2016年10月12日水曜日

番外20 最後の挨拶、あるいは次なる殺人の予告

とうとう百冊読み終わった。正直、このブログを書くのはしんどかった。読むのはべつにたいしたことではない。洋書はいつも一週間に二冊から三冊は読んでいるのだから。しかし読んだ本についてまとまった文章を書くのはつらい。よい作品なら書きたいことはすぐに見つかるのだが、凡作とか駄作となると、一定の分量の文章を書くのは至難の業であった。

一回の読書で作品の中から重要と思われる問題点を見ぬくというのは予想以上にたいへんな作業だった。だいたい私は気になる作品は十回でも二十回でも読み直して、ようやく意見がまとまるというタイプの人間だ。それが一回の読書で問題点を把握し、それに対する考えをまとめようとしたのだから、読書中に大量のメモを取らねばならず、ほんとうにしんどかった。もちろん問題点をうまく把握できず、その場しのぎのごまかしレビューを書いたことは何度もある。というか、それがほとんどだった。把握できたとしてもそれを深く論じることなどとてもできやしない。

しかし強行作業ではあったものの、とにかく一年以上にわたって、二十世紀前半におけるミステリのありようを考えつづけたわけで、この連続性の中で、多少は自分の考え方がまとまってきたり、広がりを見せるようになったということは(言い替えれば、自分の考えの不徹底さが露見して泥縄式に穴を補おうとし、その過程で議論がまとまるどころか、逆に論点がいたずらに拡散したということは)事実である。このブログで見出した論点については次のブログでも引き続いて考える予定である。

無名作家をずいぶん読んだが、その中にも優秀な作品があるのには驚いた。このような作品に出合うことは純粋な喜びである。また駄作を読んだからと言って時間の損になったとは言えない。多くの作家たちがトライアル・アンド・エラーを繰り返して、近代的なミステリの型ができあがったという、その歴史的過程が実感できたのだから。

百冊の中でいちばん印象に残るのは第四回にレビューしたエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」。善なるもののパソロジカルな性格を追求して圧巻だった。この本を読んだ後、アレンカ・ズパンチッチの Ethics of the Real という理論書を読んだが、ホワイトの作品を理解する上で非常に参考になった。エリザベス・フェラーズの「三月兎殺人事件」も本格ものとしてよくできている。どこかの出版社が翻訳を出すべきだろう。

これでこのブログは終了である。お読みいただいた読者の方々には心から感謝を申し上げる。こういうブログに興味を持たれる方は、ハードコアのミステリファンか、読書家のなかでも相当な「すれっからし」であろうと思われる。しかし英語圏では電子出版によって古い本、絶版本がかなり自由に手に入るようになってから、今まであまり注目されていなかった本を再評価しようという動きが、もう十年ほども前からはじまっている。ブログでは Backlisted とか The Neglected Books Page などというすぐれたサイトができているし、出版社では Valancourt とかマクミランの Bello などはそうした再発掘の努力をしている。私の試みもそうした流れの中にある。

次のブログではヴィクトリア朝の最後期からエドワード朝にかけての本を扱う予定である。年代で言うと1880年頃から1920年ぐらいのあいだである。じつは今、世紀末に書かれた、やたらと長いメロドラマ小説を(四苦八苦しながら)翻訳しているので、その頃出版された本を重点的に読んでみたいと思っているのだ。ただしジャンルはミステリにこだわらない。普通の文学書だろうが、(大学の図書館が貸してくれるなら)研究書だろうが、怪奇小説だろうが(この時期の怪奇小説には知られざる傑作、注目すべき作品が多々ある)、必要とあらば既読未読にかかわらず読みたいと思っている。

2016年10月11日火曜日

100 ウオルター・リヴィングストン 「バーンレイ邸の謎」

The Mystery Of Burnleigh Manor (1930) by Walter Livingston (1895-?)

ニューヨークの建築家ライカーは、イギリス人のセシル卿に請われて、卿の屋敷バーンレイ邸のリニューアルのため、イギリスにおもむく。もちろんこの当時はまだ飛行機はないので、旅行は船でおこなう。ライカーは豪華な船室をあてがわれ、召使いまでつけてもらい、しかも料金はただという、まことにうらやましいご身分でイギリスに渡る。しかし同じ船に乗っているセシル卿から、不思議な命令が彼のもとに来る。しばらくのあいだはあてがわれた船室から外に出るな、ほかの乗客とも接触するな、というのである。

アメリカ人のライカーはこの無体な命令にむっとする。べつにアメリカ人じゃなくてもむっとするだろうけど。しかし後日、セシル卿からその理由、およびリニューアルを頼まれたバーンレイ邸の歴史を聞いて、彼は大いにこの仕事に乗り気になる。

セシル卿には男の兄弟が二人いて、もちろん長男がバーンレイ邸の主人になっていたのだが、彼と弟との間になにやら確執が生じ、弟はある日、忽然と姿を消してしまうのである。しかもそれとともに長男の美しいエジプト人の妻も姿を消すのだ。まあ、なにがあったかはだいたい予想がつくだろう。

ところがそれ以後バーンレイ邸には幽霊が出るようになった。こつこつと足音が邸内に響き、その足音はドアが閉まっていてもそこをすり抜けてしまうのである。これは長男だけではなく、召使いもセシル卿も実際に見て、いや、「聞いて」知っていることだった。

長男は精神を病んで自殺し、それ以後邸は入口を閉ざされ、管理人に管理されているだけだったのだが、最近その管理人から奇妙な報告がきた。何者かが入口の閉ざされた邸の中に入り込んでいるようだというのだ。しかも中に入った何者かが、その後、外に出てきた気配はない。セシル卿はこの邸をリニューアルするだけでなく、邸にからんだ謎を解明してもらおうとライカーに白羽の矢を立てたのだった。卿がライカーに外部との接触を禁じたのは、邸に入り込んだ賊が彼らを見張っているかもしれないと、警戒したからなのである。

話の出だしはこんな感じだ。もちろんすぐに読者は、ははあ、この邸には秘密の通路があるのだな、ということがわかるだろう。先の展開が非常に読みやすい小説ではある。

では、この後、ライカーが建築家=探偵として邸の謎を解明するのかというと……そうはいかない。彼は屋敷に着くなり、管理人の娘に恋をしてしまうのだ。しかもこの娘というのが事件といちばん深い係わりを持っている、怪しい、謎の娘なのである。つまり、このところ私が言い続けている事件=ドラマの外部/内部という問題に照らすなら、彼は内部に強い靱帯でもって(恋愛くらい強い靱帯もないだろう)関係をもってしまうのだ。探偵はあくまで外部に留まらなくてはならない。ライカーは内部に足を踏み込むことで探偵としての位置を失う。すなわちこれ以後、物語はメロドラマとなるのである。

こういう作品が二十世紀の前半に「ミステリ」としてたくさん書かれたことは、このブログをつけながら私はいやというほど再確認した。ここを通過して、探偵が外部にいる本格的なミステリが、型として成立するのである。

しかしこう言ったからといって、私がメロドラマを好まないわけではない。それどころか、メロドラマ的な要素がない作品は、正直ちょっとつまらないと思ってしまうくらいだ。毒々しい色彩のメロドラマは、立てつづけに読むと飽きが来るが、たまによむと面白い。じつはこのブログのあとはヴィクトリア朝の最後期からエドワード七世時代にかかれたメロドラマや、その時期を扱った研究書を読もうかと思っている。(もっとも研究書は大学の図書館が貸してくれないので何冊読めるかはわからない)

