2016年6月29日水曜日

66 ジョージ・ディルノット 「容疑」 

Suspected (1920) by George Dilnot (1883- 1951)

本作は、ニューヨークのエドワード・J・クロウド社の版で読んだのだが、タイトルのすぐ下に「The Grell Mystery、The Maelstrom などの作者」とあり、混乱した。私はどちらの作品も読んでいて、よくできているので印象に残っている。しかしその作者名はジョージ・ディルノットではなかったはずだ。調べてみると The Grell Mystery と The Maelstrom はフランク・フロストという人の作品である。さらにディルノットについて調べてみると、彼はいくつかの作品をフロストと共著で書いているようだ。おそらく出版社はその辺の事情をろくに調べもせず、フロストとディルノットを混同してしまったのだろう。フロストにはいい迷惑である。ディルノットは凡庸なミステリ作家に過ぎないが、フロストは元は優秀な刑事であって、その経験を活かして手堅い、堅実な、しかし迫力のある物語を書いた人なのだから。

「容疑」は筋はだいたい次のようなもの。アメリカからイギリスに渡ってきたハロルド・サクソンは、戦争中に飛行機を製造して大儲けする。死の商人のひとりである。その彼がある日、自宅で胸にハットピンを刺されて死んでいるのを発見される。

この事件の解決に乗り出すのがスコットランド・ヤードのガーフィールド警部と、辣腕新聞記者のシルバーデイルである。

捜査の過程でシルバーデイルがびっくりするような手がかりを見つけた。彼が思いをかけている女性ヒラリーの写真が、ハロルド・サクソンの机から出てきて、彼が殺された凶器のハットピンが、ヒラリーのものと同じであることが判明したのである。

実をいうとヒラリーは、殺人が起きてすぐ直後にシルバーデイルに電話をしてきたのだった。そして「理由はなにも聞かないで。ただ私と私の友人を、誰にも知られないように、どこかに隠して」と頼んだのだった。

ハロルド・サクソンを殺したのはヒラリーで、彼女は逃亡をはかっているのだろうか。ヒラリーが事件となんらかの関わりを持つことを知りつつも、惚れた弱みで、シルバーデイルは彼女の要求を聞き入れ、車を用意し、叔母の屋敷へ彼女と彼女の友達を送ることにする。

ところがどうしたわけだろう、ヒラリーと友人は叔母の家には行かず、行方不明になってしまったのである。この時点でシルバーデイルはさらに驚くべき情報をガーフィールド警部から聞かされる。ヒラリーが殺されたハロルド・サクソンと結婚していたというのである!

ここまで読んだときは、それなりに手の込んだ、面白そうな作品だなと思ったが、しかしそのあとがどうしようもなく凡庸で、いいかげんだった。まるで現実味のない話が展開するのである。ネタバレしないように、あまり細かいことは言わないけれど、悪党どもがスコットランド・ヤードの捜査員たちの包囲網をやすやすとやぶってしまうところとか、万事において頭の切れる悪党どもの首領が、信じられないような勘違いを犯しているところとか、ハロルド・サクソンを殺した真犯人の動機がよくわからないこととか、とにかく「それはないだろう」といいたくなるような場面が多すぎる。話の組み立てが脆弱すぎるのである。

ミステリは大人の童話であるといったのは丸谷才一だったろうか。童話だからリアリズムのなさや、細かい齟齬には目くじらを立てず、ぼんやりと読めばいいという立場もあるだろう。(丸谷はそんなことを言っていたわけではないけれど)どうも作者のディルノットはそういうナイーブな読者を想定して書いていたのではないか。本書がシルバーデイルとヒラリーの結婚という、その手の作品にありがちなハッピー・エンドで終わっているところを見ても、そんな気がする。

