2016年3月30日水曜日

49 ブレット・ハリデー 「殺人の鍵は沈黙」 

Mum's the Word for Murder (1938) by Brett Halliday (1904-1977)

本作はブレット・ハリデーの処女作になる。語り手はウエスタンを書いている小説家で、題材に困って親友の警察署長に、何か面白い話はないかと打診してみたら、本作に描かれる事件に遭遇したという設定である。途中、語り手は素人作家の原稿を読み、あれこれ難癖をつけているが、私もこの本を読んでいくつか難癖をつけたくなった。文章が粗っぽくて、あまり褒められたものではないのである。前回レビューした「壁の穴亭」に較べると、文章力も登場人物のの造形力も格段に落ちる。

しかし本作には妙な勢いというか、熱気が感じられる。連続殺人事件、しかもそのいずれもが予告殺人という、猟奇的な事件が起きるのだが、作者は明らかにアガサ・クリスチーの「ABC殺人事件」(1936) を意識していて、同じパターンを用いながら、それとは違う新味を出そうと工夫している。新しいトリックを生み出そうという稚気に溢れた、しかし真剣な気持ちが行間から伝わってくるのである。ミステリの黄金時代はこうしたアマチュアの熱意によって支えられていたのではないか。

話はこんな風にはじまる。ジェリー・バークはエルパソの警察署長である。エルパソはリオグランデ川のそばにある。メキシコからの移民がこの川を渡って合衆国に入ってくるのは有名な話だ。バークが署長になった途端、マム(Mum)という名を名乗る人間が次のような新聞広告を出した。「ミスタ・バークよ、あんたはやり手なんだって? 今晩十一時四十一分にエルパソで殺人が起きる。お手並み拝見といこう。マム」

なんと予告殺人だ。誰が殺されるかはわからないので、バークは語り手の作家と共に殺人予告の時間までじっとしているしかなかった。そして殺人は予告通りに行われた。とある金持ちが家の中で殺されたのである。犯人は外からブラインド越しに金持ちを銃殺したらしい。

さっそくバークの調査が始まるのだが、もっとも強い動機を持つと思われる人物にはちゃんとしたアリバイがあって、捜査は難航する。そうこうしているうちに第二の挑戦状が届いた。「先の事件の捜査はうまくいかなかったようだな、ミスタ・バーク。ひとついいことを教えてやろう。二番目の被害者は女で、真夜中頃、フアレスで殺される。あんたに捕まえられるかな。マム」

まことに挑発的で腹立たしい予告文である。しかも新聞もバークの部下も、新任の警察署長に反感を持っているものだから、前者は捜査の進展のなさを新聞紙上で揶揄し、後者は上司を出し抜いて手柄を立てようとこっそり動いたりしている。しかしバークは自分の直観を信じ、冷静に事件を調べていく。本当は平静ではいられない気分なのだろうが、自分を律し、外見に惑わされず、着実に事実を掘り起こしていくところは、非常に好感が持てる。だが、路上で金持ちの女が刺殺されるという第二の事件も、やはり容疑者に鉄壁のアリバイがあり、捜査は行き詰まる。

そこに第三の挑戦状。「まだ手探りしているのか、ミスタ・バーク。これが最後のチャンスだ。三番目の被害者は明日の朝四時三十分に殺される。マム」そしてまたもやその通りに、ある科学者が死亡する。配達された牛乳の中に毒が仕掛けられていて、それを飲んだ科学者が死んでしまったのだ。この事件も、いちばん強い嫌疑を掛けられた男がアリバイを持っていた。

殺された三人のあいだには特につながりはない。しかしいずれもマムの殺人予告の後に殺されている。いったい三つの事件のどこに連関が隠されているのか。

おそらくミステリに馴れた人なら、これだけでピンと来るものがあるにちがいない。私もすぐにわかった。だがそんなことはどうでもいい。私がふと思ったのは、この手のトリックを用いた元祖となる作品はどれなのだろうということだ。もしかしたら本作はその候補にあがるのではないか。いや、私が知らないだけで、このトリックを利用した、もっと古い作品があるのかもしれないけれど。

