2015年12月30日水曜日

32 ヒュー・ウオルポール 「殺す者と殺される者と」 

The Killer and the Slain (1942) by Hugh Walpole (1884-1941)

ジョン・オウジアス・タルボットはおとなしくて痩せていて、内気で自意識の強い少年だった。彼にとってジェムズ・オリファント・タンスタルは天敵だった。タンスタルはいつもタルボットにつきまとい、からかい、いじめるのである。学校を出てからタルボットは父の骨董屋を受け継ぎ、ギッシング風の深刻な小説を書くようになる。そしてイヴという女性と出会い結婚する。

そこへ彼の天敵タンスタルが再びあらわれる。彼は画家として成功し、懐にはたんまりと金がある。肥っていて、会話がうまく、女性にもて、ありとあらゆる意味でタルボットとは正反対だ。にもかかわらず彼はタルボットにつきまとい、彼をいちばんの親友だといいふらす。タルボットは相変わらずいやみを言われたり、からかわれているような気がしてタンスタルを忌み嫌う。しかもタンスタルはタルボットの妻イヴといやになれなれしくし、イヴもタンスタルに好意を寄せているような素振りを見せるのだ。

タルボットは追い詰められたような気分になってついにタンスタルを殺す。崖から海へ彼を突き落としたのである。

ここから奇妙なことが起きはじめる。タンスタルを殺しタルボットはせいせいした気分になるのだが、次第に彼はタンスタルに似てくるのである。体重が増え、女好きになり、酒を飲み、絵を描く才能があることに気づき、小説を書くのはやめてしまう。さらにタンスタルが自分の心の中に入り込んだかのように、彼の過去を知ることができ、彼の声が聞こえるようになる。

そう、これはドッペルゲンガーの物語である。二人の登場人物のイニシャルがいずれもJ.O.T.であることにお気づきだろうか。二人は正反対の性格を持ちつつも、じつは一人の人間なのだ。

この作品が単なる分身譚で終わっていないのは、そこに歴史的・政治的な側面が付加されているからだ。すなわちイギリスとドイツの関係がタルボットがタンスタルとの関係に重ねられているのである。タルボットの心が殺したタンスタルの心に乗っ取られはじめた頃、彼はイギリスの人々がヒトラーを非難するする場面にでくわす。
 二人の老人がすべてはヒトラーの責任だ、あれは何という悪魔的な男だろう、いったいいつになったら誰かが勇気を奮い起こし、あいつの悪逆非道な振る舞いを阻止するのだろうとしゃべっていた。彼らはおそろしくいきりたっていて、ご婦人の白髪頭が絶えず震え、老紳士の手の甲には大きな茶色いいぼが見えたことをわたし(=語り手のタルボット)は覚えている。ほんのしばらく前ならわたしはどれだけ快く彼らに同意を示しただろう。しかしその目の前に置かれたパイに不信の目を向けていたわたしは(そのホテルは高級ホテルではなかった)とっさにかっとなってこう思ったのだ。「ヒトラーが自分の国のために最善を尽くしてなにが悪い? ドイツは国土を拡大しなければならないんだ。それなのにみんながそうさせまいとする。ヒトラーは偉大な男だ……」チキンを食べると胸が詰まりそうになった。わたしはナイフとフォークを置き、ひどい飾り付けの食堂を見渡した。いったいわたしはどうなったのだろう。残酷でサディスティックな乱暴者の一味には罪はないと考える男、これがわたしなのだろうか。もしもわたしでないなら、誰なのか。
「ヒトラーは偉大な男だ」というのはもちろん内面化したタンスタルの声である。別の箇所ではこうも述べている。
わたしはこの国は偽善者の国だと言った。ドイツが国土を拡張しようとしているのなら、われわれにそれを止める権利などない。イギリスは地球の半分以上を手にしている。どうやってそれを手に入れたんだ? 現地の人々から略奪したり、泥棒したり、彼らを痛めつけたりしてだ。
以前タルボットがタンスタルを悪魔的だと考えたように、イギリス人はヒトラーを悪魔的だと考えている。しかしここに明確に指摘されているが、イギリスだってヴィクトリア朝時代から植民地を拡大して繁栄してきたのだ。ヒトラーを批判するのは偽善的である。本当はイギリスとドイツはよく似ているのだ。イギリスはかつての自分の姿をドイツに見てそれを批判しているのである。そう言う意味でこの不気味な物語は政治的なサタイアでもある。

本作はタルボットによって語られるのだが、性格の移行がじつに自然に描かれ、間然するところがない。わたしが読んだウオルポールの作品の中ではいちばんの出来だと思う。

2015年12月28日月曜日

31 アンナ・キャサリン・グリーン 「円形の書斎」 

The Circular Study (1914) by Anna Katharine Green (1846-1935)

私はメロドラマを否定しない。大げさで波乱に富み、時には空虚なくらい感情過多なあの形式は、確かに俗っぽいものではあるけれど、いまだに我々の思考に取り憑いている。たとえばフロイトのモーゼの物語や、エディプス神話、原父殺害のシナリオなどはメロドラマ的な想像力以外の何ものでもない。メロドラマはおよそありえないような偶然に支配されているようだけれど、そうした仕掛けによってある種の根源的な力の働きようが極端な形で提示されているように思える。

アンナ・キャサリン・グリーンはメロドラマを主体にしたミステリを書いた人である。しかし彼女の作品は「レヴンワース事件」以外、ほとんど知られていないのではないだろうか。ファーガス・ヒュームが「二輪馬車の秘密」以外、まったく読まれていないこととよく似ている。しかしいずれの作家も食わず嫌いを起こさずに読んでみれば結構面白いのだ。たとえばグリーンに関して言えば「隣の家の事件」(That Affair Next Door)は最後のひねりが実によく効いた物語だし、「見捨てられた宿」(The Forsaken Inn)のゴシック的な味わいは捨てがたい。

本編「円形の書斎」は珍しい形を取っている。前半部分はニューヨークの豪邸で起きた奇怪な殺人事件が解明され、後半部分はその事件に至るまでの二つの家族の情念の物語が語られるのだ。コナン・ドイルの「恐怖の谷」とよく似た構成である。前半において事件の解明に当たるのは、グリーンの作品ではおなじみのグライス警部とミス・バターワースの名コンビ。グライス警部はこの本ではもう八十代だという。なんだか感慨深い。

警察の仕事を引退することを考えていたグライス警部のもとに、ある日、不思議なメッセージが届く。とある金持ちの豪邸で奇妙な事件が起きているようだ、というメッセージである。さっそく警部が現場に駆けつけてみると、確かにその家の主がナイフで胸を刺され、円形の書斎に倒れていた。しかもその現場にはいろいろと不可解な特徴がある。たとえば男はナイフで残忍な殺され方をしているというのに、なぜかその胸には十字架が載せられていた。聾唖者の召使いは主人が殺される場面を目撃して気が触れてしまったが(こういう設定は実に時代を感じさせる)、どうも彼は主人が亡くなったことを喜んでいるようなふしがある。そして現場にはインコの籠があり、インコは「イーヴリンを忘れるな」とか「かわいそうなエヴァ」といった謎めいた台詞を繰り返していた。

グライス警部とミス・バターワースが知恵を出し合って事件の犯人を捕まえると、犯人は事件の背後にあった二つの家族の確執の歴史を長々と語りはじめ、その中で事件現場にあったさまざまな謎が解明されることになる。

本作はミステリとしてさして出来はよくないが、しかし作品の中で起きる「反復」には注目させられた。それはイーヴリン/エヴァという反復である。後半部分を思い切り単純にまとめるとこうなる。A家のイーヴリンという少女がB家によって死に追いやられた。A家はB家のエヴァを絶望あるいは死に追いやることで復讐を果たそうとする。奇しくもイーヴリン Evelyn とエヴァ Eva は名前も似ているし(Evelyn の略称は Eve)、同じように美少女で誕生日が一致している。少女の死が反復されると思いきや、A家の殺意はみずからに跳ね返り、復讐の首謀者であるA家の人間が殺されてしまうのである。

B家の人間(ジョン・ポインデクスターのことだが)は明示的に示されてはいないものの、どうやら相当にけしからぬことをイーヴリンにしたようである。A家が彼には「貸し debt」があると考えるのは当然だろう。ところがB家の人間(ジョン・ポインデクスター)は貸しがあることなど徹底して認めないのである。その非人間性にはグライス警部もミス・バターワースもあきれるくらいだ。A家の人間がいくら情熱をこめて復讐しようとしてもその目論見は彼には通用しない。彼は苦しむことを知らない人間なのだから。心を持たない人間なのだから。反復の目論見はここで挫折する。

ディケンズの「クリスマス・キャロル」では我利我利亡者のスクルージが最後には隣人愛に目覚めるけれど、本書におけるジョン・ポインデクスターはどこまで行っても自分のことしか考えられない人間だ。メロドラマにはよく復讐譚があらわれる。「モンテ・クリスト」のように復讐の鬼になる人間があらわれる話だ。「円形の書斎」におけるA家の人々も復讐の鬼である。とりわけフェリックスの復讐にかける一念はすさまじい。しかしそんな復讐など「蛙の顔にしょんべん」と受け流してしまうような人間がここには描かれている。これでは従来の復讐譚が成立しないのである。いったいこれは何を意味するのだろうか。ミステリとしてはものたりない作品だが、資本家のモラルの変容と、メロドラマの挫折が描かれている点、私は興味を惹かれる。。

2015年12月23日水曜日

番外6 谷崎潤一郎 「途上」

谷崎潤一郎 「途上」 (1920)

「行為の外形」という言葉を私は谷崎潤一郎の短編ミステリから学んだ。以来、私にとってこの言葉はミステリを考える上でキーワードになっている。別のウエッブサイトにも発表した小文だが、私にとっては重要な議論なのでここに再掲する。

 「もう一つの物語」を読む探偵
――谷崎潤一郎「途上」の方法    

江戸川乱歩は「途上」を評して「探偵小説に一つの時代を画するもの」、「これが日本の探偵小説だといって外国人に誇り得るもの」(「日本の誇り得る探偵小説」)と絶賛したことはよく知られている。そこに描かれているプロバビリティーの犯罪が世界推理小説史上で最初のものだというのがその理由である。しかし谷崎としては偶然を利用するという犯罪方法の評価に少々戸惑いを感じている。というのは作者としては「自分で自分の不仕合わせを知らずにゐる好人物の細君の運命――見てゐる者だけがハラハラするような、――それを夫と探偵の会話を通して間接に描き出すのが主眼であった」(「春寒」)からである。好人物の細君とは夫=会社員の先妻に当たる。身体の弱い彼女はチブスで亡くなるまで夫を信じ、夫の親切に感謝していたという。いわば「夫の愛情に包まれた妻」という物語空間を生きた女性である。ところが探偵はこの麗しい夫婦愛の物語を逆転させてしまう。つまり夫の妻に対する親切な行為・忠告は一貫して彼女を危険な、命にかかわりかねない状況に追いやるためのものであったことを証明するのである。谷崎としては騙し絵のように物語の図柄を一変させることがこの短編の作意であったので、だからこそ「殺す殺さないは寧ろ第二の問題であって、必ずしも殺すところまで持って行かないでもよかったかと思う」(「春寒」)のである。好人物の細君は夫が張り巡らした美しい物語を信じ込んでいた。それを探偵の推理を通して転覆させる時、谷崎はそのような想像の空間を批判しているのである。

 「途上」の推理の特質、つまり物語批判の特質は次の三点に集約される。
    (1)行為を外形において見る
  (2)沈黙・忘却されたものを注視する
  (3)論理の矛盾撞着を探る
(2)と(3)は密接に関連しているのだが、以上の点を吟味したい。

 「外形」という言葉は「途上」のキーワードである。この言葉が最初に出てくるまでの経緯を説明しておくと、まず、ある会社員が妻を亡くし、新しい女性と結婚しようとしている。その会社員が会社の帰りに探偵に話し掛けられる。会社員の前の妻は、自らの過失によって事故死したとされているが、実は事故死に至るよう会社員が裏から操作していたと探偵は主張する。事故の可能性が高い乗合自動車に乗ることを薦めたのはその操作の一つである。会社員は常に、明らかな殺人ではないにしても、危険の確率が高い状況に妻を置き、彼女を亡き者にしようとしていたのではないか。これに対して会社員は、乗合自動車の利用を薦めたのは、その方が感冒にかかる可能性が低いからだと反論し、以下探偵と会社員の間で微細な点をめぐる論理問答が展開されるのだが、その最中に探偵はこう言う。あなたはそう反論するが、しかしあなたの行為はたまたまその「外形に於いて」私の推理と一致する、と。

この言葉によって問題にされているのは、行為と意図の関係である。一般にある行為の意味、あるいは意図は、行為者の意識に求められる。ある人がラジオのスイッチをひねったとして、ではその意味・意図は何かと問う場合、われわれは通常、行為者に向かって「なぜそんなことをしたのか」と尋ねるだろう。ところが、「途上」の探偵は行為と行為者の意図を分離する。会社員は前妻に向かって、「乗合自動車を利用せよ」、「生水を飲め」、「冷水浴をせよ」と命令した。そう命令した彼の意図を、彼自身はそれぞれ「感冒にかかる危険が少ないから」、「米国ではベスト・ドリンクといわれるほど身体によいから」、「風邪に抵抗力をつけるよい習慣だから」などと説明しているが、探偵はそれを一切無視し、実はそれぞれの行為は  「自動車事故の危険にさらすため」、「チブスにかからせるため」、「心臓を悪くさせるため」ではないかと問いつめる。「外形に於いて」行為を見るとは行為者の意図をいったん宙ずりにして、行為に別解釈を施すことに他ならない。

 これは探偵としては当然の手続きではないかと思われるかもしれない。容疑者の証言に嘘が混じっていることをあらかじめ想定し、それを見破るのが探偵の役目ではないのか。しかし谷崎の「外形に於いて」という言葉が示唆するものは容疑者の「意識的な」嘘を見破るということに留まらない。外形としての行為の解釈は、行為者がまったく意識していなかったような内容にもなりうる。いわば、行為者の無意識の欲望を引きずり出すこともありうるのだ。「乗合自動車を利用せよ」と言ったとき、もしかすると会社員は心から妻の身体のことを考えてそういっていたのかも知れない。しかし探偵は、その心からの意図を行為から切り離し、意識によって隠された、別の隠微な意図を、行為の外形に読み取るのである。探偵は言う。「無論あなたにはそんな意図があったとは云いませんが、あなたにしてもそう云う人間の心理はお分かりになるでしょうな。」彼がいう「心理」とは意識にのぼる意図とは別の意図、無意識の意図のことである。もちろん会社員は、ガス栓に油を差すという悪質きわまりない行為を行っており、妻を事故死させようとしていた意図は恐らく疑うことは出来ないだろう。しかし探偵が示しているのは、事故死させようとする意図はなかったような行為にも、実は事故死させようとする無意識の欲望が付着しているのだと云うことである。「途上」が世界に誇るユニークな探偵小説だとしたら、それは「外形」という概念を用いて精神分析的技法を練り上げた点にこそあるとわたしは考える。

フロイトは「否定」の中で「抑圧された表象の内容や思考の内容は、それが否定されるという条件のもとでのみ、意識にまで到達することができるのである」(中山元訳)と言っている。妻を殺害する物語も、それが否定されるという条件の下でのみ、妻を慈しむ物語に到達すると云えるだろう。つまり後者の物語は前者の物語を隠蔽する形式となる。しかしそれは黒を白と言いくるめるようなもので、一見したところどんなに一貫性のある物語であっても、必ずそこに破綻が生じているのだ。「途上」の探偵は実にねちっこい議論を展開するが、それは隠蔽の形式に破綻を見出そうとする作業である。言い換えれば、妻を慈しむ物語が、ある特定の事実を沈黙・忘却し、論理矛盾を冒すことで成立していることを暴くのである。行為を外形に於いてみるときは、会社員の意図は一時的に保留される。しかし
  (2)沈黙・忘却されたものを注視する
  (3)論理の矛盾撞着を探る
場合は、会社員の意図を徹底的に分析することになる。

妻を電車に乗せるか、乗合自動車に乗せるか思案した時のことを会社員は二段構えでこう説明している。まず第一に、電車内での感冒伝染の危険と自動車事故の危険性と、どちらがプロバビリティーが大きいか。感冒が絶頂期であったあの時期、電車の中には確実に感冒の黴菌が存在すると考えねばならなかった。妻は感冒に罹りやすい体質であったから、彼女が電車に乗れば、彼女は危険を受けるべく択ばれた一人とならざるを得ない。自動車の場合は乗客の感じる危険は平等である。第二に、仮に危険のプロバビリティーが同じだとしてどちらの方がより生命に危険か。妻が再び感冒に罹ったとしたら病後間もない彼女は必ず肺炎を起こすだろう。しかし自動車事故は起きたとしても必ずしも生命を失うとは決まっていない。以上の判断を持って会社員は自動車を選択したのである。

これは探偵の言う通り、「唯それだけ伺って居れば理屈が通って」いる。「何処にも切り込む隙がないように聞こえ」る。探偵はどのようにして、そこに破綻を見出すのか。彼が着目するのは奇妙な沈黙、忘却、見落としである。彼は続けて言っている。「が、あなたが只今仰らなかった部分のうちに、実は見逃してはならないことがあるのです」会社員が言わなかったこととは乗合自動車に乗るときは一番前の方に座れ、それが最も安全だと言ったことである。会社員がそのことを説明しようとすると探偵がさえぎって「いや、お待ちなさい、あなたの安全という意味は斯うだったでしょう、――自動車の中にだって矢張いくらか感冒の黴菌が居る。で、それを吸わないようにするには、成るべく風上の方に居るがいいと云う理屈でしょう。すると乗合自動車だって、電車ほど人がこんでは居ないにしても、感冒伝染の危険が絶無ではない訳ですな。あなたは先この事実を忘れておいでのようでしたな。」

確かに会社員は電車より乗合自動車に乗れと言う時、乗合自動車の中に感冒の黴菌がいることを失念している。しかし乗合自動車の前方に乗れと言う時は、それを理由にする。会社員は首尾一貫して妻がより安全であることを考えているようだが、その思考の筋道は決して一貫していないのである。

我らが探偵はさらに言う。「よござんすかね、あなたは乗合自動車の場合における感冒伝染の危険と云うものを、最初は勘定に入れていらっしゃらなかった。いらっしゃらなかったにも拘わらず、それを口実にして前のほうへお乗せになった、――ここに一つの矛盾があります。そうしてもう一つの矛盾は、最初勘定に入れて置いた衝突の危険の方は、その時になって全く閑却されてしまったことです。乗合自動車の一番前の方へ乗る、――衝突の場合を考えたら、此のくらい危険なことはないでしょう、其処に席を占めた人は、その危険に対して結局択ばれた一人になる訳です。」

長々と、会社員と探偵の「論理的遊戯」を紹介したが、「途上」で注目すべきなのは、まさしく、言説の論理的構成を徹底的に追求する、この努力である。それによって探偵は、一つの論理が、ある時には注意を払われるが、ある時には忘却される事実を突き止め、それゆえ論理全体に矛盾をきたすことを証明する。そしてその矛盾の仕方の中に、会社員の物語の見かけとは裏腹の、バイアスが存在していることを明らかにするのである。

  「途上」は「外形」と論理的構成の観点から物語を批評し、隠された「もう一つの物語」を読み取る方法を明快に提示している。ここで最後に注意しておきたいのは、「物語」というと小説の中だけの特殊なもののように思われるが、考えてみれば、会社員が犯している論理的な不首尾は、我々や政治家などが日常的に犯し、また他人が犯しているのを見逃しているような非論理性だということだ。つまり「途上」の方法は実践的な価値を持っている。我々の日常的な言動に潜む歪み(なんならイデオロギーといってもいい)に着目したという点でも、「途上」は大きな意味を持っている。

2015年12月19日土曜日

30 メアリ・ロバーツ・ラインハート 「寝台席十番下段の男」 

The Man in Lower Ten (1909) by Mary Roberts Rinehart (1876-1958)

 以前紹介したクリストファー・モーリーの「幽霊書店」にはこんな一節がある。
もちろん夜は文学と神秘的な類縁性を持っている。イヌイットが偉大な書物を生み出していないのは奇怪なことだ。われわれのほとんどは北極の夜などオー・ヘンリーとスティーブンソンがなければ耐えられないだろう。また、いっときアンブローズ・ビアスにかぶれたロジャー・ミフリンはこういったこともある。「真に甘美な夜」(ノクテス・アムブロジアナエ)は、アンブローズ・ビアスの夜である、と。
私は今まで読んできた本を思い出しながら、もっとも魅力的な夜を描いた作品、作家は誰だろうとときどき考える。そのときラインハートとその作品は、そのリストに必ず登場することになる。なにしろ闇の中の不可思議なうごめきを描かせれば彼女の右に出るものは――ま、いることはいるが、ミステリの歴史の中では彼女は独特の位置を占めていると思う。その闇は、ときには人間の心の内奥に通じる闇ともなる。

本編の主人公は弁護士をしている若者ローレンス・ブレイクリー。今まで女には興味がないという人生を送ってきたが、本編においてはもちろん恋に陥る。しかもその相手は、彼が一緒に弁護士事務所を経営しているマクナイトの恋人だ。

ブレイクリーは寝台列車の中で殺人事件に出くわすのだが、これがちょっとややこしい。ミステリによくある配置のずれが起きるからだ。ブレイクリーはまず十番下段の寝台席を購入する。ところが列車に乗ってみると、十番下段にはもう誰かが酔っ払ってグウグウいびきをかいて寝ているのだ。車掌に文句を言うと「たぶん中央通路を隔てた九番のお客さんが間違ってこっちに来たのでしょう。どうぞ九番を使ってください」という指示。ブレイクリーは九番で寝るのだが、寝つかれずにしばらく外に出てあたりをぶらぶらし、また寝台車に戻ってきて寝た。

さて次の日の朝目が覚めると、なんと彼は寝台席七番で寝ているではないか。しかも九番の席を見ると、自分の服と裁判に使う大事な書類を入れた鞄がなくなっている。それだけではない。十番の寝台席にいた男が胸を刺されて殺され、凶器と思われる針が七番の枕の下から発見されたのである!

