2015年9月30日水曜日

12 ハーバート・フラワーデュー 「山荘の怪」

The Villa Mystery (1912) by Herbert Flowerdew (1866-1917)

教科書に載せられてもおかしくないようなお行儀のいい、優等生的な文章で書かれた作品である。文章の第一の役割は達意にあるべきなのだから、その点ではまったく不満はない。しかしこういう文章の作品を読むのは非常に不安である。得てして認識がナイーブで、型にはまった人物造形や、予定調和的な筋立てに陥りやすいからだ。

悪い予感は当たってしまった。この作品にはネヘミヤ・グレイルという金持ちが登場する。おそらく名前からしてユダヤ人ではないだろうか。彼は稀代の強突く張りで、仲のいい友人からも、結婚した妻からも金や宝石をだましとる。じつは彼は大がかりな詐欺事件を起こし、警察は彼を逮捕しようとしていたくらいなのだ。態度は高圧的でぶっきらぼう。すこぶる感じが悪い。しかしユダヤ人の通俗的イメージに寄り掛かったこういう人物設定は、この作品が書かれた頃の時代背景を考慮したとしても、あまり感心しない。

他方、本編のヒーローとヒロイン、すなわち善玉を演ずるほうは、見事なまでにさわやかな若い美男美女である。いやはや。ミステリが登場人物に、こんなにコントラストをつけていいのだろうか。あいつも怪しい、こいつも怪しい、というのでなければ読者は犯人当てを楽しめない。しかし一九一〇年代にはまだこういう素朴なストーリーが存在したのである。

この作品のもう一つの欠点は、教科書的な文章なためにサスペンスが盛り上がらないということである。たとえば静まりかえった夜のロンドンで、ヒーローが警官に見られぬよう物陰に身を潜める場面とか、真犯人が家の中に侵入し、それをヒーローがこっそり見守る場面とか、よくわかるのだけれど、緩急のない、一本調子の文章で、あまり緊迫感を感じない。

しかしこの文章は、説明は得意である。ヒーローが陥るモラル・ジレンマは丁寧すぎるほど丁寧に、わかりやすく説明されている。

筋を紹介する。

ヒロインはエルザ・アーマンディという十八歳の美少女で、科学者だった父親がグレイルに金をだまし取られ、今はもう一文無しという状態だ。物語は彼女がロンドンから汽車に乗ってグレイルに会いに行くところからはじまる。三か月前に亡くなった父親の蔵書を調べていたら、その中に父親がグレイルに六千ポンドを貸した際に交わした借用書が挟まっていたのである。それを盾に彼女は父親が貸した六千ポンドを返してもらおうと思ったのだ。

もちろん我利我利亡者のグレイルが金を返すわけがない。しかも彼はエルザが来たとき、逃亡の準備で大忙しだった。詐欺がばれたため、有り金をバッグに詰め込んでとんずらしようとしていたのである。

しかしエルザとしても追い返されて、はい、そうですかとは引き下がれない。なにしろ手許には六ペンスしかないのだから。彼女は意を決して屋敷の中に忍び込み、グレイルの書斎に入り込む。そしてそこにあった金の詰まったバッグをひったくり逃げ出すのである。

彼女が逃げ出してすぐのことだ。食事部屋に入った召使いが主人グレイルの死体を発見する。銃で撃たれ、なぜか足を骨折していた。

警察はグレイルに会いに来た謎の少女が犯人ではないかと、彼女の捜索に乗り出す。ところが事件が起きた頃グレイルの屋敷にはもう一人の女性がいた。それがグレイルの妻である。妻は宝石をグレイルにだまし取られてから家を出ていたのだが、召使いから宝石の隠し場所を教えられ、グレイルが殺害される晩、こっそりと家の中に入っていたのだ。

さて、犯人はエルザなのか、グレイルの妻なのか。一方の無実が証明されれば、他方の容疑が濃くなる。グレイルの妻の息子、つまりグレイルのまま息子であるエズモンドは、逃亡中のエルザと恋に陥るのだが、母の無罪を主張することにも、恋人の無罪を主張することにも躊躇する。このあたりの心の揺れ動きは、よくわかるように書かれているのだが、優等生的な説明口調で書かれていて、なんだかカントのアンチノミーの解説でも読んでいるような気分になった。

このアンチノミーを解消する方法はただ一つ。第三の人物、母でも恋人でもない真犯人を捜すしかない。そしてここでまたこの作品の弱点を指摘することになるのだけれど、殺された我利我利亡者グレイルのほかに、憎々しげな登場人物は一人しかいないのである。ヒーローとヒロインは真犯人を知って驚くけれども、読者は作品の三分の一を読んだ地点でその男に目星をつけ、読み進めば読み進むほど、その男が犯人だと確信するだろう。善人は善人らしく、悪人は悪人らしく描かれるという単純さが、最後までたたる一作である。

2015年9月25日金曜日

11 H.C.ベイリー 「ガーストン殺人事件」

The Garston Murder Case (1930) by H. C. Bailey (1878-1961)

本編の主人公クランク氏はロンドンにクランク・アンド・クランクという法律事務所を構える弁護士である。いたって気のいい人物で、にこにこ笑顔を浮かべ、小唄をしょっちゅう口ずさみ、糖尿病になりはしないかと思うくらい甘いものを食べている。もう結構お年のようで、彼自身は新聞種になるような有名事件でなければ裁判所で弁護をすることはないようだ。しかしいったん法廷闘争となると、普段の穏やかな彼からは想像もつかないような烈々火を吐く弁論が飛び出してくる。

クランク氏は犯罪者の弁護を積極的に引き受けるため、スコットランド・ヤードにはすこぶる評判が悪い。しかし彼は悪徳弁護士というわけではない。 

この小説で驚くのは警察の捜査のずさんさである。もちろん一九三〇年頃のイギリスの警察がどんな捜査をしていたかなど、私は知らないし、この小説が当時の捜査方法を忠実に反映しているとも思わないが、とにかく素人目に見ても無理筋と思えるような捜査、逮捕をしているのである。なるほどビリー・ボーンズは名代のコソ泥で、ミス・モローの宝石箱が紛失したときおなじホテルに泊まっていた。警察が怪しいと思うのは当然であるし、捜査をするのは彼らの義務だろう。しかし怪しいだけで逮捕はできない。クランク氏はビリー・ボーンズの弁護をして、警察になんら物的証拠がないことを突き、無罪を勝ち取る。当然のことだ。

また警察は証拠をつかんでいるわけでもないのにとある男の身柄を拘束したり、べつの女性に向かって「おまえが殺人犯じゃないのか」というようなことを言う。確かに彼らは不審な行動を取っているし、実際に犯罪をやらかしていると思われる。しかし警察には何の証拠もないのである。だからいずれの場合もこっぴどく容疑者から反論されてしまう。

