2015年11月28日土曜日

番外5 クリストファー・モーリー 「幽霊書店」 

The Haunted Bookshop (1919) by Christopher Morley (1890-1957)

Project Gutenberg 所収

「幽霊書店」をはじめて読んだときは、なんて不思議な本があるんだろうと、本当にびっくりした。ミステリ、読書案内、戦争批判が渾然一体となった作品なのだから。だいたい読書案内をする作品なんて、はたしてどれくらいあるのだろうか。「幽霊書店」には詩を含めて百冊を超える作品名が列挙されている。すくなくとも私は後にも先にもこんな小説にはお目にかかったことがない。

 (1)あらすじ


舞台はブルックリンのとある古本屋。ここで二つの物語が交錯しながら展開する。物語の一つは若い男女のロマンス。もう一つはアメリカ大統領の命を狙うテロ計画だ。

まずは舞台である古本屋。本書の冒頭には次のような説明がある。

この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたってこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅうを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。

「聖廟をつくろう」などというところから推測できるように、店主のロジャー・ミフリンは偏執的なまでに自分の商売に誇りを持つ、一種の奇人である。世の中の人々は娯楽として映画に関心を持つようになり、本を読むことが少なくなってきたというのに、彼は頑固として書籍の大切さを説く。気が短くてかんしゃく持ちだが、からっとした性格の男である。

彼は親友の食品会社の社長に頼まれ、その娘を住み込み店員として受け入れることになる。それがティタニアという素敵な名前の美少女である。この世間知らずのお嬢さんに一目惚れしてしまったのが、ギルバートというコピーライターの青年。二人はこの古本屋で出遭い、話をし、お互いを誤解し、冒険をし、最後にはロマンチックな関係になる。

もう一つの筋はテロ計画だ。テロの首謀者たちはミフリンの古本屋に置いてある本を利用して連絡を取り合っていたのだ。ロジャーはある特定の本が本棚からなくなったり、またあらわれたりすることから異変に気がつく。

クライマックスはミフリン夫妻、ギルバート、ティタニアがテロリストたちと書店で対峙する場面である。ロジャーたちに捕らえられたテロリストはみずからの命をかえりみずに爆弾を爆発させる。ミフリン夫妻たちは書籍に守られて、命に別状はなかったが(「本が衝撃を吸収する力はたいしたものだ」)、建物自体は崩壊する。しかしティタニアの父親である社長がミフリン夫妻の仕事に金を投資し、彼らはあらたな書籍販売事業に乗り出すことになる。

 (2)破壊と創造


私が思うに、破壊(爆弾)と創造(芸術)がこの小説の中心テーマである。たとえばミフリンが皿洗いをする場面。ミフリンは最初、皿洗いを苦役として捉えている。それは無駄な時間であり、彼は台所に書見台をすえつけ、皿洗いをしながら本を読むようにしていた。当然手もとはおろそかになり、彼は何枚もの皿を割ってしまう。しかし皿を割るという破壊行為の末に、彼はふと気がつく。皿洗いこそ、自分が求めていた息抜きの作業ではないのか。そして彼はそこから独自の台所哲学を展開するのである。ここにおいて破壊行為は、古い考えを打破することであり、またあらたな考えを獲得することでもある。

ミフリンの店が爆弾に吹き飛ばされた後の部分にも、破壊と創造のテーマを見ることができる。爆弾でめちゃくちゃになった店内を整理しながら、ミフリンは自分が商売に新しいものを取り入れてこなかったことを反省する。そしてチャップマン社長の経済的援助を得て、ついには新たな事業に乗り出す。破壊行為をきっかけに、古い考えが否定され、新しい考え方が生まれ出るのだ。

ミフリンがバトラーの「万人の道」を高く評価するのは、この作品がヴィクトリア時代の因習的な考え方を木っ端微塵にし、当時の人々に開放感をもたらしたからである。破壊は単に否定的なものではなく、新しい意味を生み出す一歩でなければならない。それゆえロジャーは戦争の愚かしさを徹底的に批判しながらも、そこから新しい人間性の表現が生まれることを切望する。たしかに恐ろしいことが起きた。しかしその破壊を通して、われわれは新しいものを生み出さなければならない。それがミフリンの「口にすることもはばかられるような(戦争の)荒廃から、人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなりません」という信念を生み出している。人間の未来に対する肯定的な信念こそ「幽霊書店」を貫く明るさの源である。そして読書は、新しい意味を模索する知的な営為として、この小説の中で推奨されているのだ。

爆弾テロのスリラー、読書案内、戦争批判、それらはまったくばらばらのようでいて、実は一つのテーマでつながっている。

歴史的現実としてはウイルソン大統領の平和構想は挫折し、第一次大戦からは第二次大戦が生まれ、われわれは人間性に深刻な懐疑を抱くようになる。ホロコーストを含めた第二次世界大戦の破壊のあと、創造を口にすることはいささか不謹慎ですらあっただろう。アドルノはホロコーストの後で詩を書くことはできないと言った。

しかしながら私はこの作品を読みながら、それであっても人間は破壊的な現実の中から何か創造的なものが生まれてくることを希望せずにはいられないと思った。暴力的な衝動を避けようとすればかえってその餌食になるというフロイトのペシミスティックな認識は知っているが、それでも希望を持たずにはいられない。希望を捨てたら我々は本当に状況の奴隷になってしまう。スラヴォイ・ジジェクも言っているが、啓蒙の企図には欠陥があるが、しかしそれは啓蒙の企図を放棄する理由にはならない。

2015年11月25日水曜日

25 ローレンス・トリート 「死亡のD」 

D as in Dead (1941) by Lawrence Treat (1903-1998)

本作は心理学者カール・ウエイワードが探偵役を務めるハードボイルドである。カールはこんな具合に事件と遭遇する。

心理学教授の職をクビになり私立探偵になることを考えていたカールは、ニューオーリンズのホテルで美しい女を見かける。彼女は落ち着かなげに手袋をいじりまわし、しきりに目をしばたたいている。彼女はつと立ち上がってホテルを出た。

