2016年9月30日金曜日

92 エリザベス・フェラーズ 「三月兎殺人事件」

The March Hare Murders (1949) by Elizabeth Ferrars (1907-1995)

エリザベス・フェラーズの作品はどれもよく組み立てられていてがっかりさせられることがない。この手堅い作家は日本ではあまり紹介されていないけれど、イギリスのミステリを支えた重鎮の一人である。本作もサスペンスに満ち、しかも立派な本格ものに仕上がっている。最初からおおいに推奨しておこう。

事件の中核的人物はヴェリンダーという教授である。彼は結婚しているのだが、奇妙に女性を誘惑する力を持っていて教え子や知り合いの女と次々と情交を重ねる。ところが彼は本気で彼らを愛してはいない。彼らを自分に惹き付け、そして残酷に突き放すのが好きなのである。どうもそれによって自分の心のバランスを取っているらしい。

そんな男だから彼を憎む人間は多い。オベニー(珍しい名字だ)・デイヴィッドもその一人である。彼の恋人は昔、ヴェリンダーの教え子で、彼に誘惑され、捨てられ、自殺してしまったのである。しかもデイヴィッドはヴェリンダーに対する憎しみをあからさまに表明していた。だからヴェリンダーが射殺されたとき、彼がもっとも強い嫌疑をかけられたのである。しかも彼はつい最近まで精神を病んで療養所にいた。精神が不安定になって憎い男を殺したのではないかと、誰もが考えるだろう。さらに決定的な証拠があった。ヴェリンダー殺害に使われた銃は、彼が持っていたレヴォルバーだったのだ。

デイヴィッドは自分が犯人にされそうなので、必死になって真犯人が誰なのかを考える。彼が妹や妹の亭主と交わす推理は二転三転する、じつにスリリングなものになっている。しかしデイヴィッドには犯人はわからない。見事な推理で真犯人を突き止めるのは警察である。犯人あてゲームが好きな人は、関係者全員が一堂に会する最後の場面がはじまるまえに、ひとつじっくり考えてみるがいいと思う。手掛かりはすべて提示されている。ヒントも充分すぎるくらい出ている。(ついでにレッド・ヘリングも)しかしそれでも、作者(ちなみに彼女はCWAの創立メンバー)がしかけた謎をあなたは見破ることができるだろうか。

一点だけ指摘しておきたいことがある。この作品の登場人物はみなパソロジカル(病的)なところがある。ヴェリンダーの女癖が病的であることは明らかだろう。デイヴィッドは心を病んだだけでなく火を極度に怖れる。彼の妹の旦那は、蠅が大嫌いで、室内で蠅を見ると新聞紙を手に狂ったように打ち掛かる。またある人物は虚言癖があり……という具合だ。近代的なミステリにはどうしてかくも多くのパソロジカルな人間が登場するのか。すでに何度かこのブログで書いたことだが、もう一度まとめておこう。

十九世紀のメロドラマにおいて人物は型に従って造形された。吝嗇な人間、陽気な人間、ペシミスティックな人間、善意の人間などなど、人にはそれぞれ確たる性格が与えられ、その性格にふさわしい振る舞いをしていた。ディケンズの小説を読めばそのことはよくわかるはずだ。

ところが近代的ミステリにおいてはメロドラマを外から、徴候として見ることになる。たとえばある人物が善意のかたまりであるとしたら、もはやわれわれは彼を善意のかたまりと見ることはできない。その善意は、内に秘められたパソロジカルななにかの徴候ではないかと見てしまうのである。谷崎潤一郎の「途上」はこの認識の転換を模範的に表出している。妻の健康と幸せを気遣う愛情ふかい夫は、そのあまりの愛情のふかさ故に、探偵によってパソロジカルななにかを隠していると判断されるのである。

この認識の転換、新しい視線の獲得こそが、古いメロドラマと近代的ミステリをわける決定的要素のひとつである。

このブログで私はエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」を高く評価したが、それはこのような認識の転換をよく示しているからだ。道徳的で善意にあふれた人間は、昔のように(十九世紀の読者が素朴に信じたように)ただ好ましい人物ではないのである。そこにパソロジカルななにかを見るのがミステリ作家が獲得した新しい「視力」なのである。ホワイトの作品において探偵は、善なるものが悪と「奇怪な形でからみあっている」のを見出す。

「三月兎殺人事件」にもこのような認識の転換が描かれている。デイヴィッドの妹は、以前はヴェリンダーに惹かれて不倫をしていたが、いまは気持ちを整理して、彼との関係を清算しようとしている。その彼女がこんなことを言う。ヴェリンダーのことなんかもうなんとも思ってはいない。二人の関係のことなんか話をするつもりもない。でもヴェリンダーはそのことをもとにしてドラマをつくらずにはいられないみたい。自分をあわれむべき人間のようにみなし、責任はみんな私にあるみたいな言い方をせずにはいられないのよ、と。さらに彼女はこうも言う。彼は嘘つきだわ。たえず他の人にも嘘を言うし、自分にも嘘を言う、と。

彼女はヴェリンダーと関係を持っていたとき、兄のデイヴィッドに問い詰められてこう応えている。彼に罪はない、私はヴェリンダーのすべてを理解して彼と関係を持っているのだ、責任は全部自分にある、と。デイヴィッドの自殺した恋人もおなじことを言っていた。彼に責任はない、すべて私が悪いのだ、と。彼らはヴェリンダーのドラマの内部にいたのである。それはヴェリンダーの欲望が構成する物語、彼にとってまことに都合のいい物語である。しかし彼との関係に見切りをつけたデイヴィッドの妹は、その物語の外に立つことを知ったのだ。外に立ち、その物語のパソロジカルな性格に気がついたのである。

2016年9月28日水曜日

91 マージェリー・アリンガム 「聖杯の謎」 

The Gyrth Chalice Mystery (1931) by Margery Allingham (1904-1966)

前回のレビューでも書いたけれど、近代的ミステリはメロドラマの外側を読む。外側には内側で起きていることが徴候的にあらわれるので、それを読み解き内部のドラマを知的に再構成する。これがミステリの醍醐味である。

最近、谷崎潤一郎が書いた短編推理物語「途上」を読み返しながら、作中の探偵が言う「行為の外形」とは、メロドラマ、すなわち会社員と妻の愛に満ちた生活の外に出ることをも意味することに気がついた。探偵はメロドラマを外から眺め、そこに見出される徴候を読解し、物語を再構成しているのである。

すぐわかることだが、外側と内側にはおかしなギャップがある。外側に徴候としてあらわれる事象は謎めいていて魅力的だ。しかし読み解かれた内容はじつに凡庸な、通俗的ドラマに過ぎない。ミステリではよく最後の部分でこの通俗的ドラマが短く語り直されるが、正直なところ、それを読む読者の関心はすでに次に読む本へとむかっていると言っていいだろう。

夢についてもおなじようなことが言える。夢そのものは謎めいている。しかし解釈によって明らかにされた夢内容はつまらないものでしかない。結局それは性的欲望であったり、願望充足であるにすぎないのだ。

「聖杯の謎」の出だしの数章は、メロドラマの外に視点を置き、内部のドラマの胎動を徴候的に描いて秀逸である。貴族の出身なのだが、父といさかいを起こして家を出て、ロンドンの街を放浪しているヴァルという青年が不可解きわまりない出来事につぎつぎと襲われる。ホームレスがたむろする広場のベンチをふと見ると、そこには彼の名前が記された手紙の封筒が見つかる。なぜこんなところに自分宛の手紙があるのかと彼は驚く。しかも宛名に使われている住所は彼がもと住んでいたところとはちがう住所だ。住所も間違っているのに手紙はちゃんと彼のもとに届いた。これは驚くべき偶然と言わねばならない。さらに彼は手紙に書いてある住所を尋ねていくのだが、得体の知れない男から謎のような言葉をかけられ、さらに、なぜかわからないが、怪しげなタクシー運転手によって誘拐されそうにすらなる。彼はまるでルイス・キャロル的なファンタジーの世界か、チェスタートン的な悪夢の世界にさまよいこんだような気分になる。彼はメロドラマの外に立っていて、内側でなにが起きているのかまるでわからない。しかし内部で起きているドラマの胎動が、彼の足もとを襲うのである。そのことは本文のなかで次のように表現されている。
 再び彼は奇妙な感覚を抱いた。彼のすぐそばで繰り広げられているドラマの、ちょうど外側に自分は立っているという感覚だ。
マージェリー・アリンガムは近代的ミステリが切り開いた境地のなんたるかをよく知っている。

