2016年7月31日日曜日

73 H.L.ゲイツ 「殺人の家」

The House of Murder (1931) by H. L. Gates (1878-1937)
 
この本は過剰なくらいにメロドラマが詰め込まれているという点において、以前番外でレビューしたマックス・アフォードの「暗闇のふくろう」に似ている。一九三〇年代に入って、メロドラマ形式のミステリを書くなど、やや時代遅れな感じがするが、しかしなりふりかまわずその形式を極端なところまで突き詰められると、かえって変な魅力を感じてしまう。この季節外れの異常な通俗性はなにを意味しているのだろうか。

物語は主人公がいきなり死体と直面する場面からはじまる。バジル・タウンはアメリカ人で宝石の取引に携わっている。あるときフランスに呼ばれ、金に困ったある男爵夫人から真珠のネックレスを買い受けることになった。ところが、男爵夫人の家に着いてベルを鳴らし、ひょいと横を向いたら、窓から室内が見え、そこに男爵夫人が倒れているのである。彼を玄関まで迎えに来た女中と部屋の中に駆け込むと男爵夫人は射殺され、真珠のネックレスは奪われていた。

私はこの最初の部分を読んだとき、ちょっと顔をしかめた。殺人死体の発見場面から語りはじめることで、読者を一気に物語りに引きずり込もうとするのはいいが、なにしろ文章が荒っぽい。いかにも素人の書き方なのである。しかも設定が大時代だ。このあと男爵夫人の殺人がスワン(白鳥)と呼ばれる名代の女盗賊と、その手下「アヒルの嘴を持つ男」のしわざであるとわかると、フランスきっての名探偵ジロフが事件解決のために乗り込んでくるのである! これだけ読んでもたいていの人は辟易とするのではないだろうか。

だが、バジルをはじめ事件関係者が「死の家」と呼ばれる古びた屋敷に集められ、そこで連続殺人が展開されるようになると、作者の文章は奇妙なつやを帯び、熱気をはらみはじめる。そして臆面もないメロドラマがくりひろげられるのだ。ネタをばらしたくないからこれ以上は筋に触れるのをやめるが、これはもう話の整合性なんか度外視した、あきれるような愛と狂気の物語である。

こういうインパクトの強い物語だから、登場人物も、今風のことばで言うと、「濃い」キャラクターの持ち主ばかりである。検視官のマルサックは巨体の持ち主で、とてつもなく声が響き、不謹慎なくらいに冗談ばかりを言っている。本書のヒロインともいうべきジャックリーンはピストルの名手で、意志が強く、人を寄せ付けない凛然とした雰囲気をただよわせている。彼女の召使いギヨームは銃で手を撃たれても平気な頑健な身体を持ち、神出鬼没でまことに不気味。しかしきわめつけは名探偵のジロフである。口ひげを生やし、眉はもじゃもじゃで、顔の表情によってVの字になったり、Vをひっくり返した形になったりする。我の強い男で、なにかというと「私はジロフである」と豪語して胸をたたくのである。
 「聞きなさい。申し上げましょう。わたしが愉快そうにしているのは、これから起きる出来事を予感してのことです。今晩、この屋敷の中には女怪盗スワンがいる。彼女の命を受けてアヒルの嘴もすぐ近くにいる。わたし、ジロフは彼らを捕まえるでしょう。ムシュー・タウン、あなたはわたしの捜査を大いに助けてくれた。礼を言いますぞ。ジロフが礼を言うのですぞ」
名探偵はこんな具合にしゃべる。あまりにも芝居がかったものの言い方に、私は頭がくらくらした。

goodreads.com のサイトを見ると、この本と、この本の内容とよく似た Death Counts Five という本を読んだ人がいて、本の評価として五つ星を与えている。ゴシック風のお屋敷で起きる連続殺人事件が独特の雰囲気とともに描かれているのが面白かったらしい。たしかにこの極端なメロドラマ性には変な魅力がある。ある種のB級映画が持っているような妙な魅力が。

2016年7月28日木曜日

72 ジョン・G・ブランドン 「ソーホー殺人事件」

A Scream in Soho (1940) by John G. Brandon (1879-1941)

gadetection サイトの情報によると、作者のジョン・ゴードン・ブランドンはオーストラリアの出身で、もともとはプロのボクサーだったが英国に渡り、「ザ・スリラー」などの雑誌に大量の短編、長編小説を書い人だそうだ。ちょっと凝った文章を書く人で、sartorial splendour とか Cimmerian blackness なんて文学的で高尚な表現が出てきたりする。