カールは私立探偵になったつもりで彼女のあとをつけることにする。それはほんの出来心にすぎない。ゲームでもするように彼は彼女を追ったのだ。

彼女はフレンチ・クオーターにある薄暗い建物の中に入っていく。その直後に突然銃声が鳴り響いた。

カールが建物の中に入ると、足元のコンクリートの床に、あとをつけてきた女が横たわっていた。彼女の身体の先には、通路をふさぐようにして手押し車がおいてある。その中には銃が置いてあり、その銃口はカールのほうを向いていた。

さらに手押し車と壁のあいだには、小柄な男が身をかがめていた。一瞬カールと男は目を見合わせたが、後者はいきなり飛び出してくると、カールを突き飛ばし外の通りへ飛び出す。

カールは予想もしなかった出来事に呆然としていた。しかし気を取り直して女を抱きかかえる。女は「わたしを……わたしを……呼んで……」と謎めいた言葉をつぶやいて息絶える。

その後カールは女が名前をミリセント・キースターといい、ニューヨークの億万長者アルバート・マスタートンの妹であることを知る。彼女にはシス(娘)とソニー(息子)というティーンエイジャーの子供がいた。夫は交通事故で死亡していたが、彼女はまだ再婚していない。その美しさに惹かれて彼女に言い寄る男は多いのだが、なぜか夫のジェレミー・キースターは死んでいないと信じていた彼女は、誰をも夫として受け入れることはなかったらしい。

さあて、ミリセントを殺した犯人は誰か。実は私は、ハードボイルドを読むときは最初に出てきた美女にまず疑いの目を向ける。彼女が私立探偵の依頼人であろうが、一見脇役のように見えようが、とにかく「美女を疑え」。そして最初に出てくる女は、ミリセントの娘のシスである。この小説でもっとも精彩を放っている人物だ。彼女は母親の死後、急に子供から大人に変貌し、その清純であると同時に妖しい魅力で大人の男をも魅了する。彼女は明らかにある事実を隠している。しかし決してそれを言おうとしない。探偵役の心優しいカールも無理矢理彼女から情報を引き出そうとはしない。読んでいるほうはカールの甘い態度にいささかいらいらするが、小生意気なガキとは言え、彼女は未成年者だ。しかたがない。

もう一人の美女はミス・トレヴィスだ。彼女はバーで踊りをおどっている。そしてバーの経営者ベニングに惚れていて、彼との結婚を考えている。どことなく退廃的な翳のある女だ。

正直、私はこの二人のどちらかが犯人だろうと思って読んでいた。しかし読み進めば読み進むほど、ほかにも疑わしい人物がでてくるのである。なにしろ殺されたミリセントは美しく、付き合っていた男が何人もいる。感情のもつれが殺人につながることは充分に考えられるので、真犯人候補はいくらでも出てくる。私はあれも怪しいぞ、これも怪しいぞ、とほとんど出てくる人物全員を疑うことになってしまった。謎解きという面ではよくできた作品だと思う。

一つ残念だったのは、私がカール・ウエイワードものの第一作を読んでいないことだ。読んでいれば、たとえば次のような箇所はもう少しわかりやすくなったはずなのだ。私立探偵になったつもりでカールがミリセント(マダムX)のあとをつけるところにこんな描写がある。
 カールは足をはやめて距離を縮めようとした。霧はいっそう濃くなり、彼らを世界から切り離した。そのため彼らはいわば二人だけの親密な空間を形づくりながら、光を投げかける街灯から街灯へと進んでいった。彼は前にいるのは妻のガブリエルで、妻がこの暗くて霧の立ちこめる通りを、家を探して歩いているのだ、と考えようとした。しかしもしもガブリエルがここにいるなら、目の前のマダムXは彼らが出てきたホテルの部屋で待っていることになるだろう。
 ガブリエルとマダムX。彼らは彼の心の中で奇妙な具合に混乱し、ほとんどどちらが彼の数ヤード前を歩いているのかわからなくなった。
私はこの不思議な描写に魅了された。カールと妻のガブリエルは、彼が活躍した前の事件で出遭ったらしい。しかも妻はそのときの容疑者だったようだ。おそらく事件の直前に探偵と被害者が移動するこの奇妙な空間の描写は、前作も読まなければ十全に理解できないのではないだろうか。前作 B as in Banshee を読んでからもう一度考え直したい。

2015年11月21日土曜日

24 エリザベス・ジル 「クライム・コースト」

The Crime Coast (1931) by Elizabeth Gill (? - ?)

ちょっと長くなるが、こんな場面を想像して欲しい。

あなたは画家である。あなたの絵を買いたいというお客(パトロン)に誘われ、あなたは彼女が泊まっているホテルの一室へ行く。交渉をしているときに、たまたま新しいパトロンが短い時間、席を外す。彼女が戻るのを待っていると電話が鳴り、あなたはパトロンに替わってその応対に出る。すると電話の向こうから男の声が「エイドリアンが会いに行く。彼女にそう伝えておいてくれ」と伝言を頼む。エイドリアンはあなたの親友である。しかし電話の声は聞き慣れたエイドリアンの声ではない。なんだか変な状況だが、ご理解いただけるだろうか。

翌日あなたはパトロンがホテルの部屋で殺されたことを知る。あなたが帰った後、誰かが彼女を殺したのだ。あなたはどんなことを考えるだろう。エイドリアンが殺人を犯したのだと考えるだろうか。しかし「エイドリアンが会いに行く」と言ったのは、エイドリアン以外の人物である。

本書「クライム・コースト」に登場する若い女の画家は以上のような状況に置かれて、てっきりエイドリアンが犯人だと思い込む。その話を聞いた友人も、エイドリアンが犯人だと思い込み、翌日になってようやく、エイドリアンは名前を使われただけかもしれないという可能性に気がつく。現代の読者なら、そんなことはまっさきに気がつけよ、と突っ込みを入れたくなるが、二十世紀の前半に書かれたミステリの中には、こんなナイーブな人間が登場することは結構あるのだ。

本書に出てくるスコットランド・ヤードの刑事も、われわれがミステリで活躍する刑事に期待するような行動とはおよそかけはなれたことをしてくれる。彼は殺人事件が起きてすぐに容疑者の尾行をはじめる。それはいいのだが、この容疑者が、誰でも参加できる大きなダンスパーティーを開くと、なんと刑事は「仕事と同時に楽しみのため」と称して、ノコノコとこのパーティーに出かけていくのである。「仕事と同時に楽しみのため」!

