2016年4月25日月曜日

番外11 宇野浩二 「西遊記物語」

以前「西遊記」が読みたくなって近代デジタルライブラリーをあさったことがある。いろいろな人が翻訳・縮訳していて、ほとんど全部に目を通したと思うが、その中で二つが傑出していると思った。一つは大町桂月が「校訂」した「西遊記」、もう一つは宇野浩二が子供向けに語り直した「西遊記物語」である。

桂月の一編は文語文で書かれているが、躍動感を内に秘めた名文で、これが傑作でないなら鴎外の「即興詩人」も傑作ではない。悟空が混世魔王を倒す一節を引いて見る。

悟空是を聞き終つて忽ち身を聳て雲上にのぼり、北の方へ飛び行き、はるかに四方を見渡せば、嶮山の間に物の聲あり。頓て雲を下りて伺ふに、一つの水臓洞あり。門外にあやしの小鬼たはむれあそび居たりしが、悟空を見て大きに驚き、我先に門内に逃入るにぞ、悟空大音に呼はりけるは、儞等走ることなかれ、我は是花果山水簾洞の主、儞が家の混世魔王我が眷屬をあなどる由、特に來つて仇を報ず、早く出でゝ我と鬪ひを交へよと罵りけるを、かの魔王ほのかに聞きて甚だ憤り、身に金盔鐵甲を着し大の刀を手に握り、門外へ走り出で、水簾洞の主はいづくに在る、はやく來つて死を快くせよと、大聲一喝山谷を動搖せり。悟空口を開いて呵々と笑ひ、儞眼大なりと雖も我が此所にあるを見る事能はず。魔王も又大きに笑ひ、あな無慙や儞が身纔に四尺に滿たず、來つて我に鬪はんとは、卵を以て大石にあたるがごとし、みよ〳〵唯今粉のごとくなし捨てんと、大刀を振つて斬つてかゝる。悟空其時身外身の法をつかひ、身内の毛一把を抜いて口に含み空に向つて噴出だせば、忽ち三百有餘の小猿と化し、かの魔王が身邊にむらがりかゝり、面部手足のきらひなくひしひしととりつきて、只一寸も働かせず。悟空則ち走りより、魔王が刀を奪ひ取り兩段に斫つて捨て洞の中へかけ入つて眷屬どもを殺し盡し、魔に生取られし小猿等をたづね出し、水洞を燒きて再び雲中に身を投じ、水簾洞にぞかへりける。

文語文に特有のリズムのよさ、漢語の力強い、ひきしまった表現が光っている。読みながらひさしぶりに子供のようにわくわくした。

宇野浩二の一編は昭和二年にアルス社から「西遊記・水滸伝物語」として出たもので、こちらは淡々とした筆致で書かれているが、無駄なく、要領よくまとめられていて、児童が読む、あるいは児童に読んで聞かせるには格好の本である。宇野が児童文学の面でも立派な仕事をしていることを、私ははじめて知った。

上記二作ををこつこつと電子テキスト化しているのだが、宇野浩二のほうが入力を終えたのでepub3形式で公開しようと思う。ただし原文では総ルビになっているが、epub版では作業が面倒くさいので一部にしかルビは振っていない。旧かな・旧漢字に慣れている人なら問題なく読めると思う。

 
 ダウンロードはここをクリック。(ファイル名 saiyuuki_monogatari 609kb)


文字について一点おかしなことに気がついた。本文中に口へんに牟と書いて、「うん」と読ませる漢字があるのだが(哞)、Chrome 系のブラウザで使える Readium や Firefox で使える EPUBReader ではちゃんと表示されるのに、Kobo Aura H2O のビューアーではこれが別の字に化けてしまう。私は H2O には Koreader をインストールしているのだが(英文を読むのであれば、Koreader のほうが読みやすい)、こっちのほうではちゃんと「うん」の字が表示される。よくはわからないが、フォントの問題ではなく、ビューアーのシステム内部の問題じゃないかと思う。H2O は水に潜る閉水の術を体得しているようだが、如来さまのありがたい呪文の文字を表示できないとは、まだまだ修行が足りないようだ。

(ほかのビューアーでも同様の問題が生じるかもしれないが、もともと私用につくったファイルなのでその辺はご容赦願いたい。)

2016年4月24日日曜日

55 マックス・アフォード 「天国の罪人たち」

Sinners in Paradise (1947) by Max Afford (1906-1954)

マックス・アフォードはオーストラリア人で、もともとはジャーナリストだったのだが、ラジオドラマや戯曲を書いて有名になり、さらにミステリもものした人である。

本書にはアフォードの語りのうまさがよく示されている。登場人物にはそれぞれ過去があって、それが順次語られていくのだが、すこしも煩瑣な印象を与えず、かえって面白く読めるのである。また暗い情念の物語が、コバルト・ブルーの海や、明るく原色にあふれかえる熱帯の島パラダイス・アイランドで展開されるという対比の妙もいい。最後に、殺人事件の犯人が論理的な推理によって指摘されるという、本格派のミステリになっている点もすばらしい。いや、本当のことを言えば、犯人が思う通りの痣が身体につくかどうかは、ちょっと疑問があるのだけれど、しかしそういう細かいことはここでは問題にしないことにする。私はよくできた作品だと思って感心した。

