構造上、事件=ドラマに対する外部的な視点を必要とする。これが最近私が考えていることだ。

一カ所、面白い場面がある。マクナブがブレントの母親に捜査の状況を報告する。それを聞いた母親は興奮してさっそく地元の有力者にそのことを伝え、彼の協力を得ようと言う。するとマクナブは血相を変えて反対する。この場面でなにが起きているのかというと、母親が捜査内容をある有力者に話をし、その人物の協力を得ようとすることで、マクナブは自分が事件=ドラマの内部に取り込まれることを怖れたということである。彼は容疑者たちが泊まっている屋敷に弁護士の振りをして入り込むが、けっして彼らと関係を持つことはない。あくまでも外部の人間にとどまろうとする。多くのミステリで名探偵は最後の大団円にいたるまで自分の捜査の内容を語らないものだが、それは語ることによって自分の立ち位置が変化することを怖れているからではないだろうか。立ち位置が変化した途端、彼は事件を読み解くことができなくなってしまうのだ。

だが、そんな理論的な話はともかく、本書は本格ミステリとして非常によくできている。gadetection のサイトには本書のレビューが載っていて、作者の文章に難癖をつけている。たしかに私も二三箇所、表現を工夫すればもっとわかりやすくなるのにと思ったところがあった。しかしこれは瑕瑾であってさほど気にはならない。それよりもまったく無名の作家がこれだけの力作を残していると言うことのほうが驚きだ。私は大いに本書を推奨する。
 

2016年10月8日土曜日

97 ジ・アレスビーズ 「死者のしるし」

The Mark Of The Dead (1929) by The Aresbys

奇妙な作者名で、発音もよくわからない。どういう由来なのだろうか。カリフォルニア大学バンクロフト図書館のサイトにはこの作者が1927年に書いた Who Killed Coralie という作品の粗筋紹介がある。その最後にアレスビーズとは Helen R. Bamberger と Raymond S. Bamberger の合同ペンネームであると書いてある。夫婦でミステリを書いていたのだろうか。

作者は無名だが、内容は滅法面白い。いや、滅法面白いなんてものじゃない。最初の殺人が行われてからは巻を措く能わざる面白さである。面白さという点だけを取れば、このブログで読んだ本の中でも三本の指に入るだろう。goodreads.com を見ると(どんなに無名の作品でもこのサイト見るとたいがい誰かが読んで感想を残しているのだが)なんとこの作者の作品はまだ誰も読んでいないようだ。しかし面白さは私が保証する。英語ができるなら是非一読してもらいたい。私はこれからさっそく Who Killed Coralie を読むつもりだ。こういう本を見つけ紹介できるというのは本当に楽しい。

ただし本作はミステリ仕立てで探偵役もいるが、本当の意味でミステリとはいえない。また、最後に明かされる真相はかなり荒唐無稽で、(人種的)偏見がこもっているとさえ言えるだろう。

本編の主人公はダービーという男だ。彼はサンフランシスコで新聞記者をしているのだが、休暇でハワイ島を訪れることになる。そこにはもう九年もハワイに住み着いている彼の親友コリンズがいて、彼の家でのんびり骨休めをしようというのだ。

友人は医者でかなり大きな屋敷にリチャーズという年配の医者と一緒に住んでいる。リチャーズにはおそろしく美しい娘ルースがいた。

主要な登場人物はこのほかに二三名がいるだけで、犯人当てが目的の作品ならちょっと物足りない感じがするかもしれない。しかし状況設定は凝っている。コリンズたちが住む屋敷は奇怪な声が響いたり、異様なものどもがあらわれる幽霊屋敷で、裏山には死体が埋葬されている洞穴があるのだ。またコリンズとリチャーズ医師は仲違いをして険悪な雰囲気を漂わせ、さらに彼らはダービーにたいして秘密を隠しているような不可解な態度を示す。そしてダービーは屋敷に到着した最初の晩に何者かが悲鳴をあげるのを聞き、かつまた真っ暗な屋敷の中を誰かが動き廻っていることに気づく。翌朝、リチャーズ医師は実験室で殺されているのが発見される……。

話はおそろしく謎めいていて実に面白い。しかし私がいちばん注目したのは「ドラマ=謎」と「ダービー=探偵」との位置関係である。コリンズ、リチャーズ、ルースは明らかに何か秘密をダービーから隠している。いったいそれはなんなのか。ダービーはそれを「外」から探ろうとする。ダービーは常に他の人々の微妙な顔の変化に注意を向ける。
 「もちろんです」とダービーは言った。「今朝会ったミスタ・ペックという人です。ご存じでしょう?」
 リチャード医師の睫毛がほとんど目に見えぬほどのかすかな動きを示した。そして唇がわずかに引き締められた。
この作品は三人称で書かれているけれども、つねにダービーの視点から書かれている。そしてダービーはいつも鋭くコリンズ、リチャーズ、ルースを観察している。表情のほんのわずかの変化から彼らの心理を、彼らが隠している物語を「読もう」とするのだ。
 「どこへ行けば彼女に会えるのです?」その声には差し迫った響きがあった。ダービーは心の中でその差し迫った、鋭い響きにじっと耳をすませた。「彼はルース・リチャーズをよくしっているのだな!」と内面の声が言った。「彼女のことが好きなのだろうか」
ダービーは秘められた物語の外にいて、表情という徴候からその物語を推し量ろうとする。これは立派なミステリの書き方である。

ところが物語の最終盤に入ると、ある出来事をきっかけにしてダービーはドラマの内部に入り込む。ネタバレしないように曖昧に書くが、探偵は友人たちが隠していた秘密を共有することになるのである。こうなるとダービーは「探偵」ではなくなる。探偵はあくまで物語の外側にいなければならないからである。ここから彼は他の人々と同じ次元に立つことになり、物語を探偵として見通すことができなくなる。なるほど彼は殺人犯の逮捕に大きな役割を果たすが、それは偶然にすぎないし、犯人が誰かもわからなかった。物語の書き方もダービーが内部に移行してからは、ミステリ風ではなく、メロドラマ風になる。

このところこのブログでは探偵とドラマの位置関係についてずっと書いている。私はこれはなかなかいい着眼だと思っている。いろいろとミステリを読み返してこの議論がどこまで展開できるか考えてみたいと思っている。とくにハードボイルドが気にかかる。ハードボイルドでは私立探偵がドラマの中に入っていくからである。

2016年10月6日木曜日

96 マリー・ベロック・ローンズ 「愛と憎しみ」 

Love And Hatred (1917) by Marie Belloc Lowndes (1868-1947)

マリー・ベロック・ローンズを強引に分類すれば、やはりメロドラマを書いた人、ということになるだろう。「愛と憎しみ」なんてタイトルを見てもそれはわかる。

しかし「愛と憎しみ」が興味深いのは、これが典型的なメロドラマでありながら、近代的なミステリにおそろしく接近しているからである。ほんのちょっとの発想の転換、つまり形式的な転換が行われれば、立派な本格ミステリになる。本格ミステリを構成する素材はすべてそろっているのだ。

たとえばこの作品を本格ミステリに変えるとするならこうなるだろう。

スコットランド・ヤードに一人の婦人がやってくる。彼女は不思議な手紙を警部に見せる。彼女の夫は銀行家(ペイヴリイ)で、先週出張に出かけたまま予定日を過ぎてもまだ帰ってきていない。するとこのような手紙が来たというのだ。そこには「私は銀行家のペイヴリイ氏と仕事の話をするために私の事務所で会った。ところがそのとき私が拳銃を不用意に扱ったために暴発し、ペイヴリイ氏を撃ってしまった。警察を呼ぶべきであったのだが、自分は外国人でリスボンに行かねばならぬ急用もあった。それでこの手紙で事故をお知らせする」と書かれてあった。

スコットランド・ヤードは最初いたずらだろうと思ったが、調べて見ると本当に銀行家の死体が手紙に書かれた事務所で発見された。しかし銀行家を撃った外国人は見つからず、検死審問でも陪審員団は、銀行家の死因には疑問が残るので問題の外国人を見つけ出すよう警察に強く要請する、という評決を下した。

外国人の行方は杳として知れず、一年が経つ。銀行家の幼なじみであったある女性は、彼が死ぬ直前に彼と歩いたヨークの町を、もう一度歩いてみる。そして感傷的に彼との思い出を振り返るのだ。ところがそのとき、彼女はある非常に小さな事実を思い出す。一年前、ちょっと不思議に思ったが、すぐに忘れてしまったある出来事だ。それに気がついた途端に事件の様相がまるでちがって見えてくる。彼女は謎の外国人を知る、あるビジネスマンに会う。このビジネスマンは彼女から事件のことや、事件の関係者について詳しく話を聞いて、ずばりと事件の真相を見ぬく。謎の外国人とは、じつは銀行家の妻の弟と、銀行家の友人が代わる代わる変装してつくりあげていた架空の人物だった……。

おそらくこんな具合に物語を書き換えることができるだろう。もちろん実際の物語はメロドラマであるから、タイトル通りの愛憎劇が最初から最後まで展開する。妻を愛することができず、密かに幼なじみと関係を持つ銀行家。そんな銀行家を憎み、彼の妻に強い思いを寄せる若き実業家。銀行家と義理の弟との確執。じつにどろどろした人間関係を読者は見ることになる。事件の真相が露見してからのストーリーも、結婚、そして突然の自殺というように、読者を驚かせ、その感情を揺さぶろうとする、じつにメロドラマらしい展開だ。

しかしこの作品は本格ミステリまであと一歩というところまで迫っている。こんなふうにメロドラマが本格的なミステリに急接近した作品は「ありうる」と思っていたが、このブログが終わるまでのあいだにそれを見つけることができたのは幸運だと思う。そう、あとは形式的な転換さえ行われればいいのだ。もっともこの転換は質的な飛躍であって、そう簡単になしとげられるものではない。しかし絶対に不可能というわけでもない。ジェイムズ・ジョイスが「スティーブン・ヒーロー」から「若き芸術家の肖像」を生み出したように、決定的な転換はなにかがきっかけで短期間に起こなわれることもあるのだ。

私はこの作品を読んでベロック・ローンズの作品をすべて読み返したくなった。私の読んだ範囲では、彼女の作品は基本的にメロドラマである。しかし奇妙に読み手を不安にする要素があり(疑惑とか超自然的な力とか)、どの作品においても独特のサスペンスがじわじわと拡大していく。展開が遅いと感じる人がいるかもしれないが、しかし細部を読む訓練を積んだ人なら、この wordy さはかえってスリリングな体験を与えてくれるはずである。私は彼女の傑作「下宿人」を翻訳し、パブリック・ドメインに公開しているので、興味のある方は右のリンク先からダウンロードして読んでいただければ幸いである。ジャク・ザ・リッパーの事件をもとにしたこの作品は、つい最近に至るまで何度も映画化されているが、それだけ想像力を刺激する作品である。ハヤカワからも訳が出ているけれど、あれは誤訳のオンパレードなので私が訳し直した。もちろん無料である。

2016年10月5日水曜日

番外19 「ドールズ」 スチュアート・ゴードン監督

スチュアート・ゴードン「ドールズ」の二重性

この小論はちょっと長めなのでこのブログに載せる気はなかったのだが、最近考えている外部性の問題とも大いに関係しているので、ほかの記事との不調和は覚悟の上でアップロードしておく。できたらこのホラー・ムービーを見てから読んでいただきたい。この作品の物語は二重性を帯びている。二つの物語が同時に進行しているのだ。そのうちの一つの物語は誰にでもわかるのだが、わたしが知るかぎり、「もう一つの」物語まで読み取っている批評家はいない。外部性の問題とこの小論がどう関係しているのか簡単に述べておく。この作品のなかには「子供は大切である」という考え方が登場する。ごくありきたりの、まっとうなスローガンのように思える。しかしそれを「その通り」と認めてしまうと、もう一つの物語が見えなくなる。もう一つの物語を読むには、あくまで作品の外に立って、「子供は大切である」というスローガンを「徴候」として見なければならないのである。見る者の「視力」がためされる作品である。

 

探偵小説の特徴の一つに物語の二重性がある。犯人は事件を起こすことで金銭的、心理的利益を得るのだが、それを見抜かれないように、たとえば関係のない人までABC順に殺したり、共犯者と狂言を演じたり、アリバイ工作に励むことになる。犯人がつくる見せかけの筋書きは、本当の筋書きの目的を達しつつも、それを否定するという矛盾した性格を持つことになる。

物語の二重性はイデオロギー論や精神分析にも見ることができる。たとえばマルクスは、利己的な動機に基づく支配階級の思想が、普遍的な見せかけのもとに提示されると述べているし(「ドイツ・イデオロギー」)、フロイトは無意識の内容は否定されるという条件の下で意識に到達すると言っている(「否定」)。イデオロギー論、精神分析、探偵小説は、分野は異なるが、同じ認識の型を共有している。だから三者が相互参照されたり、良質のイデオロギー論や精神分析の例が探偵小説のように読めるのは何ら不思議なことではない。

スチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」は、もっともらしい言説の背後に自己中心的な利害を隠し持ったイデオロギー空間を描き、同時に、無意識の欲望を隠し持った夢物語にもなっている。ただしこの映画には探偵は出てこず、物語の二重性は明示的に示されていない。そこで、一つ探偵になった気分で、隠れた真相をを読み解いてみようというのが、この小文の目的である。

 

 まず物語の整理をしよう。登場人物は以下の通りである。
 
 ジュディ      幼い女の子 
 デイヴィッド    その父 
 ローズメアリ    デイヴィッドの再婚相手、ジュディの継母 
 ラルフ       旅行中の優しい青年 
 老夫婦       山中の館に住む人形作り 
 若い女二人連れ   ヒッチハイカー 館で盗みをはたらく
 人形たち           キラー・ドール
     
主人公はいつも人形を抱きかかえている幼い女の子ジュディである。彼女の父親は最近離婚し、すぐに再婚しているらしい。経済能力はまるでなく、ローズメアリに寄生している男である。娘を思いやるどころか、邪魔者扱いする、勝手な父親だ。ローズメアリは見るからに裕福そうな服装をした、サディスティックな女性で、継子をひっぱたくことなど屁とも思っていない。ジュディは父親も継母も憎んでいて、白昼夢の中で、怪物に変身した人形が二人を殺害する場面を思い描いているくらいだ。

映画はこの三人が自動車旅行の最中、山中にて嵐に会い、人形作りの老夫婦の館に避難する場面から始まる。彼らが老夫婦のもてなしを受けていると、ラルフという青年と、ヒッチハイカーとして一緒に旅をしている二人のパンクファッションの女が家の中に飛び込んでくる。若い二人連れの女は礼儀知らずで、他人の家でも音楽を大音量で流し、そのうち一人はみんなが寝静まった夜中に、部屋を抜け出し、金目のものを盗もうとする。一方、ラルフは館に飾られた人形を見て大いに興奮するような子供心を持った青年である。しかし彼は自分に向かって、もういい年なのだから、子供じみた癖から抜け出し、一人前の男として現実に立ち向かわなければならないと言い聞かせる。当然、ジュディは彼が大好きになり、父親に向かって怒りをぶちまける時、ラルフの方が父親よりもずっといい人だと言いさえする。

この後、血なまぐさい場面が展開されるのだが、簡単に言えば、ローズメアリーとパンクファッションの二人の女は人形たちに殺され、デイヴィッドは人形作りの老夫婦の魔法によって人形にされてしまう。翌日の朝、人形作りの館を抜け出すことができたのはジュディとラルフだけだ。ラルフは老夫婦からジュディをもとの母親のところに届けるように言われ、二人が車で去るところで映画は終わる。

 

なぜデイヴィッドとローズメアリと若い二人連れの女は殺されるのか。これは一見、次のように答えることが出来そうだ。彼らは子供を虐待し、盗みをはたらく堕落した存在である、だから「子供は大切だ」、「無垢な心をいつまでも持たなければならない」というメッセージが繰り返される館の中で、罰を受けたのである、と。しかしこの映画が奇妙なのは、語られていることと行われていることの間に断絶がある点である。「無垢は大切」といっておきながら、そのメッセージに従わない者は、無垢もヘチマもない暴力で殺してしまうのだから。確かに子供を邪険に扱うのも、窃盗もよくないことだが、殺す必然性はない。彼らにはそれなりの処罰の仕方があったはずである。だが、そのような考慮は一切なされず、すさまじい憎悪を浮かべた人形たちが殺戮を繰り広げるのだ。

このメッセージの奇妙さは、人形を見て感嘆したラルフが、そのすぐ後に、子供みたいな癖はもう卒業して現実的な人間にならなければ、と言う場面にも示される。その言葉を聞いて人形作りの老人は「いつまでも子供のままでいいのだよ」と答えるのだが、なぜ「いつまでも」などと言うのだろうか。大人になってはいけないとでも言うのだろうか。さらにそう言う時の老人の表情はなぜ不気味なのだろう。老人が答える瞬間、彼の背後に現れる人形も、老人と同じことを語るのだが、その声はなぜあのようにおどろおどろしいのだろうか。ラルフはそれを聞いて驚き、震え上がっている。「無垢な心云々」というメッセージには、そのメッセージ自体を裏切る威嚇的な響きがあるのだ。

さらに大人の中では唯一子供の心を持っているラルフすら人形に襲われるのはなぜだろうか。人形たちが生きていることを知りパニックに陥ったラルフは、思わず人形を蹴りつけるのだが、人形たちは彼をなだめることも、説得することもなく、ただちに憎々しい表情を浮かべて襲いかかる。館の中で繰り返されるメッセージとはうらはらに、人形たちはヒステリックで、不服従を許さない専制的な反応を示している。

こうしてみるとジュディの両親と若い女たちが殺されたのは罰を受けたのだという説明には疑問を抱かざるを得ない。「子供の大切さ」というのは単なる言い訳に過ぎないだろう。メッセージを逸脱するほどの、過剰な攻撃性は何を意味するのか。このイデオロギー空間が人を殺す本当の理由は何なのか。

 4

事件は何ものかの欲望の表現である。事件によって欲望を満たすのは誰なのか、いわゆる「この事件で得をするのは誰なのか」を問うことは探偵小説の定石だ。「欲望しているのは誰なのか、そしてどこから」と問うとき、われわれはまず、一連の殺害がジュディの欲望を実現していることに気がつく。なにしろ大嫌いな親は、白日夢の中で願ったように、人形によって始末され、優しいラルフと一緒に家に帰ることになるのだ。しかしこの考え方には二つ難点がある。一つはパンクファッションの若い娘の殺害である。はたしてジュディは彼らの死を望んでいただろうか。映画を見る限り彼女は彼らを積極的に好いても嫌ってもいない。殺したいと思うだけの動機がどう見てもないのである。もう一つ気になるのは、人形たちがラルフに一度襲い掛かっていることだ。ジュディは必死になってそれを止めるが、この場面を見ると館の中では彼女の欲望に反することも起こりうることが分かる。下手をするとラルフすら殺されていたかも知れない。すると一貫してこの好青年を好いていたジュディを物語の欲望の主とするのは無理ということになる。

しかしこの答えはいくつか物語と不整合な部分があるが、決して悪い答えではない。恐らくジュディと非常に近い位置にいる誰か、しかし微妙にずれた場所にいる誰か、それが本当の欲望の主ではないのか。そう考えたときに彼女の母親という答えが浮かんでくるだろう。

ジュディの母親といってもローズメアリではない。デイヴィッドの先妻、ジュディの(恐らく)生母である。考えてみれば、デイヴィッドは離婚してすぐ再婚しているのだから、この母親は彼に捨てられたようなものである。さらにデイヴィッドやローズメアリの性格、父親が愛してもいない娘を引き取っているという事実を考えると、どうも円満に離婚したとは思えない。母親はデイヴィッドやローズメアリに復讐の念を燃やしているのではないだろうか。だからローズメアリの殺され方は、四人の中でいちばん残忍なのである。夫は魔法で人形にされているが、あれはいかにも自分を裏切ったことへの懲罰に見える。そして映画の結末ではジュディは母親の元に帰っていく。つまり彼女は自分の娘を取り返すことになるのだ。

母親は一度も映画の中に現れないが、物語は隅々まで彼女の欲望に浸されている。映画の冒頭でジュディが父親と継母の殺害を夢想しているが、その直後、ぼうっとしている娘に向かって父親が言う台詞が面白い。「お化けや幽霊の夢でも見ていたのか!まったく、お母さんはお前に何を吹きこんだんだ?」この「お母さん」はもちろん継母ではなく、デイヴィッドの先妻のことだ。デイヴィッドの台詞は、ジュディに想像の仕方、すなわち欲望の仕方を教えたのは先妻である、ジュディの欲望はとりもなおさず先妻の欲望なのだ、ということを教えている。娘は無意識のうちに母親の欲望を欲望している。先ほどこの映画で欲望しているものの位置はジュディのそれと非常に近いが、しかし微妙にずれているといったのは、こういうことである。

ジュディと母親の欲望の重なりを示す部分は映画のいちばん最後にもある。ラルフは惨劇の夜が明けてから、ジュディを車に乗せて彼女の母親の元へ向かう。するとジュディが異様なしつこさで母親の話しをする。「お母さんはすっごい美人よ。見たら惚れちゃうから。ねえ、あたしのお父さんになる気ない?」もちろんここで話しをしているのはジュディというよりも母親である。ジュディは母親の代弁者に過ぎない。母親は自分を裏切った夫を懲らしめ、夫を誘惑したあばずれをぶち殺し、子供を取り返し、今まさに新しい夫を捕獲しようとしているのだ。

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それでは母親の離婚とは何の関係もないパンクファッションの女二人が殺されるのはなぜか。実は三つほどその理由が考えられる。まず第一は、彼らがラルフの車の鍵を盗もうとしていたこと。母親はラルフを新しい夫として迎え入れようとしていたことのだから、大切な男に悪質ないたずらをしかけようとする女どもなど許せずはずがない。第二に彼らが若くて性的魅力を持っていること。二人はラルフに向かってからかい半分に何やら卑猥な行為をほのめかしているが、母親は彼らを潜在的なライバルとみなしていたかもしれない。

しかし第三の理由がいちばん肝心だろう。それは彼らを殺すことで、無垢を失ったものは罰せられるという、殺しの見かけの理由を強化できるということだ。母親の真の欲望の向かうところは元夫と彼を奪った女への復讐だが、彼女はその復讐が露骨に表面化することを避けている。母親の目論見は自分の姿・欲望は不可視のまま、物語の外から己の意思を行使することなのだ。不良を処罰することは、人殺しの真の動機から我々の目をそらさせ、物語の中で大人が殺されるのは彼らの汚れた心のゆえという印象を強める効果がある。物語の中で、パンクファッションの女たちが盗みを働くように「仕向けられている」ことに注意するべきだろう。二人が館で盗みを働こうか、働くまいかと議論しているまさにその瞬間に、人形作りの老妻がやってきて、自分と夫は館の反対の端に寝ていると言う。音など聞こえないから、自由に盗みなさいと言っているようなものだ。しかしこの老婆は何も知らないような振りをしているが、実は計算づくでこんなことを言っている。彼女はわざと若い女たちに盗みを働かせ、「ほうら、こいつらは悪いやつらだろう?だから罰せられるのだよ」と言う訳なのだ。女たちは無作法で、あつかましいが、それだけでは殺す理由にはならない。しかし盗みまでやれば、これを決定的証拠にして処罰を加えうる。このようにわざと犯罪を誘い、罰を与えることで、物語の中では悪い人間が殺されるという印象をでっち上げ、私的怨恨の痕跡を消してしまうのである。

 母親の欲望は無垢の見せかけの背後に隠れているが、唯一それが露出するのが屋根裏部屋の場面である。若い女の一人が仲間を捜して屋根裏部屋に迷い込み、人形たちに襲いかかられる。彼女は力まかせに人形をたたき壊し、火を放つのだが、すると無垢の象徴である人形の背後から、腐った肉塊のようなものが現れるのだ。そして出所の特定できない奇妙な声が「ママ…ママ…」と叫ぶ。あれこそキラー・ドールを真に動かしているものの正体、ママの欲望の肉化したものにほかならない。