しかしこういうナイーブさはまだ許せる。許せないのは本書において探偵役をつとめるベンヴェヌートの次のような台詞である。
 ……殺人の大部分は精神的、肉体的、あるいは道徳的に堕落した人間によって犯されていて、こうした人々は(死刑や終身刑によって社会から)排除されたほうがいいのである。しかしその他に少数の、稀な殺人がある。それは本質的に心根の優しい、法に従って生きている、まともな人間が、何かよくわからない動機、あるいは倫理的ですらある動機から犯す犯罪である。場合によっては法を越えた知恵、慈悲深い支配者が許しの手を差し伸べることがあるだろう。しかし長引く裁判に苦しんだり、胸の痛い思いをすることは避けられない。
 法律の下僕ではないわれわれにとって大切なのは法律の字面ではなく、その精神であるはずだ。それが正しいなら、一般原則を個別のケースにあてはめるだけの判事や陪審よりも、普通にものを考える人間のほうが正義のなんたるかをより正しく理解するという状況だってありうるだろう。
言葉遣いは仰々しいが、しかしこれはナイーブな思考の典型例である。堕落した人間とそうでない人間の区別ができると考えるところ、さらに「まともな」とか「普通の」といった曖昧きわまりない言葉を用いるところにそれがあらわれている。まともな、普通の意見や考え方というものは、よくよく点検してみると、どれもバイアスがかかっているものである。また「一般原則を個別のケースにあてはめる」というのは罪刑法定主義のことを言っているのだろうか。だとしたら、私は近代国家の基本原則の一つを軽んじるような世界などには住みたくはない。

ベンヴェヌートは上の言葉の通り、愛する人間を守るためやむを得ず人殺しとなった本当の犯人をのがし、別の男を犯人に仕立て上げる。その別の男は確かに悪いことばかりをしているのだが、ホテルの殺人とは直接には関係がないのだ。なのに、ベンヴェヌートは、あんな男がいなくなったって別に痛くも痒くもないとうそぶき、にせの証拠品を彼のポケットに忍び込ませて警察に彼を逮捕させ、それによって本当の殺人者をわざと逃がすのだ。こんなとんでもない話がどこにあるだろうか。H.C.ベイリーの「ガーストン殺人事件」をレビューしたとき、弁護士であり探偵でもあるクランク氏は警察の乱暴、横暴な捜査をただすのだと書いた。しかし本書の作者エリザベス・ジルは、国家権力である警察がベンヴェヌートと同じ考えを持ち、恣意的な刑罰権を行使することになったらどれだけ怖ろしいことが起きるか、そういうことには思いが至らないらしい。

本書はフランスの輝かしい海辺を舞台に若い男女のロマンスも描かれるのだが、その明るさの中でとんでもない認識が語られるという危険な物語である。ナイーブな登場人物があらわれ、ナイーブな語り方がなされているからといって安心してはいけない。得てしてそういう話のなかにはナイーブな認識が臆面もなく顔を出す。そしてナイーブな認識というのは予想以上にたちが悪いものなのだ。

2015年11月19日木曜日

23  R.C.ウッドソープ 「小さな町の死」

Death in a Little Town (1935) by R. C. Woodthorpe (1886-1971)
「小さな町の死」 R.C.ウッドソープ

英国サセックス州チェスワースという小さな町で殺人事件が起きる。殺されたのは町の人から蛇蝎の如く嫌われていた、ボーナーという実業家である。しかしこの作品は、犯人は誰かという謎解きに主眼はない。もちろんそれも興味の一つなのだが、それよりも殺人事件に対する人々の反応や、それをきっかけに明らかにされる関係者たちの秘密のほうにより力点が置かれている。

私が面白いと思ったのは、この作品の中に描かれる二つのお茶会がいずれも失敗に終わっていることである。小さな町の住人たちはお互いに相手の家を訪問し合い、絆を深め合う。それは円滑な社会的関係を営むための儀式と言える。それが滅茶苦茶な結果に終わると言うことは、つまり小さな町のネットワークにひびが入っていることを示している。

作家の妻であるメアリ・ホルトは、昔教師をしていた老婦人ミス・パークスの家を訪ねる。ミス・パークスはラムゼイ・マクドナルドという名前のオウムを飼っていて、これがろくでもない言葉ばかりを繰り返す。そのためミス・パークスは訪問客があると必ず鳥籠にショールをかけてオウムを黙らせることにしているのだが、なんとこのショールがお茶の途中でとれてしまうのである。その途端にオウムは「この女、まだいやがるのか!」と言うのだ。

オウムは機械的、白痴的に言葉を繰り返しているにすぎない。しかしときどき偶然が作用して、それが不愉快な真実として人々にヒットし、スムーズな人間関係を構築しようとする営みを破綻させてしまう。