そんなことはともかく、物語のほうに戻ろう。メロドラマであることがわかってもこの作品は充分に面白く読める。管理人の娘の不可解な行動、娘を好いているライカーのフラストレーション、神出鬼没な幽霊、邸の秘密を知っているはずなのに、決してそれを話さない召使いたち、暗闇の中で展開するライカーと幽霊の闘争。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい話だ。真相がわかった読者は、物語を振り返って、登場人物たちがあんなに謎めいた振る舞いをしていたのは、ちょっとやり過ぎ、大袈裟すぎじゃないかと思うだろう。まったくその通りだ。しかしそういう「やり過ぎ」なところがいいのである。バルザックを読むと、なんというのだろう、ある種の満腹感が得られるが、それはこのように極端にまでつきつめられた情念や人間性に対する満腹感ではないだろうか。

2016年10月10日月曜日

99 フォレスト・リード 「春の歌」

The Spring Song (1916) by Forrest Reid (1875-1947)

子供向けのミステリはないかと Internet Archive を探していたらこの本を見つけた。これは奇妙な小説だ。ウエストン家の子供五人、その友だち一人、そして飼い犬一匹が夏休みに繰り広げる冒険を描いているのだが、普通の子供向けの作品よりもシンボリックな書き方がされていて、シンボルとシンボルの連関性を把握しながら読み進めるにはかなりの文学的素養と読解力を要求される。子供向けの本のようなのだが、作者が念頭に置いていた読者は子供じゃないのかもしれない。

また、この本はやんちゃな子供たちを描いているが、後半は不気味なファンタジー、あるいはホラーであって、そこに推理小説的要素が加味されるという、不思議なジャンルの混淆を見せている。かといって作品が分裂しているわけでもない。まことに珍なる作品である。

作者はアイルランド人で、今はもう忘れ去られた作家になってしまったが、生前はジェイムズ・テイト・ブラック記念賞を取ったりして、それなりの評価を受けていた。私は二三冊彼の本を読んだが、いずれも少年が主人公だった。

本編の粗筋をまとめておく。ウエストン家の子供五人が家庭教師に連れられて、アイルランドの祖父母の家で夏休みを過ごすことになる。男の子が三人、女の子が二人だ。ここにペットの犬パウンサーと、長男のエドワードの友人パーマーが加わる。六人の個性豊かな子供たちと、愛嬌のある犬が主人公だ。

この中でいちばん歳上なのはパーマーで十五歳か十六歳くらいと思われる。シャーロック・ホームズやラッフルズの愛読者で、大人顔負けの直感力を持った、冷静で知的な少年である。そのほかのウエストン家の子供たちは、反抗期の少年であったり、おさなさを多分に残した少女たちだ。ただ一人異質なのはグリフィスで、彼は非常に感受性が強く、内省的な少年である。

本編の前半部分は子供たちがクリケットの試合をしたり、即席の芝居を演じたりと、大騒ぎを展開する。ところが後半に入るとパーマーとグリフィスにスポットライトが当てられ、暗く恐ろしい、幻想的な筋が展開する。前半の明るく陽気な物語が、後半になって突然薄闇の漂う内面世界に移行するところは、あざといくらいに印象的だ。

後半でなにが起きるのか言うと……ネタバレになってしまうけれども、こういうことだ。子供たちの祖父は牧師さんで、彼の教会にはブラドレーというオルガン弾きがいた。このオルガン弾きがじつは精神異常者で、かつて妄想にかられて兄を殺したことがあったのである。彼は精神病院を退院したあと、自分の過去を隠して、祖父の教会のオルガン弾きになった。そしてブラドレーはたまたま知り合いになった多感な少年グリフィスに彼の妄想を語り、少年はその恐ろしい妄想のとりこになり、体調をこわし、寝込んでしまうのである。

グリフィスはブラドレーから聞いた恐ろしい話を誰にも話そうとしなかったが、パーマーはホームズ並の直感力と独自の調査でブラドレーの正体を推測し、グリフィスの突然の病いの原因を見ぬく。そして決定的な証拠をつかむために彼はブラドレーの下宿にのりこみ……最後には驚くべき結末が訪れるのだ。

この作品を読んでいるとき、ドイルの「ヴァスカヴィル家の犬」とかジェイムズの「ねじの回転」とかフォークナーの「失われたストラディヴァリウス」など、いろいろな作品を思い出した。たぶんたくさんの先行作品から種々の影響を受けてできあがったものなのだろう。文学は文学からつくられる。

私が興味深く思ったのは探偵の役割を果たすパーマーの、物語の内部における立ち位置である。私は何度も探偵は事件=ドラマの外部に位置すると言ってきたが、それがここでもあてはまる。彼はほかの子供たちの遊びのおつきあいをするが、どこか彼らと距離をおいている。彼が夏休みを過ごすアイルランドの一小村も一歩下がったところから眺めている。彼は作中の子供たちにも大人たちにも依存しない、独立した存在である。だからこそ牧師も含めて村の人にはわからなかったオルガン弾きの正体が、彼にはわかるのである。彼は村で起きている出来事を外形においてとらえることができる。症候としてそれを読み解くことができる。

しかしこういう外部の人間は、内部の人間にはどう映るのだろうか。よく探偵の非人間性が取り沙汰されることがある。探偵は事件の真相を見ぬくことには関心があるが、事件の当事者たちがどうなろうと興味はない。彼は冷酷な観察者ではないか、と。まったくおなじ感想を、夏のあいだ子供たちを受け容れた彼らのお祖母さんが言っている。「パパはパーマーが大嫌い。私は、そうね、子供たちの遊び相手として彼を選びたくはないわね」と言う。さらに「子供たちはみんな彼が好きだわ。(とくにパーマーのことを好いている)アンは彼のためにお祈りを捧げるけれど、でも彼は彼らが好きかしら。たぶんアンのことは好きだろうし、グリフィンのことも多少は好きなんだろと思う。でも親友のはずのエドワードはどうかしら。ほかの子供たちことは? ちっとも好きじゃない。わたしたちのこともよ。彼は足もとでわたしたちが溺れていても、縄一本投げようとしないで観察するでしょう」お祖母さんのパーマーにたいするコメントは、外部の人間が内部の人間にどうみえるのかを的確にあらわしていて興味深い。もうちょっとだけ引用しよう。「パーマーは冷淡なのよ。グリフィンのために彼がしたこと、あれはすべて彼にとっては気晴らしみたいなものだったのよ。わたしは彼が賢明で勇気があるという事実を認めるにやぶさかではありません。でも彼に良心とか道徳心があるかというと、疑問だわ」

本作はミステリなのかホラーなのかよくわからない不思議な作品だが、パーマーによって描かれているものは、あきらかに外部に立つ「探偵」の姿である。

2016年10月9日日曜日

98 ジョン・ファーガソン 「狩猟場殺人事件」

The Grouse Moor Murder (1934) by John Ferguson (1871-1952)
 
作者はスコットランド生まれの牧師さんだったらしいが詳しいことはわからない。神の愛と魂の救済を説く牧師さんが、殺人をテーマにした本を書くのは矛盾しているようだが、しかしスコラ哲学を生み出し論理的な議論に長けた僧侶たちの血が、現代にいたっても彼らの血管の中を色濃く流れているのだろう、牧師さんのなかにはヴィクター・L・ホワイトチャーチとか、すぐれたミステリを書く人が多い。本編も事件の様相が二転三転どころか四転五転六転する見事な作品で、論理ゲームとしてのミステリの要諦をがっちりとつかんだ男によって書かれた作品と言える。