2016年6月21日火曜日

番外13 「オードリー夫人の秘密」と対象a

ジャック・ラカンの議論は難解だと言われる。実際はそんなことはない。議論の前提が普通とは違うので、難しく感じるだけだ。

通常、我々は「世界は存在する」と前提してものを考える。タンポポも猫も文学も存在し、それら存在物について議論することができると考えている。

ところがラカンの考え方の基本は、「世界は存在している。そんなものは存在するはずがないのに」というものなのだ。

「存在しているが、しかし存在するはずのないもの」は存在なのか、存在じゃないのかというと、どちらでもない。それは存在し、かつ、存在しないものである。

この前提から出発するなら、ラカンの議論であつかわれるものは皆、存在し、存在しないことになることがわかると思う。彼が「女は存在しない」とか「主体は存在しない」とか「大文字の他者は存在しない」というように「Xは存在しない」という言い方を多用するのは当然のことだ。

ラカンを読んであきれてしまうのは、こういうパラドックスを含んだ前提から一貫性のある議論を引き出したことである。これはロバチェフスキーの非ユークリッド幾何学とおなじくらい私にとってはショッキングなことだった。(アラン・バデューがラカンの議論を集合論にマッピングして見せたときも唖然としたけど)

有と無が一致するというように、あるスペクトルの両極端がパラドキシカルにも一致するとき、ラカンの議論は思考に対してすぐれた導きの糸を提供する。私がそれを痛感したのは「オードリー夫人の秘密」を読んだときだった。

オードリー夫人の中にはまさしく両極端が重ねあわされている。一方において彼女はヴィクトリア朝時代の理想の女性、「家庭の天使」なのである。英文学に詳しくない人のために簡単に説明すると、家庭の天使という言い方は、コヴェントリ・パットモアというヴィクトリア朝詩人の詩のタイトルから取られたもので、この詩には理想の妻の姿が描かれている。ヴァージニア・ウルフはこの詩に対して皮肉なコメントを残している。「完璧な妻はとても同情的であった。彼女はおそろしく魅力的である。彼女はまるでエゴというものを持たない。彼女はむずかしい家族生活をかしこくこなした。彼女は毎日犠牲を払った。鶏を食べるときは、彼女は脚を取った。すきま風が吹き込んだら、彼女はその上に座った。要するに彼女は自分の心を持たず、他人の心や要求にいつも自分を合わせることを好んだ。とりわけ……言うまでもないが……彼女は純粋であった」批判的なコメントだけれども、この詩の内容はよくわかるだろう。オードリーフ夫人はまさにそういう無垢で、夫にとって魅力あふれる女性として振舞っている。

しかしその一方で、彼女は犯罪者、実際に人を殺してはいないが、明白に殺す意図を持って放火したり、夫を井戸に突き落とすような女性である。この当時、女性の犯罪者が毒々しい色合いでもって新聞を賑わせ、大衆の想像力を強烈に刺激したものだが、彼女はそれとおなじモンスター(化け物)なのである。モンスターとはずいぶんな言いようだと思われるかもしれないが、実際本文にはオードリー夫人の肖像画に関して、中世の奇怪な化け物を描いたように見える、という一節がある。彼女は「美しい悪魔」であったとも書いてある。

「美しい悪魔」という形容矛盾こそ、オードリー夫人の特質である。彼女は婦徳というスペクトラムの一方の端、つまり一時代の理想であると共に、他方の端、すなわちモンスターのような女の犯罪者でもある。両極端が折り重ねられ、合致しているところに彼女は「存在」する。彼女はパラドクスを構成しているのである。