もう一つのお茶会は、今度は現役の女教師、ケート・マーチンデイルの家で開かれる。その席には都市区委員会のお偉方や牧師やケートの恋人ソーンヒルがいた。ここでトラブルを起こすのはオウムではなく、恋人のソーンヒルである。彼は自分の所有する土地の一角にヌーディストの保養施設をつくる計画を語り、一座を恐慌に陥れる。当然のことながら、このあと彼はケートから絶交の手紙を受け取ることになる。ソーンヒルはなぜ恋人の怒りを買うことを承知で、そんなことをしたのだろうか。ネタバレになるけれども言ってしまおう。彼が殺人を犯したからである。彼は決して実業家のボーナーを計画的に殺したのではない。まったくの偶然に殺してしまったのだ。彼はケートと結婚すれば幸せな生活が送れると考えていた。しかし犯罪を犯してしまった今、たとえ警察に捕まらなかったとしても、ケートとの結婚生活はつねに暗い影に脅かされることになる。それならばいっそのこと彼女との仲はこわしてしまったほうがいい。そう考えて彼は、わざと非常識な振る舞いをし、ケートを怒らせ、彼女に婚約を破棄させたのである。

ソーンヒルは自分がチェスワースというネットワークの中に安住できない異分子であることを悟り、わざと混乱を招く行為をしてコミュニティーを出ていく。しかし強調しておくべきは、彼が異分子的な存在になったのは、偶然であったという事実だ。決して意図的に反社会的な行為をしたわけではない。(非意図的な)偶然が作用して反社会的な存在と化してしまうのは、ソーンヒルだけではない。マイケルもそうだ。

メアリ・ホルトの夫、小説家のマイケルは以前ある女と結婚していた。二人は喧嘩をし、女は家を出て行った。しかし二人は離婚はしていない。そんなときマイケルは彼女が火事で焼死したという記事を読む。本当はそれは間違いで、彼女は大やけどをしながらも生きていたことがわかるのだが、マイケルはその訂正記事を読まなかった。そのほんのちょっとの偶然から、彼は重婚の罪を犯してしまうのである。

またミス・パークスにはロバートという兄弟がいる。彼は人当たりのいい、教養豊かな紳士なのだが、ときどきおかしな発作に襲われる。人前だろうがどこだろうが、突然服を脱いで素っ裸になり、まわりの人をパニックに陥れるのだ。ロバートは意識的にそんなことをしているのではないのだろう。ふと心に空白があらわれ、気がついたら裸になっている。おそらくそんなところではないだろうか。風紀を乱す彼の行為は、しかし彼の意図するところではない。

元教師のミス・パークスは誰に対しても真実を言わずにいられない。それは彼女の身に染みついた性癖なのである。そして真実を言う人は好かれないのだ。「他人のように不快な事柄を覆い隠したり、酌量したり、相手の気持ちを考えたり、愛想のいい偽善者を演じる」ことができないために、新しい友達ができず、彼女はひどく寂しい人生を送ることになる。彼女もある意味では不愉快な真実を言うオウムと同じなのである。

「小さな町の死」はこんな具合にエンディングを迎える。
 ミス・パークスのそんな思いはオウムによってさえぎられた。この鳥は彼女をしばらく見つめたのちに、とうとうしゃがれた声でこう独りごちたのだ。「人生ってな、ひどいものだな」
 ミス・パークスは無意識のうちに赤いショールに手を伸ばし、鳥籠を覆おうとした。
 しかし考え直した彼女はその手を引っ込めた。
 この鳥はときどき的を射たことを言う。不愉快な真実を語るからといって、どうして彼女にオウムを罰する権利があるだろう。
我々は一人一人が社会的ネットワークを構成する一員であり、そのネットワークの中で快適に生きていくために人々との関係を円滑に保とうと努力するけれども、同時にちょっとした偶然から、あるいは個人の意図を越えた何かが作用して、そのネットワークに齟齬をもたらすような何らかの要素をも持つようになる。どんなに対人関係のスキルに秀でた人でもそうなのだ。われわれは偶然の作用から逃れることはできない。私はこの作品をそれほど上等のものとは思わないけれど、「人生ってな、ひどいものだな」という感慨にはまったく同意する。

2015年11月14日土曜日

22 A.C.フォックス・デイヴィス 「モーレブラー家殺人事件」 

The Mauleverer Murders (1907) by A. C. Fox-Davies (1871-1928)

モーレブラー大佐は二十年にわたるインド勤務を終え、とうとうロンドンに戻ってきた。これからは悠々自適の引退生活を送ることになっていた。彼は相当におおらかな性格であるらしい。財産はかなりある。しかし彼にはお金の管理がさっぱりできず、法律にもうとい。弁護士から、この書類にサインを、と言われると、中身をあらためもせずに署名してしまうような人間だ。

この男の身に不思議な事件がふりかかる。彼には五人の子供がいるのだが、それが次々と殺されていくのである。長男で二十九歳のジャックは射殺され、ハーバートは喉をかききられ、ヘンリーは川で死体が発見され、ジョージも撃ち殺された。これらの殺人は一カ月おきの三十日に繰り返され、死体の首にはロープが巻かれているという特徴があった。

モーレブラー大佐は大慌てである。この調子でいくと、まだイートンに通っている末息子のアンソニーが次の三十日に殺されてしまう。そこで彼は名探偵デニス・ヤードレーを雇い、息子の安全を確保しようとする。

デニス・ヤードレーはもちろんアンソニーを絶対安全な場所に移して守ることもできたのだが、それではいつまでたっても犯人を捕らえることが出来ず、殺害の危険を逃れる根本的な解決策にはならないと考え、わざと犯人をおびきよせ、彼あるいは彼女を捕まえようとする。彼らはアンソニーを学校からモーレブラー家の屋敷へと連れて行き、周囲をヤードレーの部下や警官や番犬たちで堅固にかためた。

ところがこの犯人はただ者ではなかった。犯人は毒やら拳銃でアンソニーを殺そうとし、そのいずれの試みにも失敗するのだが、探偵や警察の猛烈な追跡を軽々とかわして姿を消してしまうのである。走るのも速いし、自転車も競輪選手並みにあやつるし、乗りながら後ろを振り返って銃で追ってくる犬を撃つのだから、超人的である。

