2016年5月28日土曜日

番外12 小レビュー集

(1)A Dream of Treason (1954) by Maurice Edelman (1911-1975)

大家をなすほど筆力があるわけではないが、あるいは平明な、あるいは流麗な文章を安定的に書くことのできる職人的なB級作家に、私は奇妙に惹かれる。何かきっかけがあれば、大輪の花を咲かせたかも知れないのに、結局才能を埋もれさせてしまったという運命への、ある種ロマンチックな関心もあるし、今読み返してみると意外と重要な作家・作品だなと、再発見する喜びにも出会えることがあるからだ。私が翻訳をしているのは、無名の作品の中にもきらりと光る小粒なダイヤが隠れていることを示したいからである。

最近 A Dream of Treason という小説を読んで、作者の Maurice Edelman もB級作家の好個の例となる人だと思った。上に書いたように、B級作家という呼称はヘボ作家を意味しない。それなりに見事な文章を書き、小説の技術を身につけている作家である。

作者はイギリスの政治家で二十冊ほども本を出しているらしい。ただし、ディズレイリのような偉大な文人にもならなければ、ジェフリー・アーチャーのような人気作家にもならなかった。ミドリスト(midlist)を形作る群小作家の一人だった。しかし今読んでも結構楽しめる内容になっているし、散文には一種の格調の高さがある。

主人公はランバートというイギリスの外務省の役人である。彼は外務大臣と秘書が極秘に立てた計画に従ってフランスの新聞にある国家機密文書をリークする。もちろんこれは国家に対する犯罪である。
 
外務大臣とその秘書は、この直後に飛行機事故に遭い、前者は死亡し、後者は意識不明の危険な状態に陥る。つまりランバートが上司の支持で機密文書をリークしたと証言してくれる人がいなくなったのだ。

リークした人物を探す警察の手がランバートの周辺に及び、彼はフランスに逃げ出すことを考えはじめる…。

枝葉を刈り取ってまとめてしまうと、サスペンスじみた粗筋になるが、自分の行為を根拠づけることができないという不安を背景に、子供を失って以来崩壊した夫婦仲、あまりにも年若い娘との恋、友人の裏切りといった事態が、抑制の利いた、メランコリックな筆致で描かれていく。

メロドラマくささは多少あるものの、会話の用い方や、場面転換の技術、また描写の簡潔さは堂に入ったものだし、作品の最初と最後にあわわれる霧は、使い古された道具立てながらも、世界との関連を失った主人公の境遇を示す適切な比喩になっている。

私は興味を持ってこの作品を一気に読んだ。入手が可能なら他の作品も幾つか読んでみたい。こういう作家はときとして愕くほどの秀作を残していることがあるものだ。

(2)The Crime and the Criminal (1897) by Richard Marsh (1857-1815)

十九世紀世紀末のイギリスで人気のあった大衆作家といえば、リチャード・マーシュの名前が必ずあがる。日本では The Beetle (1897) くらいしか紹介がされていないようだけれど、同じような怪奇趣味を扱った The Joss (1901) とか、機械人形の恐怖を描いた The Goddess (1900) とか、一種のスパイ小説である The Great Temptation (1916) など、他にも興味深い作品をたくさん書いている。安楽椅子かソファに深々と腰かけて、ウイスキーを片手に週末の夜を愉しむのに最高の物語だ。つい最近 The Crime and the Criminal という長編小説がプロジェクト・グーテンバーグから出たので読んでみた。



冒頭から奇怪な事件が連続し、読者の興味をはなさないマーシュらしい作品だった。ブライトンからロンドンへ行く汽車の中で、主人公テナント氏は、昔知合いだったとある女とコンパートメントが一緒になる。二人の間には曰く因縁があって、とうとう彼らは揉み合いになり、女が開いた出口から汽車の外に落下してしまう。ところがテナント氏はそれを見てもただ茫然としているだけで警報も鳴らさない。さらに彼は事故のことなど素知らぬふりをしてロンドンで下車しようとするのだ。しかしとなりのコンパートメントにいた男が事故に気がつき、テナント氏をおどし、金を巻き上げようとする。さらに数日後、新聞が事故を報じ、ロンドンじゅうの話題を呼ぶことになる。はたしてテナント氏の運命や如何に……という話だ。

