2016年1月31日日曜日

37 ハルバート・フットナー 「ハンサムな若者たち」 

The Handsome Young Men (1930) by Hulbert Footner (1879-1944)

ハルバート・フットナーは軽快なテンポの物語を書く。物語の多くはニューヨークの上流社会を舞台に、諧謔、ユーモア、皮肉、コメディを交えながら、あくまでも軽いタッチで展開していく。私はその軽い作風が大好きで、彼の「罪深きブルジョア」という本を訳したことがある。これは風刺が効いているだけでなく、物語の途中にあっと叫び声をあげてしまうような驚くべき事実の暴露が挟まれている。

彼の作品を読むと一九二十年代の風俗がよくわかる。一九二十年代といえば、フラッパーと呼ばれる女性たちが登場した時代である。ウィキペディアの記述によると、この新しい女性たちは「短いスカートをはき」「髪をショートヘアにし」「ジャズを聴き」「古い女性らしさの観念に反発した」のだそうだ。派手なメイクをほどこし、酒を飲み、煙草を吸い、性的にも自由で、車を運転する。ヴィクトリア朝においては女性は質素な生活を営み、家事に精を出し、信仰深くあるべきだとされていたけれど、そうした因循な女性の役割をひっくり返そうとしたらしい。それゆえフラッパーたちはただその振る舞いが奔放であるだけでなく、女性の権利をも主張している。

さらにウィキペディアからの引用をつづけると、このフラッパーは一九三〇年代の大不況の時代に入って消滅したのだそうだ。確かに不況で生活が苦しくなれば、フラッパーのような大胆でヘドニスティックな生き方は受け入れられなくだろう。このような変化はアメリカに限ったことではないし、またこの時期に限ったことでもない。バブルの時期とその後の不況の時期を見較べると、どの国においても、いつの時代においても多かれ少なかれ女性の流行にこのような特徴が見出されるのではないか。

それはともかく、フットナーはこのような、どこか浮薄な感じのする時代を描き、その時代が過ぎ去るとともに忘れられていった作家である。

本作はマダム・ストーリーが活躍する中編作品。マダム・ストーリーは上流階級のきわめて美しい婦人なのだが、煙草を吹かし、薄汚い掃除婦に変装して、伝法な言葉遣いをしたり、ピストルも使えば、ナイフで悪党を刺したりもする、まことに剛胆で自由な女性である。二十年代という時代の雰囲気から生まれてきた主人公だと思う。

物語は億万長者の娘コーネリアがロディというハンガリー人のダンサーと恋に落ち、親の反対にもかかわらず勝手に結婚の手続きをしてしまうところからはじまる。マダム・ストーリーは「戦争後、富裕層のあいだから規律が失われた。今では金持ちの子供たちはディナーに行くみたいに無造作に結婚してしまう」と言っているが、ま、こういう時代だったのだ。ところがロディは結婚してから本性をあらわす。彼は父親をホテルに呼びつけ、大金を彼ら夫婦に支払う契約書にサインをさせる。そのあくどさに新妻のコーネリアは失神し、父親も愕然となってホテルを去る。その直後である。銃殺されたロディの死体がベッドの上で発見されたのだ。いったい誰が殺したのか。

じつはこの殺人の背後にはある秘密の組織が存在していた。それはヨーロッパの下層階級から見目形のよい若い男をアメリカに連れてきて、英語と作法をたたき込み、上流階級の若い女を誘惑するという組織である。もちろん金持ちに寄生して金を吸い取るのが目的だ。アメリカの女性は手にキスをするといったヨーロッパ的な作法で迫られると滅法弱いのだそうである。しかも戦争後のリベラルな風潮の中で心に緩みができていた。この組織はそこにつけ込んだのだ。

マダム・ストーリーは助手のベラとともにこの組織のアジトに潜入し、見事そのボスを捕らえ、同時にロディ殺しの犯人をも特定する。

ささっと読めてしまうフットナーらしい作品ではあるけれど、私はちょっと不満を感じた。コーネリアと父親は、最初コーネリアの恋人をめぐって対立する。しかし恋人がヨーロッパから来たごろつき・悪党であることが判明し、マダム・ストーリーの活躍により悪党は排除される。排除された後、コーネリアと父親は再び親密な親子の関係を取り戻す。要するにこういう話なのだ。外部から悪がやってきて、内部の関係を汚染する。だから内部から悪を取り除き、もとの純粋さを取り返す。本作はこういう単純なパターンのお話に過ぎない。そこが私には不満なのである。

