2015年8月29日土曜日

5 リー・セアー 「Q.E.D.」

Q. E. D. (1922) by Lee Thayer (1874-1973)

作者の生年と没年を確認して驚いた。ずいぶん長生きをした人である。ペンシルベニアに生まれ、ミステリを書く以外にも、イラストレーターとして活躍していたらしい。ミステリは一九一九年に書かれた The Mystery of the Thirteenth Floor から一九六六年の Dusty Death に至るまで六十作以上の長編を書いている。そのほとんどは赤毛の探偵ピーター・クランシーが活躍するものであるということだ。

ピーター・クランシーが何歳なのか、本編を読んだ限りではわからない。しかし本文には young man と書かれているし、山道を精力的に歩いて捜査する容子を見ると三十歳くらいなのだろうか。若いけれども探偵としての活躍はすでに広く世間に知られているようだ。リー・セアーの作品はほかに読んだことがないので、はたしてピーター・クランシーが作者とともに年を取っていったのか、それとも同じ年齢のままなのか、わからない。しかし作者が長生きしただけにちょっと興味がある。

本編ではクランシーは友人のハリソン・カーライルに招かれて、ニュージャージーにある彼の家へ遊びに行くことになる。カーライルはさらに二人の友人を呼んで、近くを流れる川で釣りを愉しもうとしていた。その二人の友人とはロバート・ケントとルイス・フッドだ。そのうちロバート・ケントはカーライルの家に泊まっているのだが、ルイス・フッドは近くにある彼の家にいた。彼らはカーライルの家に集まって、それから一緒に夜釣りを楽しみに出かけるはずだった。

ところが約束の時間になってもルイス・フッドが来ない。しびれを切らしたカーライル、クランシー、ケントは車に乗ってフッドの家まで行くことにした。道は一本道だから行き違いになることはないはずだった。

フッドの別荘に着いたカーライルたちは車を降り、かすかに降り積もった雪を踏みしだいて玄関へ行き、ブザーを鳴らそうとした。その瞬間、月明かりの中に死体を発見したのである。テラスから芝生に降りる階段のところに人が死んで倒れていたのだ。その家の住人ルイス・フッドではなく、別の見知らぬ男だった。

この死体には奇妙な特徴があった。まず喉を切り裂かれ、首が折れて異常な角度に曲がっている。その折れ方はどう見ても人為的だ。つまり彼は殺されたように見える。ところがあたりに積もった雪を見ると、殺された男の足跡が、倒れている場所まで一本、ついているだけなのだ。もしも他殺なら、殺害者の足跡もあるはずなのにそれがない。

最初に警察の捜査の対象となったのは、死体が発見された家の主、ルイス・フッドである。彼は警察官にせっつかれてしぶしぶ以下のような事情を話した。死んだ男は彼の昔の友人で、人生に絶望して彼のところにやってきた。あやうくフッドの目の前でピストル自殺しそうになるのを食い止めて、千ドルという大金を渡し帰してやった。フッドは見送りに外には出ず、釣りに行く準備をするため、すぐに家の奥にひっこんだので、その友達がテラスから降りるところで殺されたことなど、まったく気がつかなかったという。

しかし昔の友人とはいえ、何年も会っていない人間に、千ドルもの大金をいきなりぽんと渡すものだろうか。それにフッドが何かを隠そうしていることが、その態度からありありとわかる。警察がフッドを最重要容疑者として事件の捜査に当たるのは当然だろう。

だが友人の友人であるフッドを犯人とは考えないクランシーは、休暇を返上して彼の汚名を晴らそうとする。

作者は堂々とすべての手掛かりを提示しているので、話を丁寧に追い、かつ想像力を働かせれば、犯人を特定することも、不可能犯罪の物理的トリックに思い至ることも比較的容易ではないだろうか。私はこのレビュー記事を書くためにメモを取りながら読んだけれども、事件の背景も事件の経過もほぼすべて推測できた。そのため犯人がわかっても意外さはなかったが、しかしそれは逆に言うと、作者が非常にフェアな推理ゲームを展開しているということだ。「Q.E.D.」というタイトルはだてじゃない。推理小説として水準以上の出来映えを示していると思う。書かれた年代を考えれば相当に評価すべき作品だろう。

ただ正直に言って、私はこういうパズルストーリーには食傷している。確かに捜査はテンポよく進み、終盤には追跡劇を展開してサスペンスを盛り上げ、犯人の最後に一抹のイロニーを込めてはいるものの、結局のところパズルを構成する事実が羅列されているにすぎないこうした物語の、砂をかむような味気なさには辟易とせざるを得ない。