しかし本編の主人公といってもいいであろうキャンピオンがあらわれ、ヴァル青年にすべてを説明すると、急に謎は解け、つまらないメロドラマが現出する。ヴァル青年がその一員であるガース一族は、何千年にもわたって聖杯を保管してきた由緒ある一族なのである。ところがこの聖杯をぶんどろうとする悪党どもがあらわれ、ガース一族の屋敷にしのびこんだり、ヴァル青年を誘拐しようとしたのだ。あの不思議な手紙も、キャンピオンによって何十枚か何百枚か、ヴァル青年があらわれそうなところにばらまかれた手紙の一通にすぎなかった。驚嘆すべき偶然は、内部から見れば必然にすぎなかったのである。これはまたなんと退屈な物語であろう。

しかしアリンガムは一癖も二癖もあるミステリ作家である。聖杯の奪い合いという一見すると単純なドラマが、進展すれば進展するほどファンタジーめいた妙な様相を帯びてくるのである。だいたい聖杯を何千年と守りつづけてきた一族というのがファンタジーによくありそうな設定ではないか。聖杯を奪おうとする悪党どもというのも、じつは世界中の金持ちが結成した盗賊団である。キャンピオン自身が「ファンタジーじみているが」と断って、盗賊団の結成にいたる過程をヴァル青年に説明している。さらに魔女の子孫もでてくるし、聖杯を守る巨人も登場する。ヴァル青年が相変わらず夢を見ているような感じだと思わず述懐するのは当然だと思う。要するに彼はひとつの夢の世界から別の夢の世界に落ち込んだのである。

そう、われわれは本当の意味で内側の世界に入り込んだわけではない。内側に入り込んだと思ったら、じつはそこも夢の世界、外側の世界だったのである。そこはやはり奇怪な徴候に満ちていて、読者に読解を要求するのである。本作におけるアリンガムの試みが功を奏しているかどうかは疑問だが、すくなくとも彼女がミステリの書き方に工夫を凝らしていることは明らかだと思う。彼女は「ミステリはソネットのように精密である」と語ったが、ポーとおなじように方法論に非常にこだわった作家だったと思う。

2016年9月26日月曜日

番外18 J.J.コニントン 「復讐」

Grim Vengeance (1929) by J. J. Connington (1880-1947)

以前このブログでコニントンの「博物館の目」を読んだとき、「手堅い」作品だと評したが、その印象は「復讐」を読んでも変わらなかった。いや、いっそう強くなったというべきか。文章には華がないが、事実や要点を過不足なく押さえる堅実さはある。筋の展開のさせ方、伏線の張りようも周到で、作者のあまりの几帳面さにおもわず笑ってしまった。作品の作りは非常に緻密である。本編の主人公サー・クリントン・ドリフィールドも作者と同様に細部にまで注意を払う人である。彼が姪の夫のかばんを開けて中をさぐる場面があるのだが、彼はまずかばんの中の状態を目に焼き付けて、完璧に元にもどせると確信してから、内容物を一つ一つあらためていく。この慎重さが彼の本領である。本編では三つの殺人事件が起きるが、その際にサー・クリントンが披露する推理も、すべての手がかりの意味を慎重に勘案する、沈着冷静な推理だ。彼はけっして結論に飛びつくことはなく、わからないところはわからない、仮説は仮説と、はっきり区別する。派手さはないが、しかし見落としもない堂々とした推理だと思う。とりわけ第一の事件と第三の事件で見せる彼の捜査と推理は見事で威厳すら感じさせる。

ところがこの堅実さはコニントンの限界でもある。彼は事実を論理的に腑分けする能力はあるけれども、人間の心理や感覚のひだに立ち入るような書き方はできない。そのことはサー・クリントンの姪のエルジーが、夫の正体を知って呆然とする場面によくあらわれている。そのありさまを描く言葉がクリーシェ(決まり文句)ばかりなのである。彼女は「膝ががくがくし」、「額の辺りで脈がハンマーのように打ち」、「雷に打たれたように全身がしびれて」しまう。感情の動きを表現する力がないために、コニントンはクリーシェを多用せざるを得なかったのだ。

しかしこういう文章力の欠如は多くのミステリ作家に共通して見られるものなので、私は特別にコニントンを責めるつもりはない。

「復讐」のストーリーをまとめておこう。サー・クリントン・ドリフィールドは遺産を受け継いで優雅に暮らしている富裕層の一人だが、じつは密かにイギリス政府のために働いているスパイである。このクリントンの姪エルジーがこのたびアルゼンチンの男と結婚した。ところがサー・クリントンは、この一見礼儀正しそうな男が、白人女性を南米に連れて行って売り飛ばす奴隷商人であることをつきとめるのだ。姪のエルジーはそのことを知らずに夫の母国アルゼンチンにまもなく渡航しようとしている。ここでサー・クリントンは迷う。もしも自分がなにもしなければ姪のエルジーは悲惨な運命に出遭うことになる。しかし彼女の夫が卑劣な奴隷商人であることを暴露すれば、夫は警察に捕まるだろうが、しかし姪は犯罪者の妻という過去を背負ってこれから生きてゆかねばならなくなる。さて、どうしたものだろうか、というわけである。サー・クリントンが取った解決策はじつに驚くべきものであったが、それは読んでのお楽しみとしておこう。

全体としてよくできた作品であるが、コニントンの美質が全開しているとはいえない。パズル・ストーリーの書き手として大いに実力を持っているようなので、期待してほかの作品も読んでみたい。

2016年9月24日土曜日

90 エドマンド・クリスピン 「葬儀の馬車は絶え間なく」

Frequent Hearse (1950) by Edmund Crispin (1921-1978)

タイトルはアレクサンダー・ポープの「不幸な女性の記憶にささげる哀歌」から取られている。曖昧な書き方をした詩なので、詳しい状況はわからないが、詩人の愛する女性が、後見人である伯父の反対によって意中の人と一緒になることができず、ついに自殺してしまうという内容である。詩人はそれを憤り、彼女の後見人・伯父の家族にむかって呪いの言葉を吐く。「お前の家の門へ 葬儀の馬車が絶え間なく押し寄せるだろう 長い葬儀の列が 墓地までの道を黒く埋めるだろう」

さて、この作品で殺される人々(三人の男女が殺される)はみなポープの人生を描いた「不幸な女性」という映画の製作にかかわっている。(作中でも噂されているけれども、ポープの人生を映画化するなんて、いったいなにを考えているのやら)事件の発端となるのは、この映画に出演するはずだった若い女優の自殺である。彼女はある晩、川に飛び込み、みずから命を絶つのだが、彼女が、詩のヒロインとはまたちがう意味で、「不幸な女性」であった。

彼女が自殺に至る経緯をまとめるとこうなる。若い女優は映画「不幸な女性」である役を演じることになり、映画会社と契約を結ぶ。私はよくは知らないが、こういう契約では映画の製作期間、俳優に舞台などのでの活躍を禁じるのだそうだ。もちろんあらかじめ会社と相談し、了解を取ればべつであるが。この女優の場合は、映画監督のある男に欺され、問題はまるでないと思って舞台に立つのである。そして舞台に出た後でこの映画監督は女優に、「お前は契約違反を犯した、映画出演の契約は破棄しなければならない」と彼女に伝えるのだ。

なぜこんな意地の悪い、ひどいことをしたのか。この映画監督の姉が大物女優で、この大物女優が問題の若い女優を毛嫌いしていたのである。大物女優が後ろから手を廻し、若い女優が映画に出られないように細工したのだ。

映画界というのは、実力があってもチャンスをつかんだときに、それを活用できなければ、一生日の目を見ないで終わってしまうそうだ。若い女優もせっかくの機会を失い、絶望し、川に身を投げる……というわけである。

そしてこの自殺事件をきっかけにして連続殺人事件が起きる。もちろん若い女優を死に追いやった人々が一人一人毒殺され、あるいは刺殺されていくのだ。ただ連続殺人事件の捜査を困難にしていたのは、若い女優の過去がまるでわからないことだ。彼女のことはグロリア・スコットという舞台名しかわからない。本名はおろか出身地も不明なのだ。彼女の過去がわかれば、彼女のために復讐を計る人間も容疑者として浮かび上がってくるはずなのだが……。