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さて、このように物語を再構成してくると、この母親が異常に嫉妬深く、執念深く、残酷な人間に見えてくる。ここでやや議論とは関係のない夢想にふけることを許していただくなら、彼女はサディスティックなローズメアリとあまり変わらないのではないかと思う。母親の欲望が肉化し、おぞましい姿を見せる屋根裏部屋の場面には、非常に短いショットなのだが、拷問の道具が映し出されている。あれは母親の性格を暗示するものではないだろうか。またフロイトは、人は同じタイプの人を恋人に選び続けるものだと言っているが、これはデイヴィッドにぴたりと当てはまるような気がする。彼は経済能力がなく、いつも金持ちの妻のご機嫌を取っている寄生的な存在であり、妻に支配的な地位を与えている。恐らく先妻との関係においても同じことが起きていたはずだ。先妻と離婚したのは、ローズメアリのほうがいい金づるになると見たからではないだろうか。

このように考えれば、母親の欲望が専制的で、他人の反対を全く許さない厳しさを持つことも納得がいく。ラルフがパニックを起こして人形を踏み潰した時、彼は逆に人形に襲われているが、たとえラルフが新たな夫として望ましい存在だとしても、彼女の意思に逆らう場合は容赦なく攻撃するのである。

そして母親が結婚相手に服従を求めていることに気がつけば、「子供や無垢な心を大切に」という例のメッセージにもう一つの意味があることにも気がつくだろう。それは個人的な復讐を隠蔽し、殺害を正当化する見せかけの理由であるだけではない。「いつまでも子供でいろ、わたしの支配に逆らうな」という命令でもあるのだ。人形作りの老人がラルフに向かって言う「いつまでも子供のままでいいのだよ」という台詞が威嚇的なのはこのためである。ラルフが新しい夫に選ばれたのは、彼が精神的に未だ完全に大人になりきっていないからだ。優しい男だからではなく、支配の対象として好都合だからだ。だからこそ、「もう子供みたいな真似は止めて大人にならなきゃ」というラルフの自戒の言葉は否定されるのである。逆にデイヴィッドは彼女の支配に逆らった。それゆえに罰せられるのだ。



サディスティックな母親の精神的支配、支配される者の幼児的で自立性に欠けた性格、母親が気に入らない人間を連続殺害するという筋。「ドールズ」はヒッチコックの「サイコ」の影響を受けた作品であることは明らかだ。旅行者に宿を貸す館は、いはばモーテルのようなものだし、パンクファッションの女が仲間を捜して屋根裏部屋へと階段を上っていく場面は、「サイコ」の中で行方不明の姉を捜して妹がノーマンの母親の部屋のある二階に上がっていく場面と照応しているだろう。

しかし「ドールズ」の際だった特色は、全体を夢物語に仕立て上げたことである。ラルフは殺害の夜が明けたとき、人形作りの老人から夢を見たのだと言われる。ただしこの夢はラルフのではなく、もちろん母親が見ている夢だ。母親の欲望をかなえる夢である。夢の形式を使うことで、母親を一度も物語に登場させなくても、全編に彼女の欲望を染み渡らせることが出来たのである。

「ゾンバイオ」の名監督が果たしてこの物語の二重性を意識していたのかどうかは分からないが、ともかく「ドールズ」が偉大なアメリカン・スリラーの伝統に新しい一ひねりを加えたことは間違いない。

2016年10月3日月曜日

95 オクタヴァス・ロイ・コーエン 「薄暮」

Gray Dusk (1920) by Octavus Roy Cohen (1891 - 1959)

コーエンの作品リストを見ながら、隨分読んだ作品が多かったので驚いた。ストーリーがひどく単純だが、設定にちょっと面白いものがあり、ついつい読んでしまうというところだろうか。

本作も非常に単純な話だ。ある男が女優と結婚し、知り合いの別荘を借りてハネムーンを過ごすことになる。ところが別荘に着いたその日の夜、新婚夫婦のお手伝いに雇われた男が家の中に入っていくと、夫は血まみれの妻の死体を抱いているではないか。妻はアイスピックで刺されて大量の血を流して死んでいた。

夫は地元の警察によってすぐに逮捕され勾留される。しかし彼は名探偵のデイヴィッド・キャロルと非常に仲がよかったため、すぐ獄中から彼に電報を打ち、事件の解決を依頼する。

血まみれの妻の死体を抱いていたということ以外にも、新郎には不利な証拠が一つあった。彼は別荘に着いた日、郵便局に立ち寄り、そこで昔の恋敵から実にいやらしい手紙を受け取っていたのである。この恋敵は結婚前に二人のあいだに割って入り、そのため彼らは婚約を一回破棄していたのである。もっともその後二人はよりを戻し、めでたく結婚に至ったのだが。で、この恋敵がどんな手紙を書いてきたかというと、「お前の奥さんが見かけ通りの貞淑な女だと思ったら大間違いだぞ」という内容のものだ。

これを読んで新郎はかっとなり、妻の不貞を疑って、結句彼女を殺したのではないか、と考えられたのである。三角関係のもつれによる殺人というわけだ。

しかしデイヴィッド・キャロルとその助手が捜査を開始すると新郎以外にも怪しげな人間が何人か別荘のまわりをうろついていたことがわかり……という話である。

ミステリとしては普通の作品。最後に探偵が推理を展開し、犯人をずばり指摘する場面はドラマチックではあるのだけれど、その説明は納得がいくようないかないような、ちょっと微妙な感じのものだ。事件が起きた場所の地図でも載せておいてくれたら、状況がもう少し読者にも呑みこめなたのではないか。

しかし私はこの作品に妙にひっかかるものを感じた。探偵は事件の外側に立つと何度も書いてきたけれど、この作品では探偵は新郎の親友であり、最初から新郎の無実を信じているのである。探偵はすべての可能性、つまりすべての登場人物が犯人である可能性を考えるものだが、「薄暮」では探偵は無条件で新郎の無実を信じている。彼は片足を物語の中に突っ込んでいるのである。

探偵の助手は、そういう態度はいつものあなたに似つかわしくない、新郎が犯人であることも考慮に入れなければならない、と諭し、探偵自身もはっとして、その通りだねと応えるのだが、しかし最後に至るまで探偵は新郎は犯人ではないという信念を持ち続けている。物的な根拠はなにもないのに。

ミステリにおいて探偵は事件の外部に立ち、事件を徴候として読む。スラヴォイ・ジジェクが「斜めから見る」の中で探偵を精神分析者にたとえたのは納得がいく。しかし本編の探偵はそうじゃない。これはどういうことだろう。

1920年に書かれた作品だから、まだ充分にミステリとしての形が整っていないのか。しかしそれにしてもなんとなく得心が行かない。

そこで考えたのが、もしかすると探偵の「新郎は犯人ではない」という信念そのものを、読者は徴候として読むべきではないのか、ということだった。つまりこの作品において真の探偵の立場に立つべき存在は読者ではないか。そして徴候として読む際に参考になるのは精神分析における「否定」の考え方ではないか。精神分析では被分析者が「私の夢に女が出てきました。しかしその女は母ではありません」と言えば、まさしくその夢の女は母なのである、と考える。おなじように「新郎は犯人ではない」という執拗な思い込みは、すくなくとも精神的な現実においては「新郎は新婦を殺したいという欲望を抱いている」ということを示しているのではないか。

そう考えると本書には二つの三角関係が描かれていることに気づく。いずれも男(A)女(B)二人が婚約まで話を持っていったのに、そこに新しい男(C)が入ってきて、女がそっちのほうになびいてしまうのである。探偵の友人である新郎はAの位置に立っている。そして(ネタバレして申し訳ないが)犯人もAの位置に立っているのである。ただし犯人は自分を捨てた女と新婦を勘違いし殺害することになる。この三角関係の不思議な重なり具合は何を意味するのか。私は犯人は新郎の無意識の欲望を実現したのだと思う。そして新郎の親友である探偵は(心情的に親友と同一化している探偵は)、その心理的な真実を糊塗するために執拗に「彼は犯人ではない」と繰り返すのではないか。

作中の探偵が探偵としての役割を充分に果たしていない、つまり事件=物語の外部に位置していないというとき、読者が探偵の位置について事件=物語を読み直さなければならない。ピエール・バイヤールが「アクロイド殺し」や「バスカヴィル家の犬」にたいして行ったことはそのことではないのか。作品と批評そのものの関係にもつながってきそうな論点である。

2016年10月2日日曜日

94 レノール・グレン・オフォード 「万能鍵」

Skeleton Key (1943) by Lenore Glen Offord (1905-1991)

オフォードは最近再発掘された作家で名前を知っている人は欧米でも少ないと思う。私は本書をフェロニー・アンド・メイヘム社から2014年に出された版で読んだ。この版にはサラ・ワインマンによる有益な序文がついている。彼女はこの作品を、第二次世界大戦から第二次フェミニズムが押し寄せるまでの期間に、女性によって書かれた「家庭的サスペンス」の一つと見なしている。その特徴はこうだ。
ハードボイルドというわけではない。すくなくともハメット、チャンドラー、ケインといった作者の作品と較べるならハードボイルドとはいえない。しかしコージーともちがう。あるいはまたメアリ・ロバーツ・ラインハートばりの、危地に陥った女性を描く「知ってさえいたら」派でもない。
そのどれでもないけれど、しかしそのいずれの特徴も一部持っているような中間的な作品というのがワインマンの考えである。このような作品としてほかにはヴェラ・キャスパリの「ローラ」とかエリザベス・サンクセイ・ホールディングの「めくら壁」とかシーラ・フレムリンの「夜明けの前の時間」などがあると彼女は書いている。

ハードボイルドに似ているけどハードボイルドではない。コージーに似ているけど、それともちょっとちがう。このワインマンの言い方には私も同意する。コージーにおいては、たとえばミス・マープルもポワロも、探偵は事件の外側にいて、事件を徴候として眺める。探偵は基本的に事件=ドラマに直接的な関係を持たない。一方ハードボイルドは主人公である私立探偵が事件=ドラマの中に入っていく。そして暴力を受けたり危険な目に遭ったりするのである。「万能鍵」にはコージー「的」な要素があるが、明らかにコージーではない。主人公が事件=ドラマのなかに入っていくからである。

「万能鍵」の主人公、雑誌のセールスをしているジョージーンは、ひょんな偶然からグレティ・ロードという小さな通りに入り込み、そこである科学者と出会い、彼の科学論文をタイプするという仕事を与えられる。報酬は百ドルという大金だ。夫を失い、娘ひとりをかかえ、病院の費用の支払いにも困っていた彼女はすぐにその申し出に飛びつく。彼女は家に帰ってからさっそく小切手を郵送し、滞っていた医者への支払いをする。そのときだ。彼女は誇らしい気持ちになってもよかったのに、かわりに得体の知れない感情に襲われる。
彼女は意に反してかつて読んだことのある恐ろしい物語を思い出した。その中である男は、その男を破滅的運命から救い得ていたかもしれないあるものをなくしてしまう。すると彼にしか聞こえない声が繰り返しこう言うのだ。「もう取り返しはつかない。二度と取り返しはつかないよ」
彼女は科学者から百ドルを受け取り、使ってしまうことで、完璧に借りをつくってしまった。彼女と事件=ドラマが展開するグレティ・ロードは関係を持ってしまったのである。こうして彼女は事件に呑み込まれていく。(「もう取り返しはつかない」)この過程はハードボイルドの導入とよく似ている。しかしハードボイルドの主人公たちはこういうふうにトラブルに巻き込まれることを「わが商売」としているわけで、そこが普通の主婦であるジョージーンとはちがうところだ。

(ちなみにジョージーンがグレティ・ロードにまよいこみ、そこの家のドアベルを次々と鳴らすが、誰も出てこないという場面が冒頭にある。そのとき彼女は「なんだか私、いつの間にか幽霊にでもなったみたいだわ。透明になった私を誰も見ることができないみたい」というおかしな印象を抱く。このとき彼女はまだグレティ・ロードの事件=ドラマの登場人物にはなっていない。彼女は幽霊、すなわち物語内に存在していない存在だったのである。それが科学者のアルチュセール的「呼びかけ」のおかげで主体として存在するようになり、さらに金銭(百ドル)の交換によって物語のネットワーク内に一定の位置を占めることになる。理論的なことに興味のある人なら面白く読める本だと思う。いやワインマンがあげているキャスパリもホールディングもフレムリンも理論的に読んだときに面白さが倍増するし、理論的な読み方に堪えうる作家たちである。)

さて、物語の出だしの部分だけを簡単にまとめておく。ジョージーンは科学者の家へ通い、タイピングの仕事をはじめるのだが、ある日仕事が遅くなり、気がついたらもう夜になっていた。しかもその日は灯火管制がしかれ(時は第二次大戦中、場所はカリフォルニアである)どこもかしこも真っ暗だ。外を見ていると彼女はその地区の空襲監視員が見廻りに外を歩く音を聞いた。それから何かががたがたと動く音、そして鈍い衝突音。外に出てみると空襲監視員が車に轢き殺されていた。いったい彼は誰に殺されたのか。その理由は。また彼は万能鍵を持っていたが(つまりどこの家にも入ることができたが)、なぜ彼はそんなものを持っていたのか。警察が捜査を開始するが、その努力もむなしく第二の殺人が行われ、ジョージーンにも危険がせまってくる……。

最後に歴史を知らない若い人のために言い添えておこう。灯火管制というのは敵の空爆の目標とならないように夜間、明かりを消すことである。そして当時アメリカの敵だったのは日本である。日本の爆撃機を怖れてカリフォルニアでは明かりを消していたのだ。

2016年10月1日土曜日

93 E.C.R.ロラック 「殺人者は間違える」

Murderer's Mistake (1946) by E. C. R. Lorac (1884-1959)

ロラックのマクドナルド警部ものである。ルーンズデイルというイギリスの田舎で連続して小屋にコソ泥が入った。小屋というのは地主たちが本宅とは別に持っている小さな家で、休暇で遊びに来た人に貸したり、自分たちが釣りなどをするときに利用するものだ。普段は誰も住んでいないが、家具などは一応ついているし、食料も置いてある。その小屋になにものかが入り込んで、コートだとか胴長だとか、たいした金目のものはないのだが、盗んでいったようなのである。この近辺には hawker 、今で言うと廃品回収業者みたいな連中がロバに引かれた車に乗って行商をしているため、彼らが小屋に入り込んで金になりそうなものをいくつか失敬していったのではないかと考えられた。

しかしマクドナルド警部はこの事件の報告を聞き、配給切符の不正利用(戦争中の話である)をやって姿をくらましたギナーがこのことに関係しているのではないかと考える。その直観はずばり的中し、ルーンズデイルを流れる川の底からこのギナーの死体が見つかった。ギナーの死体が川面に浮かんでこないように、重しやら丈夫な紐など、小屋から盗まれたいくつかの物品が使われていた。

マクドナルド警部はルーンズデイルの地主ホゲット夫妻の協力を得て捜査を進める。ギナーを殺したのは誰なのか、なぜギナーは殺されたのか。

本作はミステリとしてはさほどの出来ではない。たいしたことはないけれど、イギリスの田舎の様子を実にくわしく描いていて、読みながら「こういう場所に住むのもいいものだな」と何度も思った。風光明媚な畑や谷や丘のつらなり。鮭が釣れ、月影がうつくしく映る川。収穫を控え秋の色に色づいた作物。灰色の柔らかい靄に包まれたような雨の風景。本書の自然の描写はどれをとっても印象的だった。

しかし理論的な側面においても、本書にはちょっとだけ注目すべきものがある。犯人が捕まり、マクドナルド警部が捜査に協力してくれたホゲット夫妻にむかって事件の真相を語り終えたとき、ホゲット夫人はこう言う。「この事件でいちばん興味深いことは、証拠は犯人がどういうタイプの人間なのかを明瞭に示しているのに、わたしたちにはそれがわからなかったってことね」

マクドナルド警部は真相を語りはじめる前にこう言っている。「みなさんは事件を解決するのに必要なすべてのデータを持っていたのですよ……みなさんは第一級の証人だ。正確な記憶をお持ちだし、細かいところにまで観察をはたらかせ、それを物語る天賦の才能も持っている」そう、ホゲット夫妻はすべての事実を把握していた。この地域の内情にもくわしい。それどころか捜査の途中で、マクドナルド警部に「いったいなにが起きたのだと思いますか、あなたなりに事件の背景、経過を物語ってみてくれませんか」と言われたとき、ホゲット氏はもう少しで真相にたどりつくというくらいの鋭い洞察力を見せるのだ。しかし事件を解決できたのはマクドナルド警部だけなのである。いったいこれはなぜなのか。

マクドナルド警部はこう考える。「それにはふたつの理由があるでしょうね。一つにはお二人は証拠を読解する訓練を欠いている。簡単なようだけど、本当は専門的な訓練がいるのですよ。もうひとつはこういうことです。誰かさんがあなたのよく知っている世界のひとりだとしましょう。するとその人を当然のように受け止めてしまうのです。××さん? ああ、あの人ね。そう言ってあなたは笑ったりするでしょう。威張っているとか、頑固だだとか、田舎の百姓より自分のほうが賢いと思っている、なんて理由でね」

マクドナルド警部があげている第二の理由を私の言葉で言い替えれば、ホゲット夫妻に真相が見抜けないのは、彼らが充分に事件の外部に存在していないからである。彼らはスコットランド・ヤードの捜査に協力するけれども、同時に何者かに自分たちの小屋をあらされた事件の当事者であり、事件の舞台であるルーンズデイルを生活圏にしていて、そこからいろいろな意味で離れることができない。それでは事件を「外形」として見ることができないのだ。外部に立つ者と内部に立つ者は、視線の質が異なる。内部的な意味(「ああ、あの威張っている人ね」)を切断しなければ、外部に立つことはできない。同じ事実を見ていても、それが意味するところはまるで違うのである。

マクドナルド警部があげている第一の理由も大切なことを言っている。ただ単に外部に移動すれば、内部の者とは別の視線・視力が得られるのかというと、そうではない。内部的に調整された視力を外部的に調整し直すには、つまり徴候を読み取るには、それなりの専門的訓練(なにしろこれはイデオロギーの問題なのだから)が必要なのだ。

2016年9月30日金曜日

92 エリザベス・フェラーズ 「三月兎殺人事件」

The March Hare Murders (1949) by Elizabeth Ferrars (1907-1995)

エリザベス・フェラーズの作品はどれもよく組み立てられていてがっかりさせられることがない。この手堅い作家は日本ではあまり紹介されていないけれど、イギリスのミステリを支えた重鎮の一人である。本作もサスペンスに満ち、しかも立派な本格ものに仕上がっている。最初からおおいに推奨しておこう。

事件の中核的人物はヴェリンダーという教授である。彼は結婚しているのだが、奇妙に女性を誘惑する力を持っていて教え子や知り合いの女と次々と情交を重ねる。ところが彼は本気で彼らを愛してはいない。彼らを自分に惹き付け、そして残酷に突き放すのが好きなのである。どうもそれによって自分の心のバランスを取っているらしい。

そんな男だから彼を憎む人間は多い。オベニー(珍しい名字だ)・デイヴィッドもその一人である。彼の恋人は昔、ヴェリンダーの教え子で、彼に誘惑され、捨てられ、自殺してしまったのである。しかもデイヴィッドはヴェリンダーに対する憎しみをあからさまに表明していた。だからヴェリンダーが射殺されたとき、彼がもっとも強い嫌疑をかけられたのである。しかも彼はつい最近まで精神を病んで療養所にいた。精神が不安定になって憎い男を殺したのではないかと、誰もが考えるだろう。さらに決定的な証拠があった。ヴェリンダー殺害に使われた銃は、彼が持っていたレヴォルバーだったのだ。

デイヴィッドは自分が犯人にされそうなので、必死になって真犯人が誰なのかを考える。彼が妹や妹の亭主と交わす推理は二転三転する、じつにスリリングなものになっている。しかしデイヴィッドには犯人はわからない。見事な推理で真犯人を突き止めるのは警察である。犯人あてゲームが好きな人は、関係者全員が一堂に会する最後の場面がはじまるまえに、ひとつじっくり考えてみるがいいと思う。手掛かりはすべて提示されている。ヒントも充分すぎるくらい出ている。(ついでにレッド・ヘリングも)しかしそれでも、作者(ちなみに彼女はCWAの創立メンバー)がしかけた謎をあなたは見破ることができるだろうか。

一点だけ指摘しておきたいことがある。この作品の登場人物はみなパソロジカル(病的)なところがある。ヴェリンダーの女癖が病的であることは明らかだろう。デイヴィッドは心を病んだだけでなく火を極度に怖れる。彼の妹の旦那は、蠅が大嫌いで、室内で蠅を見ると新聞紙を手に狂ったように打ち掛かる。またある人物は虚言癖があり……という具合だ。近代的なミステリにはどうしてかくも多くのパソロジカルな人間が登場するのか。すでに何度かこのブログで書いたことだが、もう一度まとめておこう。

十九世紀のメロドラマにおいて人物は型に従って造形された。吝嗇な人間、陽気な人間、ペシミスティックな人間、善意の人間などなど、人にはそれぞれ確たる性格が与えられ、その性格にふさわしい振る舞いをしていた。ディケンズの小説を読めばそのことはよくわかるはずだ。

ところが近代的ミステリにおいてはメロドラマを外から、徴候として見ることになる。たとえばある人物が善意のかたまりであるとしたら、もはやわれわれは彼を善意のかたまりと見ることはできない。その善意は、内に秘められたパソロジカルななにかの徴候ではないかと見てしまうのである。谷崎潤一郎の「途上」はこの認識の転換を模範的に表出している。妻の健康と幸せを気遣う愛情ふかい夫は、そのあまりの愛情のふかさ故に、探偵によってパソロジカルななにかを隠していると判断されるのである。

この認識の転換、新しい視線の獲得こそが、古いメロドラマと近代的ミステリをわける決定的要素のひとつである。

このブログで私はエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」を高く評価したが、それはこのような認識の転換をよく示しているからだ。道徳的で善意にあふれた人間は、昔のように(十九世紀の読者が素朴に信じたように)ただ好ましい人物ではないのである。そこにパソロジカルななにかを見るのがミステリ作家が獲得した新しい「視力」なのである。ホワイトの作品において探偵は、善なるものが悪と「奇怪な形でからみあっている」のを見出す。

「三月兎殺人事件」にもこのような認識の転換が描かれている。デイヴィッドの妹は、以前はヴェリンダーに惹かれて不倫をしていたが、いまは気持ちを整理して、彼との関係を清算しようとしている。その彼女がこんなことを言う。ヴェリンダーのことなんかもうなんとも思ってはいない。二人の関係のことなんか話をするつもりもない。でもヴェリンダーはそのことをもとにしてドラマをつくらずにはいられないみたい。自分をあわれむべき人間のようにみなし、責任はみんな私にあるみたいな言い方をせずにはいられないのよ、と。さらに彼女はこうも言う。彼は嘘つきだわ。たえず他の人にも嘘を言うし、自分にも嘘を言う、と。

彼女はヴェリンダーと関係を持っていたとき、兄のデイヴィッドに問い詰められてこう応えている。彼に罪はない、私はヴェリンダーのすべてを理解して彼と関係を持っているのだ、責任は全部自分にある、と。デイヴィッドの自殺した恋人もおなじことを言っていた。彼に責任はない、すべて私が悪いのだ、と。彼らはヴェリンダーのドラマの内部にいたのである。それはヴェリンダーの欲望が構成する物語、彼にとってまことに都合のいい物語である。しかし彼との関係に見切りをつけたデイヴィッドの妹は、その物語の外に立つことを知ったのだ。外に立ち、その物語のパソロジカルな性格に気がついたのである。