おそらくフットナー自身もそのことはよくわかっていたと思う。彼の遺作となった「殺人に蘭の花を」(1945) にはそれまでの作品にはないある種の重苦しさが立ち籠めている。一九三十年代に入り、不況が訪れ、世の中の複雑さが見えてくると、フットナーですらも、もはや単純なパターンの物語を書くことはできなくなったのだろう。

2016年1月23日土曜日

36 J.J.コニントン 「博物館の目」 

The Eye In The Museum (1929) by J. J. Connington (1880-1947)

これは本格的なパズル・ストーリーだ。秀逸な出来、とまでは言えないが、手堅い作りの作品である。手掛かりはすべて提出され、事件を解明する最後の部分では、本文のどこにその手掛かりが書かれてあるか、いちいちページ番号を脚注に記している。犯人にも意外性があるし、最初の殺人事件がじつはべつの目的のための予備的な工作にすぎなかったという筋書きは、クリスティの「ABC殺人事件」をちょっと思い出させた。クリスティの高名な作品は一九三六年の出版だから、本作はそれに七年も先行するけれど。

物語は二人の若い恋人が博物館でデートをする場面からはじまる。男のほうはレスリーといい、弁護士の卵で博物館の秘書をしている。女のほうはジョイスといい、叔母と一緒に暮らしている。じつはジョイスには大きな悩みがある。父の遺言により、彼女は二十五歳になるまで叔母と生活をしなければならないのだが、叔母はギャンブルに凝り、酒飲みで、生活がすさんでいて、ジョイスはたとえようのないストレスを感じながら同居生活をしているのだ。彼女は思わず叔母が死んだなら……と恋人にもらす。

するとどうだろう。夜中にデートから帰ってみると、本当に叔母が死んでいたのだ。さっそく医者が呼ばれ、検死の結果、叔母は殺人的な柔術の技によって殺害されたことが判明する。

いきなり柔術の技が出てきてびっくりするかもしれないが、この時期のパルプ小説やミステリには柔術がよく出てくる。それもおそるべく危険な格闘術として登場する。これを知っていればピストルなんかいらないくらいだ。

それはともかく、叔母の他殺が判明してからロス警視の活躍がはじまる。彼はジョイスがデートから帰るまでに、数名の人間が叔母の家に出入りしていたことをつきとめる。犯人はジョイスか、その数名の人間のうちの誰かだ。ジョイスは叔母を殺す強い動機を持っている。べつの一人は現場に残されたコップから指紋が検出された。またべつの一人は医学的な知識もあるし、叔母が殺される前に飲まされた薬を容易に手に入れることが出来る。この中でもっとも嫌疑濃厚なのが最後の男だったが、彼は事件が起きて数日後に自殺してしまう。彼は犯人で、良心の呵責に苦しみ自らの命を絶ったのだろうか。それとも……。

話はよく出来ていてまったく退屈せずに最後まで読めた。クイーンほどその推理にはっとさせるものはないが、しかしおなじように本格派の作品である。ちなみに本書が出た一九二九年はクイーンが「ローマ帽の謎」を出版した年でもある。

私がちょっと面白いと思ったのは、本書に視覚にまつわるイメージが頻出する点である。恋人二人がデートする博物館の「目玉」は、カメラ・オブスクラである。これはレンズを使って外界のカラー映像をスクリーンに映し出すものだ。ジョイスは映し出される映像が現実以上に美しいことに驚き、また次々と別の場面に移っていく、その早さに眩暈を覚える。またこの博物館には設立者が使っていた義眼が展示されている。他人が実際に使用していた義眼とは、これまた生々しく異様な迫力を持つ展示品である。さらに事件が起きる町に住むマートン氏は、アマチュア天文学者で、望遠鏡で天体観測をするのが趣味だ。また弁護事務所でしがない事務員をしているグルームブリッジ氏は筆跡の研究が趣味なのだが、その際顕微鏡を使って細かい筆跡の癖を特定する。そして真犯人の姿は博物館の管理人があやつるカメラ・オブスクラによって捕らえられるのである。このカメラ・オブスクラは、その迫真性でジョイスを驚かすときは、ヴァーチャル・リアリティを見せるヘッドセットに似ており、密かに行動する犯人の姿をとらえるときは、赤外線の監視カメラを思い起こさせる。

