2015年10月28日水曜日

18 R.A.J.ウオーリング 「奇怪な目をした死体」 

The Corpse With the Eerie Eye (1942) by R. A. J. Walling (1869-1949)

タイトルの「奇怪な目」というのは、殺された男の瞳孔が収縮していて点のようになっていたことを指している。それだけでピンと来る人もあるだろうが、彼は殺される前に薬物を服用させられていたのである。

物語はイギリスのキャッスル=ディナスという小さな町を舞台に展開する。ここにローウェルという金持ちの一家が住んでいた。父と母と娘の三人家族で、娘のキャサリンはブルース・ジャーディーンという若者と結婚することになっていた。

キャサンリンとジャーディーンの交際がつづいているときに、アンソニー・ベレズフォードという男がこの町に移り住んできた。今まで世界をあちこち旅していたようだが、彼は過去を忘れたいと自分の生い立ちについては多くを語りたがらず、人々からは「謎の男」を呼ばれるようになる。

この男が町に来てから、ローウェル一家の様子がおかしくなる。そのことにいちばん敏感に気づいたのは娘のフィアンセのジャーディーンだ。キャサリンの父母は急にむっつりと話をしなくなり、キャサリンももうジャーディーンのことなど眼中にないような態度を取る。結婚が反故になりはしないかと不安になったジャーディーンはまわりの人と相談の結果、秘密を探らせるならこの男の右に出るものはないといわれる、探偵のトールフリーを呼ぶことにする。

探偵のトールフリーは、ローウェル一家と、謎の男ベレズフォードのあいだには何らかの関係が隠されていると考える。極端にナイーブな性格のジャーディーンにはそれがわからないようだけれど、ローウェルの友人たち、たとえばローウェル夫人の兄であるマッパーレイ博士などはかなり詳しく事情を知っているようだ。しかしローウェル一家はもちろん、マッパーレイ博士も、探偵のトールフリーになにも説明しようとしない。

そんなときにベレズフォードが死体となって発見された。発見したのはトールフリーとジャーディーンである。トールフリーはこのとき死体を見て、その目が点のようになっていることに気づくのだ。

この作品では、殺人がどこで、いつごろ行われたかということは、ほぼ確実にわかっている。また殺された男がローウェル一家を脅迫していたことも、マッパーレイ博士らが事件に大きく関与していることもわかっている。しかしいくらトールフリーが尋ねても、ローウェル一家とその関係者たちは、スキャンダルを怖れて一切の事実を口にしない。警察の捜査にも非協力的で、スコットランド・ヤードが乗り出してきて、ローウェル一家を威嚇するように尋問しても固く口を閉ざしたままなのだ。それどころかいろいろと細工をして捜査を攪乱させようとまでする。

探偵のトールフリーは数少ない手掛かりを頼りにローウェル一家と殺された男の接点を探り、かつまた捜査を攪乱するための工作を鋭い洞察力で見破っていく。

この作品を読んで二つの点が印象に残った。一つは探偵の優しさである。新聞ネタ、週刊誌ネタになることを怖れて事件のもみ消しをはかるというのはよくあることだが、それにしてもマッパーレイ博士らの隠蔽工作はいささかえげつない。にもかかわらずトールフリーはジャーディーンやローウェル一家の心情を察して、スキャンダルが表沙汰にならないような形で事件を解決しようとするのだ。彼自身も上流階級に属するから、彼らの気持ちがよくわかるのであろう。そして実際事件は、偶然の力も大きく作用して、「戸棚の中の骸骨」をさらすことなくスコットランド・ヤードによって一応の解決を見る。しかもイギリスはヒトラーに最後通牒を出し、新聞はもう地方のスキャンダルなどには目もくれない情勢になるのだ。

二つ目は警察の優秀さに対する認識が見られることだ。物語の最後でローウェル一家とその関係者たちは、自分たちに疑いの目を向けていたスコットランド・ヤードが別の人間(真犯人)に注目するようになりほっと胸をなで下ろす。しかしスコットランド・ヤードは、彼らが犯罪に関わっていたことをちゃんと突き止めていたのである。頭のいいマッパーレイ博士がどれほど巧妙な工作をしても、スコットランド・ヤードには通用しなかった。地元の警察ですら、ある部分においては、探偵のトールフリーと同じか、それ以上の捜査能力を発揮するのである。トールフリーもそれを見て、警察の力をみくびってはいけないと何度も言っている。なるほど真実を完全に把握したのはトールフリーのほうが先かもしれないが、スコットランド・ヤードも負けてはいないのだ。まことに官僚機構の情報収集能力・情報処理能力は怖ろしい。たったひとつの指紋から芋づる式にありとあらゆる情報が引き出されるようでは、神の如き英知を持つ私立探偵も出番がなくなるではないか。