事件は金持ちのどら息子ども五人が雷鳥の狩猟にでかけたときに起きる。この日は濃い霧が出ており、狩猟に向いていないどころか危険でさえあるような状況だったのだが、なにせどら息子どものことだ、行こうと一決するとどやどやと全員が狩猟場にむかった。そして下の図にあるように距離を置きながら横一列になって狩猟場の坂を下に降りていった。そのときだ。霧の中で一方の端にいるブレントが撃たれ、腕を負傷したのである。

警察は霧の中で隊列を乱した誰かがブレントを撃ったのではないかと最初考えた。しかしその説が否定されると、密猟者による仕業ではなかろうかと考える。密猟者どもはある事情から地主のウィロウビイ氏を敵視していて、ブレントはたまたまウィロウビイ氏の白いカッパを借りて着ていたのである。つまりブレントは密猟者にウィロウビイ氏と間違われて撃たれたのではないかというのである。

ところが地元警察による捜査の最中にブレントは静養していた家の書斎で自殺する。最初は腕に大けがを負い、ピアニストとしての将来を悲観して自殺したのかとも考えられたが、彼の母親は断じてそんなことはない、息子は殺されたのだと主張する。そして地元の警察では頼りないからとロンドンの名探偵フランシス・マクナブが呼ばれることになる。

しかしマクナブにとってもこの事件は難物だった。狩猟場でブレントを撃ったのは誰なのか。ブレントが死んだとき、彼がいた書斎は密室状態だった。もしもそれが他殺だとしたなら、犯人はいったいどのようにブレントを殺し、書斎を出て行ったのか。難問だらけの事件で、名探偵はほとんど負けを認めて事件から撤退しようとするのだが、そのときある人物のひとことが大きなヒントとなって彼は真犯人をずばりと指摘する。

スコットランドの地元警察にもなかなか優秀な人材がそろっていて、彼らが事実を収集し、そこから事件を組み立てていく前半部分もなかなか読み応えがある。しかし事件を解決できるのは本書の後半に入って登場する名探偵のマクナブである。なぜ地元警察には解決ができないのか。最近私がブログに書いていることを読んでいる人はおわかりと思うが、地元警察は充分に事件=ドラマの外部に立っていないからである。あまり詳しく書くと本書をこれから読む人にとって興ざめとなるからおおざっぱに言うが、彼らは事件の容疑者として距離を置くべき人物となあなあの仲というか、その人物の影響下にあるのである。地元警察はその地域の人々、風習、実情をよく知っているし、頭もいい。しかし事件=ドラマに片足をつっこんでいる状態では正しく犯人を指摘できない。それができるのは外部に立ちうる人間、たとえばロンドンから来たよそ者であるマクナブのような男なのである。本格ミステリはその構造上、事件=ドラマに対する外部的な視点を必要とする。これが最近私が考えていることだ。

一カ所、面白い場面がある。マクナブがブレントの母親に捜査の状況を報告する。それを聞いた母親は興奮してさっそく地元の有力者にそのことを伝え、彼の協力を得ようと言う。するとマクナブは血相を変えて反対する。この場面でなにが起きているのかというと、母親が捜査内容をある有力者に話をし、その人物の協力を得ようとすることで、マクナブは自分が事件=ドラマの内部に取り込まれることを怖れたということである。彼は容疑者たちが泊まっている屋敷に弁護士の振りをして入り込むが、けっして彼らと関係を持つことはない。あくまでも外部の人間にとどまろうとする。多くのミステリで名探偵は最後の大団円にいたるまで自分の捜査の内容を語らないものだが、それは語ることによって自分の立ち位置が変化することを怖れているからではないだろうか。立ち位置が変化した途端、彼は事件を読み解くことができなくなってしまうのだ。

だが、そんな理論的な話はともかく、本書は本格ミステリとして非常によくできている。gadetection のサイトには本書のレビューが載っていて、作者の文章に難癖をつけている。たしかに私も二三箇所、表現を工夫すればもっとわかりやすくなるのにと思ったところがあった。しかしこれは瑕瑾であってさほど気にはならない。それよりもまったく無名の作家がこれだけの力作を残していると言うことのほうが驚きだ。私は大いに本書を推奨する。
 

2016年10月8日土曜日

97 ジ・アレスビーズ 「死者のしるし」

The Mark Of The Dead (1929) by The Aresbys

奇妙な作者名で、発音もよくわからない。どういう由来なのだろうか。カリフォルニア大学バンクロフト図書館のサイトにはこの作者が1927年に書いた Who Killed Coralie という作品の粗筋紹介がある。その最後にアレスビーズとは Helen R. Bamberger と Raymond S. Bamberger の合同ペンネームであると書いてある。夫婦でミステリを書いていたのだろうか。

作者は無名だが、内容は滅法面白い。いや、滅法面白いなんてものじゃない。最初の殺人が行われてからは巻を措く能わざる面白さである。面白さという点だけを取れば、このブログで読んだ本の中でも三本の指に入るだろう。goodreads.com を見ると(どんなに無名の作品でもこのサイト見るとたいがい誰かが読んで感想を残しているのだが)なんとこの作者の作品はまだ誰も読んでいないようだ。しかし面白さは私が保証する。英語ができるなら是非一読してもらいたい。私はこれからさっそく Who Killed Coralie を読むつもりだ。こういう本を見つけ紹介できるというのは本当に楽しい。

ただし本作はミステリ仕立てで探偵役もいるが、本当の意味でミステリとはいえない。また、最後に明かされる真相はかなり荒唐無稽で、(人種的)偏見がこもっているとさえ言えるだろう。

本編の主人公はダービーという男だ。彼はサンフランシスコで新聞記者をしているのだが、休暇でハワイ島を訪れることになる。そこにはもう九年もハワイに住み着いている彼の親友コリンズがいて、彼の家でのんびり骨休めをしようというのだ。

友人は医者でかなり大きな屋敷にリチャーズという年配の医者と一緒に住んでいる。リチャーズにはおそろしく美しい娘ルースがいた。

主要な登場人物はこのほかに二三名がいるだけで、犯人当てが目的の作品ならちょっと物足りない感じがするかもしれない。しかし状況設定は凝っている。コリンズたちが住む屋敷は奇怪な声が響いたり、異様なものどもがあらわれる幽霊屋敷で、裏山には死体が埋葬されている洞穴があるのだ。またコリンズとリチャーズ医師は仲違いをして険悪な雰囲気を漂わせ、さらに彼らはダービーにたいして秘密を隠しているような不可解な態度を示す。そしてダービーは屋敷に到着した最初の晩に何者かが悲鳴をあげるのを聞き、かつまた真っ暗な屋敷の中を誰かが動き廻っていることに気づく。翌朝、リチャーズ医師は実験室で殺されているのが発見される……。

話はおそろしく謎めいていて実に面白い。しかし私がいちばん注目したのは「ドラマ=謎」と「ダービー=探偵」との位置関係である。コリンズ、リチャーズ、ルースは明らかに何か秘密をダービーから隠している。いったいそれはなんなのか。ダービーはそれを「外」から探ろうとする。ダービーは常に他の人々の微妙な顔の変化に注意を向ける。
 「もちろんです」とダービーは言った。「今朝会ったミスタ・ペックという人です。ご存じでしょう?」
 リチャード医師の睫毛がほとんど目に見えぬほどのかすかな動きを示した。そして唇がわずかに引き締められた。
この作品は三人称で書かれているけれども、つねにダービーの視点から書かれている。そしてダービーはいつも鋭くコリンズ、リチャーズ、ルースを観察している。表情のほんのわずかの変化から彼らの心理を、彼らが隠している物語を「読もう」とするのだ。
 「どこへ行けば彼女に会えるのです?」その声には差し迫った響きがあった。ダービーは心の中でその差し迫った、鋭い響きにじっと耳をすませた。「彼はルース・リチャーズをよくしっているのだな!」と内面の声が言った。「彼女のことが好きなのだろうか」
ダービーは秘められた物語の外にいて、表情という徴候からその物語を推し量ろうとする。これは立派なミステリの書き方である。