2016年9月28日水曜日

91 マージェリー・アリンガム 「聖杯の謎」 

The Gyrth Chalice Mystery (1931) by Margery Allingham (1904-1966)

前回のレビューでも書いたけれど、近代的ミステリはメロドラマの外側を読む。外側には内側で起きていることが徴候的にあらわれるので、それを読み解き内部のドラマを知的に再構成する。これがミステリの醍醐味である。

最近、谷崎潤一郎が書いた短編推理物語「途上」を読み返しながら、作中の探偵が言う「行為の外形」とは、メロドラマ、すなわち会社員と妻の愛に満ちた生活の外に出ることをも意味することに気がついた。探偵はメロドラマを外から眺め、そこに見出される徴候を読解し、物語を再構成しているのである。

すぐわかることだが、外側と内側にはおかしなギャップがある。外側に徴候としてあらわれる事象は謎めいていて魅力的だ。しかし読み解かれた内容はじつに凡庸な、通俗的ドラマに過ぎない。ミステリではよく最後の部分でこの通俗的ドラマが短く語り直されるが、正直なところ、それを読む読者の関心はすでに次に読む本へとむかっていると言っていいだろう。

夢についてもおなじようなことが言える。夢そのものは謎めいている。しかし解釈によって明らかにされた夢内容はつまらないものでしかない。結局それは性的欲望であったり、願望充足であるにすぎないのだ。

「聖杯の謎」の出だしの数章は、メロドラマの外に視点を置き、内部のドラマの胎動を徴候的に描いて秀逸である。貴族の出身なのだが、父といさかいを起こして家を出て、ロンドンの街を放浪しているヴァルという青年が不可解きわまりない出来事につぎつぎと襲われる。ホームレスがたむろする広場のベンチをふと見ると、そこには彼の名前が記された手紙の封筒が見つかる。なぜこんなところに自分宛の手紙があるのかと彼は驚く。しかも宛名に使われている住所は彼がもと住んでいたところとはちがう住所だ。住所も間違っているのに手紙はちゃんと彼のもとに届いた。これは驚くべき偶然と言わねばならない。さらに彼は手紙に書いてある住所を尋ねていくのだが、得体の知れない男から謎のような言葉をかけられ、さらに、なぜかわからないが、怪しげなタクシー運転手によって誘拐されそうにすらなる。彼はまるでルイス・キャロル的なファンタジーの世界か、チェスタートン的な悪夢の世界にさまよいこんだような気分になる。彼はメロドラマの外に立っていて、内側でなにが起きているのかまるでわからない。しかし内部で起きているドラマの胎動が、彼の足もとを襲うのである。そのことは本文のなかで次のように表現されている。
 再び彼は奇妙な感覚を抱いた。彼のすぐそばで繰り広げられているドラマの、ちょうど外側に自分は立っているという感覚だ。
マージェリー・アリンガムは近代的ミステリが切り開いた境地のなんたるかをよく知っている。

しかし本編の主人公といってもいいであろうキャンピオンがあらわれ、ヴァル青年にすべてを説明すると、急に謎は解け、つまらないメロドラマが現出する。ヴァル青年がその一員であるガース一族は、何千年にもわたって聖杯を保管してきた由緒ある一族なのである。ところがこの聖杯をぶんどろうとする悪党どもがあらわれ、ガース一族の屋敷にしのびこんだり、ヴァル青年を誘拐しようとしたのだ。あの不思議な手紙も、キャンピオンによって何十枚か何百枚か、ヴァル青年があらわれそうなところにばらまかれた手紙の一通にすぎなかった。驚嘆すべき偶然は、内部から見れば必然にすぎなかったのである。これはまたなんと退屈な物語であろう。

しかしアリンガムは一癖も二癖もあるミステリ作家である。聖杯の奪い合いという一見すると単純なドラマが、進展すれば進展するほどファンタジーめいた妙な様相を帯びてくるのである。だいたい聖杯を何千年と守りつづけてきた一族というのがファンタジーによくありそうな設定ではないか。聖杯を奪おうとする悪党どもというのも、じつは世界中の金持ちが結成した盗賊団である。キャンピオン自身が「ファンタジーじみているが」と断って、盗賊団の結成にいたる過程をヴァル青年に説明している。さらに魔女の子孫もでてくるし、聖杯を守る巨人も登場する。ヴァル青年が相変わらず夢を見ているような感じだと思わず述懐するのは当然だと思う。要するに彼はひとつの夢の世界から別の夢の世界に落ち込んだのである。

そう、われわれは本当の意味で内側の世界に入り込んだわけではない。内側に入り込んだと思ったら、じつはそこも夢の世界、外側の世界だったのである。そこはやはり奇怪な徴候に満ちていて、読者に読解を要求するのである。本作におけるアリンガムの試みが功を奏しているかどうかは疑問だが、すくなくとも彼女がミステリの書き方に工夫を凝らしていることは明らかだと思う。彼女は「ミステリはソネットのように精密である」と語ったが、ポーとおなじように方法論に非常にこだわった作家だったと思う。

2016年9月26日月曜日

番外18 J.J.コニントン 「復讐」

Grim Vengeance (1929) by J. J. Connington (1880-1947)

以前このブログでコニントンの「博物館の目」を読んだとき、「手堅い」作品だと評したが、その印象は「復讐」を読んでも変わらなかった。いや、いっそう強くなったというべきか。文章には華がないが、事実や要点を過不足なく押さえる堅実さはある。筋の展開のさせ方、伏線の張りようも周到で、作者のあまりの几帳面さにおもわず笑ってしまった。作品の作りは非常に緻密である。本編の主人公サー・クリントン・ドリフィールドも作者と同様に細部にまで注意を払う人である。彼が姪の夫のかばんを開けて中をさぐる場面があるのだが、彼はまずかばんの中の状態を目に焼き付けて、完璧に元にもどせると確信してから、内容物を一つ一つあらためていく。この慎重さが彼の本領である。本編では三つの殺人事件が起きるが、その際にサー・クリントンが披露する推理も、すべての手がかりの意味を慎重に勘案する、沈着冷静な推理だ。彼はけっして結論に飛びつくことはなく、わからないところはわからない、仮説は仮説と、はっきり区別する。派手さはないが、しかし見落としもない堂々とした推理だと思う。とりわけ第一の事件と第三の事件で見せる彼の捜査と推理は見事で威厳すら感じさせる。

ところがこの堅実さはコニントンの限界でもある。彼は事実を論理的に腑分けする能力はあるけれども、人間の心理や感覚のひだに立ち入るような書き方はできない。そのことはサー・クリントンの姪のエルジーが、夫の正体を知って呆然とする場面によくあらわれている。そのありさまを描く言葉がクリーシェ(決まり文句)ばかりなのである。彼女は「膝ががくがくし」、「額の辺りで脈がハンマーのように打ち」、「雷に打たれたように全身がしびれて」しまう。感情の動きを表現する力がないために、コニントンはクリーシェを多用せざるを得なかったのだ。

しかしこういう文章力の欠如は多くのミステリ作家に共通して見られるものなので、私は特別にコニントンを責めるつもりはない。

「復讐」のストーリーをまとめておこう。サー・クリントン・ドリフィールドは遺産を受け継いで優雅に暮らしている富裕層の一人だが、じつは密かにイギリス政府のために働いているスパイである。このクリントンの姪エルジーがこのたびアルゼンチンの男と結婚した。ところがサー・クリントンは、この一見礼儀正しそうな男が、白人女性を南米に連れて行って売り飛ばす奴隷商人であることをつきとめるのだ。姪のエルジーはそのことを知らずに夫の母国アルゼンチンにまもなく渡航しようとしている。ここでサー・クリントンは迷う。もしも自分がなにもしなければ姪のエルジーは悲惨な運命に出遭うことになる。しかし彼女の夫が卑劣な奴隷商人であることを暴露すれば、夫は警察に捕まるだろうが、しかし姪は犯罪者の妻という過去を背負ってこれから生きてゆかねばならなくなる。さて、どうしたものだろうか、というわけである。サー・クリントンが取った解決策はじつに驚くべきものであったが、それは読んでのお楽しみとしておこう。

全体としてよくできた作品であるが、コニントンの美質が全開しているとはいえない。パズル・ストーリーの書き手として大いに実力を持っているようなので、期待してほかの作品も読んでみたい。

2016年9月24日土曜日

90 エドマンド・クリスピン 「葬儀の馬車は絶え間なく」

Frequent Hearse (1950) by Edmund Crispin (1921-1978)

タイトルはアレクサンダー・ポープの「不幸な女性の記憶にささげる哀歌」から取られている。曖昧な書き方をした詩なので、詳しい状況はわからないが、詩人の愛する女性が、後見人である伯父の反対によって意中の人と一緒になることができず、ついに自殺してしまうという内容である。詩人はそれを憤り、彼女の後見人・伯父の家族にむかって呪いの言葉を吐く。「お前の家の門へ 葬儀の馬車が絶え間なく押し寄せるだろう 長い葬儀の列が 墓地までの道を黒く埋めるだろう」

さて、この作品で殺される人々(三人の男女が殺される)はみなポープの人生を描いた「不幸な女性」という映画の製作にかかわっている。(作中でも噂されているけれども、ポープの人生を映画化するなんて、いったいなにを考えているのやら)事件の発端となるのは、この映画に出演するはずだった若い女優の自殺である。彼女はある晩、川に飛び込み、みずから命を絶つのだが、彼女が、詩のヒロインとはまたちがう意味で、「不幸な女性」であった。

彼女が自殺に至る経緯をまとめるとこうなる。若い女優は映画「不幸な女性」である役を演じることになり、映画会社と契約を結ぶ。私はよくは知らないが、こういう契約では映画の製作期間、俳優に舞台などのでの活躍を禁じるのだそうだ。もちろんあらかじめ会社と相談し、了解を取ればべつであるが。この女優の場合は、映画監督のある男に欺され、問題はまるでないと思って舞台に立つのである。そして舞台に出た後でこの映画監督は女優に、「お前は契約違反を犯した、映画出演の契約は破棄しなければならない」と彼女に伝えるのだ。

なぜこんな意地の悪い、ひどいことをしたのか。この映画監督の姉が大物女優で、この大物女優が問題の若い女優を毛嫌いしていたのである。大物女優が後ろから手を廻し、若い女優が映画に出られないように細工したのだ。

映画界というのは、実力があってもチャンスをつかんだときに、それを活用できなければ、一生日の目を見ないで終わってしまうそうだ。若い女優もせっかくの機会を失い、絶望し、川に身を投げる……というわけである。

そしてこの自殺事件をきっかけにして連続殺人事件が起きる。もちろん若い女優を死に追いやった人々が一人一人毒殺され、あるいは刺殺されていくのだ。ただ連続殺人事件の捜査を困難にしていたのは、若い女優の過去がまるでわからないことだ。彼女のことはグロリア・スコットという舞台名しかわからない。本名はおろか出身地も不明なのだ。彼女の過去がわかれば、彼女のために復讐を計る人間も容疑者として浮かび上がってくるはずなのだが……。

本編の探偵をつとめるのは、例によってオックスフォー大学で英文学を教えるフェン教授である。彼は最初の殺人事件が起きたとき、その現場に居合わせるのだが、彼が最初にこの殺人の動機を「復讐」であると見ぬく。そしてこんな言葉がそのあとにつづいている。
 「復讐だよ」とフェンが言った。
 この言葉は通常ならきわめてメロドラマくさい響きを持つのだが、この時はハンブルビーもキャプスティックもそれを聞いて笑うような気分にはならなかった。もしかしたらモーリス・クレイン(連続殺人の最初の犠牲者)の死体がすぐそばに横たわっていたからかもしれない。
このブログでは何度も書いていることだが、近代的なミステリは十九世紀的なメロドラマの描き方を脱却することで成立する。しかし脱却というのはメロドラマ的要素をなくすことではない。復讐とか愛慾といったメロドラマ的な要素はけっしてなくならない。しかし十九世紀的な物語においてはメロドラマは「展開」されたが、近代的なミステリにおいてそれは「構成」されるものとなるのだ。たとえば本編においてはどのような「復讐」のメロドラマが起きているのか、その主人公は誰で、その動機は何なのか、それが推理され「構成」されるのである。本編においてもそうだが、ミステリでは物語の最後に犯人が事件の全貌を説明することがある。(「私がこの手紙を書いているのは……復讐というひどくメロドラマチックなことをやりはじめたのはなぜか、その理由を明らかにしたいがためだ」)それは、たんにそれだけをとれば実にチープなメロドラマだ。昔はこの部分が延々何百ページにもわたって語られたのである。ところが近代ミステリにおいてはある種の物語の反転現象が起き、我々はメロドラマの外側を「読む」ようになるのである。私はこの認識の変換には大きな意味があると思うが、まだそれがはっきりとはつかめない。このことはフロイトが原父殺しなどというきわめつけのメロドラマを、トーテミズムを「外側」から読むことによって構成したこととも関連があるはずなのだが。

クリスピンくらいの作家になると、このあたりの変換は見事に達成されている。フェン教授が示す推理もまことに論理的で間然とするところがない。立派な本格ものである。

2016年9月22日木曜日

89 C・セント・ジョン・スプリッグ 「日焼けした顔を持つ死体」

The Corpse With The Sunburned Face (1935) by C. St. John Sprigg (1907-1937)
 
作者の名前のCはクリストファー。クリストファー・セント・ジョン・スプリッグというのが作者の本名である。初めて聞く名前だな、と思う人も多いかもしれないが、これがクリストファー・コールドウエルのことだと言われたら、びっくりするだろう。そう、あのマルキストで「幻想と現実」を書いた人だ。彼はスペイン内戦に参戦して殺されるまでに七冊のミステリを書いている。

私も今回初めて彼のミステリに接した。マルクス主義を信奉するインテリらしい娯楽作品だな、というのが私の印象である。

この作品は二部構成になっていて、前半はイギリスの僻村における殺人事件の捜査、後半は刑事がアフリカに行って冒険するという物語になっている。話の要点をかいつまんで言うと、要するに三人の男がナイジェリアのある部族の宝物を盗み、捕まって刑務所に入れられてしまう。そのうちの二人は刑が軽く早く刑務所を出てイギリスに帰るのだが、そのときこっそりと隠しておいた宝物の一部(部族に返還されなかった宝物)も持ち帰るのである。彼らは分け前を増やすために、三人目の男から姿を隠そうとする。

裏切られた三人目の男は、刑務所を出てから残りの二人を探し出そうとする。そして二人を殺し、宝物を手に入れようとするのだ。そこで起きる二つの殺人事件とその捜査が前半部分で語られる出来事である。

ところがこの三人目の男も第一部の最後で殺され、宝物も何者かによって持ち去られてしまう。そう、宝物をもともと所有していたナイジェリアのある部族が、宝物を取り返したのである。事件を捜査していた刑事は、三人目の男を殺した男を捜し、また事件の全貌を解明しようとしてアフリカへと向かう。そこで現地の秘密結社や呪術師たちによって生きるか死ぬかの危険な目に遭わされる。これが第二部で語られることである。

この粗筋を読んだだけでも、ドイルの「四つの署名」とかリチャード・マーシュの「ビートル」や「ジョス」といった、ヴィクトリア朝後期に人気のあったいくつかの物語の影響が見て取れるだろう。

と同時に、第一部の殺人事件の解明の部分では、新しい事実が判明することによってそれまでの事件の様相が一変するという書き方が取り入れられている。たとえば「井戸に沈められた容器の状態、井戸の上の土の状態から考えて、容器が沈められたのはオレアリーがリトル・ホイッピングの村に来る前だろう。だとすると事件の相貌はがらりと変化することになる」といった部分にそれははっきりとあらわれている。

つまりこの作品はポピュラーなメロドラマを土台にしながらも、ほんのちょっとだけ近代的なミステリの要素を取り込んだ作品ということができるだろう。アルフレッド・ガナチリーの「死者のささやき」もうそうだったが、過渡的な作品の中にはこういう古い物語の型と新しい要素を混在させたものがある。

その他にもこの作品にはいくつかの特徴がある。一つはユーモアである。難解な詩論を書いている作者だが、本編は随所にユーモアが仕掛けられていて私はクスクス笑いながら読んだ。イギリスの僻村へ学術調査のためにアメリカの人類学者が訪れるのだが、この美しくて若い学者と、僻村に住む牧師のやりとりは、じつに秀逸。私が抱いていたクリストファー・コールドウエルに対する印象のほうも「がらりと変わって」しまった。

もう一つは誰にでも親しめる物語の形でナショナリズムと多文化主義の問題を扱っていることである。僻村の牧師館にアフリカ人の客が泊まりに来ると、牧師の奥さんはこの黒人に対してたいへんな拒否反応を示す。ここもユーモラスに書かれていて、二ページくらいここに訳出したいくらいなのだが、長くなりすぎるので簡単に書く。奥さんは黒人が「あの歯でトーストをかじる音を聞くと、まるで人間の骨をかんじっているみたいに聞こえる」と言うのだ。それに対して牧師は「それは思い過ごしというものだよ。お前はいつも教会の伝道教会のためにジャンパーを編んだり、バザーを開いていたじゃないか。皮膚の色にかかわらずすべての人間は兄弟なんだよ」と言う。すると奥さんは「彼が兄弟なのは否定しないわ。ただこの家にはいてほしくないのよ」と返事する。ここには2016年の今に至るも変わらない、外国人・移民に対する庶民的な感情がある。

これに対して第二部ではイギリスの法律をナイジェリアの人間に押しつけようとした刑事が、生きるか死ぬかの冒険を通じて、相手方の考え方を理解するようになり、ついには刑事であることを辞め、ナイジェリアに住むことになる。アフリカの文化は西洋の文化とは違う。たしかにそこには魔術的な、非科学的な文化かもしれないが、それを単純に未開であるとか遅れているとか野蛮であるとは言えない、ということを知るのである。こういう認識はアフリカやアジアの文化を神秘や怪奇のベールで覆うようにして描いた、ほかの凡俗のジャンル小説作家が持っていなかったもので、コールドウエルの見識の高さを感じさせる。
 

2016年9月21日水曜日

88 ケリー・ロース 「わずかな見込み」

Ghost Of A Chance (1947) by Kelley Roos

ケリー・ロースは本当はふたりの作者の合同ペンネームである。オードリー・ケリー・ロース (1912-1982) という人とウィリアム・ロース (1911-1987) という夫婦がこのペンネームを使って推理小説を書いていた。その推理小説で活躍するのもジェフ・トロイとハイラ・トロイという夫婦者である。本作でもこのユーモラスなふたりがニューヨークの街を飛び回って大活躍するが、しかし他の作品と違って推理小説と言うよりは、サスペンス小説のような味わいになっている。

あるときトロイ夫婦の家に謎の電話がかかってくる。名前を告げようとしない男が、ある女性が殺されそうなので、助けてほしいと言うのだ。詳しい話をするので、しかじかのパブまで来てくれ、と彼は頼む。トロイ夫婦は親友の警部とともにいくつも事件を解決しているから、ちょっとした有名人である。それでこの名前を言おうとしない男は彼らのところに連絡してきたのだろう。トロイ夫婦はそろって雪の降る中、そのパブへ行く。ところが相手はあらわれず、ふと手許の紙マッチを見ると、「やつらが見張っている。場所を変えよう。××へ来てくれ」と書いてあるのだ。

こんな具合にトロイ夫婦はニューヨークの街を転々と移動する。そして指示に従ってとある地下鉄の駅へ行くと、電話の相手とおぼしき男が線路に落ち、電車に轢かれて死んでいたのだった。

トロイ夫婦は男の身元を確認し、彼がケネディー家という金持ちの馭者をしていたことを突き止める。命が危険にさらされていると彼が言っていた女性は、ケネディー家の誰かではないかとトロイ夫婦は考え、彼らは人づてにケネディー家と係わりのある人々を訪ねていく。そしてケネディー家の一人の女性が近々その誕生日に莫大な遺産を受け取ることになっていることを探り出す。

これで事件の輪郭ははっきりしてきた。誰かが彼女を殺害し、遺産を横取りしようとしているのだ。トロイ夫婦は遺産相続人の女性に危険が迫っていることを教えようとするのだが、彼女を殺害しようと狙っている人々のグループがトロイ夫婦を妨害し、命すら狙ってくるのだった……。

トロイ夫婦が謎の男から電話を受け、そのときからほぼ二日のあいだ、ニューヨークを駆けずり回ったり、汽車の旅に出たりする話で、非常に楽しかった。一種の追跡劇で、物語の進行は単純だが、スピード感があるし、単純な話だと思って呑気に読んでいると、実はこまかく伏線が張られていて、トロイ夫婦の鋭い指摘にはっとするという、なかなか考えられた作品になっている。遺産相続人が危機一髪のところで助かってからも、さらに一ひねりがあり、読後の満足感は高い。軽いタッチの、ユーモアに溢れた作品が好きな私はケリー・ロースの大ファンなのだが、もっと日本にも紹介されていい作家だと信じる。

本書の際立った特徴は、ニューヨークという充実したネットワークの存在を描いた点にある。網の目のように発達した地下鉄、鉄道、街路、そして電話。とりわけ電話は大きな役割を果たしている。殺人の可能性がトロイ夫婦に知らされたのは電話を通してである。その殺人がいつ行われるのかわかったのも電話の会話からである。殺される女性の居場所を示す手掛かりも電話の内容を記したメモから発見された。ただし手掛かりはいつも断片的である。殺人計画の知らせは、知らせた人の名前もわからないし、殺される人の名前もわからないようなものだった。殺人の予定時刻もふと耳に入った言葉の断片から判断したにすぎない。殺される女性の居場所を示すメモも、数字が書いてあるだけで、推理を働かさなければ、それがなにを意味するのかはわからなかった。ネットワークを洩れてくるこうした断片的な手掛かりをもとに、トロイ夫婦は殺人事件を防ごうと必死の捜査をするのである。

ミステリとネットワークのあいだには深い関係がある。私が訳した「オードリー夫人の秘密」でもオードリー夫人の甥が「人づてに情報を得ながら」、オードリー夫人の身元を探ろうとする場面がある。情報を求めて次から次へと連鎖的に人に会うその行為は、社会を覆う間主観性のネットワークを渡り歩く象徴的行為でもある。そして結局彼女の身元がわからなかったと言うことは、オードリー夫人が間主観性のネットワークにあいた穴であることを意味するのだ。ちなみに本書においても死んだはずの人間、ネットワークに存在しないはずの人間が犯人になっている。

2016年9月19日月曜日

87 メアリ・リチャート 「町の殺人」

Murder In The Town (1947) by Mary Richart (?-1953)

まるで聞いたことのない作者だが、調べて見ると1953年に七十三歳で亡くなっていて、ドレクセル・ドレイクという人がシカゴ・トリビューンに載せた「1947年のベスト・ミステリ」という記事には本作の名前が挙がっている。興味深いのでこの記事で高評価を得た十作をここに示しておこう。
10 BEST OF 1947  
THE BLANK WALL, by Elisabeth Sanxay Holding
THE DARK DEVICE, by Hannah Lees.
DEVIL TAKE THE FOREMOST, by Thomas Kinney
ONE MORE UNFORTUNATE, by Edgar Lustgarten.
FINAL CURTAIN, by Ngalo Marsh.
HATE WILL FIND A WAY, by Marten Cumberland.
MURDER IN THE TOWN, by Mary Richart.
LOOK TO THE LADY, by Joseph Bonney.
BY BOOK OR BY CROOK, by Anthony Gilbert.
UNEASY TERMS, by Peter Cheyney
そうか、ホールディングが The Blank Wall を書いた年なのか。私は異常心理をサスペンスフルに物語化したホールディングの大ファンで、いつか彼女の作品を訳出しようと思っている。The Blank Wall はレイモンド・チャンドラーにも良い作品と認められ、何回か映画化されているはずである。