第二次世界大戦から冷戦へとつづく歴史の流れの中で、エリック・アンブラーやヘレン・マッキネスなどによってすぐれたスパイ小説が書かれるようになるが、われわれはこのあたりから国家の情報ハンドリング能力の優秀さに目覚めはじめたのかもしれない。

2015年10月24日土曜日

17 ハーバート・アダムズ 「ユダの接吻」 

The Judas Kiss (1955) by Herbert Adams (1874--1958)

上等なミステリが与える快楽は、subversive な快楽である。もっとも犯人とは思えない人間が、演繹的な論理によって犯人であることが決定的に証明される。本来なら両立し得ない反対物が、同一のものとして提示されることくらい subversive な事態はないだろう。

これは十九世紀半ばに発表された「オードリー夫人の秘密」から延々と伝承されてきたミステリ小説の特徴である。「オードリー夫人の秘密」においては、まさしく「家庭の天使」、つまりヴィクトリア朝時代に理想とされた婦徳を有する女性が、殺人を犯すことも怖れぬ毒婦であったことが暴露される。作者のメアリ・ブラッドンは、「家庭の天使」とその反対物が同時に存在しうることを示すことで、前者の観念にはある種のひびが走っていることを明らかにした。

さて本編「ユダの接吻」だが、この最終章ではある登場人物が事件を振り返って次のような教訓を垂れている。

 多くの女性は「自分の人生なんだもの、好きなことをしたっていいはずだわ」と思っている。それは間違いだわ。彼らはその間違った人生を他の人に引き継がせてしまう。彼らに子供があったら、なんとも不思議な具合に彼らの悪の種が子供に植えつけられてしまうのよ。そういうことがわかれば彼らも自分の行いに気をつけるようになるんでしょうけど。

なんとも道徳的で保守的な台詞だが、「ユダの接吻」はこういう教訓にふさわしい、subversive なところなど微塵もない、いかにも犯人らしい犯人が最後に捕まる物語である。これはミステリではなくて、あくまで教訓談として読むべきものだろう。それもあまり質のよくない教訓談として。ついでにいうと「ユダの接吻」というタイトルは聖書から取られている。

しかし前半部分、人々の非道徳的振る舞いが次々と明らかにされるところは読んでいて面白い。事件はイングランド東部のサフォーク州ベックフォードという村で起きる。ここにマイケルモアという一家が住んでいる。母親は亡くなり、父親は放浪の旅に出かけ、家にいるのは四人の子供たちだけである。しかし子供といってももう二十代のいい大人だ。彼らはガーネット(長男 牧師)、ジャスパー(次男 画家)、エメラルド(長女 作家)、パール(次女)とすべて宝石の名前がつけられている。そこに父親のジョージがフランスのサン=マロから、なんと新しいお嫁さんを連れて帰ってくるのだ。しかも子供たちとほとんど年の変わらないフランス美人である。

これはなんとも気まずい状況である。父親は年若い、美しい嫁さんを得てご満悦だろうが、子供からすれば継母とどう接すればいいのか、その距離の取り方が難しい。いちばん年下のパールは新しい母親に好意を寄せ、画家のジャスパーはさっそく彼女にモデルになってもらい、父親の目を盗んで彼女に手を出そうとしたりする。しかし長男と長女はよそよそしい態度を取る。

父親は新婚生活を長く楽しむことができなかった。あっけなく交通事故で死んでしまったからである。この作品が面白くなるのはここからだ。まず父親の遺書が読み上げられた。それによると財産はすべて新しい妻に与えられることになる。子供たちは結婚するときに五千ポンドを与えられる。ただしその結婚は新しい妻が承認するものでなければならない。

もちろん子供たちは不満だろう。自分たちとおなじ年齢の女に自分たちの財産を押さえられているようなものだから。子供たちと新しい母親は激しく対立する。

そんなときに画家のジャスパーは自分の絵を売りに、父親と継母が結婚式をあげたというフランスのサン=マロへ行き、偶然にも二人が正式な結婚をしていないことを知る。髪結いの奥さんだった女を、父親が略奪してイギリスに連れてきただけなのだ。ジャスパーは髪結いの亭主に会い、彼が持っている奥さんの写真を見て、それが父親の新しい妻と同一人物であることを確認する。

ジャスパーが家に帰ってから子供たちはその事実を母親に突きつけるのだが、やりこめられた母親のほうも反撃に出る。彼女は子供たちにむかって、父親は最初の妻とも正式には結婚していなかったのだ、あなたがたは不義の子供たちなのである、と父親本人から聞いた秘密をぶちまけたのだ。

不道徳な私はこれを読んで手を打って喜んでしまった。なるほど、このおやじ、二回とも正式な結婚をしていなかったのか。しかしそれでよくばれなかったものだ。子供が生まれたときに届け出とかしなくてもよかったのだろうか。そういえば、Fear Stalks the Village の中にも正式な結婚をしていない夫婦が出てきたな。二十世紀前半のイギリスではそういうことがままあったのかな……。などと、いろいろなことを考えて愉しんだ。