非常に興味深いのは、サー・マイケルが彼女に求婚する場面である。サー・マイケルは美しい、理想的な女性に出会って恋に陥る。そして厳かに彼女に結婚を申し込み、それは受け入れられる。普通ならサー・マイケルは悦びに溢れそうなものだが、そこで彼はまるで胸の中に死体が横たわっているような気分になったというのである。この挿話においてオードリー夫人はサー・マイケルの欲望の対象である。しかしそれは「家庭の天使」のような相貌を見せているかぎりにおいてそうなのだ。欲望の対象を実際に我が物にしたとき、サー・マイケルは心をときめかせたその対象が、実はほしくもないような何ものかであることを直観したのである。サー・マイケルは欲望の対象に向かって突き進んだが、その道はメビウスの輪のように奇妙にねじれて反転し、いつの間にか彼はその反対物へ向かって進んでいたことになる。オードリー夫人は欲望の対象でありつつ、欲望を挫折させるものなのである。少し言い方を変えると、サー・マイケルはけっして欲望の対象に到達することはない。彼はかぎりなく対象に接近するが、それを手にしたと思った瞬間に、欲望の対象は欲望せざる対象に変質してしまっているのである。欲望の対象であるオードリー夫人は、存在し、かつ存在しない。「女は存在しない」

と、ここまで言えば、私がオードリー夫人の中に、ラカンが対象a、あるいは欲望の対象と呼ぶものを見て取っていることがおわかりになるだろう。アキレウスが亀に決して到達しないように、主体は対象aには決して到達しない。対象aは獲得不可能な、禁じられた対象なのである。

ラカン派の哲学者スラヴォイ・ジジェクは、対象aは空虚な空間(穴)を覆い隠す fantasy figure であると言っているが、オードリー夫人もまったくおなじである。私はオードリー夫人が欠如・穴であることに着目し、自分が翻訳した「オードリー夫人の秘密」の後書きの中で、オードリー館における時間・空間を論じ、いずれにも穴があいていること、またオードリー夫人の存在自体が間主観性のネットワークに開いた穴であることを示した。そういう議論に興味のある方はぜひ私の翻訳を手にとって読んでみていただきたい。

「オードリー夫人の秘密」がラカン的な作品であることに気づいたとき、私は社会と精神分析の関係について考え直さざるをえなかった。ラカン派の人々は、精神分析を社会批評に応用してべきだと考えているが、しかし「オードリー夫人の秘密」が百年以上も前に、ラカン的精神分析の内容をヴィクトリア朝の社会的現実から得ていたことを考えると、精神のほうこそ社会現象ではないのかという気がしてくる。フロイトがモーゼや原父についてメロドラマを構成したのもそのことと関係しているような気がするのだが。

2016年6月16日木曜日

65 アーサー・B・リーブ&ジョン・W・グレイ 「ミステリ・マインド」

The Mystery Mind (1920) by Arthur B. Reeve (1880-1936) and John W. Grey (1885-1964)
 
本書は一九二○年に映画として発表された The Mystery Mind のノベライゼーションである。アーサー・B・リーブとジョン・W・グレイはおそらく脚本を書いたのだろう。小説化したのはマーク・エドマンド・ジョーンズという人である。映画のノベライゼーションが一九二○年のころからすでにあったのかと驚く。

映画のノベライゼーションは、私はわりと好きで、本棚をちらと見ると The Fugitive とか Back To The Future とか War Games などの本が並んでいる。しかし本作を読むのはつらかった。話がばかばかしいだけで、さっぱり面白くないのである。

ノベライゼーションといっても、ただ映画の内容を文字に書き起こせばいいというものではない。いいノベライゼーションは、やはり一つの主題をめぐって映画の内容をまとめ直したものである。いい映画にはかっちりした構成があるが、それを忠実に文字化しても、いい構成を持った小説にはならない。小説は小説で、独自の構成を意識してつくりださないといけないのである。

このことは小説を映画化する際のことを考えるとよりはっきりとわかる。たとえばアンソニー・バージェスの「時計じかけのオレンジ」はみごとに構築された小説である。では、あの小説を一ページ目から忠実に映像化すればいい映画ができるかといえば、そうはならない。スタンリー・キューブリックの映画「時計じかけのオレンジ」が傑作なのは、あくまで小説をベースにして、独自の美学、独自の構成をもつ、映像の物語をつくりあげたからである。