2015年8月27日木曜日

4 エセル・リナ・ホワイト 「恐怖が村に忍び寄る」

Fear Stalks the Village (1932) by Ethel Lina White (1876-1944)

この作品は何度も読み返し、じっくり考えた上で論評すべき作品である。それくらい内容のある見事な作品だ。

簡単に筋をまとめると、「平和に暮らしている村人たちに、悪意ある匿名の手紙が届くようになり、ついに死者が出る」という話で、同様の設定を持ったミステリとしてはアガサ・クリスチーの The Moving Finger がある。しかし Fear Stalks the Village は一九三二年の出版で、クリスチーの作品は四二年の出版だから、ホワイトのほうが十年ほども先行している。私が The Moving Finger を読んだのは何十年も前のことでいつか比較のために再読しなければならないが、Fear Stalks the Village のほうが圧倒的に理知的でアトモスフェリックに仕上がっていると思う。

舞台はイングランド南部の丘陵地帯にある小さな村だ。近くに鉄道はなく、かろうじて最近バスが通るようになったに過ぎない。しかしこの僻村には慈悲の精神が行き渡っているため、貧乏や失業で生活に苦しむ人はいない。上流の家庭は使用人不足で悩むことはなく、かりに家族の間に葛藤が起きてもそれが人々の目にさらされることはない。村人たちの付き合いは「ローズマリーのようにかぐわしく」、スキャンダルは「一角獣とおなじくらいにまれ」である。まるで地上の楽園のような場所だ。

この村の中心人物、村の女王と呼ばれているのがミス・アスプレイという六十代の老婦人で、慈悲の化身のような人物である。彼女のセカンド・ネームはヴィクトリアで、ヴィクトリア女王が当時勃興しつつあった中産階級に規範的価値を示す人物であったように、ミス・アスプレイも村人たちに模範的生活態度を教え、そうすることで村を dominate し、尊敬を集めているのだった。

村の中心人物としてもう一人、いや、もう二人名前を挙げておこう。スクーダモー夫妻である。彼らは「村の精神」と呼ばれ、夫は法律家であり、妻は村人の趣味の基準を決定するような人物だ。たとえば彼女が「お化粧は趣味がよいとはいえない」とのたまえば、村の人はみんな化粧をしなくなるのである。

子供もそんなに生まれなければ、死ぬ人も滅多にないという、まるで時間の止まった天国のような村に、あるときから匿名の、悪意ある手紙が届くようになる。その最初の被害者はミス・アスプレイ、村の女王だった。彼女は「おまえは自分が貧民街の最低の女よりすぐれた存在だとでも思っているのか」というなんとも嫌らしい手紙を受け取ったのである。

これがきっかけとなって、その後いろいろな人に同様の悪意ある匿名の手紙が届くようになる。平和な村の雰囲気は一変し、村人たちは交際を避けるようになった。中には自分が犯した過去の罪をばらされるのではないかと不安におびえる人々も出てきた。タイトルにある「恐怖」とはこの不安のことにほかならない。スクーダモー夫人はこの不安に耐えきれず、とうとうガス自殺をし、夫もその直後に銃で頭を撃ち抜いてしまう。

この匿名の手紙の書き手は誰なのか、それをイグナチウス・ブラウンという素人探偵が探っていく。殺人は起きないが、ホワイトらしい強いサスペンスに充ちている。

このスリラーが理知的な構造を持っていることは、冒頭において、村の内部と外部が対立的に描かれていることからもわかるだろう。村はあたかも中空に浮く球体のように、それ自体で自足しており、その内部にいる者にとっては、村が世界のすべてであり、村の風習は自然であり、当然であるように感じる。しかし外部から来た者、つまりバスに乗って村に来た者にとっては村のすべてが自然・当然に見えるわけではない。村の人々には見えないものが、外部の人間には見えることがあるのである。そのような外部の視線によって、最初は地上の楽園のように描かれていたこの村社会にはある盲点が存在していることがわかるようになる。

しかしこの作品が問いかけるいちばん大きな問題は次のようなものだ。もしも村が善意や慈愛に満ち、時代に流されない堅固な道徳観念に支配されているのなら、匿名の手紙にあらわされる悪意はどこから来たのか。