主人公はロバート・モルトという四十九歳の作家である。彼はミステリを書いているのだが、息抜きに妻と海の旅に出かける。船は一万トンのメデューサ号で、シドニーを出発してパラダイス・アイランドへ向かい、そこでさらに客を乗せる予定だった。

モルト夫妻はごく普通の中年夫婦だが、同船しているほかの客はなんだか妙な連中ばかりだ。ミス・ハーランドという女性は病人らしいが、ほかの客の前にまったく姿を見せない。というより、姿を隠している。彼女を診ている医者キングズレイは良識的な人のように見えるが、自分の妻の写真に熱烈にキスした後、燃やしてしまうなど、不可解な行動を取る。ミセス・シアラブは甥のレッドモンドを連れて旅行しているが、二人の関係はただの叔母、甥の関係ではなさそうだ。

パラダイス・アイランドに着いてから人間関係は緊張の度合いを加える。この島でじつに不愉快な男、スキナーが、乗客に加わるからである。彼は他人のスキャンダルをすばやくキャッチし、それをネタに脅迫することをなりわいにし、ついには億万長者にまで成り上がった男だ。彼はみんなから怖れられ、嫌われる。彼の召使いからも、共同経営者からも。

しかし嫌われているにもかかわらず、スキナーはこの小説の中でいちばん印象深い人物である。彼は警察署の一介の署長から、権力を握りたいというその一念だけで、現在の地位まで上り詰めた男である。その容貌はこんなふうに描かれている。
彼は老いていた。それが彼らの第一印象だった。老いていて、黄色く皺が寄っている。しかも猥褻なまでにやせ細っている。黒っぽい皺くちゃの服の中に縮こまっているその身体は、まるで繭の中で早すぎる死を遂げたさなぎのようだ。顔は突起物――眉、ほお骨、顎――のある仮面で、突起物の上にきつく張られた羊皮紙のような皮膚は光を受けてかすかな光沢を見せた。突き出た眉の下には、深くくぼんだ、小さく、抜け目のない、貪欲な眼がある。ロバート・モルトが見たこともないような、冷たく、暗く、生気のない眼だった。
生のわきあがるような歓びなどには完全に背を向け、他人を制圧することだけに一生をかけた男の、なれの果ての姿がここにある。陽光と熱気とあざやかな色合いに満ちたパラダイス・アイランドにおいて、彼は一人だけ暗闇と冷気と褪せた色彩に包まれている。この物語に描かれる暗い情念は、ことごとくこの男の姿の中に収斂している。

スキナーはある晩、バスタブの中で死んでいるのが発見される。医者は心臓発作だと診断したが、死の状況に不審を感じたミステリ作家のロバート・モルトは、それがじつは殺人であることを突き止め、その犯人を見事に指摘してみせる。

船の旅に集まる客は、最初のうちはつながりをもたない、ばらばらの人間のように見える。彼らの過去が語られても、個々別々の物語が語られているように見える。しかし次第にそれらの物語の先端部分が結び附き合い、最後には全体として、奇怪で複雑なアラベスク模様を描き出す過程は、なかなか面白かった。

また、本書には変装とか降霊術とか、いろいろメロドラマ的な仕掛けを用いられているが、しかし古くささはまるでない。やはりヴィクトリア朝時代にはなかった要素、たとえば共産主義とかスパイとか世界大戦などといったものがそこに織り込まれているからだろう。古い革袋に新しい酒を盛っているというわけだ。

2016年4月21日木曜日

54 ニール・ゴードン 「シェイクスピア殺人事件」

The Shakespeare Murders (1933) by Neil Gordon (1895-1941)

総じて見れば平均的な作品なのだろうが、私は本編をかなり楽しく読んだ。シェイクスピアやベン・ジョンソンといった、一六世紀の英文学に親しんだ人は、本編の謎解きに興趣を覚えると思う。