残念ながら「ミステリ・マインド」には独自の構成がない。本作のもとになる映画は見ていないのだが、おそらく銀幕上に映し出される事件をすべて、順番も変えずに小説化したのだろう。しかしこれではまずいのだ。本書では主人公たちの身に次々と危難がふりかかるが、これは映画で見るとハラハラドキドキ面白いのだろうが、小説で読むとはてしもなくつづく類似パターンの反復が退屈を生んでしまうのである。小説だって冒険がたくさん描かれていてもいいのだが、視覚芸術の映画とは異なるリズムで展開されなければならないのだ。

また、危機的状況が、いつも主人公たちの無鉄砲、無分別、ある種の愚かしさから彼らにふりかかるという点も、小説を読んでいると気にかかる。このことは映画なら、場面展開の早さのせいで、あまり目立たないのかもしれないが、読者に反省的思考の時間がある言語芸術としての小説の場合は、物語を展開させる作者の手際の雑さ加減に気が付いてしまうのである。

内容を簡単にまとめておく。ブロンソンとスチールという二人のアメリカ人が、南アメリカはオリノコ川上流に隠された宝物の地図を発見する。しかし悪魔を崇拝するそこの現地人が二人の目的を知り、地図を奪おうとする。彼らから逃げ回り、瀕死の状態におちいったブロンソンは、地図を友人の医者に渡し、医者は命からがらアメリカへまいもどる。しかし悪魔を崇拝する現地人はニューヨークへもその魔の手をのばし、宝の地図と、地図を持っているブロンソンの娘を捕まえようとするのである。かくして悪の集団と、ブロンソンの娘を守ろうとするフィアンセ、その他、善玉たちの集団の全面対決が繰り広げられる。

物語は最後のところでひとひねりが加えられるが、基本的には先進国の人間が後進国の富を奪い、にもかかわらず後者の人々が悪として描かれるという、この当時にはよくあった物語のパターンを踏んでいる。

2016年6月13日月曜日

64 オーガスタ・ヒューエル・シーマン 「七つの鍵穴をめぐる冒険」

The Adventure of Seven Keyholes (1926) by Augusta Huiell Seaman (1879-1950)

二十世紀に入ると子供向けのミステリもずいぶん書かれるようになった。こちらの方面にも目を配っておかなければ、このブログの趣旨から見て片手落ちということになりかねないので、児童書も何冊かレビューしておこうと思う。

子供向けの本には凄惨な殺人の場面は出てこない。基本的に子供たちの「知恵と勇気と冒険」の物語ということになる。もちろん第二次世界大戦後は、児童文学の世界にもすさんだ現実が顔を出すようになる。バランタインの「珊瑚礁の島」がゴールディングによって「蝿の王」(1954)に書き換えられたことがその辺の事情をもっともよくあらわしているだろう。たとえばロアン・オグレーディ (Rohan O'Grady) の「叔父さんを殺せ(Let's Kill Uncle)」(1963)なども従来の児童書には見られない残酷さが主題になっている。「蝿の王」も「叔父さんを殺せ」も明らかにその暴力性には戦争の影が見られる。

閑話休題。

本書の作者シーマンはニューヨーク生まれのアメリカ人で、女の子を主人公にした児童書を書いた人だ。ミステリっぽい作品が多数ある。「七つの鍵穴をめぐる冒険」には殺人者はおろか、泥棒すら出てこないが(カラスをのぞけば)、しかし立派に謎が構成され、それを解いていく過程で、よく物事を考えることの大切さが示されている。

出だしの一節を訳出してみる。
 フェアファックスおじいさんが奇妙な銅の小さな鍵をバーバラに残さなかったら、この話は存在しなかっただろう。おじいさんは生きていたときは奇人だったがが、彼が残した遺書も、彼の人生にまけないくらいみょうちくりんなものだった。その中でもいちばん変だったのはこんな一項目だ。「孫娘のバーバラ・フェアファックスには、小さな銅の鍵を与える。これはパイン・ポイントにある古いフェアファックス屋敷にしかけられた鍵をあけるためのものだ。鍵穴はぜんぶで七つ。いちばん大切なのは七つ目の鍵穴だ。彼女はそれを独力で探し出さなければならない」
フェアファックス屋敷と訳しておいたけれども、じつは森の中に建っていて、今は誰も住んでいない、床も抜けそうなぼろぼろの家である。バーバラはそこから少し離れたところに住んでいて、下宿を経営している叔母の手伝いをしている。彼女は弁護士から鍵を受け取ると、おじいさんがしかけた謎を解きあかそうと、いさんでフェアファックス屋敷におもむく。