ウイルキー・コリンズの「月長石」もそうだが、この当時はひとつの事件を多様な視点から描くという物語手法が開発され、この小説のなかでもそれがうまく利用されている。物語の第一部はテナント氏の視点から語られるのだが、それが第二部で別の視点に変わり、さらに三人目の視点が導入され……という具合だ。そして視点が変わるたびに物語の様相がちょっとずつ変化するのである。物語の様相の変化という点が、視点の移り変わる小説の醍醐味の一つなのだが、このあたり、マーシュが単なるストーリーテラーではなく、それなりに小説技術にも長けていることが示されているだろう。

もちろん欠点もある。偶然が重なりすぎるのは読んでいて鼻白むし、物語の結末は「これぞ予定調和」という感じの終り方だ。

彼らが通り抜けたあと、まもなく牢獄の門は閉ざされた。彼らはあたかも死の谷を抜け出たかのようにこの世界とふたたび向かい合った。夫と妻として、ともに手を取り合いながら。

小説の最後の一節だけれど、読んでいて気恥ずかしくなるくらい紋切り型の文章である。しかしこの時期は「よく出来た小説」という観念が横行していて、こんな感じの終り方が普通だったのだ。そしてこういう書き方に反発した作家たちがモダニズムなどという運動を始めるのである。

2016年5月25日水曜日

60 エミール・C・テッパマン 「自殺部隊 決死の任務」 

The Suicide Squad Reports for Death (1939) by Emile C. Tepperman (1899-1951)

パルプ小説の何が面白いのかと問われたら、私は一言「熱気」とこたえる。パルプ小説の中にも質の高いものはもちろんある。しかし「何語につき何セント」という条件のもとで仕事をしていたパルプ作家は、ひたすらタイプライターをマシンガンのように打ち鳴らし、その結果彼らの作品は粗製濫造と同義語と化すに至ったのである。話の内容に齟齬があったり、不自然なプロットの展開があったりするのは日常茶飯。そういうでたらめで、粗悪な作品になぜ惹かれるのかというと……パルプ小説が秘めている熱気に圧倒されるからである。あのように低劣で野蛮なエネルギーが、歴史のある時期に、あるジャンルの中で沸騰していたということは不思議なことのように思える。

テッパマンはパルプ小説作家の中でもとりわけエネルギーを爆発させている人である。彼が書くアクションものは最初の一行から最後の一行までアドレナリン大放出の冒険譚だ。そこには乱闘、銃撃戦、爆破シーンがこれでもかというほど詰め込まれている。
 ならず者の一人がバーに近づき、半分ほどウイスキーの入った瓶を取り上げた。瓶の首を握ってふりかざし、ジョニーの顔にたたきつけようとした。ジョニー・ケリガンは避けようともせず、ただ前に進みつづけた。
 酒場のどこかから拳銃が一度だけ吼えた。ならず者は手を上げたまま立っていた。ウイスキーの瓶が滑り落ちた。驚きの表情が彼の顔に刻まれていた。額の真ん中にあいた小さな穴から血がふきだし、彼はジョニー・ケリガンの足元にころがった。
こういう感じの描写が目白押しなのである。もちろんこればかりだったら逆に退屈してしまうが、そこはパルプ小説の雄テッパマン、物語に緩急をつけることもおさおさおこたりない。