しかしこんなことを書いていたらきりがない。話を「町の殺人」に戻そう。これはアメリカ南部のプラムヒルという小さな田舎町で起きた事件を描いている。主人公かつ探偵を演ずるのは、オークランドの小さな大学で、今で言うクリエイティブ・ライティングを教えているミスタ・ディクソンである。彼はトーテムと綽名されるくらい、おそろしく背が高い男で、以前にも探偵的才能を発揮して難事件を解決しているらしい。彼は本を書こうとして、静かな田舎町プラムヒルへ行った。

もちろん心静かに執筆に没頭できるわけがない。美人で、その町の多くの男たちと関係を持ったグウェンドリンという女が殺されたのである。彼女はミスタ・ディクソンのかつての教え子でもあって、あやうく男女の関係に入りかけたこともあるらしい。その彼女がとある家の庭で撲殺された。

誰もが誰もを知っていて、都会なら無視されるであろう小さな出来事が大きな噂の種になるようなこんな町で殺人事件が起きる。ある人は浮浪者(外部の者)の仕業だろうと言った。当然のことだろう。しかし表面的にはなにも起きていないようでも、この田舎町では密かにある緊張が高まっていたのである。探偵役のミスタ・ディクソンはその秘められた緊張関係を次々と暴いていくことになる。

本作に本格的な推理を期待してはいけない。本格物の伝統に従って、物語の最後に関係者が一堂に集められ、ミスタ・ディクソンが犯人をあぶり出しはするものの、そしていくつか切れ味の鋭い指摘はしてみせるものの、パズルとしてみるなら、読者に充分手掛かりが与えられているとは言えず、ある種の物足りなさを感じさせる。しかしかなり善意に解釈するなら、作者の意図は巧妙なパズルを構成することにはなく、なにも起きないように見える南部の退屈な田舎町においても、じつは隠れた次元において殺人となって爆発するような人間関係の軋轢が集積されているという事態を描くことにあったのはないだろうか。そう、この田舎町においては面だった形でドラマは展開していない。しかしそれは個人=犯人の内部で着実に醸成されているのだ。犯人を指摘する最後の場面で、ミスタ・ディクソンはさまざまな事実を手掛かりに、そのドラマを再構成してみせる。そしてそのドラマは――ネタバレが厭なので詳しくは書かないが――愛と裏切りと復讐という、まさしくメロドラマといってもいいドラマなのである。

そこまで考えて、私はちょっと待てよ、と思った。私は近代的なミステリとメロドラマの関係についてずっと考えてきた。前者は後者の形式を脱却したときに成立するとも書いた。それは間違いないだろう。しかしそれはメロドラマが葬り去られることを意味するわけではない。たとえば本書ではメロドラマがさまざまな徴候を通して探偵によって「再構成」されていることになりはしないか。近代的なミステリにおいて、メロドラマは展開されるのではなく、推理によって構成される! ここにはある種の物語の位相の反転があるように思える。

2016年9月17日土曜日

86 ジョージェット・ヘイヤー 「なぜ執事を撃つのか」

Why Shoot A Butler? (1933) by Georgette Heyer (1902-1974)

超大物作家の登場である。ロマンスにしろミステリにしろ伝奇小説にしろ、ヘイヤーのあの堂々たる書きっぷりにはいつも圧倒される。天性のストーリーテラーなのだろう。

本編もヘイヤーらしい悠揚迫らざる筆致で殺人事件を展開させている。なによりも良いのは登場人物が誰も彼も生き生きとしていることだ。それぞれ非常に強い個性を持つ存在として巧みに描き分けられている。われわれは探偵役の法律家アンバーリーを、気取った鼻持ちならない貴族、しかしその見かけの背後に情熱を秘めた男として、くっきりした像を思い浮かべることができる。彼の伯父は人のいい、どこか抜けたところのある、今風の言葉で言えば「ゆるい」キャラクターの持ち主である。伯母のほうは心優しい貴婦人なのだが、ぼんやりしているようで鋭い観察力を持ち、また貴族らしい(しかし滑稽な)高慢さをその挙止のはしばしに見せる。事件が起きる僻村の警察官は……という具合で、本編を読む大きな楽しみのひとつは、こうした人物たちがいかに「らしさ」を発揮するかという点にある。

第二に語りが含むユーモアがすばらしい。とりわけアンバーリーが伯父・伯母と交わす会話は爆笑ものである。たとえば伯父・伯母の屋敷に夜間、泥棒が入り、アンバーリーと伯父が被害の状況を調べている。そこへ伯母のマリオンが寝室から降りてきて賊にひっかきまわされた書斎へあらわれる。
 「あら、わくわくするわね。ひどい荒らされよう。片付けをする召使いがたいへんだわ。どうして書斎を狙ったのかしら」
 アンバーリーが頷いた。「伯母さん、そこなんですよ、問題は。ほかの人は問題と思わないだろうけど。ところでなんで顔に白い漆喰を塗っているんです?」
 「フェイス・クリームよ。わたしくらいの歳になると必要になるの。おかしい?」
 「おそろしく不気味ですな」
泥棒に入られて「わくわくするわ」もないものだが、こういう落ち着き・世間離れしたところが貴族なのであろう。またこうした視覚的なユーモアや会話のテンポを見ていると、映画の影響を大きく受けているように感じられる。

逆につまらないところをあげると、それはまさに長所の裏返しである。人物像が類型化しているために怪しい人間は怪しく描かれてしまうのだ。ミステリの常道としていちばん怪しく描かれている人物は犯人ではないから、真犯人はきっとつぎに怪しい人間にちがいない。そうすると……というように考えると、犯人がわかってしまうのである。

もう一つ気になるのは、偶然の出来事がやや多すぎるのではないかという点だ。これは私が説明しなくても気をつけて本書を読んでいただければわかることだし、ネタバレがいやなのでこれ以上は書かないが、しかし偶然を多用するのがメロドラマの特徴の一つであったことは思い出しておいてもいいだろう。

そう、類型的な人物像、メロドラマ的な筋の展開。ヘイヤーは映画的な描写や、スピード感のある語りで新しいミステリをつくろうとしているけれども、しかし私は本質的なところでまだ古い型を残しているのではないだろうか、と思うのだ。いや、案外、だからこそ多くの読者を惹きつけたのではないだろうか。日本でも「水戸黄門」みたいな古い、型にはまったドラマが受けるように、たいていの人は物語に対して保守的な態度を持っているものだ。モダニズムのような実験は、一時的に少数の人々を熱狂させるが、すぐに堪えられなくなって捨てられてしまう。

いやいや、話を戻そう。本編はこんな具合にしてはじまる。ある夜のことだ。法律家のアンバーリーは僻村に住む伯父・伯母そして従姉妹の家を訪ねて寂しい道路を車で進んでいく。突然ヘッドライトの中に、車と、そのそばに佇む女の姿が浮かび上がる。アンバーリーは車が故障でもしたのだろうと、親切心から車を停める。ところが、停まっている車の中には銃で撃たれた男の死体があったのである。女は、自分は殺人とはなんの関係もないと主張するが、なぜこんな辺鄙な場所に来たのか、殺された男とどういうつながりがあるのか、詳しいことを語ろうとはしない。状況から見て女が殺人犯でないことは確かだと判断したアンバーリーは彼女をそのまま残し、村へ行って警察に通報する。その結果わかったのは殺された男がその村の金持ちファウンテン家の召使いだったということだ。しかしなぜ彼は殺されたのか。アンバーリーは警察と共にこの謎を解明していく。

謎解きとしてはさほどの出来ではないが、すでに述べたようにこれはストーリーテリングを楽しむべき作品である。十九世紀に発達した、読者を楽しませる技術が、いっそう洗練された形でヘイヤーの作品の中に結実している。彼女の作品はもっと日本に紹介されてもいいと私は思っている。

(お断り)
最近、記事のアップロードが頻繁だが、実はもう百冊のレビューは終わっている。始めてちょうど一年で予定の冊数を読み終わったのである。多少書いたものに手を入れるので(忘れなければ)二日か三日おきにブログを更新していくつもりである。

2016年9月16日金曜日

番外17 行為の外形

番外17 行為の外形

われわれは行為の意味を行為者の意識・意図に問い尋ねる習慣がある。いたずらした子供に向かって父親が「なぜこんなことをした」と問うように。

私は谷崎潤一郎の短編「途上」の読解を通して、谷崎が行為の意味と行為者の意識をラディカルに切断していると考えた。(番外6参照)意味を意識に問うてはならない。意識は偽りを言う、あるいは誤認するものだからである。行為の意味を知るには、意識とは切りはなされた「外形」としての行為に着目しなければならない。

「外形」の問題は奇妙な広がりを持っている。私が外形について考えはじめて最初に気づいたのは次のようなことである。私は幽霊を信じていない。幽霊を信じる人がいたら一笑に付すか、軽蔑するだろう。ところが真夜中に一人で誰もいない田舎道を歩いているとき、私は平気でいられない。草の揺らぎや木の影に胸が騒ぎ、あきらかに微かな怖れを感じているのである。私はふだんは幽霊を断固否定する。そんなものは露ほども信じていない。しかし夜の田舎道を歩く私を、行為の外形でもって判断するなら、私は幽霊を信じているのである。

ここには奇妙に歪んだ「信」の形がある。私は幽霊を信じていないが、しかしあたかも信じているかの如く行為している。もしも私が「お前が夜の田舎道を歩く様子を見ていると、まるで幽霊を信じているみたいだ」と言われたら、「いや、それは木が人の形に見えたからだ」とか「急に枝が揺れてびっくりしたのだ」とか言い訳したり、「そんなことはない」と相手の言うことを不満そうに否定するだろう。

通常、信念と言えば、われわれは宗教の信者のことを考える。「私は~の教えの信者である。信者の一人であることを誇りに思う」というように彼はおのれの「信」を自覚している。しかし私があげた例ではそうではない。夜の田舎道を歩く私は「信」を持っていない。だが、「信」を持っているかのように振る舞う。この点に関しては Robert Pfaller が On the Pleasure Priciple in Culture という秀逸な本を書いているので参考にしてほしい。

第二に「責任」の問題がある。行為を外形としてみるとは、行為を意図と切りはなして見ることだが、しかしそれは行為の主体から行為の責任を免除するものではない。それどころか、主体の意図せざる結果が行為から生まれた場合でも、その責任は主体にあるのである。「途上」の例で言うなら、会社員は妻を殺害する意図はまったくなかったかもしれないが、その行為を外形において見るなら、偶然を利用して妻を殺害する行為に等しい。そのようなものとして彼は自分の行為に責任があるのである。「私はそんなことを意図して行為したのではない」という言い訳は通用しないということである。ウエーバーが「職業としての政治」で言っている責任倫理とは、外形としての行為に対して政治家は責任を負うということである。

第三に相反物の一致の問題がある。「途上」の会社員の場合、妻への愛情と妻への殺意は二つの異なるレベルにおいて合致している。会社員は自分の行為を妻への愛情を示すものだと「意識」しているが、探偵はそれを外形としてみたとき、妻への殺意を示すものだと解釈してみせる。逆に言えば、外形としてどれほど忌まわしい行為であったとしても、その行為者の意識にその意図を問うたならば、なにやら美しい理屈を聞かされるかも知れないということである。外形としての残忍性と主体の内面的洗練は混在しうる。連続殺人犯の心中に詩的な宇宙が存在していてもまったく不思議はない。逆に立派な業績を残している学者が、その思想を実現しようとしてホロコーストに協力することもある。しかし精神分析的な知見に寄れば、主体は嘘をつく、あるいは誤認するのである。そしてすでに言ったように主体は外形としての行為にこそ責任を取らなければならない。

第四に外形の「物質性」の問題がある。このことに気がついたのはスラヴォイ・ジジェクを読んでいるときのことだった。ジジェクはその書籍や講演で、何度もチベットのマニ車に言及している。マニ車とは経文を納めた円筒形の器具で、これを一回転させれば一回経文を読んだことになるのだ。マニ車を回すあいだ主体はなにを考えていてもいい。あるいはどんな行為をしていてもいい。とにかくマニ車を回していれば、彼は祈っていることになるのだ。なんなら風車式の仕掛けを作って自然の力でマニ車を回転させ、自分はどこか別の場所へ行き、思いきり猥褻な行為にふけってもいい。それでも彼は祈っていることになるからだ。外形としての行為はこのように物質によって代替されうる。

第五の問題はこの代替性にかかわるものだ。行為は代替されうる。「よろしく言っていてくれ」と挨拶を他人に任せることもあるし、掃除をルンバにさせることもあるし、ミステリ小説では自分が敵を殺す代わりに、いろいろな仕掛けに彼を殺させることがある。とりわけ行為がモノによって代替されるとき、行為の外形性は際立って見えてくる。そして行為を外形としてみるとき、肝腎なのはそれが代替されたものではないかと考えることである。「途上」の会社員の場合、彼の妻に対する行為は、たとえば彼の愛人が望むことを彼が代替して行っているのではないかと考えることだ。私はこの問題をスチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」(1987)に即して考えたことがある。主人公である小さな女の子の行為、空想、発話をその外形において見るならば、それらは母親(継母ではなく)の欲望を代替していることがわかる。我々が語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから、というものでなければならない。

第六の問題。「途上」においては「妻は死ぬまで夫の暖かい愛に包まれて人生を送った」というドラマを、探偵が外部からデコンストラクトする。このとき探偵は物語の外部にいることになる。行為を外形としてみるということは、物語の外部に立つことでもある。あたりまえのことだが、本格推理小説が成立するにはこの外部という立場の確立が必要になる。二十世紀前半において、ミステリはメロドラマという形式を蝉脱して、論理性を物語の駆動力にする近代的なミステリの形式に移行したと私は書いてきた。それを外形性の問題から言い直すと、メロドラマを外部から見る視点を確立したときに近代的ミステリは誕生した、ということにほかならない。私はこの点に注意しながら残りのレビューを行っていくつもりである。

2016年9月14日水曜日

85 アンソニー・バークレイ 「服用すべからず」 

Not To Be Taken (1938) by Anthony Berkley (1893-1971)

アンソニー・バークレイである。しかも本格的なパズル・ストーリーである。面白くないわけがない。最終章の直前にはこうある。
 すべての証拠は読者の目の前にある。ここで一息ついてつぎの質問に答えてみていただきたい。
 1 ジョン・ウオーターハウスを殺害したのは誰(あるいは何)か。
 2 ジョン・ウオーターハウスはいかにしてヒ素を飲むことになったのか。その理由は。彼が死に到る過程を簡単に示してもらいたい。
 3 ダグラス・シェーウェルの語りから推理できること、手掛かりをできるだけあげてもらいたい。
 4 決定的な手掛かりはあるだろうか。あるとしたら、それは何か。
こういう堂々たる挑戦を受けて心ときめかないミステリ・ファンはいないだろう。しかし本書は論理ゲーム以外のところでも私を楽しませてくれた。

物語をざっと整理すると、ドルセットシャー州のアニーペニーという村で、仲のいい六人の人間がある日集まって小さなパーティーを開く。その席で主人役のジョン・ウオーターハウスが急に具合が悪くなり、結局急死してしまうのである。医者は病死と判断したけれど、ジョンの弟が無理矢理死体を検死解剖させ、その結果、臓器からヒ素が検出された。いったい誰がジョンにヒ素を飲ませたのか。そしてその方法はいかに。

事件自体はきわめて単純で、事件が起きてからは審問の様子が詳しく描かれるだけである。つまりジョンが急死するまではパーティーがあったり、医者が診療したり、看護婦が被害者の容態を見たりとあわただしく人が動くが、その後はアクションらしいアクションがとくになにもないのだ。そして審問がジョンの死を事故死と結論づけてからすぐあとに、本書の語り手であるダグラスがふと事件の真相に気づくのである。

アクションがないのでは退屈ではないか、ミステリを読まない人ならそう思うかもしれない。いやいや、そんなことはない。何度もこのブログで書いたことだが、近代的なミステリは一時代前のメロドラマを脱却したところに成立する。偶然とかセンセーショナリズムによって駆動される物語から、論理的展開と様相の変化を主眼にした物語へと移行したのである。論理的展開というのはわかりやすいが、様相の変化とはどういうことか。たとえば被害者のジョンは、殺される以前は気持ちの優しい男として描かれている。しかし彼の死後、警察やスコットランド・ヤードが捜査を開始すると、彼がこっそりとイギリス軍のためにある種のスパイ行為をはたらしていたこととか、妻に知られぬように情婦をかこっていたことが判明するのである。彼のイメージは事件の前後でがらりと変わる。

またジョンの妻も同じように印象が変化する。彼女は病弱で寝込んでばかりいるのだが、本当は彼女は身体的になんの異常もかかえていないことが事件後にわかる。彼女の病気は周囲の注意を自分に惹きつけるための贋の病気、精神的な病気なのである。さらに彼女にも恋人がいて、なんと夫のジョンもそのことを承知していたことがわかってくる。素朴な夫婦のようにみえたのが、じつは仮面夫婦だったのである。

もちろん様相の変化の最大のものは、物語の最後、犯人を指摘する場面である。もっとも罪のない見かけの人間が、もっとも罪深い人間に変貌する瞬間である。ここでは論理的展開と様相の変化が手を取り合って強力に作動することになる。

とにかく近代的なミステリはこういう様相の変化を描くがゆえに、とくにアクションがなくてもよいのである。本作はその模範的な例と言えるだろう。

そのせいだろうか、作中人物たちは、ジョンや妻が、彼らが思っていた人物とはまるで違う人物だったことにたいする感慨のようなものが何度も語られる。
 不思議というか、ほとんど怖ろしいことだね。ぼくらは、友だちがぼくらに抱いているイメージとはまるで違う存在なんだよ。
 ぼくらは誰かが自分はこういう人間なんだというと、すぐああそうなのか、そういう人なのかと思ってしまうよね。ジョンは自分がどういう人間かということをよくしゃべっていた。その結果、ぼくらは彼はそういう人なんだと、自動的に思い込んでしまったのさ。だけどそれはほとんどが間違いだった。
 ジョンの奥さんには君ら全員、だまされていたんじゃないか? まあ、驚くようなことじゃないよ。彼女自身、自分にだまされていたんだから。永年にわたって彼女は自分をだましていたんだ。神経症だな。心理学的に面白いケースだ。
 治る見込みのない哀れな病人としてぼくらはジョンの妻を扱い、機嫌を取り、同情してきたのに、じつはぼくの妻とおなじくらいぴんぴんしていて、ぼくらの同情はすべて無駄についやされたのだ、などということを信じることは簡単ではなかった。
メロドラマにおいては登場人物は多くの場合ステレオタイプ化されている。ディケンズの小説に登場する人物を見るとわかるが、同じ人物は何度も同じ形容詞で描写され、その人固有のイメージを形づくっている。陽気な人間はどこまでも陽気であり、吝嗇な人間はどこまで吝嗇である。しかし近代的なミステリにおいてはそうした人間の認識はがらりと変化する。われわれは他人のことをこうだと断定的に語ることはできない。それどころか下手をすると自分のことすらどういう人間かわからないのだ。ここに近代的ミステリと心理学・精神分析との接点がある。

ついついミステリ論を展開してしまったが、バークレイはさすが黄金時代の立役者だけあって、そういうことを考えさせる深みのある作家なのである。

2016年9月11日日曜日

84 レスリー・フォード 「ウィリアムズバーグ殺人事件」

The Town Cried Murder (1939) by Leslie Ford (1898-1983)

もちろんこの本の中では人が殺され、その犯人が突き止められる。しかし私の見るところ、事件それ自体は本書の中心的主題ではない。本当に問題になっているのは新旧二つの考え方・態度の対立である。

物語の舞台はアメリカ、バージニア州のウィリアムズバーグ。誰もが知っている歴史的な町だ。ヤードレー一家はこの土地の由緒ある旧家のひとつだった。
 しかし南北戦争以後、ヤードレーの一族は没落の一途をたどり、一九二〇年代後半には借金に苦しむ生活を送っていた。

ちょうどそのころ、レストレーション社がウィリアムズバーグの土地や家屋の買い取りをはじめていた。レストレーションと聞くとリチャード2世の王政復古を思い出すが、このレストレーション社は、私が調べたことが正しいなら、ロックフェラーが金を出している会社で、ウィリアムズバーグの古い町並みを保存する目的で設立されたものだ。会社は家屋を買い取るが、住人にはそのままそこに住んでいてもらう。家屋の修理が必要なら、会社はその費用も出す。住人にとっては棚からぼた餅みたいな話である。実際大勢の人がレストレーション社の進出を歓迎していた。

しかしヤードレー家のオールド・ミス、メルシナはこれに反対だった。ちょっとわかりにくいかもしれないが、メルシナはヤードレー家に強い誇りを抱く、因習的な女であり、いくら金に困っていても、屋敷をどこの馬の骨ともしれない会社に売るなんぞ、断じてできることではないと考えていたのである。

しかしヤードレー家は借金がかさみ、屋敷を手放さなければならないくらい財政的に逼迫している。レストレーション社の助けを借りず、メルシナはどうやってこの窮状を切り抜けようというのか。彼女はまさに十九世紀的な手を使おうと考えていた。二十歳になったばかりの彼女の姪フェイス(彼女の兄の娘)を金持ちの男に嫁がせようというのである。彼女は姪にむかってこんなことを言う。「わたしたちはヤードレー家のためにみずからを犠牲にしてきました。今度はあなたが自分を犠牲にする番です」と。

さて、本書の語り手であるルーシーという女性もヤードレー家の一員で、年齢もほぼメルシナとおなじくらいだと思われる。しかし彼女は昔からメルシナとは考え方が逆なのだ。ルーシーはレストレーション社の事業を福音のように感じるし、フェイスが好きでもない男、しかも二十五歳も歳上の男と結婚することに大反対である。そして冒頭に述べたようにメルシナ/ルーシーにあらわされるこの新旧の考え方の対立こそ、本書のいちばんの読みどころである。

二十世紀の前半に書かれたミステリにはこういう新旧、つまり十九世紀的・ヴィクトリア朝的態度と、近代的・合理主義的態度の対立がしばしば描かれるのは、ミステリというジャンル自体が古いメロドラマから新しい物語形式に蝉脱しようと努力していたからではないだろうか。こういう作品では古い因習的態度がよくメロドラマにたとえられるが、本書においても「由緒ある一族が借金を払うために好きでもない男と結婚する話なんざ、古いメロドラマにはいくらでもでてきますよ」などという台詞が登場する。

話を思い切りはしょるが、結局のところ古い考え方は駆逐される運命にある。メルシナはフェイスにむかって「家のために行動しろ」と言うけれど、メルシナの兄、つまりフェイスの父は娘にむかって「自分がいちばんいいと思うように行動しなさい」と言うのである。フェイスは父の言葉に従って、事件後、自分が本当に愛する人と結婚することを決める。面白いことに、語り手のルーシーも、事件後、若いときに「家のために」結婚をことわった男性と再会し、彼から「今度は逃げないでくださいよ」と優しく言われるのである。「家のために行動しろ」とはずいぶん古くさい因循な考え方だが、それが否定され、個人の心に忠実であることの大切さが最後に示されるのである。ルーシーは昔、家のために失った恋をもう一度回復するわけで、なるほどレストレーションにはそういう意味もかけてあったのかとちょっと感心した。

しかし私はこのハッピーエンディングをハッピーエンディングとして読むことはできなかった。古い考え方が否定され新しい考え方があらわれる。だが、その新しい考え方とはなんなのか。ウィリアムズバーグの町がロックフェラーの財力によって買われていくように、十九世紀的なものは二十世紀的な資本主義体制にのみこまれていったのではないか。日本の場合を考えてもそうだが、「イエ」というくびきから人々を解放することが、いまわれわれが見ている資本主義への第一歩ではなかったのか。作者のレスリー・フォードは決して資本主義(レストレーション社)のことを問題にはしていない。しかし無意識のうちに新しい考え方なるものが、資本主義的な枠組みの中にあることを示しているような気がする。自由を手にしたと思う瞬間は、今までと異なる桎梏の枷をはめらる瞬間なのである。だからわれわれは革命の成就したその日より、「次の日の朝」に気をつけなければならない。

2016年9月10日土曜日

83 エイーダ・E・リンゴ 「テキサス殺人事件」

Murder in Texas (1935) by Ada E. Lingo (?-?)

