2016年9月22日木曜日

89 C・セント・ジョン・スプリッグ 「日焼けした顔を持つ死体」

The Corpse With The Sunburned Face (1935) by C. St. John Sprigg (1907-1937)
 
作者の名前のCはクリストファー。クリストファー・セント・ジョン・スプリッグというのが作者の本名である。初めて聞く名前だな、と思う人も多いかもしれないが、これがクリストファー・コールドウエルのことだと言われたら、びっくりするだろう。そう、あのマルキストで「幻想と現実」を書いた人だ。彼はスペイン内戦に参戦して殺されるまでに七冊のミステリを書いている。

私も今回初めて彼のミステリに接した。マルクス主義を信奉するインテリらしい娯楽作品だな、というのが私の印象である。

この作品は二部構成になっていて、前半はイギリスの僻村における殺人事件の捜査、後半は刑事がアフリカに行って冒険するという物語になっている。話の要点をかいつまんで言うと、要するに三人の男がナイジェリアのある部族の宝物を盗み、捕まって刑務所に入れられてしまう。そのうちの二人は刑が軽く早く刑務所を出てイギリスに帰るのだが、そのときこっそりと隠しておいた宝物の一部(部族に返還されなかった宝物)も持ち帰るのである。彼らは分け前を増やすために、三人目の男から姿を隠そうとする。

裏切られた三人目の男は、刑務所を出てから残りの二人を探し出そうとする。そして二人を殺し、宝物を手に入れようとするのだ。そこで起きる二つの殺人事件とその捜査が前半部分で語られる出来事である。

ところがこの三人目の男も第一部の最後で殺され、宝物も何者かによって持ち去られてしまう。そう、宝物をもともと所有していたナイジェリアのある部族が、宝物を取り返したのである。事件を捜査していた刑事は、三人目の男を殺した男を捜し、また事件の全貌を解明しようとしてアフリカへと向かう。そこで現地の秘密結社や呪術師たちによって生きるか死ぬかの危険な目に遭わされる。これが第二部で語られることである。

この粗筋を読んだだけでも、ドイルの「四つの署名」とかリチャード・マーシュの「ビートル」や「ジョス」といった、ヴィクトリア朝後期に人気のあったいくつかの物語の影響が見て取れるだろう。

と同時に、第一部の殺人事件の解明の部分では、新しい事実が判明することによってそれまでの事件の様相が一変するという書き方が取り入れられている。たとえば「井戸に沈められた容器の状態、井戸の上の土の状態から考えて、容器が沈められたのはオレアリーがリトル・ホイッピングの村に来る前だろう。だとすると事件の相貌はがらりと変化することになる」といった部分にそれははっきりとあらわれている。

つまりこの作品はポピュラーなメロドラマを土台にしながらも、ほんのちょっとだけ近代的なミステリの要素を取り込んだ作品ということができるだろう。アルフレッド・ガナチリーの「死者のささやき」もうそうだったが、過渡的な作品の中にはこういう古い物語の型と新しい要素を混在させたものがある。

その他にもこの作品にはいくつかの特徴がある。一つはユーモアである。難解な詩論を書いている作者だが、本編は随所にユーモアが仕掛けられていて私はクスクス笑いながら読んだ。イギリスの僻村へ学術調査のためにアメリカの人類学者が訪れるのだが、この美しくて若い学者と、僻村に住む牧師のやりとりは、じつに秀逸。私が抱いていたクリストファー・コールドウエルに対する印象のほうも「がらりと変わって」しまった。

もう一つは誰にでも親しめる物語の形でナショナリズムと多文化主義の問題を扱っていることである。僻村の牧師館にアフリカ人の客が泊まりに来ると、牧師の奥さんはこの黒人に対してたいへんな拒否反応を示す。ここもユーモラスに書かれていて、二ページくらいここに訳出したいくらいなのだが、長くなりすぎるので簡単に書く。奥さんは黒人が「あの歯でトーストをかじる音を聞くと、まるで人間の骨をかんじっているみたいに聞こえる」と言うのだ。それに対して牧師は「それは思い過ごしというものだよ。お前はいつも教会の伝道教会のためにジャンパーを編んだり、バザーを開いていたじゃないか。皮膚の色にかかわらずすべての人間は兄弟なんだよ」と言う。すると奥さんは「彼が兄弟なのは否定しないわ。ただこの家にはいてほしくないのよ」と返事する。ここには2016年の今に至るも変わらない、外国人・移民に対する庶民的な感情がある。

これに対して第二部ではイギリスの法律をナイジェリアの人間に押しつけようとした刑事が、生きるか死ぬかの冒険を通じて、相手方の考え方を理解するようになり、ついには刑事であることを辞め、ナイジェリアに住むことになる。アフリカの文化は西洋の文化とは違う。たしかにそこには魔術的な、非科学的な文化かもしれないが、それを単純に未開であるとか遅れているとか野蛮であるとは言えない、ということを知るのである。こういう認識はアフリカやアジアの文化を神秘や怪奇のベールで覆うようにして描いた、ほかの凡俗のジャンル小説作家が持っていなかったもので、コールドウエルの見識の高さを感じさせる。