クランク氏はこういう粗雑な警察の捜査を批判する形で物語に登場する。本来なら警察は彼らの不備を指摘するクランク氏に感謝すべきなのだが、警察が自分たちを批判する人々を悪とみなすのは大西洋の彼岸と此岸、あるいは洋の東西を問わないようだ。

クランク氏は警察の手法のまずさを指摘するだけでなく、彼らの捜査が間違った方向を向いているときはそれを正しさえする。たとえばミス・モローの宝石箱が盗まれたとき、警察は盗んだ人間にばかり注目するのだが、クランク氏は宝石箱には手紙が入っていたこと、手紙を必要としていた人間は誰なのか、それが事件を解く重要な鍵になることを、裁判の場でそれとなく警察に教えるのである。

まるでクランク氏は警察の先生のようである。彼は警察に捜査のあるべき姿を示し、推論する際の慎重な態度を教え、彼らの誤解を正す。クランク氏は彼が見抜いている事件の真相を決してそのまま警察に明かすことはない。すぐれた教師が生徒に対してするように、ヒントのみを与えてできるだけ生徒自身に考えさせ(「頭を使いたまえ」とクランク氏は何度も言う」)、生徒が自分の力でゴールにたどり着けるようにしむけるのだ。しかしいかんせん警察はできの悪い生徒であって、なかなか先生の意をくむことができない。そこでクランク氏はときにはわざとらしい手を使って警察を動かしたりもする。たとえばクライマックスの直前には、意図的に大声を出して自分の行く先を警察に教え、自分の跡を追跡させる、という場面がある。あそこでは、クランク氏は警察に黙ってフォークストンに向かってもよかったのである。彼には優秀な手下が何人もいるのだから。しかし彼は警察を動かしたかった。あくまで警察に捜査をさせさたかった。本来なら生徒に時間を与えてじっくり考えさせるべきなのだろうが、あの場合はこのチャンスを逃したら事件は迷宮入りするという重要な局面だった。それなのに警察は何も気がつかずにのほほんとしている。先生としては芝居じみた真似をしてでも生徒を外に引っ張り出すしかなかったのである。

探偵と警察が別個に事件を捜査する、という物語はたくさんある。クライマックスで探偵が警察の思いも寄らなかった真犯人を指摘する、という物語も多い。以前このレビューでジョン・T・マッキンタイアの「美術館殺人事件」という作品を紹介したが、あれなどはその好例である。警察が間違った人間を逮捕し、探偵は逮捕された男の無実を証明するために真犯人を捜し出すという話だ。こういう物語では探偵と警察が対立的に描かれる。しかしクランク氏は警察に嫌われているにも関わらず、決して警察と対立しているのではない。それどころか教師として彼らを導いているのである。これが「ガーストン殺人事件」を読んで私が気がついたいちばんの特徴である。

気がついたら作品の内容に触れるスペースがほとんどない。簡単に記す。ある発明家が特殊な製鋼法をあみだしたのちに行方不明になる。その後とある会社がそれとおなじ製鋼法を使って鋼鉄をつくるようになる。当然会社は、発明を盗用したのではないかという疑いをかけられた。しかし会社は、社長の息子の一人が研究中に見つけた製鋼法を使っているだけで、盗用したのではないと答える。異なる人間が同時に同じ発明を行うということはままあることだ。しかし本当にそうなのか。二十年後、発明家の息子が成人し、父親の死に疑念を抱くことからこの物語ははじまる。作者はミステリ黄金期の立役者の一人だ。重厚で味わいのある作品だと思う。

2015年9月22日火曜日

番外2 愛の関係性とキム・ギドク

1 配置と内面の関係

人間には感情があり、意思があり、主体性があるといった議論に対して、感情や意思はその人が置かれた象徴的な配置、関係性から派生するという主体を否定した考え方がある。私は後者の考え方に興味があり、Death of A Puppeteer のレビューの中で「人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識」についてちょっと触れたのも、そのためである。

たとえば恋愛感情は心の内奥から発せられるものと思われているが、関係性から内面が派生すると考えるなら次のようになる。

われわれが住んでいる空間にはさまざまな人間関係が用意されている。親と子の関係、債権者と債務者の関係、先生と生徒の関係などなど。恋愛関係もその一つで、要するにAという場所とBという場所が存在し、Aという場所はBという場所に「わたしはあなたを愛している」というメッセージを伝え、Bという場所はAという場所にやはり「わたしも愛している」というメッセージを発していると考えればいい。肝心なのは場所がメッセージを発しているのであって、人間は関係ないという点である。

この場所をなにかの偶然で人が占めるようになる。するとAの位置についた人とBの位置についた人のあいだに恋愛関係が生まれる。

これが、感情は配置から派生する、という意味だ。

このとき二つの誤認が生じる。

一つの誤認は、「愛している」というメッセージは場所が発しているにもかかわらず、その場所を占めている人間が、自分の内面から発せられたメッセージであると誤解することである。誤認ということが最初に述べた「感情や意思はその人が置かれた関係性から派生する」ということの意味である。

もう一つの誤認は、AやBという配置に人間がつくのはまったくの偶然なのに、いったんその配置についた人間には、それが必然的な結果のように思われるということだ。すなわち、わたしが彼・彼女と出会ったのは運命の導きであったというように。人間が恋愛関係に陥ることは偶然であり、理不尽な事故であるのに、そこが彼・彼女の人生を意味化する中心点になってしまう。

2 配置の多重性

キム・ギドク監督の「悪い男」には、浜辺に座る恋人の写真が出てくる。ただし恋人たちの顔の部分は切り抜かれている。恋愛から人間的実体を取り除き、恋愛の配置だけが残された写真である。映画を見た人は知っているだろうが、主役であるチンピラの男と女子大生の愛情は、二人の顔がこの写真の空白にぴたりとはまりこんだ瞬間に成立する。

しかしキム・ギドクがこの映画で問題にしているのは、人間が恋愛関係という配置につく、その偶然性のほうである。つまり、恋愛という配置につけば、二人の間には機械的に恋愛が成立するが、この二人帯びている特性が、恋愛関係にそぐわしくない場合もあるということである。それが「悪い男」というタイトルの意味だ。チンピラの男は通常の意味においては、女子大生が恋愛をするような相手ではない。本来なら憎むべき、いとわしい存在である。しかし両者がある関係にはまりこめば、そんな二人の間にも恋愛は成立する。極端に言えば、殺し・殺されるという関係にある人間同士が愛し・愛されるという関係にはまりこめば、その双方の関係が同時に存在することになる。Death of A Puppeteer には「日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す」と書いてあった。