ブレイクリーは殺人の容疑をかけられるのだが、事件はそれだけでは終わらない。この列車が事故を起こし、ブレイクリーはあやうく助かったものの、片腕を骨折してしまった。このとき彼を助け、一緒に事故現場からボルチモアまでついて行ったのがアリソン・ウエストという美しい女性で、これが先ほどいったマクナイトの恋人なのである。

出だしはこういう具合なのだが、この作品は謎めいていて、サスペンスを感じさせるだけではない。ブレイクリーが語るこの物語にはふんだんにユーモアが詰め込まれている。ブレイクリーも共同経営者のマクナイトもともに若くて威勢がよく、とりわけマクナイトは冗談を言うのが好きな性格なので、二人の会話はいつも溌剌としていて諧謔味を帯びている。
 マクナイト「日曜はリッチモンドに行かなきゃならないんだ。デートがあるんだよ」
 ブレイクリー「ああ、そうかい。彼女の名前は何だったっけ。ノースさん? サウスさん?」
 マクナイト「ウエストだ。へたな冗談を言うな」
さらに事故を起こした列車にはエドガ・アラン・ポーに心酔している素人探偵が乗っていて、これが事件に興味を持ち、ブレイクリーに話しかけてはメモを取る。彼はなかなか鋭い推理を展開するが、ブレイクリーはいつもそれに茶々を入れ、素人探偵はお約束のように憮然とした表情になる。

また殺人事件の容疑者であるブレイクリーは警察から見張りをつけられる。あるときブレイクリーとマクナイトがタクシーに乗っていると、後ろから見張りが走って車を追いかけているではないか。マクナイトは運転手に言う。「いちばんどろんこの道を探して、そこを通っていってくれ」その後ブレイクリーとマクナイトがレストランで食事をしていると、ブーツを泥だらけにした見張りがうらめしそうに入ってくる……。

このように全体に喜劇的なトーンが敷かれているから、暗闇の場面がある種の異質性をもって、いっそう恐ろしく描かれることになる。そのスリリングな描写は「螺旋階段」や拙訳「見えない光景」で確認してほしい。

2015年12月16日水曜日

29 デーナ・チェンバーズ 「稲妻の如く」

Too Like the Lightening (1939) by Dana Chambers (1895-1946)

以前、ルイス・トリンブルの「殺人騒動」をレビューしたとき、粗筋が書きにくくて仕方がないと悲鳴をあげたことがある。奇妙な事件が次から次へと起きるのだが、なぜそんな事件が起きるのか、語り手にはさっぱりわからない。読者のほうも宇宙空間をふわふわ浮いているように、どっちが上とも、どっちが下ともわからないまま、物語の流れに従っていくしかない。事件の輪郭が多少なりとも判然とするのは、その物語の後半以降のことである。もちろん後半になってはじめてわかる事実をばらせば、わかりやすく粗筋を示すことができるのだが、それではこれから読む人の興味をそぐことおびただしい。そこで文才のない私は悩んでしまったというわけである。

「稲妻の如く」はスパイ小説といっていいだろうが、やはり粗筋が書きにくい作品である。語り手であり主人公でもあるジム・スティールはいきなり奇妙な状況に放り込まれ、そして事情もわからぬまま次々と行動をしていかなければならない。

彼はある朝目を覚ますと、見知らぬ部屋にいることに気がつく。隣には北欧の人間とおぼしき美女が横たわっている。なぜ自分はこんなところにいるのか、彼は必死になって昨晩の出来事を思い出そうとする。彼はある程度思い出すのだが、しかし彼の記憶には埋めることのできない欠落がある。

そのあと彼は男の屍体を木にぶら下げ(どうやら彼が殺したらしい)、一緒に寝ていた女の父親に出会い、その父親は直後に爆弾によって吹き飛ばされ……。読者は何が何だかよくわからないうちに、暴力的なアクションが展開する物語の中に引きずり込まれる。

ごくおおざっぱに種を明かせば、ジム・スティールはアメリカと連合国側のスパイ合戦に巻き込まれたのである。しかもこのスパイたちは二重スパイであるため、彼はまことに複雑な謀略の手先として利用されることになったのだ。

ジム・スティールは最初、彼が漂う空間を眺め、こっちが上になるのだろうと勝手に思い込む。ところが物語の中ほどで、最愛の妻と再会し、その時から今まで上だと思っていた方向が、実は下であることに気がつく。妻との信頼関係がジャイロスコープのように彼に正しい方向を示したのである。

本書や「殺人騒動」のように、何が起きているのかわからない物語というのは、近代的なミステリの誕生と共にあらわれた。それまでは「世界は語られうるし、理解されうる」という信念のもとに物語が書かれていたのだが、ある時期からそのような信念がゆらぎだしたのである。たとえば本編では個人(ジム・スティール)と国家が対立している。もちろん国家は圧倒的な量の情報を所有し、またそれを操作する能力を持っている。個人が国家の企みを見抜くのはほとんど不可能に近い。こうした無力が問題となるのは、ミステリの世界に限らず、文学の世界でもそうだ。カフカの作品はその典型例だし、ちょっと面白い日本文学の例としては古山高麗雄の「半ちく半助捕物ばなし」なども挙げられる。私は一九三〇年代に古いタイプの探偵物語は近代的ミステリに変貌したと書いたことがあるが、その背後にはフィクションに対する認識の変化がある。もっとも大衆向けのミステリにおいては、最愛の妻との出会いが主人公に正しい認識の方向性を教え(なんと俗受けのするロマンチックな書き方だろう)、最後にはすべてをきれいに説明してしまうのが普通だけれど。

本書は第二次大戦前の国際状況を踏まえて書かれているが、しかしまるで古びた感じがしないのには驚いた。現代のスパイ小説のレベルからいっても、充分標準はこえている。ただ不満があるとしたら、この小説には余韻がないことだ。サマセット・モームのアッシェンデンのシリーズ、エリック・アンブラーの一連の作品、ジョン・ル・カレやグレアム・グリーンの現代的スパイ小説、これらはどれも独特の余韻を残す。「稲妻の如く」は残念ながらそういう渋い味わいを持っていない。文体もパルプ小説的で、スカッとした気分で読み終わり、忘れることができるような作品、つまり消費されてしまう作品だ。

最後にタイトルについて一言いっておこう。「稲妻の如く」という句は「ロミオとジュリエット」の有名なバルコニーの場面から取られている。ジュリエットがロミオにこんなことを言っている。「愛の誓いは、どうぞおよしになって。嬉しいけれども、今晩約束を交わすのは、いや。そんなの、いくらなんでも軽はずみすぎる。あせりすぎというものよ。稲妻のようにひかったと思ったら、『ひかった』と言う前に消えてしまう」本書では事件が立てつづけに起き、主人公が「これじゃ考える暇もない」と独りごちる場面でこの一句が使われている。事件の推移が「稲妻のように」すばやいという意味である。

2015年12月12日土曜日

28 R.フランシス・フォスター 「彼方からの殺人」 

Murder From Beyond (1930) by R. Francis Foster (1896-1975)

正式名称は忘れてしまったけれど、ロンドンには心霊協会というものが、たしか二つくらいあって、私はその一つを訪ねたことがある。建物は、大きなお屋敷を改造したもので、なかなか雰囲気があった。さんざん歩いてそこに着いた私は喉が渇いていたのでコーヒーの自販機がある場所へまず行ったのだが、そこには人相の悪い男が一人ぽつんと座っていて、私をじろりと見つめるのだった。コーヒーを買って席に着き、彼に話しかけたら人相の悪い男は「おれは今朝刑務所を出てきたんだ」と言った。

私がその瞬間考えたことは、今朝刑務所を出てきたばかりならおそらく拳銃とかは持ってないだろう。背の高さは同じくらいだが、こっちは毎日身体を鍛えているから筋肉のつきかたが違う。格闘になっても五分五分以上に渡り合えるだろう、ということだった。そしてもう一つ考えたことは、ここに来る途中の廊下で、奇妙に緊張した面持ちの女とすれ違ったが、こいつのせいだったのだなということだった。

さほど怖れるには当たらないと判断した私は、コーヒーを飲みながらのんびり彼と話をしようと思ったのだが、相手は世間をすねたようなことしか言わない。そのうち私は彼が気の毒になった。彼は仕事があって食べて行けさえすれば犯罪は犯さなかったであろうことがなんとなくわかったからである。

十分くらいしゃべったころ守衛がコーヒー・ルームに入ってきた。初老のでっぷりふとった男で、入ってくるなり人相の悪い男に「出ていけ」と怒鳴りつけた。男はとたんに気色ばんで立ち上がり、二人は口論をはじめた。見ていると守衛は威勢こそいいが、相手は若いからけんかになったら分が悪いとふんだのだろう。じりじりと私の後ろに移動したのである! 相手がかかってきたら私を盾にするつもりなのだ。私はそういう卑怯者が嫌いなので、二人の怒鳴りあいに割り込んで「彼は私の友達だ。今おしゃべりをしていたところだ」と言ったのだが、その途端に刑務所から出てきた男はコーヒー・カップを守衛に投げつけ、守衛もテーブルにあった誰かのカップを投げつけ、私も「やめろ」と言いながら自分のカップを床に投げつけた。

刑務所から出てきた若い男はさんざん毒づきながら部屋を出て行き、守衛も私に「大丈夫か」と訊いたあと出ていった。

私は「彼方からの殺人」を読みながら何年ぶりかであのエピソードを思い出した。このタイトルの「彼方」というのは霊的な世界を意味するのである。もっとも私は心霊協会で霊的ならざる体験をしてしまったのだが。

推理小説に限らず十九世紀の世紀末から一九三〇年代ころまでずいぶんとスピリチュアリズムを扱った本が書かれた。当時は降霊術が大流行し、科学では解明できないもう一つの世界の存在が「一部」の人々の間で信じられていたのである。もっとも怪奇現象や降霊術のほとんどは単なるトリックであったようだけれど。しかしこれはミステリや怪奇小説の分野では格好のネタとなり、中には興味深い作品も書かれている。たとえば私が昔訳したメアリ・ロバーツ・ラインハートの「見えない光景」(Sight Unseen)とか、 Rita という筆名の人の Turkish Bath とか、ジョン・ミード・フォークナーの The Lost Stradivarius などは、あまり知られていないけれども、スピリチュアリズムを扱った秀作だろう。

「彼方からの殺人」の中身についてはあまり話したくない。古典的な推理小説かと思いきや、途中からオカルトに染まる展開は、非常に面白かった。その展開の意外さを、偏見も何の知識も持たずに味わって欲しいからである。しかし原作が読めない人もいるだろうからおおざっぱにどんな話かというと……。インドにプランテーションを持っていたウオートン一家がイギリスに帰国した途端、その家には幽霊が出るという噂が立った。そののちウオートン家の奥さん、その不倫相手をしていたとされる若い男、ウオートン一家と付き合いのあった牧師等々が次々と殺害されていく。ウオートン家の娘マージェリーは事件を解く鍵を知っているようなのだが、なぜか決してそれを語ろうとはしない。この事件を二人の新聞記者(トム・マニングとアンソニー・レイヴンヒル)が、地元警察やスコットランドヤードを協力して解決していくことになる。登場人物はきわめて多く、事件は複雑な様相を呈する。細かな事実が収集されては推理が展開され、最後はウオートン一家の秘密が暴露される。物語はテンポよく進み、適当な間隔で殺人や事件が起きるのでまったくあきることがなかった。しかもある種の雰囲気が作品に立ち籠めていて、それが映画の音楽や効果音のようにスリリングな味わいを高めている。

2015年12月9日水曜日

27 エルマー・エヴィンソン 「素人探偵」

An Amateur Performance (1909) by Elmer Evinson (1872- ?)

本書の終わりのほうには電気椅子への言及がある。そこでふと電気椅子はいつごろ死刑の方法として用いられるようになったのだろうと思った。ウィキペディアによると電気椅子による死刑を行っていたのはアメリカとフィリピンだけだそうだ。「行っていた」というのは今ではもう用いられていないからである。アメリカで最初に法律として電気椅子の使用が定められたのは一八八九年。この物語が書かれる二十年前だ。はじめて電気椅子にかけられたのはウィリアム・ケムラーという人で、一八九〇年八月に、まず千ボルト電流を十七秒間流されたのだそうだ。ところがそれでも息をしていたため、今度は二千ボルトの電流を流して彼を殺したそうである。電気椅子は絞首刑より人道的だと考えられて導入されたのだが、最初から無残な、そして皮肉な結果に終わっていたのだ。電気椅子は一九〇〇年頃には死刑方法の主流を占めるようになり、一九八〇年代に薬物が広く用いられるようになるまでつづけられた。

閑話休題。

本書はまことに古いタイプの detective story である。シャーロック・ホームズとワトソンのような二人組がいて、もちろん明敏なる名探偵が事件を解決するために八面六臂の活躍をするのだが、それは物語の前面にはあらわれず、彼から探偵の補佐を頼まれたワトソン役の、少々危なっかしい冒険が主眼に描かれる。本書でシャーロック・ホームズの役を演ずるのはクレイトン・キーン、ワトソン役を演ずるのはミスタ・ワッツである。名前からしてワトソンを連想させる。

事件の様相は二転三転するので順を追って説明しよう。

まず、ニューヨークの実業家で大金持ちのロジャー・デラフィールドが寝室で死亡する。その日、娘のヘレンが厩務員の男と駆け落ちしたという知らせに大きなショックを受け、ガス自殺をしたものと考えられた。

ところがキーンの捜査により、これが悪党三人組による他殺であることが判明する。悪党三人組とは、ロジャーの再婚相手(妻)と、彼が秘書に雇った男と、甥っ子のロジャー・エラーブである。とくにロジャー・エラーブはこの殺人の首謀者と言える。彼は叔父の息子アーサーと瓜二つなのを利用して、彼になりすまそうとした。彼はまずアーサーを殺し、セーヌ川に死体を捨ててしまう。さらに叔父とその娘を亡き者にしてしまえば、ごっそり遺産が手に入るはずだった。その計画を実行に移すために知り合いの悪党二人を叔父に接近させたのである。意外なことに叔父は二人の悪党のうち、女のほうに懸想し、妻として娶ってしまったのだけれど。

ロジャー・デラフィールドの娘ヘレンが厩務員の男と駆け落ちしたというのも億万長者の死を自殺らしくみせかけるために流された嘘で、彼女は悪党どもによって連れ去られたに過ぎないかった。

この話にはさらに一ひねりが加えられる。それは殺害されたはずのアーサーが実は生きていたといことである。しかし彼はロジャー・エラーブたちの悪巧みを阻止しようとして、逆に捕まえられ囚われの身となってしまった。

殺人事件の背後では、波瀾万丈の物語が展開しているようだ。こうした事情が物語の中で徐々に明らかになってゆくのなら、それなりに面白い物語が出来たのではないだろうか。しかし以上の内容は、探偵キーンの説明として一気に語られる。そう、探偵キーンが事件の真相を突き止める過程は、あくまでサブプロットに過ぎないのだ。物語の主眼は生まれてはじめて探偵活動をするミスタ・ワッツの冒険にある。というわけで、われわれはミスタ・ワッツが美しいヘレンを救出し、悪党どもと闘い、命からがら危地を逃れ、最後にヘレンと結ばれるという、なんともロマンチックな物語を読まされることになる。

変装やら、双子のようにそっくりの人間やら、善悪のきれいにわかれた人物描写やら、あきれるくらい古い物語のパターンと、古い倫理観に貫かれた作品である。文体もまことに古くさい。いや、単に古くさいと言うだけでは誤解されるだろう。この物語はじつに均整のとれた見事な文章で書かれているのだが、その背後には世界を一定の基準で裁断・把握することが可能だという信念が透けて見え、その考え方がいいようのない古さを感じさせるのである。

よく考えたらこの作品が書かれた同じ年に、本ブログで最初にレビューをしたキャロリン・ウエルズの「手掛かり」も書かれている。こういう古い detective story が量産されていた時期に、あれだけ近代的ミステリの結構を備えた作品を書いたのだから、キャロリン・ウエルズはやはりすごい。

2015年12月5日土曜日

26 ドロシー・ベネット 「いましめを解かれた殺人」

Murder Unleashed (1935) by Dorothy Bennett (? - ?)

サンフランシスコの十一月の霧の夜、デニス・デヴォアがホテルの自室のドアを開けると、ナイフで刺殺された女の死体が血の海の中に転がっていた。本書はいきなりセンセーショナルな場面から開始される。

殺されたのはデニスが見たこともない女だ。デニスが外出中であることを知っていた誰かが、女を彼の部屋に誘い込み、殺害したらしい。では、デニスはこの事件に何の関係もないのかというと、どうもそうではない。

話は一年前にさかのぼる。デニスはある女友達とドライブに出かけた。女が運転していたのだが、途中で彼女は人を轢き殺してしまった。パニックを起こした女はそのまま逃走。しかし彼女を自宅に送り届けたデニスは、彼女の代わりに警察に出頭し、自分が轢き逃げ犯であると名乗り出た。デニスは一年の執行猶予の後、今はラジオの歌手として働いていた。

さてデニスの部屋で殺された女だが、じつは彼女は一年前にデニスの女友達が轢き殺した男の妻だったのだ。しかも轢き殺されたと思われていた男は、車に衝突する前にすでに死んでいたようなのだ。謎が謎を呼ぶ展開である。デニスは二つの事件の連関を探って調査をしようとするのだが、それを邪魔するかのように、関係者が次々と殺されていく。

本書はいろいろと特徴のある作品である。三つの特徴が特に目についた。

まず第一に表現が妙に詩的だ。
彼の目は下に向けられたままだった。目は恐怖に大きく見開かれていた。ちょうど月の出ていない夜が暗闇に大きく開かれているように。
などといった表現がふんだんに用いられている。またデニスが歌手であるため、歌の文句が詩のように本文に挿入されている。正直なところ、こうした書き方が効果があげているかというと、そうは思えない。それどころか鼻について仕方がない部分さえある。しかし作者はこういう文体でミステリを書いてみたかったのだろう。彼女は How Strange a Thing という九十ページ以上もある韻文形式のミステリを書いているくらいだ。詩人がミステリを書く例は珍しくないが、詩の形式でミステリを書くというのはそう多くはない。(私が知っている例は、H.R.F.キーティングの Jack the Lady Killer やオリバー・ラングミードの Dark Star くらいである)

二つ目の特徴は、この作品の探偵役を務めるのがデニスであるという点だ。殺人事件の容疑者となった彼にはピーターという弁護士がつき、ケネディという新聞記者も彼の味方となって調査を助けてくれる。私はてっきりピーターか、癖の強いケネディが探偵役になるのだと思っていたら、なんとデニスが見事な推理を展開するのだ。容疑者とその弁護士が協力して調査に当たり、その際、弁護士のほうが脇役に廻るというのはあまりお目にかかれない設定である。

第三の特徴はデニスの推理の仕方である。それは厳密な演繹的推理とは言えない。いくつかの事実から直感的に全体を把握していくという方法である。煙草の吸い殻とか指紋といった物的証拠を積み重ねて議論を推し進めるのではなく、ある特定の場面における人物の行為・表情から、直感的洞察力を働かせて、その内面の真実を見抜くのである。デニスと犯人がはじめて遭遇した場面の奇妙さを指摘する部分などに、デニスの推理力はよく発揮されている。もしかしたらこういう推理は、作者が目指す詩的な想像力の一部分をなすのかもしれない。

最後にタイトルについて書いておこう。正直なところ、このタイトルの意味がよくわからない。本文中には leash について次のような説明がある。デニスは殺人事件の容疑者になるが、警察はすぐ彼を逮捕しようとしない。その理由をデニスはこう推測する。
長いリードをつけておくと、多くのバカ犬は勝手に自分で自分の首を絞めてしまう。警部はそういう作戦をとろうとしているんだと思う。リードをありったけのばして、おれがそれに絡まって動けなくなるのを待っているんだ。
これによると leash (ペットをつなぐリード)は動きを制限し、下手をするとあがきがとれなくなるくらい絡みつくものということになる。「動きを制限し、下手をするとあがきがとれなくなるくらい絡みつくもの」とはいったいんなんだろう。私にはこれがよくわからない。しかしともかく leash がそういう意味だとすればタイトルは、そのような制限のない殺人、暴走する殺人ということになる。それは犯人の目に宿っていた、ネズミの目のような赤い光が示唆するものでもある。

瑕瑾はあるが、決して悪くない作品だと思う。
 

2015年11月28日土曜日

番外5 クリストファー・モーリー 「幽霊書店」 

The Haunted Bookshop (1919) by Christopher Morley (1890-1957)

Project Gutenberg 所収

「幽霊書店」をはじめて読んだときは、なんて不思議な本があるんだろうと、本当にびっくりした。ミステリ、読書案内、戦争批判が渾然一体となった作品なのだから。だいたい読書案内をする作品なんて、はたしてどれくらいあるのだろうか。「幽霊書店」には詩を含めて百冊を超える作品名が列挙されている。すくなくとも私は後にも先にもこんな小説にはお目にかかったことがない。

 (1)あらすじ


舞台はブルックリンのとある古本屋。ここで二つの物語が交錯しながら展開する。物語の一つは若い男女のロマンス。もう一つはアメリカ大統領の命を狙うテロ計画だ。

まずは舞台である古本屋。本書の冒頭には次のような説明がある。

この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたってこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅうを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。

「聖廟をつくろう」などというところから推測できるように、店主のロジャー・ミフリンは偏執的なまでに自分の商売に誇りを持つ、一種の奇人である。世の中の人々は娯楽として映画に関心を持つようになり、本を読むことが少なくなってきたというのに、彼は頑固として書籍の大切さを説く。気が短くてかんしゃく持ちだが、からっとした性格の男である。

彼は親友の食品会社の社長に頼まれ、その娘を住み込み店員として受け入れることになる。それがティタニアという素敵な名前の美少女である。この世間知らずのお嬢さんに一目惚れしてしまったのが、ギルバートというコピーライターの青年。二人はこの古本屋で出遭い、話をし、お互いを誤解し、冒険をし、最後にはロマンチックな関係になる。

もう一つの筋はテロ計画だ。テロの首謀者たちはミフリンの古本屋に置いてある本を利用して連絡を取り合っていたのだ。ロジャーはある特定の本が本棚からなくなったり、またあらわれたりすることから異変に気がつく。

クライマックスはミフリン夫妻、ギルバート、ティタニアがテロリストたちと書店で対峙する場面である。ロジャーたちに捕らえられたテロリストはみずからの命をかえりみずに爆弾を爆発させる。ミフリン夫妻たちは書籍に守られて、命に別状はなかったが(「本が衝撃を吸収する力はたいしたものだ」)、建物自体は崩壊する。しかしティタニアの父親である社長がミフリン夫妻の仕事に金を投資し、彼らはあらたな書籍販売事業に乗り出すことになる。

 (2)破壊と創造


私が思うに、破壊(爆弾)と創造(芸術)がこの小説の中心テーマである。たとえばミフリンが皿洗いをする場面。ミフリンは最初、皿洗いを苦役として捉えている。それは無駄な時間であり、彼は台所に書見台をすえつけ、皿洗いをしながら本を読むようにしていた。当然手もとはおろそかになり、彼は何枚もの皿を割ってしまう。しかし皿を割るという破壊行為の末に、彼はふと気がつく。皿洗いこそ、自分が求めていた息抜きの作業ではないのか。そして彼はそこから独自の台所哲学を展開するのである。ここにおいて破壊行為は、古い考えを打破することであり、またあらたな考えを獲得することでもある。

ミフリンの店が爆弾に吹き飛ばされた後の部分にも、破壊と創造のテーマを見ることができる。爆弾でめちゃくちゃになった店内を整理しながら、ミフリンは自分が商売に新しいものを取り入れてこなかったことを反省する。そしてチャップマン社長の経済的援助を得て、ついには新たな事業に乗り出す。破壊行為をきっかけに、古い考えが否定され、新しい考え方が生まれ出るのだ。

ミフリンがバトラーの「万人の道」を高く評価するのは、この作品がヴィクトリア時代の因習的な考え方を木っ端微塵にし、当時の人々に開放感をもたらしたからである。破壊は単に否定的なものではなく、新しい意味を生み出す一歩でなければならない。それゆえロジャーは戦争の愚かしさを徹底的に批判しながらも、そこから新しい人間性の表現が生まれることを切望する。たしかに恐ろしいことが起きた。しかしその破壊を通して、われわれは新しいものを生み出さなければならない。それがミフリンの「口にすることもはばかられるような(戦争の)荒廃から、人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなりません」という信念を生み出している。人間の未来に対する肯定的な信念こそ「幽霊書店」を貫く明るさの源である。そして読書は、新しい意味を模索する知的な営為として、この小説の中で推奨されているのだ。

爆弾テロのスリラー、読書案内、戦争批判、それらはまったくばらばらのようでいて、実は一つのテーマでつながっている。

歴史的現実としてはウイルソン大統領の平和構想は挫折し、第一次大戦からは第二次大戦が生まれ、われわれは人間性に深刻な懐疑を抱くようになる。ホロコーストを含めた第二次世界大戦の破壊のあと、創造を口にすることはいささか不謹慎ですらあっただろう。アドルノはホロコーストの後で詩を書くことはできないと言った。

しかしながら私はこの作品を読みながら、それであっても人間は破壊的な現実の中から何か創造的なものが生まれてくることを希望せずにはいられないと思った。暴力的な衝動を避けようとすればかえってその餌食になるというフロイトのペシミスティックな認識は知っているが、それでも希望を持たずにはいられない。希望を捨てたら我々は本当に状況の奴隷になってしまう。スラヴォイ・ジジェクも言っているが、啓蒙の企図には欠陥があるが、しかしそれは啓蒙の企図を放棄する理由にはならない。

2015年11月25日水曜日

25 ローレンス・トリート 「死亡のD」 

D as in Dead (1941) by Lawrence Treat (1903-1998)

本作は心理学者カール・ウエイワードが探偵役を務めるハードボイルドである。カールはこんな具合に事件と遭遇する。

心理学教授の職をクビになり私立探偵になることを考えていたカールは、ニューオーリンズのホテルで美しい女を見かける。彼女は落ち着かなげに手袋をいじりまわし、しきりに目をしばたたいている。彼女はつと立ち上がってホテルを出た。

カールは私立探偵になったつもりで彼女のあとをつけることにする。それはほんの出来心にすぎない。ゲームでもするように彼は彼女を追ったのだ。

彼女はフレンチ・クオーターにある薄暗い建物の中に入っていく。その直後に突然銃声が鳴り響いた。

カールが建物の中に入ると、足元のコンクリートの床に、あとをつけてきた女が横たわっていた。彼女の身体の先には、通路をふさぐようにして手押し車がおいてある。その中には銃が置いてあり、その銃口はカールのほうを向いていた。

さらに手押し車と壁のあいだには、小柄な男が身をかがめていた。一瞬カールと男は目を見合わせたが、後者はいきなり飛び出してくると、カールを突き飛ばし外の通りへ飛び出す。

カールは予想もしなかった出来事に呆然としていた。しかし気を取り直して女を抱きかかえる。女は「わたしを……わたしを……呼んで……」と謎めいた言葉をつぶやいて息絶える。

その後カールは女が名前をミリセント・キースターといい、ニューヨークの億万長者アルバート・マスタートンの妹であることを知る。彼女にはシス(娘)とソニー(息子)というティーンエイジャーの子供がいた。夫は交通事故で死亡していたが、彼女はまだ再婚していない。その美しさに惹かれて彼女に言い寄る男は多いのだが、なぜか夫のジェレミー・キースターは死んでいないと信じていた彼女は、誰をも夫として受け入れることはなかったらしい。

さあて、ミリセントを殺した犯人は誰か。実は私は、ハードボイルドを読むときは最初に出てきた美女にまず疑いの目を向ける。彼女が私立探偵の依頼人であろうが、一見脇役のように見えようが、とにかく「美女を疑え」。そして最初に出てくる女は、ミリセントの娘のシスである。この小説でもっとも精彩を放っている人物だ。彼女は母親の死後、急に子供から大人に変貌し、その清純であると同時に妖しい魅力で大人の男をも魅了する。彼女は明らかにある事実を隠している。しかし決してそれを言おうとしない。探偵役の心優しいカールも無理矢理彼女から情報を引き出そうとはしない。読んでいるほうはカールの甘い態度にいささかいらいらするが、小生意気なガキとは言え、彼女は未成年者だ。しかたがない。

もう一人の美女はミス・トレヴィスだ。彼女はバーで踊りをおどっている。そしてバーの経営者ベニングに惚れていて、彼との結婚を考えている。どことなく退廃的な翳のある女だ。

正直、私はこの二人のどちらかが犯人だろうと思って読んでいた。しかし読み進めば読み進むほど、ほかにも疑わしい人物がでてくるのである。なにしろ殺されたミリセントは美しく、付き合っていた男が何人もいる。感情のもつれが殺人につながることは充分に考えられるので、真犯人候補はいくらでも出てくる。私はあれも怪しいぞ、これも怪しいぞ、とほとんど出てくる人物全員を疑うことになってしまった。謎解きという面ではよくできた作品だと思う。

一つ残念だったのは、私がカール・ウエイワードものの第一作を読んでいないことだ。読んでいれば、たとえば次のような箇所はもう少しわかりやすくなったはずなのだ。私立探偵になったつもりでカールがミリセント(マダムX)のあとをつけるところにこんな描写がある。
 カールは足をはやめて距離を縮めようとした。霧はいっそう濃くなり、彼らを世界から切り離した。そのため彼らはいわば二人だけの親密な空間を形づくりながら、光を投げかける街灯から街灯へと進んでいった。彼は前にいるのは妻のガブリエルで、妻がこの暗くて霧の立ちこめる通りを、家を探して歩いているのだ、と考えようとした。しかしもしもガブリエルがここにいるなら、目の前のマダムXは彼らが出てきたホテルの部屋で待っていることになるだろう。
 ガブリエルとマダムX。彼らは彼の心の中で奇妙な具合に混乱し、ほとんどどちらが彼の数ヤード前を歩いているのかわからなくなった。
私はこの不思議な描写に魅了された。カールと妻のガブリエルは、彼が活躍した前の事件で出遭ったらしい。しかも妻はそのときの容疑者だったようだ。おそらく事件の直前に探偵と被害者が移動するこの奇妙な空間の描写は、前作も読まなければ十全に理解できないのではないだろうか。前作 B as in Banshee を読んでからもう一度考え直したい。

2015年11月21日土曜日

24 エリザベス・ジル 「クライム・コースト」

The Crime Coast (1931) by Elizabeth Gill (? - ?)

