2016年10月12日水曜日

番外20 最後の挨拶、あるいは次なる殺人の予告

とうとう百冊読み終わった。正直、このブログを書くのはしんどかった。読むのはべつにたいしたことではない。洋書はいつも一週間に二冊から三冊は読んでいるのだから。しかし読んだ本についてまとまった文章を書くのはつらい。よい作品なら書きたいことはすぐに見つかるのだが、凡作とか駄作となると、一定の分量の文章を書くのは至難の業であった。

一回の読書で作品の中から重要と思われる問題点を見ぬくというのは予想以上にたいへんな作業だった。だいたい私は気になる作品は十回でも二十回でも読み直して、ようやく意見がまとまるというタイプの人間だ。それが一回の読書で問題点を把握し、それに対する考えをまとめようとしたのだから、読書中に大量のメモを取らねばならず、ほんとうにしんどかった。もちろん問題点をうまく把握できず、その場しのぎのごまかしレビューを書いたことは何度もある。というか、それがほとんどだった。把握できたとしてもそれを深く論じることなどとてもできやしない。

しかし強行作業ではあったものの、とにかく一年以上にわたって、二十世紀前半におけるミステリのありようを考えつづけたわけで、この連続性の中で、多少は自分の考え方がまとまってきたり、広がりを見せるようになったということは(言い替えれば、自分の考えの不徹底さが露見して泥縄式に穴を補おうとし、その過程で議論がまとまるどころか、逆に論点がいたずらに拡散したということは)事実である。このブログで見出した論点については次のブログでも引き続いて考える予定である。

無名作家をずいぶん読んだが、その中にも優秀な作品があるのには驚いた。このような作品に出合うことは純粋な喜びである。また駄作を読んだからと言って時間の損になったとは言えない。多くの作家たちがトライアル・アンド・エラーを繰り返して、近代的なミステリの型ができあがったという、その歴史的過程が実感できたのだから。

百冊の中でいちばん印象に残るのは第四回にレビューしたエセル・リナ・ホワイトの「恐怖が村に忍び寄る」。善なるもののパソロジカルな性格を追求して圧巻だった。この本を読んだ後、アレンカ・ズパンチッチの Ethics of the Real という理論書を読んだが、ホワイトの作品を理解する上で非常に参考になった。エリザベス・フェラーズの「三月兎殺人事件」も本格ものとしてよくできている。どこかの出版社が翻訳を出すべきだろう。

これでこのブログは終了である。お読みいただいた読者の方々には心から感謝を申し上げる。こういうブログに興味を持たれる方は、ハードコアのミステリファンか、読書家のなかでも相当な「すれっからし」であろうと思われる。しかし英語圏では電子出版によって古い本、絶版本がかなり自由に手に入るようになってから、今まであまり注目されていなかった本を再評価しようという動きが、もう十年ほども前からはじまっている。ブログでは Backlisted とか The Neglected Books Page などというすぐれたサイトができているし、出版社では Valancourt とかマクミランの Bello などはそうした再発掘の努力をしている。私の試みもそうした流れの中にある。

次のブログではヴィクトリア朝の最後期からエドワード朝にかけての本を扱う予定である。年代で言うと1880年頃から1920年ぐらいのあいだである。じつは今、世紀末に書かれた、やたらと長いメロドラマ小説を(四苦八苦しながら)翻訳しているので、その頃出版された本を重点的に読んでみたいと思っているのだ。ただしジャンルはミステリにこだわらない。普通の文学書だろうが、(大学の図書館が貸してくれるなら)研究書だろうが、怪奇小説だろうが(この時期の怪奇小説には知られざる傑作、注目すべき作品が多々ある)、必要とあらば既読未読にかかわらず読みたいと思っている。