本編の探偵をつとめるのは、例によってオックスフォー大学で英文学を教えるフェン教授である。彼は最初の殺人事件が起きたとき、その現場に居合わせるのだが、彼が最初にこの殺人の動機を「復讐」であると見ぬく。そしてこんな言葉がそのあとにつづいている。
 「復讐だよ」とフェンが言った。
 この言葉は通常ならきわめてメロドラマくさい響きを持つのだが、この時はハンブルビーもキャプスティックもそれを聞いて笑うような気分にはならなかった。もしかしたらモーリス・クレイン(連続殺人の最初の犠牲者)の死体がすぐそばに横たわっていたからかもしれない。
このブログでは何度も書いていることだが、近代的なミステリは十九世紀的なメロドラマの描き方を脱却することで成立する。しかし脱却というのはメロドラマ的要素をなくすことではない。復讐とか愛慾といったメロドラマ的な要素はけっしてなくならない。しかし十九世紀的な物語においてはメロドラマは「展開」されたが、近代的なミステリにおいてそれは「構成」されるものとなるのだ。たとえば本編においてはどのような「復讐」のメロドラマが起きているのか、その主人公は誰で、その動機は何なのか、それが推理され「構成」されるのである。本編においてもそうだが、ミステリでは物語の最後に犯人が事件の全貌を説明することがある。(「私がこの手紙を書いているのは……復讐というひどくメロドラマチックなことをやりはじめたのはなぜか、その理由を明らかにしたいがためだ」)それは、たんにそれだけをとれば実にチープなメロドラマだ。昔はこの部分が延々何百ページにもわたって語られたのである。ところが近代ミステリにおいてはある種の物語の反転現象が起き、我々はメロドラマの外側を「読む」ようになるのである。私はこの認識の変換には大きな意味があると思うが、まだそれがはっきりとはつかめない。このことはフロイトが原父殺しなどというきわめつけのメロドラマを、トーテミズムを「外側」から読むことによって構成したこととも関連があるはずなのだが。

クリスピンくらいの作家になると、このあたりの変換は見事に達成されている。フェン教授が示す推理もまことに論理的で間然とするところがない。立派な本格ものである。

2016年9月22日木曜日

89 C・セント・ジョン・スプリッグ 「日焼けした顔を持つ死体」

The Corpse With The Sunburned Face (1935) by C. St. John Sprigg (1907-1937)
 
作者の名前のCはクリストファー。クリストファー・セント・ジョン・スプリッグというのが作者の本名である。初めて聞く名前だな、と思う人も多いかもしれないが、これがクリストファー・コールドウエルのことだと言われたら、びっくりするだろう。そう、あのマルキストで「幻想と現実」を書いた人だ。彼はスペイン内戦に参戦して殺されるまでに七冊のミステリを書いている。

私も今回初めて彼のミステリに接した。マルクス主義を信奉するインテリらしい娯楽作品だな、というのが私の印象である。

この作品は二部構成になっていて、前半はイギリスの僻村における殺人事件の捜査、後半は刑事がアフリカに行って冒険するという物語になっている。話の要点をかいつまんで言うと、要するに三人の男がナイジェリアのある部族の宝物を盗み、捕まって刑務所に入れられてしまう。そのうちの二人は刑が軽く早く刑務所を出てイギリスに帰るのだが、そのときこっそりと隠しておいた宝物の一部(部族に返還されなかった宝物)も持ち帰るのである。彼らは分け前を増やすために、三人目の男から姿を隠そうとする。

裏切られた三人目の男は、刑務所を出てから残りの二人を探し出そうとする。そして二人を殺し、宝物を手に入れようとするのだ。そこで起きる二つの殺人事件とその捜査が前半部分で語られる出来事である。

ところがこの三人目の男も第一部の最後で殺され、宝物も何者かによって持ち去られてしまう。そう、宝物をもともと所有していたナイジェリアのある部族が、宝物を取り返したのである。事件を捜査していた刑事は、三人目の男を殺した男を捜し、また事件の全貌を解明しようとしてアフリカへと向かう。そこで現地の秘密結社や呪術師たちによって生きるか死ぬかの危険な目に遭わされる。これが第二部で語られることである。

この粗筋を読んだだけでも、ドイルの「四つの署名」とかリチャード・マーシュの「ビートル」や「ジョス」といった、ヴィクトリア朝後期に人気のあったいくつかの物語の影響が見て取れるだろう。

と同時に、第一部の殺人事件の解明の部分では、新しい事実が判明することによってそれまでの事件の様相が一変するという書き方が取り入れられている。たとえば「井戸に沈められた容器の状態、井戸の上の土の状態から考えて、容器が沈められたのはオレアリーがリトル・ホイッピングの村に来る前だろう。だとすると事件の相貌はがらりと変化することになる」といった部分にそれははっきりとあらわれている。

つまりこの作品はポピュラーなメロドラマを土台にしながらも、ほんのちょっとだけ近代的なミステリの要素を取り込んだ作品ということができるだろう。アルフレッド・ガナチリーの「死者のささやき」もうそうだったが、過渡的な作品の中にはこういう古い物語の型と新しい要素を混在させたものがある。

その他にもこの作品にはいくつかの特徴がある。一つはユーモアである。難解な詩論を書いている作者だが、本編は随所にユーモアが仕掛けられていて私はクスクス笑いながら読んだ。イギリスの僻村へ学術調査のためにアメリカの人類学者が訪れるのだが、この美しくて若い学者と、僻村に住む牧師のやりとりは、じつに秀逸。私が抱いていたクリストファー・コールドウエルに対する印象のほうも「がらりと変わって」しまった。

もう一つは誰にでも親しめる物語の形でナショナリズムと多文化主義の問題を扱っていることである。僻村の牧師館にアフリカ人の客が泊まりに来ると、牧師の奥さんはこの黒人に対してたいへんな拒否反応を示す。ここもユーモラスに書かれていて、二ページくらいここに訳出したいくらいなのだが、長くなりすぎるので簡単に書く。奥さんは黒人が「あの歯でトーストをかじる音を聞くと、まるで人間の骨をかんじっているみたいに聞こえる」と言うのだ。それに対して牧師は「それは思い過ごしというものだよ。お前はいつも教会の伝道教会のためにジャンパーを編んだり、バザーを開いていたじゃないか。皮膚の色にかかわらずすべての人間は兄弟なんだよ」と言う。すると奥さんは「彼が兄弟なのは否定しないわ。ただこの家にはいてほしくないのよ」と返事する。ここには2016年の今に至るも変わらない、外国人・移民に対する庶民的な感情がある。

これに対して第二部ではイギリスの法律をナイジェリアの人間に押しつけようとした刑事が、生きるか死ぬかの冒険を通じて、相手方の考え方を理解するようになり、ついには刑事であることを辞め、ナイジェリアに住むことになる。アフリカの文化は西洋の文化とは違う。たしかにそこには魔術的な、非科学的な文化かもしれないが、それを単純に未開であるとか遅れているとか野蛮であるとは言えない、ということを知るのである。こういう認識はアフリカやアジアの文化を神秘や怪奇のベールで覆うようにして描いた、ほかの凡俗のジャンル小説作家が持っていなかったもので、コールドウエルの見識の高さを感じさせる。
 

2016年9月21日水曜日

88 ケリー・ロース 「わずかな見込み」

Ghost Of A Chance (1947) by Kelley Roos

ケリー・ロースは本当はふたりの作者の合同ペンネームである。オードリー・ケリー・ロース (1912-1982) という人とウィリアム・ロース (1911-1987) という夫婦がこのペンネームを使って推理小説を書いていた。その推理小説で活躍するのもジェフ・トロイとハイラ・トロイという夫婦者である。本作でもこのユーモラスなふたりがニューヨークの街を飛び回って大活躍するが、しかし他の作品と違って推理小説と言うよりは、サスペンス小説のような味わいになっている。

あるときトロイ夫婦の家に謎の電話がかかってくる。名前を告げようとしない男が、ある女性が殺されそうなので、助けてほしいと言うのだ。詳しい話をするので、しかじかのパブまで来てくれ、と彼は頼む。トロイ夫婦は親友の警部とともにいくつも事件を解決しているから、ちょっとした有名人である。それでこの名前を言おうとしない男は彼らのところに連絡してきたのだろう。トロイ夫婦はそろって雪の降る中、そのパブへ行く。ところが相手はあらわれず、ふと手許の紙マッチを見ると、「やつらが見張っている。場所を変えよう。××へ来てくれ」と書いてあるのだ。

こんな具合にトロイ夫婦はニューヨークの街を転々と移動する。そして指示に従ってとある地下鉄の駅へ行くと、電話の相手とおぼしき男が線路に落ち、電車に轢かれて死んでいたのだった。

トロイ夫婦は男の身元を確認し、彼がケネディー家という金持ちの馭者をしていたことを突き止める。命が危険にさらされていると彼が言っていた女性は、ケネディー家の誰かではないかとトロイ夫婦は考え、彼らは人づてにケネディー家と係わりのある人々を訪ねていく。そしてケネディー家の一人の女性が近々その誕生日に莫大な遺産を受け取ることになっていることを探り出す。

これで事件の輪郭ははっきりしてきた。誰かが彼女を殺害し、遺産を横取りしようとしているのだ。トロイ夫婦は遺産相続人の女性に危険が迫っていることを教えようとするのだが、彼女を殺害しようと狙っている人々のグループがトロイ夫婦を妨害し、命すら狙ってくるのだった……。

