2016年10月1日土曜日

93 E.C.R.ロラック 「殺人者は間違える」

Murderer's Mistake (1946) by E. C. R. Lorac (1884-1959)

ロラックのマクドナルド警部ものである。ルーンズデイルというイギリスの田舎で連続して小屋にコソ泥が入った。小屋というのは地主たちが本宅とは別に持っている小さな家で、休暇で遊びに来た人に貸したり、自分たちが釣りなどをするときに利用するものだ。普段は誰も住んでいないが、家具などは一応ついているし、食料も置いてある。その小屋になにものかが入り込んで、コートだとか胴長だとか、たいした金目のものはないのだが、盗んでいったようなのである。この近辺には hawker 、今で言うと廃品回収業者みたいな連中がロバに引かれた車に乗って行商をしているため、彼らが小屋に入り込んで金になりそうなものをいくつか失敬していったのではないかと考えられた。

しかしマクドナルド警部はこの事件の報告を聞き、配給切符の不正利用(戦争中の話である)をやって姿をくらましたギナーがこのことに関係しているのではないかと考える。その直観はずばり的中し、ルーンズデイルを流れる川の底からこのギナーの死体が見つかった。ギナーの死体が川面に浮かんでこないように、重しやら丈夫な紐など、小屋から盗まれたいくつかの物品が使われていた。

マクドナルド警部はルーンズデイルの地主ホゲット夫妻の協力を得て捜査を進める。ギナーを殺したのは誰なのか、なぜギナーは殺されたのか。

本作はミステリとしてはさほどの出来ではない。たいしたことはないけれど、イギリスの田舎の様子を実にくわしく描いていて、読みながら「こういう場所に住むのもいいものだな」と何度も思った。風光明媚な畑や谷や丘のつらなり。鮭が釣れ、月影がうつくしく映る川。収穫を控え秋の色に色づいた作物。灰色の柔らかい靄に包まれたような雨の風景。本書の自然の描写はどれをとっても印象的だった。

しかし理論的な側面においても、本書にはちょっとだけ注目すべきものがある。犯人が捕まり、マクドナルド警部が捜査に協力してくれたホゲット夫妻にむかって事件の真相を語り終えたとき、ホゲット夫人はこう言う。「この事件でいちばん興味深いことは、証拠は犯人がどういうタイプの人間なのかを明瞭に示しているのに、わたしたちにはそれがわからなかったってことね」

マクドナルド警部は真相を語りはじめる前にこう言っている。「みなさんは事件を解決するのに必要なすべてのデータを持っていたのですよ……みなさんは第一級の証人だ。正確な記憶をお持ちだし、細かいところにまで観察をはたらかせ、それを物語る天賦の才能も持っている」そう、ホゲット夫妻はすべての事実を把握していた。この地域の内情にもくわしい。それどころか捜査の途中で、マクドナルド警部に「いったいなにが起きたのだと思いますか、あなたなりに事件の背景、経過を物語ってみてくれませんか」と言われたとき、ホゲット氏はもう少しで真相にたどりつくというくらいの鋭い洞察力を見せるのだ。しかし事件を解決できたのはマクドナルド警部だけなのである。いったいこれはなぜなのか。

マクドナルド警部はこう考える。「それにはふたつの理由があるでしょうね。一つにはお二人は証拠を読解する訓練を欠いている。簡単なようだけど、本当は専門的な訓練がいるのですよ。もうひとつはこういうことです。誰かさんがあなたのよく知っている世界のひとりだとしましょう。するとその人を当然のように受け止めてしまうのです。××さん? ああ、あの人ね。そう言ってあなたは笑ったりするでしょう。威張っているとか、頑固だだとか、田舎の百姓より自分のほうが賢いと思っている、なんて理由でね」

マクドナルド警部があげている第二の理由を私の言葉で言い替えれば、ホゲット夫妻に真相が見抜けないのは、彼らが充分に事件の外部に存在していないからである。彼らはスコットランド・ヤードの捜査に協力するけれども、同時に何者かに自分たちの小屋をあらされた事件の当事者であり、事件の舞台であるルーンズデイルを生活圏にしていて、そこからいろいろな意味で離れることができない。それでは事件を「外形」として見ることができないのだ。外部に立つ者と内部に立つ者は、視線の質が異なる。内部的な意味(「ああ、あの威張っている人ね」)を切断しなければ、外部に立つことはできない。同じ事実を見ていても、それが意味するところはまるで違うのである。

マクドナルド警部があげている第一の理由も大切なことを言っている。ただ単に外部に移動すれば、内部の者とは別の視線・視力が得られるのかというと、そうではない。内部的に調整された視力を外部的に調整し直すには、つまり徴候を読み取るには、それなりの専門的訓練(なにしろこれはイデオロギーの問題なのだから)が必要なのだ。