このあとは母親が毒殺され、さあ、犯人は誰だ、ということになるのだが、最初に述べたようにこの部分はもう私にとってはどうでもいい。

2015年10月17日土曜日

16 アン・オースチン 「黒い鳩」 

The Black Pigeon (1930) by Anne Austin (1895-1960)

谷崎潤一郎の「文章読本」は、舞台俳優の演技を例に取り、効果的な表現というのは大げさな所作を演ずることではなく、逆に藝を内輪に引き締めることによって得られると説いている。その上で文章を書くときの心得として、無駄な形容詞や副詞を使わないよう注意を呼びかけている。

これはアン・オースチンに薬にしてもらいたいような言葉である。とにかくこの人の文章はひどい。頭がくらくらする。本来なら最初の一ページで読むのをやめるところだが、本邦未訳ミステリを百冊レビューするまでは愚作も最後まで読もうと決めたから仕方がない。

この作品は次のような表現のオンパレードである。

マクマン部長刑事が鉛筆をこつこつと鳴らす音は、ルースの苦痛に充ちた、緩慢な鼓動の音に対する不吉な伴奏音となった。

あるいは

ルースは低く押し殺されたような悲鳴をあげ、彼女の恋人は腕を伸ばしてその震える小さな身体を強くいつくしむように抱きしめた。

さらにまた

「やめてちょうだい、ジャック!」とルースは懇願した。その声は哀れなまでに恐怖に震えていた。

こういう調子の文章が目白押しで、私はいい加減にしろと怒鳴りたくなった。

このヒステリックな文体にふさわしく登場人物たちもやたらと「度を失い」、「かっとなって目の前に赤いもやがたちこめ」、「青ざめて両手を握りしめ」たりする。ヒロインであるルースは優秀な弁護士だった父の血をひいているわりに、衝動的で、すぐに動転し、金切り声をあげる。彼女の恋人で保険を売っているジャックも冷静さに欠けている。マクマン部長刑事はとくにひどい。彼は粗暴なだけで知性をひとかけらも持っていないようだ。彼は殺人事件の起きたビジネス・オフィスで関係者の取り調べを行うのだが、尋問する相手が多くなり、部屋が手狭になってくると、まだ死体が横たわっている部屋に移って取り調べを続行するのである。エレベーター・ボーイを務める若い男二人が呼び出し応じて彼のもとに来たとき、部長刑事は「おまえらに一生忘れらないものを見せてやるぜ」といって死体のある部屋に彼らを連れて行くのだ。いくらなんでもこんなめちゃくちゃな警察はないだろう。しかも彼の上司はさらにひどい。誰でもいいからパクれ、真実を探るのはそのあとだ、というのがモットーだからである。警察が類型的・戯画的に描かれるのは仕方がないけれど、それにしてもこれは行き過ぎている。

おそらく途中までできた原稿を誰かが――エージェントとか近親者が――読んで作者に注意をしたのだろう。半分を過ぎた頃から過剰な文章は「ほんのすこしだけ」抑制的になり、それとともに登場人物たちも「やや」理性的に振る舞うようになる。しかしそれでも読むのは苦痛だった。あるオフィス・ビルディングで殺人事件が起き、そのあとは延々と最後まで警察の尋問がつづけられるのだが、話に緩急がなく、一本調子でその様子が描かれるため、読むほうは絶え間なく情報の処理をせまられ、だんだん疲れてくるのである。情報の流れや緊張の持続は上手にコントロールしないと、読者に過度の負担がかかるという格好の例である。要するにこの作者は基本的な小説の書き方を知らない。

この作品によい部分がないというわけではない。エレベーターに乗った時間、オフィスに入った時間、オフィスから電話をした時間など、いささか細かい事実がいくつも、何度も議論されるのは煩瑣で仕方がないけれども、新しい事実がわかるたびに容疑者がころころと変わるあたりはそれなりに面白いし、犯人も意表を突いている。ビルの屋上に棲んでいる「鳩」たちが事件の中で果たす役割も悪くはない。しかし、繰り返すけれども、文体と構成がすべてをぶちこわしにしている。

また読んでいてふと気がついたことだけれど、殺人現場がオフィス・ビルディング、つまり近代建築物の中という設定はこの頃から用いられるようになったのではないだろうか。ジャンルは違うが、出版社のビルの中に死体が転がっているという出だしの、チャールズ・ウイリアムズ作 War in Heaven はやはり一九三〇年に書かれている。ウィキペディアによると、エクイッタブルという米国の保険会社が、引き出し付きの平らな机を並べた今風のオフィスを導入したのが一九一五年だそうだ。はたして二〇年代にもオフィス・ビルを舞台にしたミステリが書かれているだろうか。ちなみに近代的なホテルとなると文豪のアーノルド・ベネットが一九〇二年に「グランド・バビロン・ホテル」を書いている。立派なサスペンスの秀作である。

