2016年2月27日土曜日

43 サックス・ローマー 「フー・マンチューの手」 

The Hand of Fu-Manchu (1917) by Sax Rohmer (1883-1959)

前回レビューした作品が東洋の脅威を扱っていたので、なんとなくこの本を選んでしまった。しかしそれにしてもフー・マンチューものを読むのは何十年ぶりだろう。数冊読んだはずだが、まるで記憶にない。このブログでは既読の本は扱わないことにしているが、もしかしたら「フー・マンチューの手」をティーンのころに読んだかもしれない。しかし全然覚えていない。登場人物の名前にかすかな聞き覚えはあるのだけれど。

ただ最初のフー・マンチューもの The Mystery of Dr. Fu Manchu の出だしが pea soup とも呼ばれる霧に包まれた夜のロンドンからはじまっていたことは思い出した。本編もやはりロンドンの霧の夜からはじまる。ドクタ・ペトリがホテルの一室にいると、何か廊下から物音がする。部屋の中には十一月のロンドンの霧が外から忍び込み、ぼんやりと漂っている。「誰だね、そこにいるのは」と彼は言う。冒頭から不気味だが、しばらくするとなんのことはない、彼の大の親友ネイランド・スミスがあらわれる。この二人が黄色人種の脅威、フー・マンチューと闘うヒーローたちである。

しかし驚いたことにこの本ではフー・マンチューは死んだことになっている。これはフー・マンチューものの第三作に当たるから、二作目で彼は死んだのだろう。二作目は読んだと思うが内容はまるで覚えていない。だがフー・マンチューが死んでも彼が所属する悪の組織シー・ファンが活動しているのだ。イギリス、いやいや、ヨーロッパから、まだ危機は去っていない。シー・ファンは東洋の秘密結社で、女帝を戴く世界帝国の建設をもくろんでいる。フー・マンチューはその組織の中で重要なポストについていた。

シー・ファンが本書で最初に起こす事件は、以前随行員として北京の英国領事館に勤め、その後モンゴルを探検してシー・ファンの秘密をかぎつけたと思われるサー・グレゴリー・ヘイルの口を封じることだった。サー・ヘイルはモンゴルに入ってから半年あまりも行方不明になっていたのだが、突然ロンドンにあれわれ、ネイランド・スミスに会いたいと連絡してきたのだ。彼はモンゴルから青銅の箱をイギリスに持ち帰り、それを守るようにしてホテルの部屋から一歩も出ず、一睡もしていなかった。その箱の中にシー・ファンの組織の鍵となる何かが入っているらしい。

ところがネイランド・スミスとドクタ・ペトリが元随行員の部屋に行くと、サー・ヘイルは口がきけなくなっていた。何ものかが発声器官を麻痺させてしまう、ある東洋の植物の匂いを、ベッドに横たわっていたサー・ヘイルにかがせたのである。閉め切ったホテルの一室に、彼の他にいたのは忠実な召使い一人だけ。シー・ファンの仕業であることは明らかだが、いったいどうやってこの毒花はサー・ヘイルのもとにもたらされたのか。そして青銅の箱の中身は?

この小説はいくつものこうしたエピソードから成り立っている。その一つのエピソードではやっぱりフー・マンチューが登場する。彼は頭蓋骨を拳銃で撃たれたが、歩行に支障をきたしただけで生きていたのである。そして彼は頭蓋骨の中に残る銃弾を除去させるために二人の名医を誘拐する。そのうちの一人はなんとドクタ・ペトリである! 彼らはこの大手術を成功させ、解放される。そしてフー・マンチューはまたしても悪事に精を出すことになるのだ。

チープで仰々しい表現が羅列され、構成もやや散漫な印象を与える小説だが、これはこれで一つの立派な都市小説だなと感じた。もちろんここに描かれるのは明るい陽差しをあびて、人や車が忙しく行き交う大通りではない。闇の奥にうごめくものを隠している、両側を家々にはさまれた狭い怪しげな通路である。また、この小説は都会の住人としてイギリス人を描くだけではない。帝国主義と国際化の拡大の結果、マレー人の下僕、ヒンドゥー人の厩舎係、中国人の料理人、その他地中海やアフリカから渡来した、あるいは連れてこられた人や物や動物や文化が雑然と集合するロンドンを描いている。さらに、この小説はロンドンの現在を描くだけではない。大邸宅の分厚い隔壁や地下に隠された、邸宅の主も知らない秘密の部屋、秘密の通路をとおして、ロンドンには歴史の古層が隠されていることを示している。そういう意味でこれは都市というものをはなはだロマンチックにとらえた作品なのである。しかしながら、闇のヴェールの向こうにあるもの、自分たちとは文化の違う異国の人々、隠された不可視の構造は、同時に得体の知れない不気味なものとしても捉え返される。フー・マンチューというのはそうしたロマンチックな視線の歪みが実体化したものではないだろうか。

