2016年8月31日水曜日

番外16 記号の問題

番外16 記号の問題

 

志賀直哉「城の崎にて」にこんな文章がある。
自分の部屋は二階で隣のない割に静かな座敷だつた。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になつてゐる。其羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな肥つた蜂が天気さえよければ朝から暮近くまで毎日忙しさうに働いてゐた。蜂は羽目のあはひから摩抜けて出ると一ト先づ玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で丁寧に調べると少し歩きまはる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなつて飛んで行く。
谷崎潤一郎は「文章讀本」においてこの一節を取り上げ、こう解説した。
些細なことでありますが、「直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。」の所で、「シツカリ」を片仮名、「ぶーん」を平仮名にしているのも頷ける。この場合、私が書いてもきっとこう書く。殊に「ぶーん」を「ブーン」と書いたのでは、「虎班の大きな肥つた蜂」が空気を振動させながら飛んで行く羽音の感じが出ない。また「ぶうん」でもいけない、「ぶーん」でなければ真直ぐに飛んで行く様子が見えない。
日本語には大きく漢字、平仮名、片仮名の三種類の文字がある。それぞれ読み手に与える印象が違う。漢字は複雑に線を交差させいかめしい。自由とか権利といった概念語は通例、漢字によって表記される。平仮名は漢字から造られたものだが、簡素で曲線が多く用いられ視覚的にやわらかい印象を与える。片仮名も簡素化された文字だが、平仮名よりも直線が多く用いられている。

谷崎が「シツカリ」を片仮名で書く、といっているのは、蜂が飛ぶ前の緊張感が直線的な片仮名によってよりよく表現される、ということである。平仮名で「しつかり」と書くと、その丸みを帯びた文字のせいで、緊張感が減殺される。

また「ぶーん」は「ぶ」の字が肥った蜂を想起させる字形をしており、長音をあらわす記号「-」は同時に蜂の飛行コースを暗示的に示している。



三島由紀夫の小説に
昨夜妙子の唇がつけた小さな苺のような皮下出血の跡
という表現がある。苺が漢字で表記されているが、これは平仮名の「いちご」あるいは片仮名の「イチゴ」には置き換えられない。可憐な一点の内出血の跡は、適度な複雑さで構成された一字の漢字によってあらわされなければならない。

三島は谷崎の影響を大いに受けた作家だが、やはり文字の視覚的な側面を重視する。

このごろは制限漢字といふいやらしい掟があるけれど、表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔の字は、幾重にも内側へ包み疊んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるように出來ている。この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。

 (森茉莉「甘い蜜の歓び」についての文章)羊皮は貴女にとっては、スエードではいけない。スウェードでもいけない。それを撫でる指さきが滑るようで引っかかり、引っかかるようで滑るスウエエドでなければならない。絶対に、絶対にスウエエドでなければならない。

 (鴎外の一文「日光の下に種々の植物が華さくやうに」に関して)「花」と書かず、「華」と書くことによって、「花」の柔らかさの代りに、より硬質な、そして複雑で典雅な「華」が暗示される。

ちなみに私はもともと旧漢字で書かれたテキストを新漢字に直したものは読まない。たとえば三島だが彼は「からだ」を「體」と書く。新漢字に直すと「体」だ。私はこのすかすかの新漢字を用いることに疑問を感じる。ボディビルをし、肉体を鍛えることに固執していた三島にとって「からだ」は筋肉と骨が複雑に組み合わさせれてできているもののはずだ。「体」のような貧弱なものではないと思う。私の解釈が当を得ているかどうかはともかく、「体」と「體」とでは視覚的な印象があまりにもちがいすぎる。それゆえ新漢字に直したものを私は読まない。



津島佑子はこんな一節を書いている。
……太古、地球上の空気はまだ現在のように"ホモジェナイズ"されていなかった。大小さまざまな形のガラス板が犇めき合いながら浮遊しているような状態だった。
「犇」という漢字は、いかにもその形が「ガラス板が犇めき合いながら浮遊している」様子を彷彿とさせる。ここではほとんど「犇」という漢字がガラス板の比喩を生み出したかのようである。



記号は通例シニフィアンとシニフィエからなると言われる。本当だろうか。

「苺」のシニフィアンは「苺」という文字、あるいは「いちご」という音声である。そのシニフィエは、表面に小さな種を付着させた赤い円錐形の液果である。両者は日本語のうちではコード化され強固に結び付いているが、しかし「苺」という記号のどこにも「キスによる皮下出血の痕」という意味合いはないし、そのイメージを喚起するいかなる要素もコード化されてはいない。これはとあるコンテクストの中に置かれたこの語が、まったく偶然に帯びる意味、イメージである。

「城の崎にて」における「ぶーん」という語においても、「肥った」蜂のイメージとか、「まっすぐ」な飛行のイメージは、偶然的に発生している。



しかし偶然的とはいえ、このようなイメージや意味が発生したのは、文字というシニフィアンそれ自体に視覚的イメージが備わっているからである。通常視覚的イメージはシニフィエの想起になんの影響も与えない。しかしそれは存在しないのではなくて、(ほとんど)透明なだけである。ある条件の中では視覚的イメージが働きはじめる。

たとえば知っている漢字を度忘れしたとき、われわれはその漢字のおぼろげな視覚的イメージをたよりに、それを思い出そうとすることがよくある。



安西冬衛の有名な句
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた
においては「てふてふ」という和語と「韃靼海峡」という漢語がはげしく衝突する。両者のあいだには、イメージ的な対立(はかない生命体と荒々しい自然)や音声上の対立(たどたどしい、どこか気の抜けた音と、漢語の強烈なリズム)、視覚的な対立(曲線的で簡素なひらがなと、直線的で稠密な漢字)がある。