物語は第二次世界大戦中の、灯火管制下にあるロンドンを舞台にしている。ある晩、灯火管制のため真っ暗になったソーホーの広場に叫び声が響き渡る。近くに住むニュー・スコットランドヤードの警部マッカーシーと巡邏警官が駆けつけると、とある建物の前に血だまりが見つかる。しかし死体はどこにもない。叫び声がしてまだ数分しか経っていないから、犯人はまだ遠くへ逃げてはいないはずだ、もしかしたら犯人は死体とともに建物の中にいるのかもしれないと考え、警部は広場の出口に警官を配し、建物の中に入ろうとする。しかしその手配をしている最中に、彼はあやしげな男に目を留め、いつも自分の勘を信じる警部は彼の跡をつけはじめる。途中で警部は手下のちんぴら(警部は組織の中に部下を持つだけでなく、犯罪の情報などを仕入れるためにちんぴらたちをてなづけているのだ)に出くわしたので、尾行の役を彼にまかせて自分は広場に戻ってくる。するとどうだろう、広場の裏門で見張りをしていた警官が殺されているではないか。警部が広場を離れているあいだに犯人は警官を殺し、広場から逃げ出したのだ。

出だしはこんな具合だが、この殺人事件の捜査をする過程でマッカーシー警部はドイツのスパイがイギリスの軍事機密を盗み出そうとしていることを知り、それを身をもって阻止する、というような話に展開していく。

殺人事件を捜査する前半部分はいかにも detective fiction といった物語になっているが、後半に入ってマッカーシー警部がドイツのスパイ団と対決する部分に入ると、とたんにアクション・スリラーに変化してしまう。マッカーシーは敵のアジトに乗り込み、屈強のドイツ軍人を相手に派手な殴り合いを展開するのである。知的な遊戯を期待していた私はこの展開を残念に思ったが、しかしこの殴り合いのシーンにはちょっと迫力を感じた。
マッカーシーは虎のように飛びかかり、相手が発したかもしれない叫び声は強烈な一撃によって口の中に押しとどめられた。その一発で唇はめくれ、歯茎までが剥き出しになった。
原文のスピード感をうまく訳出できていないが、しかし最後の部分に元ボクサーらしいリアリズムがあることはおわかりになるだろう。こういうちょっとした描写が文章を生き生きとさせるものだ。

しかしボクサーとしての血がこういう場面を作者に描かしめたのかというと、どうもそれだけではないだろう。やはりわたしはこの小説には政治的な作意、時局への迎合があると思う。つまり純粋な detective fiction ではなく、途中からアクションものに転じたのは、ドイツ人をフィジカルにたたきのめすことで、イギリス国民、とりわけ粗野な愛国心に燃える人々にカタルシスをもたらそうとする意図があったと思われる。フー・マンチューものが黄禍論という偏見のもとに書かれたように、本作はイギリスの敵国への憎しみのもとに書かれた作品である。

以前レビューしたヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」には、ヒトラーの中に帝国主義的イギリスの分身を見る視線があった。それはさほど深遠な認識とはいえないけれど、それでも単純な善悪では割り切ることのできない局面が戦争の中に含まれていることを示しはしている。こういう認識すらない作品は、私は正直、あまり興味がもてない。

最後に、灯火管制とスパイ活動を結び合わせた作品としてJ・B・プリーストレイの Blackout in Gretley をあげておこう。上出来の作品とは思わないが、本書よりもはるかに質が高く、一読して損はない。

2016年7月24日日曜日

71 ハリエット・アッシュブルック 「不道徳殺人事件」

A Most Immoral Murder (1935) by Harriette Ashbrook (1898-1946)

私はユーモアや諧謔に満ち、テンポの速いミステリが好きだが(べつに重厚な作品が嫌いというわけではない)、本編のオフ・ビートなユーモア感覚と、複雑な筋を軽快に展開させる手際は、まさに私の好みである。アッシュブルックなど名前も聞いたことがなかったが、今後は大のお気に入りの作家になるだろう。彼女の作品は十数冊しかないから全部読んでいちばん出来のいいものを翻訳するかもしれない。ジョイス・ポーターやクレイグ・ライスに負けないだけの面白さを持っていると思う。複雑なプロットを構築する腕前は彼らより上かもしれない。