しかしまず主人公ピーター・ケリガンのことから話をしよう。彼は三十五歳の小柄な男で、十二カ国語を自由にあやつる。しかし教育のある男ではなく、幼い頃に両親を亡くしてからは、自分の才覚のみで生きてきた。すなわち悪いこともずいぶんやり、その方面ではかなりの顔利きなのである。父親がアイルランド人であったせいなのだろうか、悪賢い機転が利くだけでなく、ずいぶん口が達者な男だ。ある男に「おまえは何者だ」と訊かれて彼は「転がる石さ」とこたえる。
 「へっ! 手当たりしだい、苔を集めているのか」
  「そのとおり」
 「しかし今は宝探しをしているってわけだな」
 「親愛なるシャーロック、きみの巨大な頭脳がはたらくのを見ているのはじつに愉快だ」
こういう具合に人を食った受け答えが大の得意でなのである。ところが彼はスコットランド・ヤードのフレミング刑事ときわめて昵懇なのだ。二人の関係については本編よりも前に書かれた作品を読まなければわからないが、本編の中のケリガンの台詞を信用するなら、二人は幼なじみだったようだ。刑事は彼が小悪党であることを知っているが、事件を解決する能力に秀でていることも知っている。そこで彼をなかば警戒しながらも、喜んで警察と行動を共にすることを許すのである。

「シェイクスピア殺人事件」はクレイドン卿の邸の中で多種多様な人々が宝探しをし、その中で三人の人々が殺される話である。クレイドン卿の祖先は一八三〇年頃、インドから宝を持ち帰ったと伝えられている。それが美術品・工芸品の類いなのか、ダイヤなどの宝石類なのかは不明である。とにかく百万ポンドはしようという高価な何かを持って帰り、それを邸の巨大な図書室に隠したのである。当然、図書室はその後何度も調べられたが、壁にも床にもどこにも宝物は隠されていなかった。

ところが図書の整理のためにクレイドン卿が雇った図書館員が、先祖の残した秘密のメッセージを見つけ、それを解読し、宝のありかを知ったようなのだ。その図書館員はそのあと行方をくらました。

そこから宝探しが開始される。図書館員の失踪を偶然に知ったケリガンは、レディ・キャロラインというお婆ちゃんと手を組みその宝探しに参加する。この宝探しには四つのグループが参入する。ケリガンとレディ・キャロラインのコンビ、アメリカのギャング、クレイドン卿の娘とその恋人、そして美術商。クレイドン卿の邸内は虎視眈々と宝を狙う、こうした連中の暗躍でてんやわんやの騒ぎになり、最後はすさまじい銃撃戦が繰り広げられることになる。

さて、本編の白眉はクレイドン卿の祖先が残した謎のメッセージの解読にあるだろう。それはシェイクスピアの作品、おもに「ハムレット」からの引用で構成されている。この部分はいちばん面白かったので詳しいことは言わないが、シェイクスピアに親しんだ方には是非解読に挑戦してみてほしいと思う。私にはわからなかったが、愉しいことは請け合いである。シェイクスピアを読んだこともない無学なケリガンと、貴族らしく教養豊かなレディ・キャロラインのかけあいも爆笑ものである。

もう一カ所大笑いするのは、最後の銃撃戦の場面だ。アメリカのギャングが、シカゴ・スタイルの銃撃戦を、ほかの宝探しのグループと展開するのだが、なんとそこにレディ・キャロラインまでがショット・ガンを手に参戦するのである。
窓から身を乗り出している女が甲高く叫び、突然銃を肩の高さまで持ち上げると、ケリガンのほうに向かって発砲した。彼は身を伏せ毒づいたが、同時にうしろから苦痛のうめき声が聞こえてきた。エステバンが悲鳴をあげながら芝生の上をのたうちまわっていた。甲高い声が叫んだ。「そこをどきなさい、ピーター!」彼の命を救ってくれた銃の撃ち手はレディ・キャロラインであった。
ケリガンに向かって銃が発射されたようだが、じつは彼の後ろに忍び寄る敵を的にしていたというわけだ。お婆ちゃんまで銃をぶっ放すとは、じつに盛大で愉快な戦闘シーンである。

繰りかえし言うが、本書は決して優れた作品というわけではない。たまたま私の好みにヒットするものを持っていたというだけで、ミステリの出来としてはごく普通レベルである。

2016年4月17日日曜日

53 E・フィリップス・オッペンハイム 「ミスタ・マークスの秘密」

Mr. Marx's Secret (1899) by E. Phillips Oppenheim (1866-1946)

オッペンハイムはスパイ小説やミステリを大量に残している。もっとも有名なのは私が訳した「入れかわった男」(原題 The Great Impersonation)で、ドイツ人将校が自分と瓜二つのイギリス人貴族を殺害し、彼の振りをしてイギリス上流階級に潜入し、情報を収集しようとする、という物語である。もちろん最後にはどんでん返しが待ちかまえている。

私はオッペンハイムがそれほど好きというわけではないが、それでも二〇作品くらいは読んでいる。その中でよかったのは The Strange Boarders of Palace Crescent (1934) で、ロンドンのいかがわしい下宿の雰囲気が魅力的に描かれている。つまらない作品もあるけれど、目が離せない作家である。(「目が離せない」なんて書くと、オッペンハイムが生きているみたいな印象を与えるかも知れないが、彼の作品がデジタル化されるたびに手に取っているので、現役作家が新刊本を出すたびに読むのとあまり変わりはないのである)