トロイ夫婦が謎の男から電話を受け、そのときからほぼ二日のあいだ、ニューヨークを駆けずり回ったり、汽車の旅に出たりする話で、非常に楽しかった。一種の追跡劇で、物語の進行は単純だが、スピード感があるし、単純な話だと思って呑気に読んでいると、実はこまかく伏線が張られていて、トロイ夫婦の鋭い指摘にはっとするという、なかなか考えられた作品になっている。遺産相続人が危機一髪のところで助かってからも、さらに一ひねりがあり、読後の満足感は高い。軽いタッチの、ユーモアに溢れた作品が好きな私はケリー・ロースの大ファンなのだが、もっと日本にも紹介されていい作家だと信じる。

本書の際立った特徴は、ニューヨークという充実したネットワークの存在を描いた点にある。網の目のように発達した地下鉄、鉄道、街路、そして電話。とりわけ電話は大きな役割を果たしている。殺人の可能性がトロイ夫婦に知らされたのは電話を通してである。その殺人がいつ行われるのかわかったのも電話の会話からである。殺される女性の居場所を示す手掛かりも電話の内容を記したメモから発見された。ただし手掛かりはいつも断片的である。殺人計画の知らせは、知らせた人の名前もわからないし、殺される人の名前もわからないようなものだった。殺人の予定時刻もふと耳に入った言葉の断片から判断したにすぎない。殺される女性の居場所を示すメモも、数字が書いてあるだけで、推理を働かさなければ、それがなにを意味するのかはわからなかった。ネットワークを洩れてくるこうした断片的な手掛かりをもとに、トロイ夫婦は殺人事件を防ごうと必死の捜査をするのである。

ミステリとネットワークのあいだには深い関係がある。私が訳した「オードリー夫人の秘密」でもオードリー夫人の甥が「人づてに情報を得ながら」、オードリー夫人の身元を探ろうとする場面がある。情報を求めて次から次へと連鎖的に人に会うその行為は、社会を覆う間主観性のネットワークを渡り歩く象徴的行為でもある。そして結局彼女の身元がわからなかったと言うことは、オードリー夫人が間主観性のネットワークにあいた穴であることを意味するのだ。ちなみに本書においても死んだはずの人間、ネットワークに存在しないはずの人間が犯人になっている。

2016年9月19日月曜日

87 メアリ・リチャート 「町の殺人」

Murder In The Town (1947) by Mary Richart (?-1953)

まるで聞いたことのない作者だが、調べて見ると1953年に七十三歳で亡くなっていて、ドレクセル・ドレイクという人がシカゴ・トリビューンに載せた「1947年のベスト・ミステリ」という記事には本作の名前が挙がっている。興味深いのでこの記事で高評価を得た十作をここに示しておこう。
10 BEST OF 1947  
THE BLANK WALL, by Elisabeth Sanxay Holding
THE DARK DEVICE, by Hannah Lees.
DEVIL TAKE THE FOREMOST, by Thomas Kinney
ONE MORE UNFORTUNATE, by Edgar Lustgarten.
FINAL CURTAIN, by Ngalo Marsh.
HATE WILL FIND A WAY, by Marten Cumberland.
MURDER IN THE TOWN, by Mary Richart.
LOOK TO THE LADY, by Joseph Bonney.
BY BOOK OR BY CROOK, by Anthony Gilbert.
UNEASY TERMS, by Peter Cheyney
そうか、ホールディングが The Blank Wall を書いた年なのか。私は異常心理をサスペンスフルに物語化したホールディングの大ファンで、いつか彼女の作品を訳出しようと思っている。The Blank Wall はレイモンド・チャンドラーにも良い作品と認められ、何回か映画化されているはずである。

しかしこんなことを書いていたらきりがない。話を「町の殺人」に戻そう。これはアメリカ南部のプラムヒルという小さな田舎町で起きた事件を描いている。主人公かつ探偵を演ずるのは、オークランドの小さな大学で、今で言うクリエイティブ・ライティングを教えているミスタ・ディクソンである。彼はトーテムと綽名されるくらい、おそろしく背が高い男で、以前にも探偵的才能を発揮して難事件を解決しているらしい。彼は本を書こうとして、静かな田舎町プラムヒルへ行った。

もちろん心静かに執筆に没頭できるわけがない。美人で、その町の多くの男たちと関係を持ったグウェンドリンという女が殺されたのである。彼女はミスタ・ディクソンのかつての教え子でもあって、あやうく男女の関係に入りかけたこともあるらしい。その彼女がとある家の庭で撲殺された。

誰もが誰もを知っていて、都会なら無視されるであろう小さな出来事が大きな噂の種になるようなこんな町で殺人事件が起きる。ある人は浮浪者(外部の者)の仕業だろうと言った。当然のことだろう。しかし表面的にはなにも起きていないようでも、この田舎町では密かにある緊張が高まっていたのである。探偵役のミスタ・ディクソンはその秘められた緊張関係を次々と暴いていくことになる。

本作に本格的な推理を期待してはいけない。本格物の伝統に従って、物語の最後に関係者が一堂に集められ、ミスタ・ディクソンが犯人をあぶり出しはするものの、そしていくつか切れ味の鋭い指摘はしてみせるものの、パズルとしてみるなら、読者に充分手掛かりが与えられているとは言えず、ある種の物足りなさを感じさせる。しかしかなり善意に解釈するなら、作者の意図は巧妙なパズルを構成することにはなく、なにも起きないように見える南部の退屈な田舎町においても、じつは隠れた次元において殺人となって爆発するような人間関係の軋轢が集積されているという事態を描くことにあったのはないだろうか。そう、この田舎町においては面だった形でドラマは展開していない。しかしそれは個人=犯人の内部で着実に醸成されているのだ。犯人を指摘する最後の場面で、ミスタ・ディクソンはさまざまな事実を手掛かりに、そのドラマを再構成してみせる。そしてそのドラマは――ネタバレが厭なので詳しくは書かないが――愛と裏切りと復讐という、まさしくメロドラマといってもいいドラマなのである。

そこまで考えて、私はちょっと待てよ、と思った。私は近代的なミステリとメロドラマの関係についてずっと考えてきた。前者は後者の形式を脱却したときに成立するとも書いた。それは間違いないだろう。しかしそれはメロドラマが葬り去られることを意味するわけではない。たとえば本書ではメロドラマがさまざまな徴候を通して探偵によって「再構成」されていることになりはしないか。近代的なミステリにおいて、メロドラマは展開されるのではなく、推理によって構成される! ここにはある種の物語の位相の反転があるように思える。

2016年9月17日土曜日

86 ジョージェット・ヘイヤー 「なぜ執事を撃つのか」

Why Shoot A Butler? (1933) by Georgette Heyer (1902-1974)

超大物作家の登場である。ロマンスにしろミステリにしろ伝奇小説にしろ、ヘイヤーのあの堂々たる書きっぷりにはいつも圧倒される。天性のストーリーテラーなのだろう。

本編もヘイヤーらしい悠揚迫らざる筆致で殺人事件を展開させている。なによりも良いのは登場人物が誰も彼も生き生きとしていることだ。それぞれ非常に強い個性を持つ存在として巧みに描き分けられている。われわれは探偵役の法律家アンバーリーを、気取った鼻持ちならない貴族、しかしその見かけの背後に情熱を秘めた男として、くっきりした像を思い浮かべることができる。彼の伯父は人のいい、どこか抜けたところのある、今風の言葉で言えば「ゆるい」キャラクターの持ち主である。伯母のほうは心優しい貴婦人なのだが、ぼんやりしているようで鋭い観察力を持ち、また貴族らしい(しかし滑稽な)高慢さをその挙止のはしばしに見せる。事件が起きる僻村の警察官は……という具合で、本編を読む大きな楽しみのひとつは、こうした人物たちがいかに「らしさ」を発揮するかという点にある。

第二に語りが含むユーモアがすばらしい。とりわけアンバーリーが伯父・伯母と交わす会話は爆笑ものである。たとえば伯父・伯母の屋敷に夜間、泥棒が入り、アンバーリーと伯父が被害の状況を調べている。そこへ伯母のマリオンが寝室から降りてきて賊にひっかきまわされた書斎へあらわれる。
 「あら、わくわくするわね。ひどい荒らされよう。片付けをする召使いがたいへんだわ。どうして書斎を狙ったのかしら」
 アンバーリーが頷いた。「伯母さん、そこなんですよ、問題は。ほかの人は問題と思わないだろうけど。ところでなんで顔に白い漆喰を塗っているんです?」
 「フェイス・クリームよ。わたしくらいの歳になると必要になるの。おかしい?」
 「おそろしく不気味ですな」
泥棒に入られて「わくわくするわ」もないものだが、こういう落ち着き・世間離れしたところが貴族なのであろう。またこうした視覚的なユーモアや会話のテンポを見ていると、映画の影響を大きく受けているように感じられる。