彼女のユーモアはミステリというジャンルそのものに向けられている。
 たとえば銃口から煙が出ているピストルを手に死体を見下ろし、顔には悪鬼のような表情を浮かべている男がいたとする。彼は決して殺人者ではない。(いつかミステリ作家はこの伝統をやぶって第一章で現行犯逮捕された男を真犯人にするだろう。そうしたら誰にも犯人は当てられない)
これを読みながら、そういえばクリスティの作品の中にはそんなのがあったなあ、とか、ノックス神父の十戒を一つ一つ破っている短編小説集があったな、とか、いろいろ感慨にふけってしまった。ミステリに読み慣れた人なら誰でも考えるようなことだけど、しかしアッシュブルックはミステリが黄金時代を迎えている最中にこのコメントを書いていたのである。

こんな一節もある。
 どんな薔薇にも棘がある。
 どんな人生にも雨の降る日がある。
 最上の殺人物語にも退屈な瞬間がやってくる。事実……照合と再照合の詳細……ドアから窓まで、窓から煖炉までの距離……時計が十時を打つのを聞いたのは誰か。
 読者はあきらめて、読みづらい思いに耐えなければならない。それは面白くないが、必要なのである。
作者はこう前置きして事件の細かな事実を語りはじめる。これがモダニズムの影響(ジョイスとかオブライエンとか)なのかどうかはわからないが、とにかくアッシュブルックの書くミステリは、ミステリというジャンルに対して自意識的であり、そこが大きな特徴となっている。

物語の主人公はフィリップ・スパイク、二十九歳。彼はサーク・アイランドに住む裕福な独身男だ。兄貴が地区検事長をしている関係で、警察の仕事を手伝うこともある。仕事は特になく、気まぐれで、いつも暇をもてあましている。彼にはパグという執事がついている。パグは元ボクサーで、ウッドハウスの小説を読みながら執事の仕事のなんたるかを勉強している。

二人はこんな具合にして知り合った。あるときボクシングの試合が行われていたのだが、どちらの選手も慎重で、相手の出方を見るばかり、なかなか打ち合いにならない。観客はいらいらしてきてブーイングの嵐となる。選手は試合を中断して、そんなに文句を言うならリングに上がってこいと挑発する。それに応じて二人の酔っ払いがリングにあがり、選手にぼこぼこにされてしまった。この二人がスパイクとパグなのである。そのとき以来、パグはスパイクの家で執事として働いている。このエピソードから二人がどういう人間か、だいたい見当がつくだろう。

さて事件はある嵐の晩にはじまる。スパイクの家に三十四五歳と思われる女が、全身ずぶぬれ、熱を帯び意識も朦朧とした状態で飛び込んできたのだ。話など聞けるような状態ではなかったので、スパイクとパグと料理女のパーソンズはとりあえず彼女を寝かせ様子を見ることにする。

次の日新聞に大見出しが躍った。プレンティス・クロスリーという著名な切手収集家が銃剣で殺害されたというのである。検事長の兄、警察の警部とともに事件現場を訪れたスパイクは、クロスリーの金庫から貴重な切手が数枚消えていることに気がつく。

しかも嵐の晩、彼の家に迷い込んできた女というのがこの切手収集家の娘であり、彼女はバッグの中に盗まれた切手の一枚を隠し持っていたのである!

読者の頭には途端にあるシナリオが思い浮かぶと思うが、事件はそれほど単純ではない。

私は本編を心から堪能した。唯一あまり納得できなかったのは真犯人の動機である。これを説明するのは、犯人をばらすことになるので控えるが、私は犯人の告白を聞きながら、その心情を理解するには想像力の小さな飛躍が必要だな、と思った。

2016年7月22日金曜日

番外14 マックス・アフォード 「暗闇のふくろう」

番外13
Owl of Darkness (1942) by Max Afford (1906-1954)

以前このブログでレビューした「天国の罪人たち」が面白かったので、マックス・アフォードをもう一冊読んでみた。このブログでは一人の作者につき一作品しか扱わないことにしているので、このレビューは番外とする。しかしミステリとメロドラマの関係を考えさせる、いい作品である。

ミステリとメロドラマの関係については、このブログで何回か書いた。十九世紀の犯罪小説は、基本的にメロドラマである。ところがこの手のものが量産された結果、読者は(そして作者も)その類型的なパターンに飽きてしまったのである。

