2016年9月19日月曜日

87 メアリ・リチャート 「町の殺人」

Murder In The Town (1947) by Mary Richart (?-1953)

まるで聞いたことのない作者だが、調べて見ると1953年に七十三歳で亡くなっていて、ドレクセル・ドレイクという人がシカゴ・トリビューンに載せた「1947年のベスト・ミステリ」という記事には本作の名前が挙がっている。興味深いのでこの記事で高評価を得た十作をここに示しておこう。
10 BEST OF 1947  
THE BLANK WALL, by Elisabeth Sanxay Holding
THE DARK DEVICE, by Hannah Lees.
DEVIL TAKE THE FOREMOST, by Thomas Kinney
ONE MORE UNFORTUNATE, by Edgar Lustgarten.
FINAL CURTAIN, by Ngalo Marsh.
HATE WILL FIND A WAY, by Marten Cumberland.
MURDER IN THE TOWN, by Mary Richart.
LOOK TO THE LADY, by Joseph Bonney.
BY BOOK OR BY CROOK, by Anthony Gilbert.
UNEASY TERMS, by Peter Cheyney
そうか、ホールディングが The Blank Wall を書いた年なのか。私は異常心理をサスペンスフルに物語化したホールディングの大ファンで、いつか彼女の作品を訳出しようと思っている。The Blank Wall はレイモンド・チャンドラーにも良い作品と認められ、何回か映画化されているはずである。

しかしこんなことを書いていたらきりがない。話を「町の殺人」に戻そう。これはアメリカ南部のプラムヒルという小さな田舎町で起きた事件を描いている。主人公かつ探偵を演ずるのは、オークランドの小さな大学で、今で言うクリエイティブ・ライティングを教えているミスタ・ディクソンである。彼はトーテムと綽名されるくらい、おそろしく背が高い男で、以前にも探偵的才能を発揮して難事件を解決しているらしい。彼は本を書こうとして、静かな田舎町プラムヒルへ行った。

もちろん心静かに執筆に没頭できるわけがない。美人で、その町の多くの男たちと関係を持ったグウェンドリンという女が殺されたのである。彼女はミスタ・ディクソンのかつての教え子でもあって、あやうく男女の関係に入りかけたこともあるらしい。その彼女がとある家の庭で撲殺された。

誰もが誰もを知っていて、都会なら無視されるであろう小さな出来事が大きな噂の種になるようなこんな町で殺人事件が起きる。ある人は浮浪者(外部の者)の仕業だろうと言った。当然のことだろう。しかし表面的にはなにも起きていないようでも、この田舎町では密かにある緊張が高まっていたのである。探偵役のミスタ・ディクソンはその秘められた緊張関係を次々と暴いていくことになる。

本作に本格的な推理を期待してはいけない。本格物の伝統に従って、物語の最後に関係者が一堂に集められ、ミスタ・ディクソンが犯人をあぶり出しはするものの、そしていくつか切れ味の鋭い指摘はしてみせるものの、パズルとしてみるなら、読者に充分手掛かりが与えられているとは言えず、ある種の物足りなさを感じさせる。しかしかなり善意に解釈するなら、作者の意図は巧妙なパズルを構成することにはなく、なにも起きないように見える南部の退屈な田舎町においても、じつは隠れた次元において殺人となって爆発するような人間関係の軋轢が集積されているという事態を描くことにあったのはないだろうか。そう、この田舎町においては面だった形でドラマは展開していない。しかしそれは個人=犯人の内部で着実に醸成されているのだ。犯人を指摘する最後の場面で、ミスタ・ディクソンはさまざまな事実を手掛かりに、そのドラマを再構成してみせる。そしてそのドラマは――ネタバレが厭なので詳しくは書かないが――愛と裏切りと復讐という、まさしくメロドラマといってもいいドラマなのである。

そこまで考えて、私はちょっと待てよ、と思った。私は近代的なミステリとメロドラマの関係についてずっと考えてきた。前者は後者の形式を脱却したときに成立するとも書いた。それは間違いないだろう。しかしそれはメロドラマが葬り去られることを意味するわけではない。たとえば本書ではメロドラマがさまざまな徴候を通して探偵によって「再構成」されていることになりはしないか。近代的なミステリにおいて、メロドラマは展開されるのではなく、推理によって構成される! ここにはある種の物語の位相の反転があるように思える。