2016年2月24日水曜日

42 フランシス・ビーディング 「隠された王国」 

The Hidden Kingdom (1927) by Francis Beeding

フランシス・ビーディングはジョン・レズリー・パーマー(1885-1944) と ヒラリー・セント・ジョージ・ソーンダース(1898-1951)という二人の作家の合同ペンネームである。確か日本語の翻訳は出ていないと思うけれど、この二人は一九三一年に Death Walks in Eastrepps というなかなかいいミステリを書いている。ミステリ・ファンなら犯人を当てるのは容易だろうが、しかし書きっぷりといい、小説の構成といい、堂々とした作品で私は感服した。

本編はミステリとはちょっと違う。国際的陰謀をめぐる冒険談、あるいは犯罪小説といったほうがいいかもしれない。しかしホームズもののモリアーティー教授みたいな人間が出てきて、さらにフー・マンチューものを思わせるような東洋への怖れ(黄禍論)が見られ、この当時のパルプ小説やミステリに見られる想像力の形が確認できる作品になっている。

善悪図式が明瞭に表現されている作品で、善玉はフランスの諜報員レミーとガストン、それに二人の親友であるイギリス人のトマス。悪玉のほうはヨーロッパを混乱に陥れようとするクロイツェマルク教授とその部下エイドルフ、そして教授を援助するその他の人々である。教授の名前はナチスのハーケンクロイツを、エイドルフはアドルフ・ヒトラーの名前を想起させるが、これは作者が意図的にそうした名前を選んだのだろう。登場人物は善玉か悪玉のいずれかの陣営に属しているが、一人だけ特殊な人間がいて、それがガストンの恋人スザンヌである。彼女は義父が悪玉であったため、たまたま悪党たちと行動を共にするが、もちろんそれは彼女の望むことではない。彼女は善玉が悪玉に捕らえられてしまったときに彼らを助けようとし、それと引き替え条件に悪玉の計画に利用されることになる。

この物語を一言でまとめるとクロイツェマルク教授がモンゴルを軍事化させ、その指導者となり、ヨーロッパに襲いかかろうと計画するが、善玉陣営がそれを見事阻止するということになる。

クロイツェマルク教授がモンゴルの指導者になろうとするとき利用するのが、モンゴルに古くからあるとされる伝承で、これによるとあるとき「解放者」がモンゴルにあらわれ、彼が「恐怖の大王」を黄泉の国からこの世に呼び戻すのだそうである。そしてこの「恐怖の大王」に率いられモンゴルは、かつてチンギス・ハンが築いたような大帝国を形成するというのである。悪玉陣営はこれを使ってモンゴルを我が物にしようとする。もちろん「解放者」を彼らの一人が演じ、「恐怖の大王」にはクロイツェマルク教授がなるのである。

荒唐無稽もはなはだしいが、しかしジャンル小説というのはそういうものだ。現代のベストセラー作家、たとえばダン・ブラウンだって、同工異曲の物語をつくっている。そしてビーディングの想像力の根底にあるのは次のような考え方だ。
 「チンギス・ハンの子孫の間に何が起きているのだろう。世界の誰の目からも隠されたこの地域で、我々の知らないどんな力が解放されようとしているのだろう」
 「二十年前、ヨーロッパはそんなことを気にする必要はなかった。我々は堅固に守られ、栄えていた。安定した政府を持ち、ヨーロッパという組織に信用を寄せていた。しかしそんな時代は過ぎた。表向き、西洋文明はまっすぐに立っている。しかし混乱と不満に充ちた勢力に日々接している我々は、西洋文明がちょっとしたことであえなく崩れ去ることを知っている。ヨーロッパは今晩安らかに眠るだろう。しかしヨーロッパがが眠っている間にアジアの中央からアッティラが率いる騎馬隊が草原を越えて忍び寄っている。ヨーロッパは幼い子供だが、幼少にしてすでにその首都の廃墟の中を飢えた狼がうろついている」
ヨーロッパとその外という二分法は、黄禍論に限らず、人種差別や難民への偏見にも見られる構図である。ヨーロッパと非ヨーロッパをわける線はどこにあるのか、ということをめぐって、いまだに多種多様な冗談が生まれているくらいだ。しかしクロイツェマルク教授やエイドルフがヒトラーを暗示しているということ(この作品は一九二七年に出ているからそれは十分に考えられる)、そして彼らがヨーロッパを脅かすモンゴルと一体化するということは、実はヨーロッパの内部的な行き詰まり(デッドロック)がその外部に投影されているということを意味するのではないだろうか。我々は本来内部的な問題を(たとえば雇用の不足を)内的な問題ととらえず、ついつい外部(移民)に投げかけてしまうのである。ジャンル小説というのは案外政治的な意味を持つものだ。