ところでタイトルの自殺部隊とは何なのか。本作の中ではこんなふうに紹介されている。
 暗黒街の人間なら誰でもケリガン、マードック、クローのことを知っている。FBIの三匹の黒い羊だ。通常任務に携わることはなく、死がほぼ確実という仕事ばかりに送り出される。すこし前までは五人いたのだが、今はたったの三人だ。明日は二人になっているか……あるいは一人か……さもなければ誰もいなくなっているかもしれない。しかし一つだけまちがいないのは、この三人の悪魔はそう簡単に死なないということだ。彼らはただで殺されるような連中ではない。死ぬときは大勢の人間を地獄への道連れに引き連れていくことになるだろう。
要するにFBIのはぐれ軍団である。はぐれ軍団だから法律的な決まりなんて彼らには関係ない。捜査令状なしで敵地に乗り込み、相手を挑発し、撃ち合いや乱闘になれば大歓迎という手合いである。もちろん新聞は彼らのことを非難するが、FBIは困ったような振りをしつつも、彼らを手放そうとはしない。非合法な暴力が必要とされる場面で彼らは先陣を切って大活躍するからだ。本編においては、彼らは悪の組織「死の軍団」と対決し、ビルが二つほど崩壊したのではないかと思われるようなど派手な戦闘を展開する。

私はテッパマンがわりと好きでオーストラリアの Project Gutenberg にアップロードされている作品はだいたい読んでいる。何がいいのかというと、その暴力性である。たとえば本作では自殺部隊という形で国家の根源的な暴力性があっけらかんと示されている。日本の代議士で昔、自衛隊のことを暴力装置と呼んだ人がいたけれど、あれは社会学や哲学では普通に使われている用語で、自衛隊だけじゃない、警察だって国家だって根本的には暴力装置なのである。それが暴走すれば自殺部隊のように法的手続きをすっとばした、強権的で専制的な権力に化けるのだ。そして日本やアメリカの警察、FBI、情報機関が画策していることを見ればわかるが、彼らはまさに強権的で専制的な力を得たくてたまらないのである。私は自殺部隊をはぐれ軍団と呼んだが、じつははぐれ軍団こそFBIの本質をあらわしている。前にも言ったことがあるけれど、ジャンル小説はその途方もない馬鹿馬鹿しさに於いて、案外現実のありようを遠慮会釈なくとらえていることがあるものだ。

2016年5月19日木曜日

59 サッパー 「決着」

The Final Count (1926) by Sapper (1888-1937)

サッパーについては英語版のウィキペディアに、簡にして要を得た解説が出ている。それによると彼の本名はハーマン・シリル・マクニール。第一次世界大戦で塹壕戦を経験し、最初の頃はそれをもとに短編小説を書いていた。英国陸軍では本名で本を出版することが禁じられていたため、サッパー(工兵隊員という意味)というペンネームを使うようになったらしい。戦争後はスリラーを書くようになり、二〇年代からブルドッグ・ドラモンドを主人公にした小説を発表しはじめる。これが大当たりし、二つの世界大戦にはさまれた時期、サッパーはもっとも人気のある作者の一人だった。彼のスリラーは上流階級のイギリス人が、外国人の陰謀からイギリスを守るという物語なのだが、第二次戦争後はそのファシスト的な傾向や、外国人嫌い、反ユダヤ主義的内容が批判されるようになった。ブルドッグ・ドラモンドは攻撃的な愛国主義者で、イギリスの安定とモラルを乱す者に、その巨大・強靭な肉体でもって対抗する。ドラモンドは大男を二人合わせたくらいの体躯と怪力を持っているのだ。しかしある批評家は、ドラモンドの愛国主義は国粋主義的な傲慢といったほうがいいと言っている。また、この批評家は、ドラモンドはパラノイアにとらわれていると指摘する。つまり、ドラモンドはイギリスの上流階級が、外敵に脅かされていると考えるが、それはパラノイア的な想念に過ぎないというのだ。私はこの批評は正鵠を射ていると思う。