しかし鍵穴はどこにあるのか。バーバラはやみくもに部屋の中を調べて回るのではなく、まずおじいさんとこの家の中で過ごしたときのことを考え、どこにおじいさんが鍵穴をつくりそうか、推理をする。そして部屋の中や家具を調べるにしても、システマチックに調べていこうと考える。手がかりがないように思えたり、行き詰まったときは、たとえば、おじいさんの言葉を思い出す。
あわてちゃいけないよ、バーバラ。困ったと思うようなときも、じつは案外それほど困っちゃいないんだよ。いちばんいいやり方がわからなくても、次によさそうなことをして待ちなさい。きっとおまえさんを助けてくれるような何かが起きるから。
こうやって彼女は一つ一つ鍵穴を見つけ、おじいさんからの大切な贈り物を手にするのだ。子供たちの冒険を描きなら、教訓話くさくなりすぎない程度に、生きていくための知恵を織り交ぜるというのが、だいたいこの頃の児童書の定跡的な書き方である。

バーバラが鍵を開けて具体的に何を発見したのかは、これから読む人のために言わないでおこう。おじいさんの孫娘に対する愛情がよく伝わってくる物語になっている。

2016年6月10日金曜日

63 イレイン・ハミルトン 「ウエストミンスターの怪事件」

The Westminster Mystery (1931) by Elaine Hamilton (1882-1967)

まったく聞いたことのない作者だが、機会があれば別の作品も読んでみたいと思わせられた。相当な力量の持ち主だと思う。いかにも単純そうな事件が、いつの間にか複雑な広がりを見せる過程が見事だ。情報を探り出そうとしてやっきになる、多少短気な下層階級出身のレノルズ警部と、身内や知り合いをかばって真実をごまかそうとする、わがままな著名人・上流階級との対立もうまく描かれていて、飽きることなく最後まで楽しめた。

事件はとある晩に起きた。ロンドンの有名女優が、大富豪の男に付き添われて帰宅する。いつもならメイドがドアを開けてくれるはずなのだが、彼女はおらず、ドアは開いたままだった。不思議に思って女優が中に入ると、おかしな薬のにおいがする。メイドが薬品を使って洗濯でもしているのだろうかと思ったが、そうでもないらしい。女優は男に、家の中をぐるりと見てきてくれないか、と頼む。男が出て行くと、女は彼が出て行ったドアとは反対のほうのドアを開け、隣室に入る。そこには別の男の死体があった。彼女は死体を確認し、ドアのところまで戻り、そこで悲鳴をあげる。大富豪の男がそれを聞いて急いで戻り、死体を調べる。彼は見知らぬ男がクロロフォルムを大量にかがされて死んでいることを知る。

女優の奇妙な行動を見て、読者は疑惑を持つだろう。この女は殺人のことを知っていたみたいだ。彼女が犯人なのだろうか。それとも彼女は犯人や被害者のことをなにか知っているのだろうか。彼女に付き添って家まで来た大富豪の男もおなじことを考え、彼女にそれとなく問いただすが、彼女はそ知らぬふりをする。

これが事件の幕開けである。連絡を受け現場に急行したレノルズ警部は、すぐに女優が嘘をついたり、何事かを隠していることに気がつく。こわもての警部はその鋭敏な観察力と推理力で彼女を問い詰めるが、相手も当代で最高の人気女優、口の達者さでは負けていない、なんだかんだといって追及をかわす。さらに大富豪の男に、夜も遅いし、女優は死体を見てショックを受けている、取調べは明日にしてくれませんか、と諭され、警部はその場をいったん去ることになる。