2015年10月14日水曜日

番外3 エリック・ナイト 「黒に賭ければ赤が」

You Play the Black and the Red Comes Up (1938) by Eric Knight (1897-1943)

アマゾンから出版


エリック・ナイトは「名犬ラッシー」の作者として知られているが、犯罪小説も一作書いている。それが本編で、ノワール文学の初期の傑作である。

1 あらすじ

オクラホマの炭鉱町の精錬所ではたらく「おれ」がある日勤務を終えて帰ってみるとレストランで働いているはずの妻がいなくなっていた。妻は夫の意地の悪さに嫌気がさして、とうとう一人息子を連れてハリウッドに逃げ出したのだ。

妻と息子を呼び戻そうと「おれ」は汽車で西海岸へ行く。着いてからは思いも寄らない冒険の連続だった。ハリウッドの大物映画監督ジェンターに出遭い、妻と接触しようとして失敗し警察に追われる。一文無しで腹を空かせていた「おれ」はチンピラから狂言強盗の相棒をつとめる話をもちかけられ、思わず乗ってしまう。しかし狂言はうまく行かず、「おれ」はふたたび警察に追われ、メイミとパットという二人の女性にかくまわれる。メイミとパットは一緒に住んでいたのだが、パットが出て行き、「おれ」はメイミと同棲生活をはじめる。

パットはこの作品で非常に大きな役割を果たす。彼女は映画監督ジェンターの支援を受けて半政治的、半宗教的団体エカナノミック・パーティーなるものを立ち上げるからである。「おれ」の感覚からすると、これはおよそ非現実的な政策を掲げた団体である。その核となる政策とは次のような単純なものだ。まず最初の週にすべての人に五ドルをわたす。ただし一週間以内に使ってしまうという条件で。次の週は六ドル。毎週、前の週より一ドルずつ多く渡す。そうすれば売上税が増え、増えた分を人々への支払いにまわし、それをまた一週間以内に使ってもらえば売上税が増え……という循環を形成しようというのである。この主張はなぜかカリフォルニアで急速に支持者を増やし、全国的な運動にまで展開していく。一九三〇年代にはエイミー・マクファーソンというカリスマ的な福音伝道者が実在したが、パットもマクファーソンとよく似た宗教活動をしながら、たちまちのうちに非凡な指導者に変身するのである。

パットとメイミがこの運動にのめりこむ一方で、「おれ」はシーラという不思議な金持ちの美少女に出会い、恋に陥る。そして「おれ」はシーラと結婚したいと思う。しかしメイミに別れ話をもちかけても拒否されるだけだ。そこで「おれ」はメイミを殺害する計画を練るのだが、なんとその計画にひっかかってシーラのほうが死んでしまうのだ。

「おれ」は殺人容疑で逮捕され、死刑を宣告される。ところが死刑執行の直前に映画監督のジェンターが「シーラを殺したのは自分である」というメモを残して自殺する。そのため「おれ」は急転直下釈放されることになる。

残りの部分はちょっとはしょるが、こんなふうに「おれ」は運命に翻弄され、ついには来たときと同じ無一文になって汽車でカリフォルニアを去る。

2 資本主義と負債

私はこの作品を読んでとりわけ二つの点に興味を覚えた。一つは貨幣と負債の観念の関係についてだ。

主人公の「おれ」は、オクラホマからカリフォルニアに来るとき、浮浪者たちの一群とともに有蓋貨車に閉じ込めらる。浮浪者たちの中にはマン・マウンテン・ディーンのようないかつい男がいて、他の浮浪者たちを支配し、「王さま」と呼ばれている。彼と浮浪者たちの関係は、露骨な暴力的支配と隷属をあらわしている。「王さま」が新聞を寄こせと言ったら、みんなは新聞を差し出さなければならない。(浮浪者たちは暖房のために新聞紙を体に巻き付けている)言うことを聞かなければ鉄拳制裁が待っている。「おれ」は王さまからコートを差し出せと命令されるが、支配者の要求が気に入らなかった彼は、立ち上がって力で抵抗することになる。これは力による脅しを使った、前資本主義的な支配関係である。

しかしカリフォルニアではどうだろうか。パットのエカナノミクスではないけれど、すべての人にお金が与えられ、お金が与えられると同時に社会に組み込まれていく。注意すべきはお金を得たときの「おれ」の反応である。お金が入ると同時に彼はある種の負債の念を抱くようになるのだ。本当はやりたくないけれど、お金をもらったから、狂言強盗をしなければならない、とか、本当は早く出て行きたいのだけど、お金があるかぎりメイミのもとを離れるわけにはいかない、というように。私はそれを読んで考えた。資本主義社会は露骨な暴力をもってではなく、システムのメンバーに負債という観念を与えることで支配するのだろうか。