ホワイトが考えているのは、それは内部から来る、ということだ。まさに善意や慈愛や道徳の内部からそれとは逆のものが噴き出してくるのである。「村の精神」は、「村の精神」とは相容れないある出来事から生まれてきたのであり、その不都合な起源を隠蔽することで存在しつづけていたのである。「村の女王」ミス・アスプレイの慈善の精神も、その根底にはパソロジカルでグロテスクななにものかが身を潜めていることがわかる。

私には犯人を究明する推理の過程が、善意や慈愛の論理構造を腑分けし、そこに隠された、ある種のゆがんだ形を剔抉する過程のように思えてしかたがなかった。これは単なるサスペンスではない。サスペンスの形で哲学をしているのである。

しかし私は「単なるサスペンスではない」と言いながら、同時にこれこそミステリの正統的な主題ではないかとも思う。私はミステリの源流の一つとされる「オードリー夫人の秘密」を数年前に訳してアマゾンから出版した。その解説で書いたことだが、オードリー夫人は、ヴィクトリア朝時代における女性の最高の徳を有しつつ、同時に殺人者でもあるという、両極端が一致する奇怪な存在なのである。この奇怪な両極端の一致は、ヴィクトリア朝時代における女性の理想像なるものが、じつは内的に破裂していることを示している。Fear Stalks the Village もまさにそのような内的な破裂を問題にしているのだと思う。いずれの作品もその結末は悪が外部に追いやられ、内部の秩序が回復されたように書かれているが、そのような単純な図式ではこの作品の可能性を読み解くことはできない。

Fear Stalks the Village はホワイトの作品の中でも、またミステリの歴史の上でも、なんら注目を浴びていないようだけれど、いったいどういうことだろう。私の目にはとてつもない問題作と見える。それどころかホワイトの作品全体の読み直しを迫るもののように思える。

2015年8月22日土曜日

3 ジョン・T・マッキンタイア 「美術館殺人事件」 

The Museum Murder (1929) by John T. McIntyre (1871-1951)

洋の東西、知性のあるなしを問わず、他人に難癖をつけて怒らせ、その怒った表情を見て自らの鬱屈をはらすという、さもしい人々がいる。「美術館殺人事件」で殺されるのはそのような人間であって、私は彼が殺されたとき、何ら同情を感じず、かえって快哉を叫んだくらいである。見方を変えて言えば、殺された人物の嫌らしい性格が、彼が殺されるまでの短いページ数の中に的確に表現されているということだ。上手な一筆書きのように見事に特徴をとらえているからこそ、彼が死んだときに私は快哉を叫んだのである。

この作品の中にはずいぶん大勢の人々が登場するが、それぞれの個性が巧みに描き分けられている点には感心する。彼らの顔を思い浮かべることはできないけれど、その体型や、彼らが醸し出す雰囲気みたいなものが伝わってくるのである。主人公で探偵訳を勤めるダディントン・ペル・チャルマーズは若くて太っていて美食家で、人好きのする人物である。殺されたのはカスティスという男で、ダディントンとともにグレゴリー美術館の理事を務めている。彼は周りにいる人々を怒らせては口元を押さえながらくすくすと笑う男だ。いかにも陰湿な感じの人間だ。この美術館にはもう一人、ハヴィズという理事がいる。彼は画家でもあるのだが、濃い眉毛の下の眼には燃えるような光が宿り、ある種の熱情と芸術家らしい気まぐれさを持ち合わせている。またカスティスの秘書はその眼に退廃的な生活の澱がたまっており、シアネスという美術愛好家でもある大実業家は、自分の利得のためならどこまでも酷薄になり得る人間だ。そうした特徴が、類型的な表現をともないながらも、じつによく書き表されている。

粗筋を紹介しておこう。グレゴリー美術館は三人の理事によって運営されている。すでに述べたようにそれはダディントン、カスティス、ハヴィズである。このうちいちばんの嫌われ者であるカスティスが、美術館の閉館後に階段近くで刺殺される。なにしろ彼には敵が多いし、事件当日もいろいろな人に嫌がらせをして彼らを憤慨させているから、容疑者はたくさんいる。しかし誰が犯人であろうと、その動機は「憎しみ」だろうと警察は考えた。

ところが事件が発覚してからしばらくすると、美術館に展示してあったある名画が切り取られ、盗まれていることがわかったのである。どうやらこれは単純な憎しみによる犯罪ではないようだ。