ところが物語の最終盤に入ると、ある出来事をきっかけにしてダービーはドラマの内部に入り込む。ネタバレしないように曖昧に書くが、探偵は友人たちが隠していた秘密を共有することになるのである。こうなるとダービーは「探偵」ではなくなる。探偵はあくまで物語の外側にいなければならないからである。ここから彼は他の人々と同じ次元に立つことになり、物語を探偵として見通すことができなくなる。なるほど彼は殺人犯の逮捕に大きな役割を果たすが、それは偶然にすぎないし、犯人が誰かもわからなかった。物語の書き方もダービーが内部に移行してからは、ミステリ風ではなく、メロドラマ風になる。

このところこのブログでは探偵とドラマの位置関係についてずっと書いている。私はこれはなかなかいい着眼だと思っている。いろいろとミステリを読み返してこの議論がどこまで展開できるか考えてみたいと思っている。とくにハードボイルドが気にかかる。ハードボイルドでは私立探偵がドラマの中に入っていくからである。

2016年10月6日木曜日

96 マリー・ベロック・ローンズ 「愛と憎しみ」 

Love And Hatred (1917) by Marie Belloc Lowndes (1868-1947)

マリー・ベロック・ローンズを強引に分類すれば、やはりメロドラマを書いた人、ということになるだろう。「愛と憎しみ」なんてタイトルを見てもそれはわかる。

しかし「愛と憎しみ」が興味深いのは、これが典型的なメロドラマでありながら、近代的なミステリにおそろしく接近しているからである。ほんのちょっとの発想の転換、つまり形式的な転換が行われれば、立派な本格ミステリになる。本格ミステリを構成する素材はすべてそろっているのだ。

たとえばこの作品を本格ミステリに変えるとするならこうなるだろう。

スコットランド・ヤードに一人の婦人がやってくる。彼女は不思議な手紙を警部に見せる。彼女の夫は銀行家(ペイヴリイ)で、先週出張に出かけたまま予定日を過ぎてもまだ帰ってきていない。するとこのような手紙が来たというのだ。そこには「私は銀行家のペイヴリイ氏と仕事の話をするために私の事務所で会った。ところがそのとき私が拳銃を不用意に扱ったために暴発し、ペイヴリイ氏を撃ってしまった。警察を呼ぶべきであったのだが、自分は外国人でリスボンに行かねばならぬ急用もあった。それでこの手紙で事故をお知らせする」と書かれてあった。

スコットランド・ヤードは最初いたずらだろうと思ったが、調べて見ると本当に銀行家の死体が手紙に書かれた事務所で発見された。しかし銀行家を撃った外国人は見つからず、検死審問でも陪審員団は、銀行家の死因には疑問が残るので問題の外国人を見つけ出すよう警察に強く要請する、という評決を下した。

外国人の行方は杳として知れず、一年が経つ。銀行家の幼なじみであったある女性は、彼が死ぬ直前に彼と歩いたヨークの町を、もう一度歩いてみる。そして感傷的に彼との思い出を振り返るのだ。ところがそのとき、彼女はある非常に小さな事実を思い出す。一年前、ちょっと不思議に思ったが、すぐに忘れてしまったある出来事だ。それに気がついた途端に事件の様相がまるでちがって見えてくる。彼女は謎の外国人を知る、あるビジネスマンに会う。このビジネスマンは彼女から事件のことや、事件の関係者について詳しく話を聞いて、ずばりと事件の真相を見ぬく。謎の外国人とは、じつは銀行家の妻の弟と、銀行家の友人が代わる代わる変装してつくりあげていた架空の人物だった……。

おそらくこんな具合に物語を書き換えることができるだろう。もちろん実際の物語はメロドラマであるから、タイトル通りの愛憎劇が最初から最後まで展開する。妻を愛することができず、密かに幼なじみと関係を持つ銀行家。そんな銀行家を憎み、彼の妻に強い思いを寄せる若き実業家。銀行家と義理の弟との確執。じつにどろどろした人間関係を読者は見ることになる。事件の真相が露見してからのストーリーも、結婚、そして突然の自殺というように、読者を驚かせ、その感情を揺さぶろうとする、じつにメロドラマらしい展開だ。

しかしこの作品は本格ミステリまであと一歩というところまで迫っている。こんなふうにメロドラマが本格的なミステリに急接近した作品は「ありうる」と思っていたが、このブログが終わるまでのあいだにそれを見つけることができたのは幸運だと思う。そう、あとは形式的な転換さえ行われればいいのだ。もっともこの転換は質的な飛躍であって、そう簡単になしとげられるものではない。しかし絶対に不可能というわけでもない。ジェイムズ・ジョイスが「スティーブン・ヒーロー」から「若き芸術家の肖像」を生み出したように、決定的な転換はなにかがきっかけで短期間に起こなわれることもあるのだ。

私はこの作品を読んでベロック・ローンズの作品をすべて読み返したくなった。私の読んだ範囲では、彼女の作品は基本的にメロドラマである。しかし奇妙に読み手を不安にする要素があり(疑惑とか超自然的な力とか)、どの作品においても独特のサスペンスがじわじわと拡大していく。展開が遅いと感じる人がいるかもしれないが、しかし細部を読む訓練を積んだ人なら、この wordy さはかえってスリリングな体験を与えてくれるはずである。私は彼女の傑作「下宿人」を翻訳し、パブリック・ドメインに公開しているので、興味のある方は右のリンク先からダウンロードして読んでいただければ幸いである。ジャク・ザ・リッパーの事件をもとにしたこの作品は、つい最近に至るまで何度も映画化されているが、それだけ想像力を刺激する作品である。ハヤカワからも訳が出ているけれど、あれは誤訳のオンパレードなので私が訳し直した。もちろん無料である。

2016年10月5日水曜日

番外19 「ドールズ」 スチュアート・ゴードン監督

スチュアート・ゴードン「ドールズ」の二重性

この小論はちょっと長めなのでこのブログに載せる気はなかったのだが、最近考えている外部性の問題とも大いに関係しているので、ほかの記事との不調和は覚悟の上でアップロードしておく。できたらこのホラー・ムービーを見てから読んでいただきたい。この作品の物語は二重性を帯びている。二つの物語が同時に進行しているのだ。そのうちの一つの物語は誰にでもわかるのだが、わたしが知るかぎり、「もう一つの」物語まで読み取っている批評家はいない。外部性の問題とこの小論がどう関係しているのか簡単に述べておく。この作品のなかには「子供は大切である」という考え方が登場する。ごくありきたりの、まっとうなスローガンのように思える。しかしそれを「その通り」と認めてしまうと、もう一つの物語が見えなくなる。もう一つの物語を読むには、あくまで作品の外に立って、「子供は大切である」というスローガンを「徴候」として見なければならないのである。見る者の「視力」がためされる作品である。

 

探偵小説の特徴の一つに物語の二重性がある。犯人は事件を起こすことで金銭的、心理的利益を得るのだが、それを見抜かれないように、たとえば関係のない人までABC順に殺したり、共犯者と狂言を演じたり、アリバイ工作に励むことになる。犯人がつくる見せかけの筋書きは、本当の筋書きの目的を達しつつも、それを否定するという矛盾した性格を持つことになる。