冒頭でも言ったけれど、この作品はまだ文章が拙劣で、とても語り手が小説家とは思えないという欠陥があるが、予告殺人というセンセーショナルな設定やら、ここでは明かすことをはばかるトリックなど、面白いミステリを書こうとする創意工夫に充ちている。そこに作者の、ミステリ作家を目指す心意気を感じた。

表題について一言。Mum's the word というのは「秘密だよ」「黙っていてね」という意味の口語表現である。作中では犯人はこの Mum (マム)を自分の名前として使っている。だが、本当は M-U-M は三名の被害者たちの頭文字を寄せ集めたものなのだ。謎を細部までしっかり作り込んでいるところに、気概のようなものを感じる。

2016年3月23日水曜日

48 アーサー・ジョージ・モリソン 「壁の穴亭」

The Hole in the Wall (1902) by Arthur George Morrison (1863-1945)

これは厳密にはミステリではない。犯罪小説とでも言えばいいのだろうか。しかしディケンズやコリンズの伝統にのっとった見事な作品である。

テムズ川にはあちこちにドックと言われる係船渠が存在する。桟橋やら倉庫があるだけでなく、ここではたらく人々のための酒場なども存在する。しかし海の荒くれ男や、いかがわしい素性の人間たちが集合する場所なので風紀ははなはだしく悪い。金目のものを身につけて酔っ払ってなどいたら、さっそく泥棒に遭うか、下手をすれば殺されてしまう。かつてイースト・エンドにあったライムハウスなどはそのもっとも有名な例だろう。こうした港湾地区はまがまがしい犯罪のにおいを放ちながら、同時に犯罪が持つ奇妙なロマンチシズムに耀いていた。トマス・バークの「ライムハウスの夜」とか、私が訳したビガーズの「苦悶の欄」を読んでいただけるとそのあたりのことがおわかりになると思う。ロンドンは不思議な都市で、その姿がはっきり見えているときよりも、霧に覆われているときのほうが魅力的であり(クロード・モネは「霧がなければロンドンは美しいとはいえないだろう」と言った)、大勢の人で混雑する日中の大通りよりも、その先に何が潜んでいるかわからない、謎めいた夜中の狭い路地のほうがロマンを感じさせる都市なのである。

本編の主人公はまだ五六歳と思われるスティーブン少年と、その祖父であるキャプテン・ナットである。スティーブンの父は水夫で、今は航海に出かけていていない。しかも父が航海に出かけている最中に、身重だった母が病気で亡くなってしまった。彼は祖父のキャプテン・ナットに引き取られることになる。祖父も昔は水夫だったが、今はドックで「壁の穴亭」という酒場を経営している。

しかしスティーブンは祖父が酒を売るだけでなく、ほかにも違法な手段で金を儲けていることに次第に気づいていく。煙草の密輸入がその一つ。盗品を買い取り、高く売るのがもう一つ。それだけではない。怪力の持ち主であるキャプテン・ナットは違法な売買だけでなく、もっと怖ろしい犯罪にも手を染めていただろうと思われる。(スティーブンは無邪気に「おじいちゃんは人を殺したことがあるの?」と尋ねている)

スティーブンが祖父に引き取られて「壁の穴亭」で生活するようになった頃、二つの大きな事件が起きた。スティーブンの父が乗っている船を所有している船会社がつぶれたのである。共同経営者の一人が会社の金を持って行方をくらましたのだ。

もう一つの事件は、「壁の穴亭」の前で一人の男が殺され、そのごたごたの最中にスティーブンが札入れを拾う。警察が捜査を終えて帰り、一段落したときにスティーブンはそれを祖父に見せるのだが、そこには八百ポンドという大金が入っていた。祖父はそれを猫ばばし、スティーブンの将来のための資金にしようと考える。