メロドラマのいちばんの特徴は偶然が多用されることだろう。偶然が起きることで物語は展開していく。ところが次第にそれとは別の仕掛けで物語を展開する手法が編み出されるようになった。それが演繹的な推論を用いた手法で、一九三十年代にあらわれた近代的ミステリは、この手法の採用によって、従来のメロドラマとは一線を画すことになった。演繹的推論を用いた手法を全面的に用いて、物語の様相がころころと、それこそ万華鏡のように変化する作品も書かれるようになった。この手法は、ミステリだけでなく、普通の文学作品にも応用されている重要なものだ。

メロドラマとの対峙が作家にとって一つの課題であったせいだろう。二十世紀前半のミステリにはよく「メロドラマ」という言葉が出てくる。本書もそうで、こんな一節が出てくる。
準男爵が怪盗フクロウではないか、という考えを、ジェフリーはすぐに捨てた。それではあまりにもメロドラマじみている。しかしこの事件は、なにからなにまでがメロドラマそのものではないだろうか。若い発明家、貴重な化学物質の製造法、羽を持ち、フクロウのマスクをかぶった犯罪者。しかも彼は意のままに現れたり消えたりすることができる。
二十世紀に入っても無自覚のままにメロドラマ的ミステリを書きつづける人もいたかもしれないが、しかしそれは読んでいるこちらのほうにとっては堪らない。上の引用のように作者がメロドラマを書いていることを自覚しているなら、まだ救いがあろうというものだ。もしかしたら作者はメロドラマになにか一工夫を加えてくれるのではないだろうか、という期待がもてるからだ。

確かに本書には工夫がある。しかしそれはメロドラマと異質な要素を付け加えるということではなく、メロドラマ的な要素をこれでもかと言わんばかりに、ぎゅうぎゅうに詰め込んで見せた点にある。美しいが家が貧しくて苦労しながら生活していた少女が、じつは貴族の出身であったと判明する、などというのは、メロドラマの仕掛けとして常套の手段だが、そんな感じに本書の主要登場人物はすべて秘められた過去を持っている。事件の展開はあざといくらいにセンセーショナルで、私は読みながら「さすがにそれはないだろう」とか「それはできないだろう」などと何度も思った。しかしそんなことはお構いなしに、本書はメロドラマの手法のオンパレードとなっている。いや、これは度を越したオンパレードだ。陳腐を感じさせるどころか、突き抜けたような愉快さ、爽快さ、面白さを感じさせる。本書の最後で怪盗フクロウはその意外な正体があばかれるが(ミステリの紹介記事ではいつも「意外な犯人」という言葉が使われるが、本書の犯人はほんとうに意外である)、あのような犯人の設定もメロドラマ的な考え方をとことん突き詰めたところに出てきたものだろう。(あまりくわしく説明すると犯人をばらすことになるのだが、たとえば犯人の父親が犯罪者であり、その家系には犯罪者の血が流れている、という設定などに古いメロドラマ的な考え方があらわれているだろう)

内容を簡単にまとめておく。まずフクロウと呼ばれる怪盗がロンドンに登場する。彼は金持ちに「あなたの宝石を~日にいただきに行く」といった予告状を送りつけ、フクロウの仮面をかぶってその家に侵入し、予告した品物を盗んで消える。このフクロウは、ある科学者の発明に目をつけた。それは安価に石油がつくれるという方法である。科学者がこの方法を見つけるや、イギリス、アメリカ、ドイツから、その技術を大金で買いたいという申し出が来る。しかし怪盗フクロウは、いついつまでにその製法をオレに渡せ。渡さないなら奪い取るぞ、と言ってきたのである。犯行予告の当日、スコットランド・ヤードは水も漏らさぬ厳重な警戒態勢を敷いて科学者のいる古い建物を取り囲むのだが……。

傑作とは言わないが、本作は非常に面白い。マックス・アフォードの才能を感じさせる。

2016年7月15日金曜日

70 グレイス・メイ・ノース 「少女探偵ボブズ」

Bobs, A Girl Detective (1928) by Grace May North (1876-1960)
 
作者は新聞記者をしながら少年少女向けの作品を書いていた人である。あらかじめいっておくとこの作品はほとんどミステリとはいえない。インターネットで情報が得られるようになるまでは、よく洋書輸入業者のカタログを見て、タイトルだけで中身を判断し、実際に注文して手元に届いてから、ぜんぜん予想と違う本だったことに気づく、ということがよくあった。この本も私はタイトルを信じて読み出したのだが、普通の少女小説だったのでがっかりである。しかしせっかく読んだのだからレビューはしておこう。

