2016年10月3日月曜日

95 オクタヴァス・ロイ・コーエン 「薄暮」

Gray Dusk (1920) by Octavus Roy Cohen (1891 - 1959)

コーエンの作品リストを見ながら、隨分読んだ作品が多かったので驚いた。ストーリーがひどく単純だが、設定にちょっと面白いものがあり、ついつい読んでしまうというところだろうか。

本作も非常に単純な話だ。ある男が女優と結婚し、知り合いの別荘を借りてハネムーンを過ごすことになる。ところが別荘に着いたその日の夜、新婚夫婦のお手伝いに雇われた男が家の中に入っていくと、夫は血まみれの妻の死体を抱いているではないか。妻はアイスピックで刺されて大量の血を流して死んでいた。

夫は地元の警察によってすぐに逮捕され勾留される。しかし彼は名探偵のデイヴィッド・キャロルと非常に仲がよかったため、すぐ獄中から彼に電報を打ち、事件の解決を依頼する。

血まみれの妻の死体を抱いていたということ以外にも、新郎には不利な証拠が一つあった。彼は別荘に着いた日、郵便局に立ち寄り、そこで昔の恋敵から実にいやらしい手紙を受け取っていたのである。この恋敵は結婚前に二人のあいだに割って入り、そのため彼らは婚約を一回破棄していたのである。もっともその後二人はよりを戻し、めでたく結婚に至ったのだが。で、この恋敵がどんな手紙を書いてきたかというと、「お前の奥さんが見かけ通りの貞淑な女だと思ったら大間違いだぞ」という内容のものだ。

これを読んで新郎はかっとなり、妻の不貞を疑って、結句彼女を殺したのではないか、と考えられたのである。三角関係のもつれによる殺人というわけだ。

しかしデイヴィッド・キャロルとその助手が捜査を開始すると新郎以外にも怪しげな人間が何人か別荘のまわりをうろついていたことがわかり……という話である。

ミステリとしては普通の作品。最後に探偵が推理を展開し、犯人をずばり指摘する場面はドラマチックではあるのだけれど、その説明は納得がいくようないかないような、ちょっと微妙な感じのものだ。事件が起きた場所の地図でも載せておいてくれたら、状況がもう少し読者にも呑みこめなたのではないか。

しかし私はこの作品に妙にひっかかるものを感じた。探偵は事件の外側に立つと何度も書いてきたけれど、この作品では探偵は新郎の親友であり、最初から新郎の無実を信じているのである。探偵はすべての可能性、つまりすべての登場人物が犯人である可能性を考えるものだが、「薄暮」では探偵は無条件で新郎の無実を信じている。彼は片足を物語の中に突っ込んでいるのである。

探偵の助手は、そういう態度はいつものあなたに似つかわしくない、新郎が犯人であることも考慮に入れなければならない、と諭し、探偵自身もはっとして、その通りだねと応えるのだが、しかし最後に至るまで探偵は新郎は犯人ではないという信念を持ち続けている。物的な根拠はなにもないのに。

ミステリにおいて探偵は事件の外部に立ち、事件を徴候として読む。スラヴォイ・ジジェクが「斜めから見る」の中で探偵を精神分析者にたとえたのは納得がいく。しかし本編の探偵はそうじゃない。これはどういうことだろう。

1920年に書かれた作品だから、まだ充分にミステリとしての形が整っていないのか。しかしそれにしてもなんとなく得心が行かない。

そこで考えたのが、もしかすると探偵の「新郎は犯人ではない」という信念そのものを、読者は徴候として読むべきではないのか、ということだった。つまりこの作品において真の探偵の立場に立つべき存在は読者ではないか。そして徴候として読む際に参考になるのは精神分析における「否定」の考え方ではないか。精神分析では被分析者が「私の夢に女が出てきました。しかしその女は母ではありません」と言えば、まさしくその夢の女は母なのである、と考える。おなじように「新郎は犯人ではない」という執拗な思い込みは、すくなくとも精神的な現実においては「新郎は新婦を殺したいという欲望を抱いている」ということを示しているのではないか。

そう考えると本書には二つの三角関係が描かれていることに気づく。いずれも男(A)女(B)二人が婚約まで話を持っていったのに、そこに新しい男(C)が入ってきて、女がそっちのほうになびいてしまうのである。探偵の友人である新郎はAの位置に立っている。そして(ネタバレして申し訳ないが)犯人もAの位置に立っているのである。ただし犯人は自分を捨てた女と新婦を勘違いし殺害することになる。この三角関係の不思議な重なり具合は何を意味するのか。私は犯人は新郎の無意識の欲望を実現したのだと思う。そして新郎の親友である探偵は(心情的に親友と同一化している探偵は)、その心理的な真実を糊塗するために執拗に「彼は犯人ではない」と繰り返すのではないか。

作中の探偵が探偵としての役割を充分に果たしていない、つまり事件=物語の外部に位置していないというとき、読者が探偵の位置について事件=物語を読み直さなければならない。ピエール・バイヤールが「アクロイド殺し」や「バスカヴィル家の犬」にたいして行ったことはそのことではないのか。作品と批評そのものの関係にもつながってきそうな論点である。