こう書けば何が起きたかはおよそ想像がつくだろうが、ともかくこの物語は以上二つの事件を軸に展開していく。

登場人物の一人一人がディケンズ風の筆致でもって個性豊かに描かれ、スティーブンの視点と全体を俯瞰する視点の、二つの視点を交錯させながら悠々と物語が展開していく。アーサー・モリソンの才能が遺憾なく発揮された秀作だと思う。とりわけ八百ポンドという大金の動きは興味深い。実を言うと、倒産した船会社は持ち船をわざと沈没させ、保険金詐欺をはたらいていたのである。しかも沈没させられたのは、スティーブンの父親が乗っていた船で、彼は船を沈没させることに反対したがために船と共に海の藻屑と化したのだ。その他の船員はみな助かったというのに。不正な手段で得られた保険金は共同経営者によって会社から盗まれ、スティーブンの手許に届いたのである。キャプテン・ナットはスティーブンの父親、すなわち彼の息子を殺して会社が得た金が、まわりまわって自分の手許に届いたことを知ったとき、「これこそ神さまの思し召しだ」と叫んだが、私もこれこそラカンが言った「手紙は必ず宛先に届く」というやつだと思った。しかもこの金はすべてお札で、番号を控えられているために、使うことができない金なのである。使えば番号からすぐに足がついてしまうのだ。使用不可能な使用価値というパラドキシカルなこの金は対象a、ファルスではないだろうか。殺人というありうべからざる社会の亀裂が、金という見かけを取ってあらわれたのである。さらに対象aとは象徴界にあいた穴であり、そのことと「壁の穴亭」という名前のあいだには何か連関があるのではないだろうか。まだ充分に考えがまとまらないけれども、これから何度か読み返し、全体の構造をはっきり見きわめたいと思う。

作者のアーサー・モリソンは日本美術に興味を持っていた作家で、マーチン・ヒューイットやホーラス・ドリントンといった探偵の活躍する推理短編を書いている。

2016年3月19日土曜日

47 ジョン・R・コリエル 「数百万ドルを盗んだ男」 

The Man Who Stole Millions (1900) by John R. Coryell (1848-1924)

ウィキペディアによると、探偵ニック・カーターが最初に登場したのは一八八六年九月十八日号のニューヨーク・ウイークリー誌上だそうである。タイトルは「老探偵の弟子、あるいはマジソン・スクエアの怪事件」。オーモンド・G・スミス原案、ジョン・R・コリエル作ということになっている。このシリーズが大人気となって、一時はニック・カーター・ウイークリーまで発行された。

三十年代に入ってザ・シャドウやドック・サヴェイジという新しいヒーローが誕生すると、その人気にあやかって一九三三年から三六年までニック・カーター・ディテクティヴ・マガジンが発行された。雑誌だけでなく小説も複数の作者によって書きつがれ、一九四〇年代からは十年以上も「名探偵ニック・カーター」というラジオ番組が放送されていた。息の長い人気を誇る探偵である。

三十年以降の作品はどちらかというとハードボイルドぽっくなるのだが、本書は一九〇〇年に出たもので、まだ古き良き活劇的な要素に充ちている。

私が Hathi Trust のウエッブサイトから手に入れたこの本には二つの挿話が収められている。最初のタイトルは「数百万ドルを盗んだ男」、二つ目は「殺人指名手配」である。まず最初の挿話。

ニューヨークのスティーブン・リロイという男は株で大損し、一攫千金をもくろんで西部に渡る。ホゼ・マリーナという男と一緒に、サン・ファン近くの鉱山の開発に手を出そうというのである。

彼は西部に渡った最初の頃はニューヨークにおいてきた妻に手紙を書いていたのだが、それが次第に間遠になり、ついに音信不通となる。そして妻はとうとう、夫が死亡したという通知を受け取るのだ。