私はそれを読みながら、人間は技術という義眼を嵌めることであらたな視力を獲得してきたのだ、と考えてみた。新しい技術で新しい視覚を得ることは、自然にそなわっていた視覚を失うこと、義眼をはめることではないか。どうもこの作者は人間の文化と視覚性の関係についてなにか考えをめぐらしていそうな気がする。その思想がこの作品の中で十分に展開されているとは言えないけれども、しかし私はこういう知的な要素を持った書き手が好きである。

一つだけ残念だったことを最後に書いておく。それはロス警視の興味深い推理方法が充分に生かされていないことである。ロス警視は人物関係をダイアグラム化して表現する。捜査の初期の段階ではそのダイアグラムは単純なものだが、次第にそれは複雑なものに変化していく。私はそれがどんなふうに推理の役に立つのだろうと興味津々だったのだが、その手法に関する記述は途中から全くなくなってしまうのだ。本書はロス警視が活躍する第一作なのだが、二作以降ではこの手法がもっと活用されているのだろうか。私は存在の関係性ということを考えているので、ダイアグラムのアイデアには非常に関心がある。いつか暇を見てほかの作品も見ておかなければならない。
 

2016年1月17日日曜日

番外7 ノーバート・デイヴィス 「恐怖との遭遇」 


Rendezvous with Fear (1943) by Norbert Davis (1909-1949)

「恐怖との遭遇」には三回驚かされた。一回目ははじめて読んだときだ。あまりの面白さに私は夢中になって読んだ。こんなに夢中になって読んだのはポール・オースターの「ガラスの街」とかフィリップ・K・ディックの「虚空の目」以来のことである。二つ目の驚きは、「恐怖との遭遇」がまだ日本語に訳されていないことがわかったときだ。日本は翻訳天国などと言われることがあるが、それはまちがいであると確信するようになったのはそのときである。三つ目の驚きは、「恐怖との遭遇」がウィットゲンシュタインの愛読書であったという事実を知ったときだ。あれは頭を殴られたような衝撃だった。すぐにノーマン・マルカムが書いたウィットゲンシュタインの伝記を調べたが、確かに「恐怖との遭遇」の名前が出ている。ウィットゲンシュタインが愛読したミステリ! これは大事件である。規則正しい生活を送るカントが、「エミール」に夢中になったがために、いつもの時間に散歩を忘れてしまったというエピソードは、ルソーにとっての栄光だが、「恐怖との遭遇」をヴィットゲンシュタインが愛したというエピソードは、アメリカのしがないパルプ作家にとってこの上ない名誉である。しかもウィットゲンシュタインはこのパルプ作家にファン・レターを書こうとし、マルカムに住所を調べてくれとまで頼んでいたのだ。

「恐怖との遭遇」は私立探偵ドウンと彼の相棒でグレートデーンのカーステアズが活躍するシリーズの第一作である。ドウンは小太りで人の良さそうな顔をしているが、身のこなしはすばやく、冷酷な振る舞いも平気でできる男である。特技はけっして二日酔いにならないこと、だろうか。グレートデーンのカーステアズは「ペット」ではなく、立派なドウンの相棒である。彼はきわめて知性的かつ貴族的な犬で、ドウンが飲酒するのを快く思っていない。彼が飼い主であることを恥じ、散歩の際は彼の遙か前を歩いて、両者の間には何の関係もないようなふりをする。食事は高級なステーキ肉をわざわざ挽肉にし、そこに高級ビスケットを砕いて混ぜたものを食べている。しかしいざというときはドウンと見事な連携を取って犯人をやっつける。大きさが子牛ほどもある犬だから、もちろん相手を殺すことだってある。