一九三〇年代頃までのミステリを読むと、警察が上流階級を相手に事情聴取するときは、やけに態度が丁寧である。庶民の場合はその場でしょっぴいて警察署に連れて行き、尋問をしたりするが、貴族や大金持ちの場合は、相手の都合を聞いて、それに合わせるなどの配慮を見せる。それにつけこんで、というわけでもないのだろうが、上流階級は警察の調査をのらりくらりとかわし、なかなか本当のことを言わない、という物語がよくある。このブログでレビューしたR.A.J.ウオーリングの「奇怪な目をした死体」もそんな小説である。ただこの作品では探偵役自身が上流階級に属していたため、取調べの対象である人々に同情的な態度を取ったのだが、本書のレノルズ警部は労働者階級の出身である。まるで協力的ではない捜査対象に、彼は猛烈な苛立ちを感じる。大富豪と人気女優だけではない。事件は意外な広がりを見せて、本物の貴族まで事件に関わっていることがわかるのだが、その関係者全員が真実を警察に打ち明けようとしないのである。大貴族の老婦人が威厳のある態度で「そのことはお話できません」といったら、警察も無理やりそれ以上のことを聞くことはできないのだ。

私はレノルズ警部が歯軋りする様子を見て、同情にたえなかった。この特権階級に属する連中は、自分たちの秘密に関わることはいっさい教えない、しかし自分たちの安全を守れ、と警察に言っているようなものだからである。なんという勝手な人間どもだろうと、私は物語にのめりこみながら思った。しかし同時に、それほどまでして隠さなければならない事情、しかもこれだけ大勢の人間にかかわる事情とはいったいなんだろうという興味も抱いた。

物語の最終盤に入ると、この不思議な事情が明らかにされる。事件関係者は複雑に絡み合っていて、真実を話そうとしなかったのもあながち非難できない事情がわかってくる。しかし読んでいて、この部分の書き方には、今ひとつ工夫が必要だなと感じた。事件関係者が隠そうとした事実というのが、それはそれで一つの物語ができるくらい豊かなふくらみを持ったものなのだが、最後の数十ページに押し込められるように書かれているため、なにやら小説の梗概を聞かされているような、味気ない感じになってしまっているのである。この作者は複雑な物語を構築し、それをわかりやすく語っていく抜群の技術を持っているが、最後の部分はさらに工夫を凝らす必要があったと思われる。

もう一つの欠点は、殺人事件の犯人とおぼしき「親指のない男」に関する情報が作品中でほとんど提供されていないことだ。もちろんいちばん最後になって彼の正体はわかるのだけれども、それを推測する材料がまったく与えられていなかったために、読者は「へえ、そうなの」と気の抜けた反応しかできないのである。犯人に意外性があるのだから、ここにも一工夫がほしかった。

しかし総じてよくできた作品で、本作以降、どんなものを書いているのか、興味が持たれる。

2016年6月7日火曜日

62 バーフォード・デラノイ 「マーゲイトの怪事件」

The Margate Mystery (1901) by Burford Delannoy (?-?)

作者については十九世紀の終わりから二十世紀初頭に活躍していたらしいということしかわからない。調べるとバーフォード・デラノイの名前で書かれた作品がいくつか見つかるが、伝記的なことなどはいっさい記録がないようだ。
 
本書は正直に言って、あまりよい作品とは言えないだろう。なんといっても構成が悪い。二つの殺人事件が起きるのだけれど、そのあいだには何の関連もないのである。二つの別個の殺人事件を読まされて、私はいったいこの作者はなにが書きたかったのだろうと、いぶかった。