ウィキペディアから引用するのはこれくらいにして、私自身の感想を述べよう。私がドラモンドものを読んで非常に気になるのは、その暴力性である。サッパーは一九二二年に
「黒ギャング」という作品を書いているけれど、これなどはその暴力性を極端な形であらわしている。黒ギャングは、ドラモンドがひきいる私的警察ともいうべきものだ。ドラモンドとおなじ資産家階級の若者たちが集まり、ドラモンドの絶対的権威のもとにまとめられた組織である。彼らは資産家階級の利益を脅かす動き、たとえば労働運動などを壊滅するために密かに行動する。治安維持のために警察ももちろん動いているのだが、黒ギャングはそれとは別個に活動している。しかも警察よりも有能で、警察のように法律に縛られていないので、いっそう敵に対して残酷に振る舞う。つまり、黒ギャングは、法律的なたがのはずれた警察組織なのである。精神分析でいうところの、享楽に浸された、サディスティックな超自我がそこにあらわれている。人々がブルドッグ・ドラモンドにファシスト的なものを感じるのは当然のことだと思う。

私は、サッパーが嫌いである。しかし本当の問題は、サッパーが一時期は人気作家であったということだ。ある時期、彼のファシスト的、排外的、反ユダヤ主義的傾向は、人々から受け入れられていたということである。このことは今のわれわれも十分に反省しなければならないだろう。現代はファシズム、排外主義の時代へとまた回帰しているからである。その意味では、案外ブルドッグ・ドラモンドものは、今読み返すべき本であるのかも知れない。

本作はストックトンという法律家がドラモンドの冒険を語るという形になっている。ストックトンの親友で科学者のゴーントは、第一次大戦中に凡ての戦争を終わらせる武器、今風に言えば、決定的な戦争抑止力を持つ最終兵器(化学兵器)を作ろうとし、現実の戦争が終わってからそれを完成させる。ところが完成させると同時に彼の身に奇怪な事件が起きて、科学者は行方不明となるのである。

たまたまこの事件についてうわさを聞いたドラモンドは、ストックトンとともに科学者の行方を追う。ドラモンドは事件の背後にはカール・ピーターセンがいると考える。カールはシャーロック・ホームズにとってのモリアーティー教授のようなものだ。この世界の悪を一身に体現している存在である。本書はドラモンドものの四冊目に当たるが、一冊目からヒュー・ドラモンドとカール・ピーターセンはずっと戦っている。本書ではその長い戦いについに決着がつく。

本書を読んでいて注意を引かれた部分がある。科学者ゴーントがなぜ最終兵器を作ろうとしたのかというと、それは第一次世界大戦後にできた国際連盟が、世界の平和を維持するという役割を充分果たせず、人々を失望させたからなのだという。私は当時の一般人の国連に対する評価を知らないが、おそらくある種の失望は広く共有されていたのではないだろうか。しかし国際連盟にかわるものとして、武器を作り出したゴーントは、結局それが平和につながらない用途に使われることを知り後悔するのである。私はドラモンドの暴力性の行き着く先が、ゴーントの後悔によって示されているような気がする。もちろん作者はそんなことを意識していないだろうけれど。

私はドラモンドものを好まないと書いたが、しかし公平に見て、サッパーの書く文章は無骨だが迫力のある文章である。物語の作り方も、初期のうちはエピソードを並列的に連ねているような印象だったが、本書になるとそれなりのうまさを見せるようになっている。また、ドラモンドものは全部で十冊あるが、読むなら最初から読んだほうがいい。作品中にたいてい前作への言及があり、ばらばらに読んでいる私には充分に意味のとりかねる部分があったりする。

2016年5月14日土曜日

58 エリック・シェファード 「続・女子修道院殺人事件」

More Murder In A Nunnery (1954) by Eric Shepherd (?-?)

作者は以前 Murder In A Nunnery という作品を書いている。修道院で殺人事件が起きるという話である。敬虔な修道生活と、血なまぐさい殺人の取り合わせ、修道女たちの意外な反応が面白いのだが、本編はその二年後に起きた事件という設定になっているようだ。この修道院には修道女が住んでいるだけではなく、七歳から十七歳までの女の子百四十名を集めた付属の学校もある。世界各国の有力者の子女がこの学校には集まっていて、修道院に住み込んでいるらしい。登場人物のほとんどは前作ですでに紹介済みなので、あまりくわしい説明はない。前作を読んでいないと、多少戸惑うことになるだろう。