探偵のデニス・ヤードレーはモーレブラー家に何か秘密があって、それが事件を解く鍵になるのではないかと考えた。その結果見つけたのが、驚くべき事実だった。なんと母方の家系をたどると五人の息子は正真正銘モーリタニアという国の王位を継ぐ資格を持っていたのである。

この作者は紋章学の研究家で、なるほどその手の専門家らしい想像力を展開しているが、しかしどうだろう。モーレブラー大佐がいくらおおざっぱな人だからといって、王族の末裔が自分たちの身分にまるで気づいていないなんてことがあるのだろうか。

この家系調査で判明したもう一つの重要な事実は、もしも五人の息子が死んだとすれば、彼らの従姉妹にあたるメリオネス公爵夫人がモーリタニアの王位を継ぐ正当な継承者になるということだ。

若くして未亡人になったメリオネス公爵夫人はじつに胆力のある傑物で、変装を用いて二人(あるいは三人)の人物を演じ分けていた驚くべき女性である。そして警察は彼女が直接手をくだしたのではないにしろ、連続殺人事件の首謀者ではないかと考える。つまり王位を継承するためにモーレブラー大佐の息子たちを殺していったのではないか、と。

このあとはメリオネス公爵夫人に雇われた辣腕弁護士テンペストと、なぜかデニス・ヤードレーが協力して真犯人を捜し出すという展開になるのだが、いやはや、これは世紀末から二十世紀初頭にかけて書かれた典型的な探偵物語、最後の最後までメロドラマチックな仕掛けが施された作品である。

犯人が物語の最終盤に入ってようやく捜査線上にあらわれるというのはミステリ・ファンとしては残念だが、詳細に描かれる二つの裁判の場面は悪くないと思った。殺人未遂で捕まったウエッブが弁護士の助けを借りずに自分で自分の弁護をし、証拠として提出された物品から見事な推理を展開する場面や、メリオネス公爵夫人の弁護士テンペストが、検察の主張をことごとく粉砕していくあたりはなかなか迫力もあり痛快でもある。ウエッブがベルトの穴の位置から、これを着ていたのは女であって、おれにはとうてい着られないと主張するあたりは、O.J.シンプソン裁判の手袋を思い出させる。今も昔も検察はこんな単純なことすらチェックをおこたっているのである。

作者はブリストル生まれの法廷弁護士であり、すでに述べたように紋章学の研究者でもある。ウィキペディアによると十四歳の時に教師を殴って放校処分になり、その後正規の教育は受けていないが、リンカーンズ・イン(法曹学院)に入学を認められ弁護士になったのだそうだ。ミステリも数冊書いており、後にはホルボーン自治区議長に選ばれている。

2015年11月11日水曜日

21 アンソニー・アボット 「驚いた女」 

About the Murder of a Startled Lady (1936) by Anthony Abbot (1893-1952)

アンソニー・アボットは筆名で、本名はチャールズ・フルトン・アウズラー (Charles Fulton Oursler)。私が一時住んでいたボルチモア生まれのジャーナリストである。アンソニー・アボットはじつは本編に登場するニューヨーク警察の本部長サッチャー・コルトの秘書である。秘書が間近で見たサッチャー・コルトの活躍を小説化して発表しているという体裁を取っている。

本編には序文がついていて、そこにアンソニー・アボットがこんな一節を書き付けている。
こと巧妙な犯罪に関しては、警察はまったくの無力であるという、ロマンチックな誤解を抱いている人々が存在する。実際、我が国の警察を軽蔑しあざける人々は大勢いる。短編小説から長編小説に至るまで、不可解な犯罪はただ明敏なる素人によってのみ解決されうる、というような印象を彼らに与えようとしているようだ。
「ロマンチックな誤解」という言い方はなかなか面白い。ロマン主義が天才をもてはやしたように、十九世紀後半から書かれるようになった探偵談は、科学、化学、天文学、音楽、チェス、ワインなどさまざまな分野にわたる専門知識を有し、捜査中に謎めいた台詞を吐き、最後に優雅な指で犯人を指し示す、神の如き名探偵をヒーローにした。しかしアンソニー・アボットはそんな探偵など現実には存在しないと言う。現実の犯罪を解決しているのは警察である。彼らは組織力、忍耐、献身的努力、多少のひらめき、そしてたまに訪れる幸運によって事件を解決するのだ……というようなことを彼は序文で書いている。彼は「名探偵/警察」という対立を批判し転倒させている。しかしながら「驚いた女」の印象はあくまでも古いタイプの物語だ。十九世紀後半から一九二十年代、三十年代ころまでつづいた古い探偵談の中にある「名探偵/警察」という対立はひっくり返しているが、古い探偵談の枠組み自体は壊していないのである。名探偵の位置に警察が来ただけである。本書に近代的なミステリを期待してはいけない。

しかしこの作者は文章が上手で物語がテンポよく進む。

まず冒頭、霊媒師がインチキ興業をやったということで逮捕される。とたんにギルマンという教授が警察に飛んできて、この霊媒師はニセ者じゃない、彼女は殺人事件の被害者の霊を呼び出そうとしていただけだと言う。教授のかつての親友だった本部長コルトは、面白いとばかりに霊媒師に降霊会を開かせる。殺された女の霊に乗り移られた霊媒師は、「自分の死体はフェアランド・ビーチ百ヤード沖の海底に、箱に詰められて沈んでいる」などと言う。コルトはダイバーを派遣して海底を探らせると、本当にばらばらの骨が詰まった箱が見つかった。

コルトは箱やら箱の中にあった衣服、装飾品、頭蓋骨などを手掛かりに捜査を開始する。我々が知っている警察物はなかなか捜査が進展しないが、この作品ではたちどころに衣服から死体の正体が判明し、頭蓋骨から生きていたときの顔が精密に復元されてしまう。ニューヨークの警察が優秀なのか、幸運に恵まれすぎているのか知らないが、とにかくとんとん拍子に捜査は進展して、被害者の家族が判明し、容疑者が浮かび上がる。地区検事長、有力政治家などによる捜査の妨害も含めて結構楽しく読める。