物語の二重性はイデオロギー論や精神分析にも見ることができる。たとえばマルクスは、利己的な動機に基づく支配階級の思想が、普遍的な見せかけのもとに提示されると述べているし(「ドイツ・イデオロギー」)、フロイトは無意識の内容は否定されるという条件の下で意識に到達すると言っている(「否定」)。イデオロギー論、精神分析、探偵小説は、分野は異なるが、同じ認識の型を共有している。だから三者が相互参照されたり、良質のイデオロギー論や精神分析の例が探偵小説のように読めるのは何ら不思議なことではない。

スチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」は、もっともらしい言説の背後に自己中心的な利害を隠し持ったイデオロギー空間を描き、同時に、無意識の欲望を隠し持った夢物語にもなっている。ただしこの映画には探偵は出てこず、物語の二重性は明示的に示されていない。そこで、一つ探偵になった気分で、隠れた真相をを読み解いてみようというのが、この小文の目的である。

 

 まず物語の整理をしよう。登場人物は以下の通りである。
 
 ジュディ      幼い女の子 
 デイヴィッド    その父 
 ローズメアリ    デイヴィッドの再婚相手、ジュディの継母 
 ラルフ       旅行中の優しい青年 
 老夫婦       山中の館に住む人形作り 
 若い女二人連れ   ヒッチハイカー 館で盗みをはたらく
 人形たち           キラー・ドール
     
主人公はいつも人形を抱きかかえている幼い女の子ジュディである。彼女の父親は最近離婚し、すぐに再婚しているらしい。経済能力はまるでなく、ローズメアリに寄生している男である。娘を思いやるどころか、邪魔者扱いする、勝手な父親だ。ローズメアリは見るからに裕福そうな服装をした、サディスティックな女性で、継子をひっぱたくことなど屁とも思っていない。ジュディは父親も継母も憎んでいて、白昼夢の中で、怪物に変身した人形が二人を殺害する場面を思い描いているくらいだ。

映画はこの三人が自動車旅行の最中、山中にて嵐に会い、人形作りの老夫婦の館に避難する場面から始まる。彼らが老夫婦のもてなしを受けていると、ラルフという青年と、ヒッチハイカーとして一緒に旅をしている二人のパンクファッションの女が家の中に飛び込んでくる。若い二人連れの女は礼儀知らずで、他人の家でも音楽を大音量で流し、そのうち一人はみんなが寝静まった夜中に、部屋を抜け出し、金目のものを盗もうとする。一方、ラルフは館に飾られた人形を見て大いに興奮するような子供心を持った青年である。しかし彼は自分に向かって、もういい年なのだから、子供じみた癖から抜け出し、一人前の男として現実に立ち向かわなければならないと言い聞かせる。当然、ジュディは彼が大好きになり、父親に向かって怒りをぶちまける時、ラルフの方が父親よりもずっといい人だと言いさえする。

この後、血なまぐさい場面が展開されるのだが、簡単に言えば、ローズメアリーとパンクファッションの二人の女は人形たちに殺され、デイヴィッドは人形作りの老夫婦の魔法によって人形にされてしまう。翌日の朝、人形作りの館を抜け出すことができたのはジュディとラルフだけだ。ラルフは老夫婦からジュディをもとの母親のところに届けるように言われ、二人が車で去るところで映画は終わる。

 

なぜデイヴィッドとローズメアリと若い二人連れの女は殺されるのか。これは一見、次のように答えることが出来そうだ。彼らは子供を虐待し、盗みをはたらく堕落した存在である、だから「子供は大切だ」、「無垢な心をいつまでも持たなければならない」というメッセージが繰り返される館の中で、罰を受けたのである、と。しかしこの映画が奇妙なのは、語られていることと行われていることの間に断絶がある点である。「無垢は大切」といっておきながら、そのメッセージに従わない者は、無垢もヘチマもない暴力で殺してしまうのだから。確かに子供を邪険に扱うのも、窃盗もよくないことだが、殺す必然性はない。彼らにはそれなりの処罰の仕方があったはずである。だが、そのような考慮は一切なされず、すさまじい憎悪を浮かべた人形たちが殺戮を繰り広げるのだ。

このメッセージの奇妙さは、人形を見て感嘆したラルフが、そのすぐ後に、子供みたいな癖はもう卒業して現実的な人間にならなければ、と言う場面にも示される。その言葉を聞いて人形作りの老人は「いつまでも子供のままでいいのだよ」と答えるのだが、なぜ「いつまでも」などと言うのだろうか。大人になってはいけないとでも言うのだろうか。さらにそう言う時の老人の表情はなぜ不気味なのだろう。老人が答える瞬間、彼の背後に現れる人形も、老人と同じことを語るのだが、その声はなぜあのようにおどろおどろしいのだろうか。ラルフはそれを聞いて驚き、震え上がっている。「無垢な心云々」というメッセージには、そのメッセージ自体を裏切る威嚇的な響きがあるのだ。

さらに大人の中では唯一子供の心を持っているラルフすら人形に襲われるのはなぜだろうか。人形たちが生きていることを知りパニックに陥ったラルフは、思わず人形を蹴りつけるのだが、人形たちは彼をなだめることも、説得することもなく、ただちに憎々しい表情を浮かべて襲いかかる。館の中で繰り返されるメッセージとはうらはらに、人形たちはヒステリックで、不服従を許さない専制的な反応を示している。

こうしてみるとジュディの両親と若い女たちが殺されたのは罰を受けたのだという説明には疑問を抱かざるを得ない。「子供の大切さ」というのは単なる言い訳に過ぎないだろう。メッセージを逸脱するほどの、過剰な攻撃性は何を意味するのか。このイデオロギー空間が人を殺す本当の理由は何なのか。

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事件は何ものかの欲望の表現である。事件によって欲望を満たすのは誰なのか、いわゆる「この事件で得をするのは誰なのか」を問うことは探偵小説の定石だ。「欲望しているのは誰なのか、そしてどこから」と問うとき、われわれはまず、一連の殺害がジュディの欲望を実現していることに気がつく。なにしろ大嫌いな親は、白日夢の中で願ったように、人形によって始末され、優しいラルフと一緒に家に帰ることになるのだ。しかしこの考え方には二つ難点がある。一つはパンクファッションの若い娘の殺害である。はたしてジュディは彼らの死を望んでいただろうか。映画を見る限り彼女は彼らを積極的に好いても嫌ってもいない。殺したいと思うだけの動機がどう見てもないのである。もう一つ気になるのは、人形たちがラルフに一度襲い掛かっていることだ。ジュディは必死になってそれを止めるが、この場面を見ると館の中では彼女の欲望に反することも起こりうることが分かる。下手をするとラルフすら殺されていたかも知れない。すると一貫してこの好青年を好いていたジュディを物語の欲望の主とするのは無理ということになる。

しかしこの答えはいくつか物語と不整合な部分があるが、決して悪い答えではない。恐らくジュディと非常に近い位置にいる誰か、しかし微妙にずれた場所にいる誰か、それが本当の欲望の主ではないのか。そう考えたときに彼女の母親という答えが浮かんでくるだろう。

ジュディの母親といってもローズメアリではない。デイヴィッドの先妻、ジュディの(恐らく)生母である。考えてみれば、デイヴィッドは離婚してすぐ再婚しているのだから、この母親は彼に捨てられたようなものである。さらにデイヴィッドやローズメアリの性格、父親が愛してもいない娘を引き取っているという事実を考えると、どうも円満に離婚したとは思えない。母親はデイヴィッドやローズメアリに復讐の念を燃やしているのではないだろうか。だからローズメアリの殺され方は、四人の中でいちばん残忍なのである。夫は魔法で人形にされているが、あれはいかにも自分を裏切ったことへの懲罰に見える。そして映画の結末ではジュディは母親の元に帰っていく。つまり彼女は自分の娘を取り返すことになるのだ。