さて、妻は弁護士とともにニック・カーターを訪ね、夫の死亡と、夫が鉱山に対して持っていた権利を確認してほしいと頼む。

この話が面白くなるのはニック・カーターが西部に行く途中、ホゼ・マリーナの奥さんに出会うところからである。彼女はリロイの奥さんと同じことを言うのだ。夫は西部に渡ったが、だんだん手紙が来なくなり、最後には音信不通になった。そして夫が死亡したいう知らせを受け取ったというのである。彼女はそれを確かめにニューヨークからわざわざ一人旅をしてきたのだ。

問題の炭鉱町に着いてから、ニック・カーターは同じく探偵のチックと力を合わせ、西部劇によく出てくるような荒くれどもを相手に活劇を展開し、事の真相を暴く。
 謎めいた対称性を冒頭で提示し、最後に示される真相も私の予想を裏切るもので、なかなか愉しい読み物である。

二つ目の挿話も出だしから興味を惹くように書かれている。ある日曜日の朝、巡邏警官が道を歩いているとギャンブル店(昔はそんなものがあったんだなあ)の二階の窓から経営者のアーヴィン・クラークが彼のほうを見ている。その容子が気になった彼はクラークの召使いとともに彼の事務室に入っていく。するとそこには死体が転がっているではないか。しかもそれは政府から要職に就くことを要請されたこともある名士クリフォード・ローレンスである。アーヴィン・クラークの姿はなかった。しかし部屋の中には隠れる場所はないし、ドアから出ていったことは考えられない。いったい経営者はどこに消えたのか。そしてなぜ名士のクリフォード・ローレンスは死んだのか。不可能犯罪を思わせる出だしである。

物語の語り口は例によって簡潔すぎるくらいに簡潔なのだが、話は意外なくらい込み入っていて、事件の真相も意表を突いている。ニック・カーターが困っていると都合よくチック探偵があらわれたり、確かにずいぶんご都合主義なところもあるのだが、謎自体はしっかり考えられていて、その解決も読者に「なるほど」と軽く膝を打たせるくらいは気がきいている。私は初期のニック・カーターものをはじめて読んだが、わかりやすい文章で、段落も短く、スピーディーに読むことができる。しかも物語に一定の工夫が凝らされているのだから、これなら人気が出るのも当然という気がした。

本ブログでは原則として長編のみを扱うのだが、世紀の変わり目頃に書かれたミステリとなると入手できる本が、多少数が限られてくる。本書は短編二編を収めた小さな本だが、なにしろニック・カーター、歴史的に名を残した探偵の本であるから特別にレビューすることにした。

2016年3月16日水曜日

46 ピーター・バロン 「蝋面殺人事件」 

Murder in Wax (1931) by Peter Baron (1906-?)

蝋面をかぶった怪人ザ・スクイッドは手下を使ってロンドンの貴族たちから高価な宝石を奪い取る泥棒である……と書いただけで、サックス・ローマーのフー・マンチューものや、エドガー・ウオーレスの作品や、日本で言うなら江戸川乱歩みたいな作家の作品を思い出すだろう。まったくその通りで、ザ・スクイッドの悪巧みと警察の活躍、さらに事件に巻き込まれる貴族たちの容子がエピソディックに書き連ねられている。

出だしはこんな具合だ。
 ジョン・リッチモンドは卑怯者ではない。しかし愚か者でもなかった。そのとき彼が直面していた危険は、まさに現実のものだった。彼はそれを自覚し、無謀な真似はしなかった。灰色のクライスラーを巧みに操り、デットフォードを抜け、ニュー・クロス・ロードへ向かった。
これを読んだだけでチープなダイム・ノベルの世界へといざなわれるだろう。私はパルプ小説やダイム・ノベル的な馬鹿馬鹿しさをこよなく愛するので、これだけで胸がわくわくする。ジョン・リッチモンドは重要な手紙を持って大陸からロンドンへ帰ってくるのだが、その間、ずっとザ・スクイッドの組織に追われっぱなしだった。そして敵の追跡をかわし、ようやく目的地に着いたと思った途端、ピストルで背中を撃たれてしまう。ひどくスピード感のある出だしで、こうやって読者を一気に物語の中に引き込もうというのである。

