2015年12月30日水曜日

32 ヒュー・ウオルポール 「殺す者と殺される者と」 

The Killer and the Slain (1942) by Hugh Walpole (1884-1941)

ジョン・オウジアス・タルボットはおとなしくて痩せていて、内気で自意識の強い少年だった。彼にとってジェムズ・オリファント・タンスタルは天敵だった。タンスタルはいつもタルボットにつきまとい、からかい、いじめるのである。学校を出てからタルボットは父の骨董屋を受け継ぎ、ギッシング風の深刻な小説を書くようになる。そしてイヴという女性と出会い結婚する。

そこへ彼の天敵タンスタルが再びあらわれる。彼は画家として成功し、懐にはたんまりと金がある。肥っていて、会話がうまく、女性にもて、ありとあらゆる意味でタルボットとは正反対だ。にもかかわらず彼はタルボットにつきまとい、彼をいちばんの親友だといいふらす。タルボットは相変わらずいやみを言われたり、からかわれているような気がしてタンスタルを忌み嫌う。しかもタンスタルはタルボットの妻イヴといやになれなれしくし、イヴもタンスタルに好意を寄せているような素振りを見せるのだ。

タルボットは追い詰められたような気分になってついにタンスタルを殺す。崖から海へ彼を突き落としたのである。

ここから奇妙なことが起きはじめる。タンスタルを殺しタルボットはせいせいした気分になるのだが、次第に彼はタンスタルに似てくるのである。体重が増え、女好きになり、酒を飲み、絵を描く才能があることに気づき、小説を書くのはやめてしまう。さらにタンスタルが自分の心の中に入り込んだかのように、彼の過去を知ることができ、彼の声が聞こえるようになる。

そう、これはドッペルゲンガーの物語である。二人の登場人物のイニシャルがいずれもJ.O.T.であることにお気づきだろうか。二人は正反対の性格を持ちつつも、じつは一人の人間なのだ。

この作品が単なる分身譚で終わっていないのは、そこに歴史的・政治的な側面が付加されているからだ。すなわちイギリスとドイツの関係がタルボットがタンスタルとの関係に重ねられているのである。タルボットの心が殺したタンスタルの心に乗っ取られはじめた頃、彼はイギリスの人々がヒトラーを非難するする場面にでくわす。
 二人の老人がすべてはヒトラーの責任だ、あれは何という悪魔的な男だろう、いったいいつになったら誰かが勇気を奮い起こし、あいつの悪逆非道な振る舞いを阻止するのだろうとしゃべっていた。彼らはおそろしくいきりたっていて、ご婦人の白髪頭が絶えず震え、老紳士の手の甲には大きな茶色いいぼが見えたことをわたし(=語り手のタルボット)は覚えている。ほんのしばらく前ならわたしはどれだけ快く彼らに同意を示しただろう。しかしその目の前に置かれたパイに不信の目を向けていたわたしは(そのホテルは高級ホテルではなかった)とっさにかっとなってこう思ったのだ。「ヒトラーが自分の国のために最善を尽くしてなにが悪い? ドイツは国土を拡大しなければならないんだ。それなのにみんながそうさせまいとする。ヒトラーは偉大な男だ……」チキンを食べると胸が詰まりそうになった。わたしはナイフとフォークを置き、ひどい飾り付けの食堂を見渡した。いったいわたしはどうなったのだろう。残酷でサディスティックな乱暴者の一味には罪はないと考える男、これがわたしなのだろうか。もしもわたしでないなら、誰なのか。
「ヒトラーは偉大な男だ」というのはもちろん内面化したタンスタルの声である。別の箇所ではこうも述べている。
わたしはこの国は偽善者の国だと言った。ドイツが国土を拡張しようとしているのなら、われわれにそれを止める権利などない。イギリスは地球の半分以上を手にしている。どうやってそれを手に入れたんだ? 現地の人々から略奪したり、泥棒したり、彼らを痛めつけたりしてだ。
以前タルボットがタンスタルを悪魔的だと考えたように、イギリス人はヒトラーを悪魔的だと考えている。しかしここに明確に指摘されているが、イギリスだってヴィクトリア朝時代から植民地を拡大して繁栄してきたのだ。ヒトラーを批判するのは偽善的である。本当はイギリスとドイツはよく似ているのだ。イギリスはかつての自分の姿をドイツに見てそれを批判しているのである。そう言う意味でこの不気味な物語は政治的なサタイアでもある。

本作はタルボットによって語られるのだが、性格の移行がじつに自然に描かれ、間然するところがない。わたしが読んだウオルポールの作品の中ではいちばんの出来だと思う。

2015年12月28日月曜日

31 アンナ・キャサリン・グリーン 「円形の書斎」 

The Circular Study (1914) by Anna Katharine Green (1846-1935)

私はメロドラマを否定しない。大げさで波乱に富み、時には空虚なくらい感情過多なあの形式は、確かに俗っぽいものではあるけれど、いまだに我々の思考に取り憑いている。たとえばフロイトのモーゼの物語や、エディプス神話、原父殺害のシナリオなどはメロドラマ的な想像力以外の何ものでもない。メロドラマはおよそありえないような偶然に支配されているようだけれど、そうした仕掛けによってある種の根源的な力の働きようが極端な形で提示されているように思える。

