2016年9月21日水曜日

88 ケリー・ロース 「わずかな見込み」

Ghost Of A Chance (1947) by Kelley Roos

ケリー・ロースは本当はふたりの作者の合同ペンネームである。オードリー・ケリー・ロース (1912-1982) という人とウィリアム・ロース (1911-1987) という夫婦がこのペンネームを使って推理小説を書いていた。その推理小説で活躍するのもジェフ・トロイとハイラ・トロイという夫婦者である。本作でもこのユーモラスなふたりがニューヨークの街を飛び回って大活躍するが、しかし他の作品と違って推理小説と言うよりは、サスペンス小説のような味わいになっている。

あるときトロイ夫婦の家に謎の電話がかかってくる。名前を告げようとしない男が、ある女性が殺されそうなので、助けてほしいと言うのだ。詳しい話をするので、しかじかのパブまで来てくれ、と彼は頼む。トロイ夫婦は親友の警部とともにいくつも事件を解決しているから、ちょっとした有名人である。それでこの名前を言おうとしない男は彼らのところに連絡してきたのだろう。トロイ夫婦はそろって雪の降る中、そのパブへ行く。ところが相手はあらわれず、ふと手許の紙マッチを見ると、「やつらが見張っている。場所を変えよう。××へ来てくれ」と書いてあるのだ。

こんな具合にトロイ夫婦はニューヨークの街を転々と移動する。そして指示に従ってとある地下鉄の駅へ行くと、電話の相手とおぼしき男が線路に落ち、電車に轢かれて死んでいたのだった。

トロイ夫婦は男の身元を確認し、彼がケネディー家という金持ちの馭者をしていたことを突き止める。命が危険にさらされていると彼が言っていた女性は、ケネディー家の誰かではないかとトロイ夫婦は考え、彼らは人づてにケネディー家と係わりのある人々を訪ねていく。そしてケネディー家の一人の女性が近々その誕生日に莫大な遺産を受け取ることになっていることを探り出す。

これで事件の輪郭ははっきりしてきた。誰かが彼女を殺害し、遺産を横取りしようとしているのだ。トロイ夫婦は遺産相続人の女性に危険が迫っていることを教えようとするのだが、彼女を殺害しようと狙っている人々のグループがトロイ夫婦を妨害し、命すら狙ってくるのだった……。

トロイ夫婦が謎の男から電話を受け、そのときからほぼ二日のあいだ、ニューヨークを駆けずり回ったり、汽車の旅に出たりする話で、非常に楽しかった。一種の追跡劇で、物語の進行は単純だが、スピード感があるし、単純な話だと思って呑気に読んでいると、実はこまかく伏線が張られていて、トロイ夫婦の鋭い指摘にはっとするという、なかなか考えられた作品になっている。遺産相続人が危機一髪のところで助かってからも、さらに一ひねりがあり、読後の満足感は高い。軽いタッチの、ユーモアに溢れた作品が好きな私はケリー・ロースの大ファンなのだが、もっと日本にも紹介されていい作家だと信じる。

本書の際立った特徴は、ニューヨークという充実したネットワークの存在を描いた点にある。網の目のように発達した地下鉄、鉄道、街路、そして電話。とりわけ電話は大きな役割を果たしている。殺人の可能性がトロイ夫婦に知らされたのは電話を通してである。その殺人がいつ行われるのかわかったのも電話の会話からである。殺される女性の居場所を示す手掛かりも電話の内容を記したメモから発見された。ただし手掛かりはいつも断片的である。殺人計画の知らせは、知らせた人の名前もわからないし、殺される人の名前もわからないようなものだった。殺人の予定時刻もふと耳に入った言葉の断片から判断したにすぎない。殺される女性の居場所を示すメモも、数字が書いてあるだけで、推理を働かさなければ、それがなにを意味するのかはわからなかった。ネットワークを洩れてくるこうした断片的な手掛かりをもとに、トロイ夫婦は殺人事件を防ごうと必死の捜査をするのである。

ミステリとネットワークのあいだには深い関係がある。私が訳した「オードリー夫人の秘密」でもオードリー夫人の甥が「人づてに情報を得ながら」、オードリー夫人の身元を探ろうとする場面がある。情報を求めて次から次へと連鎖的に人に会うその行為は、社会を覆う間主観性のネットワークを渡り歩く象徴的行為でもある。そして結局彼女の身元がわからなかったと言うことは、オードリー夫人が間主観性のネットワークにあいた穴であることを意味するのだ。ちなみに本書においても死んだはずの人間、ネットワークに存在しないはずの人間が犯人になっている。