話の筋はこんな感じだ。ヴァンダーグリフト家はニューイングランドでは指折りの名家であった。ところが父が死に、母が死に、あとには四人の姉妹だけが残された。驚いたことに遺産があるかと思いきや、ほとんどなにもなく、住み慣れたお屋敷もすでに人手に渡っていることが弁護士からの報告でわかった。要するにヴァンダーグリフト家は完全に没落したのである。

四人の姉妹――グロリア、グウエンドリン、ロベルタ(彼女の愛称がボブズ)、レナ・メイ――はニューヨークに出て自活の道を選ぶことになる。まだ二十歳前の彼女たちは、それまでの環境とはまるでちがう、貧しい移民たちが暮らす地区で生活を開始する。最年長で四人の姉妹のお母さん役を演じるグロリアと、最年少で家庭的なレナ・メイは貧民たちの福祉施設で働くことになる。陽気なおてんば娘ロベルタ(ボブズ)は探偵事務所に行って探偵の仕事を得ようとする。グウエンドリンは甘やかされて育ったせいか、そんな生活はいやだと友達のつてを頼ってどこかへ行ってしまう。

四人のなかではロベルタの活躍がもっとも面白いから、彼女のことがいちばん多く描かれる。彼女は探偵事務所から三つの事件の解決に派遣される。最初の事件は古物商で起きた窃盗事件、二つ目の事件は若い娘の失踪事件、三つ目は遺産相続人探しである。ロベルタは事件に取り組む過程でニューヨークのさまざまな人間模様を知ることになるが、しかし彼女が自分の知力・捜査力で事件を解決することはない。彼女の行為がたまたまうまい具合に事件を解決に導いたというだけのことである。しかし探偵事務所の所長は、そうであっても解決したにはちがいない、彼女は与えられた任務をこなしたのである、と心優しく解釈してくれる。

物語は四人姉妹がそれぞれ結婚相手を見つけるところで終わる。

ミステリでないことがわかって、がっかりし、悪口を書くというわけではないが、本書はどうにもうさんくさい。「少女探偵ボブズ」というタイトル自体がミスリーディングなだけではない。作者が主題を扱う態度もいい加減なのである。本書の主題というのは明らかに貧困である。移民たちの貧困、由緒ある名家の一族が没落して陥る貧困である。ちなみに南北戦争以後、暮らしが苦しくなり、十九世紀末から二十世紀初頭にかけて没落していった旧家はかなりあった。この話の四人の姉妹もそうした例の一つである。しかし彼らはほどなくしてまた裕福な暮らしに戻ることになる。なぜならグウエンドリンとロベルタは金持ちの男と結婚するし、グロリアとレナ・メイの相手は移民で金持ちとはいえないが、しかし彼らが働く福祉施設は莫大な資金的援助を得ることになるからだ。金持ちと結婚するなとは言わないが、それにしてもこの話の展開の安直さには呆然とする。この物語における貧困というのは四人姉妹が一時的にためされる、儀礼的な通過地点に過ぎない。

たしかにこの本には、「移民たちは自由と富を求めてアメリカに来るが、しかしそこで彼らを待っているのは幻滅と貧困であり、ほとんど泥棒のような生活をしながらスラム街に住むしかない」、と書いてある。だが書いてあるだけで、作者がどれだけ真剣にその問題を考えていたかは疑問である。たとえば次のような一節。
 グロリアはある晩、不良の道にはまりこんだ少年を福祉施設のゲーム大会に招いた。そこでずるをせずにゲームすることを教えて彼にしたわれるようになり、また泥棒をはたらいて矯正施設送りになることから彼を救ってやったのである。
こんなに簡単にうまくいくものか。「貧すれば鈍する」という、辞書的な語義ではなく、おそろしい現実的な意味を知らない人間がこんなことをぬけぬけと書くのである。われわれは現在、移民たちが引き起こす犯罪、あるいは移民に対する憎しみの犯罪というものを毎日のように見ている。貧困は貧している者だけではなく、そうでない者の人間性にも深刻な影響を与えるのである。貧困や差別は、安手な理想主義では太刀打ちできないほどの複雑さと厚みと広がりを持った問題なのだ。私は作者は現実的であるように見せかけているが、本気で現実に切り込むつもりはないのだと思う。逆に問題を矮小化しようとする意志ばかりがこの本では目につく。こういう話のことを「子供だまし」というのだ。

2016年7月11日月曜日

69 セシル・フリーマン・グレッグ 「バス殺人事件」

The Murder On The Bus (1930) by Cecil Freeman Gregg (1898-?)