まるで名前を聞いたことのない作者で、インターネットで調べても、どんな経歴の持ち主なのか、ほかにどんな作品を書いているのか、いっこうにわからない。ところが驚いたことに、「テキサス殺人事件」は明らかに水準以上のすぐれたミステリなのである。

石油を発掘して大金持ちになったテキサスの富豪が殺される。その町の若き女性新聞記者であるジョーンは、殺された男の娘に頼まれて、探偵を雇うことになる。それがリチャード・フィールズという青年で、まだキャリアは浅いが、いくつかの難事件を解決していてその名は広く知られているらしい。

ジョーンとリチャードはコンビを組んで事件の解明にあたる。どうやら金持ちの男は女性関係や仕事上の不正な取引をネタに脅迫を受けていたらしい。脅迫の事実がばれることを怖れて、脅迫者は富豪を殺したのではないか。しかしいったい誰が彼を脅していたのか。それを探る最中にも第二の殺人、そして殺人未遂と、被害者が増えていく。

筋は案外単純なのだが、非常によくできている。なにがよいのかというと……先ず第一にペース配分。ミステリには基本的に二つの要素が欠かせない。事件と、その後の捜査である。この二つは読者に全く異なる反応を与える。事件が起きるとき、われわれは非常な緊張感を感じる。それはある種、爆発的で集中的で、こう言ってよければ詩的な瞬間である。一方、捜査の過程は事実の整理、論理の構築についやされる、持続的な、散文的な時間帯なのである。この二つの異なる時間をうまく配分せず、たとえば捜査の過程がやたらに長いと、このブログで扱ったアン・オースチンの「黒い鳩」のように、読者の脳に余計な負担をかけることになったりする。しかし「テキサス殺人事件」では、謎の提示とその解明に向かう道筋がじつにうまく配分されていて飽きることなく、気持ちよく読むことができる。ミステリの展開のさせ方のお手本を示しているといってもいいだろう。L.P.ハートレイの The Go-Between は物語の展開のさせ方が完璧で、作家を目指していた人々は、その語数を勘定してペース配分を学んだという。本書にそこまでの完璧さはないが、しかし充分に参照するに価する出来である。

第二にすばらしいのは、登場人物の性格がうまく描き分けられているという点である。探偵のフィールズは溌剌とした、頭の切れる青年だが、同時に未熟さももっていて、狡猾な容疑者をうまく問い詰めることができずにいらいらしたりする。新聞記者のジョーンズは、いかにも現代的な若い女で、行動力があるが、大不況という現実からなにがしかの世間智を学び取っているのだろう、冷静さも兼ね備えている。彼女の同僚記者ミッチェル・ホワイトは善人なのかもしれないが芯の弱さを持った男として描かれ、ジョーンズ母娘はそこはかとなくふしだらな感じをかもしだしており、保安官のジム・リードはこれぞテキサスの人間といったふうなマッチョなしゃべり方をする。クリーニング屋の黒人女すら、脇役に過ぎないのに、印象深いのである。この作者は一筆書きのように人物の特徴を的確におさえ、表現する力を持っていると思う。

そしてもう一つ感心したのは、女性作家らしい生活の細部への目が光っている点だ。とくにジョーンが自分の家でデザートを食べる場面や、砂嵐に備えて人々が家のまわりを片づける場面に私はそれを感じた。

そして最後にこの一節を紹介しておきたい。ジョーンズが新聞社の編集長の部屋に入ると、そこには当時のミステリの名作が並んでいたのである。
 ジョーンはケイ・クリーヴァー・ストラーンの最新スリラーを手に取り、ミニョン・エバハートの「白い鸚鵡」、フランシス・アイルズの「犯行以前」、そしてレスリー・フォードのすばらしい「メリーランド殺人事件」に目を留めた。ミセス・ラインハートの「アルバム」も見つけたが、そのまま持って行けないことが無性にくやしかった。サタディ・イヴニング・ポストに連載されていたのだが、彼女は途中までしか読むことができなかったのだ。
ちょっと調べたら、この中で翻訳が出ているのはアイルズの作品だけではないか。日本が翻訳天国だなどというのは大嘘である。しかしストラーンの最新作となっているのは何という作品だろう。The Meriwether Mystery (1932) だろうか、それとも The Hobgoblin Murder (1934) だろうか。この人の本は前から読みたいと思っているのだが、なかなか手に入らないのである。そしてレスリー・フォード。なんという偶然だろうか。これは次にレビューしようと思っていた女流作家である。作品は「メリーランド殺人事件」ではないけれど。

しかしそれは、まあ、どうでもいい。本作「テキサス殺人事件」は意想外によい作品で、英語が読める方には一読をお勧めする。

2016年9月6日火曜日

82 アルフレッド・ガナチリー 「死者のささやき」

The Whispering Dead (1920) by Alfred Ganachilly (?-?)

ジャンル小説を読んでいると、ときどき無用に筋が引き延ばされた作品に出合うことがある。ある部分までは一定の緊張感をたもって書かれているのだが、急にその緊張の糸が切れ、しどけなく、だらだらと興味のない場面がつづくのである。おそらく出版社に、これでは単行本としては短すぎるなどと難癖をつけられ、作者が予定にはなかった部分を付け足したのだろう。このような出版条件というのはいつの時代にもあるものだ。また、外的制約がかならずしも悪い方に働くとは限らない。たとえば十九世紀には三巻本の長い作品を書くことを小説家は求められたが、才能ある人々はこの条件に対応して、細密な心理描写の技術を発達させていった。

しかしながら一定の長さに達するために、ただ分量を水増ししたという作品も少なからずある。「死者のささやき」もその一つと言わざるを得ないだろう。物語の三分の二は、なかなか見事な推理ものとなっているが、残りの三分の一は、あきらかにそれまでとは質の違う追跡譚になってしまっている。犯人を特定する推理の過程はとっくに終わっているのだが、さらに警察が犯人を追跡する様子が長々と付加されているのである。この作者の文章には荒々しい簡潔さとでもいうべき、不思議な味わいがあって、悪くないと思っていただけに、この構成は残念だった。

事件が起きるのはチリのドイツ大使館である。ある朝、大使と秘書が書記官一人を残して大使館を出た。しばらくすると大使館が猛火に包まれ崩落する。火が消し止められてから消防隊が捜索すると、一人の男の死体が出てきた。大使、秘書、チリ警察は黒焦げの男を書記官であろうと考えた。

この小説の説明が曖昧なのではっきりしたことは言えないのだが、どうやらドイツの大使館はある地方の人々が自分たちの意にそまぬ振る舞いをしたため起訴して牢屋に入れてしまったらしい。その結果なぜか書記官に脅迫状が送られるようになった。彼は火事のあった当日にも脅迫状を受け取っており、怪しげな人間も見ている。そうした状況から考えて、彼に遺恨を持つ誰かが彼を殺し、その後大使館に火を放ったのだろうと考えられた。

しかし警察の中に一人だけ、死体は書記官ではあり得ないと考えた刑事がいた。彼は死体の死後硬直と出火の時間から論理的に死体が書記官ではないと判断したのである。彼がこの推理を証明する過程が、先に私がなかなか出来がいいと言った最初の三分の二である。実際この部分は非常に面白い。一九二〇年に書かれた本作は、まだまだナイーブな謎しか構成していないが、しかし謎を解明する過程、たとえば刑事が推理を組み立て、それを挫折させるような事実にぶつかり、さらにそれを乗り越えて彼が犯人を追い詰める、といったパターンは、現在のもっともすぐれたミステリとなんら変わるところのないものである。この部分は書かれた年代を考えて私は高く評価する。

刑事が決定的な証拠をつかんで真犯人が確定すると、今度はアンデス山中を逃亡する真犯人を刑事が追いかける場面に移行する。空気の希薄なアンデスの山道を馬で移動することがどれほど過酷なことか、それがよくわかる描写になっているが、前半と較べると明らかに質の違う物語が展開されている印象だ。まるでミステリの後にアドベンチャーをくっつけたみたいなのである。

こういう大きな欠点はあるが、しかしこの作品のいちばん最後にはちょっと面白いコメントが付されている。ネタバレにならないように抽象的な言い方をするが、それは犯人の犯罪行為、つまり個人が行う犯罪が、国家の行う犯罪の縮小再生版であるという指摘である。犯人は母国の対外政策、つまり帝国主義的哲学に感動し、自分の振る舞いもそれに合わせようとした。他国の人々に対する彼の態度は、まさに彼の国が外国に対して取る(帝国主義的)態度とおなじなのである。以前このブログでヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」を扱ったとき、いじめられていた人間がいじめていた人間を殺すという個人と個人のレベルの物語は、帝国主義的競争に遅れていたドイツが軍事力をつけ、先行するイギリスを脅かすという、国家間のレベルの物語と相同性を持っていると書いたが、おなじような個と国家のあいだの照応がこの作品にも見られるのである。私が訳したフォークナーの「雲形紋章」においても帝国主義的イギリスの姿がブランダマーという主人公に重ね合わされていた。私はこういう作品を集めて、いつかまとめて論じてみたいと思っている。最近日本の障害者施設で大勢の入所者を殺害した男がいるが、彼は自分の行為は国家の意を受けたものであると考えている。こうした事例は世界を見まわすとたくさんあるのであって、私はそういうことが起こる構造、隠微な形で働いている国家と個人のあいだの力の関係について興味があるのである。

2016年9月2日金曜日

81 ヘレン・メーブリー・バラード 「殺人のメロディーにのせて」

To the Tune of Murder (1952) by Helen Mabry Ballard (?-?)

久しぶりに五十年代の作品を読む。バラードという人は聞いたこともなかったし、ざっと調べただけだが伝記的な事実もまるでわからなかった。しかし本編を見る限り、小説家としてかなりの資質を持った人である。本書は単に殺人事件の発端から犯人が捕まるまでの経過を追った作品ではない。

本書を読んで最初に気づくのは、登場人物のあいだに世代差が歴然と設定されていることである。一つのグループはジェニー・コーベットやメアリ・レノルズに代表される、ヴィクトリア朝的な道徳観、人生観をもった人々である。メアリはクイーン・メアリと綽名されるくらい古い考え方に凝り固まっているし、両者の部屋はいずれもヴィクトリア朝趣味ゆたかに飾られている。しかし彼らはコーベットヴィルという小さな町の人々に尊敬はされているものの、経済的には没落の一途を辿り、やがては消えてなくなる存在である。

もう一つのグループは、ジェニー・コーベットの甥で本作の主人公である地方検事のジム・トンプソンや、彼の友人でコーベットヴィルの警察署長であるデイブ・ターナーたちである。彼らはヴィクトリア朝以後の新しい世界をに切り開くべき人々である。しかし検事でありながら警察の仕事に習熟しておらず、デイブ・ターナーから「もっと大人になれ」と忠告されるデイブ・トンプソンに典型的にあらわれているのだけれども、彼らはまだ完全には新時代の担い手として成長してはいない。それどころか下手をすると(本作の一番最後に示されているように)新しい世代は古い世代の考え方を納得し、受け入れてしまいさえするのだ。

このような旧世代と新世代の関係は、ヴィクトリア朝時代に形づくられたメロドラマの型を打破しようとして、結局そこから脱却できずにいた、ミステリの歴史のある時期を彷彿とさせる。こう書くと社会変化の中に文学形式の変化を見て取るのは強引な読みではないかと言われそうだが、案外そうでもないと私は考える。本作の登場人物はみな「物語」と関係づけられているからである。たとえば警察署長のターナーは容疑者の一人がセンチメンタルな物言いをすると鼻を鳴らして「くそっ、イースト・リンみたいなしゃべり方はやめろ!」と怒鳴る。また彼は秘書から「チーフ」と呼ばれるが、それは彼にペリー・メースンを思い出させるのだ。ジム・トンプソンはジェニー・コーベットを「ヴィクトリア朝のヒロイン」にたとえるし、別の容疑者であるシルヴィア・マーポールの人生は「ダイム・ノベルみたい」と評される。こういうところを気をつけて読んでいくなら、社会変化に文学形式の変化が重ねられていると考えることはけっして無理ではないと思う。

ジェニー・コーベットが甥のジム・ハンプトンに次のように語る部分は、とりわけ私に感銘を与えた。
 「私の世代の女たちは現実を直視しない、甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界に住んでいると言われてきたわ。でも本当は、私たち、真実に目を向けることを怖れていない。現実的な考え方を自慢する若い人たちとおなじようにしっかり事実を見ることができる。ただ違うのは、私たちはたとえ人生がどんなに苦しくて醜いものであっても、そのことを口にしてはならないと躾けられてきたということ。口を閉ざすのはひとつはプライドがあるから。もうひとつの理由は、趣味のよさを保つことが大事だと考えているから。淑女は個人的な悲しみや苦しみや恥を人前にさらさない。ジェイムズ、私の義理の妹は悪い女だったわ。それは事実で、私はずっと前からその事実をはっきりと見ていたのよ」
「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」というのはヴィクトリア朝時代の生身の女たちのありようを表現しているだけではない。ヴィクトリア朝時代に女性向けに発行された雑誌やロマンチックな小説も「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」を描いていると評され、後代の作家、たとえばジェイムズ・ジョイスなどによってそのイデオロギー性を批判されているのである。しかしジェニーは、エディス・ウオートンの名作を想起させるような議論を用いてその批判を批判し返す。つまり、彼らは現実を見ていなかったのではない。見ていたけれども、口を閉ざしていたのだ、と。彼らにとっては decency とか respectability といった言葉で表現されるものを外見的に保つことがなによりも大切だったのだ。それを聞いてジムはこう考える。「永の年月、この誇り高い老婦人に口をつぐませてきた作法(code)を、彼女がついに破らなければならなくなったということ、それがこの殺人事件が招いた、看過し得ない悲しい帰結ではなかったか」薔薇色のイデオロギー的世界が、世上に流布されたような盲目的なものではなかったにしろ、しかしその物語的規則体系(code)はもはや有効性を失っている。私はそんなふうにこの一節を解釈することができるのではないかと思う。

しかし古い物語が通用しなくなったとしても、新しい物語(新世代)は確立していない。よくいえばまだ揺籃期にある。本書において犯人と被害者の人物像が曖昧に揺れているのは、そのせいなのだろう。犯人は憐れむべき環境の犠牲者なのか、それとも憐れみに値しない単なる悪者なのか。殺されたアリシアは、周囲の人間を誰彼かまわず不幸に陥れようとするパソロジカルな存在なのか、それとも甘やかされて育ったがためにわがままになっただけで、じつは魅力的な側面も備えているのか。ジム・トンプソンにはよくわからない。確乎たるヴィクトリア朝的道徳観を持っているメアリ・レノルズは、犯人の邪悪さは犯人が生まれついた家系の血のせいであると、いかにもあの当時の人がいいそうなことを言うのだが、すぐに周囲の人に論駁されて、結局結論はつかないまま物語は終わる。

一回読んだだけなので、この先読み返した際に、解釈が変わるかもしれないが、しかしこの作品のレベルが高いことは間違いない。もしもこの作者が他にも作品を書いているなら、是非とも読んでみたいと思う。
 

2016年8月31日水曜日

番外16 記号の問題

番外16 記号の問題

 

志賀直哉「城の崎にて」にこんな文章がある。
自分の部屋は二階で隣のない割に静かな座敷だつた。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になつてゐる。其羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな肥つた蜂が天気さえよければ朝から暮近くまで毎日忙しさうに働いてゐた。蜂は羽目のあはひから摩抜けて出ると一ト先づ玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で丁寧に調べると少し歩きまはる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなつて飛んで行く。
谷崎潤一郎は「文章讀本」においてこの一節を取り上げ、こう解説した。
些細なことでありますが、「直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。」の所で、「シツカリ」を片仮名、「ぶーん」を平仮名にしているのも頷ける。この場合、私が書いてもきっとこう書く。殊に「ぶーん」を「ブーン」と書いたのでは、「虎班の大きな肥つた蜂」が空気を振動させながら飛んで行く羽音の感じが出ない。また「ぶうん」でもいけない、「ぶーん」でなければ真直ぐに飛んで行く様子が見えない。
日本語には大きく漢字、平仮名、片仮名の三種類の文字がある。それぞれ読み手に与える印象が違う。漢字は複雑に線を交差させいかめしい。自由とか権利といった概念語は通例、漢字によって表記される。平仮名は漢字から造られたものだが、簡素で曲線が多く用いられ視覚的にやわらかい印象を与える。片仮名も簡素化された文字だが、平仮名よりも直線が多く用いられている。

谷崎が「シツカリ」を片仮名で書く、といっているのは、蜂が飛ぶ前の緊張感が直線的な片仮名によってよりよく表現される、ということである。平仮名で「しつかり」と書くと、その丸みを帯びた文字のせいで、緊張感が減殺される。

また「ぶーん」は「ぶ」の字が肥った蜂を想起させる字形をしており、長音をあらわす記号「-」は同時に蜂の飛行コースを暗示的に示している。



三島由紀夫の小説に
昨夜妙子の唇がつけた小さな苺のような皮下出血の跡
という表現がある。苺が漢字で表記されているが、これは平仮名の「いちご」あるいは片仮名の「イチゴ」には置き換えられない。可憐な一点の内出血の跡は、適度な複雑さで構成された一字の漢字によってあらわされなければならない。

三島は谷崎の影響を大いに受けた作家だが、やはり文字の視覚的な側面を重視する。

このごろは制限漢字といふいやらしい掟があるけれど、表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔の字は、幾重にも内側へ包み疊んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるように出來ている。この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。

 (森茉莉「甘い蜜の歓び」についての文章)羊皮は貴女にとっては、スエードではいけない。スウェードでもいけない。それを撫でる指さきが滑るようで引っかかり、引っかかるようで滑るスウエエドでなければならない。絶対に、絶対にスウエエドでなければならない。

 (鴎外の一文「日光の下に種々の植物が華さくやうに」に関して)「花」と書かず、「華」と書くことによって、「花」の柔らかさの代りに、より硬質な、そして複雑で典雅な「華」が暗示される。

ちなみに私はもともと旧漢字で書かれたテキストを新漢字に直したものは読まない。たとえば三島だが彼は「からだ」を「體」と書く。新漢字に直すと「体」だ。私はこのすかすかの新漢字を用いることに疑問を感じる。ボディビルをし、肉体を鍛えることに固執していた三島にとって「からだ」は筋肉と骨が複雑に組み合わさせれてできているもののはずだ。「体」のような貧弱なものではないと思う。私の解釈が当を得ているかどうかはともかく、「体」と「體」とでは視覚的な印象があまりにもちがいすぎる。それゆえ新漢字に直したものを私は読まない。



津島佑子はこんな一節を書いている。
……太古、地球上の空気はまだ現在のように"ホモジェナイズ"されていなかった。大小さまざまな形のガラス板が犇めき合いながら浮遊しているような状態だった。
「犇」という漢字は、いかにもその形が「ガラス板が犇めき合いながら浮遊している」様子を彷彿とさせる。ここではほとんど「犇」という漢字がガラス板の比喩を生み出したかのようである。



記号は通例シニフィアンとシニフィエからなると言われる。本当だろうか。

「苺」のシニフィアンは「苺」という文字、あるいは「いちご」という音声である。そのシニフィエは、表面に小さな種を付着させた赤い円錐形の液果である。両者は日本語のうちではコード化され強固に結び付いているが、しかし「苺」という記号のどこにも「キスによる皮下出血の痕」という意味合いはないし、そのイメージを喚起するいかなる要素もコード化されてはいない。これはとあるコンテクストの中に置かれたこの語が、まったく偶然に帯びる意味、イメージである。

「城の崎にて」における「ぶーん」という語においても、「肥った」蜂のイメージとか、「まっすぐ」な飛行のイメージは、偶然的に発生している。



しかし偶然的とはいえ、このようなイメージや意味が発生したのは、文字というシニフィアンそれ自体に視覚的イメージが備わっているからである。通常視覚的イメージはシニフィエの想起になんの影響も与えない。しかしそれは存在しないのではなくて、(ほとんど)透明なだけである。ある条件の中では視覚的イメージが働きはじめる。

たとえば知っている漢字を度忘れしたとき、われわれはその漢字のおぼろげな視覚的イメージをたよりに、それを思い出そうとすることがよくある。



安西冬衛の有名な句
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた
においては「てふてふ」という和語と「韃靼海峡」という漢語がはげしく衝突する。両者のあいだには、イメージ的な対立(はかない生命体と荒々しい自然)や音声上の対立(たどたどしい、どこか気の抜けた音と、漢語の強烈なリズム)、視覚的な対立(曲線的で簡素なひらがなと、直線的で稠密な漢字)がある。

「てふてふ」は、その反復性、不規則な曲線による構成によって、視覚的に、蝶が羽根をはばたき、蝶特有の、あのたどたどしい飛行の姿を想起させる。ひらがなの簡素さは(気の抜けた音声とともに)蝶の身体のもろさをも暗示している。

もう一つ指摘したいのは、「ふ」という字を書くときの手の揺れのイメージ、つまり不規則な中心線を書いたあと、左に、右にと揺れる手の動きのイメージが、蝶の羽根の動き、飛行のイメージと重なるということである。



つまり「てふてふ」というシニフィアンには視覚的イメージだけでなく、書記の際の手の運動のイメージもそこにはあるということだ。

運動イメージはやはり通常は(ほとんど)透明である。しかしあるコンテキストの中ではそれが偶然的に意味を帯びることがある。



記号はシニフィエという内容を伝えるだけではない。シニフィアンの視覚的イメージ、書記の際の運動イメージなども伝えることがある。

そうした要素を勘案した上で記号を考えたのがフロイトである。

彼は語表象を
1 音像
2 視覚性文字像
3 発語運動像 (発語された語についての発音器官の運動性の表象)
4 書字運動像 (字を書くときの肉体の運動性の表象)
の連合したものと考える。(「失語論」)私はソシュール流の「シニフィアン・シニフィエ」よりもフロイトの考えた語表象を出発点にしたほうが、はるかに実りある記号論ができると考えている。

2016年8月27日土曜日

80 キャサリン・ニュウリン・バート 「赤い髪の貴婦人」 

The Red Lady (1920) by Katharine Newlin Burt (1882--1977)

十八世紀の末から十九世紀前半にかけてイギリスではゴシック小説が大流行した。大きなお屋敷とか僧院を舞台に、超自然的な出来事が起きたり、背徳的な、あるいは血なまぐさい事件が展開するという物語である。たいてい美しいヒロインがいて、一人で怯えながら迷路のような建物の中をさまよったり、あやうい目に遭ったりする。

ゴシック小説の流行は十九世紀の中頃からセンセーション・ノベルの流行に取って代わられたが、ゴシック小説の型はそれ以後もいろいろな作家によって利用されている。イギリスのヴァランコートというゴシック小説やホラー、ミステリ、ゲイ小説といった、ややマージナルな作品を掘り起こしている出版社が最近、アーネスト・G・ヘナムの「バッカスの宴」を再刊したが、これもゴシック小説の名品である。