ちょっと長くなるが、こんな場面を想像して欲しい。

あなたは画家である。あなたの絵を買いたいというお客(パトロン)に誘われ、あなたは彼女が泊まっているホテルの一室へ行く。交渉をしているときに、たまたま新しいパトロンが短い時間、席を外す。彼女が戻るのを待っていると電話が鳴り、あなたはパトロンに替わってその応対に出る。すると電話の向こうから男の声が「エイドリアンが会いに行く。彼女にそう伝えておいてくれ」と伝言を頼む。エイドリアンはあなたの親友である。しかし電話の声は聞き慣れたエイドリアンの声ではない。なんだか変な状況だが、ご理解いただけるだろうか。

翌日あなたはパトロンがホテルの部屋で殺されたことを知る。あなたが帰った後、誰かが彼女を殺したのだ。あなたはどんなことを考えるだろう。エイドリアンが殺人を犯したのだと考えるだろうか。しかし「エイドリアンが会いに行く」と言ったのは、エイドリアン以外の人物である。

本書「クライム・コースト」に登場する若い女の画家は以上のような状況に置かれて、てっきりエイドリアンが犯人だと思い込む。その話を聞いた友人も、エイドリアンが犯人だと思い込み、翌日になってようやく、エイドリアンは名前を使われただけかもしれないという可能性に気がつく。現代の読者なら、そんなことはまっさきに気がつけよ、と突っ込みを入れたくなるが、二十世紀の前半に書かれたミステリの中には、こんなナイーブな人間が登場することは結構あるのだ。

本書に出てくるスコットランド・ヤードの刑事も、われわれがミステリで活躍する刑事に期待するような行動とはおよそかけはなれたことをしてくれる。彼は殺人事件が起きてすぐに容疑者の尾行をはじめる。それはいいのだが、この容疑者が、誰でも参加できる大きなダンスパーティーを開くと、なんと刑事は「仕事と同時に楽しみのため」と称して、ノコノコとこのパーティーに出かけていくのである。「仕事と同時に楽しみのため」!

しかしこういうナイーブさはまだ許せる。許せないのは本書において探偵役をつとめるベンヴェヌートの次のような台詞である。
 ……殺人の大部分は精神的、肉体的、あるいは道徳的に堕落した人間によって犯されていて、こうした人々は(死刑や終身刑によって社会から)排除されたほうがいいのである。しかしその他に少数の、稀な殺人がある。それは本質的に心根の優しい、法に従って生きている、まともな人間が、何かよくわからない動機、あるいは倫理的ですらある動機から犯す犯罪である。場合によっては法を越えた知恵、慈悲深い支配者が許しの手を差し伸べることがあるだろう。しかし長引く裁判に苦しんだり、胸の痛い思いをすることは避けられない。
 法律の下僕ではないわれわれにとって大切なのは法律の字面ではなく、その精神であるはずだ。それが正しいなら、一般原則を個別のケースにあてはめるだけの判事や陪審よりも、普通にものを考える人間のほうが正義のなんたるかをより正しく理解するという状況だってありうるだろう。
言葉遣いは仰々しいが、しかしこれはナイーブな思考の典型例である。堕落した人間とそうでない人間の区別ができると考えるところ、さらに「まともな」とか「普通の」といった曖昧きわまりない言葉を用いるところにそれがあらわれている。まともな、普通の意見や考え方というものは、よくよく点検してみると、どれもバイアスがかかっているものである。また「一般原則を個別のケースにあてはめる」というのは罪刑法定主義のことを言っているのだろうか。だとしたら、私は近代国家の基本原則の一つを軽んじるような世界などには住みたくはない。

ベンヴェヌートは上の言葉の通り、愛する人間を守るためやむを得ず人殺しとなった本当の犯人をのがし、別の男を犯人に仕立て上げる。その別の男は確かに悪いことばかりをしているのだが、ホテルの殺人とは直接には関係がないのだ。なのに、ベンヴェヌートは、あんな男がいなくなったって別に痛くも痒くもないとうそぶき、にせの証拠品を彼のポケットに忍び込ませて警察に彼を逮捕させ、それによって本当の殺人者をわざと逃がすのだ。こんなとんでもない話がどこにあるだろうか。H.C.ベイリーの「ガーストン殺人事件」をレビューしたとき、弁護士であり探偵でもあるクランク氏は警察の乱暴、横暴な捜査をただすのだと書いた。しかし本書の作者エリザベス・ジルは、国家権力である警察がベンヴェヌートと同じ考えを持ち、恣意的な刑罰権を行使することになったらどれだけ怖ろしいことが起きるか、そういうことには思いが至らないらしい。

本書はフランスの輝かしい海辺を舞台に若い男女のロマンスも描かれるのだが、その明るさの中でとんでもない認識が語られるという危険な物語である。ナイーブな登場人物があらわれ、ナイーブな語り方がなされているからといって安心してはいけない。得てしてそういう話のなかにはナイーブな認識が臆面もなく顔を出す。そしてナイーブな認識というのは予想以上にたちが悪いものなのだ。

2015年11月19日木曜日

23  R.C.ウッドソープ 「小さな町の死」

Death in a Little Town (1935) by R. C. Woodthorpe (1886-1971)
「小さな町の死」 R.C.ウッドソープ

英国サセックス州チェスワースという小さな町で殺人事件が起きる。殺されたのは町の人から蛇蝎の如く嫌われていた、ボーナーという実業家である。しかしこの作品は、犯人は誰かという謎解きに主眼はない。もちろんそれも興味の一つなのだが、それよりも殺人事件に対する人々の反応や、それをきっかけに明らかにされる関係者たちの秘密のほうにより力点が置かれている。

私が面白いと思ったのは、この作品の中に描かれる二つのお茶会がいずれも失敗に終わっていることである。小さな町の住人たちはお互いに相手の家を訪問し合い、絆を深め合う。それは円滑な社会的関係を営むための儀式と言える。それが滅茶苦茶な結果に終わると言うことは、つまり小さな町のネットワークにひびが入っていることを示している。

作家の妻であるメアリ・ホルトは、昔教師をしていた老婦人ミス・パークスの家を訪ねる。ミス・パークスはラムゼイ・マクドナルドという名前のオウムを飼っていて、これがろくでもない言葉ばかりを繰り返す。そのためミス・パークスは訪問客があると必ず鳥籠にショールをかけてオウムを黙らせることにしているのだが、なんとこのショールがお茶の途中でとれてしまうのである。その途端にオウムは「この女、まだいやがるのか!」と言うのだ。

オウムは機械的、白痴的に言葉を繰り返しているにすぎない。しかしときどき偶然が作用して、それが不愉快な真実として人々にヒットし、スムーズな人間関係を構築しようとする営みを破綻させてしまう。

もう一つのお茶会は、今度は現役の女教師、ケート・マーチンデイルの家で開かれる。その席には都市区委員会のお偉方や牧師やケートの恋人ソーンヒルがいた。ここでトラブルを起こすのはオウムではなく、恋人のソーンヒルである。彼は自分の所有する土地の一角にヌーディストの保養施設をつくる計画を語り、一座を恐慌に陥れる。当然のことながら、このあと彼はケートから絶交の手紙を受け取ることになる。ソーンヒルはなぜ恋人の怒りを買うことを承知で、そんなことをしたのだろうか。ネタバレになるけれども言ってしまおう。彼が殺人を犯したからである。彼は決して実業家のボーナーを計画的に殺したのではない。まったくの偶然に殺してしまったのだ。彼はケートと結婚すれば幸せな生活が送れると考えていた。しかし犯罪を犯してしまった今、たとえ警察に捕まらなかったとしても、ケートとの結婚生活はつねに暗い影に脅かされることになる。それならばいっそのこと彼女との仲はこわしてしまったほうがいい。そう考えて彼は、わざと非常識な振る舞いをし、ケートを怒らせ、彼女に婚約を破棄させたのである。

ソーンヒルは自分がチェスワースというネットワークの中に安住できない異分子であることを悟り、わざと混乱を招く行為をしてコミュニティーを出ていく。しかし強調しておくべきは、彼が異分子的な存在になったのは、偶然であったという事実だ。決して意図的に反社会的な行為をしたわけではない。(非意図的な)偶然が作用して反社会的な存在と化してしまうのは、ソーンヒルだけではない。マイケルもそうだ。

メアリ・ホルトの夫、小説家のマイケルは以前ある女と結婚していた。二人は喧嘩をし、女は家を出て行った。しかし二人は離婚はしていない。そんなときマイケルは彼女が火事で焼死したという記事を読む。本当はそれは間違いで、彼女は大やけどをしながらも生きていたことがわかるのだが、マイケルはその訂正記事を読まなかった。そのほんのちょっとの偶然から、彼は重婚の罪を犯してしまうのである。

またミス・パークスにはロバートという兄弟がいる。彼は人当たりのいい、教養豊かな紳士なのだが、ときどきおかしな発作に襲われる。人前だろうがどこだろうが、突然服を脱いで素っ裸になり、まわりの人をパニックに陥れるのだ。ロバートは意識的にそんなことをしているのではないのだろう。ふと心に空白があらわれ、気がついたら裸になっている。おそらくそんなところではないだろうか。風紀を乱す彼の行為は、しかし彼の意図するところではない。

元教師のミス・パークスは誰に対しても真実を言わずにいられない。それは彼女の身に染みついた性癖なのである。そして真実を言う人は好かれないのだ。「他人のように不快な事柄を覆い隠したり、酌量したり、相手の気持ちを考えたり、愛想のいい偽善者を演じる」ことができないために、新しい友達ができず、彼女はひどく寂しい人生を送ることになる。彼女もある意味では不愉快な真実を言うオウムと同じなのである。

「小さな町の死」はこんな具合にエンディングを迎える。
 ミス・パークスのそんな思いはオウムによってさえぎられた。この鳥は彼女をしばらく見つめたのちに、とうとうしゃがれた声でこう独りごちたのだ。「人生ってな、ひどいものだな」
 ミス・パークスは無意識のうちに赤いショールに手を伸ばし、鳥籠を覆おうとした。
 しかし考え直した彼女はその手を引っ込めた。
 この鳥はときどき的を射たことを言う。不愉快な真実を語るからといって、どうして彼女にオウムを罰する権利があるだろう。
我々は一人一人が社会的ネットワークを構成する一員であり、そのネットワークの中で快適に生きていくために人々との関係を円滑に保とうと努力するけれども、同時にちょっとした偶然から、あるいは個人の意図を越えた何かが作用して、そのネットワークに齟齬をもたらすような何らかの要素をも持つようになる。どんなに対人関係のスキルに秀でた人でもそうなのだ。われわれは偶然の作用から逃れることはできない。私はこの作品をそれほど上等のものとは思わないけれど、「人生ってな、ひどいものだな」という感慨にはまったく同意する。

2015年11月14日土曜日

22 A.C.フォックス・デイヴィス 「モーレブラー家殺人事件」 

The Mauleverer Murders (1907) by A. C. Fox-Davies (1871-1928)

モーレブラー大佐は二十年にわたるインド勤務を終え、とうとうロンドンに戻ってきた。これからは悠々自適の引退生活を送ることになっていた。彼は相当におおらかな性格であるらしい。財産はかなりある。しかし彼にはお金の管理がさっぱりできず、法律にもうとい。弁護士から、この書類にサインを、と言われると、中身をあらためもせずに署名してしまうような人間だ。

この男の身に不思議な事件がふりかかる。彼には五人の子供がいるのだが、それが次々と殺されていくのである。長男で二十九歳のジャックは射殺され、ハーバートは喉をかききられ、ヘンリーは川で死体が発見され、ジョージも撃ち殺された。これらの殺人は一カ月おきの三十日に繰り返され、死体の首にはロープが巻かれているという特徴があった。

モーレブラー大佐は大慌てである。この調子でいくと、まだイートンに通っている末息子のアンソニーが次の三十日に殺されてしまう。そこで彼は名探偵デニス・ヤードレーを雇い、息子の安全を確保しようとする。

デニス・ヤードレーはもちろんアンソニーを絶対安全な場所に移して守ることもできたのだが、それではいつまでたっても犯人を捕らえることが出来ず、殺害の危険を逃れる根本的な解決策にはならないと考え、わざと犯人をおびきよせ、彼あるいは彼女を捕まえようとする。彼らはアンソニーを学校からモーレブラー家の屋敷へと連れて行き、周囲をヤードレーの部下や警官や番犬たちで堅固にかためた。

ところがこの犯人はただ者ではなかった。犯人は毒やら拳銃でアンソニーを殺そうとし、そのいずれの試みにも失敗するのだが、探偵や警察の猛烈な追跡を軽々とかわして姿を消してしまうのである。走るのも速いし、自転車も競輪選手並みにあやつるし、乗りながら後ろを振り返って銃で追ってくる犬を撃つのだから、超人的である。

探偵のデニス・ヤードレーはモーレブラー家に何か秘密があって、それが事件を解く鍵になるのではないかと考えた。その結果見つけたのが、驚くべき事実だった。なんと母方の家系をたどると五人の息子は正真正銘モーリタニアという国の王位を継ぐ資格を持っていたのである。

この作者は紋章学の研究家で、なるほどその手の専門家らしい想像力を展開しているが、しかしどうだろう。モーレブラー大佐がいくらおおざっぱな人だからといって、王族の末裔が自分たちの身分にまるで気づいていないなんてことがあるのだろうか。

この家系調査で判明したもう一つの重要な事実は、もしも五人の息子が死んだとすれば、彼らの従姉妹にあたるメリオネス公爵夫人がモーリタニアの王位を継ぐ正当な継承者になるということだ。

若くして未亡人になったメリオネス公爵夫人はじつに胆力のある傑物で、変装を用いて二人(あるいは三人)の人物を演じ分けていた驚くべき女性である。そして警察は彼女が直接手をくだしたのではないにしろ、連続殺人事件の首謀者ではないかと考える。つまり王位を継承するためにモーレブラー大佐の息子たちを殺していったのではないか、と。

このあとはメリオネス公爵夫人に雇われた辣腕弁護士テンペストと、なぜかデニス・ヤードレーが協力して真犯人を捜し出すという展開になるのだが、いやはや、これは世紀末から二十世紀初頭にかけて書かれた典型的な探偵物語、最後の最後までメロドラマチックな仕掛けが施された作品である。

犯人が物語の最終盤に入ってようやく捜査線上にあらわれるというのはミステリ・ファンとしては残念だが、詳細に描かれる二つの裁判の場面は悪くないと思った。殺人未遂で捕まったウエッブが弁護士の助けを借りずに自分で自分の弁護をし、証拠として提出された物品から見事な推理を展開する場面や、メリオネス公爵夫人の弁護士テンペストが、検察の主張をことごとく粉砕していくあたりはなかなか迫力もあり痛快でもある。ウエッブがベルトの穴の位置から、これを着ていたのは女であって、おれにはとうてい着られないと主張するあたりは、O.J.シンプソン裁判の手袋を思い出させる。今も昔も検察はこんな単純なことすらチェックをおこたっているのである。

作者はブリストル生まれの法廷弁護士であり、すでに述べたように紋章学の研究者でもある。ウィキペディアによると十四歳の時に教師を殴って放校処分になり、その後正規の教育は受けていないが、リンカーンズ・イン(法曹学院)に入学を認められ弁護士になったのだそうだ。ミステリも数冊書いており、後にはホルボーン自治区議長に選ばれている。

2015年11月11日水曜日

21 アンソニー・アボット 「驚いた女」 

About the Murder of a Startled Lady (1936) by Anthony Abbot (1893-1952)

アンソニー・アボットは筆名で、本名はチャールズ・フルトン・アウズラー (Charles Fulton Oursler)。私が一時住んでいたボルチモア生まれのジャーナリストである。アンソニー・アボットはじつは本編に登場するニューヨーク警察の本部長サッチャー・コルトの秘書である。秘書が間近で見たサッチャー・コルトの活躍を小説化して発表しているという体裁を取っている。

本編には序文がついていて、そこにアンソニー・アボットがこんな一節を書き付けている。
こと巧妙な犯罪に関しては、警察はまったくの無力であるという、ロマンチックな誤解を抱いている人々が存在する。実際、我が国の警察を軽蔑しあざける人々は大勢いる。短編小説から長編小説に至るまで、不可解な犯罪はただ明敏なる素人によってのみ解決されうる、というような印象を彼らに与えようとしているようだ。
「ロマンチックな誤解」という言い方はなかなか面白い。ロマン主義が天才をもてはやしたように、十九世紀後半から書かれるようになった探偵談は、科学、化学、天文学、音楽、チェス、ワインなどさまざまな分野にわたる専門知識を有し、捜査中に謎めいた台詞を吐き、最後に優雅な指で犯人を指し示す、神の如き名探偵をヒーローにした。しかしアンソニー・アボットはそんな探偵など現実には存在しないと言う。現実の犯罪を解決しているのは警察である。彼らは組織力、忍耐、献身的努力、多少のひらめき、そしてたまに訪れる幸運によって事件を解決するのだ……というようなことを彼は序文で書いている。彼は「名探偵/警察」という対立を批判し転倒させている。しかしながら「驚いた女」の印象はあくまでも古いタイプの物語だ。十九世紀後半から一九二十年代、三十年代ころまでつづいた古い探偵談の中にある「名探偵/警察」という対立はひっくり返しているが、古い探偵談の枠組み自体は壊していないのである。名探偵の位置に警察が来ただけである。本書に近代的なミステリを期待してはいけない。

しかしこの作者は文章が上手で物語がテンポよく進む。

まず冒頭、霊媒師がインチキ興業をやったということで逮捕される。とたんにギルマンという教授が警察に飛んできて、この霊媒師はニセ者じゃない、彼女は殺人事件の被害者の霊を呼び出そうとしていただけだと言う。教授のかつての親友だった本部長コルトは、面白いとばかりに霊媒師に降霊会を開かせる。殺された女の霊に乗り移られた霊媒師は、「自分の死体はフェアランド・ビーチ百ヤード沖の海底に、箱に詰められて沈んでいる」などと言う。コルトはダイバーを派遣して海底を探らせると、本当にばらばらの骨が詰まった箱が見つかった。

コルトは箱やら箱の中にあった衣服、装飾品、頭蓋骨などを手掛かりに捜査を開始する。我々が知っている警察物はなかなか捜査が進展しないが、この作品ではたちどころに衣服から死体の正体が判明し、頭蓋骨から生きていたときの顔が精密に復元されてしまう。ニューヨークの警察が優秀なのか、幸運に恵まれすぎているのか知らないが、とにかくとんとん拍子に捜査は進展して、被害者の家族が判明し、容疑者が浮かび上がる。地区検事長、有力政治家などによる捜査の妨害も含めて結構楽しく読める。

私は以前から the third degree とはどんなことをやるのだろうと思っていた。この本では容疑者アルフレッド・ケプリンガーがこの厳しい取り調べを受けている。それによると
アルフレッド・ケプリンガーを殴るようなことは誰もしない。物理的暴力は最悪の犯罪者に対してのみ用いられる……。アルフレッド・ケプリンガーのような男に対してはいかなる物理的な暴力も用いず、長時間にわたる尋問という精神的な拷問を用いる。食べ物や飲み物が与えられなかったり、肉体的な要求が否定されたりすることはない。そういう話は大抵嘘だ。しかしケプリンガーは一晩中寝かされず、質問をされ、答えなければならない。すでに彼が答を返した質問も何度も繰り返される……。彼の証言の矛盾、言葉遣いの違いはことごとくチェックされ、厳しい疑いの目で以て矛盾、食い違いの理由をただされる。さらに彼は心理的な攻撃にもさらされる。ある尋問者は彼をいじめ、別の尋問者はやさしく、友人のように話しかける。これらはすべて彼を罠に掛けるためのものである。確かに残酷だが、しかし私はこれが必要だと考える。
フィクションに書かれていることだから、これが the third degree の実態であったとはとうてい言えないが、それにしてもひどいやり方である。一晩中寝かさないでおいて、「肉体的な要求が否定されたりすることはない」などとよく言えたものだ。こんなことをされたらいくらでも警察の誘導にひっかかる。もちろん物的証拠がなければ陪審は容疑者を無罪にするだろうけど。

2015年11月7日土曜日

番外4 セルフ・パブリッシングについて

1 私の作品は私の死後すぐパブリック・ドメインに

著作権法では作者の死後五十年以上を経過してはじめてその著作物はパブリック・ドメイン入りする。TPPが成立すればそれは七十年以上ということになる。

私は遺言として次のことを明記している。すなわち私がアマゾンから出した本は私の死後すみやかに販売停止にし、パブリック・ドメイン入りさせることを。残念ながら日本には受け入れ先がないようなので、米国やカナダやオーストラリアなどのプロジェクト・グーテンバーグに作品を送ることになるけれど。

生きている間は自分の作品から収入を得たい。しかし死んでしまったら作品がいわゆるオーファン化する前にさっさとパブリック・ドメインに登録してしまいたいという人は結構いるのではないだろうか。クリエイティブ・コモンズなどでそうした仕組みを作ってくれるとありがたいが、法律上の問題もいろいろとありそうだ。それなら自分でやってしまおうと思ったのである。

もしも癌を宣告され余命数ケ月などと言われたら、人の手をわずらわさずにさっさと自分で手続きを取る。事故で突然なくなった場合でも家人が手続きを取れるように普段から準備をしている。

2 できるかぎり未訳作品を

私が出すものはほとんどが未訳の作品である。すでに翻訳が出ているものはよっぽどのことがないかぎり訳出しない。

既訳のもので私が訳し直したのはマリー・ベロック・ローンズの「下宿人」だけである。これはたしかハヤカワのポケットミステリから古い訳が出ていたのだが、それがひどいものでわけのわからない文章で書かれている。英語もよくわからないし、日本語を書くこともできない人の翻訳である。「下宿人」は切り裂きジャックの事件をもとに書かれた出色の心理サスペンス小説で、ヒッチコック以降何度映画化されたかわからない。このすぐれた作品がでたらめな日本語で訳されていることは私としては耐えられなかった。私は文章家ではないが、それでもあの翻訳よりはまともな文章が書けると思い、思い切って訳し直した。

アーノルド・ベネットの「グランド・バビロン・ホテル」も訳そうかな、と思っている。私は文豪や大詩人が余技に書いた娯楽作品が大好きだ。グレアム・グレーンや、サマセット・モームや、セシル・デイ=ルイスや、最近ではジュリアン・バーンズやジョン・バンヴィルのミステリやサスペンス、スパイ物は実に楽しい。ベネットもファンタジーと称してその手の物を書いており、それも非常にすぐれたものだ。「グランド・バビロン・ホテル」は一九三九年に平田禿木が訳しているが、いささか訳が古いし、入手も困難だ。それなら私が……とも思っている。しかしなぜ私が文豪・大詩人の娯楽作品が好きかといえば、その文章が見事だからである。翻って自分の文章はどうかというと……。そう、そこがいちばんの私の悩みどころなのである。

3 宣伝活動

「ハウ・ツー・セルフ・パブリッシュ」みたいな本を読むとソーシャル・メディアを利用して宣伝しろと書いてあるが、私は面倒くさくてそんなことはしない。売れたら嬉しいが、営業活動まではものぐさで手が回らない。たまたま私の本のレビューをしている人を見つけたらお礼を書くが、メールのチェックはパスワードの入力がわずらわしいし、携帯はうるさいから持たない。しかし物を書くのは好きなのでブログはつける。宣伝活動はそれだけである。当然人に知られることはなく、売れ行きもたいしたことはない。「オードリー夫人の秘密」が例外的に売れたのは、どうもどこかの大学の講義で「オードリー夫人の秘密」が扱われたかららしい。原作を読む手助けとして学生が安い私の本を買ってくれたのだろう。

4 あくまで自分が気に入った本を出す


どういう本を選んで翻訳するのか。まず長編で、ジャンルはミステリ関係中心。もちろん一般の文学作品、たとえばヴィクトリア朝時代の小説(ベンジャミン・ディズレーリの政治小説とか、カスバート・M・ビードの「ミスタ・ヴァーダント・グリーン」とか、アンソニー・トロロープの The Way We Live Now など)には食指が動かないわけではない。でもなぜかゴシック小説やセンセーション・ノヴェルやダイム・ノヴェルのほうを先に訳したくなる。

しかしミステリ小説だったらなんでも訳すかというと、そんなことはない。知的な刺激のない凡庸な作品は、百万円を積まれたって訳せない。

翻訳業がいかなるものか、知らないけれど、もしもそれがクライアントから提示された本をとにかく訳す仕事であるとしたら、私にはできない。自分で読んでそこに刺激や価値の見いだせない作品などは訳せない。自分と作品の間にある種の緊密な関係が築けない場合は、翻訳はできない。訳しても訳文が自分の一部として感じ取れない。そんな文章は書きたくない。

私のレビューにフロイトやラカンの名前がよく出てくるのは、私と作品との関係が一種 transferential な関係だからかもしれない。私はこの作品の中には絶対的な真実がある、と思えないとその作品にかかわることができないのである。

またある原作に魅了されたからといって、すぐその作品が訳せるわけでもない。前回の番外編では私の翻訳作品エリック・ナイト作「黒に賭ければ赤が」を紹介した。その中で冒頭の文章を引用し、語り手が「おれにはわかっていた」を繰り返し使うことに言及した。私はなぜ「わかっていた」と繰り返すのか、それがわからなかった。すると途端に訳文が書けなくなって、作業は中断した。私は原作を読み返し、とうとうこの作品にはフィクションの場がいくつか存在しているのだ、という解釈にたどり着いた。(詳しくは前回の番外編か、キンドル版の後書きを見て欲しい)それでようやく翻訳がつづけられるようになった。

「オードリー夫人の秘密」の場合もそうだった。あの作品の冒頭には館の前に建つ時計塔の印象的な描写があるのだが、なぜあれが私の意識にひっかかるのか、それがわからなかった。そのために七年くらい翻訳には取りかかれなかったのだ。しかしラカンの対象aの議論を迂回してそれが理解できたとき、はじめて私は自分の訳文をつくる準備が出来たと思った。

ゴシック小説の名作「ユドルフォの謎」も訳したいが、まだ作品をつかみきっていない。試しに訳文をつくってみたりしているが、どうしても歯が浮くような文章しか書けない。

2015年11月4日水曜日

20 A.E.フィールディング 「牧師館にて」 

At the Rectory (1937) by A. E. Fielding (1900-?)