人間は社会空間、象徴空間においてさまざまな関係性を他者と有しているが、その関係性を調節するような一段上の機能は誰も何も持っていない。人間がどのような配置につくかは、完全な偶然にまかされている。それゆえ関係性の関係が極端と極端の重なり合いとなることもありうるのだ。恋愛映画が量産される韓国において、キム・ギドクの作品はとりわけ悪意に充ちているが、それは彼の(1)愛は男と女の相互認識の上に成り立つものではなく、誤認の上に、機械的に成立する(2)恋愛関係は、愛とはまったく逆の、暴力的な関係と合致することもあり得る、という認識に由来する。

3 ファンタジー

キム・ギドクは「空き家」においてこの認識を三者関係としてもう一度描いている。

「空き家」の主人公である若い男は、留守宅を探して、家人が戻ってくるまでその家に住み込むことを繰り返している。ものを盗むわけではない。ただそこで生活し、家の人が帰ってくる前に家を出るだけだ。出るときは汚したものをきれいに洗濯し、家具の配置も正確に元通りに戻す。さらに壊れた玩具や時計を修理していく。すなわち「部品間の配置の調整」を行うのである。

この主人公がある家で発見したのは、壊れた夫婦関係だった。金持ちらしきその家の主人は、いっこうに自分を愛そうとしない美しい妻に物理的暴力をふるう。妻の身体はその暴力で痣だらけだ。この映画の眼目はいかにして壊れた愛情関係が修復されるかという点にある。キム・ギドクの答はいつもながら残酷だ。彼は壊れた玩具や時計のように直せばいいという。なぜなら愛情とは正しい恋愛の位置に人間を配することなのだから。

若い男と逃避行に出た美しい妻は、次第に男に気を惹かれていく。結局若い男は警察に捕まり、美しい妻は暴力的な夫の元に帰されるのだが、刑務所の中で自分の気配を消し、幻と化す術を会得した若い男は、こっそりと真夜中に彼らの家に忍び込む。鏡を見ていた美しい妻は、自分の背後に若い男がいることを知る。(別の言い方もできるだろう。彼女は鏡の中の自分を見つめる。そして自分の中に理想の恋人を見出す)彼女が振り返ったとき、たまたまそこに夫があらわれ、彼女と若い男を結ぶ直線上に立つことになる。そのときに妻は「愛しているわ」と言うのだ。夫はその言葉が自分に発せられたものと勘違いし、感激する。夫は妻をかき抱くが、妻は夫の肩越しに幻のような若い男と接吻を交わしている。

翌日の朝、夫婦は向かい合わせにテーブルに座って食事をする。妻は夫に笑顔を向けるが、じつは夫のすぐ背後には若い男が立っているのだ。彼女は若い男に向かって愛を表現しているのだが、夫はそれを自分に向けられたものと誤解する。

  この三者の配置こそが恋愛関係の配置、「悪い男」に見られたモデルよりもはるかに精緻なモデルである。女は理想の恋人に向かって愛をささやく。しかし女と理想の恋人を結ぶ直線上には穴が開いていて、その穴に誰かが偶然はまりこむと、女はそれを理想の恋人と誤認する。穴にはまり込むのが誰であろうとかまいはしない。ドメスティック・バイオレンスの常習犯であろうが、けちなチンピラであろうが、熱愛の対象になってしまうのである。しかし愛はつねにすれちがいであり、誤認である。

若い男はこのような配置、すなわちジャック・ラカンの言うファンタジーを巧みに構成することで壊れた愛を回復させたのである。彼の趣味はゴルフだが、彼がやったことはまさに暴力的亭主というボールを、恋愛関係を成立させる正しい配置の穴に落とし込むことだった。





4 キム・ギドクの不幸

アン・ソンギはキム・ギドクから「サマリア」という映画に主役で出てくれないかと問い合わせがあったとき、すぐさま断ったという。「サマリア」は援助交際をしている娘を父親が殺すという話だが、アン・ソンギは韓国においてはそのようなことは文化的に起き得ないと返事をしたそうだ。キム・ギドクはそれはあり得ると考えている。それは単に配置の問題である。韓国的な親子の関係が、殺し殺されるという関係に重なることは、関係の偶然性を考えるとき、ありえないこととはいえない。それどころか、それこそわれわれ人間の生のありようであると認識すべきである。

普段親切でやさしい人間が残虐な人殺しを行い、新聞をにぎわす。人間に内面があると考える人々は、このような両極端の一致を、病的で異常なものとみなすだろう。しかし人間の主体性を否定する考え方からすれば、そのような一致はわれわれの生を構成する条件からして、当然生じ得ることである。逆にヒトラーのような男が毎日大勢の人を虐殺しながら、しかし夕方家に帰って情愛あふれる、人間的な行為を行っているかもしれない。それも少しも異常なことではない。私の知り合いが、世界の誰もが知っているある億万長者に出会い、そのいい人ぶりに感銘を受けたなどと言っていたが、私に言わせれば彼は認識が甘い。

しかしキム・ギドクや私のような考え方は一般的には受け入れられない。儒教思想の色濃い韓国において主体性を否定するのはヒロイックな振る舞いではあるけれど、そして私は「悪い男」も「空き家」も傑作だと思うけれど、キム・ギドクはそれなりに痛い代償を支払わなければならなかった。

2015年9月19日土曜日

10 ハロルド・マクグラス 「青いラージャ殺人事件」

The Blue Rajah Murder (1930) by Harold MacGrath (1871-1932)

ハロルド・マクグラスの「御者台の男」という小説には次のような場面がある。ある金持ちのお嬢さんの持ち馬の一匹が突然暴れだし、厩舎の男たちは誰一人それを鎮めることができない。そこに最近厩務員になったばかりの若い男が登場し、その胆力と勇気で見事に荒馬を取り押さえ、手なずける。それを見ていた金持ちの生意気なお嬢さんは「やるわね」とその男に惹き付けられる。

さて本書「青いラージャ殺人事件」は次のようにはじまる。主人公である若い男が川で鱒を釣ろうとする。それをその川の所有者である若い女がこっそり見ている。男は彼女の目の前でこともなげに「川の主」と呼ばれる巨大な鱒を釣り上げる。女は「わたしが何度も釣り損なったあの魚を!」と愕く。

ハロルド・マクグラスは動物をダシにして人間の男と女を引き合わせるのが好きらしい。

それはともかく、私がこの冒頭のエピソードを読んで思ったのは、これはミステリの筆法ではないということだ。本書はザ・クライム・クラブから出されたものだが、明らかにロマンスかロマンチックな冒険小説の書き方をしている。

ハロルド・マクグラスは一八九九年に「武器と女」という作品を出して以来、ロマンスや冒険小説を書き、ベストセラー作家としての地位を築いてきた。しかし彼が書くものはメロドラマであって、一九三〇年にダブルデイから出た「青いラージャ殺人事件」はザ・クライム・クラブの一冊とはなっているものの、ミステリ的な要素を軽く添えただけの古い冒険小説と言っていいだろう。