ミステリの中には大きな屋敷で連続殺人事件が起きたりするものがあるが、あれなどもゴシック小説の影響を受けたものと見ることができる。

「赤毛の女」もゴシック小説の骨法で書かれた作品だ。ノース・カロライナのあるお屋敷で奇妙な事件が起きる。この家にはミセス・ブレインが幼い息子とともに暮らしている。ミセス・ブレインの夫は死んでいるのだが、しかし亡くなる直前に彼は、この邸のどこかに宝物を隠したことをほのめかした。夫人は手を尽くして屋敷の中を調べたが、残念ながら宝物は見つからなかった。

そのうちに召使いのあいだに幽霊の噂がひろまった。夜中に壁の向こうから変な声が聞こえた、とか、真っ暗な廊下で幽霊とすれ違った、などと言い出したのだ。迷信深い召使いたちは怖れをなして仕事捨て、屋敷を出て行く。

この謎に立ち向かうのが、新しく家政婦として雇われたミス・ゲイルである。彼女は寄宿学校を出たばかりで仕事を探していたのだが、見知らぬ女にミセス・ブレインのことを教えられ、彼女の屋敷で働くことになったのだ。

彼女は若くて行動力があり頭も切れる。しかしその彼女も、夜な夜な現れる幽霊のことを知って愕然とした。赤毛の髪の毛といい、背格好といい、顔つきといい、彼女と瓜二つであったのだ。

この筋の運び方はなかなかうまい。今回このブログのために二十世紀前半のミステリをまとめ読みして気がついたのだが、物語の導入までは非常にうまく書いている作家が多い。本書は一九二〇年に出ているが、読者を物語に引き込む技術は相当に確立されていたのだろう。しかしどんなに出だしはうまく書いていても中盤、終盤はただの(古い)メロドラマに堕してしまうケースも多い。新しい形式を生み出すということはなかなか大変なことなのだ。

本書も最後のほうになるとメロドラマの色彩が強くなる。しかしそれでもなかなかに面白い作品であるとはいえるだろう。上の粗筋を読んだだけで大方の人は予想がついただろうけど、じつはミセス・ブレインのお屋敷には、彼女の夫が隠した宝物を狙って賊が侵入していたのである。このお屋敷の分厚い壁の中は空洞になっていて、そこに賊が忍び込み、邪魔な召使いを追い出していたのである。そしてこの賊がなぜ新しい家政婦とそっくりだったかというと……ここがいかにもメロドラマなのだが、そこは言わないでおくことにしよう。

本書を読んでいておやっと思った部分が一カ所ある。ミセス・ブレインがミス・ゲイルの二重性を指摘する部分だ。彼女は新しい家政婦に向かってこんなことを言う。「あなたは天使のように愛らしいわ。でもあなたの美しさは悪女の特徴を持っている。たとえば赤毛は悪女にこそふさわしい髪の色よ。あなたの瞳はグリーン・ブルーだけど、それはベッキー・シャープの瞳の色。薄くて赤い唇は酷薄そうにも見える」まるで平行線が交わるように、天使と悪女がミス・ゲイルの中で一致するというのだが、こんなふうに女性を反対物の一致として描き出すのはセンセーション・ノベルの代表作「オードリー夫人の秘密」の影響だろう。私は自分の訳書の解説で、このような反対物の一致をラカン派の精神分析の考え方と結びつけて解釈した。「赤毛の女」にも精神分析学的に興味深いところがいくつかあってしばらく考え込んだのだが、どうも考えがまとまらない。ただもう一二冊、この作者の作品を読んでもいいなと思わせるくらいには技量もあり、感受性の鋭さを見せている。

2016年8月24日水曜日

79 トム・クローマー 「待てども何もあらわれず」

Waiting for Nothing (1935) by Tom Kromer (1906-1969)

日本でバブル経済がはじけたころに「清貧の思想」とかいう本があらわれた。贅沢を止め質素に暮らそう、そこにこそ自由がある、といったような内容の本だ。こういう考え方をイデオロギーというのである。

最近はほとんど聞かなくなったが、以前は仕事を得るためにスキルを身につけようとか、あなたが良い職をみつけられないのはあなたの心構えに問題があるからだ、などとよく言われていた。これもイデオロギーだ。問題はあなたの内面にあるのではない。経済、社会の構造それ自体にあるのだ。ここ数年来、そのことが誰の目にも明らかになってきたので、こうしたご託を述べる輩は減ってきた。

トム・クローマーの「待てども何もあらわれず」は一九三〇年代、つまり大不況の時代に浮浪者の身分に陥った、もともとは中流階級の(しかもかなり教養のある)男の経験を語った作品である。この中にも上にあげたのと同じようなイデオロギーが登場し、浮浪者によってこき下ろされている。
 彼はポケットの中の新聞をたたいた。「この新聞の社説によると、この不況は人々の健康にいいんだそうだ。人々は食べ過ぎているのだそうだ。この不況のおかげで人々は神への信仰を取り戻しているだとさ。不況は人々に人生の本当の価値を教えるだろうと言っている」
 「クソ野郎が」緑色に変色した肉をかんでいた浮浪者が言った。「クソったれのクソ野郎が。そんな社説を書いた野郎の姿が目に見えるようだぜ。女房とガキの姿もな。やつらは食事のテーブルに着く。制服を着た召使いが椅子の後に立って食い物を渡す。やつらは終日ロールス・ロイスを乗りまわす。そんな男が炊き出しの列に並んでいるのを見ることがあると思うか。あるわけない。でもこのクソ野郎はこういうくだらないことを書いてみんなに読ませるんだ。人生の本当の価値だと? そんなに神への信仰を取り戻したいなら、どうしてロールス・ロイスをさびついたバケツと取り替え、炊き出しの列に並ばないんだ。クソめが」
ケチの付けようがない正論である。清貧の思想に感動する人は自分が置かれた社会的状況の特殊性に気づいていないのである。イデオロギーは社会が本当に齟齬を来しているところから人々の目をそむけさせるようにはたらく。

本作はミステリとはいいがたいが、社会の暗い側面を写実的に描いているという意味で多少ノワールの味わいを持っている。それに大不況の時代の浮浪者の実態など、この小説以外にどんな記録があるだろう。私は本書をすぐれた作品とは考えないが、貴重な意味を持つものとは思う。インターネットでいろいろ調べるとアメリカの大学の授業で本書を読んだという人もいるから、それなりの重要性を持っている作品と考えていいだろう。

語り手はトムという男だが、彼は作品中で自分の詳しい経歴などは語らない。ただもともとはまともな教育を受けた中流階級以上の人間だったと思われる。そして不況で金がなくなるとともにすべてを失ったようだ。彼は十二章にわたって浮浪者の生活のさまざまな側面を語る。警察、牢屋、炊き出し、強盗、売春、いずれも印象的で痛々しいエピソードばかりである。その中から二つを紹介し、ともども私の感想を述べておこう。浮浪者たちが墓地で焚き火をし、夕食を作ったり休んでいると、武装した警官たちがあらわれ、鍋を蹴飛ばし、浮浪者たちを墓地から追い出そうとする。もちろん浮浪者たちはこの乱暴なやり方に怒り、手に手に石や棍棒を握るのだが、危険を察した警官たちは銃を引き抜き、本気で撃つ構えを見せる。浮浪者たちは仕方なく墓地から移動する。そのあとある浮浪者はこう言う。
 「おれに銃があったら目にもの見せてやるんだが。銃さえあればあいつらをひどい目にあわせてやるのに」
 「おれも昔はそう思ったぜ」べつの浮浪者が言った。「だけど銃を握っておれは何をしただろう。何もしなかった。それだよ、おれがやったのは。ただじっとしていたんだ。浮浪者に何かをしでかす肝っ玉なんてないんだ。くさい炊き出しのスープを飲んで凍え死ぬしか能がないのさ。だから浮浪者なんだ」
自分を取り巻く状況に対して何もできないという無力感はこの作品に通底する感傷である。(ちなみに私は本書の「浮浪者」という言葉を「非正規」に何度も置き換えて読んだ)しかし語り手は過度の自己憐憫には陥っていないものの、厳しい言い方をすれば、彼はやはりどこかで自分たちの無力なありようにセンチメンタルに酔っている。それがこの本をだめにしているいちばんの原因なのだ。

第八章にはバスを待つ女たちの前で、道に落ちているドーナツを貪り食って、彼らの同情を引き、金をせしめる浮浪者の話が出てくる。もちろんドーナツはあらかじめ店で買い、バス停のそばの側溝に落としておくのだ。そして女たちが集まったところで彼はドーナツを拾って食う演技をしてみせるのである。この男はたっぷり金をせしめる。そして頭を使えば炊き出しの腐れスープなど飲まずにすむのだと、堂々とした態度で語り手に言う。語り手はこの男はすごいと感心するが、自分には女性の前で落ちているドーナツを食べることはどうしてもできないと考える。

坂口安吾風にいえば彼はまだ堕落しきっていないのである。堕ちきっていないから落ちているドーナツを食べる浮浪者のような威厳を持つことができないのだ。堕ちきっていないから棍棒で人の頭を殴り金を盗むこともできない。銀行強盗にも失敗するのである。そしてその無力さにいつまでも拘泥し、拘泥することに酔っているのだ。このナルシズムが私には鼻についてならない。

アゴタ・クリストフの「ノートブック」には、ミツクチとその母が飢えと寒さで死に掛けているとき、主人公の子供たちが牧師の家に押しかけ、彼をゆする場面が出てくる。子供たちは牧師から小額の金を受け取ると、これだけでは足りない、明日また来るという。
 「明日はぼくたちを家に入れてくれるまでベルを鳴らしますよ。窓をたたき、ドアを蹴り、あなたがミツクチに何をしたか、みんなに言いふらします」
 「わたしはミツクチになにもしちゃいないよ。彼女が誰かすら知らない……(中略)」
 「そんなことはどうでもいいのです。噂になればいいのです。スキャンダルはみんな好きだから」
 「なんてことだ。きみらは自分がなにをしているのか、わかっているのか」
 ぼくらは言った。
 「ええ。おどしているんです」
 「きみらのような歳で……なんとなげかわしい」
 「ええ、なげかわしいです。ぼくたちがこんなことをしなけりゃならないなんて。でもミツクチと彼女の母親にはどうしても金がいるんです」
こうして彼らは牧師から毎週金をせしめることになるが、ミツクチと母親の生活が立て直されると、金を渡そうとする牧師にこう言う。「そのお金は取っておいてください。あなたは十分にお金を出しました。ぼくらはどうしても必要だったからあなたのお金を取りました。でも今、ぼくらは十分にお金を稼いでいて、そこからミツクチにいくらかを渡すことができます……」

「ノートブック」の主人公が「絶対的に必要だから」という理由で見せるナルシズム抜きの行為こそ、浮浪者トムに欠けているものである。

2016年8月20日土曜日

78 ミルドレッド・ワート・ベンソン 「古いアルバムの謎」

The Clue in the Old Album (1947) by Mildred Wirt Benson (1905-2002)

ご存じナンシー・ドルーが活躍する一作。このシリーズの作者はキャロリン・キーンということになっているが、じつはいろいろな人が作品を書いていて(ベンソンも初期のナンシーのイメージを形づくった重要な書き手の一人だ)、全員をひっくるめてキャロリン・キーンと呼ぶことになっている。一九三〇年代から書き始められ、いまでも続いているようだから、ずいぶん長命なシリーズである。

ナンシーは上流階級の娘で、行動力があり、頭が切れ、人気者で、愛らしい。シリーズの最初の頃はこの「行動的」という点がナンシーの人気の秘密であったようだ。伝統的な女性観、やさしくて、おとなしくて、情緒的といった女性のイメージを打ち破ったところがよかったのである。また金に不自由はせず、おなじように金持ちらしき友人たちと車であちらこちらへ遊びに行くことができ、若いというのに名探偵として社会的に認められ、警察ですら彼女の言うことをきくわけで、年少の読者からすればナンシーには望ましい資質がすべて備わって見えたことだろう。

もっとも後の批評家はナンシーが上流階級の価値観にまみれていることを批判する。本書にはオークションでナンシーが古い時代のおもちゃを競り落とす場面があるのだが、いったい彼女はいくら小遣いをもらっているのだろうと思った。いくらでも自由に使っていいと父親から小切手帳をもらっているのだろうか。彼女に事件の解決を依頼したあるご婦人は、ナンシーに報酬を支払おうとするのだが、しかし彼女は事件を解決することじたいが私の報酬です、などと殊勝なことを言う。これもひっかかる言葉だ。彼女は捜査のために方々へ出かけているし、人形やらアルバムやらも購入している。タクシー代だって相当にかかっているはずなのだ。それでも報酬はいらないなどといえるのは、家にそれだけの金があるということである。そういうところがどうにも鼻についてならない。

本書はかなり荒唐無稽な話になっていて、事件が終わってからもう一度その経過を振り返ってみるといろいろあらが目に付くのだが、まあ、子供向けの話だからそこは見なかったことにしよう。しかしアメリカ征服を目論むジプシー集団とか、生命を持った不思議な物質などという奇想天外な設定には、今は子供だってだまされないだろう。

しかしいちばんひどいのは都合のいい偶然があまりにも多すぎることだ。ナンシーが手掛かりがほしいと思っていると、たまたま入ったお店でその手掛かりが見つかり、味方がもう一人ほしいと思っていると、ひょっこり道路の向こうから昔の知り合いが歩いてくるといった具合で、このご都合主義の筋立てにはあきれるしかない。

事件が次から次へと起こるので飽きることはないのだけれど、登場人物の心理にわけいったり、それぞれを個性的に描き分けることはなく、ただあわただしく筋の展開を追っているばかりのような気もした。ナンシーと、本編の副主人公ともいうべき少女ローズですらその描かれ方は一面的、あるいは戯画的で、ほかの人物にいたってはまるで印象が残らない。

あらばかり書き立てたが、実際本書はほかの作品と較べてそれほどよい出来とはいえないと思う。

簡単にあらすじをまとめておこう。裕福なストラザーズ家には娘がいた。彼女は家族の反対を押し切ってジプシーの音楽家と結婚した。ところが夫が家を出て行ってしまい、娘は子供(つまり娘の親にとっては孫にあたる)ローズを連れて実家に戻ってくる。娘のほうはそれからほどなくして死んでしまうのだが、以後ストラザース家とローズの身に不思議な事件が降りかかりはじめる。たとえばミセス・ストラザーズは音楽会の最中に財布を盗まれたり、彼女が収集している古い人形を盗まれたりする。そのうえジプシーと思われる怪しげな男女が彼女の家の付近をうろつくようになるのだ。ミセス・ストラザーズは偶然知り合ったナンシー・ドルーに事件の解決を依頼する。事件を解く鍵は彼女の娘が死に際に残した不思議な言葉と、彼女のアルバム帳にあるようだ。ナンシーは捜査をジプシーたちに邪魔され、脅迫されるだけでなく実際に危険な目にも遭うのだが、そのたびに彼女は持ち前の行動力で窮地を切り抜けていく。まあ、ざっとこんな話である。

ジプシーを悪者扱いするなんていかにも時代を感じさせる。現在書かれているナンシー・ドルーものはどんな内容になっているのだろう。格差問題なども扱っているのかしら。

2016年8月17日水曜日

77 エドガー・ウオーレス 「銀の鍵」

The Clue of the Silver Key (1930) by Edgar Wallace (1875‐1932)

どういうわけかエドガー・ウオーレスの本は、その量に比して翻訳が出ていないという印象がある。たしかに現代のミステリに慣れた目で見ると時代がかっているけれど、ウオーレスの生きのよさ、活気あるストーリー・テリングは十分に今でも楽しめるはずだ。彼は「文学」などといった高尚なものには目もくれず、ひたすら大衆受けのするB級作品を書き続けた男である。それゆえ彼の作品には社会批評などといったものはなく、時代のイデオロギーに迎合した作品も少なくない。しかし読者を物語りに引き込まずにはいないある種の熱気に満ちていて、それはいまの読者にも十分伝わるのではないだろうか。

「銀の鍵」もウオーレスらしさが全開の一編で、非常に楽しかった。彼は一八九八年にはじめて詩の本を出版し、一九三二年に亡くなっているから、本作は晩年の作品ということになる。しかし晩年でもこれだけ勢いのある作品を書くというところがウオーレスのすごいところだろう。(「書く」というのは正確じゃないかもしれない。ウオーレスは多くの作品を口述していたらしいから)

本作のプロットを要約するのは難しい。結構筋が入り組んでいるのである。そこで思い切って枝葉を刈り取って幹の部分だけを紹介する。金貸しをして大金持ちになったハーベイ・リンという老人が殺害される。彼は足が不自由で、車椅子に乗って召使と公園を散策していたのだが、その最中に銃で背中を撃たれて死んだのである。撃った人間はわからない。では、なぜ殺されたのか。それはシュアフット・スミスという、「デカ」という呼び名がいかにも似つかわしい刑事によって徐々に判明するのだが、じつは何者かが金貸しの銀行口座から金を騙し取っていて、それがばれそうになって犯人がリン老人を殺害したのである。金をだまし取る機会を持っていた人間は誰か。また公園で金貸しを撃つことのできた人間は誰か。二人の重要容疑者が捜査線上に浮かんできた。一人は突然休暇をとって行方をくらました銀行家である。もう一人は、リンから金を借り返せないで困っている貴族のドラ息子である。ところがスミス刑事の捜査の結果わかった真犯人は……。

私はてっきり銀行家が犯人と思っていたのだが、真犯人は一秒も考えなかったある男だった。これにはびっくりした。手がかりがすべて提示されているパズル・ストーリーではないので当てることは難しいのだが、しかしそれでもうまくやられたという感じがする。ゲームやスポーツで相手にうまくやられたときは悔しくなるものだが、ミステリにおいてうまくやられたときは気分が爽快になる。私は久しぶりの爽快感を味わった。

私のまとめだけを読むと単純な話のように思えるが、さっきも言ったように、このメイン・プロットにはさらにいくつかのサブ・プロットがくっついてくる。ロンドンのある劇団を金銭的に支援する奇特な金持ちの話、犯人の正体を知ったために殺された浮浪者の話などである。こういう脇筋がからみあって展開するので、話は決して単調にはならない。

ちょっと面白いのはウオーレスですらミステリの紋切り型を厭わしく思っていたような記述がみつかることだ。
 シュアフット・スミスは溜息をついた。「これじゃまるで小説みたいだな。俺は小説みたいなのが嫌いなんだ。ロマンチックなんだよ。ロマンチックなものは胸くそ悪い。だけどこれはしょうがない、お嬢さん、あんたの言う通りにするよ」
あるいはスミスが犯行現場で犯人が落としたボタンを発見した場面。
 彼は不意に立ち止まって屈み込み、床から何かを拾い上げた。真珠でできたチョッキのボタンだ。「こういうことは小説の中でしか起きないものだ」彼はボタンをひっくり返して見ながら言った。
こんな具合にメロドラマ的なロマンスや偶然を毛嫌いしているのだが(そしてスミス刑事がハードボイルドを気取るのもメロドラマ的なものから離れようとする作者の意図のあらわれのように思われるのだが)、しかし結局ロマンスも偶然も起きてしまう。ウオーレスは暴力的だとかコロニアリズムだとか批評性がないとかいろいろ非難されるけれども、私がいちばん物足りなく思うのは、なんだかんだ言ってもやっぱりメロドラマの枠内に収まってしまっていて、その枠を変質させようとか、変更する気がまるでないところなのである。まあ、大衆的な作家というのはそういうものだけれど。

2016年8月13日土曜日

76 レビアス・ミッチェル 「パラシュート殺人事件」

The Parachute Murder (1933) by Lebbeus Mitchell (1879-1963)

作者の詳しい経歴はわからない。子供向きの本や、カーク・キマーソンという俳優を主人公にしたミステリをいくつか出しているらしい。一応プロの物書きなのだろうが、しかし「パラシュート殺人事件」はずさんな出来だと思う。探偵の推理は期待させるほどのものではないし、犯人が分かってから物語を振り返ると、不整合な部分がいくつかあることに気づくからである。

事件はこんな具合にはじまる。チャドウィック・モーンはニューヨークで活躍する舞台俳優で、常に自分の名前が新聞雑誌に取り上げられることを望んでいる。ここしばらく芝居でヒットを飛ばしていない彼は、売名のために一計を案じる。まず、旅行に行くために飛行機に乗る。つぎに飛行中の飛行機からパラシュートをつけて飛び降りる。着地した後は数週間行方をくらます。こういう派手な失踪劇を演じれば、彼の名前は毎日新聞に載るだろうというわけだ。

ところが計画を実行した彼は、翌朝、パラシュートに包まれた死体となって発見された。銃殺されたようである。警察は三つのシナリオを考えた。(1)モーンは着地した後銃殺された。(2)パラシュートで落下中に銃殺された。(3)飛行機内で殺され、パラシュートをつけて機外に放り出された。いずれのケースかによって犯人が変わってくるのだ。

本件の解決に当たるのは、これまた役者のカーク・キマーソンである。地方検事から探偵の才能を認められ、今回の捜査に特別に抜擢されたのだ。彼は役者らしく一風変わった推理・捜査の仕方をする。被害者と顔つきや服装やしぐさを似せて彼と同一化し、彼がどのように考えるかということを直感的に知ろうとするのである。
ぼくはモーンの立場に自分を置きたいんだ。できることなら精神的にも、感情的にも。彼に関するすべてを調べだし、それを煮込んで、上に浮かんできた灰汁を取り除き、残ったものを研究する。もしもモーンとおなじように感じることができ、彼の皮膚の内側に入ることができたら……
こういう方法論を述べる探偵はキマーソンのほかにもいろいろいるが、本作がいただけないのは、彼独特の人格研究がいっこうに捜査の役に立っていないことである。彼は作品の中で二三度、被害者のモーンに化けて召使たちをびっくりさせたりしているが、それでなにかわかったかというと、じつはなにもわからないのである。せいぜい事件の容疑者のリストに一人の女を付け加えた程度の成果しかなかった。このことは探偵自身も自覚しているようだ。
 「で、今晩チャドウィック・モーンの物まねをして、どういうことがわかったのかね」ブレイクはかすかな皮肉をこめて聞いた。
 「残念だが、ご想像の通り、なんにもわからなかったよ」
被害者あるいは犯人と心理的に同一化をはかろうとする捜査方法は、私の知るかぎり、どの作品でもつまらない結果に終わるものだが、本書においては、そもそも結果すら導き出されていないのである。探偵は何度も自分の特異な方法論を説明しているのだが、まったく期待はずれに終わってしまった。

もう一つこの作品の難をあげておこう。探偵は物語の後半に入ると姿を消す。これは敵(つまり犯人)が彼の行動を見張っていて、居場所がばれると殺される可能性があるからだと説明がなされている。私はびっくりした。一人の人間であってもその行動の一部始終を見張り続けるには相当の人力と労力がかかる。そんな金銭的余裕があり、組織力のある犯人とはいったい誰なのだろう、と。

ところが最後に指摘された犯人たちを見ると……とてもじゃないが、そんなことができたとは考えられない人々なのである。だいたい罪がばれるや、すぐさま毒を飲んで自殺してしまうような気の弱い連中なのだ。それではなぜ探偵は身の危険を感じるなどと言ったのか。これはもう、ただ単に作者が話を盛り上げようとしてそういうことにしたというだけなのである。

細かいことは書かないけれど、この作品には「そんなことはありえないだろう」と思えるようなエピソードがいくつか混じっている。文章を見ればアマチュアの書き手でないことはわかるのだが、しかし物語のつくりがあまりにもいい加減ではないかと思った。

2016年8月10日水曜日

番外15 小レビュー集

このブログではすでに読んだ本のレビューは書かないことにしているが、ぜひとももう一回紹介したいと思う作品もある。そこですでに書いた短いレビューを番外編として掲載する。今回は二編。

(1)Sleeping Waters (1913) by Ernest G. Henham (1870-1946)

Ernest G. Henham は John Trevena というペンネームでも小説を書いていた人だ。一週間ほどかけてこの人の Sleeping Waters という長い小説を読んだ。これだけのものを書ける人が、どうして今は忘れ去られた作家になってしまったのだろう。