内容をまとめておく。若い実業家の妻が殺される。夫がフランスに出張で出かけているあいだに、浮気相手の男にホテルで殺されたらしい。浮気相手の男は、圧倒的に不利な状況証拠を突きつけられ、裁判では死刑を言い渡される。しかし男の態度を見て、犯人は別にいると感じた人間が二人いた。それが本書の主人公である作家のランウオードと、彼の友人で法律家のマシューズである。
 浮気相手の男が犯人でないなら、真犯人は誰なのか。二人は
(1)ポーの物語にあるようにオラウータンがやった(現場近くには動物園がある) 
(2)ホテルのメイドが殺した 
(3)夫がフランスから戻ってきて妻を殺した
の三つのシナリオを考える。(1)と(2)はマシューズが調べて、その可能性がないことを確認した。ランウオードはフランスに出かけて(3)の可能性を調査しようとした。

ところがフランスに着くや、彼は泥棒に捕らえられ、彼の家に閉じ込められてしまうのである。しかしなんという偶然であろうか、この泥棒の情婦が死刑になるはずの男の妹で、ランウオードが兄を助けるためにフランスに来たことを知ると、泥棒がいないすきに彼を解放してやるのである。こうしてランウオードは危地を脱出し、泥棒は捕まり牢獄に入る。しかし、残念なことに、その間に浮気相手の男の死刑が実施されてしまったのだった。ランウオードは元泥棒の情婦を連れて、失意のうちにイギリスに帰る。

さて、元情婦はイギリスに帰ってから真面目に働きはじめ、ランウオードと恋に落ち、結局結婚してしまう。ランウオードが病気のために失明するという、悲惨な出来事もあるのだが、それでも二人は幸せに生活し、子供も生まれる予定だった。だが、そこに出所してきた泥棒があらわれ、裏切った元情婦を殺害するのである。これが二つ目の殺人だ。

いずれの事件もあわただしく最後のほうで解決されるのだが、事件のあいだにはまるで連関がないので、物語の焦点がぼやけることおびただしい。

しかし物語の前半は面白く読めた。本書は事件当事者がランウオードの頼みに応じて、それぞれの立場から自由に書いた事件の手記を寄せ集めて構成されているのだが、その中でも描く対象からやや距離をおいた書き方、感傷や紋切り型を拒絶する書き方が楽しかったのである。たとえば男が女に求婚する場面はこんな感じである。
 「結婚してほしいんだ」
 「本気なの?」
 「生まれてからこんなに本気でしゃべったことはないよ」
 「でも……でも……」と愛らしいためらいの仕草。先週、地元の劇場で見たドラマの真似だ。
愛の告白というクサイ場面を、一歩退いた皮肉な眼で描いている。現実的な女である酒場の女給が、センチメンタリズムを排して、端的に事実を書き記す部分もなかなかいい。彼女はランウオードの回りくどい、上流階級に特有のおべっかに腹を立ててこんなことを言う。
ランウオード「マダム、あなたのお言葉には繊細さが感じられます。微妙な機微をつかんだ言い方をなさる。きっと文筆業において輝かしい業績を残す運命にあるのでしょう……」
女給「黙んな。お追従は大嫌いだよ」
彼女の手記は教養がないはずの女給らしからぬ、簡潔で用を得た見事な文章になっている。さらに事件の捜査に当たっている警官の手記から、もう一つだけ短い引用をする。
私は変装しようとはしなかった。そういうやり方はお話しの中では結構だが、現実には……まったく馬鹿臭い!
探偵が変装して大活躍する話は、シャーロック・ホームズ以来、うんざりするほど書かれてきたが、作者はそういう物語の非現実性を健全な視点から批判している。こういう部分に私は感性の変化、十九世紀から二十世紀への変化を感じる。

2016年6月2日木曜日

61 フランシス・ウースター・ダウティー 「二人のブレイディと阿片窟」

The Bradys and the Opium Dens (1900) by Francis Worcester Doughty (1850-1917)