一見するとなんのつながりもない、二つの異なる事件が物語の最初で提示され、ところが捜査が進むにつれその関連性が判明してくるというミステリはよくある。本書もその筆法を使っていて、まず最初にガス自殺事件が描かれ、次に二階建てバスの二階で起きた殺人事件が語られる。後者の事件をスコットランド・ヤードのヒギンズ警部が捜査するのだが、やがてその事件の関係者が最初の事件の関係者と重なりはじめ、さらには、自殺と思われた最初の事件がじつは他殺の可能性を帯びてくるという展開である。

ミステリとして滅法面白く、しかも文章もずいぶんうまい。gadetection の説明によると作者はロンドンに生まれ、公認会計士をしていたそうだ。作品はずいぶんたくさんあり、私はこれから手を尽くして彼の作品をかき集めるつもりである。それくらい秀逸なミステリだった。

彼の文章の読みやすさは特筆ものである。ジャンル小説はたいてい大衆向けにかかれるので文章はやさしく読みやすいものが多い。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて盛んに読まれたダイム・ノベルやペニー・ドレッドフルが低学歴の読者を対象にしていることはこのブログでも書いたし、「女子高校生の作文みたい」と称される文章を書くクリスティーは、そうした文章の系列を引く作家である。その一方でチャールズ・ウイリアムズのような難解でごつごつした文章を書く人もいる。ウイリアムズの難解な文章は、形而上学的な主題に切り込む、複雑に屈折した思考のリズムを刻み込んだものだ。難解といえば、ヴァン=ダインのように衒学気取りの文章を書く人もいるが、あれは通常の逆を行くことによってかえって一般読者の気を引こうとする類のものにすぎない。

ちょっと話がそれたが、セシル・フリーマン・グレッグの読みやすさは、事実を単純化することによって得られたものではなく、事実の整理の仕方が抜群に秩序だっていて、その提示の仕方にすきがないことによる。これはヒギンズ警部の推理に典型的にあらわれている。彼は手掛かりをつかむと、そこから考えられることを徹底的に洗い出し、捜査の次の一歩につなげていく。読者が読み飛ばしそうな事実をも(たとえば事件関係者や犯人が書いたとおぼしき手紙、メモに見られるこまかなスペリングの間違いとか)すくいとって、そこから推測されることを綿密に検討していく。この整頓の過程がすばらしく、私は公認会計士の頭の几帳面さがいい具合にこの小説に作用しているのではないかと思った。

それゆえヒギンズ警部の推理は読者をはっとさせたり、うならせたりするようなものではない。それは地味だが、しかし注意深く、手抜かりがない。

もう一点、このミステリで目に付く特徴は、このブログでは何回も書いていることだが、メロドラマを否定しようとしている点である。その傾向をこの作品は顕著にあらわしている。ネタばれになるので書きにくいのだが、最終章から一つ前の章を読むと、無実の若い男女が試練を経て結婚へと至るように読める。これはメロドラマの典型的な終わり方で、くさいことこの上ない書き方をしている。ところが最終章のエピローグを読むとどうだろう。それが見事にひっくり返されている。一九三十年以降に近代的なミステリが成立するには、メロドラマが否定されなければならなかった、あるいは新しいメロドラマが創造されなければならなかったのである。

セシル・フリーマン・グレッグのこの書き方はまだ無骨さを残しているが、しかし本作は gadetection のサイトの著作リストによると第三作目である。彼はごく初期の頃から旧来のミステリとはちがうミステリを書こうとして工夫を凝らしていたのだ。新人作家としてこれは褒めるべきことだろう。私は彼のその後の小説技術に磨きがかかっているかどうか、非常に興味を持っている。

2016年7月8日金曜日

68 オールド・キング・ブレイディ 「探偵になる方法」

How To Be A Detective (1902) by Old King Brady (?-?)