ジェンターがエカナノミクスの運動を宗教で味付けしようと言った場面でも考え込んでしまった。キリスト教というのは、われわれの罪を背負って死んだキリストとわれわれとの間に、宗教的な貸し借りの関係を設定するものだからだ。

最近まったくの偶然にマウリツィオ・ラッツァラートの The Making of the Indebted Man (2012) という本を読んだのだが、資本は普遍的な債権者であり、資本主義社会の構成員は資本の眼から見て罪と責任を負った債務者であるという論旨は、本書と併せて読むとき、非常に興味深いものだった。

ともあれ、この作品に於ける金の役割は深く突っ込んで考察すべきものだと思う。

3 フィクション

私の興味を惹いたもう一点は、現実を構成するフィクションという考え方なのだが、これは翻訳の「後書き」にも書いたことなので軽く触れるだけにする。

じつはこの作品を読んだとき、私は冒頭のパラグラフからひっかかってしまった。
 真夜中の勤務を終えて帰ってみると、レストランの窓に明かりがついていなかった。それを見て、おれはルイスが出ていったことを知った。
 まちがいないとおれは思った。枕の上に置き手紙が残されていることもわかっていた。
ルイスは「おれ」の妻なのだが、建物の中に入らなくても「おれ」には何が起きたがすっかり分かってしまう。それはいったいなぜなのだろうと思ったのだ。

あっさり私が考える答を言ってしまえば、「おれ」は住み馴れたオクラホマの町にいるときは、ちょっとしたしるしを見ただけで想像力を働かせ、何が起きたかを推測することができる。つまり物語を作り上げることができる。ところがカリフォルニアに行くと、そこには別の物語の構成の仕方があり、それ故、「おれ」は何がどうなっているのかさっぱりわからんとつぶやくことになるのだ。たとえばメイミが酒を飲んでも二日酔いにならないことは「おれ」にはまるで理解できない。ましてパットのエカナノミクスに人々がトチ狂うというのは狂気の沙汰としか思えない。

映画監督のジェンターは「正気の人間をカリフォルニアに連れてくるとする。すると山を越えてカリフォルニアに入ったとたんに彼らは正気を失う」と言う。つまり山に囲まれた内部には、そこ独自のフィクション、フィクションの構成法があるのだ。「正気を失う」というのは、カリフォルニアはほかのところとはまったく異なるフィクションの構成法を持っている、ということだろう。そして山はフィクションが効力を持つ地域の境界線にあたるのだ。

そう考えると、「おれ」はオクラホマという、彼がそこのフィクションの構成法をよく知る場所から、「いくつもの山脈を越えて」、カリフォルニアという奇妙なフィクションの構成法を持つ場所へ移り、さんざん冒険を重ねて、最後には彼が子供の頃に見てその向こうに幸せがあるはずだと考えた「金色の山々」、彼にとってのユートピア的な空間へ向かうことになることがわかる。

「黒に賭ければ赤が」は「おれ」が異なるフィクションの場を渡り歩く物語なのである。

そしてここで決定的に重要なのは、翻訳の「後書き」にも引用したけれど、スラヴォイ・ジジェクが言うように「フィクションとイリュージョンを破棄するやいなや、われわれは現実そのものを失う。現実からさまざまなフィクションを差し引いたとたん、現実そのものは言説構成的な、論理的一貫性を失う」(Tarrying with the Negative)という点だ。われわれは現実をありのままに見ているのではない。現実はフィクションを介してはじめて認識可能なものとなるのだ。「おれ」はすでに述べたように物語の最後で汽車に乗ってカリフォルニアを出る。つまりフィクションの圏域をはずれる。その途端にカリフォルニアで体験した出来事は一貫性のないばらばらなものとなり、彼は恋人の死にすら非現実的な印象を抱いてしまう。ところが「金色の山々」を間近に目にするや、彼は恋人の死に対する痛みを回復するのだ。新たなフィクションの圏域に入って彼は現実を回復したのである。もっともそこに広がっているのは荒野でしかないのだが。

私はこの作品は現実とフィクションの関係を描いた見事な作品だと思う。しかし何よりも驚くべきは、私が上に書いたような理論的内容が、抽象的な説明などを一切伴わない形で物語の中に溶かし込まれているということだ。

2015年10月10日土曜日

15 ジョン・ロード 「収穫殺人事件」 

The Harvest Murder (1937) by John Rhode (1884-1965)

「収穫殺人事件」とは妙なタイトルだが、これはアメリカの読者向けのタイトルで、イギリス向けのタイトルは Death in the Hop Fields 「ホップ畑の死」というものだ。カルバーデンという架空の村でホップの収穫が行われる時期に殺人事件が起きるという物語である。