逆につまらないところをあげると、それはまさに長所の裏返しである。人物像が類型化しているために怪しい人間は怪しく描かれてしまうのだ。ミステリの常道としていちばん怪しく描かれている人物は犯人ではないから、真犯人はきっとつぎに怪しい人間にちがいない。そうすると……というように考えると、犯人がわかってしまうのである。

もう一つ気になるのは、偶然の出来事がやや多すぎるのではないかという点だ。これは私が説明しなくても気をつけて本書を読んでいただければわかることだし、ネタバレがいやなのでこれ以上は書かないが、しかし偶然を多用するのがメロドラマの特徴の一つであったことは思い出しておいてもいいだろう。

そう、類型的な人物像、メロドラマ的な筋の展開。ヘイヤーは映画的な描写や、スピード感のある語りで新しいミステリをつくろうとしているけれども、しかし私は本質的なところでまだ古い型を残しているのではないだろうか、と思うのだ。いや、案外、だからこそ多くの読者を惹きつけたのではないだろうか。日本でも「水戸黄門」みたいな古い、型にはまったドラマが受けるように、たいていの人は物語に対して保守的な態度を持っているものだ。モダニズムのような実験は、一時的に少数の人々を熱狂させるが、すぐに堪えられなくなって捨てられてしまう。

いやいや、話を戻そう。本編はこんな具合にしてはじまる。ある夜のことだ。法律家のアンバーリーは僻村に住む伯父・伯母そして従姉妹の家を訪ねて寂しい道路を車で進んでいく。突然ヘッドライトの中に、車と、そのそばに佇む女の姿が浮かび上がる。アンバーリーは車が故障でもしたのだろうと、親切心から車を停める。ところが、停まっている車の中には銃で撃たれた男の死体があったのである。女は、自分は殺人とはなんの関係もないと主張するが、なぜこんな辺鄙な場所に来たのか、殺された男とどういうつながりがあるのか、詳しいことを語ろうとはしない。状況から見て女が殺人犯でないことは確かだと判断したアンバーリーは彼女をそのまま残し、村へ行って警察に通報する。その結果わかったのは殺された男がその村の金持ちファウンテン家の召使いだったということだ。しかしなぜ彼は殺されたのか。アンバーリーは警察と共にこの謎を解明していく。

謎解きとしてはさほどの出来ではないが、すでに述べたようにこれはストーリーテリングを楽しむべき作品である。十九世紀に発達した、読者を楽しませる技術が、いっそう洗練された形でヘイヤーの作品の中に結実している。彼女の作品はもっと日本に紹介されてもいいと私は思っている。

(お断り)
最近、記事のアップロードが頻繁だが、実はもう百冊のレビューは終わっている。始めてちょうど一年で予定の冊数を読み終わったのである。多少書いたものに手を入れるので(忘れなければ)二日か三日おきにブログを更新していくつもりである。

2016年9月16日金曜日

番外17 行為の外形

番外17 行為の外形

われわれは行為の意味を行為者の意識・意図に問い尋ねる習慣がある。いたずらした子供に向かって父親が「なぜこんなことをした」と問うように。

私は谷崎潤一郎の短編「途上」の読解を通して、谷崎が行為の意味と行為者の意識をラディカルに切断していると考えた。(番外6参照)意味を意識に問うてはならない。意識は偽りを言う、あるいは誤認するものだからである。行為の意味を知るには、意識とは切りはなされた「外形」としての行為に着目しなければならない。

「外形」の問題は奇妙な広がりを持っている。私が外形について考えはじめて最初に気づいたのは次のようなことである。私は幽霊を信じていない。幽霊を信じる人がいたら一笑に付すか、軽蔑するだろう。ところが真夜中に一人で誰もいない田舎道を歩いているとき、私は平気でいられない。草の揺らぎや木の影に胸が騒ぎ、あきらかに微かな怖れを感じているのである。私はふだんは幽霊を断固否定する。そんなものは露ほども信じていない。しかし夜の田舎道を歩く私を、行為の外形でもって判断するなら、私は幽霊を信じているのである。

ここには奇妙に歪んだ「信」の形がある。私は幽霊を信じていないが、しかしあたかも信じているかの如く行為している。もしも私が「お前が夜の田舎道を歩く様子を見ていると、まるで幽霊を信じているみたいだ」と言われたら、「いや、それは木が人の形に見えたからだ」とか「急に枝が揺れてびっくりしたのだ」とか言い訳したり、「そんなことはない」と相手の言うことを不満そうに否定するだろう。

通常、信念と言えば、われわれは宗教の信者のことを考える。「私は~の教えの信者である。信者の一人であることを誇りに思う」というように彼はおのれの「信」を自覚している。しかし私があげた例ではそうではない。夜の田舎道を歩く私は「信」を持っていない。だが、「信」を持っているかのように振る舞う。この点に関しては Robert Pfaller が On the Pleasure Priciple in Culture という秀逸な本を書いているので参考にしてほしい。

第二に「責任」の問題がある。行為を外形としてみるとは、行為を意図と切りはなして見ることだが、しかしそれは行為の主体から行為の責任を免除するものではない。それどころか、主体の意図せざる結果が行為から生まれた場合でも、その責任は主体にあるのである。「途上」の例で言うなら、会社員は妻を殺害する意図はまったくなかったかもしれないが、その行為を外形において見るなら、偶然を利用して妻を殺害する行為に等しい。そのようなものとして彼は自分の行為に責任があるのである。「私はそんなことを意図して行為したのではない」という言い訳は通用しないということである。ウエーバーが「職業としての政治」で言っている責任倫理とは、外形としての行為に対して政治家は責任を負うということである。

第三に相反物の一致の問題がある。「途上」の会社員の場合、妻への愛情と妻への殺意は二つの異なるレベルにおいて合致している。会社員は自分の行為を妻への愛情を示すものだと「意識」しているが、探偵はそれを外形としてみたとき、妻への殺意を示すものだと解釈してみせる。逆に言えば、外形としてどれほど忌まわしい行為であったとしても、その行為者の意識にその意図を問うたならば、なにやら美しい理屈を聞かされるかも知れないということである。外形としての残忍性と主体の内面的洗練は混在しうる。連続殺人犯の心中に詩的な宇宙が存在していてもまったく不思議はない。逆に立派な業績を残している学者が、その思想を実現しようとしてホロコーストに協力することもある。しかし精神分析的な知見に寄れば、主体は嘘をつく、あるいは誤認するのである。そしてすでに言ったように主体は外形としての行為にこそ責任を取らなければならない。

第四に外形の「物質性」の問題がある。このことに気がついたのはスラヴォイ・ジジェクを読んでいるときのことだった。ジジェクはその書籍や講演で、何度もチベットのマニ車に言及している。マニ車とは経文を納めた円筒形の器具で、これを一回転させれば一回経文を読んだことになるのだ。マニ車を回すあいだ主体はなにを考えていてもいい。あるいはどんな行為をしていてもいい。とにかくマニ車を回していれば、彼は祈っていることになるのだ。なんなら風車式の仕掛けを作って自然の力でマニ車を回転させ、自分はどこか別の場所へ行き、思いきり猥褻な行為にふけってもいい。それでも彼は祈っていることになるからだ。外形としての行為はこのように物質によって代替されうる。

第五の問題はこの代替性にかかわるものだ。行為は代替されうる。「よろしく言っていてくれ」と挨拶を他人に任せることもあるし、掃除をルンバにさせることもあるし、ミステリ小説では自分が敵を殺す代わりに、いろいろな仕掛けに彼を殺させることがある。とりわけ行為がモノによって代替されるとき、行為の外形性は際立って見えてくる。そして行為を外形としてみるとき、肝腎なのはそれが代替されたものではないかと考えることである。「途上」の会社員の場合、彼の妻に対する行為は、たとえば彼の愛人が望むことを彼が代替して行っているのではないかと考えることだ。私はこの問題をスチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」(1987)に即して考えたことがある。主人公である小さな女の子の行為、空想、発話をその外形において見るならば、それらは母親(継母ではなく)の欲望を代替していることがわかる。我々が語るとき、問うべき質問は、誰が語っているのか、そしてどこから、というものでなければならない。

第六の問題。「途上」においては「妻は死ぬまで夫の暖かい愛に包まれて人生を送った」というドラマを、探偵が外部からデコンストラクトする。このとき探偵は物語の外部にいることになる。行為を外形としてみるということは、物語の外部に立つことでもある。あたりまえのことだが、本格推理小説が成立するにはこの外部という立場の確立が必要になる。二十世紀前半において、ミステリはメロドラマという形式を蝉脱して、論理性を物語の駆動力にする近代的なミステリの形式に移行したと私は書いてきた。それを外形性の問題から言い直すと、メロドラマを外部から見る視点を確立したときに近代的ミステリは誕生した、ということにほかならない。私はこの点に注意しながら残りのレビューを行っていくつもりである。