なお本編は一九二五年に出た The Seven Sleepers の続編であるであることを付言しておく。

2016年2月20日土曜日

41 メイヴィス・ドリエル・ヘイ 「サンタクロース殺人事件」 

The Santa Klaus Murder (1936) by Mavis Doriel Hay (1894-1979)

この作者は一九三〇年代にたった三作だけミステリを書き残している。Murder Underground (1934) と Death on the Cherwell (1935)、そして本書である。彼女はもともとはハンドクラフトの専門家で、上流階級と縁戚関係があって、貴族の家で作品の展示などを行っていたようだ。
ミステリの黄金期のほんの一角を担っているに過ぎない作者ではあるけれど、本書はじつに堂々たる本格ものである。イギリスのとあるお屋敷にクリスマスを祝うために親族が寄り集まる。客の数は総勢十六名、屋敷の主ともとからその屋敷に住んでいる娘を含めると十八名。もちろんこれだけのお屋敷だから、運転手とか女中とか庭師とか料理人もいる。イギリスのお屋敷というのはホテル並みに部屋数があるのである。ロバート・アルトマンの「ゴスフォード・パーク」などを見るとそのあたりのことがよくわかる。あの映画は時期的にも本作の舞台と重なるところがある。

事件は次のようにして起きる。館の主であるサー・オズモンド・メルベリーは、子供たちとその家族等を招いてクリスマスを盛大に祝おうとする。彼はクリスマスの日に招待客全員、および使用人へもプレゼントを渡そうとするのだが、それを彼のお気に入りの若者オリバー・ウイットコウムにサンタクロースの恰好をさせてやらせることにする。お気に入りの若者というのは、サー・オズモンドは彼を娘のひとりと結婚させたがっているのである。

さて、サンタクロースの衣装を店から取り寄せるに当たってちょっとした不都合が生じていた。店側はとっくに商品を発送したといっているのだが、それが館には届いていなかったのである。クリスマスの時期で、郵便が混乱しているのかもしれない。とにかくサー・オズモンドは至急べつの商品を送るように命令する。

これだけでミステリを読み慣れた人なら、ははあ、と思うだろう。「それ」に気がつけば、犯人を予測することはさほど難しくないはずである。

しかしそんなことはどうでもいい。クリスマスの当日、サー・オズモンドはサンタクロースなど毛ほども信じていない孫たちにぷりぷりしながらも、サンタクロースの恰好をしたオリバーにプレゼントを配らせる。そして自身は書斎にひっこむ。殺人が起きたのはその書斎においてである。クラッカーがけたたましく鳴らされたあと、サンタクロースの衣装を着たオリバーがサー・オズモンドの書斎に行くと、なんと彼はピストルで頭を撃ち抜かれているではないか。

さっそく地元の警察が捜査に当たるが、客たちはそれぞれに誰かをかばっているのか、みんな本当のことをなかなか言わない。しかも自分が犯人でなくても、自分に嫌疑がかけられそうな証拠があると、平気で隠滅をはかろうとしたりする。そのくせ警察を無能呼ばわりしたりする。今も昔も金持ちというのは手に負えない連中である。しかしそれでも少しずつ物的証拠が集められ、あらたな事実が判明し、しだいに犯人はしぼられていくのである。捜査に当たるハルストック警視監はなかなか有能な人だ。サー・オズモンドの知人ということもあるが、自分勝手でわがままな人々に辛抱強く接し、道理を説いて捜査の協力を求める。彼はエラリー・クイーンのように演繹的推理を展開して読者をはっとさせることはない。ひたすら事実を家族から収集し、最後にふと「こう考えればすべてに納得のいく説明がつく」と真実を見抜くのである。最後の章には犯人を特定する決定的な条件がいくつか提示され、その条件を満たす人物がたった一人しかいないことが示される。