この盗まれた名画には曰く因縁がある。この作品はずっと昔、シアネスという実業家が惚れ込み、なんとしても買い取ろうとやっきになったものなのだ。ところがシアネスと犬猿の仲のカスティスが嫌がらせをし、美術商やら関係者に手を回して、その絵を美術館の所蔵物にしてしまったのである。出し抜かれたシアネスはかんかんに怒った。

ところがここからシアネスは不可解な行動を取る。彼はカスティスの嫌がらせをすっかり忘れてしまったかのように、グレゴリー美術館に貴重で高価な美術品を寄贈するようになったのである。じつはシアネスのこの変節が事件を解く大きな鍵の一つとなる。

警察は事件が起きた夕刻から関係者全員を美術館に集合させ、一人一人尋問していく。しかし警察は美術界の内情を知らず、まるで見当はずれの男を犯人の候補にしてしまう。彼らは真夜中まで捜査・尋問を行い、その見当はずれの男を逮捕するつもりらしい。そこでダディントンは彼を救うために、真犯人捜しに乗り出す。犯人は美術館の中にいる誰かのはずだ。しかし時間はあまりない。はたしてダディントンは真夜中までに事件の真相を突き止めることができるだろうか。

話の筋はだいたいこういう感じである。事件の関係者が全員、美術館の中にいるという空間的な密閉感、真夜中までに真犯人を捜さなければならないという時間的な切迫感がサスペンスを盛り上げるのに役立っていることは言うまでもない。

マッキンタイアの作品を読むのはこれがはじめてだが、意外な面白さにびっくりした。単に謎を構成するだけでなく、小説の書き方をよく知っている人だと思った。ウィキペディアによると彼は一九三六年に Steps Going Down という作品で All-Nations Prize Novel Competition に入賞しているらしい。私はこの賞がどのようなものかまったく知らないけれど、小説家としてそれなりの実力を持っていたということなのだろう。Steps Going Down も含めてほかの作品もいくつか読んでみたい。

2015年8月19日水曜日

2 ルイス・トリンブル 「殺人騒動」

Murder Trouble (1945) by Louis Trimble (1917-1988)

小説の冒頭の文章が、物語全体の雰囲気を決定する、という場合がある。L.P.ハートレーの繊細な名作 The Go-Between の出だしなどがその好例だ。Murder Trouble を読み始めた時も、最初の一文がこの作品のトーンをあらわしていると思った。
低く垂れ込めた平らな雲から雪がちらつく、寒くて暗いある日のことだ。
主人公=語り手であるトム・ハラムはサンフランシスコの新聞社で記者をしていたのだが、肺を病み、長いこと保養生活をしていた。しかし医者から静かな落ち着いた生活をするなら、もう実社会に出てもかまわないと言われ、ヴィンソンという田舎町の新聞社に就職することにする。この小説はトムが車でヴィンソンに向かうところから始まる。

肺病、落ち着いた生活、田舎町、曇り、雪。しかも時代は戦時中で、車のガソリンも配給の品である。これは渋い感じの作品なのだな、と私は思った。

ところがこれがとんだ勘違いだった。

ヴィンソンの町に着くまでも妙な事件が起きるのだが、着いてからは決定的に雰囲気が変わる。彼の新しい就職先は、実はイブ・ヴィンソンという若い女性が一人でやっている新聞社だった。トムが加わって社員は二人だ。まあ、それはいい。しかし彼女が新聞社と同時に経営するホテルを管理しているのは、アダムとイブという夫婦者で(アダムとイブ!)、アダムは幽霊のような見かけ、イブはとてつもない巨体の女性ということになっている。

さらにこの田舎町の保安官はサーキネンという奇妙な名前を持ち、その補佐官はバートとマートといううり二つの双子の兄弟。トムはこの二人が区別できなくて苦労する。また重要な犯罪現場となる養鶏場を所有している夫婦は、奥さんが淫乱で旦那は寝取られ亭主だ。

これはもうドタバタ喜劇の配役である。

実際、語り手がヴィンソンに着いてからは得体の知れない事件が立てつづけに起き、まことに珍妙な話の展開になる。

そうか、渋い感じの話じゃなくてドタバタのほうに行くのか。それならこっちも気分を変えてスラップスティックを愉しもうじゃないの。私はそう思った。映画の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」みたいなものだ。

いったん心構えができれば、これは非常に楽しい物語だ。といっても筋のおもしろさを説明するのは難しい。語り手も何が起きているのかわからないような展開なのだから。

まず新聞社の女経営者イブ・ヴィンソンがまったく知らない人から遺産を受け取る。そんな夢のような話があるのだろうか、と思っていたら、その直後に遺産を渡した男が、トムの新居に死体となって転がっているのが見つかる。ちょっと待て、ちょっと待て。この男は死んだから遺産を渡したのじゃないか? それがトムの家で殺されている? どういうことだ? 死体をわざわざトムの家まで運んだのか?

