2016年9月2日金曜日

81 ヘレン・メーブリー・バラード 「殺人のメロディーにのせて」

To the Tune of Murder (1952) by Helen Mabry Ballard (?-?)

久しぶりに五十年代の作品を読む。バラードという人は聞いたこともなかったし、ざっと調べただけだが伝記的な事実もまるでわからなかった。しかし本編を見る限り、小説家としてかなりの資質を持った人である。本書は単に殺人事件の発端から犯人が捕まるまでの経過を追った作品ではない。

本書を読んで最初に気づくのは、登場人物のあいだに世代差が歴然と設定されていることである。一つのグループはジェニー・コーベットやメアリ・レノルズに代表される、ヴィクトリア朝的な道徳観、人生観をもった人々である。メアリはクイーン・メアリと綽名されるくらい古い考え方に凝り固まっているし、両者の部屋はいずれもヴィクトリア朝趣味ゆたかに飾られている。しかし彼らはコーベットヴィルという小さな町の人々に尊敬はされているものの、経済的には没落の一途を辿り、やがては消えてなくなる存在である。

もう一つのグループは、ジェニー・コーベットの甥で本作の主人公である地方検事のジム・トンプソンや、彼の友人でコーベットヴィルの警察署長であるデイブ・ターナーたちである。彼らはヴィクトリア朝以後の新しい世界をに切り開くべき人々である。しかし検事でありながら警察の仕事に習熟しておらず、デイブ・ターナーから「もっと大人になれ」と忠告されるデイブ・トンプソンに典型的にあらわれているのだけれども、彼らはまだ完全には新時代の担い手として成長してはいない。それどころか下手をすると(本作の一番最後に示されているように)新しい世代は古い世代の考え方を納得し、受け入れてしまいさえするのだ。

このような旧世代と新世代の関係は、ヴィクトリア朝時代に形づくられたメロドラマの型を打破しようとして、結局そこから脱却できずにいた、ミステリの歴史のある時期を彷彿とさせる。こう書くと社会変化の中に文学形式の変化を見て取るのは強引な読みではないかと言われそうだが、案外そうでもないと私は考える。本作の登場人物はみな「物語」と関係づけられているからである。たとえば警察署長のターナーは容疑者の一人がセンチメンタルな物言いをすると鼻を鳴らして「くそっ、イースト・リンみたいなしゃべり方はやめろ!」と怒鳴る。また彼は秘書から「チーフ」と呼ばれるが、それは彼にペリー・メースンを思い出させるのだ。ジム・トンプソンはジェニー・コーベットを「ヴィクトリア朝のヒロイン」にたとえるし、別の容疑者であるシルヴィア・マーポールの人生は「ダイム・ノベルみたい」と評される。こういうところを気をつけて読んでいくなら、社会変化に文学形式の変化が重ねられていると考えることはけっして無理ではないと思う。

ジェニー・コーベットが甥のジム・ハンプトンに次のように語る部分は、とりわけ私に感銘を与えた。
 「私の世代の女たちは現実を直視しない、甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界に住んでいると言われてきたわ。でも本当は、私たち、真実に目を向けることを怖れていない。現実的な考え方を自慢する若い人たちとおなじようにしっかり事実を見ることができる。ただ違うのは、私たちはたとえ人生がどんなに苦しくて醜いものであっても、そのことを口にしてはならないと躾けられてきたということ。口を閉ざすのはひとつはプライドがあるから。もうひとつの理由は、趣味のよさを保つことが大事だと考えているから。淑女は個人的な悲しみや苦しみや恥を人前にさらさない。ジェイムズ、私の義理の妹は悪い女だったわ。それは事実で、私はずっと前からその事実をはっきりと見ていたのよ」
「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」というのはヴィクトリア朝時代の生身の女たちのありようを表現しているだけではない。ヴィクトリア朝時代に女性向けに発行された雑誌やロマンチックな小説も「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」を描いていると評され、後代の作家、たとえばジェイムズ・ジョイスなどによってそのイデオロギー性を批判されているのである。しかしジェニーは、エディス・ウオートンの名作を想起させるような議論を用いてその批判を批判し返す。つまり、彼らは現実を見ていなかったのではない。見ていたけれども、口を閉ざしていたのだ、と。彼らにとっては decency とか respectability といった言葉で表現されるものを外見的に保つことがなによりも大切だったのだ。それを聞いてジムはこう考える。「永の年月、この誇り高い老婦人に口をつぐませてきた作法(code)を、彼女がついに破らなければならなくなったということ、それがこの殺人事件が招いた、看過し得ない悲しい帰結ではなかったか」薔薇色のイデオロギー的世界が、世上に流布されたような盲目的なものではなかったにしろ、しかしその物語的規則体系(code)はもはや有効性を失っている。私はそんなふうにこの一節を解釈することができるのではないかと思う。

しかし古い物語が通用しなくなったとしても、新しい物語(新世代)は確立していない。よくいえばまだ揺籃期にある。本書において犯人と被害者の人物像が曖昧に揺れているのは、そのせいなのだろう。犯人は憐れむべき環境の犠牲者なのか、それとも憐れみに値しない単なる悪者なのか。殺されたアリシアは、周囲の人間を誰彼かまわず不幸に陥れようとするパソロジカルな存在なのか、それとも甘やかされて育ったがためにわがままになっただけで、じつは魅力的な側面も備えているのか。ジム・トンプソンにはよくわからない。確乎たるヴィクトリア朝的道徳観を持っているメアリ・レノルズは、犯人の邪悪さは犯人が生まれついた家系の血のせいであると、いかにもあの当時の人がいいそうなことを言うのだが、すぐに周囲の人に論駁されて、結局結論はつかないまま物語は終わる。

一回読んだだけなので、この先読み返した際に、解釈が変わるかもしれないが、しかしこの作品のレベルが高いことは間違いない。もしもこの作者が他にも作品を書いているなら、是非とも読んでみたいと思う。