しかし物語の最初でそれがわかったのはもっけの幸いだった。ああ、そういう話なのね、と覚悟を決めて読むことができたからだ。覚悟さえできていれば「彼女はキスを盗まれたのに、相手の頬に平手打ちすら加えなかった。なぜなら彼女は彼を愛してしまっていたからである!」みたいな文章を読んでも本を、いや、タブレットを壁に向かってぶん投げることはない。

この作品は前後二つに分かれている。前半部分は主人公のジョン・ウィラードが、青いラージャと呼ばれるインド由来の宝石をとある金持ちから盗み取る話だ。いや、盗み取るというのはちょっと違う。なぜならその宝石はもともとウィラードの父親が所有していたもので、それを父親の親友だった金持ちが勝手に持っていってしまっていたのである。ウィラードは自分の正体を隠して金持ちの家に行き、夕食の席で見せられた本物の青いラージャを手品師よろしく偽物とすり替え、その晩こっそりと車で逃げ出す。

ところが、その車の音を聞きつけて寝室から出てきた金持ちの娘エルジー(鱒釣りの場面に登場した女だ)は、青いラージャを納めた金庫の前に、父親が死んで横たわっていることを発見する!

当然、この状況なら、誰もがこう判断するだろう。金庫を開けた金持ちをウィラードが殺害し、青いラージャを盗んで車で逃げた、と。警察は殺人事件として大々的な捜査を開始する。

あまりにもくだらない話だからばらしてしまうけれど、真相が分かってみれば、体調の悪かった金持ちは金庫を開けたときに急死し、倒れたときに火かき棒に頭をぶつけ、あたかも誰かになぐられたような外傷がついたというだけなのだ。ウィラードは宝石の正当な持ち主ということがわかり、さらに美しい娘エルジーと結婚し、すべてめでたしめでたしで前半は終わる。ばかばかしい。

後半部分では、ウィラードが青いラージャを盗まれる側にまわる。青いラージャなど銀行にでも預けておけば安全なのに、愚かしくもウィラードはニューヨークの自宅の壁金庫にそれをしまっていた。それに目をつけた悪党どもは、ウィラードもエルジーも召使いもみんな捕らえて縛り上げ、悠々と壁金庫を壊して青いラージャを盗んでいく。しかし最後にエルジーが意外な告白をし……まあ、そこは読んでのお楽しみにしておこう。

正直に言って、この本を真面目に最後まで読むのは苦痛だった。知的な刺激がまったくないわけではない。たとえば冒頭の鱒釣りの場面で、ウィラードは川の主を釣り上げた瞬間にエルジーに声を掛けられ、びっくりして愛用のパイプを落とし、なくしてしまう。これは彼にとっての「好ましいもの」が、パイプからエルジーに取って代わられたことを暗示している。「好ましいもの」という位置に置かれていたものが、玉突きの玉のように別のものに置き換えられたのである。後半部分を読むと、「好ましいもの」の位置にいたエルジーがいつの間にか青いラージャに取って代わられていることが分かる。エルジーがいつも鬱々としているのはそのためだ。後半は青いラージャの争奪戦のように見えるが、本当の主題は「好ましいもの」の位置をめぐる、宝石とエルジーとの戦いである。配置をめぐる争いという観点から読めば多少はこの物語に興味が持てるかもしれない。しかしそれでも私はロマンスが苦手だ。

アメリカの女性はこの手のものが大好きで、知り合いの中には分厚いロマンスのペーパーバックを、いつも鼻を突っ込むようにして読みふけっている人もいるんだけれど、飽きが来ないのだろうか。ウィラードは戦争中は空軍のエースで、金持ちで、ピアノの腕は玄人はだし、スポーツは万能(のようだ)。そんなリアリティーのない男のどこがいいのだ? 腹が立つだけじゃないか。

2015年9月16日水曜日

9 ウィリアム・グレイ・ベイヤー 「人形師の死」

Death of A Puppeteer (1946) by William Gray Beyer (? - ?)

元軍人の友人に連れられて射撃場で拳銃とライフルを撃ったことがある。銃に触るのはそれが初めてだった。言われるとおりに狙いをつけて撃ったところ、双眼鏡で弾の当たり具合を確認していた友人に「初心者にしちゃ狙いが正確だ」と言われた。あの時思ったのは、火器というのはいくら安全装置がついていてもアブナイものだと言うことだ。銃は片手で操作ができるようになっている。それは誰にでもできる簡単な操作だ。子供が親の銃でいたずらして命を落としたり、兄弟に大けがをさせるのも当然だと思った。

この小説の主人公は銃の専門家で、物語は彼が友人の家へ週末を過ごしに行くところから始まる。この友人は劇作家なのだが、銃が趣味で、射撃場だけでなく、銃の性能を測るいろいろな器具まで持っている。二人の会話には専門的な銃の用語がぽんぽん飛び出すのだが、それを読んで私は「ああ、アブナイ、アブナイ」とひたすら思った。スパイ小説の中でプロの暗殺者が銃を扱うというならともかく、ミステリの中で素人が銃をもてあそぶのを見るともう先が見えている。案の定劇作家は銃の暴発で死んでしまう。しかし事故ではない。誰かが彼の銃に細工をしたのだ。

この劇作家リンカーン・フォレスターは、日本の坂田藤十郎という役者をちょっと思い出させる。藤十郎は好きでもない女を好きになった振りをして、恋した女がどんな表情・仕草をするか研究したという話があるけれど、リンカーン・フォレスターという劇作家は身近な人々を彼の家に招待して一堂に集め、かつさまざまな葛藤を彼らに与えてその結果どのような人間的化学反応が起きるかを観察しようとした。呼び寄せたのは年若い姪夫婦、法律家夫婦、リンカーンが肉体的関係を持っているらしき人妻とその夫、リンカーンのエージェント(アメリカには作家と出版社をつなぐエージェントというものが存在する)、さらに最初にあげた銃の専門家であるクリフ・パークである。リンカーンは遺書の変更、つまり財産を遺贈する人を変更するように見せかけたり、エージェントを首にすると言ってみたり、不倫関係の暴露をちらつかせたりして客の一人一人に厭らしく「圧力」をかけたのだ。そして彼らの反応をよく見て新作の劇に生かそうと考えたのである。タイトルの「人形師」とは、客を人形のように操ろうとしたリンカーンのことを指す。

その危険な実験の結果、彼は銃に細工を施され命を失う。客たちからすれば「ざまあみろ」というところだが、一応犯人はきちんと突き止めなければならない。そこで地元の警察署長の登場となるのだが、その捜査の最中に第二の殺人が起き……。