私は以前から the third degree とはどんなことをやるのだろうと思っていた。この本では容疑者アルフレッド・ケプリンガーがこの厳しい取り調べを受けている。それによると
アルフレッド・ケプリンガーを殴るようなことは誰もしない。物理的暴力は最悪の犯罪者に対してのみ用いられる……。アルフレッド・ケプリンガーのような男に対してはいかなる物理的な暴力も用いず、長時間にわたる尋問という精神的な拷問を用いる。食べ物や飲み物が与えられなかったり、肉体的な要求が否定されたりすることはない。そういう話は大抵嘘だ。しかしケプリンガーは一晩中寝かされず、質問をされ、答えなければならない。すでに彼が答を返した質問も何度も繰り返される……。彼の証言の矛盾、言葉遣いの違いはことごとくチェックされ、厳しい疑いの目で以て矛盾、食い違いの理由をただされる。さらに彼は心理的な攻撃にもさらされる。ある尋問者は彼をいじめ、別の尋問者はやさしく、友人のように話しかける。これらはすべて彼を罠に掛けるためのものである。確かに残酷だが、しかし私はこれが必要だと考える。
フィクションに書かれていることだから、これが the third degree の実態であったとはとうてい言えないが、それにしてもひどいやり方である。一晩中寝かさないでおいて、「肉体的な要求が否定されたりすることはない」などとよく言えたものだ。こんなことをされたらいくらでも警察の誘導にひっかかる。もちろん物的証拠がなければ陪審は容疑者を無罪にするだろうけど。

2015年11月7日土曜日

番外4 セルフ・パブリッシングについて

1 私の作品は私の死後すぐパブリック・ドメインに

著作権法では作者の死後五十年以上を経過してはじめてその著作物はパブリック・ドメイン入りする。TPPが成立すればそれは七十年以上ということになる。

私は遺言として次のことを明記している。すなわち私がアマゾンから出した本は私の死後すみやかに販売停止にし、パブリック・ドメイン入りさせることを。残念ながら日本には受け入れ先がないようなので、米国やカナダやオーストラリアなどのプロジェクト・グーテンバーグに作品を送ることになるけれど。

生きている間は自分の作品から収入を得たい。しかし死んでしまったら作品がいわゆるオーファン化する前にさっさとパブリック・ドメインに登録してしまいたいという人は結構いるのではないだろうか。クリエイティブ・コモンズなどでそうした仕組みを作ってくれるとありがたいが、法律上の問題もいろいろとありそうだ。それなら自分でやってしまおうと思ったのである。

もしも癌を宣告され余命数ケ月などと言われたら、人の手をわずらわさずにさっさと自分で手続きを取る。事故で突然なくなった場合でも家人が手続きを取れるように普段から準備をしている。

2 できるかぎり未訳作品を

私が出すものはほとんどが未訳の作品である。すでに翻訳が出ているものはよっぽどのことがないかぎり訳出しない。

既訳のもので私が訳し直したのはマリー・ベロック・ローンズの「下宿人」だけである。これはたしかハヤカワのポケットミステリから古い訳が出ていたのだが、それがひどいものでわけのわからない文章で書かれている。英語もよくわからないし、日本語を書くこともできない人の翻訳である。「下宿人」は切り裂きジャックの事件をもとに書かれた出色の心理サスペンス小説で、ヒッチコック以降何度映画化されたかわからない。このすぐれた作品がでたらめな日本語で訳されていることは私としては耐えられなかった。私は文章家ではないが、それでもあの翻訳よりはまともな文章が書けると思い、思い切って訳し直した。

アーノルド・ベネットの「グランド・バビロン・ホテル」も訳そうかな、と思っている。私は文豪や大詩人が余技に書いた娯楽作品が大好きだ。グレアム・グレーンや、サマセット・モームや、セシル・デイ=ルイスや、最近ではジュリアン・バーンズやジョン・バンヴィルのミステリやサスペンス、スパイ物は実に楽しい。ベネットもファンタジーと称してその手の物を書いており、それも非常にすぐれたものだ。「グランド・バビロン・ホテル」は一九三九年に平田禿木が訳しているが、いささか訳が古いし、入手も困難だ。それなら私が……とも思っている。しかしなぜ私が文豪・大詩人の娯楽作品が好きかといえば、その文章が見事だからである。翻って自分の文章はどうかというと……。そう、そこがいちばんの私の悩みどころなのである。

3 宣伝活動

「ハウ・ツー・セルフ・パブリッシュ」みたいな本を読むとソーシャル・メディアを利用して宣伝しろと書いてあるが、私は面倒くさくてそんなことはしない。売れたら嬉しいが、営業活動まではものぐさで手が回らない。たまたま私の本のレビューをしている人を見つけたらお礼を書くが、メールのチェックはパスワードの入力がわずらわしいし、携帯はうるさいから持たない。しかし物を書くのは好きなのでブログはつける。宣伝活動はそれだけである。当然人に知られることはなく、売れ行きもたいしたことはない。「オードリー夫人の秘密」が例外的に売れたのは、どうもどこかの大学の講義で「オードリー夫人の秘密」が扱われたかららしい。原作を読む手助けとして学生が安い私の本を買ってくれたのだろう。

4 あくまで自分が気に入った本を出す


どういう本を選んで翻訳するのか。まず長編で、ジャンルはミステリ関係中心。もちろん一般の文学作品、たとえばヴィクトリア朝時代の小説(ベンジャミン・ディズレーリの政治小説とか、カスバート・M・ビードの「ミスタ・ヴァーダント・グリーン」とか、アンソニー・トロロープの The Way We Live Now など)には食指が動かないわけではない。でもなぜかゴシック小説やセンセーション・ノヴェルやダイム・ノヴェルのほうを先に訳したくなる。