A.E.フィールディングはミステリの黄金期に活躍した作者としてよく知られているが、不思議なことに女流作家であるということ以外、どういう人だったのか、伝記的な事実はあまりわからないらしい。Hathi Trust Digital Library のカタログ・レコードによると生年は一九〇〇年だが、没年は不明である。

本書はタイトルこそ素っ気ないが、当時書かれた典型的な本格もののひとつである。まず序盤で二つの殺人事件が起き、中盤はスコットランド・ヤードによるやや退屈な捜査が展開する。退屈というのは、警察による事件関係者への尋問・取り調べが淡々とつづくからである。こういうのを読むと、最初にレビューしたキャロリン・ウエルズの The Clue などは、こういう部分をうまく処理しているな、と思う。しかし終盤は収束に向けてふたたび盛り上がりを見せる。レッド・ヘリングもたっぷりばらまかれ、犯人の意外性は申し分ない。容疑者は全員女性で、私もこの人が犯人ではないかとあたりをつけていたけれど、彼女を疑う確たる根拠があったわけではない。しかしポインター警部はさすがで、彼女の行為や証言のおかしさに気がついていた。思わず、そこまでは気づかなかったなあ、と嘆息してしまったけれど、こういうふうにうまく騙されるのは快感である。ただしポインター警部の推理はほとんどの場合、演繹的と言うより、直感的に事実を総合していくものだ。

ちょっと気になったこともいくつかある。その第一は、物語の視点に一貫性がないことだ。物語のほとんどはポインター警部の視点で書かれているのに、章の終わりなどでひょこっとそれを離れ、警部のあずかり知らぬ場面が短く描き出される。この書き方にはさすがに違和感を覚える。書き手の作為性があまりにも露骨である。第二に文章がぱさぱさとしていて味気ない。しかし少し前にレビューした The Black Pigeon のヒステリックな、ほとんど錯乱した文章よりは、無機質な文章のほうがましであるけれど。人物も、オリーブ・ヒルという特異なキャラクターを除けば、その描写はやや平板で、後半に「~という振る舞いは~夫人らしい」というような表現が、たしか二つほど出てくるのだが、いずれの場合もその人物の性格がうまく描出されていないために、読んでもすとんと納得する感じがない。

要するにフィールディングは、文章は素人だが、アイデアだけはあるという、ミステリ作家にありがちなタイプの人なのだろう。

物語は二つの事件からはじまる。まず、アンソニー・レベルという金持ちで、やたらと女にもてる独身男性が自分の屋敷内で死んでいるのが発見される。状況から見て、銃の手入れをしている最中に誤って自分を撃ってしまったらしい。

つぎに牧師館に住む牧師ジョン・エーブリーが毒キノコを食べて死んでしまう。これも事故死ではないかと思われたのだが、スコットランド・ヤードのポインター警部は、この二つの事件がいずれも殺人事件であって、両者のあいだに関係があることを突き止める。簡単に言うと、牧師がたまたまある証拠を手に入れアンソニー殺しの犯人を知り、それが故に彼は毒殺されたのである。

アンソニー殺しの犯人を示す証拠。それが手に入れば事件は一挙に解決するが、なかなか見つからない。牧師を毒殺したあと、犯人もその重要手掛かりを取り返そうとしたはずなのだが、状況から判断するに、犯人もそれを発見することができなかったようだ。ポインター警部は推理によってそれを見事に探し当て、事件を解決して見せる。私もそれを読んで、「ああ、隠し場所はそこだったのか」と稚気に充ちた作者のアイデアに感心した。

もう一つ感心したのはオリーブ・ヒルの人物造形である。先ほど人物の描写は平板だと書いたが、オリーブだけは奇妙に立体感がある。彼女は牧師の妹グレースの付き人(コンパニオン)で、アンソニーの婚約者だったのだが、彼が死んでも少しも悲しまない。また神を否定しヒッピー風の生活を唱道するバードという男から強い影響を受ける。ものをくすねる癖があり、あまり教養があるとは思えないが妙に行動的で、悪知恵のはたらく娘だ。古い世代からすると、何を考えているのかわからない現代っ子ということになるのだろうか。しかしなにかしら現状に満足できず、外の世界に飛び出していきたいという衝動に突き動かされる、がむしゃらな若者の姿がかなりうまく描き出されていると思う。

2015年11月1日日曜日

19 ハーマン・ランドン 「後部座席殺人事件」 

The Back-Seat Murder (1931) by Herman Landon (1882‐1960)

中産階級の娯楽として小説が書かれるようになった初期の頃は、まず主人公の家系を説明し、次に主人公の生い立ちを説明し、さらに住んでいる場所の説明をし……というように背景が詳しく描かれ、ゆるゆると物語が展開した。十九世紀も後半に入ると、そういう書き方がまだるっこしく感じられるようになり、まず冒頭で事件(アクション)を描いて読者の注意を惹き、それが一段落ついてから物語の背景を説明するという手法が生み出された。二十世紀に入ると、事件のあとに事件が起き、さらにまた事件が起きと、なかなか物語の背景が説明されない物語も書かれるようになった。このレビューの第二回で扱った「殺人騒動」がいい例である。「後部座席殺人事件」もこの手法を用いていて、全部で二百八十ページほどある作品の、二百ページあたりにきて読者はようやく何が起きているのか、わかるようになる。

何が起きているかわからないからといって、その物語が面白くないわけではない。いや、わからないからこそ、面白い事件(アクション)が次々と展開しなければならない。状況がどうなっているのかわからず、しかも事件が退屈だったら、読者は本を投げ出してしまうからである。

「後部座席殺人事件」はマーシュという男の家の地下室で、住み込みの秘書のハリントンが真夜中に竈から灰を取り出すという奇妙な場面からはじまる。ハリントンは雇い主がムアランドという男を殺し、死体をこの竈で処分したと考え、その手掛かりを探していたのである。そこへ看護婦のラニヤードが突然あらわれる。ラニヤードはマーシュの病気の奥さんの付き人をしている。
 ラニヤード「何をしているの」
 ハリントン「ああ……飾りピンを落としてね」
 ラニヤード「へたな言い訳ね。ムアランドはここで殺されたんだと思う?」
 ハリントン「な、なんだと! き、きみはだれなんだ?」
 ラニヤード「ムアランドはこの家に来てそのあと行方不明。ここで殺されたみたいね」
 ハリントン「ああ、そうだよ」
 ラニヤード「灰の中に何か見つけた?」
 ハリントン「金歯を一本」
 ラニヤード「どう、あなた、わたしを信用して手を組まない?」
 ハリントン「いいだろう。あんたの秘密を探ったり、おれの秘密を話してあんたを退屈させたりはしないぜ」
 ラニヤード「じゃ、わたしたちはパートナーね。あら、あの音はなに?」
というように、正体不明の秘書と看護婦は謎めいた会話を交わす。マーシュやムアランドがいかなる人物なのか、なぜ前者は後者を殺したのか、ハリソンとラニヤードは何を目的にマーシュの家に潜入したのか、そうした説明はまったくないけれど、真夜中の地下室で死体の痕跡を探すという、いかにもパルプ小説っぽいこの出だしはなかなか雰囲気があって魅力的である。このあと第二章からは、たたみかけるようにアクションが展開され、息を継ぐ暇も……いや、タブレットを置く暇もないくらいだ。

「後部座席殺人事件」は一種の不可能犯罪を扱っている。ハリントンは翌日雇い主の命令で検察官の家へ一人車を飛ばす。ところがその途中の森の中で突然車の後部座席に雇い主のマーシュが姿をあらわしたのである! いったい彼はどこから車の中に入ってきたのか。途中で寄った修理店では係員が後部座席のドアを開けてバッテリーを交換したのだ。マーシュが隠れていたならそのときわかったはずなのに。

それだけではない。その直後にもう一つ不可解なことが起きる。秘書のおかしな行動に気づいていたマーシュは、後部座席から彼に銃を突きつけるのだが、ある瞬間急に悲鳴をあげたかと思うとがくりと首を垂れ、死んでしまったのである。見ると首から血が滴っていた。しかし車はドアも窓もすべて閉まっていて、いわば密室状態だった。いったい誰がどうやってマーシュを殺したのか。

事件の全体像は二百ページに至るまでなかなかつかめないが、矢継ぎ早に繰り出されるアクションシーンと、この二つの強烈な謎が読者の興味をがっちりとつかんではなさない。ついでに言っておくと、二つの謎は意外な、しかし合理的な解決が与えられる。手掛かりもちゃんと与えられていて、細心に読めば変装のトリックも見破れるようになっている。パルプ小説と言ってあなどることなかれ。ミステリとしても相当に力の入ったいい作品なのだ。

登場人物もそれぞれに癖があって楽しい。とりわけ小男のターキンがいい味を出している。彼はハリントンを脅して金を取ろうとするケチな脅迫者なのだが、いつも逆にハリントンに蹴飛ばされてひどい目に遭う。また検察官ホイッテカーとその部下ストームのコンビもなかなか面白い。ホイッテカーはおそろしく頭の切れる男で、本編においては探偵役をつとめるのだが、ストームとしゃべるときだけはなんだか調子がおかしくなるのである。緊張感ただよう物語にコミック・リリーフが適度に織り込まれ、私は久しぶりに上質のパルプ小説を堪能した。

このレビューをはじめてこれが十九作目。最初の十作のうちではエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」が群を抜いた出来だったが、次の十作のうちでは本作が圧倒的に面白かった。ネットで調べるとまったく無名の作品のようだが、とんでもない話である。充分再評価に価する。

2015年10月28日水曜日

18 R.A.J.ウオーリング 「奇怪な目をした死体」 

The Corpse With the Eerie Eye (1942) by R. A. J. Walling (1869-1949)

タイトルの「奇怪な目」というのは、殺された男の瞳孔が収縮していて点のようになっていたことを指している。それだけでピンと来る人もあるだろうが、彼は殺される前に薬物を服用させられていたのである。

物語はイギリスのキャッスル=ディナスという小さな町を舞台に展開する。ここにローウェルという金持ちの一家が住んでいた。父と母と娘の三人家族で、娘のキャサリンはブルース・ジャーディーンという若者と結婚することになっていた。

キャサンリンとジャーディーンの交際がつづいているときに、アンソニー・ベレズフォードという男がこの町に移り住んできた。今まで世界をあちこち旅していたようだが、彼は過去を忘れたいと自分の生い立ちについては多くを語りたがらず、人々からは「謎の男」を呼ばれるようになる。

この男が町に来てから、ローウェル一家の様子がおかしくなる。そのことにいちばん敏感に気づいたのは娘のフィアンセのジャーディーンだ。キャサリンの父母は急にむっつりと話をしなくなり、キャサリンももうジャーディーンのことなど眼中にないような態度を取る。結婚が反故になりはしないかと不安になったジャーディーンはまわりの人と相談の結果、秘密を探らせるならこの男の右に出るものはないといわれる、探偵のトールフリーを呼ぶことにする。

探偵のトールフリーは、ローウェル一家と、謎の男ベレズフォードのあいだには何らかの関係が隠されていると考える。極端にナイーブな性格のジャーディーンにはそれがわからないようだけれど、ローウェルの友人たち、たとえばローウェル夫人の兄であるマッパーレイ博士などはかなり詳しく事情を知っているようだ。しかしローウェル一家はもちろん、マッパーレイ博士も、探偵のトールフリーになにも説明しようとしない。

そんなときにベレズフォードが死体となって発見された。発見したのはトールフリーとジャーディーンである。トールフリーはこのとき死体を見て、その目が点のようになっていることに気づくのだ。

この作品では、殺人がどこで、いつごろ行われたかということは、ほぼ確実にわかっている。また殺された男がローウェル一家を脅迫していたことも、マッパーレイ博士らが事件に大きく関与していることもわかっている。しかしいくらトールフリーが尋ねても、ローウェル一家とその関係者たちは、スキャンダルを怖れて一切の事実を口にしない。警察の捜査にも非協力的で、スコットランド・ヤードが乗り出してきて、ローウェル一家を威嚇するように尋問しても固く口を閉ざしたままなのだ。それどころかいろいろと細工をして捜査を攪乱させようとまでする。

探偵のトールフリーは数少ない手掛かりを頼りにローウェル一家と殺された男の接点を探り、かつまた捜査を攪乱するための工作を鋭い洞察力で見破っていく。

この作品を読んで二つの点が印象に残った。一つは探偵の優しさである。新聞ネタ、週刊誌ネタになることを怖れて事件のもみ消しをはかるというのはよくあることだが、それにしてもマッパーレイ博士らの隠蔽工作はいささかえげつない。にもかかわらずトールフリーはジャーディーンやローウェル一家の心情を察して、スキャンダルが表沙汰にならないような形で事件を解決しようとするのだ。彼自身も上流階級に属するから、彼らの気持ちがよくわかるのであろう。そして実際事件は、偶然の力も大きく作用して、「戸棚の中の骸骨」をさらすことなくスコットランド・ヤードによって一応の解決を見る。しかもイギリスはヒトラーに最後通牒を出し、新聞はもう地方のスキャンダルなどには目もくれない情勢になるのだ。

二つ目は警察の優秀さに対する認識が見られることだ。物語の最後でローウェル一家とその関係者たちは、自分たちに疑いの目を向けていたスコットランド・ヤードが別の人間(真犯人)に注目するようになりほっと胸をなで下ろす。しかしスコットランド・ヤードは、彼らが犯罪に関わっていたことをちゃんと突き止めていたのである。頭のいいマッパーレイ博士がどれほど巧妙な工作をしても、スコットランド・ヤードには通用しなかった。地元の警察ですら、ある部分においては、探偵のトールフリーと同じか、それ以上の捜査能力を発揮するのである。トールフリーもそれを見て、警察の力をみくびってはいけないと何度も言っている。なるほど真実を完全に把握したのはトールフリーのほうが先かもしれないが、スコットランド・ヤードも負けてはいないのだ。まことに官僚機構の情報収集能力・情報処理能力は怖ろしい。たったひとつの指紋から芋づる式にありとあらゆる情報が引き出されるようでは、神の如き英知を持つ私立探偵も出番がなくなるではないか。

第二次世界大戦から冷戦へとつづく歴史の流れの中で、エリック・アンブラーやヘレン・マッキネスなどによってすぐれたスパイ小説が書かれるようになるが、われわれはこのあたりから国家の情報ハンドリング能力の優秀さに目覚めはじめたのかもしれない。

2015年10月24日土曜日

17 ハーバート・アダムズ 「ユダの接吻」 

The Judas Kiss (1955) by Herbert Adams (1874--1958)

上等なミステリが与える快楽は、subversive な快楽である。もっとも犯人とは思えない人間が、演繹的な論理によって犯人であることが決定的に証明される。本来なら両立し得ない反対物が、同一のものとして提示されることくらい subversive な事態はないだろう。

これは十九世紀半ばに発表された「オードリー夫人の秘密」から延々と伝承されてきたミステリ小説の特徴である。「オードリー夫人の秘密」においては、まさしく「家庭の天使」、つまりヴィクトリア朝時代に理想とされた婦徳を有する女性が、殺人を犯すことも怖れぬ毒婦であったことが暴露される。作者のメアリ・ブラッドンは、「家庭の天使」とその反対物が同時に存在しうることを示すことで、前者の観念にはある種のひびが走っていることを明らかにした。

さて本編「ユダの接吻」だが、この最終章ではある登場人物が事件を振り返って次のような教訓を垂れている。

 多くの女性は「自分の人生なんだもの、好きなことをしたっていいはずだわ」と思っている。それは間違いだわ。彼らはその間違った人生を他の人に引き継がせてしまう。彼らに子供があったら、なんとも不思議な具合に彼らの悪の種が子供に植えつけられてしまうのよ。そういうことがわかれば彼らも自分の行いに気をつけるようになるんでしょうけど。

なんとも道徳的で保守的な台詞だが、「ユダの接吻」はこういう教訓にふさわしい、subversive なところなど微塵もない、いかにも犯人らしい犯人が最後に捕まる物語である。これはミステリではなくて、あくまで教訓談として読むべきものだろう。それもあまり質のよくない教訓談として。ついでにいうと「ユダの接吻」というタイトルは聖書から取られている。

しかし前半部分、人々の非道徳的振る舞いが次々と明らかにされるところは読んでいて面白い。事件はイングランド東部のサフォーク州ベックフォードという村で起きる。ここにマイケルモアという一家が住んでいる。母親は亡くなり、父親は放浪の旅に出かけ、家にいるのは四人の子供たちだけである。しかし子供といってももう二十代のいい大人だ。彼らはガーネット(長男 牧師)、ジャスパー(次男 画家)、エメラルド(長女 作家)、パール(次女)とすべて宝石の名前がつけられている。そこに父親のジョージがフランスのサン=マロから、なんと新しいお嫁さんを連れて帰ってくるのだ。しかも子供たちとほとんど年の変わらないフランス美人である。

これはなんとも気まずい状況である。父親は年若い、美しい嫁さんを得てご満悦だろうが、子供からすれば継母とどう接すればいいのか、その距離の取り方が難しい。いちばん年下のパールは新しい母親に好意を寄せ、画家のジャスパーはさっそく彼女にモデルになってもらい、父親の目を盗んで彼女に手を出そうとしたりする。しかし長男と長女はよそよそしい態度を取る。

父親は新婚生活を長く楽しむことができなかった。あっけなく交通事故で死んでしまったからである。この作品が面白くなるのはここからだ。まず父親の遺書が読み上げられた。それによると財産はすべて新しい妻に与えられることになる。子供たちは結婚するときに五千ポンドを与えられる。ただしその結婚は新しい妻が承認するものでなければならない。

もちろん子供たちは不満だろう。自分たちとおなじ年齢の女に自分たちの財産を押さえられているようなものだから。子供たちと新しい母親は激しく対立する。

そんなときに画家のジャスパーは自分の絵を売りに、父親と継母が結婚式をあげたというフランスのサン=マロへ行き、偶然にも二人が正式な結婚をしていないことを知る。髪結いの奥さんだった女を、父親が略奪してイギリスに連れてきただけなのだ。ジャスパーは髪結いの亭主に会い、彼が持っている奥さんの写真を見て、それが父親の新しい妻と同一人物であることを確認する。

ジャスパーが家に帰ってから子供たちはその事実を母親に突きつけるのだが、やりこめられた母親のほうも反撃に出る。彼女は子供たちにむかって、父親は最初の妻とも正式には結婚していなかったのだ、あなたがたは不義の子供たちなのである、と父親本人から聞いた秘密をぶちまけたのだ。

不道徳な私はこれを読んで手を打って喜んでしまった。なるほど、このおやじ、二回とも正式な結婚をしていなかったのか。しかしそれでよくばれなかったものだ。子供が生まれたときに届け出とかしなくてもよかったのだろうか。そういえば、Fear Stalks the Village の中にも正式な結婚をしていない夫婦が出てきたな。二十世紀前半のイギリスではそういうことがままあったのかな……。などと、いろいろなことを考えて愉しんだ。

このあとは母親が毒殺され、さあ、犯人は誰だ、ということになるのだが、最初に述べたようにこの部分はもう私にとってはどうでもいい。

2015年10月17日土曜日

16 アン・オースチン 「黒い鳩」 

The Black Pigeon (1930) by Anne Austin (1895-1960)

谷崎潤一郎の「文章読本」は、舞台俳優の演技を例に取り、効果的な表現というのは大げさな所作を演ずることではなく、逆に藝を内輪に引き締めることによって得られると説いている。その上で文章を書くときの心得として、無駄な形容詞や副詞を使わないよう注意を呼びかけている。

これはアン・オースチンに薬にしてもらいたいような言葉である。とにかくこの人の文章はひどい。頭がくらくらする。本来なら最初の一ページで読むのをやめるところだが、本邦未訳ミステリを百冊レビューするまでは愚作も最後まで読もうと決めたから仕方がない。

この作品は次のような表現のオンパレードである。

マクマン部長刑事が鉛筆をこつこつと鳴らす音は、ルースの苦痛に充ちた、緩慢な鼓動の音に対する不吉な伴奏音となった。

あるいは

ルースは低く押し殺されたような悲鳴をあげ、彼女の恋人は腕を伸ばしてその震える小さな身体を強くいつくしむように抱きしめた。

さらにまた

「やめてちょうだい、ジャック!」とルースは懇願した。その声は哀れなまでに恐怖に震えていた。

こういう調子の文章が目白押しで、私はいい加減にしろと怒鳴りたくなった。

このヒステリックな文体にふさわしく登場人物たちもやたらと「度を失い」、「かっとなって目の前に赤いもやがたちこめ」、「青ざめて両手を握りしめ」たりする。ヒロインであるルースは優秀な弁護士だった父の血をひいているわりに、衝動的で、すぐに動転し、金切り声をあげる。彼女の恋人で保険を売っているジャックも冷静さに欠けている。マクマン部長刑事はとくにひどい。彼は粗暴なだけで知性をひとかけらも持っていないようだ。彼は殺人事件の起きたビジネス・オフィスで関係者の取り調べを行うのだが、尋問する相手が多くなり、部屋が手狭になってくると、まだ死体が横たわっている部屋に移って取り調べを続行するのである。エレベーター・ボーイを務める若い男二人が呼び出し応じて彼のもとに来たとき、部長刑事は「おまえらに一生忘れらないものを見せてやるぜ」といって死体のある部屋に彼らを連れて行くのだ。いくらなんでもこんなめちゃくちゃな警察はないだろう。しかも彼の上司はさらにひどい。誰でもいいからパクれ、真実を探るのはそのあとだ、というのがモットーだからである。警察が類型的・戯画的に描かれるのは仕方がないけれど、それにしてもこれは行き過ぎている。

おそらく途中までできた原稿を誰かが――エージェントとか近親者が――読んで作者に注意をしたのだろう。半分を過ぎた頃から過剰な文章は「ほんのすこしだけ」抑制的になり、それとともに登場人物たちも「やや」理性的に振る舞うようになる。しかしそれでも読むのは苦痛だった。あるオフィス・ビルディングで殺人事件が起き、そのあとは延々と最後まで警察の尋問がつづけられるのだが、話に緩急がなく、一本調子でその様子が描かれるため、読むほうは絶え間なく情報の処理をせまられ、だんだん疲れてくるのである。情報の流れや緊張の持続は上手にコントロールしないと、読者に過度の負担がかかるという格好の例である。要するにこの作者は基本的な小説の書き方を知らない。