イギリスでは一八世紀末から一九世紀の初頭にかけて、教会の日曜学校などで一般の子供たちにも読み書きを教えるようになった。それが功を奏して一九世紀の半ば頃には、膨大な数の読者層が誕生し、それがジャーナリズムや文学などの隆盛のもとになったのである。あまり教育のない労働者たちも仕事の合間に新聞の犯罪記事やら、ペニー・ドレッドフルなどと呼ばれる扇情的な軽い読み物を読むことが出来るようになった。私の記憶に間違いがなければ、たしかロバート・トレッセルの「ぼろズボンをはいた慈善家たち」という小説の中で、大工だったかペンキ塗りの少年が、たどたどしく拾い読みしながらペニー・ドレッドフルを読む場面がある。また、私が訳したマリー・ベロック・ローンズの「下宿人」にも、下宿を経営するバンティング氏が連続殺人事件の記事を熱心に読みふける場面が出てくる。労働階級の人々は、そういう読書を通して語彙や知識を増やしていったのである。

ペニー・ドレッドフルはアメリカではダイム・ノベルと言われる。ダイムは十セントのことだ。一ドルの十分の一で買える本、三文小説という意味になる。今回私が読んだのは一九〇〇年二月にニューヨークで発行された、たった五セントの小冊子、「シークレット・サービス」シリーズの一冊である。ページ数は三十数頁で、毎週発行されていたようだ。本文のあとにはバックナンバーのタイトルがずらっと並んでいて、その数は五十八冊。一年以上つづいていたのだから、それなりに売り上げがあったのではないか。



本書はシークレット・サービスに携わる二人の探偵の物語である。二人の探偵のうち歳上のほうがキング・ブレイディという。歳下のほうはハリー・ブレイディである。おなじブレイディだが、血のつながりはない。偶然におなじ姓の探偵がコンビを組んでいるのである。ちなみに表紙の絵は、二人がチャイナタウンを訪れたときの様子を描いている。両者とも変装しているのだが、黒いコート着ている前面の男性がキング・ブレイディで、彼が腕を取っている女性は、なんと、女装しているハリー・ブレイディである。

読者層の知的レベルがそれほど高くないので、物語はじつに簡単な構図しか持っていない。ジョナサン・スモールという金満家とその娘が悪党どもに誘拐され、チャイナタウンに拉致される。悪党どもは、もちろん、身代金を要求する。さらに悪党の一人はスモールの娘に惹かれていて、彼女に薬を飲ませ、意識が朦朧としている隙に結婚式を挙げてしまおうと考えている。オールド・アンド・ヤング・ブレイディ、すなわち二人のブレイディは、この父娘を悪の巣窟チャイナタウンから救い出すために、大冒険をする。

例によって人種差別的な内容にはなっている。登場する中国人には個性がなく、誰も彼もが悪者である。中国本土にいたときはどんな生活をしていたのか、なぜアメリカに移民することになったのか、アメリカでどんな苦労をしているのか、そんなことなど関係ないのである。黒人を差別する人々が、黒人はみなおなじだ、などと言うが、同様にここでは、中国人はみなおなじ、なのである。どうもダイム・ノベルとかペニー・ドレッドフルは、文字教育を広めるという大事な役目を果たしつつ、同時に偏見をばらまくという弊害も持っていたようだ。

本書の文章や書き方も読者層に合わせたものになっている。言葉遣いはできるだけ平易にしてあり、文章も短い。段落も長いものはなく、会話が多い。
 キング・ブレイディはホテルを出た。
 彼は通りで馬車を拾った。
 「十四番通りのX番地へ行ってくれ」馭者は馬に鞭を当てた。
 馬車はブロードウエーを走り、十四番通りに折れ曲がった。
 大きな乾物屋の店先で、キング・ブレイディは馬車を降りた。
 警戒するようにあたりを見廻したが、そのときブロンドの髭をはやした体格のいい男が、こっそりと合図を送って寄こした。
 探偵は角を曲がって六番街へ行った。
こういう具合にアクションが次々と継起していく。悪党がたくさん登場する割には、スラングなどもあまり出てこないようだし、英語を勉強したい人が読むには、うってつけの文章かも知れない。おかしな偏見は学び取らなくてもいいけれど。