「てふてふ」は、その反復性、不規則な曲線による構成によって、視覚的に、蝶が羽根をはばたき、蝶特有の、あのたどたどしい飛行の姿を想起させる。ひらがなの簡素さは(気の抜けた音声とともに)蝶の身体のもろさをも暗示している。

もう一つ指摘したいのは、「ふ」という字を書くときの手の揺れのイメージ、つまり不規則な中心線を書いたあと、左に、右にと揺れる手の動きのイメージが、蝶の羽根の動き、飛行のイメージと重なるということである。



つまり「てふてふ」というシニフィアンには視覚的イメージだけでなく、書記の際の手の運動のイメージもそこにはあるということだ。

運動イメージはやはり通常は(ほとんど)透明である。しかしあるコンテキストの中ではそれが偶然的に意味を帯びることがある。



記号はシニフィエという内容を伝えるだけではない。シニフィアンの視覚的イメージ、書記の際の運動イメージなども伝えることがある。

そうした要素を勘案した上で記号を考えたのがフロイトである。

彼は語表象を
1 音像
2 視覚性文字像
3 発語運動像 (発語された語についての発音器官の運動性の表象)
4 書字運動像 (字を書くときの肉体の運動性の表象)
の連合したものと考える。(「失語論」)私はソシュール流の「シニフィアン・シニフィエ」よりもフロイトの考えた語表象を出発点にしたほうが、はるかに実りある記号論ができると考えている。

2016年8月27日土曜日

80 キャサリン・ニュウリン・バート 「赤い髪の貴婦人」 

The Red Lady (1920) by Katharine Newlin Burt (1882--1977)

十八世紀の末から十九世紀前半にかけてイギリスではゴシック小説が大流行した。大きなお屋敷とか僧院を舞台に、超自然的な出来事が起きたり、背徳的な、あるいは血なまぐさい事件が展開するという物語である。たいてい美しいヒロインがいて、一人で怯えながら迷路のような建物の中をさまよったり、あやうい目に遭ったりする。

ゴシック小説の流行は十九世紀の中頃からセンセーション・ノベルの流行に取って代わられたが、ゴシック小説の型はそれ以後もいろいろな作家によって利用されている。イギリスのヴァランコートというゴシック小説やホラー、ミステリ、ゲイ小説といった、ややマージナルな作品を掘り起こしている出版社が最近、アーネスト・G・ヘナムの「バッカスの宴」を再刊したが、これもゴシック小説の名品である。

ミステリの中には大きな屋敷で連続殺人事件が起きたりするものがあるが、あれなどもゴシック小説の影響を受けたものと見ることができる。

「赤毛の女」もゴシック小説の骨法で書かれた作品だ。ノース・カロライナのあるお屋敷で奇妙な事件が起きる。この家にはミセス・ブレインが幼い息子とともに暮らしている。ミセス・ブレインの夫は死んでいるのだが、しかし亡くなる直前に彼は、この邸のどこかに宝物を隠したことをほのめかした。夫人は手を尽くして屋敷の中を調べたが、残念ながら宝物は見つからなかった。

そのうちに召使いのあいだに幽霊の噂がひろまった。夜中に壁の向こうから変な声が聞こえた、とか、真っ暗な廊下で幽霊とすれ違った、などと言い出したのだ。迷信深い召使いたちは怖れをなして仕事捨て、屋敷を出て行く。

この謎に立ち向かうのが、新しく家政婦として雇われたミス・ゲイルである。彼女は寄宿学校を出たばかりで仕事を探していたのだが、見知らぬ女にミセス・ブレインのことを教えられ、彼女の屋敷で働くことになったのだ。

彼女は若くて行動力があり頭も切れる。しかしその彼女も、夜な夜な現れる幽霊のことを知って愕然とした。赤毛の髪の毛といい、背格好といい、顔つきといい、彼女と瓜二つであったのだ。

この筋の運び方はなかなかうまい。今回このブログのために二十世紀前半のミステリをまとめ読みして気がついたのだが、物語の導入までは非常にうまく書いている作家が多い。本書は一九二〇年に出ているが、読者を物語に引き込む技術は相当に確立されていたのだろう。しかしどんなに出だしはうまく書いていても中盤、終盤はただの(古い)メロドラマに堕してしまうケースも多い。新しい形式を生み出すということはなかなか大変なことなのだ。

本書も最後のほうになるとメロドラマの色彩が強くなる。しかしそれでもなかなかに面白い作品であるとはいえるだろう。上の粗筋を読んだだけで大方の人は予想がついただろうけど、じつはミセス・ブレインのお屋敷には、彼女の夫が隠した宝物を狙って賊が侵入していたのである。このお屋敷の分厚い壁の中は空洞になっていて、そこに賊が忍び込み、邪魔な召使いを追い出していたのである。そしてこの賊がなぜ新しい家政婦とそっくりだったかというと……ここがいかにもメロドラマなのだが、そこは言わないでおくことにしよう。

本書を読んでいておやっと思った部分が一カ所ある。ミセス・ブレインがミス・ゲイルの二重性を指摘する部分だ。彼女は新しい家政婦に向かってこんなことを言う。「あなたは天使のように愛らしいわ。でもあなたの美しさは悪女の特徴を持っている。たとえば赤毛は悪女にこそふさわしい髪の色よ。あなたの瞳はグリーン・ブルーだけど、それはベッキー・シャープの瞳の色。薄くて赤い唇は酷薄そうにも見える」まるで平行線が交わるように、天使と悪女がミス・ゲイルの中で一致するというのだが、こんなふうに女性を反対物の一致として描き出すのはセンセーション・ノベルの代表作「オードリー夫人の秘密」の影響だろう。私は自分の訳書の解説で、このような反対物の一致をラカン派の精神分析の考え方と結びつけて解釈した。「赤毛の女」にも精神分析学的に興味深いところがいくつかあってしばらく考え込んだのだが、どうも考えがまとまらない。ただもう一二冊、この作者の作品を読んでもいいなと思わせるくらいには技量もあり、感受性の鋭さを見せている。

