2016年9月11日日曜日

84 レスリー・フォード 「ウィリアムズバーグ殺人事件」

The Town Cried Murder (1939) by Leslie Ford (1898-1983)

もちろんこの本の中では人が殺され、その犯人が突き止められる。しかし私の見るところ、事件それ自体は本書の中心的主題ではない。本当に問題になっているのは新旧二つの考え方・態度の対立である。

物語の舞台はアメリカ、バージニア州のウィリアムズバーグ。誰もが知っている歴史的な町だ。ヤードレー一家はこの土地の由緒ある旧家のひとつだった。
 しかし南北戦争以後、ヤードレーの一族は没落の一途をたどり、一九二〇年代後半には借金に苦しむ生活を送っていた。

ちょうどそのころ、レストレーション社がウィリアムズバーグの土地や家屋の買い取りをはじめていた。レストレーションと聞くとリチャード2世の王政復古を思い出すが、このレストレーション社は、私が調べたことが正しいなら、ロックフェラーが金を出している会社で、ウィリアムズバーグの古い町並みを保存する目的で設立されたものだ。会社は家屋を買い取るが、住人にはそのままそこに住んでいてもらう。家屋の修理が必要なら、会社はその費用も出す。住人にとっては棚からぼた餅みたいな話である。実際大勢の人がレストレーション社の進出を歓迎していた。

しかしヤードレー家のオールド・ミス、メルシナはこれに反対だった。ちょっとわかりにくいかもしれないが、メルシナはヤードレー家に強い誇りを抱く、因習的な女であり、いくら金に困っていても、屋敷をどこの馬の骨ともしれない会社に売るなんぞ、断じてできることではないと考えていたのである。

しかしヤードレー家は借金がかさみ、屋敷を手放さなければならないくらい財政的に逼迫している。レストレーション社の助けを借りず、メルシナはどうやってこの窮状を切り抜けようというのか。彼女はまさに十九世紀的な手を使おうと考えていた。二十歳になったばかりの彼女の姪フェイス(彼女の兄の娘)を金持ちの男に嫁がせようというのである。彼女は姪にむかってこんなことを言う。「わたしたちはヤードレー家のためにみずからを犠牲にしてきました。今度はあなたが自分を犠牲にする番です」と。

さて、本書の語り手であるルーシーという女性もヤードレー家の一員で、年齢もほぼメルシナとおなじくらいだと思われる。しかし彼女は昔からメルシナとは考え方が逆なのだ。ルーシーはレストレーション社の事業を福音のように感じるし、フェイスが好きでもない男、しかも二十五歳も歳上の男と結婚することに大反対である。そして冒頭に述べたようにメルシナ/ルーシーにあらわされるこの新旧の考え方の対立こそ、本書のいちばんの読みどころである。

二十世紀の前半に書かれたミステリにはこういう新旧、つまり十九世紀的・ヴィクトリア朝的態度と、近代的・合理主義的態度の対立がしばしば描かれるのは、ミステリというジャンル自体が古いメロドラマから新しい物語形式に蝉脱しようと努力していたからではないだろうか。こういう作品では古い因習的態度がよくメロドラマにたとえられるが、本書においても「由緒ある一族が借金を払うために好きでもない男と結婚する話なんざ、古いメロドラマにはいくらでもでてきますよ」などという台詞が登場する。

話を思い切りはしょるが、結局のところ古い考え方は駆逐される運命にある。メルシナはフェイスにむかって「家のために行動しろ」と言うけれど、メルシナの兄、つまりフェイスの父は娘にむかって「自分がいちばんいいと思うように行動しなさい」と言うのである。フェイスは父の言葉に従って、事件後、自分が本当に愛する人と結婚することを決める。面白いことに、語り手のルーシーも、事件後、若いときに「家のために」結婚をことわった男性と再会し、彼から「今度は逃げないでくださいよ」と優しく言われるのである。「家のために行動しろ」とはずいぶん古くさい因循な考え方だが、それが否定され、個人の心に忠実であることの大切さが最後に示されるのである。ルーシーは昔、家のために失った恋をもう一度回復するわけで、なるほどレストレーションにはそういう意味もかけてあったのかとちょっと感心した。

しかし私はこのハッピーエンディングをハッピーエンディングとして読むことはできなかった。古い考え方が否定され新しい考え方があらわれる。だが、その新しい考え方とはなんなのか。ウィリアムズバーグの町がロックフェラーの財力によって買われていくように、十九世紀的なものは二十世紀的な資本主義体制にのみこまれていったのではないか。日本の場合を考えてもそうだが、「イエ」というくびきから人々を解放することが、いまわれわれが見ている資本主義への第一歩ではなかったのか。作者のレスリー・フォードは決して資本主義(レストレーション社)のことを問題にはしていない。しかし無意識のうちに新しい考え方なるものが、資本主義的な枠組みの中にあることを示しているような気がする。自由を手にしたと思う瞬間は、今までと異なる桎梏の枷をはめらる瞬間なのである。だからわれわれは革命の成就したその日より、「次の日の朝」に気をつけなければならない。