イギリスの田舎の邸宅で殺人事件が起きる、というのはミステリの王道を行くシチュエーションだが、正直読むのは大変だった。なにしろ登場人物が大勢で、クリスマス・パーティーの最中、全員が家の中を動き回っている。誰がどの瞬間にはどこにいたという記述が延々とつづくのだが、それを屋敷の図面とにらめっこしながら確認していくと、えらく読むのに時間がかかった。しかも容疑者たちは最初から本当のことを言わないので、それをあとから訂正し考え直すのは煩瑣なことことうえない。しかし推理パズルが好きな人にはこの作品はたまらないのだろう。goodreads.com などを見ると、ずいぶん高い評価をしている人がいる。私は推理パズルはよほど出来がよくないかぎり、退屈に感じる。

前から気になっているのだけれど、この頃のミステリに取り上げられる遺書にはよく「私が死んだときに○○が未婚であれば××の遺産を与える」などという一項が登場する。本書においてもサー・オズモンドは末娘を自分の手許に引き留めておきたくて、そんな一文を遺書の中に書き記しているのだが、あんな古くさい条件はいつ頃まで用いられていたのだろう。

2016年2月13日土曜日

番外8 「グランド・バビロン・ホテル」出版の前に

緊急告知

一週間後にアマゾンからアーノルド・ベネット作「グランド・バビロン・ホテル」を出版します。

「グランド・バビロン・ホテル」は文豪ベネットが書いた娯楽作品の中でもっともすぐれたものです。その内容は……。

アメリカ人の大富豪ラックソウルは、娘のネラとともに、休暇でロンドンのグランド・バビロン・ホテルに泊まっているのですが、夕食にステーキとビールを注文したばかりに、そのホテルを買い取る羽目に陥ります。グランド・バビロン・ホテルは世界中から有名人が集まる最高級のホテルなのですが、しかしじつはそのきらびやかな外見の背後で、ヨーロッパ規模の陰謀が渦を巻いていました。剛胆なラックソウル父娘は、敢然とその陰謀に立ち向かいます。

十九世紀の世紀末を舞台にした生きのいい冒険小説で、今読んでもすこしも古びた感じがしません。

この翻訳書をアマゾンから出版するまでのあいだ、一週間だけ(二月十三日から二十日まで)、無料提供しようと思います。宣伝が目的なので、どんどん他の人に伝えて、本をダウンロードしてもらってかまいません。販売がはじまったら、アマゾンのサイトで書評などを書いてくれると非常にうれしいのですが、べつに強制はしません。楽しんで読んでもらえれば結構です。

ダウンロードできる書籍は EPUB3 形式のみです。International Digital Publishing Forum の EPUB Validator (beta) でチェックし、問題が無いことは確認ずみです。ですが一応ウイルスチェックも含めてご確認おねがいします。

ダウンロードはこちらから。

一週間後にはこのブログ・ポストは消滅します。また、そのときまでブログの更新はありません。

追記: 「グランド・バビロン・ホテル」の無料提供は終了しました。

2016年2月10日水曜日

40 デレク・ヴェイン 「フェリーブリッジの怪事件」 

The Ferrybridge Mystery (1920) by Derek Vane (?1856-1939)

物語はこんな具合にはじまる。ギルバートはライラという美少女と恋人同士だったのだが、彼らが住むフェリーブリッジという小さな町にバジルがやってきてから二人の関係はおかしくなる。バジルは女性に対して不思議な魅力を持つ男だ。そしてそういう男にありがちなことだが、彼は男からは嫌われる人間である。バジルは美少女のライラを誘惑し、ライラはついつい彼と密会を重ねるようになる。

ギルバートはライラを信用していたが、母親からバジルとの噂を教えられ、ついにバジルの家へ直談判しに行くことになる。さあ、ここから事件がはじまる。

バジルの家に着いたギルバートは、家の中に誰もいないことを知る。ドアを開けて中に入ってバジルの名を呼んだが、まるで返事がない。そのときバジルの家の電話が鳴り、ギルバートは受話器を取り上げる。電話の向こうから聞こえてきたのは、なんとライラの声だ。「バジル、あなたなの?」と彼女は言う。