2016年8月24日水曜日

79 トム・クローマー 「待てども何もあらわれず」

Waiting for Nothing (1935) by Tom Kromer (1906-1969)

日本でバブル経済がはじけたころに「清貧の思想」とかいう本があらわれた。贅沢を止め質素に暮らそう、そこにこそ自由がある、といったような内容の本だ。こういう考え方をイデオロギーというのである。

最近はほとんど聞かなくなったが、以前は仕事を得るためにスキルを身につけようとか、あなたが良い職をみつけられないのはあなたの心構えに問題があるからだ、などとよく言われていた。これもイデオロギーだ。問題はあなたの内面にあるのではない。経済、社会の構造それ自体にあるのだ。ここ数年来、そのことが誰の目にも明らかになってきたので、こうしたご託を述べる輩は減ってきた。

トム・クローマーの「待てども何もあらわれず」は一九三〇年代、つまり大不況の時代に浮浪者の身分に陥った、もともとは中流階級の(しかもかなり教養のある)男の経験を語った作品である。この中にも上にあげたのと同じようなイデオロギーが登場し、浮浪者によってこき下ろされている。
 彼はポケットの中の新聞をたたいた。「この新聞の社説によると、この不況は人々の健康にいいんだそうだ。人々は食べ過ぎているのだそうだ。この不況のおかげで人々は神への信仰を取り戻しているだとさ。不況は人々に人生の本当の価値を教えるだろうと言っている」
 「クソ野郎が」緑色に変色した肉をかんでいた浮浪者が言った。「クソったれのクソ野郎が。そんな社説を書いた野郎の姿が目に見えるようだぜ。女房とガキの姿もな。やつらは食事のテーブルに着く。制服を着た召使いが椅子の後に立って食い物を渡す。やつらは終日ロールス・ロイスを乗りまわす。そんな男が炊き出しの列に並んでいるのを見ることがあると思うか。あるわけない。でもこのクソ野郎はこういうくだらないことを書いてみんなに読ませるんだ。人生の本当の価値だと? そんなに神への信仰を取り戻したいなら、どうしてロールス・ロイスをさびついたバケツと取り替え、炊き出しの列に並ばないんだ。クソめが」
ケチの付けようがない正論である。清貧の思想に感動する人は自分が置かれた社会的状況の特殊性に気づいていないのである。イデオロギーは社会が本当に齟齬を来しているところから人々の目をそむけさせるようにはたらく。

本作はミステリとはいいがたいが、社会の暗い側面を写実的に描いているという意味で多少ノワールの味わいを持っている。それに大不況の時代の浮浪者の実態など、この小説以外にどんな記録があるだろう。私は本書をすぐれた作品とは考えないが、貴重な意味を持つものとは思う。インターネットでいろいろ調べるとアメリカの大学の授業で本書を読んだという人もいるから、それなりの重要性を持っている作品と考えていいだろう。

語り手はトムという男だが、彼は作品中で自分の詳しい経歴などは語らない。ただもともとはまともな教育を受けた中流階級以上の人間だったと思われる。そして不況で金がなくなるとともにすべてを失ったようだ。彼は十二章にわたって浮浪者の生活のさまざまな側面を語る。警察、牢屋、炊き出し、強盗、売春、いずれも印象的で痛々しいエピソードばかりである。その中から二つを紹介し、ともども私の感想を述べておこう。浮浪者たちが墓地で焚き火をし、夕食を作ったり休んでいると、武装した警官たちがあらわれ、鍋を蹴飛ばし、浮浪者たちを墓地から追い出そうとする。もちろん浮浪者たちはこの乱暴なやり方に怒り、手に手に石や棍棒を握るのだが、危険を察した警官たちは銃を引き抜き、本気で撃つ構えを見せる。浮浪者たちは仕方なく墓地から移動する。そのあとある浮浪者はこう言う。
 「おれに銃があったら目にもの見せてやるんだが。銃さえあればあいつらをひどい目にあわせてやるのに」
 「おれも昔はそう思ったぜ」べつの浮浪者が言った。「だけど銃を握っておれは何をしただろう。何もしなかった。それだよ、おれがやったのは。ただじっとしていたんだ。浮浪者に何かをしでかす肝っ玉なんてないんだ。くさい炊き出しのスープを飲んで凍え死ぬしか能がないのさ。だから浮浪者なんだ」
自分を取り巻く状況に対して何もできないという無力感はこの作品に通底する感傷である。(ちなみに私は本書の「浮浪者」という言葉を「非正規」に何度も置き換えて読んだ)しかし語り手は過度の自己憐憫には陥っていないものの、厳しい言い方をすれば、彼はやはりどこかで自分たちの無力なありようにセンチメンタルに酔っている。それがこの本をだめにしているいちばんの原因なのだ。

第八章にはバスを待つ女たちの前で、道に落ちているドーナツを貪り食って、彼らの同情を引き、金をせしめる浮浪者の話が出てくる。もちろんドーナツはあらかじめ店で買い、バス停のそばの側溝に落としておくのだ。そして女たちが集まったところで彼はドーナツを拾って食う演技をしてみせるのである。この男はたっぷり金をせしめる。そして頭を使えば炊き出しの腐れスープなど飲まずにすむのだと、堂々とした態度で語り手に言う。語り手はこの男はすごいと感心するが、自分には女性の前で落ちているドーナツを食べることはどうしてもできないと考える。

坂口安吾風にいえば彼はまだ堕落しきっていないのである。堕ちきっていないから落ちているドーナツを食べる浮浪者のような威厳を持つことができないのだ。堕ちきっていないから棍棒で人の頭を殴り金を盗むこともできない。銀行強盗にも失敗するのである。そしてその無力さにいつまでも拘泥し、拘泥することに酔っているのだ。このナルシズムが私には鼻についてならない。