2016年9月14日水曜日

85 アンソニー・バークレイ 「服用すべからず」 

Not To Be Taken (1938) by Anthony Berkley (1893-1971)

アンソニー・バークレイである。しかも本格的なパズル・ストーリーである。面白くないわけがない。最終章の直前にはこうある。
 すべての証拠は読者の目の前にある。ここで一息ついてつぎの質問に答えてみていただきたい。
 1 ジョン・ウオーターハウスを殺害したのは誰(あるいは何)か。
 2 ジョン・ウオーターハウスはいかにしてヒ素を飲むことになったのか。その理由は。彼が死に到る過程を簡単に示してもらいたい。
 3 ダグラス・シェーウェルの語りから推理できること、手掛かりをできるだけあげてもらいたい。
 4 決定的な手掛かりはあるだろうか。あるとしたら、それは何か。
こういう堂々たる挑戦を受けて心ときめかないミステリ・ファンはいないだろう。しかし本書は論理ゲーム以外のところでも私を楽しませてくれた。

物語をざっと整理すると、ドルセットシャー州のアニーペニーという村で、仲のいい六人の人間がある日集まって小さなパーティーを開く。その席で主人役のジョン・ウオーターハウスが急に具合が悪くなり、結局急死してしまうのである。医者は病死と判断したけれど、ジョンの弟が無理矢理死体を検死解剖させ、その結果、臓器からヒ素が検出された。いったい誰がジョンにヒ素を飲ませたのか。そしてその方法はいかに。

事件自体はきわめて単純で、事件が起きてからは審問の様子が詳しく描かれるだけである。つまりジョンが急死するまではパーティーがあったり、医者が診療したり、看護婦が被害者の容態を見たりとあわただしく人が動くが、その後はアクションらしいアクションがとくになにもないのだ。そして審問がジョンの死を事故死と結論づけてからすぐあとに、本書の語り手であるダグラスがふと事件の真相に気づくのである。

アクションがないのでは退屈ではないか、ミステリを読まない人ならそう思うかもしれない。いやいや、そんなことはない。何度もこのブログで書いたことだが、近代的なミステリは一時代前のメロドラマを脱却したところに成立する。偶然とかセンセーショナリズムによって駆動される物語から、論理的展開と様相の変化を主眼にした物語へと移行したのである。論理的展開というのはわかりやすいが、様相の変化とはどういうことか。たとえば被害者のジョンは、殺される以前は気持ちの優しい男として描かれている。しかし彼の死後、警察やスコットランド・ヤードが捜査を開始すると、彼がこっそりとイギリス軍のためにある種のスパイ行為をはたらしていたこととか、妻に知られぬように情婦をかこっていたことが判明するのである。彼のイメージは事件の前後でがらりと変わる。

またジョンの妻も同じように印象が変化する。彼女は病弱で寝込んでばかりいるのだが、本当は彼女は身体的になんの異常もかかえていないことが事件後にわかる。彼女の病気は周囲の注意を自分に惹きつけるための贋の病気、精神的な病気なのである。さらに彼女にも恋人がいて、なんと夫のジョンもそのことを承知していたことがわかってくる。素朴な夫婦のようにみえたのが、じつは仮面夫婦だったのである。

もちろん様相の変化の最大のものは、物語の最後、犯人を指摘する場面である。もっとも罪のない見かけの人間が、もっとも罪深い人間に変貌する瞬間である。ここでは論理的展開と様相の変化が手を取り合って強力に作動することになる。

とにかく近代的なミステリはこういう様相の変化を描くがゆえに、とくにアクションがなくてもよいのである。本作はその模範的な例と言えるだろう。

そのせいだろうか、作中人物たちは、ジョンや妻が、彼らが思っていた人物とはまるで違う人物だったことにたいする感慨のようなものが何度も語られる。
 不思議というか、ほとんど怖ろしいことだね。ぼくらは、友だちがぼくらに抱いているイメージとはまるで違う存在なんだよ。
 ぼくらは誰かが自分はこういう人間なんだというと、すぐああそうなのか、そういう人なのかと思ってしまうよね。ジョンは自分がどういう人間かということをよくしゃべっていた。その結果、ぼくらは彼はそういう人なんだと、自動的に思い込んでしまったのさ。だけどそれはほとんどが間違いだった。
 ジョンの奥さんには君ら全員、だまされていたんじゃないか? まあ、驚くようなことじゃないよ。彼女自身、自分にだまされていたんだから。永年にわたって彼女は自分をだましていたんだ。神経症だな。心理学的に面白いケースだ。
 治る見込みのない哀れな病人としてぼくらはジョンの妻を扱い、機嫌を取り、同情してきたのに、じつはぼくの妻とおなじくらいぴんぴんしていて、ぼくらの同情はすべて無駄についやされたのだ、などということを信じることは簡単ではなかった。
メロドラマにおいては登場人物は多くの場合ステレオタイプ化されている。ディケンズの小説に登場する人物を見るとわかるが、同じ人物は何度も同じ形容詞で描写され、その人固有のイメージを形づくっている。陽気な人間はどこまでも陽気であり、吝嗇な人間はどこまで吝嗇である。しかし近代的なミステリにおいてはそうした人間の認識はがらりと変化する。われわれは他人のことをこうだと断定的に語ることはできない。それどころか下手をすると自分のことすらどういう人間かわからないのだ。ここに近代的ミステリと心理学・精神分析との接点がある。

ついついミステリ論を展開してしまったが、バークレイはさすが黄金時代の立役者だけあって、そういうことを考えさせる深みのある作家なのである。

2016年9月11日日曜日

84 レスリー・フォード 「ウィリアムズバーグ殺人事件」

The Town Cried Murder (1939) by Leslie Ford (1898-1983)

もちろんこの本の中では人が殺され、その犯人が突き止められる。しかし私の見るところ、事件それ自体は本書の中心的主題ではない。本当に問題になっているのは新旧二つの考え方・態度の対立である。

物語の舞台はアメリカ、バージニア州のウィリアムズバーグ。誰もが知っている歴史的な町だ。ヤードレー一家はこの土地の由緒ある旧家のひとつだった。
 しかし南北戦争以後、ヤードレーの一族は没落の一途をたどり、一九二〇年代後半には借金に苦しむ生活を送っていた。

ちょうどそのころ、レストレーション社がウィリアムズバーグの土地や家屋の買い取りをはじめていた。レストレーションと聞くとリチャード2世の王政復古を思い出すが、このレストレーション社は、私が調べたことが正しいなら、ロックフェラーが金を出している会社で、ウィリアムズバーグの古い町並みを保存する目的で設立されたものだ。会社は家屋を買い取るが、住人にはそのままそこに住んでいてもらう。家屋の修理が必要なら、会社はその費用も出す。住人にとっては棚からぼた餅みたいな話である。実際大勢の人がレストレーション社の進出を歓迎していた。

しかしヤードレー家のオールド・ミス、メルシナはこれに反対だった。ちょっとわかりにくいかもしれないが、メルシナはヤードレー家に強い誇りを抱く、因習的な女であり、いくら金に困っていても、屋敷をどこの馬の骨ともしれない会社に売るなんぞ、断じてできることではないと考えていたのである。

しかしヤードレー家は借金がかさみ、屋敷を手放さなければならないくらい財政的に逼迫している。レストレーション社の助けを借りず、メルシナはどうやってこの窮状を切り抜けようというのか。彼女はまさに十九世紀的な手を使おうと考えていた。二十歳になったばかりの彼女の姪フェイス(彼女の兄の娘)を金持ちの男に嫁がせようというのである。彼女は姪にむかってこんなことを言う。「わたしたちはヤードレー家のためにみずからを犠牲にしてきました。今度はあなたが自分を犠牲にする番です」と。

さて、本書の語り手であるルーシーという女性もヤードレー家の一員で、年齢もほぼメルシナとおなじくらいだと思われる。しかし彼女は昔からメルシナとは考え方が逆なのだ。ルーシーはレストレーション社の事業を福音のように感じるし、フェイスが好きでもない男、しかも二十五歳も歳上の男と結婚することに大反対である。そして冒頭に述べたようにメルシナ/ルーシーにあらわされるこの新旧の考え方の対立こそ、本書のいちばんの読みどころである。

二十世紀の前半に書かれたミステリにはこういう新旧、つまり十九世紀的・ヴィクトリア朝的態度と、近代的・合理主義的態度の対立がしばしば描かれるのは、ミステリというジャンル自体が古いメロドラマから新しい物語形式に蝉脱しようと努力していたからではないだろうか。こういう作品では古い因習的態度がよくメロドラマにたとえられるが、本書においても「由緒ある一族が借金を払うために好きでもない男と結婚する話なんざ、古いメロドラマにはいくらでもでてきますよ」などという台詞が登場する。