この作品によい部分がないというわけではない。エレベーターに乗った時間、オフィスに入った時間、オフィスから電話をした時間など、いささか細かい事実がいくつも、何度も議論されるのは煩瑣で仕方がないけれども、新しい事実がわかるたびに容疑者がころころと変わるあたりはそれなりに面白いし、犯人も意表を突いている。ビルの屋上に棲んでいる「鳩」たちが事件の中で果たす役割も悪くはない。しかし、繰り返すけれども、文体と構成がすべてをぶちこわしにしている。

また読んでいてふと気がついたことだけれど、殺人現場がオフィス・ビルディング、つまり近代建築物の中という設定はこの頃から用いられるようになったのではないだろうか。ジャンルは違うが、出版社のビルの中に死体が転がっているという出だしの、チャールズ・ウイリアムズ作 War in Heaven はやはり一九三〇年に書かれている。ウィキペディアによると、エクイッタブルという米国の保険会社が、引き出し付きの平らな机を並べた今風のオフィスを導入したのが一九一五年だそうだ。はたして二〇年代にもオフィス・ビルを舞台にしたミステリが書かれているだろうか。ちなみに近代的なホテルとなると文豪のアーノルド・ベネットが一九〇二年に「グランド・バビロン・ホテル」を書いている。立派なサスペンスの秀作である。

2015年10月14日水曜日

番外3 エリック・ナイト 「黒に賭ければ赤が」

You Play the Black and the Red Comes Up (1938) by Eric Knight (1897-1943)

アマゾンから出版


エリック・ナイトは「名犬ラッシー」の作者として知られているが、犯罪小説も一作書いている。それが本編で、ノワール文学の初期の傑作である。

1 あらすじ

オクラホマの炭鉱町の精錬所ではたらく「おれ」がある日勤務を終えて帰ってみるとレストランで働いているはずの妻がいなくなっていた。妻は夫の意地の悪さに嫌気がさして、とうとう一人息子を連れてハリウッドに逃げ出したのだ。

妻と息子を呼び戻そうと「おれ」は汽車で西海岸へ行く。着いてからは思いも寄らない冒険の連続だった。ハリウッドの大物映画監督ジェンターに出遭い、妻と接触しようとして失敗し警察に追われる。一文無しで腹を空かせていた「おれ」はチンピラから狂言強盗の相棒をつとめる話をもちかけられ、思わず乗ってしまう。しかし狂言はうまく行かず、「おれ」はふたたび警察に追われ、メイミとパットという二人の女性にかくまわれる。メイミとパットは一緒に住んでいたのだが、パットが出て行き、「おれ」はメイミと同棲生活をはじめる。

パットはこの作品で非常に大きな役割を果たす。彼女は映画監督ジェンターの支援を受けて半政治的、半宗教的団体エカナノミック・パーティーなるものを立ち上げるからである。「おれ」の感覚からすると、これはおよそ非現実的な政策を掲げた団体である。その核となる政策とは次のような単純なものだ。まず最初の週にすべての人に五ドルをわたす。ただし一週間以内に使ってしまうという条件で。次の週は六ドル。毎週、前の週より一ドルずつ多く渡す。そうすれば売上税が増え、増えた分を人々への支払いにまわし、それをまた一週間以内に使ってもらえば売上税が増え……という循環を形成しようというのである。この主張はなぜかカリフォルニアで急速に支持者を増やし、全国的な運動にまで展開していく。一九三〇年代にはエイミー・マクファーソンというカリスマ的な福音伝道者が実在したが、パットもマクファーソンとよく似た宗教活動をしながら、たちまちのうちに非凡な指導者に変身するのである。

パットとメイミがこの運動にのめりこむ一方で、「おれ」はシーラという不思議な金持ちの美少女に出会い、恋に陥る。そして「おれ」はシーラと結婚したいと思う。しかしメイミに別れ話をもちかけても拒否されるだけだ。そこで「おれ」はメイミを殺害する計画を練るのだが、なんとその計画にひっかかってシーラのほうが死んでしまうのだ。

「おれ」は殺人容疑で逮捕され、死刑を宣告される。ところが死刑執行の直前に映画監督のジェンターが「シーラを殺したのは自分である」というメモを残して自殺する。そのため「おれ」は急転直下釈放されることになる。

残りの部分はちょっとはしょるが、こんなふうに「おれ」は運命に翻弄され、ついには来たときと同じ無一文になって汽車でカリフォルニアを去る。

2 資本主義と負債

私はこの作品を読んでとりわけ二つの点に興味を覚えた。一つは貨幣と負債の観念の関係についてだ。

主人公の「おれ」は、オクラホマからカリフォルニアに来るとき、浮浪者たちの一群とともに有蓋貨車に閉じ込めらる。浮浪者たちの中にはマン・マウンテン・ディーンのようないかつい男がいて、他の浮浪者たちを支配し、「王さま」と呼ばれている。彼と浮浪者たちの関係は、露骨な暴力的支配と隷属をあらわしている。「王さま」が新聞を寄こせと言ったら、みんなは新聞を差し出さなければならない。(浮浪者たちは暖房のために新聞紙を体に巻き付けている)言うことを聞かなければ鉄拳制裁が待っている。「おれ」は王さまからコートを差し出せと命令されるが、支配者の要求が気に入らなかった彼は、立ち上がって力で抵抗することになる。これは力による脅しを使った、前資本主義的な支配関係である。

しかしカリフォルニアではどうだろうか。パットのエカナノミクスではないけれど、すべての人にお金が与えられ、お金が与えられると同時に社会に組み込まれていく。注意すべきはお金を得たときの「おれ」の反応である。お金が入ると同時に彼はある種の負債の念を抱くようになるのだ。本当はやりたくないけれど、お金をもらったから、狂言強盗をしなければならない、とか、本当は早く出て行きたいのだけど、お金があるかぎりメイミのもとを離れるわけにはいかない、というように。私はそれを読んで考えた。資本主義社会は露骨な暴力をもってではなく、システムのメンバーに負債という観念を与えることで支配するのだろうか。

ジェンターがエカナノミクスの運動を宗教で味付けしようと言った場面でも考え込んでしまった。キリスト教というのは、われわれの罪を背負って死んだキリストとわれわれとの間に、宗教的な貸し借りの関係を設定するものだからだ。

最近まったくの偶然にマウリツィオ・ラッツァラートの The Making of the Indebted Man (2012) という本を読んだのだが、資本は普遍的な債権者であり、資本主義社会の構成員は資本の眼から見て罪と責任を負った債務者であるという論旨は、本書と併せて読むとき、非常に興味深いものだった。

ともあれ、この作品に於ける金の役割は深く突っ込んで考察すべきものだと思う。

3 フィクション

私の興味を惹いたもう一点は、現実を構成するフィクションという考え方なのだが、これは翻訳の「後書き」にも書いたことなので軽く触れるだけにする。

じつはこの作品を読んだとき、私は冒頭のパラグラフからひっかかってしまった。
 真夜中の勤務を終えて帰ってみると、レストランの窓に明かりがついていなかった。それを見て、おれはルイスが出ていったことを知った。
 まちがいないとおれは思った。枕の上に置き手紙が残されていることもわかっていた。
ルイスは「おれ」の妻なのだが、建物の中に入らなくても「おれ」には何が起きたがすっかり分かってしまう。それはいったいなぜなのだろうと思ったのだ。

あっさり私が考える答を言ってしまえば、「おれ」は住み馴れたオクラホマの町にいるときは、ちょっとしたしるしを見ただけで想像力を働かせ、何が起きたかを推測することができる。つまり物語を作り上げることができる。ところがカリフォルニアに行くと、そこには別の物語の構成の仕方があり、それ故、「おれ」は何がどうなっているのかさっぱりわからんとつぶやくことになるのだ。たとえばメイミが酒を飲んでも二日酔いにならないことは「おれ」にはまるで理解できない。ましてパットのエカナノミクスに人々がトチ狂うというのは狂気の沙汰としか思えない。

映画監督のジェンターは「正気の人間をカリフォルニアに連れてくるとする。すると山を越えてカリフォルニアに入ったとたんに彼らは正気を失う」と言う。つまり山に囲まれた内部には、そこ独自のフィクション、フィクションの構成法があるのだ。「正気を失う」というのは、カリフォルニアはほかのところとはまったく異なるフィクションの構成法を持っている、ということだろう。そして山はフィクションが効力を持つ地域の境界線にあたるのだ。

そう考えると、「おれ」はオクラホマという、彼がそこのフィクションの構成法をよく知る場所から、「いくつもの山脈を越えて」、カリフォルニアという奇妙なフィクションの構成法を持つ場所へ移り、さんざん冒険を重ねて、最後には彼が子供の頃に見てその向こうに幸せがあるはずだと考えた「金色の山々」、彼にとってのユートピア的な空間へ向かうことになることがわかる。

「黒に賭ければ赤が」は「おれ」が異なるフィクションの場を渡り歩く物語なのである。

そしてここで決定的に重要なのは、翻訳の「後書き」にも引用したけれど、スラヴォイ・ジジェクが言うように「フィクションとイリュージョンを破棄するやいなや、われわれは現実そのものを失う。現実からさまざまなフィクションを差し引いたとたん、現実そのものは言説構成的な、論理的一貫性を失う」(Tarrying with the Negative)という点だ。われわれは現実をありのままに見ているのではない。現実はフィクションを介してはじめて認識可能なものとなるのだ。「おれ」はすでに述べたように物語の最後で汽車に乗ってカリフォルニアを出る。つまりフィクションの圏域をはずれる。その途端にカリフォルニアで体験した出来事は一貫性のないばらばらなものとなり、彼は恋人の死にすら非現実的な印象を抱いてしまう。ところが「金色の山々」を間近に目にするや、彼は恋人の死に対する痛みを回復するのだ。新たなフィクションの圏域に入って彼は現実を回復したのである。もっともそこに広がっているのは荒野でしかないのだが。

私はこの作品は現実とフィクションの関係を描いた見事な作品だと思う。しかし何よりも驚くべきは、私が上に書いたような理論的内容が、抽象的な説明などを一切伴わない形で物語の中に溶かし込まれているということだ。

2015年10月10日土曜日

15 ジョン・ロード 「収穫殺人事件」 

The Harvest Murder (1937) by John Rhode (1884-1965)

「収穫殺人事件」とは妙なタイトルだが、これはアメリカの読者向けのタイトルで、イギリス向けのタイトルは Death in the Hop Fields 「ホップ畑の死」というものだ。カルバーデンという架空の村でホップの収穫が行われる時期に殺人事件が起きるという物語である。

作品の分量を水増ししようとしたとは思わないけれど、作者はずいぶん詳しく村の様子や、ホップの収穫、収穫を手伝う出稼ぎ労働者のことを書いている。推理小説的興味から本書を読む人には、そうした記述がわずらわしいだろうけれど、私には興味深かった。当時の風俗を知る手掛かりになるからである。

この村は、ホップの収穫期になるとロンドンから出稼ぎ労働者が何千人、何万人とやってきて大賑わいとなるが、普段は閑散とした田舎の村だ。冒頭、村の巡査が宝石泥棒の通報を受けて現場に駆けつける場面があるが、なんと自転車をえっちらおっちらこいで坂道を登っていく。なんだか井伏鱒二の「多甚古村」みたいである。また泥棒にあった家も、後に放火で燃えてしまう別荘もそうなのだが、留守のときに窓を閉めずに開けっ放しにしている。最近はごく稀になったが、一部の田舎では今でも外出するときに鍵を掛けたり、窓を閉めなかったりすることがある。車のドアにもロックをかけない。犯罪なんて起きないし、周りにいる人々はみんな見知った仲だからである。この作品がかかれた一九三〇年代はそういう不用心というか、おおらかな習慣がかなり残っていたのだろう。もちろんロンドンみたいな都会になると話は全然違ってくる。実際、村の人はロンドンからきた労働者たちのことを「信用できない」などと言ったりする。

ホップの収穫が始まったこの村には膨大な数の出稼ぎ労働者がいる。ほとんどがロンドンの下層階級の人々である。ホップ摘みを出稼ぎ労働者に頼るようになった最初の頃は、誰彼かまわず雇っていたために、中には乱暴狼藉をはたらく者、品行不良の者もいたようだが、そうした者は雇い主があらかじめ排除するようになり、今では真面目な働き手ばかりが来るようになっている。

出稼ぎ労働者にとってはホップ摘みの仕事は、半ばは行楽である。彼らはロンドンにいるときは狭苦しくて、薬品の匂いの立ち籠める皮革工場などで働いているのだが、ホップ摘みの間だけは太陽のもと、広々とした田舎の空間で、新鮮な空気が吸えるのである。半分は物見遊山みたいなものだから、家族総出で来るケースも多いようだ。

彼らは昼間は働き、夕方になるとパブに行って夕ごはんを食べる。パブのそばでは出稼ぎ労働者向けにお菓子やら野菜やら果物やらが売られる。労働者たちはパブで飲み物を買い、屋台から食べ物を買って食事をするのである。労働者の数が数だから、ホップ摘みの期間は近隣の農村にとってもちょっとした稼ぎ時となるのだろう。もちろんパブは大賑わいで、地下室から主人の個室まですべての部屋を開放してお客を迎えなければならない。

唖然としたのは、出稼ぎ労働者の中にはロンドンから歩いて村までやってくる者があるという事実を知ったときだ。労働者はホップ農場の主に出稼ぎに行きたい旨の手紙を書き、農場主からOKの返事が来ると家財道具やマットレスを持って村へ行く。農場主は労働者のために鉄道会社に頼んでロンドンから村まで特別列車を運行してもらうのだが、運賃の払えない貧しい人々は荷車を用意して、ロンドンから村まで徒歩で移動するというのである。ロンドンからカルバーデンの村までどのくらいの距離があるのか知らないが、この話をした農場主のあきれかえりぶりから察するに、相当に離れているのではないだろうか。もうすぐ一九四〇年という時期にあっても、まだそんな生活が残っていたとは驚きである。

この小説に書かれている内容をそのまま社会学的事実として受け入れることはできないだろうが、それにしても労働者階級の生活の一断面をあらわしたものとして興趣がつきない。

ミステリとしては凡作と言っていいだろう。物語は三つの事件をめぐって展開する。それらは宝石の盗難、ある小悪党の失踪、そして別荘の放火である。カルバーデンのある金持ちの家から宝石が盗まれるが、現場に残された指紋から犯人は、逮捕歴のある小悪党であることが判明する。ところがその小悪党は、カルバーデンの村に着いてから足取りがぷつりと途絶えてしまう。犯人は宝石を盗んだあとどこへ行ったのか。地元の警察だけでなく、スコットランド・ヤードからも応援が駆けつけたのだが、小悪党の行方は分からない。そのとき近くの別荘が何者かによって放火される。警察は、小悪党は殺されたのではないか、放火は死体を焼却するためのものではないかと考えるが、焼け跡を調べても死体の痕跡はないし、死体を焼くほど火の勢いも強くはなかった。出稼ぎ労働者でいっぱいの村のどこに宝石泥棒は隠れているのか。収穫されたホップの加工過程の一つが事件を解く鍵を提供する。

2015年10月7日水曜日

14 J.ストーラア・クルーストン 「四十七番地の謎」

The Mystery of Number 47 (1912) by J. Storer Clouston (1870-1944)

最初に告白するが私はクルーストンの愛読者である。彼の作品を読むと最初の数ページで物語に引き込まれてしまう。読者を想像の世界に引きずり込む、小説の語りの技術は十九世紀の後半に格段の進歩を遂げるが、クルーストンはその最良の成果を見せてくれる。また彼は一種の職人なのだろう、ミステリもスパイ小説もユーモア小説も器用に書き分ける。私がとりわけ気に入っているのは The Lunatic At Large という作品で、これはピカレスク小説のマイナーな傑作だと思う。質の高い娯楽作品をお求めなら、クルーストンの小説を一度手に取ってみることを強くおすすめする。

「四十七番地の謎」もクルーストンの才能がよく発揮された、すばらしいミステリのパロディだ。私は読みながら何度爆笑したか分からない。

これから読む人のことを考えて粗筋の紹介は最小限度に留めよう。

表題の四十七番地とは、ロンドンのセント・ジョーンズ・ウッドにあるヒアシンス通り四十七番地のことで、ここにモリヌー夫妻と、若いお手伝いさんと、料理女が住んでいる。夫はオクスフォード大学を出てから十六世紀の詩人について論文を書いたりして小金をかせいでいる。文学者にありがちな小心で世間知らずの男だ。奥さんは逆に実務的で決断力に富む女性である。性格が正反対だが、かえってそのせいなのだろう、二人は仲良く暮らしていた。

事件は司教の地位にある夫の従兄弟が、不意に彼らを訪ねる旨の連絡を寄こしたことからはじまる。この司教は美食家で大食らいなのだが、なんと彼がやってくるその当日、料理女が仕事を辞めて出て行ったのである。司教のためにディナーをつくる人間がいない。事実を話して夕食を断れば、その性格からして司教はモリヌー夫妻のことを根に持つようになるだろう。ではどうしたらいいのか。

 お手伝いのエバ「わたし、料理ならちょっとはできますけど……」
 モリヌー夫人「わたしがエバにアドバイスすれば、美食家の司教も満足するような料理ができると思うわ」
 モリヌー氏「しかし夫婦でそろって彼を迎えてやらなきゃ……」
 モリヌー夫人「わたしは田舎に帰ったことにしておきなさい」

というわけでその日、モリヌー家にはやけに上品な料理女があらわれ、モリヌー夫人はブライトンかどこかへ出かけたことになった。

この苦心の作戦の甲斐あってその日のディナーはなかなかの出来だったようだ。しかし女主人の不在を奇妙に思った司教はしきりにモリヌー氏に彼女のことを尋ねる。そして彼女が翌日家に戻ることを聞き出すと、今晩はこの家に泊めてくれ、明日ぜひとも奥さんに挨拶したいと言い出したのである。

次から次へと降り掛かる難題に辟易としたモリヌー氏は、急に用ができて外国に行かなければならなくなったと置き手紙をして家を出て行く。

モリヌー家に一人残された司教はモリヌー氏の怪しい行動に、ついにスコットランド・ヤードを呼び出すことにする。そしてモリヌー家を訪れたブレイ警部はモリヌー氏が妻を殺し、逃げ出したのだと考える!

かくして存在しないはずの殺人事件が存在しはじめ、世紀の大事件として新聞にも取り上げられるようになるのだ。

このとんでもない殺人事件がどのように決着するかは、ぜひ本を読んで頂きたい。

これを読みながらわたしは間主観性のネットワークということを考えた。

われわれは間主観性のネットワークの中に生きている。家族、隣人、友人、会社、世間とさまざまな関係を結び、その複雑な関係性の中で生を営んでいる。人間はいわばさまざまな関係性の線が交差する項の上に存在しているのである。モリヌー夫人が仕事を辞めた料理女の位置につき、モリヌー夫人の位置を空白にしてしまったとき、ネットワークには局部的な乱れが生じた。そしてこの乱れはネットワークを通じて全体に広がっていくのである。

ネットワークの揺れ・脆弱性が文学に描かれるときはたいてい「人違い」とか「聞き間違い」が生じる。また、ネットワーク内に居場所を失った人間は「浮遊」をはじめる。しかも居場所(項)というのは「Xの母であり、Y慈善協会の理事であり、Zから千ポンドを借りている債務者であり……」というような、関係性によって規定される存在の特徴(確定記述)が束になっている場なのだが、そこから抜け出た存在はいかなる規定ももたない、名付け得ぬ物として、それこそ幽霊のように浮遊しはじめるのだ。こうした特徴はすべて本編にも見られる。これはプラウツスの「メナエクムス兄弟」とかシェイクスピアの「まちがいの喜劇」に見られるような、典型的な喜劇の骨法に従って書かれた作品である。と同時に、ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」を見ても分かるように、ネットワークの乱れというのはミステリが絶えず取り扱う主題でもある。

2015年10月3日土曜日

13 W.スタンレイ・サイクス 「死んだ男」

The Man Who Was Dead (1931) by W. Stanley Sykes (1894-1960)

物の秩序、言説の秩序にある種の齟齬、矛盾、乱れを見出し、それを鮮やかに指摘する。それが古典的なミステリの醍醐味だが、サイクスの「死んだ男」もその面白さを味わわせてくれる。

本編は警察小説といっていいだろう。サウスボーンという保養地でユダヤ人の金融業者が行方不明になり、地元警察のリドリー警部とスコットランド・ヤードのドゥルーリー警部が協力して事件を解決しようとする。警察の捜査や張り込みや協議の様子が細かく描かれ、作者がお医者さんであるせいか、薬物に関する記述も詳しい。

このドゥルーリー警部はもとはラグビー選手だったらしいけれど、その豪快な体格にもかかわらず、非常に緻密に事実を整理する癖を持っている。事件が起きると、あらゆる事実を時間系列に従って書き留めてゆき、同僚からは「ブラッドショー」つまり鉄道時刻表というあだ名をつけられている。

彼のこの習慣が事件解決への重要な糸口をつかむきっかけになる。捜査の過程で警察が入手したある手紙は、普通に読むと何と言うこともない、ありきたりの内容なのだが、警部の緻密な観察眼は、じつはそこに時間的な無理が含まれていることを見出す。その途端に手紙は、書き手と犯罪との連関を示唆するものとなるのだ。正直に言って、私はドゥルーリー警部が指摘する時間的無理について気がつかなかった。注意深く読んでいればたぶんわかったはずなのに。くやしい。

ドゥルーリー警部は小説を読むときも物語の矛盾や著者のまちがいを見つけようとする。物語自体よりも、矛盾やまちがいを見つけることのほうにより大きな悦びを覚えるという。まるでジャック・デリダみたいな男だ。

彼の趣味は、物語の後半においてある人物の告白文を分析するときに再び威力を発揮する。手紙の時と同じように、その告白文も表面的には一貫性があって、どこにも問題はないように思える。しかしながら書き手の力点の置き方や省略の仕方に着目するとき、その告白文には嘘が含まれていることが疑われてくるのである。

ドゥルーリー警部は一緒に捜査をしているリドリー警部にこんな趣旨のことを言う。どんなに完璧な犯罪計画を立てても、自然な出来事の推移とは異なる、人為的な特徴が必ず見つかる。どんな暗号も解読されるように、犯罪者がいくら注意して犯罪を構成しても、細部を丹念に調べれば、あらかじめ手はずを整えていたことがきっと分かるものだ、と。

ドゥルーリー警部は一見して自然な物事の秩序、あるいは一見して自然な言説の中に作為の痕跡を突き止めるのである。

さて粗筋を簡単に紹介しておこう。

サウスボーンの金融業者イスラエル・ラヴィンスキーが突然行方不明になった。彼は町の著名人や有力者を相手に金貸し商売をしていた。著名人たちは偽名を用い、けっして世間にはばれないようにして彼から大金を借りていた。

警察がラヴィンスキーのオフィスを捜索すると、エドワード・デリントンなる人物の、五千ポンドにものぼる約束手形が紛失していた。エドワード・デリントンは町の名士の一人が偽名として使っている名前なのだろう。もちろんラヴィンスキーは顧客の偽名と本名、および住所を記した秘密の住所録を持っていたが、それが盗まれていたため、デリントンの正体はわからない。しかしデリントンが自分の借金を帳消しにするため、秘密の住所録を盗み、金融業者をどうにかしたらしい、という推測は容易につくだろう。

警察は驚くほど機敏な捜査を展開し、ラヴィンスキーが失踪した当日の夜、家から車で、とある住宅地へ行ったことを突き止める。そこで住宅地にある家をしらみつぶしに調べて行くと、レイドロウという医師の家で、妻が警察の尋問にいささか不審な行動を示した。ラヴィンスキーという名前を聞いた途端に彼女は失神してしまったのである。それをきっかけとして警察はレイドロウ夫人に目をつけることになる。不思議な偶然だが、ラヴィンスキーが失踪したと思われる頃に、レイドロウ夫人の夫は髄膜炎で死んでいた。

これを読んで読者はハハアと思うだろう。二人の人物がほぼ同時に死んで、一方がいなくなる。これは人間のすり替えが行われる典型的な状況である。警察は最初そのトリックにひっかかるが、関係者を徹底して尾行していた彼らはすぐに罠を見破る。このようにして警察は薄皮をはぐように少しずつ、周到に計画された事件の核心に迫っていく。

私はこれはかなり優秀な作品だと思う。少しも古びた印象がない。ドゥルーリー警部とリドリー警部が捜査の途中で何度も壁にぶつかり、そのたびに地道な捜査と冷静な思考によって突破口を見出していく様子や、徹底して「物的証拠を積み上げ」犯罪事実を立証しようとするその執念は、感動的ですらある。

2015年9月30日水曜日

12 ハーバート・フラワーデュー 「山荘の怪」

The Villa Mystery (1912) by Herbert Flowerdew (1866-1917)

教科書に載せられてもおかしくないようなお行儀のいい、優等生的な文章で書かれた作品である。文章の第一の役割は達意にあるべきなのだから、その点ではまったく不満はない。しかしこういう文章の作品を読むのは非常に不安である。得てして認識がナイーブで、型にはまった人物造形や、予定調和的な筋立てに陥りやすいからだ。

悪い予感は当たってしまった。この作品にはネヘミヤ・グレイルという金持ちが登場する。おそらく名前からしてユダヤ人ではないだろうか。彼は稀代の強突く張りで、仲のいい友人からも、結婚した妻からも金や宝石をだましとる。じつは彼は大がかりな詐欺事件を起こし、警察は彼を逮捕しようとしていたくらいなのだ。態度は高圧的でぶっきらぼう。すこぶる感じが悪い。しかしユダヤ人の通俗的イメージに寄り掛かったこういう人物設定は、この作品が書かれた頃の時代背景を考慮したとしても、あまり感心しない。