どうもよくわからない。ま、ここは心を落ち着けてもう少し読んでみよう。

トムとイブ・ジョンソンが保安官の到着を待っていると、外で爆発が起き、二人は家を飛び出す。そしてその間に何者かが死体をどこかに運んで行ってしまう。

ははあ、犯人は死体をどこかへ持って行く必要があったのだな。爆発騒ぎはトムたちを家からおびき出すための工作だったのだな。

しかし、どこまで読み進んでも状況ははっきりしない。イヴ・ヴィンソンが自分の過去を明かしてくれて、ようやく多少の目鼻が立つが、すべてはわからない。ひたすら奇妙な事件ばかりが起き続ける。トムは独身なのに、彼の妻を名乗る女があらわれ結婚証明書を提示するし、物語の後半に入るとトムとイブ・ヴィンソンは首なし死体を車で運び、養鶏場でべつの死体を発見し……。いやはや、トムたちは次から次へと事件に巻き込まれ、読者は奇矯な登場人物たちのリアクションに大笑いし、私はわかりやすく筋を紹介することができずに困ってしまうというわけである。

もちろん最後にはこの大騒動の種明かしがされ、戦時中らしいある犯罪にトムがまきこまれたことがわかる。しかしこれは前回扱った The Clue とは違って、推理を愉しむ作品ではない。犯罪をめぐるユーモラスな大混乱を愉しむべき作品である。そしてそういう作品としてはかなり優秀の部類に属する。

首なし死体を運んだり、生首を放り投げたりする場面もあるけれど、けっして趣味の悪い描写には陥っていない。静かな落ち着いた生活を求めて来たのに、こんなことになるなんて、というトムのぼやきと、新聞記者らしい頭の回転の速いジョークが全体に明るい色調を与えていて、私は大学の先生をしていたというこの作者の作品にまた出会うことがあったら、必ず目を通すことになるだろうと思う。

2015年8月15日土曜日

1 キャロリン・ウエルズ 「手掛かり」

The Clue (1909) by Carolyn Wells (1862-1942)

本編はヘイクラフトとクイーンの里程標的名作リストにも載っており、このブログの一番手に持ってくるのにふさわしい作品だろう。名作と言われていても日本語に翻訳されていない作品はけっこうある。

作者のキャロリン・ウエルズはニュージャージーに生まれ、詩人・児童文学作家であり、かつミステリの書き手でもあった。ずいぶん多作な人で、私もがんばって読むようにはしているけれど、今のところ本編 The Clue と The Man Who Fell Through the Earth (1919) が際だってよい作品のように思える。ちなみに後者に関しては古い日本語の翻訳があるようだ。

The Clue の一番の特徴は、物語が、当時まだ盛んに書かれていた大仰なメロドラマに陥ることなく、一歩一歩論理と事実の積み重ねによって進められていく点にあると思う。たとえばこんな具合だ。結婚式の前日に富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンは椅子に座ったまま死んでいるところを発見される。すぐそばのテーブルに、「結婚相手はわたしを愛していないようだ」という書き置きがあったことから、医者や周囲の人々は彼女が愛情問題を苦に、短剣で胸を刺し、自殺したものと考えた。そして自殺という観点からそれまでの彼女の行為や人間関係が振り返られる。ところが短剣には血がついているが、それを握っていたはずのマデラインの手には血がついていないことが分かり、他殺の可能性が疑われるようになる。ここで事件の様相ががらりと変わるのだが、こういう論理による物語の推し進め方はミステリというジャンルの醍醐味である。The Clue は一九〇九年という早い時期に書かれているが、こうしたミステリの筆法をよく使いこなしている。しかも最初にマデラインが自殺したと考えられ、その根拠が説得的に示されるものだから、読者はある人物を犯人とは考えにくくなってしまうのである。ここらへんのミスディレクションの手際はたいしたものだ。