物語はこんなふうにはじまる。ローマン・カトリックの牧師アンガーは、ロンドンのスラム街で慈善活動をするうちに健康をそこね、療養に Dartmoor へおもむく。そこの空気はすばらしく、彼はたちどころに健康を回復し、その若さにふさわしい活力をみなぎらせるようになる。

元気になったアンガーは、彼が療養している村で、あくどい土地買収が進行していることを知る。悪徳弁護士が中心となって、村人たちの無知をいいことに、彼らがもつ土地を入手し、それを転売して大もうけしようとしていたのである。

正義感にあふれるアンガーは、この悪者共に立ち向かう。しかも悪徳弁護士とはひとりの美しい女性を奪い合うことになるのだから、この戦いは熾烈である。(ちなみにローマン・カトリックの牧師は結婚を許されていない。それゆえ、アンガーとこの女性の恋は道ならぬ恋であって、これがまた問題を引き起こすことになる)

悪徳弁護士はイアーゴのように狡猾で、アンガーを窮地に追い詰める。はたして二人の対決はどういう結末をむかえるのか。アンガーと美女の関係はどうなるのか。読者はその暴力的な帰結に驚き、さらにそのあと、どんでん返しをくらって、もう一度驚くことになる。

正直にいうと、ぼくは小説の前半部分を読みながら、ずいぶん妙な小説だなと思った。アンガーは療養していきなり太り、筋肉をつけるし、その水を飲むと病気が直るという、おとぎ話のような泉の話が出て来たりする。(これがタイトルの Sleeping Waters といわれるもの)しかしそうした不可解な印象は、どんでん返しによって一気に解消する。これから読む人の楽しみをそこなわないよう、あいまいな書き方しかしないけれども、このどんでん返しによって、暴力をうちに孕んだそれまでの物語が、平穏な日常の陰画であったことがわかるのだ。われわれの生活の水面下に潜んでいるもの、見えない光景を垣間見せようとした力作であると思う。

(2)Trustee from the Toolroom (1960) by Nevil Shute (1899-1960)

最近、ネヴィル・シュートの作品を読みあさっているが、カナダのプロジェクト・グーテンバーグから Trustee from the Toolroom が出たので読んでみた。シュートのファンのあいだではもっとも人気のある作品らしい。

主人公はキースという modeller である。modeller というのは自分で金属を加工して模型を作る人だ。たとえばキースは小型エンジンを搭載した汽車とか(エンジンも手作りだ)、時間を計測する時計のようなものを造っている。彼はこうしたものを実際に造り、その作り方を雑誌に発表して modeller としては世界的に名を知られている。しかし収入は原稿料しかなく、妻がはたらきに出なければ生活が成り立たないくらい貧乏だった。

キースにはジョーという妹がいて、彼女は裕福な退役軍人と結婚していた。彼らはカナダに移住しようとして、小さい娘をキース夫婦のもとにあずける。まず夫婦がヨットでカナダまで行き、住む場所をととのえてから娘を呼び寄せようというのである。

このときジョーと夫はある違法な行為を行った。当時イギリスには、国内のポンドを海外に持ち出してはならないという法律があったのだが、ジョーたちは莫大な彼らの資産を宝石に変え、それを箱に入れて、ヨットの船底の穴にコンクリートとともに埋めたのである。その作業を彼らはキースに頼んだのだ。

かくして妹夫婦はヨットで大西洋を渡ろうとしたのだが、あにはからんや、嵐に遭い、タヒチの近くで二人とも死んでしまう。

妹の娘の後見人であるキースは、ヨットの船底に埋めた宝石を取り戻し、養女となったジャニスの教育費と確保したいと思うのだが、なにしろ貧乏でタヒチに行く費用など手もとにあるわけがない。

しかしそこで彼を救ったのが、世界中にいるキースのファンたちだった。彼らの好意により、キースは飛行機でハワイに行き、ハワイからヨットでタヒチに向かい、さらにアメリカのファンにあって彼らの仕事を手伝い、とうとうイギリスの自分の家に帰り着く。

この作品には作者シュートのエンジニアとしての知識がぎっしり詰まっている。ヨット旅行の描写も、ほかの作品に比べて迫真的で、さえている。ヨット、飛行機、模型制作と、シュートのエンジニアとしての知識があふれんばかりに活用された作品、という意味で、シュートのファンにとってはたまらない一作なのだろう。寒いイギリスと、暑いハワイやタヒチの対比もおもしろい。しかし、ぼくとしてはいまひとつ物足りない小説だった。それは登場人物の性格が単純で、物語を通して変わることがないからである。これはシュートのほかの作品にも共通する欠点である。

ぼくたちの生活は今や科学技術抜きでは語られない。小説だって科学技術的側面を扱わざるを得ない。そのときシュートは、エンジニアとして、じつに模範的な科学技術の描き方をしてみせた。その描き方にアンソニー・バージェスは感服し、シュートを1939年以降の代表的な英語散文の書き手として認めたのだろう。

しかしシュートは小説家としては未熟だったといわざるをえない。物語が質の悪いメロドラマになってしまうのは、かえすがえすも残念だ。

2016年8月7日日曜日

75 J.S.フレッチャー 「ボルジアの箱」

The Borgia Cabinet (1932) by J. S. Fletcher (1863-1935)

フレッチャーといえば「ミドル・テンプルの殺人」(1922)とか「パラダイス・ミステリ」(1921)とか、それなりに人気のある作品を書いた人だ。しかし私自身はさほど興味を持っていない。はっきりいって凡庸な作家だと思う。「ボルジアの箱」を読んでもその印象は変わらなかった。

「ボルジアの箱」というのは最初の殺人が行われるサー・スタンモアの屋敷にある毒薬を納めた小箱のことである。サー・スタンモアの妻の父親が軍医で、なんと死んだときに毒薬の箱を娘に残したのである。奇人の側面を持つサー・スタンモアは、それを面白がって妻の反対にもかかわらずそれをガラスの戸棚に入れて飾っていた。ボルジアという名前はもちろん悪名高いイタリアのボルジア家から来ている。とくに政敵たちを毒殺したことでよく知られている。

この物語の核となる部分を要約すると、サー・スタンモアは遺書の内容を変更しようとしていたのだが、それによって不利益をこうむると思われる人々(これが結構大勢いる)の誰かが彼を、「ボルジアの箱」に入っている毒で殺し、遺書の変更を許さなかった、ということである。スコットランド・ヤードの若手刑事チャールズワースは、サー・スタンモアの親族たちを調べ上げ、さまざまな手がかりからある女性を犯人と見込むのだが……もちろん、最後にはちょっとしたどんでん返しが待っている。

フレッチャーは物語ることが上手な作家である。事件を展開させる部分と、一度立ち止まってそれまでの進展を振り返り要約する部分が、ちょうどいい具合に按配されている。読者はなんの負担も感じることなく、すらすらと作品を読み進めることができる。

しかしこの「すらすら」にはある種の物足りなさも付きまとう。たとえばサー・スタンモアが殺されて検死をした医者は、「これは毒殺である。みずから毒をあおったのではない。誰かに毒をもられたのだ」と断言する。読者は当然、どうして医者はサー・スタンモアの死を他殺と判断したのだろうと、その根拠を知りたいと思うだろう。自殺か他殺かでは、事件の様相が大きく異なることになる。その肝心な点を検視官はいかに確信したのか。ミステリ小説なら当然、そのことを説明すべきである。ところが作者は、医者がそう判断した、ということを繰り返し書くだけで、具体的な医者の判断内容についてはなにも教えようとしない。

また、サー・スタンモアが遺書の内容を変更しようとしていることが、なぜ外部の人にもれたのか、とか、毒物の箱が、誰もが手に触れられるような場所に置かれていたのはなぜなのか、などといった、この本を読めば誰もが感じる疑問も、サー・スタンモアが奇癖の持ち主であったということで説明されてしまっている。サー・スタンモアは性格的にまことにいい加減なところがあり、遺書の内容を記した紙を机の上に放り出しておいたり、貴重な宝石を預かっても無造作にポケットにつっこんで持ち運んだりする。毒物の箱も、ただ珍品であるというだけで、客にも見せるし、鍵もかけてない棚に放置してあったのである。私もずさんなタイプなので、こういう人間がいないとは言わないが、しかしサー・スタンモアは現役ばりばりの法律家なのだ。法律の専門家が遺書のような重要な書類を机の上に投げ出しておくだろうか。

もう一つ、作者はなぜサー・スタンモアが遺書を変更しようとしたのか語ろうとしない。一応、最初の遺書で多額の遺産を与えることになっていた人々が、実は彼が思っているような人々ではなかったことがわかり、かっとなって遺書を変更したのだ、ということになっている。しかしその点が問題になるたびに作者は口を濁し、とにかくそういうことらしい、といって済ましてしまう。それが繰り返されるたびに、なぜ作者はこんなあいまいな書き方をするのだろうと不思議な気になった。

「ボルジアの箱」は簡単に読めて、一応最後にはどんでん返しというミステリらしさもそなえている娯楽作品だが、そのわかりやすさはある種の強引な省略や、不自然さを基いにしてつくられたものだと思う。
 

2016年8月3日水曜日

74 ハーバート・クルッカー 「ハリウッド殺人事件」

The Hollywood Murder Mystery (1930) by Herbert Crooker (?-?)
 
インターネットの IMDb サイトによると、ハーバート・クルッカーはシナリオ・ライターやプロデューサーとして活躍した人らしい。本作もシナリオ・ライターが語り手で、その友人である探偵クレイ・ブルックがハリウッドの若手女優殺人事件を解決する。

話の筋をごく簡単にまとめておく。元ダンサーの、とある若手女優がカメラ・テストを受けたあと、スタジオ内で殺される。スタジオにはいろいろな人が出入りしていたが、その隙を縫っての事件だった。死体から宝石がなくなっていたため、物取りのしわざかとも思われたが、スタジオの別の部屋から宝石が見つかったため、ただの強盗殺人事件ではないことがわかる。

探偵のクレイ・ブルックは地方検事の要請を受けて捜査に参加する。

殺された女優は高慢ちきだが、なかなか魅力があって、いろいろな男性と関係があった。彼女の映画出演を金銭的に支えていた百万長者、映画界に進出する前にダンスでパートナーを組んでいた若い男、秘密裡に結婚していた男などなど、彼らは嫉妬や関係のこじれといった動機で女優を殺したのではないかと疑われたが、決定的な手掛かりは見つからなかった。

そのうちに事件関係者が殺されたり行方不明になったりして、地方検事は無能っぷりを新聞にたたかれて頭を抱えるのだが、しかし探偵のクレイ・ブルックはすでに真相を見ぬいているかのように平然として捜査を進めて行き、最後に犯人をおびきだすための大芝居を打つ。

これは素人の作品ではない。文章作法を心得た、プロの書き物だ。しかしミステリとしての出来はどうかというと、まあ普通といったところだろう。最後まで面白く読めるけれども、あまり印象に残らない。

いや、一点だけ妙に気になることがある。それは文学者や文学作品の名前が頻出する点である。探偵のクレイが仮装パーティーに出席して「ぼくは年甲斐もなくイートンの生徒の恰好をしているんだ。『トム・ブラウンの学校時代』は読んでいるだろう?」と言う部分がある。英文学の知識がない人向けに説明すると「トム・ブラウンの学校時代」は学生生活を描いた小説のはしりとして名高い作品である。それを読みながら、私はあれっと思ったのだ。そういえばこの作品には妙に文学作品の名前が出てくる。殺された女優はベリリン・ボバリー、そう、あの「ボバリー夫人」のボバリーだ。彼女は生前、モンテ・クリスト鉱山の株を買っていて、それが事件を解く一つの鍵となる。オー・ヘンリーやらシェイクスピアやらリチャード・ハーディング・デイヴィスとかの名前も出てくる。もちろん語り手はシナリオ・ライターなのだから、文学にはある程度通じているのだろう。しかし探偵のクレイまで「物語」を意識しているのはどういうことだろう。
 「ぼくは狡猾なヴィドック流の推理方法、まだ見つかっていない犯人を捜すために帰納法的推理を用いるよ。これまでは目の前にあらわれた手がかりから論理的に犯人を追い詰めようとしてきた。これからは犯人や動機などを想定することで捜査を進める。犯人はああしただろう、こうしただろう、こんな動機を持っていただろうと想定する。それからぼくの想定が正しいことを証明するのさ」
ヴィドックは実在の人物で「ヴィドック回想録」(1827年)で有名な人である。あるいは探偵はこんなことも言う。
 「君は笑うかもしれないけど、殺された女優ボバリーについて、ぼくはデュマの『三銃士』に出てくるある挿話を思い出しつづけているんだ。アルマンティエールの近くで行われたミレディの血なまぐさい殺害の挿話を覚えているかい?」
なぜこんなに「物語」を意識しているのだろう。ことあるごとに物語を引用して人間の振る舞いの意味を説明しようとする作者は、まるであらゆる現実・人間行為は、パターン化・物語化されているとでも考えているみたいである。それほどたいした作品ではないと思うけれど、しかしこういうふうに物語を意識している物語というのは妙に気になる。

2016年7月31日日曜日

73 H.L.ゲイツ 「殺人の家」

The House of Murder (1931) by H. L. Gates (1878-1937)
 
この本は過剰なくらいにメロドラマが詰め込まれているという点において、以前番外でレビューしたマックス・アフォードの「暗闇のふくろう」に似ている。一九三〇年代に入って、メロドラマ形式のミステリを書くなど、やや時代遅れな感じがするが、しかしなりふりかまわずその形式を極端なところまで突き詰められると、かえって変な魅力を感じてしまう。この季節外れの異常な通俗性はなにを意味しているのだろうか。

物語は主人公がいきなり死体と直面する場面からはじまる。バジル・タウンはアメリカ人で宝石の取引に携わっている。あるときフランスに呼ばれ、金に困ったある男爵夫人から真珠のネックレスを買い受けることになった。ところが、男爵夫人の家に着いてベルを鳴らし、ひょいと横を向いたら、窓から室内が見え、そこに男爵夫人が倒れているのである。彼を玄関まで迎えに来た女中と部屋の中に駆け込むと男爵夫人は射殺され、真珠のネックレスは奪われていた。

私はこの最初の部分を読んだとき、ちょっと顔をしかめた。殺人死体の発見場面から語りはじめることで、読者を一気に物語りに引きずり込もうとするのはいいが、なにしろ文章が荒っぽい。いかにも素人の書き方なのである。しかも設定が大時代だ。このあと男爵夫人の殺人がスワン(白鳥)と呼ばれる名代の女盗賊と、その手下「アヒルの嘴を持つ男」のしわざであるとわかると、フランスきっての名探偵ジロフが事件解決のために乗り込んでくるのである! これだけ読んでもたいていの人は辟易とするのではないだろうか。

だが、バジルをはじめ事件関係者が「死の家」と呼ばれる古びた屋敷に集められ、そこで連続殺人が展開されるようになると、作者の文章は奇妙なつやを帯び、熱気をはらみはじめる。そして臆面もないメロドラマがくりひろげられるのだ。ネタをばらしたくないからこれ以上は筋に触れるのをやめるが、これはもう話の整合性なんか度外視した、あきれるような愛と狂気の物語である。

こういうインパクトの強い物語だから、登場人物も、今風のことばで言うと、「濃い」キャラクターの持ち主ばかりである。検視官のマルサックは巨体の持ち主で、とてつもなく声が響き、不謹慎なくらいに冗談ばかりを言っている。本書のヒロインともいうべきジャックリーンはピストルの名手で、意志が強く、人を寄せ付けない凛然とした雰囲気をただよわせている。彼女の召使いギヨームは銃で手を撃たれても平気な頑健な身体を持ち、神出鬼没でまことに不気味。しかしきわめつけは名探偵のジロフである。口ひげを生やし、眉はもじゃもじゃで、顔の表情によってVの字になったり、Vをひっくり返した形になったりする。我の強い男で、なにかというと「私はジロフである」と豪語して胸をたたくのである。
 「聞きなさい。申し上げましょう。わたしが愉快そうにしているのは、これから起きる出来事を予感してのことです。今晩、この屋敷の中には女怪盗スワンがいる。彼女の命を受けてアヒルの嘴もすぐ近くにいる。わたし、ジロフは彼らを捕まえるでしょう。ムシュー・タウン、あなたはわたしの捜査を大いに助けてくれた。礼を言いますぞ。ジロフが礼を言うのですぞ」
名探偵はこんな具合にしゃべる。あまりにも芝居がかったものの言い方に、私は頭がくらくらした。

goodreads.com のサイトを見ると、この本と、この本の内容とよく似た Death Counts Five という本を読んだ人がいて、本の評価として五つ星を与えている。ゴシック風のお屋敷で起きる連続殺人事件が独特の雰囲気とともに描かれているのが面白かったらしい。たしかにこの極端なメロドラマ性には変な魅力がある。ある種のB級映画が持っているような妙な魅力が。

2016年7月28日木曜日

72 ジョン・G・ブランドン 「ソーホー殺人事件」

A Scream in Soho (1940) by John G. Brandon (1879-1941)

gadetection サイトの情報によると、作者のジョン・ゴードン・ブランドンはオーストラリアの出身で、もともとはプロのボクサーだったが英国に渡り、「ザ・スリラー」などの雑誌に大量の短編、長編小説を書い人だそうだ。ちょっと凝った文章を書く人で、sartorial splendour とか Cimmerian blackness なんて文学的で高尚な表現が出てきたりする。

物語は第二次世界大戦中の、灯火管制下にあるロンドンを舞台にしている。ある晩、灯火管制のため真っ暗になったソーホーの広場に叫び声が響き渡る。近くに住むニュー・スコットランドヤードの警部マッカーシーと巡邏警官が駆けつけると、とある建物の前に血だまりが見つかる。しかし死体はどこにもない。叫び声がしてまだ数分しか経っていないから、犯人はまだ遠くへ逃げてはいないはずだ、もしかしたら犯人は死体とともに建物の中にいるのかもしれないと考え、警部は広場の出口に警官を配し、建物の中に入ろうとする。しかしその手配をしている最中に、彼はあやしげな男に目を留め、いつも自分の勘を信じる警部は彼の跡をつけはじめる。途中で警部は手下のちんぴら(警部は組織の中に部下を持つだけでなく、犯罪の情報などを仕入れるためにちんぴらたちをてなづけているのだ)に出くわしたので、尾行の役を彼にまかせて自分は広場に戻ってくる。するとどうだろう、広場の裏門で見張りをしていた警官が殺されているではないか。警部が広場を離れているあいだに犯人は警官を殺し、広場から逃げ出したのだ。

出だしはこんな具合だが、この殺人事件の捜査をする過程でマッカーシー警部はドイツのスパイがイギリスの軍事機密を盗み出そうとしていることを知り、それを身をもって阻止する、というような話に展開していく。

殺人事件を捜査する前半部分はいかにも detective fiction といった物語になっているが、後半に入ってマッカーシー警部がドイツのスパイ団と対決する部分に入ると、とたんにアクション・スリラーに変化してしまう。マッカーシーは敵のアジトに乗り込み、屈強のドイツ軍人を相手に派手な殴り合いを展開するのである。知的な遊戯を期待していた私はこの展開を残念に思ったが、しかしこの殴り合いのシーンにはちょっと迫力を感じた。
マッカーシーは虎のように飛びかかり、相手が発したかもしれない叫び声は強烈な一撃によって口の中に押しとどめられた。その一発で唇はめくれ、歯茎までが剥き出しになった。
原文のスピード感をうまく訳出できていないが、しかし最後の部分に元ボクサーらしいリアリズムがあることはおわかりになるだろう。こういうちょっとした描写が文章を生き生きとさせるものだ。

しかしボクサーとしての血がこういう場面を作者に描かしめたのかというと、どうもそれだけではないだろう。やはりわたしはこの小説には政治的な作意、時局への迎合があると思う。つまり純粋な detective fiction ではなく、途中からアクションものに転じたのは、ドイツ人をフィジカルにたたきのめすことで、イギリス国民、とりわけ粗野な愛国心に燃える人々にカタルシスをもたらそうとする意図があったと思われる。フー・マンチューものが黄禍論という偏見のもとに書かれたように、本作はイギリスの敵国への憎しみのもとに書かれた作品である。

以前レビューしたヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」には、ヒトラーの中に帝国主義的イギリスの分身を見る視線があった。それはさほど深遠な認識とはいえないけれど、それでも単純な善悪では割り切ることのできない局面が戦争の中に含まれていることを示しはしている。こういう認識すらない作品は、私は正直、あまり興味がもてない。

最後に、灯火管制とスパイ活動を結び合わせた作品としてJ・B・プリーストレイの Blackout in Gretley をあげておこう。上出来の作品とは思わないが、本書よりもはるかに質が高く、一読して損はない。

2016年7月24日日曜日

71 ハリエット・アッシュブルック 「不道徳殺人事件」

A Most Immoral Murder (1935) by Harriette Ashbrook (1898-1946)

私はユーモアや諧謔に満ち、テンポの速いミステリが好きだが(べつに重厚な作品が嫌いというわけではない)、本編のオフ・ビートなユーモア感覚と、複雑な筋を軽快に展開させる手際は、まさに私の好みである。アッシュブルックなど名前も聞いたことがなかったが、今後は大のお気に入りの作家になるだろう。彼女の作品は十数冊しかないから全部読んでいちばん出来のいいものを翻訳するかもしれない。ジョイス・ポーターやクレイグ・ライスに負けないだけの面白さを持っていると思う。複雑なプロットを構築する腕前は彼らより上かもしれない。

彼女のユーモアはミステリというジャンルそのものに向けられている。
 たとえば銃口から煙が出ているピストルを手に死体を見下ろし、顔には悪鬼のような表情を浮かべている男がいたとする。彼は決して殺人者ではない。(いつかミステリ作家はこの伝統をやぶって第一章で現行犯逮捕された男を真犯人にするだろう。そうしたら誰にも犯人は当てられない)
これを読みながら、そういえばクリスティの作品の中にはそんなのがあったなあ、とか、ノックス神父の十戒を一つ一つ破っている短編小説集があったな、とか、いろいろ感慨にふけってしまった。ミステリに読み慣れた人なら誰でも考えるようなことだけど、しかしアッシュブルックはミステリが黄金時代を迎えている最中にこのコメントを書いていたのである。

こんな一節もある。
 どんな薔薇にも棘がある。
 どんな人生にも雨の降る日がある。
 最上の殺人物語にも退屈な瞬間がやってくる。事実……照合と再照合の詳細……ドアから窓まで、窓から煖炉までの距離……時計が十時を打つのを聞いたのは誰か。
 読者はあきらめて、読みづらい思いに耐えなければならない。それは面白くないが、必要なのである。
作者はこう前置きして事件の細かな事実を語りはじめる。これがモダニズムの影響(ジョイスとかオブライエンとか)なのかどうかはわからないが、とにかくアッシュブルックの書くミステリは、ミステリというジャンルに対して自意識的であり、そこが大きな特徴となっている。

物語の主人公はフィリップ・スパイク、二十九歳。彼はサーク・アイランドに住む裕福な独身男だ。兄貴が地区検事長をしている関係で、警察の仕事を手伝うこともある。仕事は特になく、気まぐれで、いつも暇をもてあましている。彼にはパグという執事がついている。パグは元ボクサーで、ウッドハウスの小説を読みながら執事の仕事のなんたるかを勉強している。

二人はこんな具合にして知り合った。あるときボクシングの試合が行われていたのだが、どちらの選手も慎重で、相手の出方を見るばかり、なかなか打ち合いにならない。観客はいらいらしてきてブーイングの嵐となる。選手は試合を中断して、そんなに文句を言うならリングに上がってこいと挑発する。それに応じて二人の酔っ払いがリングにあがり、選手にぼこぼこにされてしまった。この二人がスパイクとパグなのである。そのとき以来、パグはスパイクの家で執事として働いている。このエピソードから二人がどういう人間か、だいたい見当がつくだろう。

さて事件はある嵐の晩にはじまる。スパイクの家に三十四五歳と思われる女が、全身ずぶぬれ、熱を帯び意識も朦朧とした状態で飛び込んできたのだ。話など聞けるような状態ではなかったので、スパイクとパグと料理女のパーソンズはとりあえず彼女を寝かせ様子を見ることにする。

次の日新聞に大見出しが躍った。プレンティス・クロスリーという著名な切手収集家が銃剣で殺害されたというのである。検事長の兄、警察の警部とともに事件現場を訪れたスパイクは、クロスリーの金庫から貴重な切手が数枚消えていることに気がつく。

しかも嵐の晩、彼の家に迷い込んできた女というのがこの切手収集家の娘であり、彼女はバッグの中に盗まれた切手の一枚を隠し持っていたのである!