他方、本編のヒーローとヒロイン、すなわち善玉を演ずるほうは、見事なまでにさわやかな若い美男美女である。いやはや。ミステリが登場人物に、こんなにコントラストをつけていいのだろうか。あいつも怪しい、こいつも怪しい、というのでなければ読者は犯人当てを楽しめない。しかし一九一〇年代にはまだこういう素朴なストーリーが存在したのである。

この作品のもう一つの欠点は、教科書的な文章なためにサスペンスが盛り上がらないということである。たとえば静まりかえった夜のロンドンで、ヒーローが警官に見られぬよう物陰に身を潜める場面とか、真犯人が家の中に侵入し、それをヒーローがこっそり見守る場面とか、よくわかるのだけれど、緩急のない、一本調子の文章で、あまり緊迫感を感じない。

しかしこの文章は、説明は得意である。ヒーローが陥るモラル・ジレンマは丁寧すぎるほど丁寧に、わかりやすく説明されている。

筋を紹介する。

ヒロインはエルザ・アーマンディという十八歳の美少女で、科学者だった父親がグレイルに金をだまし取られ、今はもう一文無しという状態だ。物語は彼女がロンドンから汽車に乗ってグレイルに会いに行くところからはじまる。三か月前に亡くなった父親の蔵書を調べていたら、その中に父親がグレイルに六千ポンドを貸した際に交わした借用書が挟まっていたのである。それを盾に彼女は父親が貸した六千ポンドを返してもらおうと思ったのだ。

もちろん我利我利亡者のグレイルが金を返すわけがない。しかも彼はエルザが来たとき、逃亡の準備で大忙しだった。詐欺がばれたため、有り金をバッグに詰め込んでとんずらしようとしていたのである。

しかしエルザとしても追い返されて、はい、そうですかとは引き下がれない。なにしろ手許には六ペンスしかないのだから。彼女は意を決して屋敷の中に忍び込み、グレイルの書斎に入り込む。そしてそこにあった金の詰まったバッグをひったくり逃げ出すのである。

彼女が逃げ出してすぐのことだ。食事部屋に入った召使いが主人グレイルの死体を発見する。銃で撃たれ、なぜか足を骨折していた。

警察はグレイルに会いに来た謎の少女が犯人ではないかと、彼女の捜索に乗り出す。ところが事件が起きた頃グレイルの屋敷にはもう一人の女性がいた。それがグレイルの妻である。妻は宝石をグレイルにだまし取られてから家を出ていたのだが、召使いから宝石の隠し場所を教えられ、グレイルが殺害される晩、こっそりと家の中に入っていたのだ。

さて、犯人はエルザなのか、グレイルの妻なのか。一方の無実が証明されれば、他方の容疑が濃くなる。グレイルの妻の息子、つまりグレイルのまま息子であるエズモンドは、逃亡中のエルザと恋に陥るのだが、母の無罪を主張することにも、恋人の無罪を主張することにも躊躇する。このあたりの心の揺れ動きは、よくわかるように書かれているのだが、優等生的な説明口調で書かれていて、なんだかカントのアンチノミーの解説でも読んでいるような気分になった。

このアンチノミーを解消する方法はただ一つ。第三の人物、母でも恋人でもない真犯人を捜すしかない。そしてここでまたこの作品の弱点を指摘することになるのだけれど、殺された我利我利亡者グレイルのほかに、憎々しげな登場人物は一人しかいないのである。ヒーローとヒロインは真犯人を知って驚くけれども、読者は作品の三分の一を読んだ地点でその男に目星をつけ、読み進めば読み進むほど、その男が犯人だと確信するだろう。善人は善人らしく、悪人は悪人らしく描かれるという単純さが、最後までたたる一作である。

2015年9月25日金曜日

11 H.C.ベイリー 「ガーストン殺人事件」

The Garston Murder Case (1930) by H. C. Bailey (1878-1961)

本編の主人公クランク氏はロンドンにクランク・アンド・クランクという法律事務所を構える弁護士である。いたって気のいい人物で、にこにこ笑顔を浮かべ、小唄をしょっちゅう口ずさみ、糖尿病になりはしないかと思うくらい甘いものを食べている。もう結構お年のようで、彼自身は新聞種になるような有名事件でなければ裁判所で弁護をすることはないようだ。しかしいったん法廷闘争となると、普段の穏やかな彼からは想像もつかないような烈々火を吐く弁論が飛び出してくる。

クランク氏は犯罪者の弁護を積極的に引き受けるため、スコットランド・ヤードにはすこぶる評判が悪い。しかし彼は悪徳弁護士というわけではない。 

この小説で驚くのは警察の捜査のずさんさである。もちろん一九三〇年頃のイギリスの警察がどんな捜査をしていたかなど、私は知らないし、この小説が当時の捜査方法を忠実に反映しているとも思わないが、とにかく素人目に見ても無理筋と思えるような捜査、逮捕をしているのである。なるほどビリー・ボーンズは名代のコソ泥で、ミス・モローの宝石箱が紛失したときおなじホテルに泊まっていた。警察が怪しいと思うのは当然であるし、捜査をするのは彼らの義務だろう。しかし怪しいだけで逮捕はできない。クランク氏はビリー・ボーンズの弁護をして、警察になんら物的証拠がないことを突き、無罪を勝ち取る。当然のことだ。

また警察は証拠をつかんでいるわけでもないのにとある男の身柄を拘束したり、べつの女性に向かって「おまえが殺人犯じゃないのか」というようなことを言う。確かに彼らは不審な行動を取っているし、実際に犯罪をやらかしていると思われる。しかし警察には何の証拠もないのである。だからいずれの場合もこっぴどく容疑者から反論されてしまう。

クランク氏はこういう粗雑な警察の捜査を批判する形で物語に登場する。本来なら警察は彼らの不備を指摘するクランク氏に感謝すべきなのだが、警察が自分たちを批判する人々を悪とみなすのは大西洋の彼岸と此岸、あるいは洋の東西を問わないようだ。

クランク氏は警察の手法のまずさを指摘するだけでなく、彼らの捜査が間違った方向を向いているときはそれを正しさえする。たとえばミス・モローの宝石箱が盗まれたとき、警察は盗んだ人間にばかり注目するのだが、クランク氏は宝石箱には手紙が入っていたこと、手紙を必要としていた人間は誰なのか、それが事件を解く重要な鍵になることを、裁判の場でそれとなく警察に教えるのである。

まるでクランク氏は警察の先生のようである。彼は警察に捜査のあるべき姿を示し、推論する際の慎重な態度を教え、彼らの誤解を正す。クランク氏は彼が見抜いている事件の真相を決してそのまま警察に明かすことはない。すぐれた教師が生徒に対してするように、ヒントのみを与えてできるだけ生徒自身に考えさせ(「頭を使いたまえ」とクランク氏は何度も言う」)、生徒が自分の力でゴールにたどり着けるようにしむけるのだ。しかしいかんせん警察はできの悪い生徒であって、なかなか先生の意をくむことができない。そこでクランク氏はときにはわざとらしい手を使って警察を動かしたりもする。たとえばクライマックスの直前には、意図的に大声を出して自分の行く先を警察に教え、自分の跡を追跡させる、という場面がある。あそこでは、クランク氏は警察に黙ってフォークストンに向かってもよかったのである。彼には優秀な手下が何人もいるのだから。しかし彼は警察を動かしたかった。あくまで警察に捜査をさせさたかった。本来なら生徒に時間を与えてじっくり考えさせるべきなのだろうが、あの場合はこのチャンスを逃したら事件は迷宮入りするという重要な局面だった。それなのに警察は何も気がつかずにのほほんとしている。先生としては芝居じみた真似をしてでも生徒を外に引っ張り出すしかなかったのである。

探偵と警察が別個に事件を捜査する、という物語はたくさんある。クライマックスで探偵が警察の思いも寄らなかった真犯人を指摘する、という物語も多い。以前このレビューでジョン・T・マッキンタイアの「美術館殺人事件」という作品を紹介したが、あれなどはその好例である。警察が間違った人間を逮捕し、探偵は逮捕された男の無実を証明するために真犯人を捜し出すという話だ。こういう物語では探偵と警察が対立的に描かれる。しかしクランク氏は警察に嫌われているにも関わらず、決して警察と対立しているのではない。それどころか教師として彼らを導いているのである。これが「ガーストン殺人事件」を読んで私が気がついたいちばんの特徴である。

気がついたら作品の内容に触れるスペースがほとんどない。簡単に記す。ある発明家が特殊な製鋼法をあみだしたのちに行方不明になる。その後とある会社がそれとおなじ製鋼法を使って鋼鉄をつくるようになる。当然会社は、発明を盗用したのではないかという疑いをかけられた。しかし会社は、社長の息子の一人が研究中に見つけた製鋼法を使っているだけで、盗用したのではないと答える。異なる人間が同時に同じ発明を行うということはままあることだ。しかし本当にそうなのか。二十年後、発明家の息子が成人し、父親の死に疑念を抱くことからこの物語ははじまる。作者はミステリ黄金期の立役者の一人だ。重厚で味わいのある作品だと思う。

2015年9月22日火曜日

番外2 愛の関係性とキム・ギドク

1 配置と内面の関係

人間には感情があり、意思があり、主体性があるといった議論に対して、感情や意思はその人が置かれた象徴的な配置、関係性から派生するという主体を否定した考え方がある。私は後者の考え方に興味があり、Death of A Puppeteer のレビューの中で「人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識」についてちょっと触れたのも、そのためである。

たとえば恋愛感情は心の内奥から発せられるものと思われているが、関係性から内面が派生すると考えるなら次のようになる。

われわれが住んでいる空間にはさまざまな人間関係が用意されている。親と子の関係、債権者と債務者の関係、先生と生徒の関係などなど。恋愛関係もその一つで、要するにAという場所とBという場所が存在し、Aという場所はBという場所に「わたしはあなたを愛している」というメッセージを伝え、Bという場所はAという場所にやはり「わたしも愛している」というメッセージを発していると考えればいい。肝心なのは場所がメッセージを発しているのであって、人間は関係ないという点である。

この場所をなにかの偶然で人が占めるようになる。するとAの位置についた人とBの位置についた人のあいだに恋愛関係が生まれる。

これが、感情は配置から派生する、という意味だ。

このとき二つの誤認が生じる。

一つの誤認は、「愛している」というメッセージは場所が発しているにもかかわらず、その場所を占めている人間が、自分の内面から発せられたメッセージであると誤解することである。誤認ということが最初に述べた「感情や意思はその人が置かれた関係性から派生する」ということの意味である。

もう一つの誤認は、AやBという配置に人間がつくのはまったくの偶然なのに、いったんその配置についた人間には、それが必然的な結果のように思われるということだ。すなわち、わたしが彼・彼女と出会ったのは運命の導きであったというように。人間が恋愛関係に陥ることは偶然であり、理不尽な事故であるのに、そこが彼・彼女の人生を意味化する中心点になってしまう。

2 配置の多重性

キム・ギドク監督の「悪い男」には、浜辺に座る恋人の写真が出てくる。ただし恋人たちの顔の部分は切り抜かれている。恋愛から人間的実体を取り除き、恋愛の配置だけが残された写真である。映画を見た人は知っているだろうが、主役であるチンピラの男と女子大生の愛情は、二人の顔がこの写真の空白にぴたりとはまりこんだ瞬間に成立する。

しかしキム・ギドクがこの映画で問題にしているのは、人間が恋愛関係という配置につく、その偶然性のほうである。つまり、恋愛という配置につけば、二人の間には機械的に恋愛が成立するが、この二人帯びている特性が、恋愛関係にそぐわしくない場合もあるということである。それが「悪い男」というタイトルの意味だ。チンピラの男は通常の意味においては、女子大生が恋愛をするような相手ではない。本来なら憎むべき、いとわしい存在である。しかし両者がある関係にはまりこめば、そんな二人の間にも恋愛は成立する。極端に言えば、殺し・殺されるという関係にある人間同士が愛し・愛されるという関係にはまりこめば、その双方の関係が同時に存在することになる。Death of A Puppeteer には「日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す」と書いてあった。

人間は社会空間、象徴空間においてさまざまな関係性を他者と有しているが、その関係性を調節するような一段上の機能は誰も何も持っていない。人間がどのような配置につくかは、完全な偶然にまかされている。それゆえ関係性の関係が極端と極端の重なり合いとなることもありうるのだ。恋愛映画が量産される韓国において、キム・ギドクの作品はとりわけ悪意に充ちているが、それは彼の(1)愛は男と女の相互認識の上に成り立つものではなく、誤認の上に、機械的に成立する(2)恋愛関係は、愛とはまったく逆の、暴力的な関係と合致することもあり得る、という認識に由来する。

3 ファンタジー

キム・ギドクは「空き家」においてこの認識を三者関係としてもう一度描いている。

「空き家」の主人公である若い男は、留守宅を探して、家人が戻ってくるまでその家に住み込むことを繰り返している。ものを盗むわけではない。ただそこで生活し、家の人が帰ってくる前に家を出るだけだ。出るときは汚したものをきれいに洗濯し、家具の配置も正確に元通りに戻す。さらに壊れた玩具や時計を修理していく。すなわち「部品間の配置の調整」を行うのである。

この主人公がある家で発見したのは、壊れた夫婦関係だった。金持ちらしきその家の主人は、いっこうに自分を愛そうとしない美しい妻に物理的暴力をふるう。妻の身体はその暴力で痣だらけだ。この映画の眼目はいかにして壊れた愛情関係が修復されるかという点にある。キム・ギドクの答はいつもながら残酷だ。彼は壊れた玩具や時計のように直せばいいという。なぜなら愛情とは正しい恋愛の位置に人間を配することなのだから。

若い男と逃避行に出た美しい妻は、次第に男に気を惹かれていく。結局若い男は警察に捕まり、美しい妻は暴力的な夫の元に帰されるのだが、刑務所の中で自分の気配を消し、幻と化す術を会得した若い男は、こっそりと真夜中に彼らの家に忍び込む。鏡を見ていた美しい妻は、自分の背後に若い男がいることを知る。(別の言い方もできるだろう。彼女は鏡の中の自分を見つめる。そして自分の中に理想の恋人を見出す)彼女が振り返ったとき、たまたまそこに夫があらわれ、彼女と若い男を結ぶ直線上に立つことになる。そのときに妻は「愛しているわ」と言うのだ。夫はその言葉が自分に発せられたものと勘違いし、感激する。夫は妻をかき抱くが、妻は夫の肩越しに幻のような若い男と接吻を交わしている。

翌日の朝、夫婦は向かい合わせにテーブルに座って食事をする。妻は夫に笑顔を向けるが、じつは夫のすぐ背後には若い男が立っているのだ。彼女は若い男に向かって愛を表現しているのだが、夫はそれを自分に向けられたものと誤解する。

  この三者の配置こそが恋愛関係の配置、「悪い男」に見られたモデルよりもはるかに精緻なモデルである。女は理想の恋人に向かって愛をささやく。しかし女と理想の恋人を結ぶ直線上には穴が開いていて、その穴に誰かが偶然はまりこむと、女はそれを理想の恋人と誤認する。穴にはまり込むのが誰であろうとかまいはしない。ドメスティック・バイオレンスの常習犯であろうが、けちなチンピラであろうが、熱愛の対象になってしまうのである。しかし愛はつねにすれちがいであり、誤認である。

若い男はこのような配置、すなわちジャック・ラカンの言うファンタジーを巧みに構成することで壊れた愛を回復させたのである。彼の趣味はゴルフだが、彼がやったことはまさに暴力的亭主というボールを、恋愛関係を成立させる正しい配置の穴に落とし込むことだった。





4 キム・ギドクの不幸

アン・ソンギはキム・ギドクから「サマリア」という映画に主役で出てくれないかと問い合わせがあったとき、すぐさま断ったという。「サマリア」は援助交際をしている娘を父親が殺すという話だが、アン・ソンギは韓国においてはそのようなことは文化的に起き得ないと返事をしたそうだ。キム・ギドクはそれはあり得ると考えている。それは単に配置の問題である。韓国的な親子の関係が、殺し殺されるという関係に重なることは、関係の偶然性を考えるとき、ありえないこととはいえない。それどころか、それこそわれわれ人間の生のありようであると認識すべきである。

普段親切でやさしい人間が残虐な人殺しを行い、新聞をにぎわす。人間に内面があると考える人々は、このような両極端の一致を、病的で異常なものとみなすだろう。しかし人間の主体性を否定する考え方からすれば、そのような一致はわれわれの生を構成する条件からして、当然生じ得ることである。逆にヒトラーのような男が毎日大勢の人を虐殺しながら、しかし夕方家に帰って情愛あふれる、人間的な行為を行っているかもしれない。それも少しも異常なことではない。私の知り合いが、世界の誰もが知っているある億万長者に出会い、そのいい人ぶりに感銘を受けたなどと言っていたが、私に言わせれば彼は認識が甘い。

しかしキム・ギドクや私のような考え方は一般的には受け入れられない。儒教思想の色濃い韓国において主体性を否定するのはヒロイックな振る舞いではあるけれど、そして私は「悪い男」も「空き家」も傑作だと思うけれど、キム・ギドクはそれなりに痛い代償を支払わなければならなかった。

2015年9月19日土曜日

10 ハロルド・マクグラス 「青いラージャ殺人事件」

The Blue Rajah Murder (1930) by Harold MacGrath (1871-1932)

ハロルド・マクグラスの「御者台の男」という小説には次のような場面がある。ある金持ちのお嬢さんの持ち馬の一匹が突然暴れだし、厩舎の男たちは誰一人それを鎮めることができない。そこに最近厩務員になったばかりの若い男が登場し、その胆力と勇気で見事に荒馬を取り押さえ、手なずける。それを見ていた金持ちの生意気なお嬢さんは「やるわね」とその男に惹き付けられる。

さて本書「青いラージャ殺人事件」は次のようにはじまる。主人公である若い男が川で鱒を釣ろうとする。それをその川の所有者である若い女がこっそり見ている。男は彼女の目の前でこともなげに「川の主」と呼ばれる巨大な鱒を釣り上げる。女は「わたしが何度も釣り損なったあの魚を!」と愕く。

ハロルド・マクグラスは動物をダシにして人間の男と女を引き合わせるのが好きらしい。

それはともかく、私がこの冒頭のエピソードを読んで思ったのは、これはミステリの筆法ではないということだ。本書はザ・クライム・クラブから出されたものだが、明らかにロマンスかロマンチックな冒険小説の書き方をしている。

ハロルド・マクグラスは一八九九年に「武器と女」という作品を出して以来、ロマンスや冒険小説を書き、ベストセラー作家としての地位を築いてきた。しかし彼が書くものはメロドラマであって、一九三〇年にダブルデイから出た「青いラージャ殺人事件」はザ・クライム・クラブの一冊とはなっているものの、ミステリ的な要素を軽く添えただけの古い冒険小説と言っていいだろう。

しかし物語の最初でそれがわかったのはもっけの幸いだった。ああ、そういう話なのね、と覚悟を決めて読むことができたからだ。覚悟さえできていれば「彼女はキスを盗まれたのに、相手の頬に平手打ちすら加えなかった。なぜなら彼女は彼を愛してしまっていたからである!」みたいな文章を読んでも本を、いや、タブレットを壁に向かってぶん投げることはない。

この作品は前後二つに分かれている。前半部分は主人公のジョン・ウィラードが、青いラージャと呼ばれるインド由来の宝石をとある金持ちから盗み取る話だ。いや、盗み取るというのはちょっと違う。なぜならその宝石はもともとウィラードの父親が所有していたもので、それを父親の親友だった金持ちが勝手に持っていってしまっていたのである。ウィラードは自分の正体を隠して金持ちの家に行き、夕食の席で見せられた本物の青いラージャを手品師よろしく偽物とすり替え、その晩こっそりと車で逃げ出す。

ところが、その車の音を聞きつけて寝室から出てきた金持ちの娘エルジー(鱒釣りの場面に登場した女だ)は、青いラージャを納めた金庫の前に、父親が死んで横たわっていることを発見する!

当然、この状況なら、誰もがこう判断するだろう。金庫を開けた金持ちをウィラードが殺害し、青いラージャを盗んで車で逃げた、と。警察は殺人事件として大々的な捜査を開始する。

あまりにもくだらない話だからばらしてしまうけれど、真相が分かってみれば、体調の悪かった金持ちは金庫を開けたときに急死し、倒れたときに火かき棒に頭をぶつけ、あたかも誰かになぐられたような外傷がついたというだけなのだ。ウィラードは宝石の正当な持ち主ということがわかり、さらに美しい娘エルジーと結婚し、すべてめでたしめでたしで前半は終わる。ばかばかしい。

後半部分では、ウィラードが青いラージャを盗まれる側にまわる。青いラージャなど銀行にでも預けておけば安全なのに、愚かしくもウィラードはニューヨークの自宅の壁金庫にそれをしまっていた。それに目をつけた悪党どもは、ウィラードもエルジーも召使いもみんな捕らえて縛り上げ、悠々と壁金庫を壊して青いラージャを盗んでいく。しかし最後にエルジーが意外な告白をし……まあ、そこは読んでのお楽しみにしておこう。

正直に言って、この本を真面目に最後まで読むのは苦痛だった。知的な刺激がまったくないわけではない。たとえば冒頭の鱒釣りの場面で、ウィラードは川の主を釣り上げた瞬間にエルジーに声を掛けられ、びっくりして愛用のパイプを落とし、なくしてしまう。これは彼にとっての「好ましいもの」が、パイプからエルジーに取って代わられたことを暗示している。「好ましいもの」という位置に置かれていたものが、玉突きの玉のように別のものに置き換えられたのである。後半部分を読むと、「好ましいもの」の位置にいたエルジーがいつの間にか青いラージャに取って代わられていることが分かる。エルジーがいつも鬱々としているのはそのためだ。後半は青いラージャの争奪戦のように見えるが、本当の主題は「好ましいもの」の位置をめぐる、宝石とエルジーとの戦いである。配置をめぐる争いという観点から読めば多少はこの物語に興味が持てるかもしれない。しかしそれでも私はロマンスが苦手だ。

アメリカの女性はこの手のものが大好きで、知り合いの中には分厚いロマンスのペーパーバックを、いつも鼻を突っ込むようにして読みふけっている人もいるんだけれど、飽きが来ないのだろうか。ウィラードは戦争中は空軍のエースで、金持ちで、ピアノの腕は玄人はだし、スポーツは万能(のようだ)。そんなリアリティーのない男のどこがいいのだ? 腹が立つだけじゃないか。

2015年9月16日水曜日

9 ウィリアム・グレイ・ベイヤー 「人形師の死」

Death of A Puppeteer (1946) by William Gray Beyer (? - ?)