これは本格的ミステリの全盛期が終わった後に登場した、ある種のパロディのような作品である。日本で言うと北杜夫の「怪盗ジバコ」とか小林信彦のオヨヨ大統領ものみたいなものだ。明るく、軽いタッチで描かれ、ユーモアに富み、ちょっとだけおセンチな場面があり、悪者のほうはというと、神出鬼没の大悪党であろうが、間抜けたコソ泥であろうが、いずれにしても漫画的に描かれる。

本書の事件は、南アメリカにあるとおぼしきアナコンダ国(!)に端を発する。この国を治めているのはエスカパドという男なのだが、彼は革命軍に追われ、ジャングルに逃げ込む。エスカパドにはアイネズという美しい娘がいて、彼女は本書の舞台ハリントン修道院に送られていた。アナコンダ国の革命軍は、統治者のエスカパドだけではなく、娘の命をも狙って、イギリスに刺客をさしむける。この刺客というのが超人的な身体能力を持っていて、暗闇でも目がきき、壁をやすやすとよじ登り、窓から建物に侵入してくる。

修道院の院長はアイネズの命が狙われていることを知り、警察およびスコットランド・ヤードに応援を依頼する。かくしてハリントン修道院を舞台に、アナコンダ国革命軍の刺客たちとイギリス警察が激突することになる。

これは、もう、大笑いして読む本である。文章もじつにユーモラスで、たとえば女性警官オリーブがミスタ・アルフレッドとその妹ルルに事情聴取する場面はこんな具合に書かれている。
 警官の質問に対するミスタ・アルフレッドの返答:その通りである。今考えてみると、おっしゃる通りである。わたしがハリントンに住んでいると聞いて、スミスは、いい下宿はないか、と尋ねてきた。
 ミス・ルルの自発的発言:そのようにまるめこまれるのは、まことに兄らしい。彼はいつもその手でやられるのである。わたしに言わせれば、頭が悪すぎるのである。幸いなことに、そのような特徴はわが家系において男の側にしかあらわれていない。
 ミスタ・アルフレッド:黙れ、ルル。
 ミス・ルル: なにさ。フロッシーにふられたのはどうしてなのよ。脳タリンて言われたくせに。
 秩序が回復されたのち、オリーブ警官はパースリー夫人に質問をした。
また、アナコンダ国革命軍が修道院に大襲撃をしかけてきたとき、反撃の立役者となるのは警察ではなく、修道女たちなのである。マザー・ペックは、ドアを手榴弾で吹き飛ばされ、トミー・ガンを携えた革命軍に押し入られるが、いつも手にしている大きなものさしで銃口をぴしりと叩き、「こんなことは許されないわ。いったいどういうつもりなの! 言うことをきかない男の子が徒党を組んで、ほかの人たちをおどかすなんて! 鞭で打ってこらしめますよ――」と叫ぶのだ。警察はそれを見て泡を食ったように彼女のそばにかけより、銃弾に当たらないよう、床に伏せさせるのだが、それでもマザー・ペックはものさしを振り回して、革命軍の一人のすねを打ち、彼を戦闘不能状態にしてしまうのである。

きわめつけは、戦闘の混乱の中、修道女たちが聖体を守ろうとする場面だ。さっさと逃げればいいのだが、聖体器を見ると彼女たちは宗教的恍惚にひたり、聖歌をうたいつつ行進してしまうのである。いやはや、ここまでくると笑いを通り越してあきれてしまう。

これはじつに生きのいい物語だ。学校の生徒たちの会話もティーンエイジャーらしい溌剌としたものだし、方言も各地のローカル・カラーを出していて楽しい。ただしもう一度繰り返しておくが、先行作を読んでいないとこの面白さは十分に伝わらない。

作者のことはよくわからないが、あるサイトによると作者の女の姉妹は修道女で、修道院の内部のことは正確に描かれているらしい。

2016年5月7日土曜日

57 ヘンリー・ウエイド 「警官よ、汝の身を守れ」

Constable Guard Thyself! (1935) by Henry Wade (1887-1969)
 
