2016年10月5日水曜日

番外19 「ドールズ」 スチュアート・ゴードン監督

スチュアート・ゴードン「ドールズ」の二重性

この小論はちょっと長めなのでこのブログに載せる気はなかったのだが、最近考えている外部性の問題とも大いに関係しているので、ほかの記事との不調和は覚悟の上でアップロードしておく。できたらこのホラー・ムービーを見てから読んでいただきたい。この作品の物語は二重性を帯びている。二つの物語が同時に進行しているのだ。そのうちの一つの物語は誰にでもわかるのだが、わたしが知るかぎり、「もう一つの」物語まで読み取っている批評家はいない。外部性の問題とこの小論がどう関係しているのか簡単に述べておく。この作品のなかには「子供は大切である」という考え方が登場する。ごくありきたりの、まっとうなスローガンのように思える。しかしそれを「その通り」と認めてしまうと、もう一つの物語が見えなくなる。もう一つの物語を読むには、あくまで作品の外に立って、「子供は大切である」というスローガンを「徴候」として見なければならないのである。見る者の「視力」がためされる作品である。

 

探偵小説の特徴の一つに物語の二重性がある。犯人は事件を起こすことで金銭的、心理的利益を得るのだが、それを見抜かれないように、たとえば関係のない人までABC順に殺したり、共犯者と狂言を演じたり、アリバイ工作に励むことになる。犯人がつくる見せかけの筋書きは、本当の筋書きの目的を達しつつも、それを否定するという矛盾した性格を持つことになる。

物語の二重性はイデオロギー論や精神分析にも見ることができる。たとえばマルクスは、利己的な動機に基づく支配階級の思想が、普遍的な見せかけのもとに提示されると述べているし(「ドイツ・イデオロギー」)、フロイトは無意識の内容は否定されるという条件の下で意識に到達すると言っている(「否定」)。イデオロギー論、精神分析、探偵小説は、分野は異なるが、同じ認識の型を共有している。だから三者が相互参照されたり、良質のイデオロギー論や精神分析の例が探偵小説のように読めるのは何ら不思議なことではない。

スチュアート・ゴードンのホラー映画「ドールズ」は、もっともらしい言説の背後に自己中心的な利害を隠し持ったイデオロギー空間を描き、同時に、無意識の欲望を隠し持った夢物語にもなっている。ただしこの映画には探偵は出てこず、物語の二重性は明示的に示されていない。そこで、一つ探偵になった気分で、隠れた真相をを読み解いてみようというのが、この小文の目的である。

 

 まず物語の整理をしよう。登場人物は以下の通りである。
 
 ジュディ      幼い女の子 
 デイヴィッド    その父 
 ローズメアリ    デイヴィッドの再婚相手、ジュディの継母 
 ラルフ       旅行中の優しい青年 
 老夫婦       山中の館に住む人形作り 
 若い女二人連れ   ヒッチハイカー 館で盗みをはたらく
 人形たち           キラー・ドール
     
主人公はいつも人形を抱きかかえている幼い女の子ジュディである。彼女の父親は最近離婚し、すぐに再婚しているらしい。経済能力はまるでなく、ローズメアリに寄生している男である。娘を思いやるどころか、邪魔者扱いする、勝手な父親だ。ローズメアリは見るからに裕福そうな服装をした、サディスティックな女性で、継子をひっぱたくことなど屁とも思っていない。ジュディは父親も継母も憎んでいて、白昼夢の中で、怪物に変身した人形が二人を殺害する場面を思い描いているくらいだ。

映画はこの三人が自動車旅行の最中、山中にて嵐に会い、人形作りの老夫婦の館に避難する場面から始まる。彼らが老夫婦のもてなしを受けていると、ラルフという青年と、ヒッチハイカーとして一緒に旅をしている二人のパンクファッションの女が家の中に飛び込んでくる。若い二人連れの女は礼儀知らずで、他人の家でも音楽を大音量で流し、そのうち一人はみんなが寝静まった夜中に、部屋を抜け出し、金目のものを盗もうとする。一方、ラルフは館に飾られた人形を見て大いに興奮するような子供心を持った青年である。しかし彼は自分に向かって、もういい年なのだから、子供じみた癖から抜け出し、一人前の男として現実に立ち向かわなければならないと言い聞かせる。当然、ジュディは彼が大好きになり、父親に向かって怒りをぶちまける時、ラルフの方が父親よりもずっといい人だと言いさえする。