元軍人の友人に連れられて射撃場で拳銃とライフルを撃ったことがある。銃に触るのはそれが初めてだった。言われるとおりに狙いをつけて撃ったところ、双眼鏡で弾の当たり具合を確認していた友人に「初心者にしちゃ狙いが正確だ」と言われた。あの時思ったのは、火器というのはいくら安全装置がついていてもアブナイものだと言うことだ。銃は片手で操作ができるようになっている。それは誰にでもできる簡単な操作だ。子供が親の銃でいたずらして命を落としたり、兄弟に大けがをさせるのも当然だと思った。

この小説の主人公は銃の専門家で、物語は彼が友人の家へ週末を過ごしに行くところから始まる。この友人は劇作家なのだが、銃が趣味で、射撃場だけでなく、銃の性能を測るいろいろな器具まで持っている。二人の会話には専門的な銃の用語がぽんぽん飛び出すのだが、それを読んで私は「ああ、アブナイ、アブナイ」とひたすら思った。スパイ小説の中でプロの暗殺者が銃を扱うというならともかく、ミステリの中で素人が銃をもてあそぶのを見るともう先が見えている。案の定劇作家は銃の暴発で死んでしまう。しかし事故ではない。誰かが彼の銃に細工をしたのだ。

この劇作家リンカーン・フォレスターは、日本の坂田藤十郎という役者をちょっと思い出させる。藤十郎は好きでもない女を好きになった振りをして、恋した女がどんな表情・仕草をするか研究したという話があるけれど、リンカーン・フォレスターという劇作家は身近な人々を彼の家に招待して一堂に集め、かつさまざまな葛藤を彼らに与えてその結果どのような人間的化学反応が起きるかを観察しようとした。呼び寄せたのは年若い姪夫婦、法律家夫婦、リンカーンが肉体的関係を持っているらしき人妻とその夫、リンカーンのエージェント(アメリカには作家と出版社をつなぐエージェントというものが存在する)、さらに最初にあげた銃の専門家であるクリフ・パークである。リンカーンは遺書の変更、つまり財産を遺贈する人を変更するように見せかけたり、エージェントを首にすると言ってみたり、不倫関係の暴露をちらつかせたりして客の一人一人に厭らしく「圧力」をかけたのだ。そして彼らの反応をよく見て新作の劇に生かそうと考えたのである。タイトルの「人形師」とは、客を人形のように操ろうとしたリンカーンのことを指す。

その危険な実験の結果、彼は銃に細工を施され命を失う。客たちからすれば「ざまあみろ」というところだが、一応犯人はきちんと突き止めなければならない。そこで地元の警察署長の登場となるのだが、その捜査の最中に第二の殺人が起き……。

筋を詳しく説明するのは控えるけれども、大きな屋敷にたくさんの人が集められ、連続殺人が起きるという、ミステリの本道を行くような作品である。ちなみに探偵役はすでに述べた銃の専門家であるクリフ・ハンター。警察は、愛する女性をかばって自分が犯人だと名乗りを上げた男を逮捕するが、彼が犯人でないことを知っているクリフ・ハンターはその専門知識を活用したり、罠を張ることによって真犯人を見出す。

ごく普通の作品でこれといった印象もない。ただ、二点、注意を惹く部分があった。一つは、「人間には性格というものがあって、犯罪は暴力的な性格の人間によって引き起こされる」と考えるある登場人物に対し、クリフ・ハンターは、「人間はすべて暴力的である、日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す、われわれは戦争をはじめた人間を非難するが、大義を背負って人を殺すことに野蛮で残忍な悦びを感じるものだ」と語る。人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識を、ハンターは戦争から得た。このことは記憶に留めておくに価すると思う。

もう一点。物語の最後では、例によって探偵役のクリフが解説を加えながら事件を振り返ってくれるのだが、そこで登場人物の真意が歪んだ形で言語化されたり、誰が聞いても特定の意味しか持ち得ないと思われる言葉が、犯人にだけは別様に受け取られていたり、また聞き間違った言葉がじつは真実をあらわしていたことが明らかにされる。この表現やコミュニケーションに潜むねじれや歪みの現象はまさにフロイト的で、面白い着眼点だ。ヘンリー・カットナーの The Murder of Eleanor Pope を扱ったときにも書いたが、ミステリと精神分析の間には奇妙な類似がある。それが本作のような無名の作品の中にも見られるのである。けれども、残念ながらその問題性が作品全体の中で追求されているとは言えない。

この作者は生年も没年も確認できなかった。ウィキペディアにはドレクセル・インスティチュート(現在のドレクセル大学の前身)を苦学して卒業し、その後タクシー運転手やセールスマンや警察の仕事を転々としながら一九三九年から一九五一年にかけて「アーゴジイ」などのパルプ雑誌に作品を寄稿していた、とある。

8 ヴィクター・マクルーア 「ドアの向こうの死」

Death Behind The Door (1933) by Victor MacClure (1887-1963)

ミステリにおいて建築物は大事な役割を果たすことが多い。

以前、私はジョン・ミード・フォークナーの「雲形紋章」を紹介したが、そこにおいてカラン大聖堂の建築学的「接ぎ木」構造が、その土地を支配するブランダマー家の家系の「接ぎ木」構造を暗示しているのだと書いた。カランの社会の隠された秘密が建築物によって堂々と人々の目の前にさらされていたのだ。オルガン奏者やマーチン・ジョウリフのように古文書を必死になってあさらなくてもいい。真実は物質的な外形にあらわれている。

メアリ・エリザベス・ブラッドンの「オードリー夫人の秘密」を訳した際、私は小説の中に出てくる二つの建築物に着目して解説を書いた。いつか別の機会に番外編で書こうと思うけれども、私はこの二つの建築物に「オードリー夫人の秘密」を構成する二つの論理が明快に表現されていると考えた。

「ドアの向こうの死」にもきわめて興味深い建築物が登場する。一言で言えば、それは男同士の友情、男同士の共同体を表現したものなのである。女性的な装飾性を一切排し、簡素で禁欲的な構造を持つ屋敷、まるで地面の下から生えてきたように見えるくらい、周囲と調和した家、スコットランド・ヤードの名警部アーチー・バーフォードが一目見てそこに住みたいと思うような、完璧な「男の」建築物なのだ。

この屋敷を設計したのはルーパート・カイルという男だった。彼は浪費癖もあって、金銭的には恵まれない生活を送ってきた。いろいろな職業を転々とし、今は推理小説も書いている。彼を金銭的な面で援助してきたのが屋敷の主グレイム・ウエイクリングで、ルーパート・カイルは彼に非常な恩義を感じている。

ルーパート・カイルは世間的には名を知られていないが、しかし一個の芸術家である。そして芸術家の例に漏れず、ある強固な信念を持っていた。彼は、男同士の共同体とその純粋性をこの世の最高のものと考え、女性を蔑視していたのである。

この作品はアリバイ崩しが主眼になるから犯人の名前を言ってしまってもいいだろう。
事件は、ルーパート・カイルが、自分の創作物である屋敷に女性的な要素を付け加えられることを絶対的に拒否したことから起きる。彼は彼の親友であるグレイム・ウエイクリングのためにこの屋敷を設計した。ウエイクリングが住む場所としてこの屋敷は完璧であるし、ウエイクリングもここを気に入っている。しかしウエイクリングが死んだら屋敷は縁者の女性エドナ・ケインの手に渡ることになる。あるいはウエイクリングがケインと結婚するという事態に立ち至る可能性もないわけではない。しかしいずれの場合においても屋敷は女性によって変更を加えられ、男性原理は乱されるだろう。女性を男性よりも一段低い存在と見なす建築家にはそれが耐えられなかった。男を悩ます女、男の純粋性を汚す女が許せなかった。

そこでルーパート・カイルはエドナ・ケインを殺そうとして屋敷のクロークルームに細工をする。ドアを開けるとライフルが倒れかかり、思わず彼女がその銃口をつかんだとたん、つまり銃口が彼女の体に向かっている瞬間に、床の裂け目から通した紐で地下室にいるカイルが引き金を引くという寸法である。それがうまくいけば彼女の死は自殺か事故死にみせかけることができるはずだった。ところが計画は破綻した。エドナ・ケインはクロークルーム来ず、かわりに彼の親友であり、屋敷の持ち主であるグレイム・ウエイクリングがドアを開けたのだ。カイルは男の共同体の純粋性を保とうとして、逆にそれを破壊してしまったのである。

もちろんここに単なる女性蔑視、ショービニズムの個別的実例を見てはいけない。男と女、陰と陽というものはアリストテレスの昔から哲学的主題だった。シェイクスピアもたとえば「冬物語」においては、ユートピア的男性共同体と女性との関係を問題にしているし、先ほどちらと名前を出した「オードリー夫人の秘密」も男性的な原理と女性的な原理の対立を描いていると見ることも可能だ。この屋敷の問題性は哲学、文学、社会学など多方面にわたる歴史的な議論と関連させて考えるべきものだろう。ついでに言うと、「オードリー夫人の秘密」を読みながら私が考えたのは、女性原理なるものは男性原理が行き詰まった地点に捏造されるものではないかということだ。

私にはこうした興味があるので「ドアの向こうの死」を非常に面白く読んだ。

この作者の本名はトム・マックウォルター(Thom MacWalter)といって探偵小説やスリラー、さらにSFも書いている。すばらしい文章家だ。とりわけスコットランド・ヤードの警部アーチー・バーフォードがこの事件を他殺であると証明するくだりは圧倒的な迫力である。事実と事実を論理によって結び合わせ、疑問の余地のない結論へと導いていく手際のよさは、作者が並の書き手ではないことを証明している。

さらにこの作品が通常のミステリの展開をわざと踏み外している点もよい。アーチー・バーフォード警部はルーパート・カイルこそ犯人に違いないと考え、その証拠を必死になってかき集めようとするのだが、結局彼は失敗するのだ。彼の犯罪を物的な証拠によって証明することができなかったのである。バーフォード警部が捜査の結果を上司に報告し、上司が警部を「仕方がないね」と慰める場面を読んだとき、私はショックを受けると同時に、その新鮮さにさわやかな風が吹き抜けたような気分になった。この作者の作品は必ずすべて読まなければならない。

2015年9月9日水曜日

7 ヘンリー・カットナー 「エレナー・ポープ殺人事件」

The Murder of Eleanor Pope (1956) by Henry Kuttner (1914‐1958)

この小説が面白いのは、現実の殺人事件の捜査と、その犯人かもしれない男の精神分析が同時に進行する点である。

殺人事件というのはエレナー・ポープという女性がサンフランシスコのとある賭博場を出たあと、暗がりで撲殺されたというものである。財布から金が盗まれていないことから単なる物取りの犯行ではないだろうということになっている。

事件が起きてすぐに精神分析医マイケル・グレイのもとにハワード・ダンという男が訪ねてくる。彼は精神状態が不安定で、マイケルに治療をしてもらいたいのだ。直らないと妻の兄、つまり義理の兄に施設送りにされると怯えている。

ハワード・ダンは決して狂人ではないが、ひどく不安定で、時々錯乱したようになる。グレイは彼の家族が治療に協力することを確認してからダンの分析に取りかかる。

さて、このハワード・ダンは殺されたエレナー・ポープと非常に深い関係にある。まずエレナー・ポープは先ほど述べた義理の兄の奥さんだった。次にダンはエレナーと肉体的関係を持っていた。ダンは義理の兄を父親のように見なしていたので、精神分析の知識のある人ならここにエディプス的な関係が潜んでいることを見抜くだろう。つまり義理の兄(父)、エレナー(母)、ハワード(子)という関係である。

さらにエレナーは賭博中毒とでもいうものにかかっていて、ダンから金をせびり取っていた。そしてもしも金を渡さないなら、自分たちの関係を義理の兄にばらすと脅したのである。つまりハワード・ダンはエレナーを殺す動機を持っているのである。

しかしダンは本当にエレナーを殺したのだろうか。グレイのオフィスで展開される分析治療は、その興味のために異常なサスペンスにあふれている。ただし、ダンが安楽椅子の上で語ることはきわめて混乱している。ダンと妻の関係、ダンと父の関係、ダンと義理の兄の関係、さらにダンとエレナーの関係が重層的に重ねられ語られるからだ。さらに無意識のうちに彼はある事実から目を背けており、それを頑固に語ろうとしない。

そのためこの場面では読者に辛抱と冷静さが要求される。わかりにくいと本を投げ出さずに、そのわかりにくさを心に留め置いて、後の解決を待たなければならない。

グレイが最後に語る殺人事件の全貌とハワード・ダンの心理パターンの説明は、理論的な洗練さを欠いていて、充分満足のいくものではないが(とくにダンの特殊な性的傾向を指摘するくだりは説得的ではない)、しかしジャンル小説としてはまずまずの出来だと言えるのではないか。

私は一九五〇年頃のアメリカに於ける心理分析がどのように行われていたかまったく知らない。おそらくここに描かれている治療のやり方は、実際とは大いに異なるのではないか。しかしそれを言ってこの作品をとがめるのはヤボというものである。ミステリはゲームであって、この本に提示されているゲームの規則に従ってわれわれは遊ぶべきなのである。

しかし心理的な推理と、物的証拠から展開される演繹的推理の相性の悪さはこの作品にも見られる。心理的な推理はどうしても「そうも考えられるが、証拠がない」となってしまう。決定力が不足しているのである。

精神分析学の開始とミステリ隆盛のきっかけが歴史的にほぼ同時期ということもあって、両者の間には少なからぬ縁があるのだけれど、精神分析の論理とミステリの演繹論理を組み合わせた作品というのはそんなに多くない。それがめざましい効果を上げている作品となると、少なくとも私は目にしたことがない。逆に精神分析学者がミステリ作品を読み解くときに、興味深い議論が展開されるようだ。たとえばジャック・ラカンがポーの「盗まれた手紙」を分析した論文とか、スラヴォイ・ジジェクのスティーブン・キングやパトリシア・ハイスミスの作品分析などはじつに鋭く興味深い。いったいこの非対称性はなんなのだろう。案外深い意味がありそうな気がする。

作者のヘンリー・カットナーはロサンジェルスに生まれたアメリカ人。SF作家かと思っていたら、精神分析医マイケル・グレイを主人公にしたミステリを四冊書いているようだ。本書の他のタイトルは
The Murder of Ann Avery (1956)
Murder of a Mistress (1957)
Murder of a Wife (1958)
である。作者が心臓発作で死ぬ直前に書かれた四編の長編小説はみなミステリだ。もう少し長生きをしていたらもっとミステリを書いていたかもしれない。残念だ。

2015年9月5日土曜日

6 フォックスホール・デインジャーフィールド 「陽気な九十年代殺人事件、あるいはヴィクトリア朝的犯罪」

That Gay Nineties Murder Or, A Victorian Crime (1928) by Foxhall Daingerfield (1887-1933)


これはダブルデイの「ザ・クライム・クラブ」から出た作品。

表題の gay nineties というのはウィキペディアによると一八九〇年代をノスタルジックに指すアメリカ英語で、イギリス英語の naughty nineties にあたるようだ。引き続きウィキペディアから引用すると、九〇年代はビアズレイのデカダンな絵、ワイルドのウイットの効いた劇と彼の裁判、上流社会のスキャンダルと婦人参政権運動の開始などに彩られた十年である。アメリカでこの用語がつかわれるようになったのは一九二〇年代で、リチャード・V・カルターが雑誌「ライフ」に the Gay Nineties と題する一連の絵を載せたことがこの言葉が流布するきっかけだったらしい。カルターがその絵を本にまとめて出版したのが一九二七年だから、デインジャーフィールドはその翌年にこの流行語をタイトルに取り入れたミステリを出版したわけだ。彼の幼年期が九〇年代だから、案外なにかの思い入れがあったのかもしれない。

本書の事件が一八九〇年に起きるためか、文体も回りくどくて、大げさで時代がかっている。おまけに主人公で探偵役のミス・コーネリア・ハンターはこの頃の上流婦人の例にたがわず、なにごとをするにもゆっくり時間をかける。今の人間のようにせかせかしてはいないのだ。そこで読むほうも覚悟を決め、のんびりとした気持ちでヴィクトリア朝的犯罪なるものを愉しまなければならない。

しかしこの本は読んでいてあくびを連発するようなしろものではない。事件の背後で何が起きているのかを見抜くことは相当に難しい。私は最後の数ページで明かされる真相に、ああ、そうかと思わずつぶやいた。分かってしまえば、なるほど十九世紀後半に流行っていた、メロドラマ的な小説の中にこういうのがあったな、などと思い当たることも多々出てくるのだけれど。

さて、事件は一八九〇年六月、ケンタッキーのハリスヴィルという片田舎で起きる。主人公のミス・コーネリア・ハンターは四十過ぎの未婚女性で黒人の召使いとともに一人大きな屋敷に住んでいる。暑苦しい、いやな日々がつづくある夕方、隣のアップルドア家で悲劇が起きた。アップルドア家の主人は絨毯を売っている商売人で、奥さんと娘さん二人、さらに商売の手伝いをしている若い男がいっしょに住んでいる。その娘さんのうち、年若いほうが自殺をしたのである。

家族によると自殺の原因は「報われぬ恋」ではなかったかと言う。彼女はもと医学生で今は父親の商売を手伝っているエルティンジという青年に恋をしていたのだが、エルティンジは彼女ではなく彼女の姉を愛していたのである。死因審問でも彼女の死は自殺と結論された。

しかしコーネリア・ハンターはこの事件に奇妙な印象を抱いていた。第一にエルティンジが彼女の家に来て異変を知らせたとき、死んだ娘は「殺された」と言っていたからだ。第二に、慌てて現場に駆けつけた彼女は、娘の額が銃で撃ち抜かれているだけでなく、そこが酸のような薬品で焼けただれているのを見た。死体のそばには自殺に使ったと思われる銃が転がり、手には薬品の瓶が握られていた。娘は酸を飲み、それから額を打ち抜いたのか? その際に薬品が額にもかかったのだろうか。さらに現場には薬品の瓶のラベルがはさみで切られ散らばっていた。自殺の前になぜラベルを切ったりしたのか。

それだけではない。彼女は死んだ娘の部屋に入ったとたん、地下室と屋根裏部屋の双方からほぼ同時にドスンという大きな音を聞いた。

いかにも秘密がありそうな状況である。

アップルドアの人々は、事件のあと、悲劇の起きた家にいるのはいたたまれないと、旅に出ることになる。私は事件の当事者たちがいなくなったら話が進まなくなるじゃないかと心配したが、杞憂だった。彼らが家を出てからも次々と奇妙な出来事が発生する。その出来事の背後には一貫した意味があるのだけれど、それを見抜くのは、さっきも言ったように容易なことではない。私はその謎に牽引されてこの物語を最後まで読んだ。

ある意味でこれは実験的な作品である。ミステリも小説も一九二〇年代に大きな変貌を遂げた。簡単に言うと、ミステリはメロドラマの色彩が濃い探偵物語から、演繹的論理に主眼を置いた近代的ミステリになり、小説は十九世紀的なリアリズム小説がモダニズムの小説に変貌したのである。The Gay Nineties Murder は、古い探偵物語の素材と文体を用いながら、しかし近代ミステリ風の構成・展開を試みた作品と言える。古い酒を新しい革袋に盛ったようなものだ。その試みが成功しているかどうかは疑問だが、少なくとも退屈せずに読める程度には仕上がっている。

2015年9月2日水曜日

番外1 ジョン・ミード・フォークナー 「雲形紋章」

The Nebuly Coat (1903) by John Meade Falkner (1858-1932)

プロジェクト・グーテンバーグ所収

フォークナーが紋章、建築、音楽、宗教に関する蘊蓄を傾けて書いたゴシック・ミステリで、ドロシー・L・セイヤーズなどに多大な影響を与えた一作である。フォークナーはもともと実業家であって小説は余技に過ぎない。しかし彼の作品はいずれも光るものを持っている。

1 あらすじ

物語はロンドンのとある建築会社から、若手の建築家ウエストレイが、カランという田舎町に派遣される場面からはじまる。カランというのはドルセットにあるさびれた港町で、観光に訪れる人もなければ、地域の経済を支える産業もとくにないという、うらぶれる一方の場所である。しかしここには歴史的に貴重な大聖堂があって、若いウエストレイはその修復工事のために赴くことになったのだ。

Steve Savage Publishers版。楯に描かれた波線模様が雲形紋章。



















工事を指揮しながらカランに住むようになったウエストレイは、奇妙な噂を聞くことになる。カランには、その町の最有力者として尊敬されているブランダマーという一族がいる。十六世紀の宗教改革の頃からつづく由緒ある一族で、大聖堂にはその名を冠した側廊があり、ステンドグラスにはその一族の紋章、本書のタイトルでもある「雲形紋章」が描かれていた。この一族はつい最近、代替わりをしたばかりだった。先代のブランダマー卿が高齢で亡くなり、その孫が新たなブランダマー卿となったのである。ちなみに先代のブランダマー卿の息子は、海で溺れ死んでいた。ところが、カランの町には、その孫にはブランダマー卿の地位を継ぐ権利はない、権利があるのは自分であると主張する者がいたというのだ。それが、ウエストレイが泊まっていた下宿屋の娘(アナスタシア)の父マーチン・ジョウリフだった。

筋書きがあまり長くならないようにここで話をはしょるけれども、マーチン・ジョウリフの主張は正しかった。じつはマーチン・ジョウリフの父親は、高齢で亡くなった先代のブランダマー卿だったのである。ブランダマー卿は若いときにマーチンの母親と結婚していたのだ。しかしそれは秘密裡にとりおこなわれたために誰もその事実を知らなかった。その後二人は別れたのだが、肝心な点は、結婚自体は法律的にずっと有効なままだったということだ。ブランダマー卿はべつの女性(世間からブランダマー夫人とみなされていた女性)と結婚したものの、そちらの結婚は法律的効力を有せぬために、彼らのあいだに生まれた子供も、その孫も、当然ながらブランダマー卿の地位を継ぐ権利を持っていないのである。

しかし執念深く記録をあさってこの秘密の核心に近づきつつあったマーチン・ジョウリフは殺されてしまう。間違って薬を飲み過ぎたのが死因と見なされたが、実は殺されたのだ。そしてマーチン・ジョウリフの死後、彼がかき集めた資料を読んで同様に秘密の核心に迫ったオルガン奏者シャーノールも殺される。彼は事故死と判定されたが、本当は撲殺されたのだ。殺したのは新しいブランダマー卿、つまり先代の孫に当たる男が殺害したのである。もちろん自分が偽のブランダマー卿であることを暴露されないように、だ。

若き建築家ウエストレイはカラン滞在中に、ブランダマー家の秘密のことも、ブランダマー卿の人殺しのことも知り、その確実な証拠も握った。そしてウエストレイはそれをブランダマー卿に突きつけるのだが……しかし彼は証拠の品をブランダマー卿に渡してしまい、自分はあなたを告発しない、聖堂の修復工事から手を引き、会社もやめるつもりだ、と言うのである。ブランダマー卿とのそれまでの交友、ウエストレイが愛した女性(宿の娘アナスタシア)が、そのときまでにブランダマー卿の妻となっていたという事実、そうしたことが彼の決心をにぶらせてしまったのである。

その決定的な対決が行われた日の翌日のことだ。カランの精神生活のシンボルとも云える大聖堂の巨大な塔が崩壊した。崩壊の直前、塔を検査していたウエストレイは、ドアが開かなくなり、鐘楼から出られなくなる。彼の必死の叫び声を聞いてブランダマー卿はテコを手にして、崩れかけている塔に飛びこみ、ドアを開けてやる。ウエストレイはだれが助けてくれたのかもわからぬまま、ドアを飛び出し、聖堂を抜け、外に出る。ところがブランダマー卿は急ぎもせず、慌てもせず、いつもの修復工事の視察から帰るかのように階段を降りた。そのとき、鐘の音は入り乱れ、大砲のような轟音がし、地を揺るがす震動が走ったかと思うと、白い埃がもうもうと立ち上って塔は崩れ落ちたのだった。ブランダマー卿は崩壊した塔とともに、その生涯を閉じた。

2 接ぎ木の問題

建築の本をいろいろと読んで知ったのだが、ゴシック建築で有名な教会は、建物のすべてがゴシック様式で建てられているわけではない。補修や建て増しをする際などには、その時々の建築様式が取り入れられるのだそうだ。

カランの町の大聖堂にも建築様式の混淆が見られるが、中でもとりわけ注目しなければならないのはアーチと塔の関係である。まず千百三十五年にノルマン様式のアーチが建てられ、後代になってゴシック様式の巨大な塔がその上に載せられた。ノルマン様式のアーチは頑丈ではあるけれど、それを造った建築者たちは、塔がその上に積み上げられることは予想していなかった。つまり、塔はアーチの上に「接ぎ木」されたのである。そのためアーチに思わぬ負担がかかり、塔は結局崩壊してしまうのだ。

本来載せられるべきではないものが土台の上に載っているという、この関係に着目してほしい。

ブランダマー卿の地位は、十六世紀から正当に継承されてきたが、それが先代のブランダマー卿の無分別な結婚によって途切れてしまう。新しいブランダマー卿はその地位に就く正当性を持たない偽物であり、偽物なのに正統の系譜の上に鎮座している「接ぎ木」のような存在なのだ。

カランのシンボルとも言うべき聖堂の塔と、カランの支配者であるブランダマー家のあいだにはアナロジーが存在している。

本書の初めのほうでオルガン奏者がウエストレイにこう語っている。

きみは物とか場所が人間の運命と固く結びついている、なんてことを考えるかい。どうもこのおんぼろ礼拝堂はわたしにとって命に関わる場所のような気がする。

これはブランダマー卿と聖堂の関係を見落とすなと注意を呼びかけているのである。

大聖堂の塔と新しいブランダマー卿のパラレルな関係が理解されれば、クライマックスにおいてブランダマー卿が崩壊する塔の中で死ぬのは物語論的必然であることが理解されると思う。

3 帝国主義

塔の崩壊、ブランダマー家の権威の失墜によってあらわされているのものは、イギリス帝国主義の衰退ではないか、というのが私の見立てである。

巨大な塔を背負うアーチは、本来自国の領土ではない植民地をますます拡大させ、背負い込もうとするイギリスの姿を容易に想起させる。十九世紀に入ってからイギリスは植民地を増やした。しかし常備軍を維持し、膨大な数の退役軍人に恩給を支払うために、多大な経済的負担に苦しむことになった。塔を載せることなど予定せずに造られたアーチが、巨大な重量に耐えかねて、ひび割れし、ぐらぐら揺れる様子は、十九世紀イギリスの現実とぴたりと重なっているように思える。ジョン・ブルが地球を背中に背負い、その重みに苦しんでいる姿は漫画にも描かれた。

イギリスのアトラス、あるいはジョン・ブル、平時編成軍隊を支える
ナポレオン戦争後のイギリスを諷刺した漫画。ジョン・ブルの頭の上には「13万の兵士からなる常備軍、おびただしい数の参謀」とあり、ポケットには未払いの請求書が詰まり、下に落ちている紙には軍隊がいかに金がかかるかと言うことが説明してある。チャールズ・ウィリアムズの作品。


















 ジョン・ブル「重いかって? そりゃ重いさ。しかし栄光のことを考えてみろ」
ボーア戦争の際、イギリス国民に課せられた付加税を揶揄している。右の人物はチェンバーレイン。左の板には「ボーア戦争の費用、五億ドル」。R.C.ボウマンの作品。
















ブランダマー卿をイギリス帝国に見立てることは少しも無理なことではない。久しぶりにカランにあらわれた新しいブランダマー卿はヴィクトリア女王の姿に比されているのだから。

聖歌隊席の反対側から彼を見ると、その姿は素晴らしい一幅の絵になっていた。黒いオークでできた修道院長ヴィニコウムの席がちょうどその額縁の役割を果たしていた。頭上には天蓋があり、その先端は葉飾りや頂華に飾られ、座席の木の背板には楯が描かれていた。よく見るとそれは緑色と銀色の雲形線を持つブランダマー家の紋章だった。恐らくそのあまりにも堂々とした風采のためなのだろう、赤毛のパトリック・オブンズはちょうどその日手に入れたオーストラリアの切手を取り出し、王冠をかぶってゴシック風の椅子に座るヴィクトリア女王の肖像を隣の少年に指し示した。