以前フランシス・ウースター・ダウティーの「二人のブレイディと阿片窟」をレビューしたが、果たしてこの本の作者がダウティーと同一人物なのかはわからない。私はなんだかちがうような気がする。少なくとも私が調べた範囲では、ダウティーの著作であるという決定的な証拠は見つからなかった。このブログでは同一作者の本は二度と扱わない方針だが、本作はダウティーとは別人の著作としてレビューすることにしよう。

これは十九世紀末から二十世紀初頭にかけてダイムノベルを出していた出版社の本で、「ためになる」シリーズ(Useful and Instructive Books)の一冊である。本書のほかには、「海軍士官になる方法」とか「電気仕掛けの機械を作る方法」とか「黒魔術を行う方法」とか「エンジニアになる方法」とかがある。どれもティーンエイジャー向けの(それも男の子向けの)本である。

「探偵になる方法」は高名な探偵オールド・キング・ブレイディが、探偵になるための資質やら、よい探偵となるための心構えを具体的な事件を通して示したものだ。序文にはよい探偵になるための資質が十二示されている。

 一、不屈の勇気と健康。
 二、あくまで正直であること
 三、ちゃんとした教育。必要条件。
 四、外国語の知識。これがあることは非常に望ましい。
 五、相手の心理をすぐ読める能力。訓練しだいでのびる能力。最初は無理。
 六、辛抱強さ。
 七、人当たりのよさ。誰にでも気に入られる能力。
 八、容貌を変え、変装する技術に通暁していること。
 九、慎重に考える能力、証拠を検討する能力、そして外見にだまされない力。
 十、油断のなさ。
 十一、感情を制御する力。
 十二、常識・良識。
 
二を見ておやと思うかもしれない。「あくまで正直であること」がなぜよい探偵に必要なのか。じつは、ここで想定されている探偵稼業は、ピンカートン社のような探偵同士の共同作業を必要とする場なのである。どこかの名探偵のようにわかったことを最後まで隠しているようでは仕事に差支えが出てしまうのだ。

さらに三。教育がなぜ探偵の必要条件なのか。これは変装の技術に関係する。つまり教養のない人間はどうあがいても紳士のふりをすることはできないのである。しかし教養がある人間なら紳士にもなれるし、浮浪者のふりもできるというわけだ。もっとも本書の実話の中では、教養のある若手探偵が不良に変装するが、すぐにその育ちのよさを見破られてしまっている。むずかしいものだ。

七は、情報収集能力に関係しているといえば、すぐ理解できるだろう。

こうしたことを本文では実話をまじえながら説明していく。読み物としてそれほど面白いものとはいえないが、二つほど気がついことを書き付けておこう。

第一に、我々は探偵といえば推理の能力が大事だと考えるが、この本ではそのことはさほど重視されていない。よい探偵になるための資質として九番目に「慎重に考える能力、証拠を検討する能力」というのがあるが、これはエラリー・クイーンのような演繹的推理のことを言っているのではないのだ。なにしろこの頃はまだろくな教育を受けていない若者がぞろぞろいたのである。目に一丁字もない彼らは考えることが不得手であったが、しかしそれでは探偵はつとまらないと作者は言う。手がかりを得たとき、そこから何が考えられるか、常識を充分に働かせよ、と作者は忠告しているのだ。彼はけっして神のごとき推理力や直観力など期待はしていない。

第二に、作者の議論は「探偵/犯人」という二項対立を瓦解させるような、脱構築的契機を内に含んでいるのが興味深い。まず彼は探偵は特徴を持ってはいけない、と書いている。ホームズにしてもポアロにしても、名探偵と言われる人々は独特の風貌や癖を持っているものだが、本書においてはそうしたものは探偵の存在をきわだたせてしまうため避けられるべきものとして扱われている。たとえば犯人を尾行しているときなど、探偵は周囲に溶け込んで人目につかないほどよいのだ。

しかし周囲に溶け込み怪しまれないようにする、というのは、ちょっと考えればわかるが、じつはスリとか泥棒にとっても同じように大事な心得なのである。また変装したり、巧みに必要な情報を探り出すという行為も、悪党たちが犯罪を犯すときにやる行為なのである。本書の実例談を読んでも、探偵と犯人の区別がつかなくなるような場面が多々あらわれる。たとえば探偵が会社の金を横領した犯人を列車の中で捕らえようとするが、探偵に襲われた犯人は「泥棒だ!」と叫び、探偵のほうは「いや、こいつこそ泥棒なんだ!」と周囲に逮捕の助太刀を頼む。本書の最後の実話には、ギャング団を一網打尽にするために、探偵が悪者の振りをしてギャング団に加入する顛末が描かれているが、これなどは探偵の行為が悪者の行為と区別がつかなくなる典型的な例である。探偵が仕事を成功させようとすると、どうしてもみずから犯罪者の領域に足を踏み込まずにいられなくなる。下手をすれば探偵が犯罪者になることだってあるだろう。そういうあやうくくずれそうになる「探偵/犯罪者」という二項対立をかろうじて維持するもの、それがよい探偵になるための心得で最後に挙げられている「常識・良識」というやつなのである。