アンナ・キャサリン・グリーンはメロドラマを主体にしたミステリを書いた人である。しかし彼女の作品は「レヴンワース事件」以外、ほとんど知られていないのではないだろうか。ファーガス・ヒュームが「二輪馬車の秘密」以外、まったく読まれていないこととよく似ている。しかしいずれの作家も食わず嫌いを起こさずに読んでみれば結構面白いのだ。たとえばグリーンに関して言えば「隣の家の事件」(That Affair Next Door)は最後のひねりが実によく効いた物語だし、「見捨てられた宿」(The Forsaken Inn)のゴシック的な味わいは捨てがたい。

本編「円形の書斎」は珍しい形を取っている。前半部分はニューヨークの豪邸で起きた奇怪な殺人事件が解明され、後半部分はその事件に至るまでの二つの家族の情念の物語が語られるのだ。コナン・ドイルの「恐怖の谷」とよく似た構成である。前半において事件の解明に当たるのは、グリーンの作品ではおなじみのグライス警部とミス・バターワースの名コンビ。グライス警部はこの本ではもう八十代だという。なんだか感慨深い。

警察の仕事を引退することを考えていたグライス警部のもとに、ある日、不思議なメッセージが届く。とある金持ちの豪邸で奇妙な事件が起きているようだ、というメッセージである。さっそく警部が現場に駆けつけてみると、確かにその家の主がナイフで胸を刺され、円形の書斎に倒れていた。しかもその現場にはいろいろと不可解な特徴がある。たとえば男はナイフで残忍な殺され方をしているというのに、なぜかその胸には十字架が載せられていた。聾唖者の召使いは主人が殺される場面を目撃して気が触れてしまったが(こういう設定は実に時代を感じさせる)、どうも彼は主人が亡くなったことを喜んでいるようなふしがある。そして現場にはインコの籠があり、インコは「イーヴリンを忘れるな」とか「かわいそうなエヴァ」といった謎めいた台詞を繰り返していた。

グライス警部とミス・バターワースが知恵を出し合って事件の犯人を捕まえると、犯人は事件の背後にあった二つの家族の確執の歴史を長々と語りはじめ、その中で事件現場にあったさまざまな謎が解明されることになる。

本作はミステリとしてさして出来はよくないが、しかし作品の中で起きる「反復」には注目させられた。それはイーヴリン/エヴァという反復である。後半部分を思い切り単純にまとめるとこうなる。A家のイーヴリンという少女がB家によって死に追いやられた。A家はB家のエヴァを絶望あるいは死に追いやることで復讐を果たそうとする。奇しくもイーヴリン Evelyn とエヴァ Eva は名前も似ているし(Evelyn の略称は Eve)、同じように美少女で誕生日が一致している。少女の死が反復されると思いきや、A家の殺意はみずからに跳ね返り、復讐の首謀者であるA家の人間が殺されてしまうのである。

B家の人間(ジョン・ポインデクスターのことだが)は明示的に示されてはいないものの、どうやら相当にけしからぬことをイーヴリンにしたようである。A家が彼には「貸し debt」があると考えるのは当然だろう。ところがB家の人間(ジョン・ポインデクスター)は貸しがあることなど徹底して認めないのである。その非人間性にはグライス警部もミス・バターワースもあきれるくらいだ。A家の人間がいくら情熱をこめて復讐しようとしてもその目論見は彼には通用しない。彼は苦しむことを知らない人間なのだから。心を持たない人間なのだから。反復の目論見はここで挫折する。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」では我利我利亡者のスクルージが最後には隣人愛に目覚めるけれど、本書におけるジョン・ポインデクスターはどこまで行っても自分のことしか考えられない人間だ。メロドラマにはよく復讐譚があらわれる。「モンテ・クリスト」のように復讐の鬼になる人間があらわれる話だ。「円形の書斎」におけるA家の人々も復讐の鬼である。とりわけフェリックスの復讐にかける一念はすさまじい。しかしそんな復讐など「蛙の顔にしょんべん」と受け流してしまうような人間がここには描かれている。これでは従来の復讐譚が成立しないのである。いったいこれは何を意味するのだろうか。ミステリとしてはものたりない作品だが、資本家のモラルの変容と、メロドラマの挫折が描かれている点、私は興味を惹かれる。。

2015年12月23日水曜日

番外6 谷崎潤一郎 「途上」

谷崎潤一郎 「途上」 (1920)

「行為の外形」という言葉を私は谷崎潤一郎の短編ミステリから学んだ。以来、私にとってこの言葉はミステリを考える上でキーワードになっている。別のウエッブサイトにも発表した小文だが、私にとっては重要な議論なのでここに再掲する。

 「もう一つの物語」を読む探偵
――谷崎潤一郎「途上」の方法    

江戸川乱歩は「途上」を評して「探偵小説に一つの時代を画するもの」、「これが日本の探偵小説だといって外国人に誇り得るもの」(「日本の誇り得る探偵小説」)と絶賛したことはよく知られている。そこに描かれているプロバビリティーの犯罪が世界推理小説史上で最初のものだというのがその理由である。しかし谷崎としては偶然を利用するという犯罪方法の評価に少々戸惑いを感じている。というのは作者としては「自分で自分の不仕合わせを知らずにゐる好人物の細君の運命――見てゐる者だけがハラハラするような、――それを夫と探偵の会話を通して間接に描き出すのが主眼であった」(「春寒」)からである。好人物の細君とは夫=会社員の先妻に当たる。身体の弱い彼女はチブスで亡くなるまで夫を信じ、夫の親切に感謝していたという。いわば「夫の愛情に包まれた妻」という物語空間を生きた女性である。ところが探偵はこの麗しい夫婦愛の物語を逆転させてしまう。つまり夫の妻に対する親切な行為・忠告は一貫して彼女を危険な、命にかかわりかねない状況に追いやるためのものであったことを証明するのである。谷崎としては騙し絵のように物語の図柄を一変させることがこの短編の作意であったので、だからこそ「殺す殺さないは寧ろ第二の問題であって、必ずしも殺すところまで持って行かないでもよかったかと思う」(「春寒」)のである。好人物の細君は夫が張り巡らした美しい物語を信じ込んでいた。それを探偵の推理を通して転覆させる時、谷崎はそのような想像の空間を批判しているのである。