本書に描かれる貴族たちはある種の俗悪さと傲慢さを持ち、また奢侈におぼれた者の愚鈍さと悪賢さを兼ね備えている。中でも出色なのは公爵の甥フレディ・レスターである。職には就かず、遺産でのらくら遊んでばかりいる男で、妙ちくりんな言い回しや、機知のきいた当意即妙の返答にかけては、この男の右に出るものはなかろうと思われる。「わたしの魅力を覆い隠しているこのカビを取り除く道具を貸してくれ」といってひげそり用具を要求し、公爵がスクイッドを評して「ありゃあ、銀行の経営者よりも教養がある悪党だ。紳士泥棒というやつだな」と言うと、フレディは「紳士も泥棒もおなじ意味ですよ」と返答し、スコットランド・ヤードの警部に「冗談はやめてその男の名前を言い給え」と言われると、シェークスピアをもじって「お望み通りに。しかし名前なんかなんだというのです? (As you like it, but what's in a name?)」とやり返す。公爵は「ストーラア・クルーストンの Lunatic At Large はこの男をモデルにして書かれたのだろう」と言うくらいである。(ストーラア・クルーストンを紹介した本ブログ記事の中でも書いたが、Lunatic At Large はピカレスク小説のマイナーな傑作である)このふざけた男が実は国家秘密情報局の……いやいや、そこは本書を読んでいただこう。

もう一つこの作品の特徴としてあげられるのはスクイッドの残忍さである。先ほど公爵が彼を「紳士泥棒」と評した言葉を引用したが、紳士なんてとんでもない。彼が人を殺すやり方は、読んでいて胸が悪くなるくらいむごたらしい。この時期に書かれたパルプ小説でこれだけ残酷な悪党はなかなかお目にかかれない。彼にとっては友人も親戚も関係ない。邪魔な者、不都合な存在は容赦なく殺してしまう。しかもそのやり方がひどすぎる。彼に情けがあるとしたら、それは相手が苦しまないようにすばやく殺してやろうという情けである。銀行家を金庫に閉じ込めたり、警察が入り込んだ迷路に爆弾を仕掛けて吹き飛ばす場面など、眉をしかめて読んだ。この非情さは尋常一様ではない。

スクイッドの驚くべき正体は本書の末尾に明かされるが、じつは彼は立派な地位を持つ資産家であり、資本家なのである。フレディの「紳士も泥棒もおなじ意味」という台詞は、真実を言い当てていたのだ。この作品は資本家がべつの資本家を――たとえそれがどんなに親密な関係にある人であれ――非情にも殺していたという話なのである。近年、資本主義は、かつてかぶっていたパターナリズムや家族主義といった仮面を脱ぎ去り、今は民主主義すらをもそれ自身にとって邪魔なものとして捨て(一昔前は資本主義国家でない国には民主主義がないと考えられていたものだが)、ハゲタカのような姿をあらわそうとしているが、そうした果てに行き着くのがスクイッドという形象ではないかと私は考えて、なんだか重苦しい、厭な気分に陥った。ジャンル小説とかポピュラー映画は、案外、現実の真相を露骨に描き出していることがあるのである。本書はダイム・ノベルには珍しい暗澹たる結末を迎える。

作者は本名をレナード・ワースウィック・クライド (Leonard Worswick Clyde) というらしいが、そのほかのことはまったくわからなかった。

2016年3月12日土曜日

番外9 アルバート・バーグ 「難破船」 


Derelict (2010) by Albert Berg

以下の文章は私の翻訳「難破船」に付加した後書きの文章である。

この作品はアルバート・バーグ氏の短編「難破船 (Derelict)」を翻訳したものです。バーグ氏は恐怖小説を書いていらっしゃり、そのいくつかをクリエイティブ・コモンズのライセンスをつけて無料公開しています。わたしはこの作品を読んで一驚しました。素人作家ながら、たいへんな筆力の持ち主だと感じたからです。その後作者に連絡を取り、日本語に翻訳し、原作とおなじCCライセンスのもとに無償公開してもよいだろうかとお尋ねしました。バーグ氏から快諾をいただき、わたしは才能豊かなホラー作家のごく初期の作品をはじめて日本に紹介する栄誉をたまわったわけです。