読者の頭には途端にあるシナリオが思い浮かぶと思うが、事件はそれほど単純ではない。

私は本編を心から堪能した。唯一あまり納得できなかったのは真犯人の動機である。これを説明するのは、犯人をばらすことになるので控えるが、私は犯人の告白を聞きながら、その心情を理解するには想像力の小さな飛躍が必要だな、と思った。

2016年7月22日金曜日

番外14 マックス・アフォード 「暗闇のふくろう」

番外13
Owl of Darkness (1942) by Max Afford (1906-1954)

以前このブログでレビューした「天国の罪人たち」が面白かったので、マックス・アフォードをもう一冊読んでみた。このブログでは一人の作者につき一作品しか扱わないことにしているので、このレビューは番外とする。しかしミステリとメロドラマの関係を考えさせる、いい作品である。

ミステリとメロドラマの関係については、このブログで何回か書いた。十九世紀の犯罪小説は、基本的にメロドラマである。ところがこの手のものが量産された結果、読者は(そして作者も)その類型的なパターンに飽きてしまったのである。

メロドラマのいちばんの特徴は偶然が多用されることだろう。偶然が起きることで物語は展開していく。ところが次第にそれとは別の仕掛けで物語を展開する手法が編み出されるようになった。それが演繹的な推論を用いた手法で、一九三十年代にあらわれた近代的ミステリは、この手法の採用によって、従来のメロドラマとは一線を画すことになった。演繹的推論を用いた手法を全面的に用いて、物語の様相がころころと、それこそ万華鏡のように変化する作品も書かれるようになった。この手法は、ミステリだけでなく、普通の文学作品にも応用されている重要なものだ。

メロドラマとの対峙が作家にとって一つの課題であったせいだろう。二十世紀前半のミステリにはよく「メロドラマ」という言葉が出てくる。本書もそうで、こんな一節が出てくる。
準男爵が怪盗フクロウではないか、という考えを、ジェフリーはすぐに捨てた。それではあまりにもメロドラマじみている。しかしこの事件は、なにからなにまでがメロドラマそのものではないだろうか。若い発明家、貴重な化学物質の製造法、羽を持ち、フクロウのマスクをかぶった犯罪者。しかも彼は意のままに現れたり消えたりすることができる。
二十世紀に入っても無自覚のままにメロドラマ的ミステリを書きつづける人もいたかもしれないが、しかしそれは読んでいるこちらのほうにとっては堪らない。上の引用のように作者がメロドラマを書いていることを自覚しているなら、まだ救いがあろうというものだ。もしかしたら作者はメロドラマになにか一工夫を加えてくれるのではないだろうか、という期待がもてるからだ。

確かに本書には工夫がある。しかしそれはメロドラマと異質な要素を付け加えるということではなく、メロドラマ的な要素をこれでもかと言わんばかりに、ぎゅうぎゅうに詰め込んで見せた点にある。美しいが家が貧しくて苦労しながら生活していた少女が、じつは貴族の出身であったと判明する、などというのは、メロドラマの仕掛けとして常套の手段だが、そんな感じに本書の主要登場人物はすべて秘められた過去を持っている。事件の展開はあざといくらいにセンセーショナルで、私は読みながら「さすがにそれはないだろう」とか「それはできないだろう」などと何度も思った。しかしそんなことはお構いなしに、本書はメロドラマの手法のオンパレードとなっている。いや、これは度を越したオンパレードだ。陳腐を感じさせるどころか、突き抜けたような愉快さ、爽快さ、面白さを感じさせる。本書の最後で怪盗フクロウはその意外な正体があばかれるが(ミステリの紹介記事ではいつも「意外な犯人」という言葉が使われるが、本書の犯人はほんとうに意外である)、あのような犯人の設定もメロドラマ的な考え方をとことん突き詰めたところに出てきたものだろう。(あまりくわしく説明すると犯人をばらすことになるのだが、たとえば犯人の父親が犯罪者であり、その家系には犯罪者の血が流れている、という設定などに古いメロドラマ的な考え方があらわれているだろう)

内容を簡単にまとめておく。まずフクロウと呼ばれる怪盗がロンドンに登場する。彼は金持ちに「あなたの宝石を~日にいただきに行く」といった予告状を送りつけ、フクロウの仮面をかぶってその家に侵入し、予告した品物を盗んで消える。このフクロウは、ある科学者の発明に目をつけた。それは安価に石油がつくれるという方法である。科学者がこの方法を見つけるや、イギリス、アメリカ、ドイツから、その技術を大金で買いたいという申し出が来る。しかし怪盗フクロウは、いついつまでにその製法をオレに渡せ。渡さないなら奪い取るぞ、と言ってきたのである。犯行予告の当日、スコットランド・ヤードは水も漏らさぬ厳重な警戒態勢を敷いて科学者のいる古い建物を取り囲むのだが……。

傑作とは言わないが、本作は非常に面白い。マックス・アフォードの才能を感じさせる。

2016年7月15日金曜日

70 グレイス・メイ・ノース 「少女探偵ボブズ」

Bobs, A Girl Detective (1928) by Grace May North (1876-1960)
 
作者は新聞記者をしながら少年少女向けの作品を書いていた人である。あらかじめいっておくとこの作品はほとんどミステリとはいえない。インターネットで情報が得られるようになるまでは、よく洋書輸入業者のカタログを見て、タイトルだけで中身を判断し、実際に注文して手元に届いてから、ぜんぜん予想と違う本だったことに気づく、ということがよくあった。この本も私はタイトルを信じて読み出したのだが、普通の少女小説だったのでがっかりである。しかしせっかく読んだのだからレビューはしておこう。

話の筋はこんな感じだ。ヴァンダーグリフト家はニューイングランドでは指折りの名家であった。ところが父が死に、母が死に、あとには四人の姉妹だけが残された。驚いたことに遺産があるかと思いきや、ほとんどなにもなく、住み慣れたお屋敷もすでに人手に渡っていることが弁護士からの報告でわかった。要するにヴァンダーグリフト家は完全に没落したのである。

四人の姉妹――グロリア、グウエンドリン、ロベルタ(彼女の愛称がボブズ)、レナ・メイ――はニューヨークに出て自活の道を選ぶことになる。まだ二十歳前の彼女たちは、それまでの環境とはまるでちがう、貧しい移民たちが暮らす地区で生活を開始する。最年長で四人の姉妹のお母さん役を演じるグロリアと、最年少で家庭的なレナ・メイは貧民たちの福祉施設で働くことになる。陽気なおてんば娘ロベルタ(ボブズ)は探偵事務所に行って探偵の仕事を得ようとする。グウエンドリンは甘やかされて育ったせいか、そんな生活はいやだと友達のつてを頼ってどこかへ行ってしまう。

四人のなかではロベルタの活躍がもっとも面白いから、彼女のことがいちばん多く描かれる。彼女は探偵事務所から三つの事件の解決に派遣される。最初の事件は古物商で起きた窃盗事件、二つ目の事件は若い娘の失踪事件、三つ目は遺産相続人探しである。ロベルタは事件に取り組む過程でニューヨークのさまざまな人間模様を知ることになるが、しかし彼女が自分の知力・捜査力で事件を解決することはない。彼女の行為がたまたまうまい具合に事件を解決に導いたというだけのことである。しかし探偵事務所の所長は、そうであっても解決したにはちがいない、彼女は与えられた任務をこなしたのである、と心優しく解釈してくれる。

物語は四人姉妹がそれぞれ結婚相手を見つけるところで終わる。

ミステリでないことがわかって、がっかりし、悪口を書くというわけではないが、本書はどうにもうさんくさい。「少女探偵ボブズ」というタイトル自体がミスリーディングなだけではない。作者が主題を扱う態度もいい加減なのである。本書の主題というのは明らかに貧困である。移民たちの貧困、由緒ある名家の一族が没落して陥る貧困である。ちなみに南北戦争以後、暮らしが苦しくなり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて没落していった旧家はかなりあった。この話の四人の姉妹もそうした例の一つである。しかし彼らはほどなくしてまた裕福な暮らしに戻ることになる。なぜならグウエンドリンとロベルタは金持ちの男と結婚するし、グロリアとレナ・メイの相手は移民で金持ちとはいえないが、しかし彼らが働く福祉施設は莫大な資金的援助を得ることになるからだ。金持ちと結婚するなとは言わないが、それにしてもこの話の展開の安直さには呆然とする。この物語における貧困というのは四人姉妹が一時的にためされる、儀礼的な通過地点に過ぎない。

たしかにこの本には、「移民たちは自由と富を求めてアメリカに来るが、しかしそこで彼らを待っているのは幻滅と貧困であり、ほとんど泥棒のような生活をしながらスラム街に住むしかない」、と書いてある。だが書いてあるだけで、作者がどれだけ真剣にその問題を考えていたかは疑問である。たとえば次のような一節。
 グロリアはある晩、不良の道にはまりこんだ少年を福祉施設のゲーム大会に招いた。そこでずるをせずにゲームすることを教えて彼にしたわれるようになり、また泥棒をはたらいて矯正施設送りになることから彼を救ってやったのである。
こんなに簡単にうまくいくものか。「貧すれば鈍する」という、辞書的な語義ではなく、おそろしい現実的な意味を知らない人間がこんなことをぬけぬけと書くのである。われわれは現在、移民たちが引き起こす犯罪、あるいは移民に対する憎しみの犯罪というものを毎日のように見ている。貧困は貧している者だけではなく、そうでない者の人間性にも深刻な影響を与えるのである。貧困や差別は、安手な理想主義では太刀打ちできないほどの複雑さと厚みと広がりを持った問題なのだ。私は作者は現実的であるように見せかけているが、本気で現実に切り込むつもりはないのだと思う。逆に問題を矮小化しようとする意志ばかりがこの本では目につく。こういう話のことを「子供だまし」というのだ。

2016年7月11日月曜日

69 セシル・フリーマン・グレッグ 「バス殺人事件」

The Murder On The Bus (1930) by Cecil Freeman Gregg (1898-?)

一見するとなんのつながりもない、二つの異なる事件が物語の最初で提示され、ところが捜査が進むにつれその関連性が判明してくるというミステリはよくある。本書もその筆法を使っていて、まず最初にガス自殺事件が描かれ、次に二階建てバスの二階で起きた殺人事件が語られる。後者の事件をスコットランド・ヤードのヒギンズ警部が捜査するのだが、やがてその事件の関係者が最初の事件の関係者と重なりはじめ、さらには、自殺と思われた最初の事件がじつは他殺の可能性を帯びてくるという展開である。

ミステリとして滅法面白く、しかも文章もずいぶんうまい。gadetection の説明によると作者はロンドンに生まれ、公認会計士をしていたそうだ。作品はずいぶんたくさんあり、私はこれから手を尽くして彼の作品をかき集めるつもりである。それくらい秀逸なミステリだった。

彼の文章の読みやすさは特筆ものである。ジャンル小説はたいてい大衆向けにかかれるので文章はやさしく読みやすいものが多い。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて盛んに読まれたダイム・ノベルやペニー・ドレッドフルが低学歴の読者を対象にしていることはこのブログでも書いたし、「女子高校生の作文みたい」と称される文章を書くクリスティーは、そうした文章の系列を引く作家である。その一方でチャールズ・ウイリアムズのような難解でごつごつした文章を書く人もいる。ウイリアムズの難解な文章は、形而上学的な主題に切り込む、複雑に屈折した思考のリズムを刻み込んだものだ。難解といえば、ヴァン=ダインのように衒学気取りの文章を書く人もいるが、あれは通常の逆を行くことによってかえって一般読者の気を引こうとする類のものにすぎない。

ちょっと話がそれたが、セシル・フリーマン・グレッグの読みやすさは、事実を単純化することによって得られたものではなく、事実の整理の仕方が抜群に秩序だっていて、その提示の仕方にすきがないことによる。これはヒギンズ警部の推理に典型的にあらわれている。彼は手掛かりをつかむと、そこから考えられることを徹底的に洗い出し、捜査の次の一歩につなげていく。読者が読み飛ばしそうな事実をも(たとえば事件関係者や犯人が書いたとおぼしき手紙、メモに見られるこまかなスペリングの間違いとか)すくいとって、そこから推測されることを綿密に検討していく。この整頓の過程がすばらしく、私は公認会計士の頭の几帳面さがいい具合にこの小説に作用しているのではないかと思った。

それゆえヒギンズ警部の推理は読者をはっとさせたり、うならせたりするようなものではない。それは地味だが、しかし注意深く、手抜かりがない。

もう一点、このミステリで目に付く特徴は、このブログでは何回も書いていることだが、メロドラマを否定しようとしている点である。その傾向をこの作品は顕著にあらわしている。ネタばれになるので書きにくいのだが、最終章から一つ前の章を読むと、無実の若い男女が試練を経て結婚へと至るように読める。これはメロドラマの典型的な終わり方で、くさいことこの上ない書き方をしている。ところが最終章のエピローグを読むとどうだろう。それが見事にひっくり返されている。一九三十年以降に近代的なミステリが成立するには、メロドラマが否定されなければならなかった、あるいは新しいメロドラマが創造されなければならなかったのである。

セシル・フリーマン・グレッグのこの書き方はまだ無骨さを残しているが、しかし本作は gadetection のサイトの著作リストによると第三作目である。彼はごく初期の頃から旧来のミステリとはちがうミステリを書こうとして工夫を凝らしていたのだ。新人作家としてこれは褒めるべきことだろう。私は彼のその後の小説技術に磨きがかかっているかどうか、非常に興味を持っている。

2016年7月8日金曜日

68 オールド・キング・ブレイディ 「探偵になる方法」

How To Be A Detective (1902) by Old King Brady (?-?)

以前フランシス・ウースター・ダウティーの「二人のブレイディと阿片窟」をレビューしたが、果たしてこの本の作者がダウティーと同一人物なのかはわからない。私はなんだかちがうような気がする。少なくとも私が調べた範囲では、ダウティーの著作であるという決定的な証拠は見つからなかった。このブログでは同一作者の本は二度と扱わない方針だが、本作はダウティーとは別人の著作としてレビューすることにしよう。

これは十九世紀末から二十世紀初頭にかけてダイムノベルを出していた出版社の本で、「ためになる」シリーズ(Useful and Instructive Books)の一冊である。本書のほかには、「海軍士官になる方法」とか「電気仕掛けの機械を作る方法」とか「黒魔術を行う方法」とか「エンジニアになる方法」とかがある。どれもティーンエイジャー向けの(それも男の子向けの)本である。

「探偵になる方法」は高名な探偵オールド・キング・ブレイディが、探偵になるための資質やら、よい探偵となるための心構えを具体的な事件を通して示したものだ。序文にはよい探偵になるための資質が十二示されている。

 一、不屈の勇気と健康。
 二、あくまで正直であること
 三、ちゃんとした教育。必要条件。
 四、外国語の知識。これがあることは非常に望ましい。
 五、相手の心理をすぐ読める能力。訓練しだいでのびる能力。最初は無理。
 六、辛抱強さ。
 七、人当たりのよさ。誰にでも気に入られる能力。
 八、容貌を変え、変装する技術に通暁していること。
 九、慎重に考える能力、証拠を検討する能力、そして外見にだまされない力。
 十、油断のなさ。
 十一、感情を制御する力。
 十二、常識・良識。
 
二を見ておやと思うかもしれない。「あくまで正直であること」がなぜよい探偵に必要なのか。じつは、ここで想定されている探偵稼業は、ピンカートン社のような探偵同士の共同作業を必要とする場なのである。どこかの名探偵のようにわかったことを最後まで隠しているようでは仕事に差支えが出てしまうのだ。

さらに三。教育がなぜ探偵の必要条件なのか。これは変装の技術に関係する。つまり教養のない人間はどうあがいても紳士のふりをすることはできないのである。しかし教養がある人間なら紳士にもなれるし、浮浪者のふりもできるというわけだ。もっとも本書の実話の中では、教養のある若手探偵が不良に変装するが、すぐにその育ちのよさを見破られてしまっている。むずかしいものだ。

七は、情報収集能力に関係しているといえば、すぐ理解できるだろう。

こうしたことを本文では実話をまじえながら説明していく。読み物としてそれほど面白いものとはいえないが、二つほど気がついことを書き付けておこう。

第一に、我々は探偵といえば推理の能力が大事だと考えるが、この本ではそのことはさほど重視されていない。よい探偵になるための資質として九番目に「慎重に考える能力、証拠を検討する能力」というのがあるが、これはエラリー・クイーンのような演繹的推理のことを言っているのではないのだ。なにしろこの頃はまだろくな教育を受けていない若者がぞろぞろいたのである。目に一丁字もない彼らは考えることが不得手であったが、しかしそれでは探偵はつとまらないと作者は言う。手がかりを得たとき、そこから何が考えられるか、常識を充分に働かせよ、と作者は忠告しているのだ。彼はけっして神のごとき推理力や直観力など期待はしていない。

第二に、作者の議論は「探偵/犯人」という二項対立を瓦解させるような、脱構築的契機を内に含んでいるのが興味深い。まず彼は探偵は特徴を持ってはいけない、と書いている。ホームズにしてもポアロにしても、名探偵と言われる人々は独特の風貌や癖を持っているものだが、本書においてはそうしたものは探偵の存在をきわだたせてしまうため避けられるべきものとして扱われている。たとえば犯人を尾行しているときなど、探偵は周囲に溶け込んで人目につかないほどよいのだ。

しかし周囲に溶け込み怪しまれないようにする、というのは、ちょっと考えればわかるが、じつはスリとか泥棒にとっても同じように大事な心得なのである。また変装したり、巧みに必要な情報を探り出すという行為も、悪党たちが犯罪を犯すときにやる行為なのである。本書の実例談を読んでも、探偵と犯人の区別がつかなくなるような場面が多々あらわれる。たとえば探偵が会社の金を横領した犯人を列車の中で捕らえようとするが、探偵に襲われた犯人は「泥棒だ!」と叫び、探偵のほうは「いや、こいつこそ泥棒なんだ!」と周囲に逮捕の助太刀を頼む。本書の最後の実話には、ギャング団を一網打尽にするために、探偵が悪者の振りをしてギャング団に加入する顛末が描かれているが、これなどは探偵の行為が悪者の行為と区別がつかなくなる典型的な例である。探偵が仕事を成功させようとすると、どうしてもみずから犯罪者の領域に足を踏み込まずにいられなくなる。下手をすれば探偵が犯罪者になることだってあるだろう。そういうあやうくくずれそうになる「探偵/犯罪者」という二項対立をかろうじて維持するもの、それがよい探偵になるための心得で最後に挙げられている「常識・良識」というやつなのである。

2016年7月1日金曜日

67 ゴア・ヴィダル 「死は熱いのがお好き」

Death Likes It Hot (1954) by Gore Vidal (1925-2012)
 
ゴア・ヴィダルがエドガー・ボックスのペンネームで書いたミステリの一冊。以前 Death in the Fifth Position (1952) というバレエ団を扱ったミステリを読み、面白かったので本作に手を出してみた。

ゴア・ヴィダルはずいぶんたくさんの小説、ノンフィクションを書いているが、私が手に取ったのは、どれもいい作品だった。都会風の、いささか色彩がけばけばしい風俗を描くのもうまいが、Julian (1964) のように古典派的な文章も書ける。たいした才能の持ち主だと思う。

ミステリもなかなか読ませる。トリックがどうの、推理がどうのといった点でめざましい特色があるわけではないが、ニューヨークの上流階級や華やかな芸能世界の罪深い生態を皮肉とともに軽快なタッチで描いており、以前このブログで紹介したフットナーの系列をくんでいるように思える。私はこの手の作品が妙に好きなので、今回も非常に楽しめた。

私が読んだボックス名義のミステリは、いずれも広告代理業者というのだろうか、イベントの広報活動を引き受けるピーター・サージェントという男が主人公である。彼はある夏、ロングアイランドに住むミセス・ヴィアリングのお屋敷に招かれる。ミセス・ヴィアリングは大掛かりなパーティーを開くことを計画しており、その宣伝をサージェントに依頼したいと考えているのだ。

ミセス・ヴィアリングのお屋敷に招かれていたのはサージェントだけではない。高名な画家の夫妻や、女流小説家や、ミセス・ヴィアリングの親族が一緒に呼ばれていた。彼らのあいだには過去に複雑な関係があったらしく、サージェントは反目や敵意が火花を散らしているのを目撃することになる。

事件はその翌日に起きた。客たちは全員そろって近くの海に泳ぎに出かけるのだが、画家の妻がそこで溺れ死んでしまうのである。全員が見ている前で彼女は暗流にのまれて急に沈んでしまったのだ。大慌てで彼女を助け浜辺に連れてきたのだが、そのときには彼女は死んでいた。

サージェントはそれを悲劇的ではあるが単なる事故だと考えていた。ところが彼女の夫に悪意を抱く客の一人が、夫が彼女に睡眠薬を飲ませ、事故死にみせかけて彼女を殺したのだと、警察に訴え出たのである。

これがこの屋敷を舞台にした連続殺人事件の幕開けだった。

お屋敷の中での連続殺人という、古典的なセッティングで、手がかりもすべて読者に提示されている本格物である。珍しいといえばサージェントと(いかにも軽薄そうな)ガールフレンドとのセックスシーンが二度も織り込まれていることだろうか。セックスシーンが含まれている本格派の推理小説なんて、あまり聞いたことがない。といっても露骨な描写はないので、変なことを期待してはいけない。

読んでいて楽しいのは上流階級に対する風刺の効いたユーモラスな描写があちこちに見つかることだろう。たとえばサージェントはミセス・ヴィアリングのお屋敷で出会った女流小説家が嫌いでたまらない。なにしろ彼女は人の話は聞かず、自分のことばかりをおしゃべりしようとするのだから。ところが
 僕(=サージェント)は幻滅した。彼女と部屋が隣同士だったのだ。「あら、偶然ね」と彼女は言った。
 僕は謎のようなほほえみを浮かべて部屋に飛び込み、隣の部屋とつながるドアに鍵をかけた。さらに安全のために重いたんすをドアの前に移動させた。このバリケードを破ることができるのは怒り狂ったカバだけであろう。僕の知るかぎり、女流小説家はまだ怒り狂ってはいなかった。
「怒り狂って」はいないが、彼女は「カバ」であると言っているのである。また
みんなと同じように僕も精神分析の専門家である。トラウマと陳列棚の区別なら二十歩離れた距離からでもつくし、フロイトのことならその著作を一行も読んじゃいないが、なんでも知っているのだ。
というように、サージェントは自分のことに仮託して、当時の人々一般の知ったかぶりをからかったりする。こういうアイロニーに満ちた観察が本作の読みどころといっていいだろう。先ほど言ったように、フットナーそっくりの書きっぷりで、微量の悪意とユーモアを含んだ視線がたまらない。こういう文章がお好きなら私が訳した「罪深きブルジョア」も読んでみていただきたい。