アゴタ・クリストフの「ノートブック」には、ミツクチとその母が飢えと寒さで死に掛けているとき、主人公の子供たちが牧師の家に押しかけ、彼をゆする場面が出てくる。子供たちは牧師から小額の金を受け取ると、これだけでは足りない、明日また来るという。
 「明日はぼくたちを家に入れてくれるまでベルを鳴らしますよ。窓をたたき、ドアを蹴り、あなたがミツクチに何をしたか、みんなに言いふらします」
 「わたしはミツクチになにもしちゃいないよ。彼女が誰かすら知らない……(中略)」
 「そんなことはどうでもいいのです。噂になればいいのです。スキャンダルはみんな好きだから」
 「なんてことだ。きみらは自分がなにをしているのか、わかっているのか」
 ぼくらは言った。
 「ええ。おどしているんです」
 「きみらのような歳で……なんとなげかわしい」
 「ええ、なげかわしいです。ぼくたちがこんなことをしなけりゃならないなんて。でもミツクチと彼女の母親にはどうしても金がいるんです」
こうして彼らは牧師から毎週金をせしめることになるが、ミツクチと母親の生活が立て直されると、金を渡そうとする牧師にこう言う。「そのお金は取っておいてください。あなたは十分にお金を出しました。ぼくらはどうしても必要だったからあなたのお金を取りました。でも今、ぼくらは十分にお金を稼いでいて、そこからミツクチにいくらかを渡すことができます……」

「ノートブック」の主人公が「絶対的に必要だから」という理由で見せるナルシズム抜きの行為こそ、浮浪者トムに欠けているものである。

2016年8月20日土曜日

78 ミルドレッド・ワート・ベンソン 「古いアルバムの謎」

The Clue in the Old Album (1947) by Mildred Wirt Benson (1905-2002)

ご存じナンシー・ドルーが活躍する一作。このシリーズの作者はキャロリン・キーンということになっているが、じつはいろいろな人が作品を書いていて(ベンソンも初期のナンシーのイメージを形づくった重要な書き手の一人だ)、全員をひっくるめてキャロリン・キーンと呼ぶことになっている。一九三〇年代から書き始められ、いまでも続いているようだから、ずいぶん長命なシリーズである。

ナンシーは上流階級の娘で、行動力があり、頭が切れ、人気者で、愛らしい。シリーズの最初の頃はこの「行動的」という点がナンシーの人気の秘密であったようだ。伝統的な女性観、やさしくて、おとなしくて、情緒的といった女性のイメージを打ち破ったところがよかったのである。また金に不自由はせず、おなじように金持ちらしき友人たちと車であちらこちらへ遊びに行くことができ、若いというのに名探偵として社会的に認められ、警察ですら彼女の言うことをきくわけで、年少の読者からすればナンシーには望ましい資質がすべて備わって見えたことだろう。

もっとも後の批評家はナンシーが上流階級の価値観にまみれていることを批判する。本書にはオークションでナンシーが古い時代のおもちゃを競り落とす場面があるのだが、いったい彼女はいくら小遣いをもらっているのだろうと思った。いくらでも自由に使っていいと父親から小切手帳をもらっているのだろうか。彼女に事件の解決を依頼したあるご婦人は、ナンシーに報酬を支払おうとするのだが、しかし彼女は事件を解決することじたいが私の報酬です、などと殊勝なことを言う。これもひっかかる言葉だ。彼女は捜査のために方々へ出かけているし、人形やらアルバムやらも購入している。タクシー代だって相当にかかっているはずなのだ。それでも報酬はいらないなどといえるのは、家にそれだけの金があるということである。そういうところがどうにも鼻についてならない。

本書はかなり荒唐無稽な話になっていて、事件が終わってからもう一度その経過を振り返ってみるといろいろあらが目に付くのだが、まあ、子供向けの話だからそこは見なかったことにしよう。しかしアメリカ征服を目論むジプシー集団とか、生命を持った不思議な物質などという奇想天外な設定には、今は子供だってだまされないだろう。

しかしいちばんひどいのは都合のいい偶然があまりにも多すぎることだ。ナンシーが手掛かりがほしいと思っていると、たまたま入ったお店でその手掛かりが見つかり、味方がもう一人ほしいと思っていると、ひょっこり道路の向こうから昔の知り合いが歩いてくるといった具合で、このご都合主義の筋立てにはあきれるしかない。

事件が次から次へと起こるので飽きることはないのだけれど、登場人物の心理にわけいったり、それぞれを個性的に描き分けることはなく、ただあわただしく筋の展開を追っているばかりのような気もした。ナンシーと、本編の副主人公ともいうべき少女ローズですらその描かれ方は一面的、あるいは戯画的で、ほかの人物にいたってはまるで印象が残らない。

あらばかり書き立てたが、実際本書はほかの作品と較べてそれほどよい出来とはいえないと思う。

簡単にあらすじをまとめておこう。裕福なストラザーズ家には娘がいた。彼女は家族の反対を押し切ってジプシーの音楽家と結婚した。ところが夫が家を出て行ってしまい、娘は子供(つまり娘の親にとっては孫にあたる)ローズを連れて実家に戻ってくる。娘のほうはそれからほどなくして死んでしまうのだが、以後ストラザース家とローズの身に不思議な事件が降りかかりはじめる。たとえばミセス・ストラザーズは音楽会の最中に財布を盗まれたり、彼女が収集している古い人形を盗まれたりする。そのうえジプシーと思われる怪しげな男女が彼女の家の付近をうろつくようになるのだ。ミセス・ストラザーズは偶然知り合ったナンシー・ドルーに事件の解決を依頼する。事件を解く鍵は彼女の娘が死に際に残した不思議な言葉と、彼女のアルバム帳にあるようだ。ナンシーは捜査をジプシーたちに邪魔され、脅迫されるだけでなく実際に危険な目にも遭うのだが、そのたびに彼女は持ち前の行動力で窮地を切り抜けていく。まあ、ざっとこんな話である。