こんなときあなたならどう反応するだろうか。ギルバートはバジルの声音を真似て「ああ、そうだよ」と言う。それでライラの反応を確かめようとしたのだ。ところがライラはそれきり黙り込み、電話はとうとう切れてしまう。そのあとギルバートはバジルに会うことなく家に帰る。

翌日怖ろしい事件が新聞に報道される。バジルが家で射殺されて発見されたのだという。バジルの召使いは夜の八時十五分に家を出て、十時に帰ってきたのだが、帰るなり主人が殺されているのを発見した。ギルバートがバジルの家に行ったのは九時ころだが、これは微妙な時間帯で、彼は警察に行って事情を話す前にライラに電話の相手は自分であったことを打ち明けておこうと考える。そうしないとライラが九時にはバジルが生きていた、などと証言するかもしれないからだ。ところがライラはギルバートに、警察に行くのはやめろ、自分とバジルとの醜聞が世間に漏れてしまうと言うのだった。

これが冒頭の部分で、そのあと小説の三分の二が過ぎるまで事件は遅々として進展しない。警察の捜査に関してはなんの言及もなく、探偵役の誰かが活躍することもない。ではその三分の二に何が描かれているのかというと、いわばバジルによってその結合をさまたげられていた二つのカップル、ギルバートとライラ、そしてイルマとリチャードが、次第にその関係を修復して行き、前者は結婚へと向かい、後者は実際に結婚するという過程である。ライラもイルマもバジルの悪魔のような魅力の虜になり、不幸にさせられたのだった。そしてバジルのせいで本当に愛する相手と一緒になることができなかったのである。二組のカップルは愛する相手とのあいだに挟まる忌まわしい思い出、すなわちバジルのことを忘れてしまおうと努力し、その努力は実るかに思われた。

しかしバジルの死を決して忘れない人物がいた。バジルの母である。年老いた彼女はほとんど骨と皮の状態になりながらも、目を煌々と光らせ、人を使って犯人を捜させる。そしてギルバートとライラ、イルマとリチャードにバジルの死を忘れさせまいとするのだ。どんなに二組のカップルが彼らの仲を引き裂く、トラウマ的な出来事を忘れようとしても、そしてトラウマ的な出来事が起きてからどんなに時間がたとうとも、それは必ず回帰してくる、というわけだ。そういう意味でこの小説は精神分析学的な要素を持っていると言える。ミステリとしてはつまらないが、作者が描こうとしているものはよくわかる。

一つだけ気になったことがあるので、最後に書き付けておく。本書の章の冒頭には詩の引用やら諺が書かれているところがある(全章に掲げられているわけではない)。たとえばある章の冒頭にはジェイムズ・シャーリーの「運命から身を守る鎧は存在しない」がひかれ、別の章の冒頭ではロシアの諺「あなたの兄弟の魂は暗い森のようである」が置かれている。こういう衒学趣味は私は好きではないのだが、しかし「ルバイヤート」の「動く指は書き綴り、書き終えてさらに書き進む」という文句が出てきたときは、ふと立ち止まって考え込んだ。「動く指」はアガサ・クリスティの作品のタイトルとして有名になったが、この引用がミステリに最初にあらわれたのはいつなのだろう。匿名の手紙が大きな役割を果たす作品では、よく「動く指」の一節がひかれる。本作は一九二〇年の出版だが、もっとさかのぼれるだろうか。「動く指」=「匿名の手紙」はミステリにおいて常用される換喩の一つであるので、なんとなく気になる。

2016年2月6日土曜日

39 ダービー・セントジョン 「ウエストゲイトの謎」 

The Westgate Mystery (1941) by Darby St. John (1909-55)

驚いた。前回読んだ本はひどい出来だったが、「ウエストゲイトの謎」は風格のある見事なミステリだ。ランダム・ハウスから出た本だが、さすがに目が肥えている。いい本を出してくれた。

ウエストゲイトというシアトル近辺の小さな町を舞台にした物語である。小さな町といっても、語り手のウイリアム叔母さんをはじめ、大金持ちが何名か住んでいる海沿いのコミュニティーだ。