「恐怖との遭遇」の筋はちょっとややこしい。大きく三つの出来事が重なり合って起きている。ドウンはアメリカで汚職事件を起こして国外に逃亡した男を、メキシコまで行って罠に掛け、アメリカ国内に呼び戻そうとする。これが第一の物語の筋を形づくる。彼は観光バスに乗ってメキシコの山奥の僻村へ行くのだが、そこには凶悪犯罪者が隠れていて、メキシコ陸軍が厳戒態勢を敷いていた。これが第二の筋を形づくる。さらにその村に滞在中、大地震が起きるのだが、そのどさくさにまぎれて観光客の一人、金持ちの娘が殺されるという事件が起きる。これが第三の筋となる。これらが絡み合いながら物語は複雑に展開するのだが、いずれの筋も最後にはきっちりした結末がつけられ、物語を操る作者の手際には本当に感心する。

物語の構成だけではない。人物描写もじつに見事なのだ。ドウン、カーステアズのほかにも学校の先生、セールスマンの一家、金持ちの娘、その友人、メキシコ陸軍の大尉や軍曹など、まことに多彩な人物が登場するのだが、それら一人一人が際立った個性の持ち主として描き分けられているのである。これはぜひ本書を読んで確認して欲しい。これだけ大勢の人物を、個性豊かに描き分ける作家はそういるものではない。

さらにノーバート・デイヴィスのトレードマークともいうべき会話の面白さ。二つだけ引用しよう。

(引用1)
 アマンダ・トレーシーはカーステアズを指さした。「あの竹馬にのった奇形児はどこで手に入れた?」
 「サイコロ賭博でね。それから彼は奇形児じゃない。立派な犬だ」
 「本当にいい犬は死んだ犬だけさ、ドウン。ペットを飼うのはとんまと変態しかいねえ。あんた、変態かい?」
 「いいや。とんまなだけだ」
 「そりゃよかった。あたしはとんまが好きだからね」
(引用2)
 「皆さんに紹介しよう。この女は自称セニョーラ・エルドリッジ」
 「本物の妻よ!」コンチャはいきどおって、金切り声を出した。「証明する書類もある!」
 「きっと偽造書類だろう」とペロナ大尉。
 「もちろんよ! カンペキに似せた本物よ!」
こういう強烈なギャグを放つ会話を書かせたら、おそらくノーバート・デイヴィスの右に出るものはいない。「恐怖との遭遇」は作者の美質がすべて発揮され、ひとつの物語として結実した奇跡的な作品である。ウィットゲンシュタインが惚れ込んだのも不思議ではない。

この作品は版によっては「山のネズミ」とか「死んだ金満家の娘」というタイトルになっている。私がアマゾンから出版した「ノーバート・デイヴィス傑作選」にはこの作品を含む長編二編と中編一編が収められている。

2016年1月13日水曜日

35 ポール・マクガイア 「三人の魔女登場」 

Enter Three Witches (1940) by Paul McGuire (1903-1978)

ポール・マクガイアのことはまったく知らなかったので調べてみるとオーストラリアの外交官だったのだそうだ。アデレード大学を出てから生化学者の女性と結婚し、一九三〇年代はミステリを書いていた。ミステリは十六作ほど作品があるが、ほかにもノンフィクションやら歴史書やらいろいろ書いているようだ。若い頃からカトリックのインテリとして知られていたらしい。第二次世界大戦中はオーストラリア海軍に所属し、戦争後は新聞記者となり、さらに一九五四年から五八年にかけてイタリアでオーストラリア大使をしていた。こういう経歴を知ると本書のような作品を書くのも不思議じゃないと納得がいく。ヨーロッパの緊張した関係を背景にしたサスペンスなのである。もっともその中心にあるのは破滅的な人生を送るイギリス人の画家の運命なのだが。