本作はオッペンハイムの初期の作品といっていいだろう。最初の百頁ほどは驚きながら読んだ。オッペンハイムは貴族を主人公にすることがほとんどなのだが、この作品では百姓の息子フィリップ・モートンが主人公=語り手なのだ。ビールをつくって誰にでもふるまう気のいい父親の話、その父親が嵐の日に殺害される話、ヨットが座礁し太平洋で死亡したと思われていた大地主レイヴナーが数年ぶりに生還する話、母親が謎の振る舞いをする話、主人公=語り手が文学好き・学問好きの少年に育つ話、それを見た大地主のレイヴナーが彼に教育費を出そうと申し出る話。センセーショナルな挿話も含まれているが、基本的にはビルドゥングス・ロマンでも読んでいるような感じである。文章も、もちろん百姓の息子が書いているのだから当然だが、素朴でくせのないものになっている。オッペンハイムも最初の頃はこんな作品を書いていたのかと少々あっけにとられた。

しかし百姓女であったはずの母親が、なぜか主人公に莫大な遺産を残したというあたりから読者は、おやおや? と思うことになる。エチケット違反かもしれないがばらしてしまおう。主人公=語り手の母親は貴族の娘で、たまたま百姓の男と一緒に生活することになっただけなのである。本書の主人公は、オッペンハイムらしく、やはり貴族なのだ。

ところでタイトルのミスタ・マークスは、語り手の母が亡くなった後、その後見人になってくれる大地主レイヴナーの秘書である。レイヴナーとミスタ・マークスは外国で知り合い、意気投合し、その後ミスタ・マークスはレイヴナーの仕事を手伝っている。脇役のようだが、陰で何をやっているかわからない人物である。語り手は彼の奇妙な振る舞いに当惑させられる。一例をあげよう。レイヴナーはまだ歳若い語り手に、ドクタ・ランドルという教師のもとで個人教育を受けるか、それともパブリック・スクールに行って大勢の人と勉強するか、選択をさせようとする。そのときミスタ・マークスは、こっそりと語り手にメモを渡すのだ。そこには「ドクタ・ランドルの所にいくことだけは絶対にやめろ」と書いてあった。いったいこれは語り手のためを思って寄こしたメモなのか、それともミスタ・マークスの個人的な利害がそこにからんでいるのか、語り手は迷ってしまう。ミスタ・マークスは親切なようでいて、いつの間にか主人公を悪の道にひきずりこもうとしているようでもあり、なんとなく信頼のおけない雰囲気を漂わせる人物なのだ。

彼の正体も本書の最後になって明らかにされるが、これは言わないでおこう。こちらのほうはなかなか予想がつかないのではないかと思う。というより、そんなことがありうるだろうかと、ちょっと疑念が残るような真相である。

本書は前半は、父親が殺される場面とか、母親の奇妙な振る舞い以外、とくになにごともなく淡々と展開する。しかし後半に入り、語り手がほかの二名の生徒とともにドクタ・ランドルのもとで勉強をしはじめると、急にいろいろなことが起きはじめる。なにしろランドル先生の家を一歩外に出れば、そこは小さいといえども都会なのである。そして物語も双子の登場やら変装やらといったメロドラマ的な仕掛けが用いられるようになり、最終盤に入ると急スピードで大団円へ向かっていく。最後まで飽きないことは飽きないが、しかし終わってみれば善人と悪人の区別が非常にはっきりしていて、予定調和的な構図が見える作品だなと思う。書かれた年代を考えればそれも仕方がないのだけれど。

2016年4月14日木曜日

52 パトリシア・ウエントワース 「アンナ、どこにいるの」

Anna, Where Are You? (1953) by Patricia Wentworth (1878-1961)

このブログでは何度も書いていることだが、ミステリの歴史において一九三〇年代は一つの分水嶺を形づくっている。近代的なミステリの型ができあがるのがこの時期なのである。それ以前の作品は総じて一九世紀的なメロドラマ、あるいはセンセーション・ノベルの影響を色濃く残している。

もちろんこれは大きな流れを見た場合であって、個々の作品にあたるなら、昔書かれた作品でも新しい感覚を持っているものもあるし(「ノッティングヒルの怪事件」とか)、一九三〇年代以降に書かれていても、古さを漂わせているものもある。

パトリシア・ウエントワースの本作は後者のよい例である。あからさまなメロドラマになっているわけではないけれど、ピーター・ブランドンとトマシーナ・エリオットの恋模様は、明らかにジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を思い起こさせる。