 「途上」の推理の特質、つまり物語批判の特質は次の三点に集約される。
    (1)行為を外形において見る
  (2)沈黙・忘却されたものを注視する
  (3)論理の矛盾撞着を探る
(2)と(3)は密接に関連しているのだが、以上の点を吟味したい。

 「外形」という言葉は「途上」のキーワードである。この言葉が最初に出てくるまでの経緯を説明しておくと、まず、ある会社員が妻を亡くし、新しい女性と結婚しようとしている。その会社員が会社の帰りに探偵に話し掛けられる。会社員の前の妻は、自らの過失によって事故死したとされているが、実は事故死に至るよう会社員が裏から操作していたと探偵は主張する。事故の可能性が高い乗合自動車に乗ることを薦めたのはその操作の一つである。会社員は常に、明らかな殺人ではないにしても、危険の確率が高い状況に妻を置き、彼女を亡き者にしようとしていたのではないか。これに対して会社員は、乗合自動車の利用を薦めたのは、その方が感冒にかかる可能性が低いからだと反論し、以下探偵と会社員の間で微細な点をめぐる論理問答が展開されるのだが、その最中に探偵はこう言う。あなたはそう反論するが、しかしあなたの行為はたまたまその「外形に於いて」私の推理と一致する、と。

この言葉によって問題にされているのは、行為と意図の関係である。一般にある行為の意味、あるいは意図は、行為者の意識に求められる。ある人がラジオのスイッチをひねったとして、ではその意味・意図は何かと問う場合、われわれは通常、行為者に向かって「なぜそんなことをしたのか」と尋ねるだろう。ところが、「途上」の探偵は行為と行為者の意図を分離する。会社員は前妻に向かって、「乗合自動車を利用せよ」、「生水を飲め」、「冷水浴をせよ」と命令した。そう命令した彼の意図を、彼自身はそれぞれ「感冒にかかる危険が少ないから」、「米国ではベスト・ドリンクといわれるほど身体によいから」、「風邪に抵抗力をつけるよい習慣だから」などと説明しているが、探偵はそれを一切無視し、実はそれぞれの行為は  「自動車事故の危険にさらすため」、「チブスにかからせるため」、「心臓を悪くさせるため」ではないかと問いつめる。「外形に於いて」行為を見るとは行為者の意図をいったん宙ずりにして、行為に別解釈を施すことに他ならない。

 これは探偵としては当然の手続きではないかと思われるかもしれない。容疑者の証言に嘘が混じっていることをあらかじめ想定し、それを見破るのが探偵の役目ではないのか。しかし谷崎の「外形に於いて」という言葉が示唆するものは容疑者の「意識的な」嘘を見破るということに留まらない。外形としての行為の解釈は、行為者がまったく意識していなかったような内容にもなりうる。いわば、行為者の無意識の欲望を引きずり出すこともありうるのだ。「乗合自動車を利用せよ」と言ったとき、もしかすると会社員は心から妻の身体のことを考えてそういっていたのかも知れない。しかし探偵は、その心からの意図を行為から切り離し、意識によって隠された、別の隠微な意図を、行為の外形に読み取るのである。探偵は言う。「無論あなたにはそんな意図があったとは云いませんが、あなたにしてもそう云う人間の心理はお分かりになるでしょうな。」彼がいう「心理」とは意識にのぼる意図とは別の意図、無意識の意図のことである。もちろん会社員は、ガス栓に油を差すという悪質きわまりない行為を行っており、妻を事故死させようとしていた意図は恐らく疑うことは出来ないだろう。しかし探偵が示しているのは、事故死させようとする意図はなかったような行為にも、実は事故死させようとする無意識の欲望が付着しているのだと云うことである。「途上」が世界に誇るユニークな探偵小説だとしたら、それは「外形」という概念を用いて精神分析的技法を練り上げた点にこそあるとわたしは考える。

フロイトは「否定」の中で「抑圧された表象の内容や思考の内容は、それが否定されるという条件のもとでのみ、意識にまで到達することができるのである」(中山元訳)と言っている。妻を殺害する物語も、それが否定されるという条件の下でのみ、妻を慈しむ物語に到達すると云えるだろう。つまり後者の物語は前者の物語を隠蔽する形式となる。しかしそれは黒を白と言いくるめるようなもので、一見したところどんなに一貫性のある物語であっても、必ずそこに破綻が生じているのだ。「途上」の探偵は実にねちっこい議論を展開するが、それは隠蔽の形式に破綻を見出そうとする作業である。言い換えれば、妻を慈しむ物語が、ある特定の事実を沈黙・忘却し、論理矛盾を冒すことで成立していることを暴くのである。行為を外形に於いてみるときは、会社員の意図は一時的に保留される。しかし
  (2)沈黙・忘却されたものを注視する
  (3)論理の矛盾撞着を探る
場合は、会社員の意図を徹底的に分析することになる。