ジプシーを悪者扱いするなんていかにも時代を感じさせる。現在書かれているナンシー・ドルーものはどんな内容になっているのだろう。格差問題なども扱っているのかしら。

2016年8月17日水曜日

77 エドガー・ウオーレス 「銀の鍵」

The Clue of the Silver Key (1930) by Edgar Wallace (1875‐1932)

どういうわけかエドガー・ウオーレスの本は、その量に比して翻訳が出ていないという印象がある。たしかに現代のミステリに慣れた目で見ると時代がかっているけれど、ウオーレスの生きのよさ、活気あるストーリー・テリングは十分に今でも楽しめるはずだ。彼は「文学」などといった高尚なものには目もくれず、ひたすら大衆受けのするB級作品を書き続けた男である。それゆえ彼の作品には社会批評などといったものはなく、時代のイデオロギーに迎合した作品も少なくない。しかし読者を物語りに引き込まずにはいないある種の熱気に満ちていて、それはいまの読者にも十分伝わるのではないだろうか。

「銀の鍵」もウオーレスらしさが全開の一編で、非常に楽しかった。彼は一八九八年にはじめて詩の本を出版し、一九三二年に亡くなっているから、本作は晩年の作品ということになる。しかし晩年でもこれだけ勢いのある作品を書くというところがウオーレスのすごいところだろう。(「書く」というのは正確じゃないかもしれない。ウオーレスは多くの作品を口述していたらしいから)

本作のプロットを要約するのは難しい。結構筋が入り組んでいるのである。そこで思い切って枝葉を刈り取って幹の部分だけを紹介する。金貸しをして大金持ちになったハーベイ・リンという老人が殺害される。彼は足が不自由で、車椅子に乗って召使と公園を散策していたのだが、その最中に銃で背中を撃たれて死んだのである。撃った人間はわからない。では、なぜ殺されたのか。それはシュアフット・スミスという、「デカ」という呼び名がいかにも似つかわしい刑事によって徐々に判明するのだが、じつは何者かが金貸しの銀行口座から金を騙し取っていて、それがばれそうになって犯人がリン老人を殺害したのである。金をだまし取る機会を持っていた人間は誰か。また公園で金貸しを撃つことのできた人間は誰か。二人の重要容疑者が捜査線上に浮かんできた。一人は突然休暇をとって行方をくらました銀行家である。もう一人は、リンから金を借り返せないで困っている貴族のドラ息子である。ところがスミス刑事の捜査の結果わかった真犯人は……。

私はてっきり銀行家が犯人と思っていたのだが、真犯人は一秒も考えなかったある男だった。これにはびっくりした。手がかりがすべて提示されているパズル・ストーリーではないので当てることは難しいのだが、しかしそれでもうまくやられたという感じがする。ゲームやスポーツで相手にうまくやられたときは悔しくなるものだが、ミステリにおいてうまくやられたときは気分が爽快になる。私は久しぶりの爽快感を味わった。

私のまとめだけを読むと単純な話のように思えるが、さっきも言ったように、このメイン・プロットにはさらにいくつかのサブ・プロットがくっついてくる。ロンドンのある劇団を金銭的に支援する奇特な金持ちの話、犯人の正体を知ったために殺された浮浪者の話などである。こういう脇筋がからみあって展開するので、話は決して単調にはならない。

ちょっと面白いのはウオーレスですらミステリの紋切り型を厭わしく思っていたような記述がみつかることだ。
 シュアフット・スミスは溜息をついた。「これじゃまるで小説みたいだな。俺は小説みたいなのが嫌いなんだ。ロマンチックなんだよ。ロマンチックなものは胸くそ悪い。だけどこれはしょうがない、お嬢さん、あんたの言う通りにするよ」
あるいはスミスが犯行現場で犯人が落としたボタンを発見した場面。
 彼は不意に立ち止まって屈み込み、床から何かを拾い上げた。真珠でできたチョッキのボタンだ。「こういうことは小説の中でしか起きないものだ」彼はボタンをひっくり返して見ながら言った。
こんな具合にメロドラマ的なロマンスや偶然を毛嫌いしているのだが(そしてスミス刑事がハードボイルドを気取るのもメロドラマ的なものから離れようとする作者の意図のあらわれのように思われるのだが)、しかし結局ロマンスも偶然も起きてしまう。ウオーレスは暴力的だとかコロニアリズムだとか批評性がないとかいろいろ非難されるけれども、私がいちばん物足りなく思うのは、なんだかんだ言ってもやっぱりメロドラマの枠内に収まってしまっていて、その枠を変質させようとか、変更する気がまるでないところなのである。まあ、大衆的な作家というのはそういうものだけれど。

2016年8月13日土曜日

76 レビアス・ミッチェル 「パラシュート殺人事件」

The Parachute Murder (1933) by Lebbeus Mitchell (1879-1963)

作者の詳しい経歴はわからない。子供向きの本や、カーク・キマーソンという俳優を主人公にしたミステリをいくつか出しているらしい。一応プロの物書きなのだろうが、しかし「パラシュート殺人事件」はずさんな出来だと思う。探偵の推理は期待させるほどのものではないし、犯人が分かってから物語を振り返ると、不整合な部分がいくつかあることに気づくからである。