さらに本書の探偵役であるミス・シルバー、編み物が大好きなこの老婦人とその部屋は、フランク・アボット刑事にヴィクトリア朝を想起させる。
ミス・シルバーの部屋はなんと居心地がよく、心休まる場所なのだろうと、刑事は思った。流行遅れの家具は爆撃機や爆弾に煩わされなかった時代のことを思い出させた。安心感――それこそヴィクトリア朝の人々が持っていたものだ。もちろんおそらく彼らはそのために大きな代価を支払っていただろう。あの時代にはスラムがあり、児童労働があり、文化は一握りの人々のものでしかなかった。しかしすくなくともあの頃の子供たちは、夜中にベッドから引きずり出され、地下壕に避難したり、スラムが爆弾で粉々にされることはなかった。
あるいはこうも書いている。
煖炉の反対側から彼に向かって笑顔を見せながら、ミス・シルバーは忙しく編み物の手を動かした。彼女は不安定な世界にあって動くことのない一点であった。神を愛せ、女王を頌えよ、法律を守れ、他人に親切を施せ、善良であれ、自分のことよりも他人のことを考えよ、正義のために力を尽くせ、真実を語れ。こうした素朴な信条のもとに彼女は生きていた。もしすべてがそうであったなら。
私はこの作品を読みながら、その背後に古き良き時代への郷愁を強く感じた。べつに郷愁自体は悪くないし、作中人物が過去への憧憬を語ることにはなんの問題もない。なにしろみんな庭に地下壕を掘り、周囲で爆弾が炸裂する中、夜を過ごすこともあった時代の話なのだから。しかし作者自身がその郷愁におぼれてしまうことは危険である。過去を美化するのはイデオロギーに囚われることであり、作家が持つべき想像力を棄てることにほかならない。どうもパトリシア・ウエントワースはこの作品においてその弊に陥ってはいないだろうか。ほかの作品も読んで確認しなければならないけれども、彼女にはそんな傾向(凡庸さ)があるような気がする。

われわれの世界は単純な信条では割り切れない世界である。現在、先進国はテロと戦うなどと言っているが、しかしテロを生んでいるものは先進国のエゴなのである。すくなくともその程度の複雑さを認識するだけの力がなければ、作家は世界を描けない。そして作家というものは、単純な信条で生きていくことができたとされる時代においても、やはり世界はそれ相当の複雑さを秘めていたのではないかと、想像力を働かせて考えるべきなのである。

本編の出だしの部分を簡単にまとめておく。家庭教師のアンナ・ボールはディープ・エンドと呼ばれる僻地の邸に住み込むことになるが、ここの主人が非常に変わり者で、子供を徹底した放任主義で育てている。叱りつけることは、子供の精神をたわめることだ、として、一切を彼らの好きなようにさせているのだ。おかげで子供たちは暴れ放題、まるで自然児か野蛮人みたいな状態である。母親は気が弱く、病気がちで、しつけなどまるできない。アンナ・ボールは子供たちに手を焼き、とうとう二週間後に邸を出て行く。ところがその後彼女は完全に消息を絶つのだ。かくして警察、およびミス・シルバーが捜査に乗り出す。そこでわかってきたのはこの失踪事件と、近くの町で起きた銀行強盗事件がなんらかの関係を持っているらしいということだった。

この作品の面白いところは、ミス・シルバーが単なる安楽椅子探偵ではないという点である。彼女はアンナ・ボールの捜索のために、みずから家庭教師としてディープ・エンドのお屋敷に入り込む。彼女はもと教師であったから、この役は彼女にうってつけなのだが、しかし実に元気なおばあちゃんで、この行動力には感服する。
 

2016年4月9日土曜日

51 ヘレン・マッキネス 「ブルターニュ潜入任務」

Assignment in Brittany (1942) by Helen MacInnes (1907-1985)

レビューも五十一作目になった。しかし九十九里を以て半ばとする計算法によれば、まだ日暮れて道遠しの状態である。気を引き締めて残りを進みたい。

私は十代に入ってから大人向けの普通の英語の本を読み出したが、読み出して最初の頃に出逢った一冊がヘレン・マッキネスの The Snare of the Hunter (1974) だった。紀伊國屋のバーゲンセールの籠の中に、よれよれの表紙と共につっこまれていた。内容は憶えていないけれど、チェコに住んでいる娘がオーストリアにいる父親を捜しに行くとかいう話である。冷戦当時のヨーロッパの状況など、当時の私はろくな知識ももっていなかったが、政治的なサスペンス小説にはじめて接して、最後まで面白く読んでしまった。

そしてそこに不思議な世間智があることに感銘を覚えた。文学作品でも登場人物の台詞や独白という形で世間智が表明されることがあるが(「智に働けば角が立つ」とか「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」みたいに)、マッキネスに感じたのはそれよりももっと生臭い世間智、文学的に昇華していない泥臭い世間智である。私は少年ながら、というより、少年であったからこそ、これから出ていく世間の俗っぽい智慧に敏感に反応したのだろうと思う。