この後、血なまぐさい場面が展開されるのだが、簡単に言えば、ローズメアリーとパンクファッションの二人の女は人形たちに殺され、デイヴィッドは人形作りの老夫婦の魔法によって人形にされてしまう。翌日の朝、人形作りの館を抜け出すことができたのはジュディとラルフだけだ。ラルフは老夫婦からジュディをもとの母親のところに届けるように言われ、二人が車で去るところで映画は終わる。

 

なぜデイヴィッドとローズメアリと若い二人連れの女は殺されるのか。これは一見、次のように答えることが出来そうだ。彼らは子供を虐待し、盗みをはたらく堕落した存在である、だから「子供は大切だ」、「無垢な心をいつまでも持たなければならない」というメッセージが繰り返される館の中で、罰を受けたのである、と。しかしこの映画が奇妙なのは、語られていることと行われていることの間に断絶がある点である。「無垢は大切」といっておきながら、そのメッセージに従わない者は、無垢もヘチマもない暴力で殺してしまうのだから。確かに子供を邪険に扱うのも、窃盗もよくないことだが、殺す必然性はない。彼らにはそれなりの処罰の仕方があったはずである。だが、そのような考慮は一切なされず、すさまじい憎悪を浮かべた人形たちが殺戮を繰り広げるのだ。

このメッセージの奇妙さは、人形を見て感嘆したラルフが、そのすぐ後に、子供みたいな癖はもう卒業して現実的な人間にならなければ、と言う場面にも示される。その言葉を聞いて人形作りの老人は「いつまでも子供のままでいいのだよ」と答えるのだが、なぜ「いつまでも」などと言うのだろうか。大人になってはいけないとでも言うのだろうか。さらにそう言う時の老人の表情はなぜ不気味なのだろう。老人が答える瞬間、彼の背後に現れる人形も、老人と同じことを語るのだが、その声はなぜあのようにおどろおどろしいのだろうか。ラルフはそれを聞いて驚き、震え上がっている。「無垢な心云々」というメッセージには、そのメッセージ自体を裏切る威嚇的な響きがあるのだ。

さらに大人の中では唯一子供の心を持っているラルフすら人形に襲われるのはなぜだろうか。人形たちが生きていることを知りパニックに陥ったラルフは、思わず人形を蹴りつけるのだが、人形たちは彼をなだめることも、説得することもなく、ただちに憎々しい表情を浮かべて襲いかかる。館の中で繰り返されるメッセージとはうらはらに、人形たちはヒステリックで、不服従を許さない専制的な反応を示している。

こうしてみるとジュディの両親と若い女たちが殺されたのは罰を受けたのだという説明には疑問を抱かざるを得ない。「子供の大切さ」というのは単なる言い訳に過ぎないだろう。メッセージを逸脱するほどの、過剰な攻撃性は何を意味するのか。このイデオロギー空間が人を殺す本当の理由は何なのか。

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事件は何ものかの欲望の表現である。事件によって欲望を満たすのは誰なのか、いわゆる「この事件で得をするのは誰なのか」を問うことは探偵小説の定石だ。「欲望しているのは誰なのか、そしてどこから」と問うとき、われわれはまず、一連の殺害がジュディの欲望を実現していることに気がつく。なにしろ大嫌いな親は、白日夢の中で願ったように、人形によって始末され、優しいラルフと一緒に家に帰ることになるのだ。しかしこの考え方には二つ難点がある。一つはパンクファッションの若い娘の殺害である。はたしてジュディは彼らの死を望んでいただろうか。映画を見る限り彼女は彼らを積極的に好いても嫌ってもいない。殺したいと思うだけの動機がどう見てもないのである。もう一つ気になるのは、人形たちがラルフに一度襲い掛かっていることだ。ジュディは必死になってそれを止めるが、この場面を見ると館の中では彼女の欲望に反することも起こりうることが分かる。下手をするとラルフすら殺されていたかも知れない。すると一貫してこの好青年を好いていたジュディを物語の欲望の主とするのは無理ということになる。