妻を電車に乗せるか、乗合自動車に乗せるか思案した時のことを会社員は二段構えでこう説明している。まず第一に、電車内での感冒伝染の危険と自動車事故の危険性と、どちらがプロバビリティーが大きいか。感冒が絶頂期であったあの時期、電車の中には確実に感冒の黴菌が存在すると考えねばならなかった。妻は感冒に罹りやすい体質であったから、彼女が電車に乗れば、彼女は危険を受けるべく択ばれた一人とならざるを得ない。自動車の場合は乗客の感じる危険は平等である。第二に、仮に危険のプロバビリティーが同じだとしてどちらの方がより生命に危険か。妻が再び感冒に罹ったとしたら病後間もない彼女は必ず肺炎を起こすだろう。しかし自動車事故は起きたとしても必ずしも生命を失うとは決まっていない。以上の判断を持って会社員は自動車を選択したのである。

これは探偵の言う通り、「唯それだけ伺って居れば理屈が通って」いる。「何処にも切り込む隙がないように聞こえ」る。探偵はどのようにして、そこに破綻を見出すのか。彼が着目するのは奇妙な沈黙、忘却、見落としである。彼は続けて言っている。「が、あなたが只今仰らなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです」会社員が言わなかったこととは乗合自動車に乗るときは一番前の方に座れ、それが最も安全だと言ったことである。会社員がそのことを説明しようとすると探偵がさえぎって「いや、お待ちなさい、あなたの安全という意味は斯うだったでしょう、――自動車の中にだって矢張いくらか感冒の黴菌が居る。で、それを吸わないようにするには、成るべく風上の方に居るがいいと云う理屈でしょう。すると乗合自動車だって、電車ほど人がこんでは居ないにしても、感冒伝染の危険が絶無ではない訳ですな。あなたは先この事実を忘れておいでのようでしたな。」

確かに会社員は電車より乗合自動車に乗れと言う時、乗合自動車の中に感冒の黴菌がいることを失念している。しかし乗合自動車の前方に乗れと言う時は、それを理由にする。会社員は首尾一貫して妻がより安全であることを考えているようだが、その思考の筋道は決して一貫していないのである。

我らが探偵はさらに言う。「よござんすかね、あなたは乗合自動車の場合における感冒伝染の危険と云うものを、最初は勘定に入れていらっしゃらなかった。いらっしゃらなかったにも拘わらず、それを口実にして前のほうへお乗せになった、――ここに一つの矛盾があります。そうしてもう一つの矛盾は、最初勘定に入れて置いた衝突の危険の方は、その時になって全く閑却されてしまったことです。乗合自動車の一番前の方へ乗る、――衝突の場合を考えたら、此のくらい危険なことはないでしょう、其処に席を占めた人は、その危険に対して結局択ばれた一人になる訳です。」

長々と、会社員と探偵の「論理的遊戯」を紹介したが、「途上」で注目すべきなのは、まさしく、言説の論理的構成を徹底的に追求する、この努力である。それによって探偵は、一つの論理が、ある時には注意を払われるが、ある時には忘却される事実を突き止め、それゆえ論理全体に矛盾をきたすことを証明する。そしてその矛盾の仕方の中に、会社員の物語の見かけとは裏腹の、バイアスが存在していることを明らかにするのである。

  「途上」は「外形」と論理的構成の観点から物語を批評し、隠された「もう一つの物語」を読み取る方法を明快に提示している。ここで最後に注意しておきたいのは、「物語」というと小説の中だけの特殊なもののように思われるが、考えてみれば、会社員が犯している論理的な不首尾は、我々や政治家などが日常的に犯し、また他人が犯しているのを見逃しているような非論理性だということだ。つまり「途上」の方法は実践的な価値を持っている。我々の日常的な言動に潜む歪み(なんならイデオロギーといってもいい)に着目したという点でも、「途上」は大きな意味を持っている。

2015年12月19日土曜日

30 メアリ・ロバーツ・ラインハート 「寝台席十番下段の男」 

The Man in Lower Ten (1909) by Mary Roberts Rinehart (1876-1958)

 以前紹介したクリストファー・モーリーの「幽霊書店」にはこんな一節がある。
もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこともある。「真に甘美な夜」(ノクテス・アムブロジアナエ)は、アンブローズ・ビアスの夜である、と。
私は今まで読んできた本を思い出しながら、もっとも魅力的な夜を描いた作品、作家は誰だろうとときどき考える。そのときラインハートとその作品は、そのリストに必ず登場することになる。なにしろ闇の中の不可思議なうごめきを描かせれば彼女の右に出るものは――ま、いることはいるが、ミステリの歴史の中では彼女は独特の位置を占めていると思う。その闇は、ときには人間の心の内奥に通じる闇ともなる。

本編の主人公は弁護士をしている若者ローレンス・ブレイクリー。今まで女には興味がないという人生を送ってきたが、本編においてはもちろん恋に陥る。しかもその相手は、彼が一緒に弁護士事務所を経営しているマクナイトの恋人だ。

ブレイクリーは寝台列車の中で殺人事件に出くわすのだが、これがちょっとややこしい。ミステリによくある配置のずれが起きるからだ。ブレイクリーはまず十番下段の寝台席を購入する。ところが列車に乗ってみると、十番下段にはもう誰かが酔っ払ってグウグウいびきをかいて寝ているのだ。車掌に文句を言うと「たぶん中央通路を隔てた九番のお客さんが間違ってこっちに来たのでしょう。どうぞ九番を使ってください」という指示。ブレイクリーは九番で寝るのだが、寝つかれずにしばらく外に出てあたりをぶらぶらし、また寝台車に戻ってきて寝た。

さて次の日の朝目が覚めると、なんと彼は寝台席七番で寝ているではないか。しかも九番の席を見ると、自分の服と裁判に使う大事な書類を入れた鞄がなくなっている。それだけではない。十番の寝台席にいた男が胸を刺されて殺され、凶器と思われる針が七番の枕の下から発見されたのである!