母親は一度も映画の中に現れないが、物語は隅々まで彼女の欲望に浸されている。映画の冒頭でジュディが父親と継母の殺害を夢想しているが、その直後、ぼうっとしている娘に向かって父親が言う台詞が面白い。「お化けや幽霊の夢でも見ていたのか!まったく、お母さんはお前に何を吹きこんだんだ?」この「お母さん」はもちろん継母ではなく、デイヴィッドの先妻のことだ。デイヴィッドの台詞は、ジュディに想像の仕方、すなわち欲望の仕方を教えたのは先妻である、ジュディの欲望はとりもなおさず先妻の欲望なのだ、ということを教えている。娘は無意識のうちに母親の欲望を欲望している。先ほどこの映画で欲望しているものの位置はジュディのそれと非常に近いが、しかし微妙にずれているといったのは、こういうことである。

ジュディと母親の欲望の重なりを示す部分は映画のいちばん最後にもある。ラルフは惨劇の夜が明けてから、ジュディを車に乗せて彼女の母親の元へ向かう。するとジュディが異様なしつこさで母親の話しをする。「お母さんはすっごい美人よ。見たら惚れちゃうから。ねえ、あたしのお父さんになる気ない?」もちろんここで話しをしているのはジュディというよりも母親である。ジュディは母親の代弁者に過ぎない。母親は自分を裏切った夫を懲らしめ、夫を誘惑したあばずれをぶち殺し、子供を取り返し、今まさに新しい夫を捕獲しようとしているのだ。

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それでは母親の離婚とは何の関係もないパンクファッションの女二人が殺されるのはなぜか。実は三つほどその理由が考えられる。まず第一は、彼らがラルフの車の鍵を盗もうとしていたこと。母親はラルフを新しい夫として迎え入れようとしていたことのだから、大切な男に悪質ないたずらをしかけようとする女どもなど許せずはずがない。第二に彼らが若くて性的魅力を持っていること。二人はラルフに向かってからかい半分に何やら卑猥な行為をほのめかしているが、母親は彼らを潜在的なライバルとみなしていたかもしれない。

しかし第三の理由がいちばん肝心だろう。それは彼らを殺すことで、無垢を失ったものは罰せられるという、殺しの見かけの理由を強化できるということだ。母親の真の欲望の向かうところは元夫と彼を奪った女への復讐だが、彼女はその復讐が露骨に表面化することを避けている。母親の目論見は自分の姿・欲望は不可視のまま、物語の外から己の意思を行使することなのだ。不良を処罰することは、人殺しの真の動機から我々の目をそらさせ、物語の中で大人が殺されるのは彼らの汚れた心のゆえという印象を強める効果がある。物語の中で、パンクファッションの女たちが盗みを働くように「仕向けられている」ことに注意するべきだろう。二人が館で盗みを働こうか、働くまいかと議論しているまさにその瞬間に、人形作りの老妻がやってきて、自分と夫は館の反対の端に寝ていると言う。音など聞こえないから、自由に盗みなさいと言っているようなものだ。しかしこの老婆は何も知らないような振りをしているが、実は計算づくでこんなことを言っている。彼女はわざと若い女たちに盗みを働かせ、「ほうら、こいつらは悪いやつらだろう?だから罰せられるのだよ」と言う訳なのだ。女たちは無作法で、あつかましいが、それだけでは殺す理由にはならない。しかし盗みまでやれば、これを決定的証拠にして処罰を加えうる。このようにわざと犯罪を誘い、罰を与えることで、物語の中では悪い人間が殺されるという印象をでっち上げ、私的怨恨の痕跡を消してしまうのである。

 母親の欲望は無垢の見せかけの背後に隠れているが、唯一それが露出するのが屋根裏部屋の場面である。若い女の一人が仲間を捜して屋根裏部屋に迷い込み、人形たちに襲いかかられる。彼女は力まかせに人形をたたき壊し、火を放つのだが、すると無垢の象徴である人形の背後から、腐った肉塊のようなものが現れるのだ。そして出所の特定できない奇妙な声が「ママ…ママ…」と叫ぶ。あれこそキラー・ドールを真に動かしているものの正体、ママの欲望の肉化したものにほかならない。

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さて、このように物語を再構成してくると、この母親が異常に嫉妬深く、執念深く、残酷な人間に見えてくる。ここでやや議論とは関係のない夢想にふけることを許していただくなら、彼女はサディスティックなローズメアリとあまり変わらないのではないかと思う。母親の欲望が肉化し、おぞましい姿を見せる屋根裏部屋の場面には、非常に短いショットなのだが、拷問の道具が映し出されている。あれは母親の性格を暗示するものではないだろうか。またフロイトは、人は同じタイプの人を恋人に選び続けるものだと言っているが、これはデイヴィッドにぴたりと当てはまるような気がする。彼は経済能力がなく、いつも金持ちの妻のご機嫌を取っている寄生的な存在であり、妻に支配的な地位を与えている。恐らく先妻との関係においても同じことが起きていたはずだ。先妻と離婚したのは、ローズメアリのほうがいい金づるになると見たからではないだろうか。

このように考えれば、母親の欲望が専制的で、他人の反対を全く許さない厳しさを持つことも納得がいく。ラルフがパニックを起こして人形を踏み潰した時、彼は逆に人形に襲われているが、たとえラルフが新たな夫として望ましい存在だとしても、彼女の意思に逆らう場合は容赦なく攻撃するのである。

そして母親が結婚相手に服従を求めていることに気がつけば、「子供や無垢な心を大切に」という例のメッセージにもう一つの意味があることにも気がつくだろう。それは個人的な復讐を隠蔽し、殺害を正当化する見せかけの理由であるだけではない。「いつまでも子供でいろ、わたしの支配に逆らうな」という命令でもあるのだ。人形作りの老人がラルフに向かって言う「いつまでも子供のままでいいのだよ」という台詞が威嚇的なのはこのためである。ラルフが新しい夫に選ばれたのは、彼が精神的に未だ完全に大人になりきっていないからだ。優しい男だからではなく、支配の対象として好都合だからだ。だからこそ、「もう子供みたいな真似は止めて大人にならなきゃ」というラルフの自戒の言葉は否定されるのである。逆にデイヴィッドは彼女の支配に逆らった。それゆえに罰せられるのだ。



サディスティックな母親の精神的支配、支配される者の幼児的で自立性に欠けた性格、母親が気に入らない人間を連続殺害するという筋。「ドールズ」はヒッチコックの「サイコ」の影響を受けた作品であることは明らかだ。旅行者に宿を貸す館は、いはばモーテルのようなものだし、パンクファッションの女が仲間を捜して屋根裏部屋へと階段を上っていく場面は、「サイコ」の中で行方不明の姉を捜して妹がノーマンの母親の部屋のある二階に上がっていく場面と照応しているだろう。

しかし「ドールズ」の際だった特色は、全体を夢物語に仕立て上げたことである。ラルフは殺害の夜が明けたとき、人形作りの老人から夢を見たのだと言われる。ただしこの夢はラルフのではなく、もちろん母親が見ている夢だ。母親の欲望をかなえる夢である。夢の形式を使うことで、母親を一度も物語に登場させなくても、全編に彼女の欲望を染み渡らせることが出来たのである。

「ゾンバイオ」の名監督が果たしてこの物語の二重性を意識していたのかどうかは分からないが、ともかく「ドールズ」が偉大なアメリカン・スリラーの伝統に新しい一ひねりを加えたことは間違いない。