話を思い切りはしょるが、結局のところ古い考え方は駆逐される運命にある。メルシナはフェイスにむかって「家のために行動しろ」と言うけれど、メルシナの兄、つまりフェイスの父は娘にむかって「自分がいちばんいいと思うように行動しなさい」と言うのである。フェイスは父の言葉に従って、事件後、自分が本当に愛する人と結婚することを決める。面白いことに、語り手のルーシーも、事件後、若いときに「家のために」結婚をことわった男性と再会し、彼から「今度は逃げないでくださいよ」と優しく言われるのである。「家のために行動しろ」とはずいぶん古くさい因循な考え方だが、それが否定され、個人の心に忠実であることの大切さが最後に示されるのである。ルーシーは昔、家のために失った恋をもう一度回復するわけで、なるほどレストレーションにはそういう意味もかけてあったのかとちょっと感心した。

しかし私はこのハッピーエンディングをハッピーエンディングとして読むことはできなかった。古い考え方が否定され新しい考え方があらわれる。だが、その新しい考え方とはなんなのか。ウィリアムズバーグの町がロックフェラーの財力によって買われていくように、十九世紀的なものは二十世紀的な資本主義体制にのみこまれていったのではないか。日本の場合を考えてもそうだが、「イエ」というくびきから人々を解放することが、いまわれわれが見ている資本主義への第一歩ではなかったのか。作者のレスリー・フォードは決して資本主義(レストレーション社)のことを問題にはしていない。しかし無意識のうちに新しい考え方なるものが、資本主義的な枠組みの中にあることを示しているような気がする。自由を手にしたと思う瞬間は、今までと異なる桎梏の枷をはめらる瞬間なのである。だからわれわれは革命の成就したその日より、「次の日の朝」に気をつけなければならない。

2016年9月10日土曜日

83 エイーダ・E・リンゴ 「テキサス殺人事件」

Murder in Texas (1935) by Ada E. Lingo (?-?)

まるで名前を聞いたことのない作者で、インターネットで調べても、どんな経歴の持ち主なのか、ほかにどんな作品を書いているのか、いっこうにわからない。ところが驚いたことに、「テキサス殺人事件」は明らかに水準以上のすぐれたミステリなのである。

石油を発掘して大金持ちになったテキサスの富豪が殺される。その町の若き女性新聞記者であるジョーンは、殺された男の娘に頼まれて、探偵を雇うことになる。それがリチャード・フィールズという青年で、まだキャリアは浅いが、いくつかの難事件を解決していてその名は広く知られているらしい。

ジョーンとリチャードはコンビを組んで事件の解明にあたる。どうやら金持ちの男は女性関係や仕事上の不正な取引をネタに脅迫を受けていたらしい。脅迫の事実がばれることを怖れて、脅迫者は富豪を殺したのではないか。しかしいったい誰が彼を脅していたのか。それを探る最中にも第二の殺人、そして殺人未遂と、被害者が増えていく。

筋は案外単純なのだが、非常によくできている。なにがよいのかというと……先ず第一にペース配分。ミステリには基本的に二つの要素が欠かせない。事件と、その後の捜査である。この二つは読者に全く異なる反応を与える。事件が起きるとき、われわれは非常な緊張感を感じる。それはある種、爆発的で集中的で、こう言ってよければ詩的な瞬間である。一方、捜査の過程は事実の整理、論理の構築についやされる、持続的な、散文的な時間帯なのである。この二つの異なる時間をうまく配分せず、たとえば捜査の過程がやたらに長いと、このブログで扱ったアン・オースチンの「黒い鳩」のように、読者の脳に余計な負担をかけることになったりする。しかし「テキサス殺人事件」では、謎の提示とその解明に向かう道筋がじつにうまく配分されていて飽きることなく、気持ちよく読むことができる。ミステリの展開のさせ方のお手本を示しているといってもいいだろう。L.P.ハートレイの The Go-Between は物語の展開のさせ方が完璧で、作家を目指していた人々は、その語数を勘定してペース配分を学んだという。本書にそこまでの完璧さはないが、しかし充分に参照するに価する出来である。

第二にすばらしいのは、登場人物の性格がうまく描き分けられているという点である。探偵のフィールズは溌剌とした、頭の切れる青年だが、同時に未熟さももっていて、狡猾な容疑者をうまく問い詰めることができずにいらいらしたりする。新聞記者のジョーンズは、いかにも現代的な若い女で、行動力があるが、大不況という現実からなにがしかの世間智を学び取っているのだろう、冷静さも兼ね備えている。彼女の同僚記者ミッチェル・ホワイトは善人なのかもしれないが芯の弱さを持った男として描かれ、ジョーンズ母娘はそこはかとなくふしだらな感じをかもしだしており、保安官のジム・リードはこれぞテキサスの人間といったふうなマッチョなしゃべり方をする。クリーニング屋の黒人女すら、脇役に過ぎないのに、印象深いのである。この作者は一筆書きのように人物の特徴を的確におさえ、表現する力を持っていると思う。

そしてもう一つ感心したのは、女性作家らしい生活の細部への目が光っている点だ。とくにジョーンが自分の家でデザートを食べる場面や、砂嵐に備えて人々が家のまわりを片づける場面に私はそれを感じた。

そして最後にこの一節を紹介しておきたい。ジョーンズが新聞社の編集長の部屋に入ると、そこには当時のミステリの名作が並んでいたのである。
 ジョーンはケイ・クリーヴァー・ストラーンの最新スリラーを手に取り、ミニョン・エバハートの「白い鸚鵡」、フランシス・アイルズの「犯行以前」、そしてレスリー・フォードのすばらしい「メリーランド殺人事件」に目を留めた。ミセス・ラインハートの「アルバム」も見つけたが、そのまま持って行けないことが無性にくやしかった。サタディ・イヴニング・ポストに連載されていたのだが、彼女は途中までしか読むことができなかったのだ。
ちょっと調べたら、この中で翻訳が出ているのはアイルズの作品だけではないか。日本が翻訳天国だなどというのは大嘘である。しかしストラーンの最新作となっているのは何という作品だろう。The Meriwether Mystery (1932) だろうか、それとも The Hobgoblin Murder (1934) だろうか。この人の本は前から読みたいと思っているのだが、なかなか手に入らないのである。そしてレスリー・フォード。なんという偶然だろうか。これは次にレビューしようと思っていた女流作家である。作品は「メリーランド殺人事件」ではないけれど。

しかしそれは、まあ、どうでもいい。本作「テキサス殺人事件」は意想外によい作品で、英語が読める方には一読をお勧めする。

2016年9月6日火曜日

82 アルフレッド・ガナチリー 「死者のささやき」

The Whispering Dead (1920) by Alfred Ganachilly (?-?)

ジャンル小説を読んでいると、ときどき無用に筋が引き延ばされた作品に出合うことがある。ある部分までは一定の緊張感をたもって書かれているのだが、急にその緊張の糸が切れ、しどけなく、だらだらと興味のない場面がつづくのである。おそらく出版社に、これでは単行本としては短すぎるなどと難癖をつけられ、作者が予定にはなかった部分を付け足したのだろう。このような出版条件というのはいつの時代にもあるものだ。また、外的制約がかならずしも悪い方に働くとは限らない。たとえば十九世紀には三巻本の長い作品を書くことを小説家は求められたが、才能ある人々はこの条件に対応して、細密な心理描写の技術を発達させていった。

しかしながら一定の長さに達するために、ただ分量を水増ししたという作品も少なからずある。「死者のささやき」もその一つと言わざるを得ないだろう。物語の三分の二は、なかなか見事な推理ものとなっているが、残りの三分の一は、あきらかにそれまでとは質の違う追跡譚になってしまっている。犯人を特定する推理の過程はとっくに終わっているのだが、さらに警察が犯人を追跡する様子が長々と付加されているのである。この作者の文章には荒々しい簡潔さとでもいうべき、不思議な味わいがあって、悪くないと思っていただけに、この構成は残念だった。

事件が起きるのはチリのドイツ大使館である。ある朝、大使と秘書が書記官一人を残して大使館を出た。しばらくすると大使館が猛火に包まれ崩落する。火が消し止められてから消防隊が捜索すると、一人の男の死体が出てきた。大使、秘書、チリ警察は黒焦げの男を書記官であろうと考えた。