筋を詳しく説明するのは控えるけれども、大きな屋敷にたくさんの人が集められ、連続殺人が起きるという、ミステリの本道を行くような作品である。ちなみに探偵役はすでに述べた銃の専門家であるクリフ・ハンター。警察は、愛する女性をかばって自分が犯人だと名乗りを上げた男を逮捕するが、彼が犯人でないことを知っているクリフ・ハンターはその専門知識を活用したり、罠を張ることによって真犯人を見出す。

ごく普通の作品でこれといった印象もない。ただ、二点、注意を惹く部分があった。一つは、「人間には性格というものがあって、犯罪は暴力的な性格の人間によって引き起こされる」と考えるある登場人物に対し、クリフ・ハンターは、「人間はすべて暴力的である、日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す、われわれは戦争をはじめた人間を非難するが、大義を背負って人を殺すことに野蛮で残忍な悦びを感じるものだ」と語る。人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識を、ハンターは戦争から得た。このことは記憶に留めておくに価すると思う。

もう一点。物語の最後では、例によって探偵役のクリフが解説を加えながら事件を振り返ってくれるのだが、そこで登場人物の真意が歪んだ形で言語化されたり、誰が聞いても特定の意味しか持ち得ないと思われる言葉が、犯人にだけは別様に受け取られていたり、また聞き間違った言葉がじつは真実をあらわしていたことが明らかにされる。この表現やコミュニケーションに潜むねじれや歪みの現象はまさにフロイト的で、面白い着眼点だ。ヘンリー・カットナーの The Murder of Eleanor Pope を扱ったときにも書いたが、ミステリと精神分析の間には奇妙な類似がある。それが本作のような無名の作品の中にも見られるのである。けれども、残念ながらその問題性が作品全体の中で追求されているとは言えない。

この作者は生年も没年も確認できなかった。ウィキペディアにはドレクセル・インスティチュート(現在のドレクセル大学の前身)を苦学して卒業し、その後タクシー運転手やセールスマンや警察の仕事を転々としながら一九三九年から一九五一年にかけて「アーゴジイ」などのパルプ雑誌に作品を寄稿していた、とある。

8 ヴィクター・マクルーア 「ドアの向こうの死」

Death Behind The Door (1933) by Victor MacClure (1887-1963)

ミステリにおいて建築物は大事な役割を果たすことが多い。

以前、私はジョン・ミード・フォークナーの「雲形紋章」を紹介したが、そこにおいてカラン大聖堂の建築学的「接ぎ木」構造が、その土地を支配するブランダマー家の家系の「接ぎ木」構造を暗示しているのだと書いた。カランの社会の隠された秘密が建築物によって堂々と人々の目の前にさらされていたのだ。オルガン奏者やマーチン・ジョウリフのように古文書を必死になってあさらなくてもいい。真実は物質的な外形にあらわれている。

メアリ・エリザベス・ブラッドンの「オードリー夫人の秘密」を訳した際、私は小説の中に出てくる二つの建築物に着目して解説を書いた。いつか別の機会に番外編で書こうと思うけれども、私はこの二つの建築物に「オードリー夫人の秘密」を構成する二つの論理が明快に表現されていると考えた。

「ドアの向こうの死」にもきわめて興味深い建築物が登場する。一言で言えば、それは男同士の友情、男同士の共同体を表現したものなのである。女性的な装飾性を一切排し、簡素で禁欲的な構造を持つ屋敷、まるで地面の下から生えてきたように見えるくらい、周囲と調和した家、スコットランド・ヤードの名警部アーチー・バーフォードが一目見てそこに住みたいと思うような、完璧な「男の」建築物なのだ。

この屋敷を設計したのはルーパート・カイルという男だった。彼は浪費癖もあって、金銭的には恵まれない生活を送ってきた。いろいろな職業を転々とし、今は推理小説も書いている。彼を金銭的な面で援助してきたのが屋敷の主グレイム・ウエイクリングで、ルーパート・カイルは彼に非常な恩義を感じている。

ルーパート・カイルは世間的には名を知られていないが、しかし一個の芸術家である。そして芸術家の例に漏れず、ある強固な信念を持っていた。彼は、男同士の共同体とその純粋性をこの世の最高のものと考え、女性を蔑視していたのである。

この作品はアリバイ崩しが主眼になるから犯人の名前を言ってしまってもいいだろう。
事件は、ルーパート・カイルが、自分の創作物である屋敷に女性的な要素を付け加えられることを絶対的に拒否したことから起きる。彼は彼の親友であるグレイム・ウエイクリングのためにこの屋敷を設計した。ウエイクリングが住む場所としてこの屋敷は完璧であるし、ウエイクリングもここを気に入っている。しかしウエイクリングが死んだら屋敷は縁者の女性エドナ・ケインの手に渡ることになる。あるいはウエイクリングがケインと結婚するという事態に立ち至る可能性もないわけではない。しかしいずれの場合においても屋敷は女性によって変更を加えられ、男性原理は乱されるだろう。女性を男性よりも一段低い存在と見なす建築家にはそれが耐えられなかった。男を悩ます女、男の純粋性を汚す女が許せなかった。

そこでルーパート・カイルはエドナ・ケインを殺そうとして屋敷のクロークルームに細工をする。ドアを開けるとライフルが倒れかかり、思わず彼女がその銃口をつかんだとたん、つまり銃口が彼女の体に向かっている瞬間に、床の裂け目から通した紐で地下室にいるカイルが引き金を引くという寸法である。それがうまくいけば彼女の死は自殺か事故死にみせかけることができるはずだった。ところが計画は破綻した。エドナ・ケインはクロークルーム来ず、かわりに彼の親友であり、屋敷の持ち主であるグレイム・ウエイクリングがドアを開けたのだ。カイルは男の共同体の純粋性を保とうとして、逆にそれを破壊してしまったのである。

もちろんここに単なる女性蔑視、ショービニズムの個別的実例を見てはいけない。男と女、陰と陽というものはアリストテレスの昔から哲学的主題だった。シェイクスピアもたとえば「冬物語」においては、ユートピア的男性共同体と女性との関係を問題にしているし、先ほどちらと名前を出した「オードリー夫人の秘密」も男性的な原理と女性的な原理の対立を描いていると見ることも可能だ。この屋敷の問題性は哲学、文学、社会学など多方面にわたる歴史的な議論と関連させて考えるべきものだろう。ついでに言うと、「オードリー夫人の秘密」を読みながら私が考えたのは、女性原理なるものは男性原理が行き詰まった地点に捏造されるものではないかということだ。

私にはこうした興味があるので「ドアの向こうの死」を非常に面白く読んだ。

この作者の本名はトム・マックウォルター(Thom MacWalter)といって探偵小説やスリラー、さらにSFも書いている。すばらしい文章家だ。とりわけスコットランド・ヤードの警部アーチー・バーフォードがこの事件を他殺であると証明するくだりは圧倒的な迫力である。事実と事実を論理によって結び合わせ、疑問の余地のない結論へと導いていく手際のよさは、作者が並の書き手ではないことを証明している。