登場人物は膨大で人間関係は複雑である。とても全体を短く要約することは出来ない。最初の殺人が起きるところまでをかいつまんで説明しよう。

語り手のウイリアム叔母さんにはロジャー、ギルバートという二人の孫がいる。ロジャーはまだ学生で、歳上のギルバートは銀行家である。ロジャーにはキャサリンというフィアンセがいるのだが、あるとき二人は烈しい喧嘩をし、ロジャーはそのはずみでペネロペという女と衝動的に結婚してしまう。このペネロペというのがウエストゲイトの男を誘惑しては浮き名を流していた、身持ちのよくない女で、もちろん彼女はロジャーが遺産で受け取る莫大な金を目当てに結婚したのである。

ロジャーも冷静になると自分の軽はずみな行為を反省し、ペネロペに離婚を申し出るのだが、ペネロペのような女が、はいそうですかと、引き下がるわけがない。ウイリアム叔母さんは結婚したものは仕方がないと、自分の屋敷で結婚を祝うパーティーをひらくことにする。そこには町の有力者や友人たちが大勢集まった。殺人が起きたのはそのパーティーの最中である。屋敷に飾られていたナイフのコレクションの一本が盗まれ、それでペネロペが刺殺されたのである。こうして凄惨な連続殺人劇が開始された。

この作品の良さはまず第一に豊かなドラマが展開されていることだろう。恋人が浮気をしていると勝手に思い込み、仕返しのようにほかの女と結婚して後悔するロジャー。また別の若者は、世間を知らずで、悪事に手を染め、逆に脅され親に泣きつく。別の男は材木会社の社長である母親に頭が上がらず、彼女の下で働きながら、逼塞したような人生を送っている。またある娘は巨額の遺産を受け取るが、容貌が醜いがために誰にも相手にされず、遺産を放棄して尼僧になることを考える。そして最後の二人、つまり、母親に頭を押さえられ、逼塞したように生きている男と、誰にも顧みられない女とのはかない恋。そういった愚かな、逆に言うと人間性豊かなドラマがいくつもからみあってこの小説はできている。単に証拠を提示するための無味乾燥な記述ではなく、小さな町に息づいている小さな虚栄や苦悩や悲しみが、実に簡潔な筆致で、しかし生き生きと描かれている。

第二に語り手の人物造形がすばらしい。ウイリアム叔母さんは七十二歳のおばあちゃんだが、頭はしっかりしていて、大きな屋敷の主として雇い人たちには凛として指示を下している。しかも行動力と良識に溢れ、どんな場面においてもユーモアを忘れない女性である。いかにも「酸いも甘いも噛み分けた」という感じの甲羅経た女性であり、かつ何歳になっても人生に積極的に取り組むたくましさを持っている。正直に言おう。私はウイリアム叔母さんに惚れ込んでしまった。そしてこれだけ豊かで立体的な人間像をつくりだした作者の手腕に仰天した。これは並の作家ではない。

第三にミステリとして秀逸である。誰も彼もが怪しく見えるが、犯人は私がまったく想定していなかった人物だった。一部の手掛かりが探偵役のヘバック判事にしかわかっていないという不満はあるけれども、そんなことは気にならないくらいあっと驚く犯人である。

私はこの作品を読みながら三人の別のミステリ作家を思い出した。一人は「レベッカ」を書いたドゥ・モーリア、一人は「死にたかった娘」を書いたE.S.ホールディング、もう一人は「寝台席十番下段の男」のメアリ・ロバーツ・ラインハートである。「ウエストゲイトの謎」には「レベッカ」に見られるような豊かなドラマ性があり、ホールディングが描くのを得意とした異常心理があり、ラインハートばりのスリリングな暗闇の描写がある。ネットを検索してみたが「ウエストゲイトの謎」を取り扱った記事は一つも見つからなかった。これだけの作品がまったく評価もされず無名のまま埋もれているとは驚きだ。私はこれからダービー・セントジョンの作品をすべて探し出して読むつもりである。

前回レビューした作品の作者フィッツシモンズはシナリオ・ライターでもあったらしいが、今回選んだ本の作者も映画関係者だ。imdb.com の情報によると、本名はエリザベス・ビートリス・ベイトソン・レドリッヒ。小説を書いたり音楽の作曲をしていたらしい。

2016年2月3日水曜日

38 コートランド・フィッツシモンズ/ジェラルド・アダムス 「これは殺人だ!」

This -- Is Murder! (1941) by Cortland Fitzsimmons (1893-1949) and Gerald Adams (?-?)
 