この小説の説明が曖昧なのではっきりしたことは言えないのだが、どうやらドイツの大使館はある地方の人々が自分たちの意にそまぬ振る舞いをしたため起訴して牢屋に入れてしまったらしい。その結果なぜか書記官に脅迫状が送られるようになった。彼は火事のあった当日にも脅迫状を受け取っており、怪しげな人間も見ている。そうした状況から考えて、彼に遺恨を持つ誰かが彼を殺し、その後大使館に火を放ったのだろうと考えられた。

しかし警察の中に一人だけ、死体は書記官ではあり得ないと考えた刑事がいた。彼は死体の死後硬直と出火の時間から論理的に死体が書記官ではないと判断したのである。彼がこの推理を証明する過程が、先に私がなかなか出来がいいと言った最初の三分の二である。実際この部分は非常に面白い。一九二〇年に書かれた本作は、まだまだナイーブな謎しか構成していないが、しかし謎を解明する過程、たとえば刑事が推理を組み立て、それを挫折させるような事実にぶつかり、さらにそれを乗り越えて彼が犯人を追い詰める、といったパターンは、現在のもっともすぐれたミステリとなんら変わるところのないものである。この部分は書かれた年代を考えて私は高く評価する。

刑事が決定的な証拠をつかんで真犯人が確定すると、今度はアンデス山中を逃亡する真犯人を刑事が追いかける場面に移行する。空気の希薄なアンデスの山道を馬で移動することがどれほど過酷なことか、それがよくわかる描写になっているが、前半と較べると明らかに質の違う物語が展開されている印象だ。まるでミステリの後にアドベンチャーをくっつけたみたいなのである。

こういう大きな欠点はあるが、しかしこの作品のいちばん最後にはちょっと面白いコメントが付されている。ネタバレにならないように抽象的な言い方をするが、それは犯人の犯罪行為、つまり個人が行う犯罪が、国家の行う犯罪の縮小再生版であるという指摘である。犯人は母国の対外政策、つまり帝国主義的哲学に感動し、自分の振る舞いもそれに合わせようとした。他国の人々に対する彼の態度は、まさに彼の国が外国に対して取る(帝国主義的)態度とおなじなのである。以前このブログでヒュー・ウオルポールの「殺す者と殺される者と」を扱ったとき、いじめられていた人間がいじめていた人間を殺すという個人と個人のレベルの物語は、帝国主義的競争に遅れていたドイツが軍事力をつけ、先行するイギリスを脅かすという、国家間のレベルの物語と相同性を持っていると書いたが、おなじような個と国家のあいだの照応がこの作品にも見られるのである。私が訳したフォークナーの「雲形紋章」においても帝国主義的イギリスの姿がブランダマーという主人公に重ね合わされていた。私はこういう作品を集めて、いつかまとめて論じてみたいと思っている。最近日本の障害者施設で大勢の入所者を殺害した男がいるが、彼は自分の行為は国家の意を受けたものであると考えている。こうした事例は世界を見まわすとたくさんあるのであって、私はそういうことが起こる構造、隠微な形で働いている国家と個人のあいだの力の関係について興味があるのである。

2016年9月2日金曜日

81 ヘレン・メーブリー・バラード 「殺人のメロディーにのせて」

To the Tune of Murder (1952) by Helen Mabry Ballard (?-?)

久しぶりに五十年代の作品を読む。バラードという人は聞いたこともなかったし、ざっと調べただけだが伝記的な事実もまるでわからなかった。しかし本編を見る限り、小説家としてかなりの資質を持った人である。本書は単に殺人事件の発端から犯人が捕まるまでの経過を追った作品ではない。

本書を読んで最初に気づくのは、登場人物のあいだに世代差が歴然と設定されていることである。一つのグループはジェニー・コーベットやメアリ・レノルズに代表される、ヴィクトリア朝的な道徳観、人生観をもった人々である。メアリはクイーン・メアリと綽名されるくらい古い考え方に凝り固まっているし、両者の部屋はいずれもヴィクトリア朝趣味ゆたかに飾られている。しかし彼らはコーベットヴィルという小さな町の人々に尊敬はされているものの、経済的には没落の一途を辿り、やがては消えてなくなる存在である。

もう一つのグループは、ジェニー・コーベットの甥で本作の主人公である地方検事のジム・トンプソンや、彼の友人でコーベットヴィルの警察署長であるデイブ・ターナーたちである。彼らはヴィクトリア朝以後の新しい世界をに切り開くべき人々である。しかし検事でありながら警察の仕事に習熟しておらず、デイブ・ターナーから「もっと大人になれ」と忠告されるデイブ・トンプソンに典型的にあらわれているのだけれども、彼らはまだ完全には新時代の担い手として成長してはいない。それどころか下手をすると(本作の一番最後に示されているように)新しい世代は古い世代の考え方を納得し、受け入れてしまいさえするのだ。

このような旧世代と新世代の関係は、ヴィクトリア朝時代に形づくられたメロドラマの型を打破しようとして、結局そこから脱却できずにいた、ミステリの歴史のある時期を彷彿とさせる。こう書くと社会変化の中に文学形式の変化を見て取るのは強引な読みではないかと言われそうだが、案外そうでもないと私は考える。本作の登場人物はみな「物語」と関係づけられているからである。たとえば警察署長のターナーは容疑者の一人がセンチメンタルな物言いをすると鼻を鳴らして「くそっ、イースト・リンみたいなしゃべり方はやめろ!」と怒鳴る。また彼は秘書から「チーフ」と呼ばれるが、それは彼にペリー・メースンを思い出させるのだ。ジム・トンプソンはジェニー・コーベットを「ヴィクトリア朝のヒロイン」にたとえるし、別の容疑者であるシルヴィア・マーポールの人生は「ダイム・ノベルみたい」と評される。こういうところを気をつけて読んでいくなら、社会変化に文学形式の変化が重ねられていると考えることはけっして無理ではないと思う。

ジェニー・コーベットが甥のジム・ハンプトンに次のように語る部分は、とりわけ私に感銘を与えた。
 「私の世代の女たちは現実を直視しない、甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界に住んでいると言われてきたわ。でも本当は、私たち、真実に目を向けることを怖れていない。現実的な考え方を自慢する若い人たちとおなじようにしっかり事実を見ることができる。ただ違うのは、私たちはたとえ人生がどんなに苦しくて醜いものであっても、そのことを口にしてはならないと躾けられてきたということ。口を閉ざすのはひとつはプライドがあるから。もうひとつの理由は、趣味のよさを保つことが大事だと考えているから。淑女は個人的な悲しみや苦しみや恥を人前にさらさない。ジェイムズ、私の義理の妹は悪い女だったわ。それは事実で、私はずっと前からその事実をはっきりと見ていたのよ」
「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」というのはヴィクトリア朝時代の生身の女たちのありようを表現しているだけではない。ヴィクトリア朝時代に女性向けに発行された雑誌やロマンチックな小説も「甘くて繊細で感傷的な、薔薇色の世界」を描いていると評され、後代の作家、たとえばジェイムズ・ジョイスなどによってそのイデオロギー性を批判されているのである。しかしジェニーは、エディス・ウオートンの名作を想起させるような議論を用いてその批判を批判し返す。つまり、彼らは現実を見ていなかったのではない。見ていたけれども、口を閉ざしていたのだ、と。彼らにとっては decency とか respectability といった言葉で表現されるものを外見的に保つことがなによりも大切だったのだ。それを聞いてジムはこう考える。「永の年月、この誇り高い老婦人に口をつぐませてきた作法(code)を、彼女がついに破らなければならなくなったということ、それがこの殺人事件が招いた、看過し得ない悲しい帰結ではなかったか」薔薇色のイデオロギー的世界が、世上に流布されたような盲目的なものではなかったにしろ、しかしその物語的規則体系(code)はもはや有効性を失っている。私はそんなふうにこの一節を解釈することができるのではないかと思う。

しかし古い物語が通用しなくなったとしても、新しい物語(新世代)は確立していない。よくいえばまだ揺籃期にある。本書において犯人と被害者の人物像が曖昧に揺れているのは、そのせいなのだろう。犯人は憐れむべき環境の犠牲者なのか、それとも憐れみに値しない単なる悪者なのか。殺されたアリシアは、周囲の人間を誰彼かまわず不幸に陥れようとするパソロジカルな存在なのか、それとも甘やかされて育ったがためにわがままになっただけで、じつは魅力的な側面も備えているのか。ジム・トンプソンにはよくわからない。確乎たるヴィクトリア朝的道徳観を持っているメアリ・レノルズは、犯人の邪悪さは犯人が生まれついた家系の血のせいであると、いかにもあの当時の人がいいそうなことを言うのだが、すぐに周囲の人に論駁されて、結局結論はつかないまま物語は終わる。

一回読んだだけなので、この先読み返した際に、解釈が変わるかもしれないが、しかしこの作品のレベルが高いことは間違いない。もしもこの作者が他にも作品を書いているなら、是非とも読んでみたいと思う。