しかしこの答えはいくつか物語と不整合な部分があるが、決して悪い答えではない。恐らくジュディと非常に近い位置にいる誰か、しかし微妙にずれた場所にいる誰か、それが本当の欲望の主ではないのか。そう考えたときに彼女の母親という答えが浮かんでくるだろう。

ジュディの母親といってもローズメアリではない。デイヴィッドの先妻、ジュディの(恐らく)生母である。考えてみれば、デイヴィッドは離婚してすぐ再婚しているのだから、この母親は彼に捨てられたようなものである。さらにデイヴィッドやローズメアリの性格、父親が愛してもいない娘を引き取っているという事実を考えると、どうも円満に離婚したとは思えない。母親はデイヴィッドやローズメアリに復讐の念を燃やしているのではないだろうか。だからローズメアリの殺され方は、四人の中でいちばん残忍なのである。夫は魔法で人形にされているが、あれはいかにも自分を裏切ったことへの懲罰に見える。そして映画の結末ではジュディは母親の元に帰っていく。つまり彼女は自分の娘を取り返すことになるのだ。

母親は一度も映画の中に現れないが、物語は隅々まで彼女の欲望に浸されている。映画の冒頭でジュディが父親と継母の殺害を夢想しているが、その直後、ぼうっとしている娘に向かって父親が言う台詞が面白い。「お化けや幽霊の夢でも見ていたのか!まったく、お母さんはお前に何を吹きこんだんだ?」この「お母さん」はもちろん継母ではなく、デイヴィッドの先妻のことだ。デイヴィッドの台詞は、ジュディに想像の仕方、すなわち欲望の仕方を教えたのは先妻である、ジュディの欲望はとりもなおさず先妻の欲望なのだ、ということを教えている。娘は無意識のうちに母親の欲望を欲望している。先ほどこの映画で欲望しているものの位置はジュディのそれと非常に近いが、しかし微妙にずれているといったのは、こういうことである。

ジュディと母親の欲望の重なりを示す部分は映画のいちばん最後にもある。ラルフは惨劇の夜が明けてから、ジュディを車に乗せて彼女の母親の元へ向かう。するとジュディが異様なしつこさで母親の話しをする。「お母さんはすっごい美人よ。見たら惚れちゃうから。ねえ、あたしのお父さんになる気ない?」もちろんここで話しをしているのはジュディというよりも母親である。ジュディは母親の代弁者に過ぎない。母親は自分を裏切った夫を懲らしめ、夫を誘惑したあばずれをぶち殺し、子供を取り返し、今まさに新しい夫を捕獲しようとしているのだ。

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それでは母親の離婚とは何の関係もないパンクファッションの女二人が殺されるのはなぜか。実は三つほどその理由が考えられる。まず第一は、彼らがラルフの車の鍵を盗もうとしていたこと。母親はラルフを新しい夫として迎え入れようとしていたことのだから、大切な男に悪質ないたずらをしかけようとする女どもなど許せずはずがない。第二に彼らが若くて性的魅力を持っていること。二人はラルフに向かってからかい半分に何やら卑猥な行為をほのめかしているが、母親は彼らを潜在的なライバルとみなしていたかもしれない。

しかし第三の理由がいちばん肝心だろう。それは彼らを殺すことで、無垢を失ったものは罰せられるという、殺しの見かけの理由を強化できるということだ。母親の真の欲望の向かうところは元夫と彼を奪った女への復讐だが、彼女はその復讐が露骨に表面化することを避けている。母親の目論見は自分の姿・欲望は不可視のまま、物語の外から己の意思を行使することなのだ。不良を処罰することは、人殺しの真の動機から我々の目をそらさせ、物語の中で大人が殺されるのは彼らの汚れた心のゆえという印象を強める効果がある。物語の中で、パンクファッションの女たちが盗みを働くように「仕向けられている」ことに注意するべきだろう。二人が館で盗みを働こうか、働くまいかと議論しているまさにその瞬間に、人形作りの老妻がやってきて、自分と夫は館の反対の端に寝ていると言う。音など聞こえないから、自由に盗みなさいと言っているようなものだ。しかしこの老婆は何も知らないような振りをしているが、実は計算づくでこんなことを言っている。彼女はわざと若い女たちに盗みを働かせ、「ほうら、こいつらは悪いやつらだろう?だから罰せられるのだよ」と言う訳なのだ。女たちは無作法で、あつかましいが、それだけでは殺す理由にはならない。しかし盗みまでやれば、これを決定的証拠にして処罰を加えうる。このようにわざと犯罪を誘い、罰を与えることで、物語の中では悪い人間が殺されるという印象をでっち上げ、私的怨恨の痕跡を消してしまうのである。