この作品もなかなか事件の形が見えてこない。主人公は新聞の特派員であるアンソニー・グラントで、三人称だが物語は彼の視点から語られる。グラントはイギリス人だが、どのような背景の持ち主なのか、詳しくは書かれていない。もしかするとほかの作品にも登場していて、そこで説明されているのかもしれないけれど。しかしイギリス人にしてはアメリカのパルプ小説に出てくる主人公のような口のききようをする。
 ブイユ夫人「ベルガンテっていうスペインの作家知っている?」
 グラント「百姓のたちの惨めな生活について書いていたね。ぼくの知り合いだった。一年半ほど前に死んだよ」
 ブイユ夫人「死んだ! どうして?」
 グラント「百姓たちが自分たちの惨めな生活をネタに小説を書かれることに嫌気がさしたんだろう。それで撃ち殺したのさ、たぶん」
あまり品がいいとは言えないが、一筋縄ではいかないタフな男である。

グラントはイタリアに滞在中にブイユ夫人という億万長者から週末、彼女の屋敷に遊びに来るよう誘いを受ける。山の中の屋敷に行くとそこには彼のほかにも大勢の客がいた。彼を知っているという(そして彼は彼女のことを知らない)謎の美少女、イギリス人の保険調査員、海上封鎖をかいくぐって不正な金をもうけている男、ブイユ夫人の女友達、イタリア人の青年、グラントの気の置けない元闘牛士の友人、そしてもう一人、一年半間に死んだはずのスペイン人作家ベルガンテだ。

ブイユ夫人をはじめ客たちは全員がベルガンテに異常な興味を示すのだが、作家は身をかわすように屋敷に着くなり自室に引き籠もってしまう。そして次の日の朝を迎える前に姿を消してしまうのである。グラントはいくつかの状況証拠から殺人が行われたのではないかと疑い、なぜ自分がブイユ夫人の屋敷に招待されたのかという理由も含めて、調査を開始する。その過程で浮かび上がってきたのが、ヨーロッパを放浪し、女を愛し、裏切り、酒におぼれ、無頼の人生を送った一人の画家の人生だった。

正直に言ってあまりピンと来ない物語だった。まず主人公のグラントがどういう人物なのか、よくわからなかった。彼の過去についてはほとんど情報がなく、彼の立場からものを見ようとしてもそれができないのである。先ほど言ったように、もしかすると彼はシリーズものの主人公で、先行する作品を読んでいれば、もっと彼に感情移入できるのかもしれないが。また、画家のこともよくわからない。彼がどうし破滅に向かって突進していくような人生を歩むことになったのか、そこが説明されていないのである。じつのところブイユ夫人もベルガンテもほかの登場人物も、みんな現実から浮遊しているような感じがする。誰一人、その背景をしっかりと説明されていないのである。

本編は推理小説ではない。スリラーとかサスペンスと言われるジャンルに属するだろう。しかしスリラーにしろサスペンスにしろ、それほど優れた作品ではない。謎の構成の仕方がいささか弱すぎるのである。ベルガンテの犯罪を中心に描くのか、画家の人生と彼にまつわる人々のことを中心に描くのか、そこがはっきりしないまま、両方とも描き込もうとした気配があり、それが分裂したような、散漫な印象を与えるのだと思う。

しかしこの作者にはどこか知的なところがあり、そこは気に入っている。たとえば
 「あなたって複雑な人ね」
 「いや、ぼくはアメーバのように単純さ。ただ引き攣り歪んだ状況の中にいるだけさ」
のような会話にそれはあらわれている。私の言葉で言うと、ある人が結ぶ外界との関係性が、その人の内面として誤認されてしまうということを、この会話はさりげなく示している。

2016年1月9日土曜日

34 シリル・ヘア 「死のテナント」 

Tenant for Death (1937) by Cyril Hare (1900-1958)

何十年前だろうか、「英国風の殺人」を読んで衝撃を受けた。あれはミステリの形をした構造人類学みたいなものである。あのときから私にとってシリル・ヘアは恐るべき作家になった。

本編は彼の処女作らしい。しかし力のこもったいい作品である。ある事件の関係者が三人も同じ時にフランスに渡った。これが二人であれば、偶然と言うこともできるだろう。しかし三人もいる。この「異常な」偶然はいかにすれば「異常」でないものにできるのか。本編の核心を単純化すればこうまとめられるだろう。そしてそれが「英国風の殺人」における問題設定とよく似ていることがわかるはずだ。この殺人は英国的ではない。どう考えたら英国的な殺人になるのだろう? その解答にある種の幾何学的な感性がはたらいている点もそっくりである。