事件はこんな具合にはじまる。チャドウィック・モーンはニューヨークで活躍する舞台俳優で、常に自分の名前が新聞雑誌に取り上げられることを望んでいる。ここしばらく芝居でヒットを飛ばしていない彼は、売名のために一計を案じる。まず、旅行に行くために飛行機に乗る。つぎに飛行中の飛行機からパラシュートをつけて飛び降りる。着地した後は数週間行方をくらます。こういう派手な失踪劇を演じれば、彼の名前は毎日新聞に載るだろうというわけだ。

ところが計画を実行した彼は、翌朝、パラシュートに包まれた死体となって発見された。銃殺されたようである。警察は三つのシナリオを考えた。(1)モーンは着地した後銃殺された。(2)パラシュートで落下中に銃殺された。(3)飛行機内で殺され、パラシュートをつけて機外に放り出された。いずれのケースかによって犯人が変わってくるのだ。

本件の解決に当たるのは、これまた役者のカーク・キマーソンである。地方検事から探偵の才能を認められ、今回の捜査に特別に抜擢されたのだ。彼は役者らしく一風変わった推理・捜査の仕方をする。被害者と顔つきや服装やしぐさを似せて彼と同一化し、彼がどのように考えるかということを直感的に知ろうとするのである。
ぼくはモーンの立場に自分を置きたいんだ。できることなら精神的にも、感情的にも。彼に関するすべてを調べだし、それを煮込んで、上に浮かんできた灰汁を取り除き、残ったものを研究する。もしもモーンとおなじように感じることができ、彼の皮膚の内側に入ることができたら……
こういう方法論を述べる探偵はキマーソンのほかにもいろいろいるが、本作がいただけないのは、彼独特の人格研究がいっこうに捜査の役に立っていないことである。彼は作品の中で二三度、被害者のモーンに化けて召使たちをびっくりさせたりしているが、それでなにかわかったかというと、じつはなにもわからないのである。せいぜい事件の容疑者のリストに一人の女を付け加えた程度の成果しかなかった。このことは探偵自身も自覚しているようだ。
 「で、今晩チャドウィック・モーンの物まねをして、どういうことがわかったのかね」ブレイクはかすかな皮肉をこめて聞いた。
 「残念だが、ご想像の通り、なんにもわからなかったよ」
被害者あるいは犯人と心理的に同一化をはかろうとする捜査方法は、私の知るかぎり、どの作品でもつまらない結果に終わるものだが、本書においては、そもそも結果すら導き出されていないのである。探偵は何度も自分の特異な方法論を説明しているのだが、まったく期待はずれに終わってしまった。

もう一つこの作品の難をあげておこう。探偵は物語の後半に入ると姿を消す。これは敵(つまり犯人)が彼の行動を見張っていて、居場所がばれると殺される可能性があるからだと説明がなされている。私はびっくりした。一人の人間であってもその行動の一部始終を見張り続けるには相当の人力と労力がかかる。そんな金銭的余裕があり、組織力のある犯人とはいったい誰なのだろう、と。

ところが最後に指摘された犯人たちを見ると……とてもじゃないが、そんなことができたとは考えられない人々なのである。だいたい罪がばれるや、すぐさま毒を飲んで自殺してしまうような気の弱い連中なのだ。それではなぜ探偵は身の危険を感じるなどと言ったのか。これはもう、ただ単に作者が話を盛り上げようとしてそういうことにしたというだけなのである。

細かいことは書かないけれど、この作品には「そんなことはありえないだろう」と思えるようなエピソードがいくつか混じっている。文章を見ればアマチュアの書き手でないことはわかるのだが、しかし物語のつくりがあまりにもいい加減ではないかと思った。

2016年8月10日水曜日

番外15 小レビュー集

このブログではすでに読んだ本のレビューは書かないことにしているが、ぜひとももう一回紹介したいと思う作品もある。そこですでに書いた短いレビューを番外編として掲載する。今回は二編。

(1)Sleeping Waters (1913) by Ernest G. Henham (1870-1946)

Ernest G. Henham は John Trevena というペンネームでも小説を書いていた人だ。一週間ほどかけてこの人の Sleeping Waters という長い小説を読んだ。これだけのものを書ける人が、どうして今は忘れ去られた作家になってしまったのだろう。

物語はこんなふうにはじまる。ローマン・カトリックの牧師アンガーは、ロンドンのスラム街で慈善活動をするうちに健康をそこね、療養に Dartmoor へおもむく。そこの空気はすばらしく、彼はたちどころに健康を回復し、その若さにふさわしい活力をみなぎらせるようになる。

元気になったアンガーは、彼が療養している村で、あくどい土地買収が進行していることを知る。悪徳弁護士が中心となって、村人たちの無知をいいことに、彼らがもつ土地を入手し、それを転売して大もうけしようとしていたのである。

正義感にあふれるアンガーは、この悪者共に立ち向かう。しかも悪徳弁護士とはひとりの美しい女性を奪い合うことになるのだから、この戦いは熾烈である。(ちなみにローマン・カトリックの牧師は結婚を許されていない。それゆえ、アンガーとこの女性の恋は道ならぬ恋であって、これがまた問題を引き起こすことになる)

悪徳弁護士はイアーゴのように狡猾で、アンガーを窮地に追い詰める。はたして二人の対決はどういう結末をむかえるのか。アンガーと美女の関係はどうなるのか。読者はその暴力的な帰結に驚き、さらにそのあと、どんでん返しをくらって、もう一度驚くことになる。

正直にいうと、ぼくは小説の前半部分を読みながら、ずいぶん妙な小説だなと思った。アンガーは療養していきなり太り、筋肉をつけるし、その水を飲むと病気が直るという、おとぎ話のような泉の話が出て来たりする。(これがタイトルの Sleeping Waters といわれるもの)しかしそうした不可解な印象は、どんでん返しによって一気に解消する。これから読む人の楽しみをそこなわないよう、あいまいな書き方しかしないけれども、このどんでん返しによって、暴力をうちに孕んだそれまでの物語が、平穏な日常の陰画であったことがわかるのだ。われわれの生活の水面下に潜んでいるもの、見えない光景を垣間見せようとした力作であると思う。