 母親の欲望は無垢の見せかけの背後に隠れているが、唯一それが露出するのが屋根裏部屋の場面である。若い女の一人が仲間を捜して屋根裏部屋に迷い込み、人形たちに襲いかかられる。彼女は力まかせに人形をたたき壊し、火を放つのだが、すると無垢の象徴である人形の背後から、腐った肉塊のようなものが現れるのだ。そして出所の特定できない奇妙な声が「ママ…ママ…」と叫ぶ。あれこそキラー・ドールを真に動かしているものの正体、ママの欲望の肉化したものにほかならない。

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さて、このように物語を再構成してくると、この母親が異常に嫉妬深く、執念深く、残酷な人間に見えてくる。ここでやや議論とは関係のない夢想にふけることを許していただくなら、彼女はサディスティックなローズメアリとあまり変わらないのではないかと思う。母親の欲望が肉化し、おぞましい姿を見せる屋根裏部屋の場面には、非常に短いショットなのだが、拷問の道具が映し出されている。あれは母親の性格を暗示するものではないだろうか。またフロイトは、人は同じタイプの人を恋人に選び続けるものだと言っているが、これはデイヴィッドにぴたりと当てはまるような気がする。彼は経済能力がなく、いつも金持ちの妻のご機嫌を取っている寄生的な存在であり、妻に支配的な地位を与えている。恐らく先妻との関係においても同じことが起きていたはずだ。先妻と離婚したのは、ローズメアリのほうがいい金づるになると見たからではないだろうか。

このように考えれば、母親の欲望が専制的で、他人の反対を全く許さない厳しさを持つことも納得がいく。ラルフがパニックを起こして人形を踏み潰した時、彼は逆に人形に襲われているが、たとえラルフが新たな夫として望ましい存在だとしても、彼女の意思に逆らう場合は容赦なく攻撃するのである。

そして母親が結婚相手に服従を求めていることに気がつけば、「子供や無垢な心を大切に」という例のメッセージにもう一つの意味があることにも気がつくだろう。それは個人的な復讐を隠蔽し、殺害を正当化する見せかけの理由であるだけではない。「いつまでも子供でいろ、わたしの支配に逆らうな」という命令でもあるのだ。人形作りの老人がラルフに向かって言う「いつまでも子供のままでいいのだよ」という台詞が威嚇的なのはこのためである。ラルフが新しい夫に選ばれたのは、彼が精神的に未だ完全に大人になりきっていないからだ。優しい男だからではなく、支配の対象として好都合だからだ。だからこそ、「もう子供みたいな真似は止めて大人にならなきゃ」というラルフの自戒の言葉は否定されるのである。逆にデイヴィッドは彼女の支配に逆らった。それゆえに罰せられるのだ。



サディスティックな母親の精神的支配、支配される者の幼児的で自立性に欠けた性格、母親が気に入らない人間を連続殺害するという筋。「ドールズ」はヒッチコックの「サイコ」の影響を受けた作品であることは明らかだ。旅行者に宿を貸す館は、いはばモーテルのようなものだし、パンクファッションの女が仲間を捜して屋根裏部屋へと階段を上っていく場面は、「サイコ」の中で行方不明の姉を捜して妹がノーマンの母親の部屋のある二階に上がっていく場面と照応しているだろう。

しかし「ドールズ」の際だった特色は、全体を夢物語に仕立て上げたことである。ラルフは殺害の夜が明けたとき、人形作りの老人から夢を見たのだと言われる。ただしこの夢はラルフのではなく、もちろん母親が見ている夢だ。母親の欲望をかなえる夢である。夢の形式を使うことで、母親を一度も物語に登場させなくても、全編に彼女の欲望を染み渡らせることが出来たのである。

「ゾンバイオ」の名監督が果たしてこの物語の二重性を意識していたのかどうかは分からないが、ともかく「ドールズ」が偉大なアメリカン・スリラーの伝統に新しい一ひねりを加えたことは間違いない。