処女作とはいえ、物語の語り方には工夫がこらされている。最初の数章は事件を取り巻く人々のことを描き、事件が発覚してからはスコットランド・ヤードのマレット警部の活躍が物語の中心になる。たとえば第一章だが、これは事件が起きる現場近くで新聞を売っているジャック・ローチという男のことが語られる。雨が降る寒い日、彼は街頭で新聞を売っている。リューマチを病んでいるので、はやく飲み屋で一杯やりたいものだと思う。そういう彼の生活・心情が短い章の中に的確に表現されている。この地味な色彩の絵画を見せられたあと、第二章では一転して不動産屋や銀行家たちの不正な資金運用について語られる。第三章で描かれるのは、情婦として生活している女の家の様子、第四章では釈放されたばかりの男がフランスに行き娘と出会う情景、第五章ではまたロンドンに戻り、若い恋人がデートを愉しみ、将来を語り合う場面、第六章では不動産屋の職員二人が賃貸期限の切れた家に赴き、インヴェントリーの調査(家具やら食器やらが貸し出す前の状態と同じかどうかを確認する作業のこと)をし、その最中に死体を見つける容子が描かれる。こんなふうに多彩な角度から事件の周縁をあらかじめ読者に提示し、死体が見つかってからは警察の捜査に物語が集中するというわけだ。

事件の概要は次のようなものである。不動産屋がインヴェントリーの調査中に発見した死体はバランタインという金融業者で、これが人を騙して銀行をつぶしたりしているろくでもない男である。しかしバランタインはこの家を借りていたわけではない。家を借りていたのはジェイムズという人物である。ところが警察がジェイムズに事情を聞こうにも、ジェイムズは行方不明なのだ。彼の身元を探ろうと警察は銀行やら保証人やら、ありとあらゆる方面を捜査するが、すべてが無駄に終わる。ジェイムズは見事にその正体を隠しているのだ。いったい彼は誰なのか、どこに行ったのか。マレット警部はふとあることに気づき、ジェイムズの謎を解き明かしてくれる。

ミステリを読み慣れていれば事件のトリックにはすぐ気がつくだろう。私もすぐにわかった。しかし三人の容疑者がまったく別個に、しかしまったく同じ時期にフランスへ行くという異常な偶然を、普通の偶然に置き換えてみせる手際、あそこで見せる感性はシリル・ヘアならではのもので、私に強い印象を与えた。

風俗的な描写においても本書は興味深い。一九三〇年代のイギリスにおいては本書に描かれているような経済詐欺が横行していたのだろう。たしかフランシス・ビーディングの Death Walks in Eastrepps (1931) にも詐欺をはたらいて逃げている男が描かれていた。また若く美しい娘を持つ父親がこんな感慨をもらしているのもおもしろいと思った。
娘と恋人との結婚には大賛成さ。もっといい相手も見つかるかもしれないが、しかしハーパーは立派な若者だよ。あいつの父親を知っているがね、立派な家族だった……もっとも今どきの若い連中のやり方は、わたしらが若かった頃のやり方とはずいぶんちがう。昔は嫁さんを養えるような経済力がついてから両親に会ったものだが、今はそんな見込みなんてすっとばして婚約するからね。でもそれから待たなきゃならない。でもって長すぎる春っていうのはみんなを不安にする。わかるだろう?
あるいは彼はこうも言う。
まったく今どきの若者らしいよ。秘密、秘密、秘密。わたしの若い頃は「収入はいくらだ? どうやって稼いでいる?」と訊かれたものだ。今は「わたしには娘さんを養う力がある。余計なことは訊かないでくれ」だ。
こういう細かな風俗の変化を知り、それに対する人々の反応をしみじみ味わえるというのが、小説を読むことの余徳である。

2016年1月3日日曜日

33 アーサー・M・チェイス 「殺しの二十分」

Twenty Minutes To Kill (1936) by Arthur M. Chase (1873-?)