2016年10月3日月曜日

95 オクタヴァス・ロイ・コーエン 「薄暮」

Gray Dusk (1920) by Octavus Roy Cohen (1891 - 1959)

コーエンの作品リストを見ながら、隨分読んだ作品が多かったので驚いた。ストーリーがひどく単純だが、設定にちょっと面白いものがあり、ついつい読んでしまうというところだろうか。

本作も非常に単純な話だ。ある男が女優と結婚し、知り合いの別荘を借りてハネムーンを過ごすことになる。ところが別荘に着いたその日の夜、新婚夫婦のお手伝いに雇われた男が家の中に入っていくと、夫は血まみれの妻の死体を抱いているではないか。妻はアイスピックで刺されて大量の血を流して死んでいた。

夫は地元の警察によってすぐに逮捕され勾留される。しかし彼は名探偵のデイヴィッド・キャロルと非常に仲がよかったため、すぐ獄中から彼に電報を打ち、事件の解決を依頼する。

血まみれの妻の死体を抱いていたということ以外にも、新郎には不利な証拠が一つあった。彼は別荘に着いた日、郵便局に立ち寄り、そこで昔の恋敵から実にいやらしい手紙を受け取っていたのである。この恋敵は結婚前に二人のあいだに割って入り、そのため彼らは婚約を一回破棄していたのである。もっともその後二人はよりを戻し、めでたく結婚に至ったのだが。で、この恋敵がどんな手紙を書いてきたかというと、「お前の奥さんが見かけ通りの貞淑な女だと思ったら大間違いだぞ」という内容のものだ。

これを読んで新郎はかっとなり、妻の不貞を疑って、結句彼女を殺したのではないか、と考えられたのである。三角関係のもつれによる殺人というわけだ。

しかしデイヴィッド・キャロルとその助手が捜査を開始すると新郎以外にも怪しげな人間が何人か別荘のまわりをうろついていたことがわかり……という話である。

ミステリとしては普通の作品。最後に探偵が推理を展開し、犯人をずばり指摘する場面はドラマチックではあるのだけれど、その説明は納得がいくようないかないような、ちょっと微妙な感じのものだ。事件が起きた場所の地図でも載せておいてくれたら、状況がもう少し読者にも呑みこめなたのではないか。

しかし私はこの作品に妙にひっかかるものを感じた。探偵は事件の外側に立つと何度も書いてきたけれど、この作品では探偵は新郎の親友であり、最初から新郎の無実を信じているのである。探偵はすべての可能性、つまりすべての登場人物が犯人である可能性を考えるものだが、「薄暮」では探偵は無条件で新郎の無実を信じている。彼は片足を物語の中に突っ込んでいるのである。

探偵の助手は、そういう態度はいつものあなたに似つかわしくない、新郎が犯人であることも考慮に入れなければならない、と諭し、探偵自身もはっとして、その通りだねと応えるのだが、しかし最後に至るまで探偵は新郎は犯人ではないという信念を持ち続けている。物的な根拠はなにもないのに。

ミステリにおいて探偵は事件の外部に立ち、事件を徴候として読む。スラヴォイ・ジジェクが「斜めから見る」の中で探偵を精神分析者にたとえたのは納得がいく。しかし本編の探偵はそうじゃない。これはどういうことだろう。

1920年に書かれた作品だから、まだ充分にミステリとしての形が整っていないのか。しかしそれにしてもなんとなく得心が行かない。

そこで考えたのが、もしかすると探偵の「新郎は犯人ではない」という信念そのものを、読者は徴候として読むべきではないのか、ということだった。つまりこの作品において真の探偵の立場に立つべき存在は読者ではないか。そして徴候として読む際に参考になるのは精神分析における「否定」の考え方ではないか。精神分析では被分析者が「私の夢に女が出てきました。しかしその女は母ではありません」と言えば、まさしくその夢の女は母なのである、と考える。おなじように「新郎は犯人ではない」という執拗な思い込みは、すくなくとも精神的な現実においては「新郎は新婦を殺したいという欲望を抱いている」ということを示しているのではないか。

そう考えると本書には二つの三角関係が描かれていることに気づく。いずれも男(A)女(B)二人が婚約まで話を持っていったのに、そこに新しい男(C)が入ってきて、女がそっちのほうになびいてしまうのである。探偵の友人である新郎はAの位置に立っている。そして(ネタバレして申し訳ないが)犯人もAの位置に立っているのである。ただし犯人は自分を捨てた女と新婦を勘違いし殺害することになる。この三角関係の不思議な重なり具合は何を意味するのか。私は犯人は新郎の無意識の欲望を実現したのだと思う。そして新郎の親友である探偵は(心情的に親友と同一化している探偵は)、その心理的な真実を糊塗するために執拗に「彼は犯人ではない」と繰り返すのではないか。

作中の探偵が探偵としての役割を充分に果たしていない、つまり事件=物語の外部に位置していないというとき、読者が探偵の位置について事件=物語を読み直さなければならない。ピエール・バイヤールが「アクロイド殺し」や「バスカヴィル家の犬」にたいして行ったことはそのことではないのか。作品と批評そのものの関係にもつながってきそうな論点である。

2016年10月2日日曜日

94 レノール・グレン・オフォード 「万能鍵」

Skeleton Key (1943) by Lenore Glen Offord (1905-1991)

オフォードは最近再発掘された作家で名前を知っている人は欧米でも少ないと思う。私は本書をフェロニー・アンド・メイヘム社から2014年に出された版で読んだ。この版にはサラ・ワインマンによる有益な序文がついている。彼女はこの作品を、第二次世界大戦から第二次フェミニズムが押し寄せるまでの期間に、女性によって書かれた「家庭的サスペンス」の一つと見なしている。その特徴はこうだ。
ハードボイルドというわけではない。すくなくともハメット、チャンドラー、ケインといった作者の作品と較べるならハードボイルドとはいえない。しかしコージーともちがう。あるいはまたメアリ・ロバーツ・ラインハートばりの、危地に陥った女性を描く「知ってさえいたら」派でもない。
そのどれでもないけれど、しかしそのいずれの特徴も一部持っているような中間的な作品というのがワインマンの考えである。このような作品としてほかにはヴェラ・キャスパリの「ローラ」とかエリザベス・サンクセイ・ホールディングの「めくら壁」とかシーラ・フレムリンの「夜明けの前の時間」などがあると彼女は書いている。

ハードボイルドに似ているけどハードボイルドではない。コージーに似ているけど、それともちょっとちがう。このワインマンの言い方には私も同意する。コージーにおいては、たとえばミス・マープルもポワロも、探偵は事件の外側にいて、事件を徴候として眺める。探偵は基本的に事件=ドラマに直接的な関係を持たない。一方ハードボイルドは主人公である私立探偵が事件=ドラマの中に入っていく。そして暴力を受けたり危険な目に遭ったりするのである。「万能鍵」にはコージー「的」な要素があるが、明らかにコージーではない。主人公が事件=ドラマのなかに入っていくからである。

