2016年9月28日水曜日

91 マージェリー・アリンガム 「聖杯の謎」 

The Gyrth Chalice Mystery (1931) by Margery Allingham (1904-1966)

前回のレビューでも書いたけれど、近代的ミステリはメロドラマの外側を読む。外側には内側で起きていることが徴候的にあらわれるので、それを読み解き内部のドラマを知的に再構成する。これがミステリの醍醐味である。

最近、谷崎潤一郎が書いた短編推理物語「途上」を読み返しながら、作中の探偵が言う「行為の外形」とは、メロドラマ、すなわち会社員と妻の愛に満ちた生活の外に出ることをも意味することに気がついた。探偵はメロドラマを外から眺め、そこに見出される徴候を読解し、物語を再構成しているのである。

すぐわかることだが、外側と内側にはおかしなギャップがある。外側に徴候としてあらわれる事象は謎めいていて魅力的だ。しかし読み解かれた内容はじつに凡庸な、通俗的ドラマに過ぎない。ミステリではよく最後の部分でこの通俗的ドラマが短く語り直されるが、正直なところ、それを読む読者の関心はすでに次に読む本へとむかっていると言っていいだろう。

夢についてもおなじようなことが言える。夢そのものは謎めいている。しかし解釈によって明らかにされた夢内容はつまらないものでしかない。結局それは性的欲望であったり、願望充足であるにすぎないのだ。

「聖杯の謎」の出だしの数章は、メロドラマの外に視点を置き、内部のドラマの胎動を徴候的に描いて秀逸である。貴族の出身なのだが、父といさかいを起こして家を出て、ロンドンの街を放浪しているヴァルという青年が不可解きわまりない出来事につぎつぎと襲われる。ホームレスがたむろする広場のベンチをふと見ると、そこには彼の名前が記された手紙の封筒が見つかる。なぜこんなところに自分宛の手紙があるのかと彼は驚く。しかも宛名に使われている住所は彼がもと住んでいたところとはちがう住所だ。住所も間違っているのに手紙はちゃんと彼のもとに届いた。これは驚くべき偶然と言わねばならない。さらに彼は手紙に書いてある住所を尋ねていくのだが、得体の知れない男から謎のような言葉をかけられ、さらに、なぜかわからないが、怪しげなタクシー運転手によって誘拐されそうにすらなる。彼はまるでルイス・キャロル的なファンタジーの世界か、チェスタートン的な悪夢の世界にさまよいこんだような気分になる。彼はメロドラマの外に立っていて、内側でなにが起きているのかまるでわからない。しかし内部で起きているドラマの胎動が、彼の足もとを襲うのである。そのことは本文のなかで次のように表現されている。
 再び彼は奇妙な感覚を抱いた。彼のすぐそばで繰り広げられているドラマの、ちょうど外側に自分は立っているという感覚だ。
マージェリー・アリンガムは近代的ミステリが切り開いた境地のなんたるかをよく知っている。

しかし本編の主人公といってもいいであろうキャンピオンがあらわれ、ヴァル青年にすべてを説明すると、急に謎は解け、つまらないメロドラマが現出する。ヴァル青年がその一員であるガース一族は、何千年にもわたって聖杯を保管してきた由緒ある一族なのである。ところがこの聖杯をぶんどろうとする悪党どもがあらわれ、ガース一族の屋敷にしのびこんだり、ヴァル青年を誘拐しようとしたのだ。あの不思議な手紙も、キャンピオンによって何十枚か何百枚か、ヴァル青年があらわれそうなところにばらまかれた手紙の一通にすぎなかった。驚嘆すべき偶然は、内部から見れば必然にすぎなかったのである。これはまたなんと退屈な物語であろう。

しかしアリンガムは一癖も二癖もあるミステリ作家である。聖杯の奪い合いという一見すると単純なドラマが、進展すれば進展するほどファンタジーめいた妙な様相を帯びてくるのである。だいたい聖杯を何千年と守りつづけてきた一族というのがファンタジーによくありそうな設定ではないか。聖杯を奪おうとする悪党どもというのも、じつは世界中の金持ちが結成した盗賊団である。キャンピオン自身が「ファンタジーじみているが」と断って、盗賊団の結成にいたる過程をヴァル青年に説明している。さらに魔女の子孫もでてくるし、聖杯を守る巨人も登場する。ヴァル青年が相変わらず夢を見ているような感じだと思わず述懐するのは当然だと思う。要するに彼はひとつの夢の世界から別の夢の世界に落ち込んだのである。

そう、われわれは本当の意味で内側の世界に入り込んだわけではない。内側に入り込んだと思ったら、じつはそこも夢の世界、外側の世界だったのである。そこはやはり奇怪な徴候に満ちていて、読者に読解を要求するのである。本作におけるアリンガムの試みが功を奏しているかどうかは疑問だが、すくなくとも彼女がミステリの書き方に工夫を凝らしていることは明らかだと思う。彼女は「ミステリはソネットのように精密である」と語ったが、ポーとおなじように方法論に非常にこだわった作家だったと思う。