この作品のいちばんの特徴を一言で言うと、atmospheric ということでしょう。つまり、異様な雰囲気が実に巧みにかもしだされている。怪物があらわれたり、異常現象が起きてなくても、なんとはなしに不気味な感じが活字から立ち昇ってくるのです。わたしは最初の段落から一気に物語に引き込まれ、読み終わるまでテキストから目を離すことができませんでした。バーグ氏のほかの作品も同様です。スプラッター映画のように、血や内臓が飛び散るわけではないのですが、薄気味悪さが強烈なサスペンスとともに読者に迫ってきます。これだけの語りの技術を持っている人は商業作家にもなかなかいません。

確かにこの短編には、映画を含めたSF作品の影響が色濃くあらわれています。(The Beach Scene という別の短編はあきらかに日本のホラー映画の影響を受けています)ループ状の物語構成も珍しくありません。物語の細部に関しても、わたしにはちょっとわかりにくいところがある。文章も想像力の質も、いまだ荒削りです。しかし作家には習作期というものがあり、先達の真似をして作品を書き、修練を重ねて自分の独創を獲得するものなのです。だから作者の初期の作品にたいして、独創的ではないとか、細部に瑕瑾があるとか難癖をつけるのは筋違いでしょう。それよりも作家の卵が、既製品を使いながらここまでサスペンスフルな物語を構築したことを評価するべきです。

わたしは作者への手紙の中でこんなことを書きました。「この物語を読んで、退役軍人が繰返し戦争の恐ろしい夢を見る、という話を思い出しました。彼らは、合わせ鏡の内部に閉じ込められたように、思い出したくない過去の記憶の反覆の中に閉じ込められてしまいます。精神分析学者はその理由を『死への慾望』に見出します。わたしにはジョーンズの頭から顔をのぞかせる黒い、意志をもったような物体が、タナトスの肉化したもののように思えます」このような解釈の妥当性はともかくとして、わたしは「難破船」に知的な興味もそそられたことを書いておきます。

バーグ氏が近い将来、作家として大輪の花を咲かせることを期待しています。

2016年3月6日日曜日

45 アニー・ヘインズ 「クローズ・インの悲劇」

The Crow's Inn Tragedy (1927) by Annie Haynes (?-1929)

アニー・ヘインズの経歴はほとんどわかっていない。本作を読むかぎり、古いタイプの冒険譚から黄金期のミステリへの橋渡しをした作家の一人のように思える。古い要素を多分に持ちつつも、新しさをどことなく感じさせるのだ。古いと思わざるを得ないのは、たとえばイギリスを脅かす宝石泥棒の集団イエロー・ギャングとスコットランド・ヤードの鬼警部ファーニヴァルの対決という、いかにも大時代な図式、また女性たち(ミセス・ベッチコウム、ミセス・カーンスワース、ミス・ホイル)のヒステリックな反応、登場人物の善悪を截然と分かとうとするところ、血筋への執着などといったところである。物語の最後で鬼警部ファーニヴァルと老弁護士ステッドマンが敵地に乗り込み大冒険をするあたりも古き良き活劇を見ているような気分になる。

しかし事件そのものと、その捜査の過程には多少近代的なミステリの趣が見出される。あらたな証拠の登場により、事件の様相が変化する、その面白さを取り入れているからである。もっともあまり上手な取り入れ方とは言えないのだけれど。