ニューヨークのペントハウスに大金持ちたちが集まってディナーを味わっている。その席でパーティーの主人がこんなことを言う。失業者が出るのは人口が増えたからだ。この国には人が多すぎる。このままじゃいつまでも失業がつづく。生活保護を受けている連中を二千万人ほどグランドキャニオンに集めて毒ガスを浴びせれば、残りの八千万か九千万の人間は助かるんだ。死んだ人には気の毒だが、そうすればみんなに仕事が行き渡り、失業者を援助するための巨大な予算は必要なくなる。この国からおもしが取り除けられ、景気はよくなり、われわれはまた前進してゆける。非情なようだが、しかしそれが自然というものだ。適者生存。マルサスの原理だ。

本書の出だしのほうにはこんなことが書いてあるのだ。

私はこれを読んでかっとなった。何をいい気なことを言ってやがる。労働者を殺す必要はない。人口のたった一パーセント、つまりおまえたちを殺せばいいだけだ。

このディナー・パーティーに参加し、一人だけほかの連中から距離を置いている老婦人ミス・タウンゼントは、パーティーの主人ティルデンを「一度も仕事をしたことがないのね。遊んで暮らしてきただけ。見かけ通りの、骨の髄までひ弱な男だわ」と考える。

これだけで私はミス・タウンズエンドの味方についた。この殺人物語でどんなことが起きようとミス・タウンゼントだけは決して犯人ではない。もしも犯人だったらこの作者はミステリの風上にも置けない不心得者である。

そんなふうにぷんぷんしながら第一章を読み終わったと思ったら、いつの間にかダイニングルームに三人組の強盗が登場し、拳銃をつきつけて彼らから宝飾品を奪っていく。私は小説を通してしか、この時期のアメリカのことは知らないが、どうやら金持ちはホテル並みの高級アパートに住んでいることが多いようだ。ペントハウスというのは、その中でも最上階に位置する超贅沢な住居である。エレベーターにはちゃんとエレベータ・ボーイがついていて、一階にはロビーやら受付もついていることがある。そんな立派なアパートに強盗が忍び込むとはびっくりである。彼らは部屋の明かりを消し、動くなよと脅しをかけ、さらにティルデンに向かって二発ほど銃を発射してすみやかに出ていく。

しばらくしてから明かりをつけると、ティルデンがテーブルにうつむけに倒れている。幸いなことに弾はティルデンをかすっただけだった。彼は気絶していただけなのである。しかしティルデンは運がない。警察を呼び、パーティーのゲストや使用人たちががやがやと話をしているあいだに、彼は今度は本当に殺されてしまったのだ。彼は首の後ろを突き刺されて、バスルームに倒れていた。強盗たちはとっくに逃げてしまっていたから、犯人はゲストか使用人たちの中にいることになる。

事件を解決するのはダーキン警部補とミス・タウンゼントのコンビである。じつは彼らは以前も二人で別の事件を解決しているらしい。ミス・タウンズエンドに対するダーキン警部補の信頼ぶりは相当なものである。これを知って私はほっとし、また当然だろうという気がした。ミス・タウンゼントのような良識ある人間が、かりにも容疑者扱いされるわけがない。しかもこのオールド・ミスの冷静な判断力と、緻密な観察力は仕事熱心なダーキン警部補のそれを上回るようだ。私はまっさきに感情移入した人物が物語のかなめの位置にいることを知り大満足である。

本作はミステリとしては凡作だろう。特にめざましい推理が展開されるわけでもないし、謎もそれほど魅力的ではない。軽量級の、ひまつぶし向けの本というのが私の読後感である。ただ文章は完全に現代的な英語になっていて、会話が多く、やけに読みやすい。とりわけ金持ちの中の一人、ミス・リンダ・リー・テンプル・セイボールド・マクナット・ショーのしゃべり方はよく特徴があらわれている。この女はもともとは安いレストランでウエイトレスをしていたのだが、次々と金持ちと結婚し、その未亡人となり、大金持ちになったのである。彼女の名前は今は亡き亭主たちの名前をずらずら連ねたものだ。ど派手な宝石を身につけ気取っているが、根はがらっぱちな女である。それが教育あるミス・タウンゼントやダーキン警部補の英語と奇妙な対照をなしていて思わず笑ってしまった。