2016年7月1日金曜日

67 ゴア・ヴィダル 「死は熱いのがお好き」

Death Likes It Hot (1954) by Gore Vidal (1925-2012)
 
ゴア・ヴィダルがエドガー・ボックスのペンネームで書いたミステリの一冊。以前 Death in the Fifth Position (1952) というバレエ団を扱ったミステリを読み、面白かったので本作に手を出してみた。

ゴア・ヴィダルはずいぶんたくさんの小説、ノンフィクションを書いているが、私が手に取ったのは、どれもいい作品だった。都会風の、いささか色彩がけばけばしい風俗を描くのもうまいが、Julian (1964) のように古典派的な文章も書ける。たいした才能の持ち主だと思う。

ミステリもなかなか読ませる。トリックがどうの、推理がどうのといった点でめざましい特色があるわけではないが、ニューヨークの上流階級や華やかな芸能世界の罪深い生態を皮肉とともに軽快なタッチで描いており、以前このブログで紹介したフットナーの系列をくんでいるように思える。私はこの手の作品が妙に好きなので、今回も非常に楽しめた。

私が読んだボックス名義のミステリは、いずれも広告代理業者というのだろうか、イベントの広報活動を引き受けるピーター・サージェントという男が主人公である。彼はある夏、ロングアイランドに住むミセス・ヴィアリングのお屋敷に招かれる。ミセス・ヴィアリングは大掛かりなパーティーを開くことを計画しており、その宣伝をサージェントに依頼したいと考えているのだ。

ミセス・ヴィアリングのお屋敷に招かれていたのはサージェントだけではない。高名な画家の夫妻や、女流小説家や、ミセス・ヴィアリングの親族が一緒に呼ばれていた。彼らのあいだには過去に複雑な関係があったらしく、サージェントは反目や敵意が火花を散らしているのを目撃することになる。

事件はその翌日に起きた。客たちは全員そろって近くの海に泳ぎに出かけるのだが、画家の妻がそこで溺れ死んでしまうのである。全員が見ている前で彼女は暗流にのまれて急に沈んでしまったのだ。大慌てで彼女を助け浜辺に連れてきたのだが、そのときには彼女は死んでいた。

サージェントはそれを悲劇的ではあるが単なる事故だと考えていた。ところが彼女の夫に悪意を抱く客の一人が、夫が彼女に睡眠薬を飲ませ、事故死にみせかけて彼女を殺したのだと、警察に訴え出たのである。

これがこの屋敷を舞台にした連続殺人事件の幕開けだった。

お屋敷の中での連続殺人という、古典的なセッティングで、手がかりもすべて読者に提示されている本格物である。珍しいといえばサージェントと(いかにも軽薄そうな)ガールフレンドとのセックスシーンが二度も織り込まれていることだろうか。セックスシーンが含まれている本格派の推理小説なんて、あまり聞いたことがない。といっても露骨な描写はないので、変なことを期待してはいけない。

読んでいて楽しいのは上流階級に対する風刺の効いたユーモラスな描写があちこちに見つかることだろう。たとえばサージェントはミセス・ヴィアリングのお屋敷で出会った女流小説家が嫌いでたまらない。なにしろ彼女は人の話は聞かず、自分のことばかりをおしゃべりしようとするのだから。ところが
 僕(=サージェント)は幻滅した。彼女と部屋が隣同士だったのだ。「あら、偶然ね」と彼女は言った。
 僕は謎のようなほほえみを浮かべて部屋に飛び込み、隣の部屋とつながるドアに鍵をかけた。さらに安全のために重いたんすをドアの前に移動させた。このバリケードを破ることができるのは怒り狂ったカバだけであろう。僕の知るかぎり、女流小説家はまだ怒り狂ってはいなかった。
「怒り狂って」はいないが、彼女は「カバ」であると言っているのである。また
みんなと同じように僕も精神分析の専門家である。トラウマと陳列棚の区別なら二十歩離れた距離からでもつくし、フロイトのことならその著作を一行も読んじゃいないが、なんでも知っているのだ。
というように、サージェントは自分のことに仮託して、当時の人々一般の知ったかぶりをからかったりする。こういうアイロニーに満ちた観察が本作の読みどころといっていいだろう。先ほど言ったように、フットナーそっくりの書きっぷりで、微量の悪意とユーモアを含んだ視線がたまらない。こういう文章がお好きなら私が訳した「罪深きブルジョア」も読んでみていただきたい。