「ブルターニュ潜入任務」にもそんな世間智が語られている。四つほど羅列してみる。

(1)
心配は事前にしておけ。そうすれば準備をととのえることになる。心配は事後にしろ。そうすればしっかり地面に足をつけた状態でいられる。しかし事の最中に心配することはやめろ。それは命取りになる。
(2)
頭のいい連中はいつも自分たちが宗派替えしたことをあけっぴろげに堂々と認める。ところが他人が宗派替えしたと言うと、それに対しては不審の目を向けるのだ。
(3)
典型的なナチスならハーンの感傷を嘲嗤うだろう。典型的なフランス人なら彼は冷たい冷酷な男だと思うだろう。それが問題なのだと彼は考えた。彼はそのどちらでもない。彼はただの折衷的なイギリス人なのである。
(4)
それは人生に似ている……心配し、計画を立て、汗を流し、苦しむ。するとまったく予定してなかったことが起きて、慎重に立てたはずの計画がおがくずのように意味のないものになるのだ。

今読むとどうということもないものだが、少年のころは、こうした言葉にまだ見ぬ世界の一端が示されているような気がしたものである。

「ブルターニュ潜入任務」は、第二次世界大戦中、フランスがドイツに占領されていたころ、イギリスの諜報部員がブルターニュの僻村に潜入し、ドイツ軍の活動について情報を収集しようとする物語である。この潜入作戦は、イギリスに流れ着いたあるフランス人が、顔も形もイギリスの諜報部員ハーンに瓜二つだったことをきっかけに練られた。フランス人がイギリスの病院で療養しているあいだ、ハーンがそのフランス人の振りをして彼の故郷である、小さな村へ行ってそこに住み込み、周囲で展開されているドイツ軍の動きを逐一イギリスに報告しようというのである。

瓜二つの人間がその立場を入れ替わるという筋は「王子と乞食」とか、私が訳したオッペンハイムの「入れかわった男」でも使われている、古い、まことに古い物語の仕掛けなのだが、しかしその「くささ」が少しもないのが本作のよいところである。それはパターンをほんの少し外している、というところに秘訣があるのだろう。彼の正体は村の人々にはばれないのだが、母親と許嫁という、もっとも近しい人には最終的に感づかれてしまうのである。

ともかくハーンは落下傘を使ってブルターニュに行き、諜報活動を開始する。その直後のことだ。なんとハーンはその僻村に乗り込んできたドイツ軍からコンタクトを取られるのである。一瞬なにが起きているのだ? とびっくりする展開だ。その後、ハーンはなりかわった男の秘密の日記を手に入れ、彼がブルターニュ独立派の活動をしながら、ひそかにドイツ軍に協力をしていたことを発見する。スパイが入れ代わった当の相手もスパイだったというわけである。

この作品は近代的なスパイ小説らしい、渋い筆致で書かれているが、しかし内容的には非常にドラマチックで、後半に入るとハーンと(彼がなりかわった男の)許嫁が恋に落ち、戦争中ならではの、読んでいるこちらまで胸が痛くなるようなロマンスが展開される。本作は映画化されたようだが、むべなるかな。ヘレン・マッキネスはもっと知られてもよい作家である。

2016年4月7日木曜日

番外10 「試練――コービット一家に何が起きたのか――」 ネヴィル・シュート

Ordeal (1939) by Nevil Shute (1899-1960)

「試練」は第二次世界大戦が起きたなら、普通の生活を送っている人々の身にどのようなことが起きうるか、ということを小説の形で示したものである。空爆による家の崩壊、ガスや水道や電気といったインフラの壊滅。人々は攻撃対象となる大都市近辺を離れ、田舎に疎開するが、突然大量の人々が移動したために、田舎では食料不足となり、また、劣悪な環境でのキャンプ生活を強いられるため、疫病が発生する。子供がいるコービット一家は、疫病の発生とともに、ヨットでサウサンプトンからワイト島に移動しようとするが、疫病が発生した場所から来たために上陸を許されないのだった。ついに彼らは海軍の協力を得てフランスまで渡ることになる。本書はコービット一家が遭遇するアクチュアルな困難を迫真的に描いた小説である。以下はアマゾンから出版した翻訳書「試練――コービット一家に何が起きたのか――」に付加した後書きである。

作者のネヴィル・シュートは一八九九年、ロンドンに生まれ、エンジニアリング・サイエンスを修めてオクスフォード大学を卒業後、デ・ハビランドやビカースといった航空機メーカーで飛行機の製造に当たっていました。ところが余暇の楽しみとして書いていた小説がなかなかの出来で、一九二六年に「マラザン」という麻薬取引を描いたサスペンス小説を出版してからは、旺盛な創作活動をはじめ、一九六〇年に亡くなるまで中編を含む二十四編の小説を発表しました。