さらにこの作品が通常のミステリの展開をわざと踏み外している点もよい。アーチー・バーフォード警部はルーパート・カイルこそ犯人に違いないと考え、その証拠を必死になってかき集めようとするのだが、結局彼は失敗するのだ。彼の犯罪を物的な証拠によって証明することができなかったのである。バーフォード警部が捜査の結果を上司に報告し、上司が警部を「仕方がないね」と慰める場面を読んだとき、私はショックを受けると同時に、その新鮮さにさわやかな風が吹き抜けたような気分になった。この作者の作品は必ずすべて読まなければならない。

2015年9月9日水曜日

7 ヘンリー・カットナー 「エレナー・ポープ殺人事件」

The Murder of Eleanor Pope (1956) by Henry Kuttner (1914‐1958)

この小説が面白いのは、現実の殺人事件の捜査と、その犯人かもしれない男の精神分析が同時に進行する点である。

殺人事件というのはエレナー・ポープという女性がサンフランシスコのとある賭博場を出たあと、暗がりで撲殺されたというものである。財布から金が盗まれていないことから単なる物取りの犯行ではないだろうということになっている。

事件が起きてすぐに精神分析医マイケル・グレイのもとにハワード・ダンという男が訪ねてくる。彼は精神状態が不安定で、マイケルに治療をしてもらいたいのだ。直らないと妻の兄、つまり義理の兄に施設送りにされると怯えている。

ハワード・ダンは決して狂人ではないが、ひどく不安定で、時々錯乱したようになる。グレイは彼の家族が治療に協力することを確認してからダンの分析に取りかかる。

さて、このハワード・ダンは殺されたエレナー・ポープと非常に深い関係にある。まずエレナー・ポープは先ほど述べた義理の兄の奥さんだった。次にダンはエレナーと肉体的関係を持っていた。ダンは義理の兄を父親のように見なしていたので、精神分析の知識のある人ならここにエディプス的な関係が潜んでいることを見抜くだろう。つまり義理の兄(父)、エレナー(母)、ハワード(子)という関係である。

さらにエレナーは賭博中毒とでもいうものにかかっていて、ダンから金をせびり取っていた。そしてもしも金を渡さないなら、自分たちの関係を義理の兄にばらすと脅したのである。つまりハワード・ダンはエレナーを殺す動機を持っているのである。

しかしダンは本当にエレナーを殺したのだろうか。グレイのオフィスで展開される分析治療は、その興味のために異常なサスペンスにあふれている。ただし、ダンが安楽椅子の上で語ることはきわめて混乱している。ダンと妻の関係、ダンと父の関係、ダンと義理の兄の関係、さらにダンとエレナーの関係が重層的に重ねられ語られるからだ。さらに無意識のうちに彼はある事実から目を背けており、それを頑固に語ろうとしない。

そのためこの場面では読者に辛抱と冷静さが要求される。わかりにくいと本を投げ出さずに、そのわかりにくさを心に留め置いて、後の解決を待たなければならない。

グレイが最後に語る殺人事件の全貌とハワード・ダンの心理パターンの説明は、理論的な洗練さを欠いていて、充分満足のいくものではないが(とくにダンの特殊な性的傾向を指摘するくだりは説得的ではない)、しかしジャンル小説としてはまずまずの出来だと言えるのではないか。

私は一九五〇年頃のアメリカに於ける心理分析がどのように行われていたかまったく知らない。おそらくここに描かれている治療のやり方は、実際とは大いに異なるのではないか。しかしそれを言ってこの作品をとがめるのはヤボというものである。ミステリはゲームであって、この本に提示されているゲームの規則に従ってわれわれは遊ぶべきなのである。

しかし心理的な推理と、物的証拠から展開される演繹的推理の相性の悪さはこの作品にも見られる。心理的な推理はどうしても「そうも考えられるが、証拠がない」となってしまう。決定力が不足しているのである。

精神分析学の開始とミステリ隆盛のきっかけが歴史的にほぼ同時期ということもあって、両者の間には少なからぬ縁があるのだけれど、精神分析の論理とミステリの演繹論理を組み合わせた作品というのはそんなに多くない。それがめざましい効果を上げている作品となると、少なくとも私は目にしたことがない。逆に精神分析学者がミステリ作品を読み解くときに、興味深い議論が展開されるようだ。たとえばジャック・ラカンがポーの「盗まれた手紙」を分析した論文とか、スラヴォイ・ジジェクのスティーブン・キングやパトリシア・ハイスミスの作品分析などはじつに鋭く興味深い。いったいこの非対称性はなんなのだろう。案外深い意味がありそうな気がする。

作者のヘンリー・カットナーはロサンジェルスに生まれたアメリカ人。SF作家かと思っていたら、精神分析医マイケル・グレイを主人公にしたミステリを四冊書いているようだ。本書の他のタイトルは
The Murder of Ann Avery (1956)
Murder of a Mistress (1957)
Murder of a Wife (1958)
である。作者が心臓発作で死ぬ直前に書かれた四編の長編小説はみなミステリだ。もう少し長生きをしていたらもっとミステリを書いていたかもしれない。残念だ。

2015年9月5日土曜日

6 フォックスホール・デインジャーフィールド 「陽気な九十年代殺人事件、あるいはヴィクトリア朝的犯罪」

That Gay Nineties Murder Or, A Victorian Crime (1928) by Foxhall Daingerfield (1887-1933)


これはダブルデイの「ザ・クライム・クラブ」から出た作品。

表題の gay nineties というのはウィキペディアによると一八九〇年代をノスタルジックに指すアメリカ英語で、イギリス英語の naughty nineties にあたるようだ。引き続きウィキペディアから引用すると、九〇年代はビアズレイのデカダンな絵、ワイルドのウイットの効いた劇と彼の裁判、上流社会のスキャンダルと婦人参政権運動の開始などに彩られた十年である。アメリカでこの用語がつかわれるようになったのは一九二〇年代で、リチャード・V・カルターが雑誌「ライフ」に the Gay Nineties と題する一連の絵を載せたことがこの言葉が流布するきっかけだったらしい。カルターがその絵を本にまとめて出版したのが一九二七年だから、デインジャーフィールドはその翌年にこの流行語をタイトルに取り入れたミステリを出版したわけだ。彼の幼年期が九〇年代だから、案外なにかの思い入れがあったのかもしれない。

本書の事件が一八九〇年に起きるためか、文体も回りくどくて、大げさで時代がかっている。おまけに主人公で探偵役のミス・コーネリア・ハンターはこの頃の上流婦人の例にたがわず、なにごとをするにもゆっくり時間をかける。今の人間のようにせかせかしてはいないのだ。そこで読むほうも覚悟を決め、のんびりとした気持ちでヴィクトリア朝的犯罪なるものを愉しまなければならない。