前回レビューした「殺人は殺せない」の中にはメロドラマを批判するような一節が含まれていた。しかし私は「殺人をもってしても殺せない」それ自体の骨格を形づくっているのは、メロドラマにほかならないと指摘した。今回扱う「警官よ、汝の身を守れ」にもメロドラマという言葉が出てくる。イギリスのブロドゥベリという町で警察署長が射殺される。警察署の内部で、しかも大勢の警官がいるときに、である。犯人は目撃されていないが、数日前から署長を脅かしていた男がいるので、その人物がもっとも怪しいとされた。彼は二十年前に殺人の罪によって警察署長によって牢獄に入れられ、このほど二十年ぶりに出所してきたのである。つまりこの犯罪は、二十年あまりもうらみの炎を絶やすことなく燃やし続けた男の復讐である、というのが警察の見解だった。スコットランド・ヤードから捜査の協力に来たプール警部は、それを聞いて「メロドラマだね」と思わずつぶやく。

二十年とはモンテ・クリストもびっくりの復讐譚である。しかし本書は、前回レビューした作品とはちがって、メロドラマによって構成されてはいない。捜査がはじまるとじきに警察署長の机から、彼がとある業者から不正な金を受け取っていたことを示すメモが発見されたのである。とたんに事件は様相を一変させる。警察署長は、彼と共に不正をはたらいていた警察内部の誰かによって、口封じのために殺されたのではないか、という強い疑惑が生じ、最初のメロドラマ的なシナリオは放擲されるのである。実際第一のシナリオよりも第二のシナリオのほうが、殺人の状況をよりよく説明できる。

メロドラマにおいて物語を進展させるのは「偶然」である。物語が行き詰まると、あるいは主人公の人生が行き詰まると、いつも偶然が起きる。誰かと出会ったり、なにか事件が起きるのだ。そこからあらたな話が展開していく。近代的なミステリにおいて、物語を展開させるものは、演繹的な推論である。これはミステリの最後で犯人を指摘する際に用いられるだけではない。物語の展開を支えるメカニズムでもあるのだ。近代的ミステリはメロドラマを克服し、脱却しようとする「努力」の一つだったのである。

このブログの第一回のレビューで、私はキャロリン・ウエルズの「手掛かり」を扱い、こんなことを書いた。
「手掛かり」の一番の特徴は、物語が、当時まだ盛んに書かれていた大仰なメロドラマに陥ることなく、一歩一歩論理と事実の積み重ねによって進められていく点にあると思う。たとえばこんな具合だ。結婚式の前日に富豪の娘マデライン・ヴァン・ノーマンは椅子に座ったまま死んでいるところを発見される。すぐそばのテーブルに、「結婚相手はわたしを愛していないようだ」という書き置きがあったことから、医者や周囲の人々は彼女が愛情問題を苦に、短剣で胸を刺し、自殺したものと考えた。そして自殺という観点からそれまでの彼女の行為や人間関係が振り返られる。ところが短剣には血がついているが、それを握っていたはずのマデラインの手には血がついていないことが分かり、他殺の可能性が疑われるようになる。ここで事件の様相ががらりと変わるのだが、こういう論理による物語の推し進め方はミステリというジャンルの醍醐味である。
結婚直前の娘が愛情問題を苦に短剣で胸を刺し、自殺するなど、典型的なメロドラマの筋だが、しかしそれが演繹的な推論(短剣と血糊の関係)によって「否定」されるところに近代ミステリの新機軸が存する。