ブレイクリーは殺人の容疑をかけられるのだが、事件はそれだけでは終わらない。この列車が事故を起こし、ブレイクリーはあやうく助かったものの、片腕を骨折してしまった。このとき彼を助け、一緒に事故現場からボルチモアまでついて行ったのがアリソン・ウエストという美しい女性で、これが先ほどいったマクナイトの恋人なのである。

出だしはこういう具合なのだが、この作品は謎めいていて、サスペンスを感じさせるだけではない。ブレイクリーが語るこの物語にはふんだんにユーモアが詰め込まれている。ブレイクリーも共同経営者のマクナイトもともに若くて威勢がよく、とりわけマクナイトは冗談を言うのが好きな性格なので、二人の会話はいつも溌剌としていて諧謔味を帯びている。
 マクナイト「日曜はリッチモンドに行かなきゃならないんだ。デートがあるんだよ」
 ブレイクリー「ああ、そうかい。彼女の名前は何だったっけ。ノースさん? サウスさん?」
 マクナイト「ウエストだ。へたな冗談を言うな」
さらに事故を起こした列車にはエドガ・アラン・ポーに心酔している素人探偵が乗っていて、これが事件に興味を持ち、ブレイクリーに話しかけてはメモを取る。彼はなかなか鋭い推理を展開するが、ブレイクリーはいつもそれに茶々を入れ、素人探偵はお約束のように憮然とした表情になる。

また殺人事件の容疑者であるブレイクリーは警察から見張りをつけられる。あるときブレイクリーとマクナイトがタクシーに乗っていると、後ろから見張りが走って車を追いかけているではないか。マクナイトは運転手に言う。「いちばんどろんこの道を探して、そこを通っていってくれ」その後ブレイクリーとマクナイトがレストランで食事をしていると、ブーツを泥だらけにした見張りがうらめしそうに入ってくる……。

このように全体に喜劇的なトーンが敷かれているから、暗闇の場面がある種の異質性をもって、いっそう恐ろしく描かれることになる。そのスリリングな描写は「螺旋階段」や拙訳「見えない光景」で確認してほしい。

2015年12月16日水曜日

29 デーナ・チェンバーズ 「稲妻の如く」

Too Like the Lightening (1939) by Dana Chambers (1895-1946)

以前、ルイス・トリンブルの「殺人騒動」をレビューしたとき、粗筋が書きにくくて仕方がないと悲鳴をあげたことがある。奇妙な事件が次から次へと起きるのだが、なぜそんな事件が起きるのか、語り手にはさっぱりわからない。読者のほうも宇宙空間をふわふわ浮いているように、どっちが上とも、どっちが下ともわからないまま、物語の流れに従っていくしかない。事件の輪郭が多少なりとも判然とするのは、その物語の後半以降のことである。もちろん後半になってはじめてわかる事実をばらせば、わかりやすく粗筋を示すことができるのだが、それではこれから読む人の興味をそぐことおびただしい。そこで文才のない私は悩んでしまったというわけである。

「稲妻の如く」はスパイ小説といっていいだろうが、やはり粗筋が書きにくい作品である。語り手であり主人公でもあるジム・スティールはいきなり奇妙な状況に放り込まれ、そして事情もわからぬまま次々と行動をしていかなければならない。

彼はある朝目を覚ますと、見知らぬ部屋にいることに気がつく。隣には北欧の人間とおぼしき美女が横たわっている。なぜ自分はこんなところにいるのか、彼は必死になって昨晩の出来事を思い出そうとする。彼はある程度思い出すのだが、しかし彼の記憶には埋めることのできない欠落がある。

そのあと彼は男の屍体を木にぶら下げ(どうやら彼が殺したらしい)、一緒に寝ていた女の父親に出会い、その父親は直後に爆弾によって吹き飛ばされ……。読者は何が何だかよくわからないうちに、暴力的なアクションが展開する物語の中に引きずり込まれる。

ごくおおざっぱに種を明かせば、ジム・スティールはアメリカと連合国側のスパイ合戦に巻き込まれたのである。しかもこのスパイたちは二重スパイであるため、彼はまことに複雑な謀略の手先として利用されることになったのだ。

ジム・スティールは最初、彼が漂う空間を眺め、こっちが上になるのだろうと勝手に思い込む。ところが物語の中ほどで、最愛の妻と再会し、その時から今まで上だと思っていた方向が、実は下であることに気がつく。妻との信頼関係がジャイロスコープのように彼に正しい方向を示したのである。

