2016年8月31日水曜日

番外16 記号の問題

番外16 記号の問題

 

志賀直哉「城の崎にて」にこんな文章がある。
自分の部屋は二階で隣のない割に静かな座敷だつた。読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。脇が玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になつてゐる。其羽目の中に蜂の巣があるらしい。虎斑の大きな肥つた蜂が天気さえよければ朝から暮近くまで毎日忙しさうに働いてゐた。蜂は羽目のあはひから摩抜けて出ると一ト先づ玄関の屋根に下りた。其処で羽根や触角を前足や後足で丁寧に調べると少し歩きまはる奴もあるが、直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。飛び立つと急に早くなつて飛んで行く。
谷崎潤一郎は「文章讀本」においてこの一節を取り上げ、こう解説した。
些細なことでありますが、「直ぐ細長い羽根を両方へシツカリと張つてぶーんと飛び立つ。」の所で、「シツカリ」を片仮名、「ぶーん」を平仮名にしているのも頷ける。この場合、私が書いてもきっとこう書く。殊に「ぶーん」を「ブーン」と書いたのでは、「虎班の大きな肥つた蜂」が空気を振動させながら飛んで行く羽音の感じが出ない。また「ぶうん」でもいけない、「ぶーん」でなければ真直ぐに飛んで行く様子が見えない。
日本語には大きく漢字、平仮名、片仮名の三種類の文字がある。それぞれ読み手に与える印象が違う。漢字は複雑に線を交差させいかめしい。自由とか権利といった概念語は通例、漢字によって表記される。平仮名は漢字から造られたものだが、簡素で曲線が多く用いられ視覚的にやわらかい印象を与える。片仮名も簡素化された文字だが、平仮名よりも直線が多く用いられている。

谷崎が「シツカリ」を片仮名で書く、といっているのは、蜂が飛ぶ前の緊張感が直線的な片仮名によってよりよく表現される、ということである。平仮名で「しつかり」と書くと、その丸みを帯びた文字のせいで、緊張感が減殺される。

また「ぶーん」は「ぶ」の字が肥った蜂を想起させる字形をしており、長音をあらわす記号「-」は同時に蜂の飛行コースを暗示的に示している。



三島由紀夫の小説に
昨夜妙子の唇がつけた小さな苺のような皮下出血の跡
という表現がある。苺が漢字で表記されているが、これは平仮名の「いちご」あるいは片仮名の「イチゴ」には置き換えられない。可憐な一点の内出血の跡は、適度な複雑さで構成された一字の漢字によってあらわされなければならない。

三島は谷崎の影響を大いに受けた作家だが、やはり文字の視覚的な側面を重視する。

このごろは制限漢字といふいやらしい掟があるけれど、表題の「薔薇」はどうしても「バラ」ではいけない。薔の字は、幾重にも内側へ包み疊んだ複雑なその花びらを、薇の字はその幹と葉を、ありありと想起させるように出來ている。この字を見てゐるうちに、その馥郁たる薫さへ立ち昇つてくる。

 (森茉莉「甘い蜜の歓び」についての文章)羊皮は貴女にとっては、スエードではいけない。スウェードでもいけない。それを撫でる指さきが滑るようで引っかかり、引っかかるようで滑るスウエエドでなければならない。絶対に、絶対にスウエエドでなければならない。

 (鴎外の一文「日光の下に種々の植物が華さくやうに」に関して)「花」と書かず、「華」と書くことによって、「花」の柔らかさの代りに、より硬質な、そして複雑で典雅な「華」が暗示される。

ちなみに私はもともと旧漢字で書かれたテキストを新漢字に直したものは読まない。たとえば三島だが彼は「からだ」を「體」と書く。新漢字に直すと「体」だ。私はこのすかすかの新漢字を用いることに疑問を感じる。ボディビルをし、肉体を鍛えることに固執していた三島にとって「からだ」は筋肉と骨が複雑に組み合わさせれてできているもののはずだ。「体」のような貧弱なものではないと思う。私の解釈が当を得ているかどうかはともかく、「体」と「體」とでは視覚的な印象があまりにもちがいすぎる。それゆえ新漢字に直したものを私は読まない。



津島佑子はこんな一節を書いている。
……太古、地球上の空気はまだ現在のように"ホモジェナイズ"されていなかった。大小さまざまな形のガラス板が犇めき合いながら浮遊しているような状態だった。
「犇」という漢字は、いかにもその形が「ガラス板が犇めき合いながら浮遊している」様子を彷彿とさせる。ここではほとんど「犇」という漢字がガラス板の比喩を生み出したかのようである。



記号は通例シニフィアンとシニフィエからなると言われる。本当だろうか。

「苺」のシニフィアンは「苺」という文字、あるいは「いちご」という音声である。そのシニフィエは、表面に小さな種を付着させた赤い円錐形の液果である。両者は日本語のうちではコード化され強固に結び付いているが、しかし「苺」という記号のどこにも「キスによる皮下出血の痕」という意味合いはないし、そのイメージを喚起するいかなる要素もコード化されてはいない。これはとあるコンテクストの中に置かれたこの語が、まったく偶然に帯びる意味、イメージである。

「城の崎にて」における「ぶーん」という語においても、「肥った」蜂のイメージとか、「まっすぐ」な飛行のイメージは、偶然的に発生している。



しかし偶然的とはいえ、このようなイメージや意味が発生したのは、文字というシニフィアンそれ自体に視覚的イメージが備わっているからである。通常視覚的イメージはシニフィエの想起になんの影響も与えない。しかしそれは存在しないのではなくて、(ほとんど)透明なだけである。ある条件の中では視覚的イメージが働きはじめる。

たとえば知っている漢字を度忘れしたとき、われわれはその漢字のおぼろげな視覚的イメージをたよりに、それを思い出そうとすることがよくある。



安西冬衛の有名な句
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つていつた
においては「てふてふ」という和語と「韃靼海峡」という漢語がはげしく衝突する。両者のあいだには、イメージ的な対立(はかない生命体と荒々しい自然)や音声上の対立(たどたどしい、どこか気の抜けた音と、漢語の強烈なリズム)、視覚的な対立(曲線的で簡素なひらがなと、直線的で稠密な漢字)がある。

「てふてふ」は、その反復性、不規則な曲線による構成によって、視覚的に、蝶が羽根をはばたき、蝶特有の、あのたどたどしい飛行の姿を想起させる。ひらがなの簡素さは(気の抜けた音声とともに)蝶の身体のもろさをも暗示している。

もう一つ指摘したいのは、「ふ」という字を書くときの手の揺れのイメージ、つまり不規則な中心線を書いたあと、左に、右にと揺れる手の動きのイメージが、蝶の羽根の動き、飛行のイメージと重なるということである。



つまり「てふてふ」というシニフィアンには視覚的イメージだけでなく、書記の際の手の運動のイメージもそこにはあるということだ。

運動イメージはやはり通常は(ほとんど)透明である。しかしあるコンテキストの中ではそれが偶然的に意味を帯びることがある。



記号はシニフィエという内容を伝えるだけではない。シニフィアンの視覚的イメージ、書記の際の運動イメージなども伝えることがある。

そうした要素を勘案した上で記号を考えたのがフロイトである。

彼は語表象を
1 音像
2 視覚性文字像
3 発語運動像 (発語された語についての発音器官の運動性の表象)
4 書字運動像 (字を書くときの肉体の運動性の表象)
の連合したものと考える。(「失語論」)私はソシュール流の「シニフィアン・シニフィエ」よりもフロイトの考えた語表象を出発点にしたほうが、はるかに実りある記号論ができると考えている。