2016年9月24日土曜日

90 エドマンド・クリスピン 「葬儀の馬車は絶え間なく」

Frequent Hearse (1950) by Edmund Crispin (1921-1978)

タイトルはアレクサンダー・ポープの「不幸な女性の記憶にささげる哀歌」から取られている。曖昧な書き方をした詩なので、詳しい状況はわからないが、詩人の愛する女性が、後見人である伯父の反対によって意中の人と一緒になることができず、ついに自殺してしまうという内容である。詩人はそれを憤り、彼女の後見人・伯父の家族にむかって呪いの言葉を吐く。「お前の家の門へ 葬儀の馬車が絶え間なく押し寄せるだろう 長い葬儀の列が 墓地までの道を黒く埋めるだろう」

さて、この作品で殺される人々(三人の男女が殺される)はみなポープの人生を描いた「不幸な女性」という映画の製作にかかわっている。(作中でも噂されているけれども、ポープの人生を映画化するなんて、いったいなにを考えているのやら)事件の発端となるのは、この映画に出演するはずだった若い女優の自殺である。彼女はある晩、川に飛び込み、みずから命を絶つのだが、彼女が、詩のヒロインとはまたちがう意味で、「不幸な女性」であった。

彼女が自殺に至る経緯をまとめるとこうなる。若い女優は映画「不幸な女性」である役を演じることになり、映画会社と契約を結ぶ。私はよくは知らないが、こういう契約では映画の製作期間、俳優に舞台などのでの活躍を禁じるのだそうだ。もちろんあらかじめ会社と相談し、了解を取ればべつであるが。この女優の場合は、映画監督のある男に欺され、問題はまるでないと思って舞台に立つのである。そして舞台に出た後でこの映画監督は女優に、「お前は契約違反を犯した、映画出演の契約は破棄しなければならない」と彼女に伝えるのだ。

なぜこんな意地の悪い、ひどいことをしたのか。この映画監督の姉が大物女優で、この大物女優が問題の若い女優を毛嫌いしていたのである。大物女優が後ろから手を廻し、若い女優が映画に出られないように細工したのだ。

映画界というのは、実力があってもチャンスをつかんだときに、それを活用できなければ、一生日の目を見ないで終わってしまうそうだ。若い女優もせっかくの機会を失い、絶望し、川に身を投げる……というわけである。

そしてこの自殺事件をきっかけにして連続殺人事件が起きる。もちろん若い女優を死に追いやった人々が一人一人毒殺され、あるいは刺殺されていくのだ。ただ連続殺人事件の捜査を困難にしていたのは、若い女優の過去がまるでわからないことだ。彼女のことはグロリア・スコットという舞台名しかわからない。本名はおろか出身地も不明なのだ。彼女の過去がわかれば、彼女のために復讐を計る人間も容疑者として浮かび上がってくるはずなのだが……。

本編の探偵をつとめるのは、例によってオックスフォー大学で英文学を教えるフェン教授である。彼は最初の殺人事件が起きたとき、その現場に居合わせるのだが、彼が最初にこの殺人の動機を「復讐」であると見ぬく。そしてこんな言葉がそのあとにつづいている。
 「復讐だよ」とフェンが言った。
 この言葉は通常ならきわめてメロドラマくさい響きを持つのだが、この時はハンブルビーもキャプスティックもそれを聞いて笑うような気分にはならなかった。もしかしたらモーリス・クレイン(連続殺人の最初の犠牲者)の死体がすぐそばに横たわっていたからかもしれない。
このブログでは何度も書いていることだが、近代的なミステリは十九世紀的なメロドラマの描き方を脱却することで成立する。しかし脱却というのはメロドラマ的要素をなくすことではない。復讐とか愛慾といったメロドラマ的な要素はけっしてなくならない。しかし十九世紀的な物語においてはメロドラマは「展開」されたが、近代的なミステリにおいてそれは「構成」されるものとなるのだ。たとえば本編においてはどのような「復讐」のメロドラマが起きているのか、その主人公は誰で、その動機は何なのか、それが推理され「構成」されるのである。本編においてもそうだが、ミステリでは物語の最後に犯人が事件の全貌を説明することがある。(「私がこの手紙を書いているのは……復讐というひどくメロドラマチックなことをやりはじめたのはなぜか、その理由を明らかにしたいがためだ」)それは、たんにそれだけをとれば実にチープなメロドラマだ。昔はこの部分が延々何百ページにもわたって語られたのである。ところが近代ミステリにおいてはある種の物語の反転現象が起き、我々はメロドラマの外側を「読む」ようになるのである。私はこの認識の変換には大きな意味があると思うが、まだそれがはっきりとはつかめない。このことはフロイトが原父殺しなどというきわめつけのメロドラマを、トーテミズムを「外側」から読むことによって構成したこととも関連があるはずなのだが。

クリスピンくらいの作家になると、このあたりの変換は見事に達成されている。フェン教授が示す推理もまことに論理的で間然とするところがない。立派な本格ものである。