作品の分量を水増ししようとしたとは思わないけれど、作者はずいぶん詳しく村の様子や、ホップの収穫、収穫を手伝う出稼ぎ労働者のことを書いている。推理小説的興味から本書を読む人には、そうした記述がわずらわしいだろうけれど、私には興味深かった。当時の風俗を知る手掛かりになるからである。

この村は、ホップの収穫期になるとロンドンから出稼ぎ労働者が何千人、何万人とやってきて大賑わいとなるが、普段は閑散とした田舎の村だ。冒頭、村の巡査が宝石泥棒の通報を受けて現場に駆けつける場面があるが、なんと自転車をえっちらおっちらこいで坂道を登っていく。なんだか井伏鱒二の「多甚古村」みたいである。また泥棒にあった家も、後に放火で燃えてしまう別荘もそうなのだが、留守のときに窓を閉めずに開けっ放しにしている。最近はごく稀になったが、一部の田舎では今でも外出するときに鍵を掛けたり、窓を閉めなかったりすることがある。車のドアにもロックをかけない。犯罪なんて起きないし、周りにいる人々はみんな見知った仲だからである。この作品がかかれた一九三〇年代はそういう不用心というか、おおらかな習慣がかなり残っていたのだろう。もちろんロンドンみたいな都会になると話は全然違ってくる。実際、村の人はロンドンからきた労働者たちのことを「信用できない」などと言ったりする。

ホップの収穫が始まったこの村には膨大な数の出稼ぎ労働者がいる。ほとんどがロンドンの下層階級の人々である。ホップ摘みを出稼ぎ労働者に頼るようになった最初の頃は、誰彼かまわず雇っていたために、中には乱暴狼藉をはたらく者、品行不良の者もいたようだが、そうした者は雇い主があらかじめ排除するようになり、今では真面目な働き手ばかりが来るようになっている。

出稼ぎ労働者にとってはホップ摘みの仕事は、半ばは行楽である。彼らはロンドンにいるときは狭苦しくて、薬品の匂いの立ち籠める皮革工場などで働いているのだが、ホップ摘みの間だけは太陽のもと、広々とした田舎の空間で、新鮮な空気が吸えるのである。半分は物見遊山みたいなものだから、家族総出で来るケースも多いようだ。

彼らは昼間は働き、夕方になるとパブに行って夕ごはんを食べる。パブのそばでは出稼ぎ労働者向けにお菓子やら野菜やら果物やらが売られる。労働者たちはパブで飲み物を買い、屋台から食べ物を買って食事をするのである。労働者の数が数だから、ホップ摘みの期間は近隣の農村にとってもちょっとした稼ぎ時となるのだろう。もちろんパブは大賑わいで、地下室から主人の個室まですべての部屋を開放してお客を迎えなければならない。

唖然としたのは、出稼ぎ労働者の中にはロンドンから歩いて村までやってくる者があるという事実を知ったときだ。労働者はホップ農場の主に出稼ぎに行きたい旨の手紙を書き、農場主からOKの返事が来ると家財道具やマットレスを持って村へ行く。農場主は労働者のために鉄道会社に頼んでロンドンから村まで特別列車を運行してもらうのだが、運賃の払えない貧しい人々は荷車を用意して、ロンドンから村まで徒歩で移動するというのである。ロンドンからカルバーデンの村までどのくらいの距離があるのか知らないが、この話をした農場主のあきれかえりぶりから察するに、相当に離れているのではないだろうか。もうすぐ一九四〇年という時期にあっても、まだそんな生活が残っていたとは驚きである。

この小説に書かれている内容をそのまま社会学的事実として受け入れることはできないだろうが、それにしても労働者階級の生活の一断面をあらわしたものとして興趣がつきない。

ミステリとしては凡作と言っていいだろう。物語は三つの事件をめぐって展開する。それらは宝石の盗難、ある小悪党の失踪、そして別荘の放火である。カルバーデンのある金持ちの家から宝石が盗まれるが、現場に残された指紋から犯人は、逮捕歴のある小悪党であることが判明する。ところがその小悪党は、カルバーデンの村に着いてから足取りがぷつりと途絶えてしまう。犯人は宝石を盗んだあとどこへ行ったのか。地元の警察だけでなく、スコットランド・ヤードからも応援が駆けつけたのだが、小悪党の行方は分からない。そのとき近くの別荘が何者かによって放火される。警察は、小悪党は殺されたのではないか、放火は死体を焼却するためのものではないかと考えるが、焼け跡を調べても死体の痕跡はないし、死体を焼くほど火の勢いも強くはなかった。出稼ぎ労働者でいっぱいの村のどこに宝石泥棒は隠れているのか。収穫されたホップの加工過程の一つが事件を解く鍵を提供する。

2015年10月7日水曜日

14 J.ストーラア・クルーストン 「四十七番地の謎」

The Mystery of Number 47 (1912) by J. Storer Clouston (1870-1944)

