2016年9月16日金曜日

番外17 行為の外形

番外17 行為の外形

われわれは行為の意味を行為者の意識・意図に問い尋ねる習慣がある。いたずらした子供に向かって父親が「なぜこんなことをした」と問うように。

私は谷崎潤一郎の短編「途上」の読解を通して、谷崎が行為の意味と行為者の意識をラディカルに切断していると考えた。(番外6参照)意味を意識に問うてはならない。意識は偽りを言う、あるいは誤認するものだからである。行為の意味を知るには、意識とは切りはなされた「外形」としての行為に着目しなければならない。

「外形」の問題は奇妙な広がりを持っている。私が外形について考えはじめて最初に気づいたのは次のようなことである。私は幽霊を信じていない。幽霊を信じる人がいたら一笑に付すか、軽蔑するだろう。ところが真夜中に一人で誰もいない田舎道を歩いているとき、私は平気でいられない。草の揺らぎや木の影に胸が騒ぎ、あきらかに微かな怖れを感じているのである。私はふだんは幽霊を断固否定する。そんなものは露ほども信じていない。しかし夜の田舎道を歩く私を、行為の外形でもって判断するなら、私は幽霊を信じているのである。

ここには奇妙に歪んだ「信」の形がある。私は幽霊を信じていないが、しかしあたかも信じているかの如く行為している。もしも私が「お前が夜の田舎道を歩く様子を見ていると、まるで幽霊を信じているみたいだ」と言われたら、「いや、それは木が人の形に見えたからだ」とか「急に枝が揺れてびっくりしたのだ」とか言い訳したり、「そんなことはない」と相手の言うことを不満そうに否定するだろう。

通常、信念と言えば、われわれは宗教の信者のことを考える。「私は~の教えの信者である。信者の一人であることを誇りに思う」というように彼はおのれの「信」を自覚している。しかし私があげた例ではそうではない。夜の田舎道を歩く私は「信」を持っていない。だが、「信」を持っているかのように振る舞う。この点に関しては Robert Pfaller が On the Pleasure Priciple in Culture という秀逸な本を書いているので参考にしてほしい。

第二に「責任」の問題がある。行為を外形としてみるとは、行為を意図と切りはなして見ることだが、しかしそれは行為の主体から行為の責任を免除するものではない。それどころか、主体の意図せざる結果が行為から生まれた場合でも、その責任は主体にあるのである。「途上」の例で言うなら、会社員は妻を殺害する意図はまったくなかったかもしれないが、その行為を外形において見るなら、偶然を利用して妻を殺害する行為に等しい。そのようなものとして彼は自分の行為に責任があるのである。「私はそんなことを意図して行為したのではない」という言い訳は通用しないということである。ウエーバーが「職業としての政治」で言っている責任倫理とは、外形としての行為に対して政治家は責任を負うということである。

第三に相反物の一致の問題がある。「途上」の会社員の場合、妻への愛情と妻への殺意は二つの異なるレベルにおいて合致している。会社員は自分の行為を妻への愛情を示すものだと「意識」しているが、探偵はそれを外形としてみたとき、妻への殺意を示すものだと解釈してみせる。逆に言えば、外形としてどれほど忌まわしい行為であったとしても、その行為者の意識にその意図を問うたならば、なにやら美しい理屈を聞かされるかも知れないということである。外形としての残忍性と主体の内面的洗練は混在しうる。連続殺人犯の心中に詩的な宇宙が存在していてもまったく不思議はない。逆に立派な業績を残している学者が、その思想を実現しようとしてホロコーストに協力することもある。しかし精神分析的な知見に寄れば、主体は嘘をつく、あるいは誤認するのである。そしてすでに言ったように主体は外形としての行為にこそ責任を取らなければならない。

第四に外形の「物質性」の問題がある。このことに気がついたのはスラヴォイ・ジジェクを読んでいるときのことだった。ジジェクはその書籍や講演で、何度もチベットのマニ車に言及している。マニ車とは経文を納めた円筒形の器具で、これを一回転させれば一回経文を読んだことになるのだ。マニ車を回すあいだ主体はなにを考えていてもいい。あるいはどんな行為をしていてもいい。とにかくマニ車を回していれば、彼は祈っていることになるのだ。なんなら風車式の仕掛けを作って自然の力でマニ車を回転させ、自分はどこか別の場所へ行き、思いきり猥褻な行為にふけってもいい。それでも彼は祈っていることになるからだ。外形としての行為はこのように物質によって代替されうる。

第五の問題はこの代替性にかかわるものだ。行為は代替されうる。「よろしく言っていてくれ」と挨拶を他人に任せることもあるし、掃除をルンバにさせることもあるし、ミステリ小説では自分が敵を殺す代わりに、いろいろな仕掛けに彼を殺させることがある。とりわけ行為がモノによって代替されるとき、行為の外形性は際立って見えてくる。そして行為を外形としてみるとき、肝腎なのはそれが代替されたものではないかと考えることである。「途上」の会社員の場合、彼の妻に対する行為は、たとえば彼の愛人が望むことを彼が代替して行っているのではないかと考えることだ。私はこの問題をスチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」(1987)に即して考えたことがある。主人公である小さな女の子の行為、空想、発話をその外形において見るならば、それらは母親(継母ではなく)の欲望を代替していることがわかる。我々が語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから、というものでなければならない。

第六の問題。「途上」においては「妻は死ぬまで夫の暖かい愛に包まれて人生を送った」というドラマを、探偵が外部からデコンストラクトする。このとき探偵は物語の外部にいることになる。行為を外形としてみるということは、物語の外部に立つことでもある。あたりまえのことだが、本格推理小説が成立するにはこの外部という立場の確立が必要になる。二十世紀前半において、ミステリはメロドラマという形式を蝉脱して、論理性を物語の駆動力にする近代的なミステリの形式に移行したと私は書いてきた。それを外形性の問題から言い直すと、メロドラマを外部から見る視点を確立したときに近代的ミステリは誕生した、ということにほかならない。私はこの点に注意しながら残りのレビューを行っていくつもりである。