「万能鍵」の主人公、雑誌のセールスをしているジョージーンは、ひょんな偶然からグレティ・ロードという小さな通りに入り込み、そこである科学者と出会い、彼の科学論文をタイプするという仕事を与えられる。報酬は百ドルという大金だ。夫を失い、娘ひとりをかかえ、病院の費用の支払いにも困っていた彼女はすぐにその申し出に飛びつく。彼女は家に帰ってからさっそく小切手を郵送し、滞っていた医者への支払いをする。そのときだ。彼女は誇らしい気持ちになってもよかったのに、かわりに得体の知れない感情に襲われる。
彼女は意に反してかつて読んだことのある恐ろしい物語を思い出した。その中である男は、その男を破滅的運命から救い得ていたかもしれないあるものをなくしてしまう。すると彼にしか聞こえない声が繰り返しこう言うのだ。「もう取り返しはつかない。二度と取り返しはつかないよ」
彼女は科学者から百ドルを受け取り、使ってしまうことで、完璧に借りをつくってしまった。彼女と事件=ドラマが展開するグレティ・ロードは関係を持ってしまったのである。こうして彼女は事件に呑み込まれていく。(「もう取り返しはつかない」)この過程はハードボイルドの導入とよく似ている。しかしハードボイルドの主人公たちはこういうふうにトラブルに巻き込まれることを「わが商売」としているわけで、そこが普通の主婦であるジョージーンとはちがうところだ。

(ちなみにジョージーンがグレティ・ロードにまよいこみ、そこの家のドアベルを次々と鳴らすが、誰も出てこないという場面が冒頭にある。そのとき彼女は「なんだか私、いつの間にか幽霊にでもなったみたいだわ。透明になった私を誰も見ることができないみたい」というおかしな印象を抱く。このとき彼女はまだグレティ・ロードの事件=ドラマの登場人物にはなっていない。彼女は幽霊、すなわち物語内に存在していない存在だったのである。それが科学者のアルチュセール的「呼びかけ」のおかげで主体として存在するようになり、さらに金銭(百ドル)の交換によって物語のネットワーク内に一定の位置を占めることになる。理論的なことに興味のある人なら面白く読める本だと思う。いやワインマンがあげているキャスパリもホールディングもフレムリンも理論的に読んだときに面白さが倍増するし、理論的な読み方に堪えうる作家たちである。)

さて、物語の出だしの部分だけを簡単にまとめておく。ジョージーンは科学者の家へ通い、タイピングの仕事をはじめるのだが、ある日仕事が遅くなり、気がついたらもう夜になっていた。しかもその日は灯火管制がしかれ(時は第二次大戦中、場所はカリフォルニアである)どこもかしこも真っ暗だ。外を見ていると彼女はその地区の空襲監視員が見廻りに外を歩く音を聞いた。それから何かががたがたと動く音、そして鈍い衝突音。外に出てみると空襲監視員が車に轢き殺されていた。いったい彼は誰に殺されたのか。その理由は。また彼は万能鍵を持っていたが(つまりどこの家にも入ることができたが)、なぜ彼はそんなものを持っていたのか。警察が捜査を開始するが、その努力もむなしく第二の殺人が行われ、ジョージーンにも危険がせまってくる……。

最後に歴史を知らない若い人のために言い添えておこう。灯火管制というのは敵の空爆の目標とならないように夜間、明かりを消すことである。そして当時アメリカの敵だったのは日本である。日本の爆撃機を怖れてカリフォルニアでは明かりを消していたのだ。

2016年10月1日土曜日

93 E.C.R.ロラック 「殺人者は間違える」

Murderer's Mistake (1946) by E. C. R. Lorac (1884-1959)

ロラックのマクドナルド警部ものである。ルーンズデイルというイギリスの田舎で連続して小屋にコソ泥が入った。小屋というのは地主たちが本宅とは別に持っている小さな家で、休暇で遊びに来た人に貸したり、自分たちが釣りなどをするときに利用するものだ。普段は誰も住んでいないが、家具などは一応ついているし、食料も置いてある。その小屋になにものかが入り込んで、コートだとか胴長だとか、たいした金目のものはないのだが、盗んでいったようなのである。この近辺には hawker 、今で言うと廃品回収業者みたいな連中がロバに引かれた車に乗って行商をしているため、彼らが小屋に入り込んで金になりそうなものをいくつか失敬していったのではないかと考えられた。

しかしマクドナルド警部はこの事件の報告を聞き、配給切符の不正利用(戦争中の話である)をやって姿をくらましたギナーがこのことに関係しているのではないかと考える。その直観はずばり的中し、ルーンズデイルを流れる川の底からこのギナーの死体が見つかった。ギナーの死体が川面に浮かんでこないように、重しやら丈夫な紐など、小屋から盗まれたいくつかの物品が使われていた。

マクドナルド警部はルーンズデイルの地主ホゲット夫妻の協力を得て捜査を進める。ギナーを殺したのは誰なのか、なぜギナーは殺されたのか。

本作はミステリとしてはさほどの出来ではない。たいしたことはないけれど、イギリスの田舎の様子を実にくわしく描いていて、読みながら「こういう場所に住むのもいいものだな」と何度も思った。風光明媚な畑や谷や丘のつらなり。鮭が釣れ、月影がうつくしく映る川。収穫を控え秋の色に色づいた作物。灰色の柔らかい靄に包まれたような雨の風景。本書の自然の描写はどれをとっても印象的だった。

しかし理論的な側面においても、本書にはちょっとだけ注目すべきものがある。犯人が捕まり、マクドナルド警部が捜査に協力してくれたホゲット夫妻にむかって事件の真相を語り終えたとき、ホゲット夫人はこう言う。「この事件でいちばん興味深いことは、証拠は犯人がどういうタイプの人間なのかを明瞭に示しているのに、わたしたちにはそれがわからなかったってことね」

マクドナルド警部は真相を語りはじめる前にこう言っている。「みなさんは事件を解決するのに必要なすべてのデータを持っていたのですよ……みなさんは第一級の証人だ。正確な記憶をお持ちだし、細かいところにまで観察をはたらかせ、それを物語る天賦の才能も持っている」そう、ホゲット夫妻はすべての事実を把握していた。この地域の内情にもくわしい。それどころか捜査の途中で、マクドナルド警部に「いったいなにが起きたのだと思いますか、あなたなりに事件の背景、経過を物語ってみてくれませんか」と言われたとき、ホゲット氏はもう少しで真相にたどりつくというくらいの鋭い洞察力を見せるのだ。しかし事件を解決できたのはマクドナルド警部だけなのである。いったいこれはなぜなのか。

マクドナルド警部はこう考える。「それにはふたつの理由があるでしょうね。一つにはお二人は証拠を読解する訓練を欠いている。簡単なようだけど、本当は専門的な訓練がいるのですよ。もうひとつはこういうことです。誰かさんがあなたのよく知っている世界のひとりだとしましょう。するとその人を当然のように受け止めてしまうのです。××さん? ああ、あの人ね。そう言ってあなたは笑ったりするでしょう。威張っているとか、頑固だだとか、田舎の百姓より自分のほうが賢いと思っている、なんて理由でね」

マクドナルド警部があげている第二の理由を私の言葉で言い替えれば、ホゲット夫妻に真相が見抜けないのは、彼らが充分に事件の外部に存在していないからである。彼らはスコットランド・ヤードの捜査に協力するけれども、同時に何者かに自分たちの小屋をあらされた事件の当事者であり、事件の舞台であるルーンズデイルを生活圏にしていて、そこからいろいろな意味で離れることができない。それでは事件を「外形」として見ることができないのだ。外部に立つ者と内部に立つ者は、視線の質が異なる。内部的な意味(「ああ、あの威張っている人ね」)を切断しなければ、外部に立つことはできない。同じ事実を見ていても、それが意味するところはまるで違うのである。

マクドナルド警部があげている第一の理由も大切なことを言っている。ただ単に外部に移動すれば、内部の者とは別の視線・視力が得られるのかというと、そうではない。内部的に調整された視力を外部的に調整し直すには、つまり徴候を読み取るには、それなりの専門的訓練(なにしろこれはイデオロギーの問題なのだから)が必要なのだ。