最初に告白するが私はクルーストンの愛読者である。彼の作品を読むと最初の数ページで物語に引き込まれてしまう。読者を想像の世界に引きずり込む、小説の語りの技術は十九世紀の後半に格段の進歩を遂げるが、クルーストンはその最良の成果を見せてくれる。また彼は一種の職人なのだろう、ミステリもスパイ小説もユーモア小説も器用に書き分ける。私がとりわけ気に入っているのは The Lunatic At Large という作品で、これはピカレスク小説のマイナーな傑作だと思う。質の高い娯楽作品をお求めなら、クルーストンの小説を一度手に取ってみることを強くおすすめする。

「四十七番地の謎」もクルーストンの才能がよく発揮された、すばらしいミステリのパロディだ。私は読みながら何度爆笑したか分からない。

これから読む人のことを考えて粗筋の紹介は最小限度に留めよう。

表題の四十七番地とは、ロンドンのセント・ジョーンズ・ウッドにあるヒアシンス通り四十七番地のことで、ここにモリヌー夫妻と、若いお手伝いさんと、料理女が住んでいる。夫はオクスフォード大学を出てから十六世紀の詩人について論文を書いたりして小金をかせいでいる。文学者にありがちな小心で世間知らずの男だ。奥さんは逆に実務的で決断力に富む女性である。性格が正反対だが、かえってそのせいなのだろう、二人は仲良く暮らしていた。

事件は司教の地位にある夫の従兄弟が、不意に彼らを訪ねる旨の連絡を寄こしたことからはじまる。この司教は美食家で大食らいなのだが、なんと彼がやってくるその当日、料理女が仕事を辞めて出て行ったのである。司教のためにディナーをつくる人間がいない。事実を話して夕食を断れば、その性格からして司教はモリヌー夫妻のことを根に持つようになるだろう。ではどうしたらいいのか。

 お手伝いのエバ「わたし、料理ならちょっとはできますけど……」
 モリヌー夫人「わたしがエバにアドバイスすれば、美食家の司教も満足するような料理ができると思うわ」
 モリヌー氏「しかし夫婦でそろって彼を迎えてやらなきゃ……」
 モリヌー夫人「わたしは田舎に帰ったことにしておきなさい」

というわけでその日、モリヌー家にはやけに上品な料理女があらわれ、モリヌー夫人はブライトンかどこかへ出かけたことになった。

この苦心の作戦の甲斐あってその日のディナーはなかなかの出来だったようだ。しかし女主人の不在を奇妙に思った司教はしきりにモリヌー氏に彼女のことを尋ねる。そして彼女が翌日家に戻ることを聞き出すと、今晩はこの家に泊めてくれ、明日ぜひとも奥さんに挨拶したいと言い出したのである。

次から次へと降り掛かる難題に辟易としたモリヌー氏は、急に用ができて外国に行かなければならなくなったと置き手紙をして家を出て行く。

モリヌー家に一人残された司教はモリヌー氏の怪しい行動に、ついにスコットランド・ヤードを呼び出すことにする。そしてモリヌー家を訪れたブレイ警部はモリヌー氏が妻を殺し、逃げ出したのだと考える!

かくして存在しないはずの殺人事件が存在しはじめ、世紀の大事件として新聞にも取り上げられるようになるのだ。

このとんでもない殺人事件がどのように決着するかは、ぜひ本を読んで頂きたい。

これを読みながらわたしは間主観性のネットワークということを考えた。

われわれは間主観性のネットワークの中に生きている。家族、隣人、友人、会社、世間とさまざまな関係を結び、その複雑な関係性の中で生を営んでいる。人間はいわばさまざまな関係性の線が交差する項の上に存在しているのである。モリヌー夫人が仕事を辞めた料理女の位置につき、モリヌー夫人の位置を空白にしてしまったとき、ネットワークには局部的な乱れが生じた。そしてこの乱れはネットワークを通じて全体に広がっていくのである。

ネットワークの揺れ・脆弱性が文学に描かれるときはたいてい「人違い」とか「聞き間違い」が生じる。また、ネットワーク内に居場所を失った人間は「浮遊」をはじめる。しかも居場所(項)というのは「Xの母であり、Y慈善協会の理事であり、Zから千ポンドを借りている債務者であり……」というような、関係性によって規定される存在の特徴(確定記述)が束になっている場なのだが、そこから抜け出た存在はいかなる規定ももたない、名付け得ぬ物として、それこそ幽霊のように浮遊しはじめるのだ。こうした特徴はすべて本編にも見られる。これはプラウツスの「メナエクムス兄弟」とかシェイクスピアの「まちがいの喜劇」に見られるような、典型的な喜劇の骨法に従って書かれた作品である。と同時に、ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」を見ても分かるように、ネットワークの乱れというのはミステリが絶えず取り扱う主題でもある。

2015年10月3日土曜日

13 W.スタンレイ・サイクス 「死んだ男」

The Man Who Was Dead (1931) by W. Stanley Sykes (1894-1960)