しかしこの本は読んでいてあくびを連発するようなしろものではない。事件の背後で何が起きているのかを見抜くことは相当に難しい。私は最後の数ページで明かされる真相に、ああ、そうかと思わずつぶやいた。分かってしまえば、なるほど十九世紀後半に流行っていた、メロドラマ的な小説の中にこういうのがあったな、などと思い当たることも多々出てくるのだけれど。

さて、事件は一八九〇年六月、ケンタッキーのハリスヴィルという片田舎で起きる。主人公のミス・コーネリア・ハンターは四十過ぎの未婚女性で黒人の召使いとともに一人大きな屋敷に住んでいる。暑苦しい、いやな日々がつづくある夕方、隣のアップルドア家で悲劇が起きた。アップルドア家の主人は絨毯を売っている商売人で、奥さんと娘さん二人、さらに商売の手伝いをしている若い男がいっしょに住んでいる。その娘さんのうち、年若いほうが自殺をしたのである。

家族によると自殺の原因は「報われぬ恋」ではなかったかと言う。彼女はもと医学生で今は父親の商売を手伝っているエルティンジという青年に恋をしていたのだが、エルティンジは彼女ではなく彼女の姉を愛していたのである。死因審問でも彼女の死は自殺と結論された。

しかしコーネリア・ハンターはこの事件に奇妙な印象を抱いていた。第一にエルティンジが彼女の家に来て異変を知らせたとき、死んだ娘は「殺された」と言っていたからだ。第二に、慌てて現場に駆けつけた彼女は、娘の額が銃で撃ち抜かれているだけでなく、そこが酸のような薬品で焼けただれているのを見た。死体のそばには自殺に使ったと思われる銃が転がり、手には薬品の瓶が握られていた。娘は酸を飲み、それから額を打ち抜いたのか? その際に薬品が額にもかかったのだろうか。さらに現場には薬品の瓶のラベルがはさみで切られ散らばっていた。自殺の前になぜラベルを切ったりしたのか。

それだけではない。彼女は死んだ娘の部屋に入ったとたん、地下室と屋根裏部屋の双方からほぼ同時にドスンという大きな音を聞いた。

いかにも秘密がありそうな状況である。

アップルドアの人々は、事件のあと、悲劇の起きた家にいるのはいたたまれないと、旅に出ることになる。私は事件の当事者たちがいなくなったら話が進まなくなるじゃないかと心配したが、杞憂だった。彼らが家を出てからも次々と奇妙な出来事が発生する。その出来事の背後には一貫した意味があるのだけれど、それを見抜くのは、さっきも言ったように容易なことではない。私はその謎に牽引されてこの物語を最後まで読んだ。

ある意味でこれは実験的な作品である。ミステリも小説も一九二〇年代に大きな変貌を遂げた。簡単に言うと、ミステリはメロドラマの色彩が濃い探偵物語から、演繹的論理に主眼を置いた近代的ミステリになり、小説は十九世紀的なリアリズム小説がモダニズムの小説に変貌したのである。The Gay Nineties Murder は、古い探偵物語の素材と文体を用いながら、しかし近代ミステリ風の構成・展開を試みた作品と言える。古い酒を新しい革袋に盛ったようなものだ。その試みが成功しているかどうかは疑問だが、少なくとも退屈せずに読める程度には仕上がっている。

2015年9月2日水曜日

番外1 ジョン・ミード・フォークナー 「雲形紋章」

The Nebuly Coat (1903) by John Meade Falkner (1858-1932)

プロジェクト・グーテンバーグ所収

フォークナーが紋章、建築、音楽、宗教に関する蘊蓄を傾けて書いたゴシック・ミステリで、ドロシー・L・セイヤーズなどに多大な影響を与えた一作である。フォークナーはもともと実業家であって小説は余技に過ぎない。しかし彼の作品はいずれも光るものを持っている。

1 あらすじ

物語はロンドンのとある建築会社から、若手の建築家ウエストレイが、カランという田舎町に派遣される場面からはじまる。カランというのはドルセットにあるさびれた港町で、観光に訪れる人もなければ、地域の経済を支える産業もとくにないという、うらぶれる一方の場所である。しかしここには歴史的に貴重な大聖堂があって、若いウエストレイはその修復工事のために赴くことになったのだ。

Steve Savage Publishers版。楯に描かれた波線模様が雲形紋章。



















工事を指揮しながらカランに住むようになったウエストレイは、奇妙な噂を聞くことになる。カランには、その町の最有力者として尊敬されているブランダマーという一族がいる。十六世紀の宗教改革の頃からつづく由緒ある一族で、大聖堂にはその名を冠した側廊があり、ステンドグラスにはその一族の紋章、本書のタイトルでもある「雲形紋章」が描かれていた。この一族はつい最近、代替わりをしたばかりだった。先代のブランダマー卿が高齢で亡くなり、その孫が新たなブランダマー卿となったのである。ちなみに先代のブランダマー卿の息子は、海で溺れ死んでいた。ところが、カランの町には、その孫にはブランダマー卿の地位を継ぐ権利はない、権利があるのは自分であると主張する者がいたというのだ。それが、ウエストレイが泊まっていた下宿屋の娘(アナスタシア)の父マーチン・ジョウリフだった。

筋書きがあまり長くならないようにここで話をはしょるけれども、マーチン・ジョウリフの主張は正しかった。じつはマーチン・ジョウリフの父親は、高齢で亡くなった先代のブランダマー卿だったのである。ブランダマー卿は若いときにマーチンの母親と結婚していたのだ。しかしそれは秘密裡にとりおこなわれたために誰もその事実を知らなかった。その後二人は別れたのだが、肝心な点は、結婚自体は法律的にずっと有効なままだったということだ。ブランダマー卿はべつの女性(世間からブランダマー夫人とみなされていた女性)と結婚したものの、そちらの結婚は法律的効力を有せぬために、彼らのあいだに生まれた子供も、その孫も、当然ながらブランダマー卿の地位を継ぐ権利を持っていないのである。

しかし執念深く記録をあさってこの秘密の核心に近づきつつあったマーチン・ジョウリフは殺されてしまう。間違って薬を飲み過ぎたのが死因と見なされたが、実は殺されたのだ。そしてマーチン・ジョウリフの死後、彼がかき集めた資料を読んで同様に秘密の核心に迫ったオルガン奏者シャーノールも殺される。彼は事故死と判定されたが、本当は撲殺されたのだ。殺したのは新しいブランダマー卿、つまり先代の孫に当たる男が殺害したのである。もちろん自分が偽のブランダマー卿であることを暴露されないように、だ。