本作は一九三八年に新聞に連載され、翌年ハイネマン社から単行本として刊行されました。イギリスでのタイトルは「コービット一家に何が起きたのか」、アメリカでのタイトルは「試練」となっています。イギリスとアメリカでは読者の好みが違うので、このようにタイトルも違う場合が多いのです。この本が書店に並んだ初日、ARP (Air Raid Precautions) という、空襲から一般人を守るために活動しているイギリスの団体が、一千部あまりも無料でこの本をメンバーに配布したそうです。空爆されると市民生活にどんな影響が出てくるのか、それがリアルに描かれていたからではないでしょうか。

わたしは正直にいって作家としてのネヴィル・シュートをさほど評価していません。どの作品を読んでも登場人物の性格が平板で深みがなく、筋立てがメロドラマじみている。たしかアンソニー・バージェスも同じような不満をどこかで訴えていたような気がします。本書においても主人公のノンポリ的な性格、しかしそれゆえにこそイデオロギー的な性格が、わたしは非常に気になる。ですがシュートには一点、非常な美質があります。技術者が世態人情の描写をこととする小説を書いた、という点からも想像がつくでしょうが、彼は「テクノロジーと日常生活の接点」を描いているのです。文明論的な観点から技術とか科学の問題を扱った文学作品はいくらでも思いつきますが、しかしわたしはシュートの書き方にそれらとは異質なものを感じます。

たとえば爆弾によって下水システムが破壊され、コービットの家の便器にヘドロのような黒い汚水が溜まるという場面を思い出してください。便器というのはわれわれの日常生活においてもっとも卑近・卑俗な物体です。しかし普段われわれは意識していないけれど、便鉢の水が流れて行く先には下水システムという技術が存在している。この小説に描かれた当時の英国の下水は、今の下水とは仕組みが少し違いますが、それでも水圧の調整や汚水処理の技術の上に成り立っていることに変わりはありません。その下水システムが爆弾によって破壊された結果、正常な水圧が保てなくなり、コービット家のトイレに異変が起きる。下水システムが壊されることで、コービットは故障したテクノロジーに直面するわけです。その汚水がゆらゆらと揺れる様を、建設業者のリトルジョンは魅入られたように見つめるのですが、まさに揺れるこの汚水の表面こそが、われわれの日常生活と、普段はわれわれが見逃している技術との接触面ではないでしょうか。わたしは一九三〇年代に、こんな卑近なレベルから、日常とテクノロジーの接点を描いた作家をほかに知りません。

コービットと医者のゴードンが交わす会話も、人間と技術の関わりという点で興味深い。コービットは、戦争が起きたら人はすぐに軍に入って戦うものだと思っていたと言います。それに対してゴードンは「それは古い考え方だよ。戦争が新しくなれば……この戦争はまさに新しい戦争だ……それとともにわれわれの状況も新しくなり、古い考えは通用しなくなる。われわれは新しい考え方を自分でつくり出し、最善を尽くさなければならない。昔の赤い軍服を捨てて、あらたにカーキ色の軍服をつくらなければならない」と言います。戦争というのは、第一次世界大戦以降、技術の戦いに他なりません。ゴードンが言う「戦争」は「技術」という言葉に置き換えてもいい。すなわち、彼は、新しい技術に直面したら、われわれの古い考えは通用しなくなる。新しい考え方をつくり出し、最前の対処をしなければならない、ということを言っているのです。これは遺伝子工学や人工知能といった新しい技術に翻弄されているわれわれには常識と言えるような考え方ですが(だからといって、新しいテクノロジーが登場するごとに、われわれがそれに適切に対処しているとは到底言い難いのですが)、しかしそれを一九三〇年代にすでに表明していたシュートは、やはりさすがだなと思います。

これに対してテクノロジーの問題をもっとも考えていそうな軍人のほうが、その重要性を無視しているのですね。コービットの親友である空軍の大尉は新型の武器の効力を否定して「戦争というのは銃剣を握って、みずからの足で歩くほうが勝つのだ」などと昔の日本軍の精神論とさして変わらないことを言うのですが、第二次大戦が原爆という最新テクノロジーによって終結したことを知っているわれわれにはとても諾うことができない言葉です。福島の原発事故の時にも明らかになったことですが、テクノロジーを使い、その恐ろしさや効力をいちばん知らなければならない人々が、じつはそれらにいちばん鈍感であり、あるいはそれらに盲目的である、ということなのかもしれません。

新しい「戦争=テクノロジー」に直面し、それに十分対応できない旧来の社会は、家族を守る上で頼りにならないと判断し、コービットはみずからテクノロジーと生活が触れあう境界面、便鉢の中で揺れる黒い水面、海を渡ろうとします。本作は、技術者兼作家としての作者の問題意識を実によくあらわした作品になっていると思います。

2016年4月3日日曜日

50 ファーガス・ヒューム 「忽然とあらわれた女」

The Lady From Nowhere (1900) by Fergus Hume (1859-1932)