先走ってプロットを一部紹介してしまったが、この作品の出だしはだいたいこんな感じである。富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンはスカイラー・カールトンという青年のプロポーズを受け、彼と結婚することになる。ところがスカイラーは冷淡なくらいに淡泊な人物で、婚約をしたというのに、いつもマデラインに対してよそよそしい態度で接するのである。そこでマデラインは女のコケトリーを発揮し、ほかの男といちゃつくところをスカイラーに見せ、彼を嫉妬させようとする。その相手が彼女の従兄弟のトム・ウィラードだった。トムはたいへんな情熱家で、彼女に向かってスカイラーとの婚約を取り消し、自分と一緒にならないかという。しかしトムは彼女にとってスカイラーを自分により引きつけるための道具にすぎない。

そんなマデラインに衝撃を与えるある事実がわかった。スカイラーは彼女と婚約して以後、彼女とはまったくタイプの違うある女に出会い、その女を愛しているらしいのだ。

こうして緊張をはらんだままマデラインとスカイラーは、結婚式の前日を迎える。マデラインの住む屋敷には結婚式への招待客があつまるのだが、彼女はその前でトムといちゃついてみせる。これはさすがにやりすぎだろうと、私ははらはらしながら読んでいたのだが、案の定スカイラーは腹を立て、マデラインの屋敷で招待客たちととるはずの晩餐会を欠席。マデラインは最初は平気な振りをしていたが、とうとうヒステリーを起こし、客たちを自分の前から追い払ってしまう。

悲劇が起きたのはその直後である。客たちがみな自室に引き払った夜中の十一時半、屋敷の中に叫び声が響き渡った。屋敷に戻ってきたスカイラーが、図書室の椅子に座ったまま死んでいるマデラインを見つけたのである。床の上には短剣が転がっており、そばの机の上にはすでに述べた書き置きがあった。

その後、招待客の中の愛らしい娘キティと、スカイラーのベスト・マンを勤めるはずだった法律家のロブがコンビを組んで素人探偵になり、招待客たちが事件当日の晩、何人も怪しげな行動を取っていたことを突き止める。その疑惑が一つ一つ解明されるたびに、事件の真相・登場人物の心理や過去がしだいしだいに分かってくるのだ。このあたりの物語の展開は非常にテンポがよく、キティとロブの恋模様が物語にある明朗さを与えていて、読んでいてまるで飽きなかった。クリスティなどが書いても、事件が起きてからの中盤の部分は一本調子の非常に退屈なものになることがあるのだから、ウエルズのこの作品に於ける物語作りの巧みさはやはり褒められるべきだろう。

ただし最後の二十数ページで活躍する名探偵フレミング・ストーンの推理は、ちょっとずるいなと思う人がいるかもしれない。私もフェアじゃないと思った。すくなくとももう少し工夫があってもいいだろう、せっかく冒頭においていくつかの手掛かりからささやかな推理を展開して見せたのだから、最後もその伝で行ってほしかった、というのが正直な感想である。しかし逆に言えば、立派なパズル・ストーリーまであと一歩ということであり、書かれた年代を考えれば、ミステリが誕生する歴史において本書が記念碑的足跡を残していることは疑いない。

2015年8月11日火曜日

ブログ開始

二十世紀前半に書かれた本邦未訳のミステリを百冊読もうというのがこのブログの趣旨である。ミステリという言葉はスリラーやスパイ小説などを含む広い意味で使っている。推理的な要素があればホラー小説も冒険小説も扱うつもりだ。そういう作品にぶつかるかどうかは知らないけど。

百冊を選ぶにあたっては次のことを念頭に置く。

 (1)英語圏の作品であること。
 (2)一人の作者につき一作のみを扱う。
 (3)選択は適当。名作、愚作おかまいなしに読む。
 (4)長編に限る。
 (5)自分が以前読んだ本はのぞく。

できれば一週間に二冊くらいのペースで読み進みたいけれども、ほかにも読む本はあるし、レビューを書くのに時間がかかることもある。しかしとにかく百冊読み上げ、百冊に達したらこのブログはやめる。目標を決めてスカッとそこで一度切断したほうが私の性に合っている。

私が選択する本は、日本人はおろか欧米のミステリ・ファンすら知らないような作家・作品を多数含むことになるだろう。

ときどき番外として私が訳した作品や考えていることについて短い記事を載せるつもりだ。私はアメリカのプロジェクト・グーテンバーグから無料で何冊か翻訳を出しており、またアマゾンから翻訳小説を販売している。それらのうちのいくつかを紹介しようと思う。また私がミステリにどんな問題意識を持っているのか、作品のどこに着目し評価しているのか、それらがわかるように、解説的な記事を書くかもしれない。しかしそれらはあくまで番外編であり、本邦未訳ミステリのレビューとは別のものだ。