(2)Trustee from the Toolroom (1960) by Nevil Shute (1899-1960)

最近、ネヴィル・シュートの作品を読みあさっているが、カナダのプロジェクト・グーテンバーグから Trustee from the Toolroom が出たので読んでみた。シュートのファンのあいだではもっとも人気のある作品らしい。

主人公はキースという modeller である。modeller というのは自分で金属を加工して模型を作る人だ。たとえばキースは小型エンジンを搭載した汽車とか(エンジンも手作りだ)、時間を計測する時計のようなものを造っている。彼はこうしたものを実際に造り、その作り方を雑誌に発表して modeller としては世界的に名を知られている。しかし収入は原稿料しかなく、妻がはたらきに出なければ生活が成り立たないくらい貧乏だった。

キースにはジョーという妹がいて、彼女は裕福な退役軍人と結婚していた。彼らはカナダに移住しようとして、小さい娘をキース夫婦のもとにあずける。まず夫婦がヨットでカナダまで行き、住む場所をととのえてから娘を呼び寄せようというのである。

このときジョーと夫はある違法な行為を行った。当時イギリスには、国内のポンドを海外に持ち出してはならないという法律があったのだが、ジョーたちは莫大な彼らの資産を宝石に変え、それを箱に入れて、ヨットの船底の穴にコンクリートとともに埋めたのである。その作業を彼らはキースに頼んだのだ。

かくして妹夫婦はヨットで大西洋を渡ろうとしたのだが、あにはからんや、嵐に遭い、タヒチの近くで二人とも死んでしまう。

妹の娘の後見人であるキースは、ヨットの船底に埋めた宝石を取り戻し、養女となったジャニスの教育費と確保したいと思うのだが、なにしろ貧乏でタヒチに行く費用など手もとにあるわけがない。

しかしそこで彼を救ったのが、世界中にいるキースのファンたちだった。彼らの好意により、キースは飛行機でハワイに行き、ハワイからヨットでタヒチに向かい、さらにアメリカのファンにあって彼らの仕事を手伝い、とうとうイギリスの自分の家に帰り着く。

この作品には作者シュートのエンジニアとしての知識がぎっしり詰まっている。ヨット旅行の描写も、ほかの作品に比べて迫真的で、さえている。ヨット、飛行機、模型制作と、シュートのエンジニアとしての知識があふれんばかりに活用された作品、という意味で、シュートのファンにとってはたまらない一作なのだろう。寒いイギリスと、暑いハワイやタヒチの対比もおもしろい。しかし、ぼくとしてはいまひとつ物足りない小説だった。それは登場人物の性格が単純で、物語を通して変わることがないからである。これはシュートのほかの作品にも共通する欠点である。

ぼくたちの生活は今や科学技術抜きでは語られない。小説だって科学技術的側面を扱わざるを得ない。そのときシュートは、エンジニアとして、じつに模範的な科学技術の描き方をしてみせた。その描き方にアンソニー・バージェスは感服し、シュートを1939年以降の代表的な英語散文の書き手として認めたのだろう。

しかしシュートは小説家としては未熟だったといわざるをえない。物語が質の悪いメロドラマになってしまうのは、かえすがえすも残念だ。

2016年8月7日日曜日

75 J.S.フレッチャー 「ボルジアの箱」

The Borgia Cabinet (1932) by J. S. Fletcher (1863-1935)

フレッチャーといえば「ミドル・テンプルの殺人」(1922)とか「パラダイス・ミステリ」(1921)とか、それなりに人気のある作品を書いた人だ。しかし私自身はさほど興味を持っていない。はっきりいって凡庸な作家だと思う。「ボルジアの箱」を読んでもその印象は変わらなかった。

「ボルジアの箱」というのは最初の殺人が行われるサー・スタンモアの屋敷にある毒薬を納めた小箱のことである。サー・スタンモアの妻の父親が軍医で、なんと死んだときに毒薬の箱を娘に残したのである。奇人の側面を持つサー・スタンモアは、それを面白がって妻の反対にもかかわらずそれをガラスの戸棚に入れて飾っていた。ボルジアという名前はもちろん悪名高いイタリアのボルジア家から来ている。とくに政敵たちを毒殺したことでよく知られている。

この物語の核となる部分を要約すると、サー・スタンモアは遺書の内容を変更しようとしていたのだが、それによって不利益をこうむると思われる人々(これが結構大勢いる)の誰かが彼を、「ボルジアの箱」に入っている毒で殺し、遺書の変更を許さなかった、ということである。スコットランド・ヤードの若手刑事チャールズワースは、サー・スタンモアの親族たちを調べ上げ、さまざまな手がかりからある女性を犯人と見込むのだが……もちろん、最後にはちょっとしたどんでん返しが待っている。

フレッチャーは物語ることが上手な作家である。事件を展開させる部分と、一度立ち止まってそれまでの進展を振り返り要約する部分が、ちょうどいい具合に按配されている。読者はなんの負担も感じることなく、すらすらと作品を読み進めることができる。

しかしこの「すらすら」にはある種の物足りなさも付きまとう。たとえばサー・スタンモアが殺されて検死をした医者は、「これは毒殺である。みずから毒をあおったのではない。誰かに毒をもられたのだ」と断言する。読者は当然、どうして医者はサー・スタンモアの死を他殺と判断したのだろうと、その根拠を知りたいと思うだろう。自殺か他殺かでは、事件の様相が大きく異なることになる。その肝心な点を検視官はいかに確信したのか。ミステリ小説なら当然、そのことを説明すべきである。ところが作者は、医者がそう判断した、ということを繰り返し書くだけで、具体的な医者の判断内容についてはなにも教えようとしない。