「警官よ、汝の身を守れ」は近代的ミステリの骨法によって書かれた立派な作品だと思う。新しい物的証拠があらわれるたびに事件の様相がころころと変わるところはじつに刺激的だ。本作はヘンリー・ウエイドの傑作の一つといってもいいだろう。しかし、物語は最後になってやはりそれが復讐譚であることをあらわす。最初に復讐譚のシナリオは否定されたのだが、紆余曲折を経て結局は(ひねりを加えた形でだが)そこに舞い戻ることになるのだ。これはどういうことを意味しているのだろう。近代ミステリは物語を駆動するエンジンとして演繹的推論という方法を編み出した。それは知的なすばらしいエンジンではあったが、メロドラマ的な構造から物語を完全に脱却させることはできなかったということではないだろうか。これは演繹的推論という駆動力の不完全さをいっているのではない。メロドラマ的構造が決定的な地点においてわれわれの想像力を規定していることを示しているような気がする。

本作はいろいろな美質に溢れている。警察署内における微妙な力関係、人間関係が巧みに描かれ、彼らの心情を的確に察しながら捜査を進めるスコットランド・ヤードのプール警部もじつに感じがいい。物的証拠が積み重ねられる過程も興味深いし、語り口も抑制がきいていて、それでいて過不足がない。ヘンリー・ウエイドは不当に評価されていない作家だと思う。

2016年5月5日木曜日

56 「殺人をもってしても殺せない」 グレゴリー・バクスター

Murder Could Not Kill (1934) by Gregory Baxter

この作品は Eric De Banzie (1894-1986)と John M. Ressich という人の共著らしい。前者はスコットランド生まれのジャーナリストでミステリも書いた。後者のことはまるでわからない。

本書の中にはアメリカ人の女優と、彼女が出演してロンドンで公開されている演劇のことが話題になる部分がある。
 「彼女は本当にいい女優だと思うかい」
 「一流クラスだよ。だけど彼女が出ている劇はダメだね。古い作品の焼き直しだよ。どうしようもなく古くさいメロドラマを、現代人の好みに合わせて切り貼りし、味付けしただけだよ。だれがあんな作品をロンドンにまでもってきたのだろうね。相当の金持ちがパトロンについているんだろう。初日から客の入りが悪いんじゃないかな」
これだけメロドラマをくさしているのだから、この作品自体はメロドラマを越えた、近代的なミステリになっているかというと……残念ながらそうではない。それほど出来が悪いとはいえないが、しかしこれこそ「古くさいメロドラマを、現代人の好みに合わせて切り貼りし、味付けした」だけの作品である。あと一カ月もしたら私は内容をすっかり忘れてしまっているだろう。

物語の展開のさせ方は、前半部分に関する限り、非常にうまい。話が始まると、いきなり主人公の画家ロビンが殺人現場に出くわす。とあるアメリカ人の父と娘が車に乗っていたところ、見知らぬ男が近づいてきて車を停め、ドアを開けて中の父親の方を刺し殺したのである。ロビンはショックを受けている娘を彼女のフィアンセの家へ連れて行ってやる。そこで刑事やフィアンセたちと犯人は誰だろうと話をしていると、そこに娘の父親に対してもっとも強い殺人の動機を持っている男が登場する。この男は逮捕されそうになって大乱闘を演じ、まんまと姿を消す。

そんな印象的な一日の直後、美しい少女の面影が忘れられないロビンは、衝撃的な出来事に遭遇する。なんと美しい少女が、大乱闘を演じた殺人犯とおぼしき男と、場末の宿屋に入り込むのを目撃したのである……。

こんな具合に謎が謎を呼ぶ展開で、しかも適度なスピード感さえある。しかし後半に入って善悪の対立構図がはっきりしだすと、とたんにメロドラマ的な仕掛けが全開になるのだ。非常に都合のいい偶然があちこちで起き、思いも寄らないアイデンティティーの暴露が相次ぐ。それらの仕掛けは古いメロドラマのそれをそのまま再利用しているのではなく、確かに現代人の好みにあわせたものに変形させてはいる。たとえばロビンが恋に陥る美しい少女の正体が、最後で明かされるようにしたことなど、けっして悪くはない。しかしそれはやはり小手先の工夫であって、全体としてはやはり古いメロドラマの印象を与える。古い物語の型を蝉脱したいという気持ちはあるのだろうが、まだその書き方が固まっていない、あるいは方法論的にも十分に練れていない、という印象だった。