事件はクローズ・インと呼ばれる建物の中にあるベッチコウムの法律事務所で起きる。ベッチコウムは弁護士であるだけでなく、依頼を受ければ宝石の売買の手伝いもしている。これはなかなかいいサイド・ビジネスである。弁護士として手堅い評価を受けているならば、手持ちの宝石を売って現金を手に入れたい金持ちから依頼を受けることも多かろうと思われる。彼は、アメリカ人の金持ちと結婚したが、浪費癖の烈しいミセス・カーンスワースから宝石を処分してほしいと電話で頼まれ、ある日、彼女にその宝石を事務所まで持ってきてもらうことにする。ミセス・カーンスワースはそこではじめて出会った弁護士に事情を話し、宝石を手渡して、早々に出ていく。なにしろ彼女は今の言葉で言うセレブであって、宝石の処分のために弁護士に会ったなどということがわかれば、たちまちスキャンダルのネタにされてしまうからだ。それがお昼の十二時半くらいの出来事である。

さて、ここからが問題である。弁護士は昼飯後もなかなか自室から出てこない。心配になった事務員が彼の部屋の中に入ると、なんと弁護士は死体となっているではないか。クロロフォルムをかがされ、首を絞められて殺されていたのだ。しかも、医者の診断によると、彼が死んだのは十二時ころだと言うのである。しかしミセス・カーンスワースは十二時半に彼に会っている。いったいこれはどういうことだろうか。

もちろんミステリに馴れた人なら、何が起きたかはすぐわかるだろう。そしてこうした場合は何をチェックすればいいのかも判断がつく。そう、警察はミセス・カーンスワースが会った人物がほんとうに弁護士のベッチコウムであったかどうかを確認すべきなのである。ところが、なんとしたことか、警察はそれをしない。後日、挿絵入りの新聞で弁護士や容疑者の顔を見たミセス・カーンスワースが警部のもとに出向き、彼女が弁護事務所で見た人物はベッチコウムではなかったと証言し、そこではじめて死亡推定時刻の謎が氷解するのである。

これは警察の捜査がずさんであったというより、作者がまだ近代的なミステリの書き方に通暁していなかったと考えるべきだろう。この程度のことを謎にしてはいけない。しかしながらこれが過渡的な作品であると考えるなら、まあ、それも致し方ないかとは思う。

この作品で何よりもよかったのはアメリカ人の金持ちミスタ・カーンワースと老弁護士ステッドマンが口論する場面である。イギリス人の老弁護士は丁寧というか硬い表現を用い、アメリカ人は非常に口語的なくだけた物言いをする。
 ステッドマン「おっしゃることがわかりませんな」
 カーンワース「ふうむ。そのことは言ってもよかったんだ。何度も考えたことだからな。しかしそれを言ってあなたがたお二人さんに腹を立てられても困ると思ってね。とくにこちらの方は、お亡くなりになったミスタ・ベッチコウムの従兄弟だからね」
カーンワースのくだけた口調、いわゆる lazy mouth と呼ばれる発音、べらんめえのような言葉の勢いがうまく訳せないが、とにかくここにはアメリカ文化とイギリス文化の対立、粗暴と洗練、開けっぴろげな態度と用心深さが対比されていて面白かった。それにしても二十世紀初頭の英国ミステリに登場するアメリカ人は大金持ちか悪党かどっちかで、普通の市民が出てくることはほとんどない。大西洋を渡ってこられるのは富裕層だけだったという事情はあるにしろ、こういう通俗的なイメージでアメリカを描くのはどうかと思う。

2016年3月3日木曜日

44 モリー・シン 「歯科医院殺人事件」

Murder in the Dentist Chair (1932) by Molly Thynne (?-?)