また、サー・スタンモアが遺書の内容を変更しようとしていることが、なぜ外部の人にもれたのか、とか、毒物の箱が、誰もが手に触れられるような場所に置かれていたのはなぜなのか、などといった、この本を読めば誰もが感じる疑問も、サー・スタンモアが奇癖の持ち主であったということで説明されてしまっている。サー・スタンモアは性格的にまことにいい加減なところがあり、遺書の内容を記した紙を机の上に放り出しておいたり、貴重な宝石を預かっても無造作にポケットにつっこんで持ち運んだりする。毒物の箱も、ただ珍品であるというだけで、客にも見せるし、鍵もかけてない棚に放置してあったのである。私もずさんなタイプなので、こういう人間がいないとは言わないが、しかしサー・スタンモアは現役ばりばりの法律家なのだ。法律の専門家が遺書のような重要な書類を机の上に投げ出しておくだろうか。

もう一つ、作者はなぜサー・スタンモアが遺書を変更しようとしたのか語ろうとしない。一応、最初の遺書で多額の遺産を与えることになっていた人々が、実は彼が思っているような人々ではなかったことがわかり、かっとなって遺書を変更したのだ、ということになっている。しかしその点が問題になるたびに作者は口を濁し、とにかくそういうことらしい、といって済ましてしまう。それが繰り返されるたびに、なぜ作者はこんなあいまいな書き方をするのだろうと不思議な気になった。

「ボルジアの箱」は簡単に読めて、一応最後にはどんでん返しというミステリらしさもそなえている娯楽作品だが、そのわかりやすさはある種の強引な省略や、不自然さを基いにしてつくられたものだと思う。
 

2016年8月3日水曜日

74 ハーバート・クルッカー 「ハリウッド殺人事件」

The Hollywood Murder Mystery (1930) by Herbert Crooker (?-?)
 
インターネットの IMDb サイトによると、ハーバート・クルッカーはシナリオ・ライターやプロデューサーとして活躍した人らしい。本作もシナリオ・ライターが語り手で、その友人である探偵クレイ・ブルックがハリウッドの若手女優殺人事件を解決する。

話の筋をごく簡単にまとめておく。元ダンサーの、とある若手女優がカメラ・テストを受けたあと、スタジオ内で殺される。スタジオにはいろいろな人が出入りしていたが、その隙を縫っての事件だった。死体から宝石がなくなっていたため、物取りのしわざかとも思われたが、スタジオの別の部屋から宝石が見つかったため、ただの強盗殺人事件ではないことがわかる。

探偵のクレイ・ブルックは地方検事の要請を受けて捜査に参加する。

殺された女優は高慢ちきだが、なかなか魅力があって、いろいろな男性と関係があった。彼女の映画出演を金銭的に支えていた百万長者、映画界に進出する前にダンスでパートナーを組んでいた若い男、秘密裡に結婚していた男などなど、彼らは嫉妬や関係のこじれといった動機で女優を殺したのではないかと疑われたが、決定的な手掛かりは見つからなかった。

そのうちに事件関係者が殺されたり行方不明になったりして、地方検事は無能っぷりを新聞にたたかれて頭を抱えるのだが、しかし探偵のクレイ・ブルックはすでに真相を見ぬいているかのように平然として捜査を進めて行き、最後に犯人をおびきだすための大芝居を打つ。

これは素人の作品ではない。文章作法を心得た、プロの書き物だ。しかしミステリとしての出来はどうかというと、まあ普通といったところだろう。最後まで面白く読めるけれども、あまり印象に残らない。

いや、一点だけ妙に気になることがある。それは文学者や文学作品の名前が頻出する点である。探偵のクレイが仮装パーティーに出席して「ぼくは年甲斐もなくイートンの生徒の恰好をしているんだ。『トム・ブラウンの学校時代』は読んでいるだろう?」と言う部分がある。英文学の知識がない人向けに説明すると「トム・ブラウンの学校時代」は学生生活を描いた小説のはしりとして名高い作品である。それを読みながら、私はあれっと思ったのだ。そういえばこの作品には妙に文学作品の名前が出てくる。殺された女優はベリリン・ボバリー、そう、あの「ボバリー夫人」のボバリーだ。彼女は生前、モンテ・クリスト鉱山の株を買っていて、それが事件を解く一つの鍵となる。オー・ヘンリーやらシェイクスピアやらリチャード・ハーディング・デイヴィスとかの名前も出てくる。もちろん語り手はシナリオ・ライターなのだから、文学にはある程度通じているのだろう。しかし探偵のクレイまで「物語」を意識しているのはどういうことだろう。
 「ぼくは狡猾なヴィドック流の推理方法、まだ見つかっていない犯人を捜すために帰納法的推理を用いるよ。これまでは目の前にあらわれた手がかりから論理的に犯人を追い詰めようとしてきた。これからは犯人や動機などを想定することで捜査を進める。犯人はああしただろう、こうしただろう、こんな動機を持っていただろうと想定する。それからぼくの想定が正しいことを証明するのさ」
ヴィドックは実在の人物で「ヴィドック回想録」(1827年)で有名な人である。あるいは探偵はこんなことも言う。
 「君は笑うかもしれないけど、殺された女優ボバリーについて、ぼくはデュマの『三銃士』に出てくるある挿話を思い出しつづけているんだ。アルマンティエールの近くで行われたミレディの血なまぐさい殺害の挿話を覚えているかい?」
なぜこんなに「物語」を意識しているのだろう。ことあるごとに物語を引用して人間の振る舞いの意味を説明しようとする作者は、まるであらゆる現実・人間行為は、パターン化・物語化されているとでも考えているみたいである。それほどたいした作品ではないと思うけれど、しかしこういうふうに物語を意識している物語というのは妙に気になる。