ヴィクトリア女王が領土を拡大しつつあった十九世紀イギリスの象徴であったことは言うまでもない。ブランダマー卿の堂々たる姿は、まさにその女王にそっくりだった。

また、この物語の中で「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」という句が何度も繰り返されるけれど、「アーチは決して眠らない」という言葉はなんとなく「太陽の沈まぬ帝国」を想起させはしないか。

つまり塔の崩壊、ブランダマー卿の権威の失墜を通して、「雲形紋章」はイギリス帝国主義の没落を示しているのではないか、というのが私の解釈だ。

もしも私の解釈が正しいのなら、「雲形紋章」は一見して地方の生活をリアリスチックに写し出した作品のようでいて、じつはイギリスの運命を二重写しに描いた、暗示的な小説ということになるだろう。大聖堂の鐘の音が、なぜか鎮魂歌のように胸に響いてくる作品だと思う。

2015年8月29日土曜日

5 リー・セアー 「Q.E.D.」

Q. E. D. (1922) by Lee Thayer (1874-1973)

作者の生年と没年を確認して驚いた。ずいぶん長生きをした人である。ペンシルベニアに生まれ、ミステリを書く以外にも、イラストレーターとして活躍していたらしい。ミステリは一九一九年に書かれた The Mystery of the Thirteenth Floor から一九六六年の Dusty Death に至るまで六十作以上の長編を書いている。そのほとんどは赤毛の探偵ピーター・クランシーが活躍するものであるということだ。

ピーター・クランシーが何歳なのか、本編を読んだ限りではわからない。しかし本文には young man と書かれているし、山道を精力的に歩いて捜査する容子を見ると三十歳くらいなのだろうか。若いけれども探偵としての活躍はすでに広く世間に知られているようだ。リー・セアーの作品はほかに読んだことがないので、はたしてピーター・クランシーが作者とともに年を取っていったのか、それとも同じ年齢のままなのか、わからない。しかし作者が長生きしただけにちょっと興味がある。

本編ではクランシーは友人のハリソン・カーライルに招かれて、ニュージャージーにある彼の家へ遊びに行くことになる。カーライルはさらに二人の友人を呼んで、近くを流れる川で釣りを愉しもうとしていた。その二人の友人とはロバート・ケントとルイス・フッドだ。そのうちロバート・ケントはカーライルの家に泊まっているのだが、ルイス・フッドは近くにある彼の家にいた。彼らはカーライルの家に集まって、それから一緒に夜釣りを楽しみに出かけるはずだった。

ところが約束の時間になってもルイス・フッドが来ない。しびれを切らしたカーライル、クランシー、ケントは車に乗ってフッドの家まで行くことにした。道は一本道だから行き違いになることはないはずだった。

フッドの別荘に着いたカーライルたちは車を降り、かすかに降り積もった雪を踏みしだいて玄関へ行き、ブザーを鳴らそうとした。その瞬間、月明かりの中に死体を発見したのである。テラスから芝生に降りる階段のところに人が死んで倒れていたのだ。その家の住人ルイス・フッドではなく、別の見知らぬ男だった。

この死体には奇妙な特徴があった。まず喉を切り裂かれ、首が折れて異常な角度に曲がっている。その折れ方はどう見ても人為的だ。つまり彼は殺されたように見える。ところがあたりに積もった雪を見ると、殺された男の足跡が、倒れている場所まで一本、ついているだけなのだ。もしも他殺なら、殺害者の足跡もあるはずなのにそれがない。

最初に警察の捜査の対象となったのは、死体が発見された家の主、ルイス・フッドである。彼は警察官にせっつかれてしぶしぶ以下のような事情を話した。死んだ男は彼の昔の友人で、人生に絶望して彼のところにやってきた。あやうくフッドの目の前でピストル自殺しそうになるのを食い止めて、千ドルという大金を渡し帰してやった。フッドは見送りに外には出ず、釣りに行く準備をするため、すぐに家の奥にひっこんだので、その友達がテラスから降りるところで殺されたことなど、まったく気がつかなかったという。

しかし昔の友人とはいえ、何年も会っていない人間に、千ドルもの大金をいきなりぽんと渡すものだろうか。それにフッドが何かを隠そうしていることが、その態度からありありとわかる。警察がフッドを最重要容疑者として事件の捜査に当たるのは当然だろう。

だが友人の友人であるフッドを犯人とは考えないクランシーは、休暇を返上して彼の汚名を晴らそうとする。

作者は堂々とすべての手掛かりを提示しているので、話を丁寧に追い、かつ想像力を働かせれば、犯人を特定することも、不可能犯罪の物理的トリックに思い至ることも比較的容易ではないだろうか。私はこのレビュー記事を書くためにメモを取りながら読んだけれども、事件の背景も事件の経過もほぼすべて推測できた。そのため犯人がわかっても意外さはなかったが、しかしそれは逆に言うと、作者が非常にフェアな推理ゲームを展開しているということだ。「Q.E.D.」というタイトルはだてじゃない。推理小説として水準以上の出来映えを示していると思う。書かれた年代を考えれば相当に評価すべき作品だろう。

ただ正直に言って、私はこういうパズルストーリーには食傷している。確かに捜査はテンポよく進み、終盤には追跡劇を展開してサスペンスを盛り上げ、犯人の最後に一抹のイロニーを込めてはいるものの、結局のところパズルを構成する事実が羅列されているにすぎないこうした物語の、砂をかむような味気なさには辟易とせざるを得ない。

2015年8月27日木曜日

4 エセル・リナ・ホワイト 「恐怖が村に忍び寄る」

Fear Stalks the Village (1932) by Ethel Lina White (1876-1944)

この作品は何度も読み返し、じっくり考えた上で論評すべき作品である。それくらい内容のある見事な作品だ。

簡単に筋をまとめると、「平和に暮らしている村人たちに、悪意ある匿名の手紙が届くようになり、ついに死者が出る」という話で、同様の設定を持ったミステリとしてはアガサ・クリスチーの The Moving Finger がある。しかし Fear Stalks the Village は一九三二年の出版で、クリスチーの作品は四二年の出版だから、ホワイトのほうが十年ほども先行している。私が The Moving Finger を読んだのは何十年も前のことでいつか比較のために再読しなければならないが、Fear Stalks the Village のほうが圧倒的に理知的でアトモスフェリックに仕上がっていると思う。

舞台はイングランド南部の丘陵地帯にある小さな村だ。近くに鉄道はなく、かろうじて最近バスが通るようになったに過ぎない。しかしこの僻村には慈悲の精神が行き渡っているため、貧乏や失業で生活に苦しむ人はいない。上流の家庭は使用人不足で悩むことはなく、かりに家族の間に葛藤が起きてもそれが人々の目にさらされることはない。村人たちの付き合いは「ローズマリーのようにかぐわしく」、スキャンダルは「一角獣とおなじくらいにまれ」である。まるで地上の楽園のような場所だ。

この村の中心人物、村の女王と呼ばれているのがミス・アスプレイという六十代の老婦人で、慈悲の化身のような人物である。彼女のセカンド・ネームはヴィクトリアで、ヴィクトリア女王が当時勃興しつつあった中産階級に規範的価値を示す人物であったように、ミス・アスプレイも村人たちに模範的生活態度を教え、そうすることで村を dominate し、尊敬を集めているのだった。

村の中心人物としてもう一人、いや、もう二人名前を挙げておこう。スクーダモー夫妻である。彼らは「村の精神」と呼ばれ、夫は法律家であり、妻は村人の趣味の基準を決定するような人物だ。たとえば彼女が「お化粧は趣味がよいとはいえない」とのたまえば、村の人はみんな化粧をしなくなるのである。

子供もそんなに生まれなければ、死ぬ人も滅多にないという、まるで時間の止まった天国のような村に、あるときから匿名の、悪意ある手紙が届くようになる。その最初の被害者はミス・アスプレイ、村の女王だった。彼女は「おまえは自分が貧民街の最低の女よりすぐれた存在だとでも思っているのか」というなんとも嫌らしい手紙を受け取ったのである。

これがきっかけとなって、その後いろいろな人に同様の悪意ある匿名の手紙が届くようになる。平和な村の雰囲気は一変し、村人たちは交際を避けるようになった。中には自分が犯した過去の罪をばらされるのではないかと不安におびえる人々も出てきた。タイトルにある「恐怖」とはこの不安のことにほかならない。スクーダモー夫人はこの不安に耐えきれず、とうとうガス自殺をし、夫もその直後に銃で頭を撃ち抜いてしまう。

この匿名の手紙の書き手は誰なのか、それをイグナチウス・ブラウンという素人探偵が探っていく。殺人は起きないが、ホワイトらしい強いサスペンスに充ちている。

このスリラーが理知的な構造を持っていることは、冒頭において、村の内部と外部が対立的に描かれていることからもわかるだろう。村はあたかも中空に浮く球体のように、それ自体で自足しており、その内部にいる者にとっては、村が世界のすべてであり、村の風習は自然であり、当然であるように感じる。しかし外部から来た者、つまりバスに乗って村に来た者にとっては村のすべてが自然・当然に見えるわけではない。村の人々には見えないものが、外部の人間には見えることがあるのである。そのような外部の視線によって、最初は地上の楽園のように描かれていたこの村社会にはある盲点が存在していることがわかるようになる。

しかしこの作品が問いかけるいちばん大きな問題は次のようなものだ。もしも村が善意や慈愛に満ち、時代に流されない堅固な道徳観念に支配されているのなら、匿名の手紙にあらわされる悪意はどこから来たのか。

ホワイトが考えているのは、それは内部から来る、ということだ。まさに善意や慈愛や道徳の内部からそれとは逆のものが噴き出してくるのである。「村の精神」は、「村の精神」とは相容れないある出来事から生まれてきたのであり、その不都合な起源を隠蔽することで存在しつづけていたのである。「村の女王」ミス・アスプレイの慈善の精神も、その根底にはパソロジカルでグロテスクななにものかが身を潜めていることがわかる。

私には犯人を究明する推理の過程が、善意や慈愛の論理構造を腑分けし、そこに隠された、ある種のゆがんだ形を剔抉する過程のように思えてしかたがなかった。これは単なるサスペンスではない。サスペンスの形で哲学をしているのである。

しかし私は「単なるサスペンスではない」と言いながら、同時にこれこそミステリの正統的な主題ではないかとも思う。私はミステリの源流の一つとされる「オードリー夫人の秘密」を数年前に訳してアマゾンから出版した。その解説で書いたことだが、オードリー夫人は、ヴィクトリア朝時代における女性の最高の徳を有しつつ、同時に殺人者でもあるという、両極端が一致する奇怪な存在なのである。この奇怪な両極端の一致は、ヴィクトリア朝時代における女性の理想像なるものが、じつは内的に破裂していることを示している。Fear Stalks the Village もまさにそのような内的な破裂を問題にしているのだと思う。いずれの作品もその結末は悪が外部に追いやられ、内部の秩序が回復されたように書かれているが、そのような単純な図式ではこの作品の可能性を読み解くことはできない。

Fear Stalks the Village はホワイトの作品の中でも、またミステリの歴史の上でも、なんら注目を浴びていないようだけれど、いったいどういうことだろう。私の目にはとてつもない問題作と見える。それどころかホワイトの作品全体の読み直しを迫るもののように思える。

2015年8月22日土曜日

3 ジョン・T・マッキンタイア 「美術館殺人事件」 

The Museum Murder (1929) by John T. McIntyre (1871-1951)

洋の東西、知性のあるなしを問わず、他人に難癖をつけて怒らせ、その怒った表情を見て自らの鬱屈をはらすという、さもしい人々がいる。「美術館殺人事件」で殺されるのはそのような人間であって、私は彼が殺されたとき、何ら同情を感じず、かえって快哉を叫んだくらいである。見方を変えて言えば、殺された人物の嫌らしい性格が、彼が殺されるまでの短いページ数の中に的確に表現されているということだ。上手な一筆書きのように見事に特徴をとらえているからこそ、彼が死んだときに私は快哉を叫んだのである。

この作品の中にはずいぶん大勢の人々が登場するが、それぞれの個性が巧みに描き分けられている点には感心する。彼らの顔を思い浮かべることはできないけれど、その体型や、彼らが醸し出す雰囲気みたいなものが伝わってくるのである。主人公で探偵訳を勤めるダディントン・ペル・チャルマーズは若くて太っていて美食家で、人好きのする人物である。殺されたのはカスティスという男で、ダディントンとともにグレゴリー美術館の理事を務めている。彼は周りにいる人々を怒らせては口元を押さえながらくすくすと笑う男だ。いかにも陰湿な感じの人間だ。この美術館にはもう一人、ハヴィズという理事がいる。彼は画家でもあるのだが、濃い眉毛の下の眼には燃えるような光が宿り、ある種の熱情と芸術家らしい気まぐれさを持ち合わせている。またカスティスの秘書はその眼に退廃的な生活の澱がたまっており、シアネスという美術愛好家でもある大実業家は、自分の利得のためならどこまでも酷薄になり得る人間だ。そうした特徴が、類型的な表現をともないながらも、じつによく書き表されている。

粗筋を紹介しておこう。グレゴリー美術館は三人の理事によって運営されている。すでに述べたようにそれはダディントン、カスティス、ハヴィズである。このうちいちばんの嫌われ者であるカスティスが、美術館の閉館後に階段近くで刺殺される。なにしろ彼には敵が多いし、事件当日もいろいろな人に嫌がらせをして彼らを憤慨させているから、容疑者はたくさんいる。しかし誰が犯人であろうと、その動機は「憎しみ」だろうと警察は考えた。

ところが事件が発覚してからしばらくすると、美術館に展示してあったある名画が切り取られ、盗まれていることがわかったのである。どうやらこれは単純な憎しみによる犯罪ではないようだ。

この盗まれた名画には曰く因縁がある。この作品はずっと昔、シアネスという実業家が惚れ込み、なんとしても買い取ろうとやっきになったものなのだ。ところがシアネスと犬猿の仲のカスティスが嫌がらせをし、美術商やら関係者に手を回して、その絵を美術館の所蔵物にしてしまったのである。出し抜かれたシアネスはかんかんに怒った。

ところがここからシアネスは不可解な行動を取る。彼はカスティスの嫌がらせをすっかり忘れてしまったかのように、グレゴリー美術館に貴重で高価な美術品を寄贈するようになったのである。じつはシアネスのこの変節が事件を解く大きな鍵の一つとなる。

警察は事件が起きた夕刻から関係者全員を美術館に集合させ、一人一人尋問していく。しかし警察は美術界の内情を知らず、まるで見当はずれの男を犯人の候補にしてしまう。彼らは真夜中まで捜査・尋問を行い、その見当はずれの男を逮捕するつもりらしい。そこでダディントンは彼を救うために、真犯人捜しに乗り出す。犯人は美術館の中にいる誰かのはずだ。しかし時間はあまりない。はたしてダディントンは真夜中までに事件の真相を突き止めることができるだろうか。

話の筋はだいたいこういう感じである。事件の関係者が全員、美術館の中にいるという空間的な密閉感、真夜中までに真犯人を捜さなければならないという時間的な切迫感がサスペンスを盛り上げるのに役立っていることは言うまでもない。

マッキンタイアの作品を読むのはこれがはじめてだが、意外な面白さにびっくりした。単に謎を構成するだけでなく、小説の書き方をよく知っている人だと思った。ウィキペディアによると彼は一九三六年に Steps Going Down という作品で All-Nations Prize Novel Competition に入賞しているらしい。私はこの賞がどのようなものかまったく知らないけれど、小説家としてそれなりの実力を持っていたということなのだろう。Steps Going Down も含めてほかの作品もいくつか読んでみたい。

2015年8月19日水曜日

2 ルイス・トリンブル 「殺人騒動」

Murder Trouble (1945) by Louis Trimble (1917-1988)

小説の冒頭の文章が、物語全体の雰囲気を決定する、という場合がある。L.P.ハートレーの繊細な名作 The Go-Between の出だしなどがその好例だ。Murder Trouble を読み始めた時も、最初の一文がこの作品のトーンをあらわしていると思った。
低く垂れ込めた平らな雲から雪がちらつく、寒くて暗いある日のことだ。
主人公=語り手であるトム・ハラムはサンフランシスコの新聞社で記者をしていたのだが、肺を病み、長いこと保養生活をしていた。しかし医者から静かな落ち着いた生活をするなら、もう実社会に出てもかまわないと言われ、ヴィンソンという田舎町の新聞社に就職することにする。この小説はトムが車でヴィンソンに向かうところから始まる。

肺病、落ち着いた生活、田舎町、曇り、雪。しかも時代は戦時中で、車のガソリンも配給の品である。これは渋い感じの作品なのだな、と私は思った。

ところがこれがとんだ勘違いだった。

ヴィンソンの町に着くまでも妙な事件が起きるのだが、着いてからは決定的に雰囲気が変わる。彼の新しい就職先は、実はイブ・ヴィンソンという若い女性が一人でやっている新聞社だった。トムが加わって社員は二人だ。まあ、それはいい。しかし彼女が新聞社と同時に経営するホテルを管理しているのは、アダムとイブという夫婦者で(アダムとイブ!)、アダムは幽霊のような見かけ、イブはとてつもない巨体の女性ということになっている。

さらにこの田舎町の保安官はサーキネンという奇妙な名前を持ち、その補佐官はバートとマートといううり二つの双子の兄弟。トムはこの二人が区別できなくて苦労する。また重要な犯罪現場となる養鶏場を所有している夫婦は、奥さんが淫乱で旦那は寝取られ亭主だ。

これはもうドタバタ喜劇の配役である。

実際、語り手がヴィンソンに着いてからは得体の知れない事件が立てつづけに起き、まことに珍妙な話の展開になる。

そうか、渋い感じの話じゃなくてドタバタのほうに行くのか。それならこっちも気分を変えてスラップスティックを愉しもうじゃないの。私はそう思った。映画の「フロム・ダスク・ティル・ドーン」みたいなものだ。

いったん心構えができれば、これは非常に楽しい物語だ。といっても筋のおもしろさを説明するのは難しい。語り手も何が起きているのかわからないような展開なのだから。

まず新聞社の女経営者イブ・ヴィンソンがまったく知らない人から遺産を受け取る。そんな夢のような話があるのだろうか、と思っていたら、その直後に遺産を渡した男が、トムの新居に死体となって転がっているのが見つかる。ちょっと待て、ちょっと待て。この男は死んだから遺産を渡したのじゃないか? それがトムの家で殺されている? どういうことだ? 死体をわざわざトムの家まで運んだのか?

どうもよくわからない。ま、ここは心を落ち着けてもう少し読んでみよう。

トムとイブ・ジョンソンが保安官の到着を待っていると、外で爆発が起き、二人は家を飛び出す。そしてその間に何者かが死体をどこかに運んで行ってしまう。

ははあ、犯人は死体をどこかへ持って行く必要があったのだな。爆発騒ぎはトムたちを家からおびき出すための工作だったのだな。

しかし、どこまで読み進んでも状況ははっきりしない。イヴ・ヴィンソンが自分の過去を明かしてくれて、ようやく多少の目鼻が立つが、すべてはわからない。ひたすら奇妙な事件ばかりが起き続ける。トムは独身なのに、彼の妻を名乗る女があらわれ結婚証明書を提示するし、物語の後半に入るとトムとイブ・ヴィンソンは首なし死体を車で運び、養鶏場でべつの死体を発見し……。いやはや、トムたちは次から次へと事件に巻き込まれ、読者は奇矯な登場人物たちのリアクションに大笑いし、私はわかりやすく筋を紹介することができずに困ってしまうというわけである。

もちろん最後にはこの大騒動の種明かしがされ、戦時中らしいある犯罪にトムがまきこまれたことがわかる。しかしこれは前回扱った The Clue とは違って、推理を愉しむ作品ではない。犯罪をめぐるユーモラスな大混乱を愉しむべき作品である。そしてそういう作品としてはかなり優秀の部類に属する。

首なし死体を運んだり、生首を放り投げたりする場面もあるけれど、けっして趣味の悪い描写には陥っていない。静かな落ち着いた生活を求めて来たのに、こんなことになるなんて、というトムのぼやきと、新聞記者らしい頭の回転の速いジョークが全体に明るい色調を与えていて、私は大学の先生をしていたというこの作者の作品にまた出会うことがあったら、必ず目を通すことになるだろうと思う。

2015年8月15日土曜日

1 キャロリン・ウエルズ 「手掛かり」

The Clue (1909) by Carolyn Wells (1862-1942)

本編はヘイクラフトとクイーンの里程標的名作リストにも載っており、このブログの一番手に持ってくるのにふさわしい作品だろう。名作と言われていても日本語に翻訳されていない作品はけっこうある。

作者のキャロリン・ウエルズはニュージャージーに生まれ、詩人・児童文学作家であり、かつミステリの書き手でもあった。ずいぶん多作な人で、私もがんばって読むようにはしているけれど、今のところ本編 The Clue と The Man Who Fell Through the Earth (1919) が際だってよい作品のように思える。ちなみに後者に関しては古い日本語の翻訳があるようだ。

The Clue の一番の特徴は、物語が、当時まだ盛んに書かれていた大仰なメロドラマに陥ることなく、一歩一歩論理と事実の積み重ねによって進められていく点にあると思う。たとえばこんな具合だ。結婚式の前日に富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンは椅子に座ったまま死んでいるところを発見される。すぐそばのテーブルに、「結婚相手はわたしを愛していないようだ」という書き置きがあったことから、医者や周囲の人々は彼女が愛情問題を苦に、短剣で胸を刺し、自殺したものと考えた。そして自殺という観点からそれまでの彼女の行為や人間関係が振り返られる。ところが短剣には血がついているが、それを握っていたはずのマデラインの手には血がついていないことが分かり、他殺の可能性が疑われるようになる。ここで事件の様相ががらりと変わるのだが、こういう論理による物語の推し進め方はミステリというジャンルの醍醐味である。The Clue は一九〇九年という早い時期に書かれているが、こうしたミステリの筆法をよく使いこなしている。しかも最初にマデラインが自殺したと考えられ、その根拠が説得的に示されるものだから、読者はある人物を犯人とは考えにくくなってしまうのである。ここらへんのミスディレクションの手際はたいしたものだ。

先走ってプロットを一部紹介してしまったが、この作品の出だしはだいたいこんな感じである。富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンはスカイラー・カールトンという青年のプロポーズを受け、彼と結婚することになる。ところがスカイラーは冷淡なくらいに淡泊な人物で、婚約をしたというのに、いつもマデラインに対してよそよそしい態度で接するのである。そこでマデラインは女のコケトリーを発揮し、ほかの男といちゃつくところをスカイラーに見せ、彼を嫉妬させようとする。その相手が彼女の従兄弟のトム・ウィラードだった。トムはたいへんな情熱家で、彼女に向かってスカイラーとの婚約を取り消し、自分と一緒にならないかという。しかしトムは彼女にとってスカイラーを自分により引きつけるための道具にすぎない。

そんなマデラインに衝撃を与えるある事実がわかった。スカイラーは彼女と婚約して以後、彼女とはまったくタイプの違うある女に出会い、その女を愛しているらしいのだ。

こうして緊張をはらんだままマデラインとスカイラーは、結婚式の前日を迎える。マデラインの住む屋敷には結婚式への招待客があつまるのだが、彼女はその前でトムといちゃついてみせる。これはさすがにやりすぎだろうと、私ははらはらしながら読んでいたのだが、案の定スカイラーは腹を立て、マデラインの屋敷で招待客たちととるはずの晩餐会を欠席。マデラインは最初は平気な振りをしていたが、とうとうヒステリーを起こし、客たちを自分の前から追い払ってしまう。

悲劇が起きたのはその直後である。客たちがみな自室に引き払った夜中の十一時半、屋敷の中に叫び声が響き渡った。屋敷に戻ってきたスカイラーが、図書室の椅子に座ったまま死んでいるマデラインを見つけたのである。床の上には短剣が転がっており、そばの机の上にはすでに述べた書き置きがあった。

その後、招待客の中の愛らしい娘キティと、スカイラーのベスト・マンを勤めるはずだった法律家のロブがコンビを組んで素人探偵になり、招待客たちが事件当日の晩、何人も怪しげな行動を取っていたことを突き止める。その疑惑が一つ一つ解明されるたびに、事件の真相・登場人物の心理や過去がしだいしだいに分かってくるのだ。このあたりの物語の展開は非常にテンポがよく、キティとロブの恋模様が物語にある明朗さを与えていて、読んでいてまるで飽きなかった。クリスティなどが書いても、事件が起きてからの中盤の部分は一本調子の非常に退屈なものになることがあるのだから、ウエルズのこの作品に於ける物語作りの巧みさはやはり褒められるべきだろう。

ただし最後の二十数ページで活躍する名探偵フレミング・ストーンの推理は、ちょっとずるいなと思う人がいるかもしれない。私もフェアじゃないと思った。すくなくとももう少し工夫があってもいいだろう、せっかく冒頭においていくつかの手掛かりからささやかな推理を展開して見せたのだから、最後もその伝で行ってほしかった、というのが正直な感想である。しかし逆に言えば、立派なパズル・ストーリーまであと一歩ということであり、書かれた年代を考えれば、ミステリが誕生する歴史において本書が記念碑的足跡を残していることは疑いない。