タイトルもひどいが、文章もひどい。よくこんなものが出版されたものだ。文章の訓練を受けたことのない素人が、自分だけいい気になって筆を走らせたという印象の作品で、登場人物の性格も心理もおよそ単純きわまりなく、会話にユーモアを持たせようとしているが、そのあまりの臭さに鼻をつまみたくなる。以前アン・オースチンという人の「黒い鳩」という作品をこき下ろしたことがあったが、本作はそれに匹敵する駄作である。

「文章がひどい」と書くと、私はいわゆる文学的な格調の高い文章を好むように思う人がいるかもしれないけれど、それは違う。文法的に正しい文章が書け、措辞に巧みな人がものした作品であっても、感心しないことはよくある。また本作は小説家がハリウッドの映画制作にまつわる殺人事件を語る形式を取っているが、口語的な文章だからと言ってだめだということもない。エリック・ナイトの「黒に賭ければ赤が」は教養のない田舎者が語る物語だが、あの文章はすばらしいと思う。

善い悪いの違いを説明するのは難しいが、思い切って簡単に言えば、文章にある種の緊張感があるかどうかが問題なのだと思う。コミック・ノベルであってもよい作品には文章に「ある種の緊張感」があるのだ。それは文章を通して世界と対峙する認識力の緊張感である。作者自身がそのことを意識している、していないは別として、私は知的な認識を持たない作品は、娯楽のために書かれたものであったとしてもつまらないと思う。また認識があったとしても、それが平凡に堕している場合は、やっぱり作品としてもつまらない。

最近カズオ・イシグロの発言がきっかけになってジャンル小説と本格小説の違いということが議論されたけれど、私にとってはどちらの場合も評価の基準は同じである。私はヘンリー・ジェイムズを読むときのようにジョルジュ・シムノンを読むし、読解の対象としてどちらが難しいかと問われれば、両者はまったく同じと言うしかない。つまり私にとってジャンル小説も本格小説も価値的には同じである。そのような区別をすること、そしてそのような区別によって(わかりやすい、とか、読みやすい、といったような)価値づけをすることには、何の意味もない。

アーノルド・ベネットは本格的な小説のほかにファンタジーと称して一連の娯楽作品を書いている。グレアム・グリーンもエンターテイメントと称するジャンル小説を書いている。三島由紀夫だって「金閣寺」のようなこむずかしい小説のほかに、通俗的な作品を多数書いている。これらは読者層を意識して書き方を変えているのだが、より接しやすい作品だからと言って、その読解が容易であるかというととんでもない。三島由紀夫もグレアム・グリーンも本格的な小説のほうがそのテーマや構造は見て取りやすい。通俗的な作品のほうが、作家の観念がより作品の中に溶け込んでいる場合が多く、それを取り出すのはかえって難しいのである。「黒に賭ければ赤が」はそういう作品だ。話は面白くて難しいところなどどこにもないが、実は哲学的な議論がその中に溶かし込まれている。それを取りだしてくるには相当な読解力が必要である。

話が思わぬ方向に進んでしまった。今回読んだ本は、あまりにも馬鹿馬鹿しく、議論する箇所がどこにもないので、こういうことになってしまった。しかし一応ノートをつけながら読んだのだから、最後に本作の概要をちらっとだけ書いておこうか。

ハリウッドのとある映画会社が「ブルー・ラグーン」という映画の撮影を開始するに当たり、ヨット上でパーティーを開催する。集まったのは映画監督、主演女優、共演者、会社の社長、脚本の原作者、新聞記者、その他もろもろである。その席でちょっとしたゲームが行われる。宝石が浅瀬の澄んだ海の中にばらまかれ、それをパーティーの参加者がもぐって取ってくるという遊びである。取っただけ自分のものにできるとあって、大勢が水しぶきをあげて海に飛び込み、大騒ぎである。ところがすぐに主演女優が力なく水の中を漂っているのが見つかる。助け上げてみると、彼女は死んでいた。足にはナイフで切ったような跡がある。調べると即効性の毒を塗ったナイフで切りつけられたらしい。犯人はヨットに乗っていた誰かだ。乗客は一人一人調べられ、その背後に複雑な人間関係、国際的陰謀、情欲や利害が存在することがわかる。

いちいち例を挙げて説明する気にもなれないが、はたしてこんなことが現実にあり得るだろうか、とか、かりに戯画化されて描かれているにしてもはたして人間はこんな行動を取るだろうか、といった疑問が次々と湧いて来る。はっきり言って小説以前の作品である。