物の秩序、言説の秩序にある種の齟齬、矛盾、乱れを見出し、それを鮮やかに指摘する。それが古典的なミステリの醍醐味だが、サイクスの「死んだ男」もその面白さを味わわせてくれる。

本編は警察小説といっていいだろう。サウスボーンという保養地でユダヤ人の金融業者が行方不明になり、地元警察のリドリー警部とスコットランド・ヤードのドゥルーリー警部が協力して事件を解決しようとする。警察の捜査や張り込みや協議の様子が細かく描かれ、作者がお医者さんであるせいか、薬物に関する記述も詳しい。

このドゥルーリー警部はもとはラグビー選手だったらしいけれど、その豪快な体格にもかかわらず、非常に緻密に事実を整理する癖を持っている。事件が起きると、あらゆる事実を時間系列に従って書き留めてゆき、同僚からは「ブラッドショー」つまり鉄道時刻表というあだ名をつけられている。

彼のこの習慣が事件解決への重要な糸口をつかむきっかけになる。捜査の過程で警察が入手したある手紙は、普通に読むと何と言うこともない、ありきたりの内容なのだが、警部の緻密な観察眼は、じつはそこに時間的な無理が含まれていることを見出す。その途端に手紙は、書き手と犯罪との連関を示唆するものとなるのだ。正直に言って、私はドゥルーリー警部が指摘する時間的無理について気がつかなかった。注意深く読んでいればたぶんわかったはずなのに。くやしい。

ドゥルーリー警部は小説を読むときも物語の矛盾や著者のまちがいを見つけようとする。物語自体よりも、矛盾やまちがいを見つけることのほうにより大きな悦びを覚えるという。まるでジャック・デリダみたいな男だ。

彼の趣味は、物語の後半においてある人物の告白文を分析するときに再び威力を発揮する。手紙の時と同じように、その告白文も表面的には一貫性があって、どこにも問題はないように思える。しかしながら書き手の力点の置き方や省略の仕方に着目するとき、その告白文には嘘が含まれていることが疑われてくるのである。

ドゥルーリー警部は一緒に捜査をしているリドリー警部にこんな趣旨のことを言う。どんなに完璧な犯罪計画を立てても、自然な出来事の推移とは異なる、人為的な特徴が必ず見つかる。どんな暗号も解読されるように、犯罪者がいくら注意して犯罪を構成しても、細部を丹念に調べれば、あらかじめ手はずを整えていたことがきっと分かるものだ、と。

ドゥルーリー警部は一見して自然な物事の秩序、あるいは一見して自然な言説の中に作為の痕跡を突き止めるのである。

さて粗筋を簡単に紹介しておこう。

サウスボーンの金融業者イスラエル・ラヴィンスキーが突然行方不明になった。彼は町の著名人や有力者を相手に金貸し商売をしていた。著名人たちは偽名を用い、けっして世間にはばれないようにして彼から大金を借りていた。

警察がラヴィンスキーのオフィスを捜索すると、エドワード・デリントンなる人物の、五千ポンドにものぼる約束手形が紛失していた。エドワード・デリントンは町の名士の一人が偽名として使っている名前なのだろう。もちろんラヴィンスキーは顧客の偽名と本名、および住所を記した秘密の住所録を持っていたが、それが盗まれていたため、デリントンの正体はわからない。しかしデリントンが自分の借金を帳消しにするため、秘密の住所録を盗み、金融業者をどうにかしたらしい、という推測は容易につくだろう。

警察は驚くほど機敏な捜査を展開し、ラヴィンスキーが失踪した当日の夜、家から車で、とある住宅地へ行ったことを突き止める。そこで住宅地にある家をしらみつぶしに調べて行くと、レイドロウという医師の家で、妻が警察の尋問にいささか不審な行動を示した。ラヴィンスキーという名前を聞いた途端に彼女は失神してしまったのである。それをきっかけとして警察はレイドロウ夫人に目をつけることになる。不思議な偶然だが、ラヴィンスキーが失踪したと思われる頃に、レイドロウ夫人の夫は髄膜炎で死んでいた。

これを読んで読者はハハアと思うだろう。二人の人物がほぼ同時に死んで、一方がいなくなる。これは人間のすり替えが行われる典型的な状況である。警察は最初そのトリックにひっかかるが、関係者を徹底して尾行していた彼らはすぐに罠を見破る。このようにして警察は薄皮をはぐように少しずつ、周到に計画された事件の核心に迫っていく。

私はこれはかなり優秀な作品だと思う。少しも古びた印象がない。ドゥルーリー警部とリドリー警部が捜査の途中で何度も壁にぶつかり、そのたびに地道な捜査と冷静な思考によって突破口を見出していく様子や、徹底して「物的証拠を積み上げ」犯罪事実を立証しようとするその執念は、感動的ですらある。