本書や「殺人騒動」のように、何が起きているのかわからない物語というのは、近代的なミステリの誕生と共にあらわれた。それまでは「世界は語られうるし、理解されうる」という信念のもとに物語が書かれていたのだが、ある時期からそのような信念がゆらぎだしたのである。たとえば本編では個人(ジム・スティール)と国家が対立している。もちろん国家は圧倒的な量の情報を所有し、またそれを操作する能力を持っている。個人が国家の企みを見抜くのはほとんど不可能に近い。こうした無力が問題となるのは、ミステリの世界に限らず、文学の世界でもそうだ。カフカの作品はその典型例だし、ちょっと面白い日本文学の例としては古山高麗雄の「半ちく半助捕物ばなし」なども挙げられる。私は一九三〇年代に古いタイプの探偵物語は近代的ミステリに変貌したと書いたことがあるが、その背後にはフィクションに対する認識の変化がある。もっとも大衆向けのミステリにおいては、最愛の妻との出会いが主人公に正しい認識の方向性を教え(なんと俗受けのするロマンチックな書き方だろう)、最後にはすべてをきれいに説明してしまうのが普通だけれど。

本書は第二次大戦前の国際状況を踏まえて書かれているが、しかしまるで古びた感じがしないのには驚いた。現代のスパイ小説のレベルからいっても、充分標準はこえている。ただ不満があるとしたら、この小説には余韻がないことだ。サマセット・モームのアッシェンデンのシリーズ、エリック・アンブラーの一連の作品、ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンの現代的スパイ小説、これらはどれも独特の余韻を残す。「稲妻の如く」は残念ながらそういう渋い味わいを持っていない。文体もパルプ小説的で、スカッとした気分で読み終わり、忘れることができるような作品、つまり消費されてしまう作品だ。

最後にタイトルについて一言いっておこう。「稲妻の如く」という句は「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーの場面から取られている。ジュリエットがロミオにこんなことを言っている。「愛の誓いは、どうぞおよしになって。嬉しいけれども、今晩約束を交わすのは、いや。そんなの、いくらなんでも軽はずみすぎる。あせりすぎというものよ。稲妻のようにひかったと思ったら、『ひかった』と言う前に消えてしまう」本書では事件が立てつづけに起き、主人公が「これじゃ考える暇もない」と独りごちる場面でこの一句が使われている。事件の推移が「稲妻のように」すばやいという意味である。

2015年12月12日土曜日

28 R.フランシス・フォスター 「彼方からの殺人」 

Murder From Beyond (1930) by R. Francis Foster (1896-1975)

正式名称は忘れてしまったけれど、ロンドンには心霊協会というものが、たしか二つくらいあって、私はその一つを訪ねたことがある。建物は、大きなお屋敷を改造したもので、なかなか雰囲気があった。さんざん歩いてそこに着いた私は喉が渇いていたのでコーヒーの自販機がある場所へまず行ったのだが、そこには人相の悪い男が一人ぽつんと座っていて、私をじろりと見つめるのだった。コーヒーを買って席に着き、彼に話しかけたら人相の悪い男は「おれは今朝刑務所を出てきたんだ」と言った。

私がその瞬間考えたことは、今朝刑務所を出てきたばかりならおそらく拳銃とかは持ってないだろう。背の高さは同じくらいだが、こっちは毎日身体を鍛えているから筋肉のつきかたが違う。格闘になっても五分五分以上に渡り合えるだろう、ということだった。そしてもう一つ考えたことは、ここに来る途中の廊下で、奇妙に緊張した面持ちの女とすれ違ったが、こいつのせいだったのだなということだった。

さほど怖れるには当たらないと判断した私は、コーヒーを飲みながらのんびり彼と話をしようと思ったのだが、相手は世間をすねたようなことしか言わない。そのうち私は彼が気の毒になった。彼は仕事があって食べて行けさえすれば犯罪は犯さなかったであろうことがなんとなくわかったからである。

十分くらいしゃべったころ守衛がコーヒー・ルームに入ってきた。初老のでっぷりふとった男で、入ってくるなり人相の悪い男に「出ていけ」と怒鳴りつけた。男はとたんに気色ばんで立ち上がり、二人は口論をはじめた。見ていると守衛は威勢こそいいが、相手は若いからけんかになったら分が悪いとふんだのだろう。じりじりと私の後ろに移動したのである! 相手がかかってきたら私を盾にするつもりなのだ。私はそういう卑怯者が嫌いなので、二人の怒鳴りあいに割り込んで「彼は私の友達だ。今おしゃべりをしていたところだ」と言ったのだが、その途端に刑務所から出てきた男はコーヒー・カップを守衛に投げつけ、守衛もテーブルにあった誰かのカップを投げつけ、私も「やめろ」と言いながら自分のカップを床に投げつけた。

刑務所から出てきた若い男はさんざん毒づきながら部屋を出て行き、守衛も私に「大丈夫か」と訊いたあと出ていった。

私は「彼方からの殺人」を読みながら何年ぶりかであのエピソードを思い出した。このタイトルの「彼方」というのは霊的な世界を意味するのである。もっとも私は心霊協会で霊的ならざる体験をしてしまったのだが。

推理小説に限らず十九世紀の世紀末から一九三〇年代ころまでずいぶんとスピリチュアリズムを扱った本が書かれた。当時は降霊術が大流行し、科学では解明できないもう一つの世界の存在が「一部」の人々の間で信じられていたのである。もっとも怪奇現象や降霊術のほとんどは単なるトリックであったようだけれど。しかしこれはミステリや怪奇小説の分野では格好のネタとなり、中には興味深い作品も書かれている。たとえば私が昔訳したメアリ・ロバーツ・ラインハートの「見えない光景」(Sight Unseen)とか、 Rita という筆名の人の Turkish Bath とか、ジョン・ミード・フォークナーの The Lost Stradivarius などは、あまり知られていないけれども、スピリチュアリズムを扱った秀作だろう。