しかしミステリ小説だったらなんでも訳すかというと、そんなことはない。知的な刺激のない凡庸な作品は、百万円を積まれたって訳せない。

翻訳業がいかなるものか、知らないけれど、もしもそれがクライアントから提示された本をとにかく訳す仕事であるとしたら、私にはできない。自分で読んでそこに刺激や価値の見いだせない作品などは訳せない。自分と作品の間にある種の緊密な関係が築けない場合は、翻訳はできない。訳しても訳文が自分の一部として感じ取れない。そんな文章は書きたくない。

私のレビューにフロイトやラカンの名前がよく出てくるのは、私と作品との関係が一種 transferential な関係だからかもしれない。私はこの作品の中には絶対的な真実がある、と思えないとその作品にかかわることができないのである。

またある原作に魅了されたからといって、すぐその作品が訳せるわけでもない。前回の番外編では私の翻訳作品エリック・ナイト作「黒に賭ければ赤が」を紹介した。その中で冒頭の文章を引用し、語り手が「おれにはわかっていた」を繰り返し使うことに言及した。私はなぜ「わかっていた」と繰り返すのか、それがわからなかった。すると途端に訳文が書けなくなって、作業は中断した。私は原作を読み返し、とうとうこの作品にはフィクションの場がいくつか存在しているのだ、という解釈にたどり着いた。(詳しくは前回の番外編か、キンドル版の後書きを見て欲しい)それでようやく翻訳がつづけられるようになった。

「オードリー夫人の秘密」の場合もそうだった。あの作品の冒頭には館の前に建つ時計塔の印象的な描写があるのだが、なぜあれが私の意識にひっかかるのか、それがわからなかった。そのために七年くらい翻訳には取りかかれなかったのだ。しかしラカンの対象aの議論を迂回してそれが理解できたとき、はじめて私は自分の訳文をつくる準備が出来たと思った。

ゴシック小説の名作「ユドルフォの謎」も訳したいが、まだ作品をつかみきっていない。試しに訳文をつくってみたりしているが、どうしても歯が浮くような文章しか書けない。

2015年11月4日水曜日

20 A.E.フィールディング 「牧師館にて」 

At the Rectory (1937) by A. E. Fielding (1900-?)

A.E.フィールディングはミステリの黄金期に活躍した作者としてよく知られているが、不思議なことに女流作家であるということ以外、どういう人だったのか、伝記的な事実はあまりわからないらしい。Hathi Trust Digital Library のカタログ・レコードによると生年は一九〇〇年だが、没年は不明である。

本書はタイトルこそ素っ気ないが、当時書かれた典型的な本格もののひとつである。まず序盤で二つの殺人事件が起き、中盤はスコットランド・ヤードによるやや退屈な捜査が展開する。退屈というのは、警察による事件関係者への尋問・取り調べが淡々とつづくからである。こういうのを読むと、最初にレビューしたキャロリン・ウエルズの The Clue などは、こういう部分をうまく処理しているな、と思う。しかし終盤は収束に向けてふたたび盛り上がりを見せる。レッド・ヘリングもたっぷりばらまかれ、犯人の意外性は申し分ない。容疑者は全員女性で、私もこの人が犯人ではないかとあたりをつけていたけれど、彼女を疑う確たる根拠があったわけではない。しかしポインター警部はさすがで、彼女の行為や証言のおかしさに気がついていた。思わず、そこまでは気づかなかったなあ、と嘆息してしまったけれど、こういうふうにうまく騙されるのは快感である。ただしポインター警部の推理はほとんどの場合、演繹的と言うより、直感的に事実を総合していくものだ。

ちょっと気になったこともいくつかある。その第一は、物語の視点に一貫性がないことだ。物語のほとんどはポインター警部の視点で書かれているのに、章の終わりなどでひょこっとそれを離れ、警部のあずかり知らぬ場面が短く描き出される。この書き方にはさすがに違和感を覚える。書き手の作為性があまりにも露骨である。第二に文章がぱさぱさとしていて味気ない。しかし少し前にレビューした The Black Pigeon のヒステリックな、ほとんど錯乱した文章よりは、無機質な文章のほうがましであるけれど。人物も、オリーブ・ヒルという特異なキャラクターを除けば、その描写はやや平板で、後半に「~という振る舞いは~夫人らしい」というような表現が、たしか二つほど出てくるのだが、いずれの場合もその人物の性格がうまく描出されていないために、読んでもすとんと納得する感じがない。

要するにフィールディングは、文章は素人だが、アイデアだけはあるという、ミステリ作家にありがちなタイプの人なのだろう。

物語は二つの事件からはじまる。まず、アンソニー・レベルという金持ちで、やたらと女にもてる独身男性が自分の屋敷内で死んでいるのが発見される。状況から見て、銃の手入れをしている最中に誤って自分を撃ってしまったらしい。

つぎに牧師館に住む牧師ジョン・エーブリーが毒キノコを食べて死んでしまう。これも事故死ではないかと思われたのだが、スコットランド・ヤードのポインター警部は、この二つの事件がいずれも殺人事件であって、両者のあいだに関係があることを突き止める。簡単に言うと、牧師がたまたまある証拠を手に入れアンソニー殺しの犯人を知り、それが故に彼は毒殺されたのである。

アンソニー殺しの犯人を示す証拠。それが手に入れば事件は一挙に解決するが、なかなか見つからない。牧師を毒殺したあと、犯人もその重要手掛かりを取り返そうとしたはずなのだが、状況から判断するに、犯人もそれを発見することができなかったようだ。ポインター警部は推理によってそれを見事に探し当て、事件を解決して見せる。私もそれを読んで、「ああ、隠し場所はそこだったのか」と稚気に充ちた作者のアイデアに感心した。