まったく名前を聞いたことのない作家だが、本作を読むかぎり、筋立てはかなり手がこんでいるし、文章も悪くない。そこそこの実力を持った作家だと思う。チェス・プレーヤーを主人公にしたシリーズもののミステリを書いているらしい。

事件は歯医者で起きる。ミセス・ミラーが入れ歯の修理にダベンポートという歯医者を訪れる。歯医者が入れ歯の型を取りに診察室を出ているあいだに、何者かが医者の振りをして診察室に入り込み、ミセス・ミラーの喉を掻き切ったのだ。医者が診察室を抜けた短い時間のあいだに、狙い澄ましたように行われた、残酷な殺人だった。

容疑者は待合室にいた四人の患者たちである。

これはまたずいぶん柄の小さな作品だな、とわたしは最初思った。容疑者といっても一人は探偵役の老人コンスタンスだし、一人は女性で、待合室から出ていないことはほぼ確実。さらに一人は行方不明になってしまうけれども、彼は前歯を抜いたばかりで出血がひどく、しかも時間的に殺人を犯す余裕はない。残っているのはたった一人じゃないか。

しかしコンスタンスとスコットランド・ヤードの刑事アークライトの活躍のおかげで外部から真犯人が建物内に侵入した可能性があることが判明し、これで容疑者の範囲がぐっと広がった。

さらに第二の殺人が起きる。ミセス・ミラーが殺された日の晩、彼女を訪ねて大陸から渡ってきた元女優の友達が、ロンドンの路上で首を掻き切られ死亡しているのを発見されたのである。まるでジャック・ザ・リッパーみたいな犯人である。しかもミセス・ミラーが殺されたときに使われたのとおなじタイプのナイフが発見された。

このあたりから物語は意外な広がりを見せはじめる。容疑者たちやミセス・ミラーの過去を調べるうちに、彼らが昔、フランスやドイツやロシアや東洋で活動していたことが明らかにされる。事件の動機はじつはそこに隠されているのである。

ここまで読んで、この小説を歯科医院という小さな場面からはじめたのは、作者の意図的な選択だったのだろうと考えた。ロンドンは世紀末から二十世紀初頭にかけて、バビロンとも称された国際都市だった。前回レビューをした「フー・マンチューの手」もロンドンを国際都市として描いていたが、「歯科医院殺人事件」もそうなのだ。ロンドンの地図をピンの先でつついたような狭い場所で起きた事件であっても、その背景を探ると国際的な広がりを見せるようになる。本編はロンドンのそのような特性に着目した作品なのだ。捜査の途中でアークライト刑事はこぼやく。
この事件はわたしの趣味からするとあまりにも地理的に広がりすぎているな。中国製のナイフ、容疑者のキャティストックと中国とのつながり。ミラーは過去において南アフリカ、スイス、そしてわれわれの知るかぎり、ドイツとも関係を持っていた。それからさっきの女だ。彼女はロシア人を先祖に持っている。この事件はまだまだ充分に複雑じゃないとでもいうように! まさによりどりみどりだ!
本書ではスコットランド・ヤードは外国の警察と連絡を取り合って、情報を交換しているようだが、ちなみに現在インターポールと呼ばれている組織の原型は、国際刑事警察委員会という名称で一九二三年に設立されている。

ミステリにおける「外部」の設定には、私はいつも興味を惹かれる。このように国際的な広がりに着目する作品においては、外部は外国ということになるが、外国と接触のない、イギリスの片田舎で起きた事件を扱う、ミス・マープルものみたいな作品においても、外部は「都会」とか「大きな町」という形で設定される。そして悪は外部に投影されるのが通例である。私がエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」(本ブログの四番目のレビュー参照)を評価するのは、こういう図式性を壊した形で悪を説明しているからである。映画においても悪の形象、たとえばモンスターとか怪人とかは、外部、たとえば森の奥とか沼の底からあらわれたものだが、ある時期から普通の人の内側から皮膚を突き破って登場するようになった。ああした表現の背後には悪に対する考え方の根本的な変化があるのだろう。

それはともかく、本編の捜査範囲は二番目の殺人と共に一気に広がり、ロシア革命の話まで出てくるのだから、私が最初に抱いたこの作品への印象は見事にひっくり返された。しかしそれでも、犯人を特定するある特殊な要件に気が付けば、ミセス・ミラーを殺す可能性のある人々はきわめて限られてしまうことになり、これが犯人捜しとしては本編をちょっとつまらないものにしている。