「彼方からの殺人」の中身についてはあまり話したくない。古典的な推理小説かと思いきや、途中からオカルトに染まる展開は、非常に面白かった。その展開の意外さを、偏見も何の知識も持たずに味わって欲しいからである。しかし原作が読めない人もいるだろうからおおざっぱにどんな話かというと……。インドにプランテーションを持っていたウオートン一家がイギリスに帰国した途端、その家には幽霊が出るという噂が立った。そののちウオートン家の奥さん、その不倫相手をしていたとされる若い男、ウオートン一家と付き合いのあった牧師等々が次々と殺害されていく。ウオートン家の娘マージェリーは事件を解く鍵を知っているようなのだが、なぜか決してそれを語ろうとはしない。この事件を二人の新聞記者(トム・マニングとアンソニー・レイヴンヒル)が、地元警察やスコットランドヤードを協力して解決していくことになる。登場人物はきわめて多く、事件は複雑な様相を呈する。細かな事実が収集されては推理が展開され、最後はウオートン一家の秘密が暴露される。物語はテンポよく進み、適当な間隔で殺人や事件が起きるのでまったくあきることがなかった。しかもある種の雰囲気が作品に立ち籠めていて、それが映画の音楽や効果音のようにスリリングな味わいを高めている。

2015年12月9日水曜日

27 エルマー・エヴィンソン 「素人探偵」

An Amateur Performance (1909) by Elmer Evinson (1872- ?)

本書の終わりのほうには電気椅子への言及がある。そこでふと電気椅子はいつごろ死刑の方法として用いられるようになったのだろうと思った。ウィキペディアによると電気椅子による死刑を行っていたのはアメリカとフィリピンだけだそうだ。「行っていた」というのは今ではもう用いられていないからである。アメリカで最初に法律として電気椅子の使用が定められたのは一八八九年。この物語が書かれる二十年前だ。はじめて電気椅子にかけられたのはウィリアム・ケムラーという人で、一八九〇年八月に、まず千ボルト電流を十七秒間流されたのだそうだ。ところがそれでも息をしていたため、今度は二千ボルトの電流を流して彼を殺したそうである。電気椅子は絞首刑より人道的だと考えられて導入されたのだが、最初から無残な、そして皮肉な結果に終わっていたのだ。電気椅子は一九〇〇年頃には死刑方法の主流を占めるようになり、一九八〇年代に薬物が広く用いられるようになるまでつづけられた。

閑話休題。

本書はまことに古いタイプの detective story である。シャーロック・ホームズとワトソンのような二人組がいて、もちろん明敏なる名探偵が事件を解決するために八面六臂の活躍をするのだが、それは物語の前面にはあらわれず、彼から探偵の補佐を頼まれたワトソン役の、少々危なっかしい冒険が主眼に描かれる。本書でシャーロック・ホームズの役を演ずるのはクレイトン・キーン、ワトソン役を演ずるのはミスタ・ワッツである。名前からしてワトソンを連想させる。

事件の様相は二転三転するので順を追って説明しよう。

まず、ニューヨークの実業家で大金持ちのロジャー・デラフィールドが寝室で死亡する。その日、娘のヘレンが厩務員の男と駆け落ちしたという知らせに大きなショックを受け、ガス自殺をしたものと考えられた。

ところがキーンの捜査により、これが悪党三人組による他殺であることが判明する。悪党三人組とは、ロジャーの再婚相手(妻)と、彼が秘書に雇った男と、甥っ子のロジャー・エラーブである。とくにロジャー・エラーブはこの殺人の首謀者と言える。彼は叔父の息子アーサーと瓜二つなのを利用して、彼になりすまそうとした。彼はまずアーサーを殺し、セーヌ川に死体を捨ててしまう。さらに叔父とその娘を亡き者にしてしまえば、ごっそり遺産が手に入るはずだった。その計画を実行に移すために知り合いの悪党二人を叔父に接近させたのである。意外なことに叔父は二人の悪党のうち、女のほうに懸想し、妻として娶ってしまったのだけれど。

ロジャー・デラフィールドの娘ヘレンが厩務員の男と駆け落ちしたというのも億万長者の死を自殺らしくみせかけるために流された嘘で、彼女は悪党どもによって連れ去られたに過ぎないかった。

この話にはさらに一ひねりが加えられる。それは殺害されたはずのアーサーが実は生きていたといことである。しかし彼はロジャー・エラーブたちの悪巧みを阻止しようとして、逆に捕まえられ囚われの身となってしまった。

殺人事件の背後では、波瀾万丈の物語が展開しているようだ。こうした事情が物語の中で徐々に明らかになってゆくのなら、それなりに面白い物語が出来たのではないだろうか。しかし以上の内容は、探偵キーンの説明として一気に語られる。そう、探偵キーンが事件の真相を突き止める過程は、あくまでサブプロットに過ぎないのだ。物語の主眼は生まれてはじめて探偵活動をするミスタ・ワッツの冒険にある。というわけで、われわれはミスタ・ワッツが美しいヘレンを救出し、悪党どもと闘い、命からがら危地を逃れ、最後にヘレンと結ばれるという、なんともロマンチックな物語を読まされることになる。