ファーガス・ヒュームは「二輪馬車の謎」以外、あまり読まれることはない。世界中どこでもそうである。私はこれが不思議でしかたがない。「二輪馬車の謎」は出だしはすばらしいが、途中からどんどん詰まらないメロドラマになっていく。あの程度のメロドラマなら、たとえば The Secret Passage (1905) のほうがずっと面白い。大量に書かれた彼の作品がほとんど未紹介のまま終わっているのはどうも解せない。

しかし「忽然とあらわれた女」はヒュームとしては不出来な作品ではないだろうか。じつはこの作品はタイトルに惹かれて手に取った。「オードリー夫人の秘密」も「白衣の女」もそうだが、ミステリでは女がどこからともなく忽然とあらわれる。オードリー夫人はその過去を探っていくと、社会という間主観性のネットワークに穿たれた穴から突然あらわれたことが判明する。「白衣の女」では冒頭のほうに、闇の中から女の手が不意にあらわれ、男の肩に触れるという場面があるっが、D. A. ミラーという評論家は、この場面を「白衣の女」の the primal scene だと言っている。どこからともなくあらわれ、男を脅かす女。このパターンは二〇世紀に入っても、たとえばヴェラ・カスパリの「ベデリア」とかウイリアム・アイリッシュの「幻の女」など多くの作品によって反復されている。

本作において、忽然とあらわれた女というのは、金持ちと思わしき年配の婦人である。彼女はほぼ半年おきに借間を変え、ロンドンを転々としている。彼女には三つの奇妙な特徴がある。一つは引っ越しの際に名前を変えることだ。あるときは Ligram 、あるときは Margil 、あるときは Milgar 、あるときは Limrag 、あるときは……。もうおわかりと思うが、どの名前もアナグラムになっている。一つの名前からこんなにいろいろな名前が作れるのかと、私は妙に感心した。

彼女の特徴の二つ目は借間をするとき、「部屋を改装させてほしい、ただし家賃は倍額を払う」と申し出ることである。そしていつも借間を黄色を主調にした豪華な部屋に造り替えてしまう。三つ目の特徴は、やたら占いやら魔術師やらスピリチュアリストと付き合いがあるということだ。彼女は殺されたときもトランプ占いをしていたらしく、死体となった彼女の膝の上にはスペードのエース(死のカード)が載っていた。

先走って言ってしまったけれど、そう、彼女はある晩殺される。彼女を殺した人間は、その直前に彼女とワインを飲んだり煙草を吸ったりしているところを見ると、彼女の知り合いらしい。この不思議な女の殺人事件を担当するのがスコットランド・ヤードの刑事アブサロム・ゲブ、そして彼の探偵術の師匠とも言うべき、しかし今は引退の身の元刑事サイモン・パージである。

二人の刑事の活躍により、この不思議な女の身元が判明する。彼女の本名はエレン・ギルマー(Ellen Gilmar)で、彼女の変名はこの Gilmar のアナグラムだったのである。もう一つ奇怪な事実がわかった。彼女はジョン・カークストーンという貴族の従姉妹で、借間住まいをはじめるまでは彼の屋敷に住んでいた。このジョン・カークストンは二十年前にあやしげな状況のもとに、屋敷の一室で殺害されている。しかも犯人は今もって不明。奇怪な事実というのは、エレン・ギルマンが借間を改造してつくっていた部屋が、ジョン・カークストンが殺された部屋とそっくりだったということだ。

このような設定は非常に面白い。忽然とあらわれた女は反復強迫のように殺人が行われた場所を何度も再現してそこに住み込んでいたわけだ。そして最後には自分もそこで殺される。

しかしながら残念なことに、この精神分析学的なテーマが本書の中で追求されることはない。エレン・ギルマーが黄色い部屋を再現する理由はよくわからないままなのである。私は読み終わってその点が不満だった。小説は理論的な作物とはまるで逆の書き方をしていると思われる向きもあるかもしれないが、しかし小説だって具体的な人間関係や状況の描写を通して問題が提示され、その問題の様々な側面が理論的に物語られていくこともあるのである。いや、良質の作品においては展開されるものなのである。「オードリー夫人の秘密」も「白衣の女」も「ベデリア」もみんなそうだ。だからこそこれらは名作なのである。ついでに言うと、本書でレビューしたエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」もそうだ。私にとってあれは善意とか良心といったものの奇怪な構造をあばいた哲学的な書物である。

「忽然とあらわれた女」はミステリの伝統として引き継がれている一つのトポスを主題にしようとしたのだが、作者の力量不足のせいか、それを十分に発展させることができなかった作品である。また、単に物語としても十分につくりこまれているとはいえない。たとえば刑事のゲブが大追跡の結果ようやくつディーンという男を捕まえたのに、そのあとなんの尋問もせずただ牢屋に入れておくというのはおかしい。ディーンは事件の鍵を握る人物なのだから、まっさきにゲブは彼を取り調べるべきである。どうも本作はヒュームの悪い面があらわれた作品のような気がする。