2016年10月9日日曜日

98 ジョン・ファーガソン 「狩猟場殺人事件」

The Grouse Moor Murder (1934) by John Ferguson (1871-1952)
 
作者はスコットランド生まれの牧師さんだったらしいが詳しいことはわからない。神の愛と魂の救済を説く牧師さんが、殺人をテーマにした本を書くのは矛盾しているようだが、しかしスコラ哲学を生み出し論理的な議論に長けた僧侶たちの血が、現代にいたっても彼らの血管の中を色濃く流れているのだろう、牧師さんのなかにはヴィクター・L・ホワイトチャーチとか、すぐれたミステリを書く人が多い。本編も事件の様相が二転三転どころか四転五転六転する見事な作品で、論理ゲームとしてのミステリの要諦をがっちりとつかんだ男によって書かれた作品と言える。

事件は金持ちのどら息子ども五人が雷鳥の狩猟にでかけたときに起きる。この日は濃い霧が出ており、狩猟に向いていないどころか危険でさえあるような状況だったのだが、なにせどら息子どものことだ、行こうと一決するとどやどやと全員が狩猟場にむかった。そして下の図にあるように距離を置きながら横一列になって狩猟場の坂を下に降りていった。そのときだ。霧の中で一方の端にいるブレントが撃たれ、腕を負傷したのである。

警察は霧の中で隊列を乱した誰かがブレントを撃ったのではないかと最初考えた。しかしその説が否定されると、密猟者による仕業ではなかろうかと考える。密猟者どもはある事情から地主のウィロウビイ氏を敵視していて、ブレントはたまたまウィロウビイ氏の白いカッパを借りて着ていたのである。つまりブレントは密猟者にウィロウビイ氏と間違われて撃たれたのではないかというのである。

ところが地元警察による捜査の最中にブレントは静養していた家の書斎で自殺する。最初は腕に大けがを負い、ピアニストとしての将来を悲観して自殺したのかとも考えられたが、彼の母親は断じてそんなことはない、息子は殺されたのだと主張する。そして地元の警察では頼りないからとロンドンの名探偵フランシス・マクナブが呼ばれることになる。

しかしマクナブにとってもこの事件は難物だった。狩猟場でブレントを撃ったのは誰なのか。ブレントが死んだとき、彼がいた書斎は密室状態だった。もしもそれが他殺だとしたなら、犯人はいったいどのようにブレントを殺し、書斎を出て行ったのか。難問だらけの事件で、名探偵はほとんど負けを認めて事件から撤退しようとするのだが、そのときある人物のひとことが大きなヒントとなって彼は真犯人をずばりと指摘する。

スコットランドの地元警察にもなかなか優秀な人材がそろっていて、彼らが事実を収集し、そこから事件を組み立てていく前半部分もなかなか読み応えがある。しかし事件を解決できるのは本書の後半に入って登場する名探偵のマクナブである。なぜ地元警察には解決ができないのか。最近私がブログに書いていることを読んでいる人はおわかりと思うが、地元警察は充分に事件=ドラマの外部に立っていないからである。あまり詳しく書くと本書をこれから読む人にとって興ざめとなるからおおざっぱに言うが、彼らは事件の容疑者として距離を置くべき人物となあなあの仲というか、その人物の影響下にあるのである。地元警察はその地域の人々、風習、実情をよく知っているし、頭もいい。しかし事件=ドラマに片足をつっこんでいる状態では正しく犯人を指摘できない。それができるのは外部に立ちうる人間、たとえばロンドンから来たよそ者であるマクナブのような男なのである。本格ミステリはその構造上、事件=ドラマに対する外部的な視点を必要とする。これが最近私が考えていることだ。

一カ所、面白い場面がある。マクナブがブレントの母親に捜査の状況を報告する。それを聞いた母親は興奮してさっそく地元の有力者にそのことを伝え、彼の協力を得ようと言う。するとマクナブは血相を変えて反対する。この場面でなにが起きているのかというと、母親が捜査内容をある有力者に話をし、その人物の協力を得ようとすることで、マクナブは自分が事件=ドラマの内部に取り込まれることを怖れたということである。彼は容疑者たちが泊まっている屋敷に弁護士の振りをして入り込むが、けっして彼らと関係を持つことはない。あくまでも外部の人間にとどまろうとする。多くのミステリで名探偵は最後の大団円にいたるまで自分の捜査の内容を語らないものだが、それは語ることによって自分の立ち位置が変化することを怖れているからではないだろうか。立ち位置が変化した途端、彼は事件を読み解くことができなくなってしまうのだ。

だが、そんな理論的な話はともかく、本書は本格ミステリとして非常によくできている。gadetection のサイトには本書のレビューが載っていて、作者の文章に難癖をつけている。たしかに私も二三箇所、表現を工夫すればもっとわかりやすくなるのにと思ったところがあった。しかしこれは瑕瑾であってさほど気にはならない。それよりもまったく無名の作家がこれだけの力作を残していると言うことのほうが驚きだ。私は大いに本書を推奨する。