変装やら、双子のようにそっくりの人間やら、善悪のきれいにわかれた人物描写やら、あきれるくらい古い物語のパターンと、古い倫理観に貫かれた作品である。文体もまことに古くさい。いや、単に古くさいと言うだけでは誤解されるだろう。この物語はじつに均整のとれた見事な文章で書かれているのだが、その背後には世界を一定の基準で裁断・把握することが可能だという信念が透けて見え、その考え方がいいようのない古さを感じさせるのである。

よく考えたらこの作品が書かれた同じ年に、本ブログで最初にレビューをしたキャロリン・ウエルズの「手掛かり」も書かれている。こういう古い detective story が量産されていた時期に、あれだけ近代的ミステリの結構を備えた作品を書いたのだから、キャロリン・ウエルズはやはりすごい。

2015年12月5日土曜日

26 ドロシー・ベネット 「いましめを解かれた殺人」

Murder Unleashed (1935) by Dorothy Bennett (? - ?)

サンフランシスコの十一月の霧の夜、デニス・デヴォアがホテルの自室のドアを開けると、ナイフで刺殺された女の死体が血の海の中に転がっていた。本書はいきなりセンセーショナルな場面から開始される。

殺されたのはデニスが見たこともない女だ。デニスが外出中であることを知っていた誰かが、女を彼の部屋に誘い込み、殺害したらしい。では、デニスはこの事件に何の関係もないのかというと、どうもそうではない。

話は一年前にさかのぼる。デニスはある女友達とドライブに出かけた。女が運転していたのだが、途中で彼女は人を轢き殺してしまった。パニックを起こした女はそのまま逃走。しかし彼女を自宅に送り届けたデニスは、彼女の代わりに警察に出頭し、自分が轢き逃げ犯であると名乗り出た。デニスは一年の執行猶予の後、今はラジオの歌手として働いていた。

さてデニスの部屋で殺された女だが、じつは彼女は一年前にデニスの女友達が轢き殺した男の妻だったのだ。しかも轢き殺されたと思われていた男は、車に衝突する前にすでに死んでいたようなのだ。謎が謎を呼ぶ展開である。デニスは二つの事件の連関を探って調査をしようとするのだが、それを邪魔するかのように、関係者が次々と殺されていく。

本書はいろいろと特徴のある作品である。三つの特徴が特に目についた。

まず第一に表現が妙に詩的だ。
彼の目は下に向けられたままだった。目は恐怖に大きく見開かれていた。ちょうど月の出ていない夜が暗闇に大きく開かれているように。
などといった表現がふんだんに用いられている。またデニスが歌手であるため、歌の文句が詩のように本文に挿入されている。正直なところ、こうした書き方が効果があげているかというと、そうは思えない。それどころか鼻について仕方がない部分さえある。しかし作者はこういう文体でミステリを書いてみたかったのだろう。彼女は How Strange a Thing という九十ページ以上もある韻文形式のミステリを書いているくらいだ。詩人がミステリを書く例は珍しくないが、詩の形式でミステリを書くというのはそう多くはない。(私が知っている例は、H.R.F.キーティングの Jack the Lady Killer やオリバー・ラングミードの Dark Star くらいである)

二つ目の特徴は、この作品の探偵役を務めるのがデニスであるという点だ。殺人事件の容疑者となった彼にはピーターという弁護士がつき、ケネディという新聞記者も彼の味方となって調査を助けてくれる。私はてっきりピーターか、癖の強いケネディが探偵役になるのだと思っていたら、なんとデニスが見事な推理を展開するのだ。容疑者とその弁護士が協力して調査に当たり、その際、弁護士のほうが脇役に廻るというのはあまりお目にかかれない設定である。

第三の特徴はデニスの推理の仕方である。それは厳密な演繹的推理とは言えない。いくつかの事実から直感的に全体を把握していくという方法である。煙草の吸い殻とか指紋といった物的証拠を積み重ねて議論を推し進めるのではなく、ある特定の場面における人物の行為・表情から、直感的洞察力を働かせて、その内面の真実を見抜くのである。デニスと犯人がはじめて遭遇した場面の奇妙さを指摘する部分などに、デニスの推理力はよく発揮されている。もしかしたらこういう推理は、作者が目指す詩的な想像力の一部分をなすのかもしれない。

最後にタイトルについて書いておこう。正直なところ、このタイトルの意味がよくわからない。本文中には leash について次のような説明がある。デニスは殺人事件の容疑者になるが、警察はすぐ彼を逮捕しようとしない。その理由をデニスはこう推測する。
長いリードをつけておくと、多くのバカ犬は勝手に自分で自分の首を絞めてしまう。警部はそういう作戦をとろうとしているんだと思う。リードをありったけのばして、おれがそれに絡まって動けなくなるのを待っているんだ。
これによると leash (ペットをつなぐリード)は動きを制限し、下手をするとあがきがとれなくなるくらい絡みつくものということになる。「動きを制限し、下手をするとあがきがとれなくなるくらい絡みつくもの」とはいったいんなんだろう。私にはこれがよくわからない。しかしともかく leash がそういう意味だとすればタイトルは、そのような制限のない殺人、暴走する殺人ということになる。それは犯人の目に宿っていた、ネズミの目のような赤い光が示唆するものでもある。

瑕瑾はあるが、決して悪くない作品だと思う。