若き建築家ウエストレイはカラン滞在中に、ブランダマー家の秘密のことも、ブランダマー卿の人殺しのことも知り、その確実な証拠も握った。そしてウエストレイはそれをブランダマー卿に突きつけるのだが……しかし彼は証拠の品をブランダマー卿に渡してしまい、自分はあなたを告発しない、聖堂の修復工事から手を引き、会社もやめるつもりだ、と言うのである。ブランダマー卿とのそれまでの交友、ウエストレイが愛した女性(宿の娘アナスタシア)が、そのときまでにブランダマー卿の妻となっていたという事実、そうしたことが彼の決心をにぶらせてしまったのである。

その決定的な対決が行われた日の翌日のことだ。カランの精神生活のシンボルとも云える大聖堂の巨大な塔が崩壊した。崩壊の直前、塔を検査していたウエストレイは、ドアが開かなくなり、鐘楼から出られなくなる。彼の必死の叫び声を聞いてブランダマー卿はテコを手にして、崩れかけている塔に飛びこみ、ドアを開けてやる。ウエストレイはだれが助けてくれたのかもわからぬまま、ドアを飛び出し、聖堂を抜け、外に出る。ところがブランダマー卿は急ぎもせず、慌てもせず、いつもの修復工事の視察から帰るかのように階段を降りた。そのとき、鐘の音は入り乱れ、大砲のような轟音がし、地を揺るがす震動が走ったかと思うと、白い埃がもうもうと立ち上って塔は崩れ落ちたのだった。ブランダマー卿は崩壊した塔とともに、その生涯を閉じた。

2 接ぎ木の問題

建築の本をいろいろと読んで知ったのだが、ゴシック建築で有名な教会は、建物のすべてがゴシック様式で建てられているわけではない。補修や建て増しをする際などには、その時々の建築様式が取り入れられるのだそうだ。

カランの町の大聖堂にも建築様式の混淆が見られるが、中でもとりわけ注目しなければならないのはアーチと塔の関係である。まず千百三十五年にノルマン様式のアーチが建てられ、後代になってゴシック様式の巨大な塔がその上に載せられた。ノルマン様式のアーチは頑丈ではあるけれど、それを造った建築者たちは、塔がその上に積み上げられることは予想していなかった。つまり、塔はアーチの上に「接ぎ木」されたのである。そのためアーチに思わぬ負担がかかり、塔は結局崩壊してしまうのだ。

本来載せられるべきではないものが土台の上に載っているという、この関係に着目してほしい。

ブランダマー卿の地位は、十六世紀から正当に継承されてきたが、それが先代のブランダマー卿の無分別な結婚によって途切れてしまう。新しいブランダマー卿はその地位に就く正当性を持たない偽物であり、偽物なのに正統の系譜の上に鎮座している「接ぎ木」のような存在なのだ。

カランのシンボルとも言うべき聖堂の塔と、カランの支配者であるブランダマー家のあいだにはアナロジーが存在している。

本書の初めのほうでオルガン奏者がウエストレイにこう語っている。

きみは物とか場所が人間の運命と固く結びついている、なんてことを考えるかい。どうもこのおんぼろ礼拝堂はわたしにとって命に関わる場所のような気がする。

これはブランダマー卿と聖堂の関係を見落とすなと注意を呼びかけているのである。

大聖堂の塔と新しいブランダマー卿のパラレルな関係が理解されれば、クライマックスにおいてブランダマー卿が崩壊する塔の中で死ぬのは物語論的必然であることが理解されると思う。

3 帝国主義

塔の崩壊、ブランダマー家の権威の失墜によってあらわされているのものは、イギリス帝国主義の衰退ではないか、というのが私の見立てである。

巨大な塔を背負うアーチは、本来自国の領土ではない植民地をますます拡大させ、背負い込もうとするイギリスの姿を容易に想起させる。十九世紀に入ってからイギリスは植民地を増やした。しかし常備軍を維持し、膨大な数の退役軍人に恩給を支払うために、多大な経済的負担に苦しむことになった。塔を載せることなど予定せずに造られたアーチが、巨大な重量に耐えかねて、ひび割れし、ぐらぐら揺れる様子は、十九世紀イギリスの現実とぴたりと重なっているように思える。ジョン・ブルが地球を背中に背負い、その重みに苦しんでいる姿は漫画にも描かれた。

イギリスのアトラス、あるいはジョン・ブル、平時編成軍隊を支える
ナポレオン戦争後のイギリスを諷刺した漫画。ジョン・ブルの頭の上には「13万の兵士からなる常備軍、おびただしい数の参謀」とあり、ポケットには未払いの請求書が詰まり、下に落ちている紙には軍隊がいかに金がかかるかと言うことが説明してある。チャールズ・ウィリアムズの作品。


















 ジョン・ブル「重いかって? そりゃ重いさ。しかし栄光のことを考えてみろ」
ボーア戦争の際、イギリス国民に課せられた付加税を揶揄している。右の人物はチェンバーレイン。左の板には「ボーア戦争の費用、五億ドル」。R.C.ボウマンの作品。
















ブランダマー卿をイギリス帝国に見立てることは少しも無理なことではない。久しぶりにカランにあらわれた新しいブランダマー卿はヴィクトリア女王の姿に比されているのだから。

聖歌隊席の反対側から彼を見ると、その姿は素晴らしい一幅の絵になっていた。黒いオークでできた修道院長ヴィニコウムの席がちょうどその額縁の役割を果たしていた。頭上には天蓋があり、その先端は葉飾りや頂華に飾られ、座席の木の背板には楯が描かれていた。よく見るとそれは緑色と銀色の雲形線を持つブランダマー家の紋章だった。恐らくそのあまりにも堂々とした風采のためなのだろう、赤毛のパトリック・オブンズはちょうどその日手に入れたオーストラリアの切手を取り出し、王冠をかぶってゴシック風の椅子に座るヴィクトリア女王の肖像を隣の少年に指し示した。

ヴィクトリア女王が領土を拡大しつつあった十九世紀イギリスの象徴であったことは言うまでもない。ブランダマー卿の堂々たる姿は、まさにその女王にそっくりだった。

また、この物語の中で「アーチは決して眠らない。彼らはわれわれの上に背負いきれないほどの重荷を載せた。われわれはその重量を分散する。アーチは決して眠らない」という句が何度も繰り返されるけれど、「アーチは決して眠らない」という言葉はなんとなく「太陽の沈まぬ帝国」を想起させはしないか。

つまり塔の崩壊、ブランダマー卿の権威の失墜を通して、「雲形紋章」はイギリス帝国主義の没落を示しているのではないか、というのが私の解釈だ。

もしも私の解釈が正しいのなら、「雲形紋章」は一見して地方の生活をリアリスチックに写し出した作品のようでいて、じつはイギリスの運命を二重写しに描いた、暗示的な小説ということになるだろう。大聖堂の鐘の音が、なぜか鎮魂歌のように胸に響いてくる作品だと思う。