もう一つ感心したのはオリーブ・ヒルの人物造形である。先ほど人物の描写は平板だと書いたが、オリーブだけは奇妙に立体感がある。彼女は牧師の妹グレースの付き人(コンパニオン)で、アンソニーの婚約者だったのだが、彼が死んでも少しも悲しまない。また神を否定しヒッピー風の生活を唱道するバードという男から強い影響を受ける。ものをくすねる癖があり、あまり教養があるとは思えないが妙に行動的で、悪知恵のはたらく娘だ。古い世代からすると、何を考えているのかわからない現代っ子ということになるのだろうか。しかしなにかしら現状に満足できず、外の世界に飛び出していきたいという衝動に突き動かされる、がむしゃらな若者の姿がかなりうまく描き出されていると思う。

2015年11月1日日曜日

19 ハーマン・ランドン 「後部座席殺人事件」 

The Back-Seat Murder (1931) by Herman Landon (1882‐1960)

中産階級の娯楽として小説が書かれるようになった初期の頃は、まず主人公の家系を説明し、次に主人公の生い立ちを説明し、さらに住んでいる場所の説明をし……というように背景が詳しく描かれ、ゆるゆると物語が展開した。十九世紀も後半に入ると、そういう書き方がまだるっこしく感じられるようになり、まず冒頭で事件(アクション)を描いて読者の注意を惹き、それが一段落ついてから物語の背景を説明するという手法が生み出された。二十世紀に入ると、事件のあとに事件が起き、さらにまた事件が起きと、なかなか物語の背景が説明されない物語も書かれるようになった。このレビューの第二回で扱った「殺人騒動」がいい例である。「後部座席殺人事件」もこの手法を用いていて、全部で二百八十ページほどある作品の、二百ページあたりにきて読者はようやく何が起きているのか、わかるようになる。

何が起きているかわからないからといって、その物語が面白くないわけではない。いや、わからないからこそ、面白い事件(アクション)が次々と展開しなければならない。状況がどうなっているのかわからず、しかも事件が退屈だったら、読者は本を投げ出してしまうからである。

「後部座席殺人事件」はマーシュという男の家の地下室で、住み込みの秘書のハリントンが真夜中に竈から灰を取り出すという奇妙な場面からはじまる。ハリントンは雇い主がムアランドという男を殺し、死体をこの竈で処分したと考え、その手掛かりを探していたのである。そこへ看護婦のラニヤードが突然あらわれる。ラニヤードはマーシュの病気の奥さんの付き人をしている。
 ラニヤード「何をしているの」
 ハリントン「ああ……飾りピンを落としてね」
 ラニヤード「へたな言い訳ね。ムアランドはここで殺されたんだと思う?」
 ハリントン「な、なんだと! き、きみはだれなんだ?」
 ラニヤード「ムアランドはこの家に来てそのあと行方不明。ここで殺されたみたいね」
 ハリントン「ああ、そうだよ」
 ラニヤード「灰の中に何か見つけた?」
 ハリントン「金歯を一本」
 ラニヤード「どう、あなた、わたしを信用して手を組まない?」
 ハリントン「いいだろう。あんたの秘密を探ったり、おれの秘密を話してあんたを退屈させたりはしないぜ」
 ラニヤード「じゃ、わたしたちはパートナーね。あら、あの音はなに?」
というように、正体不明の秘書と看護婦は謎めいた会話を交わす。マーシュやムアランドがいかなる人物なのか、なぜ前者は後者を殺したのか、ハリソンとラニヤードは何を目的にマーシュの家に潜入したのか、そうした説明はまったくないけれど、真夜中の地下室で死体の痕跡を探すという、いかにもパルプ小説っぽいこの出だしはなかなか雰囲気があって魅力的である。このあと第二章からは、たたみかけるようにアクションが展開され、息を継ぐ暇も……いや、タブレットを置く暇もないくらいだ。

「後部座席殺人事件」は一種の不可能犯罪を扱っている。ハリントンは翌日雇い主の命令で検察官の家へ一人車を飛ばす。ところがその途中の森の中で突然車の後部座席に雇い主のマーシュが姿をあらわしたのである! いったい彼はどこから車の中に入ってきたのか。途中で寄った修理店では係員が後部座席のドアを開けてバッテリーを交換したのだ。マーシュが隠れていたならそのときわかったはずなのに。

それだけではない。その直後にもう一つ不可解なことが起きる。秘書のおかしな行動に気づいていたマーシュは、後部座席から彼に銃を突きつけるのだが、ある瞬間急に悲鳴をあげたかと思うとがくりと首を垂れ、死んでしまったのである。見ると首から血が滴っていた。しかし車はドアも窓もすべて閉まっていて、いわば密室状態だった。いったい誰がどうやってマーシュを殺したのか。

事件の全体像は二百ページに至るまでなかなかつかめないが、矢継ぎ早に繰り出されるアクションシーンと、この二つの強烈な謎が読者の興味をがっちりとつかんではなさない。ついでに言っておくと、二つの謎は意外な、しかし合理的な解決が与えられる。手掛かりもちゃんと与えられていて、細心に読めば変装のトリックも見破れるようになっている。パルプ小説と言ってあなどることなかれ。ミステリとしても相当に力の入ったいい作品なのだ。

登場人物もそれぞれに癖があって楽しい。とりわけ小男のターキンがいい味を出している。彼はハリントンを脅して金を取ろうとするケチな脅迫者なのだが、いつも逆にハリントンに蹴飛ばされてひどい目に遭う。また検察官ホイッテカーとその部下ストームのコンビもなかなか面白い。ホイッテカーはおそろしく頭の切れる男で、本編においては探偵役をつとめるのだが、ストームとしゃべるときだけはなんだか調子がおかしくなるのである。緊張感ただよう物語にコミック・リリーフが適度に織り込まれ、私は久しぶりに上質のパルプ小説を堪能した。

このレビューをはじめてこれが十九作目。最初の十作のうちではエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」が群を抜いた出来だったが、次の十作のうちでは本作が圧倒的に面白かった。ネットで調べるとまったく無名の作品のようだが、とんでもない話である。充分再評価に価する。