2016年10月11日火曜日

100 ウオルター・リヴィングストン 「バーンレイ邸の謎」

The Mystery Of Burnleigh Manor (1930) by Walter Livingston (1895-?)

ニューヨークの建築家ライカーは、イギリス人のセシル卿に請われて、卿の屋敷バーンレイ邸のリニューアルのため、イギリスにおもむく。もちろんこの当時はまだ飛行機はないので、旅行は船でおこなう。ライカーは豪華な船室をあてがわれ、召使いまでつけてもらい、しかも料金はただという、まことにうらやましいご身分でイギリスに渡る。しかし同じ船に乗っているセシル卿から、不思議な命令が彼のもとに来る。しばらくのあいだはあてがわれた船室から外に出るな、ほかの乗客とも接触するな、というのである。

アメリカ人のライカーはこの無体な命令にむっとする。べつにアメリカ人じゃなくてもむっとするだろうけど。しかし後日、セシル卿からその理由、およびリニューアルを頼まれたバーンレイ邸の歴史を聞いて、彼は大いにこの仕事に乗り気になる。

セシル卿には男の兄弟が二人いて、もちろん長男がバーンレイ邸の主人になっていたのだが、彼と弟との間になにやら確執が生じ、弟はある日、忽然と姿を消してしまうのである。しかもそれとともに長男の美しいエジプト人の妻も姿を消すのだ。まあ、なにがあったかはだいたい予想がつくだろう。

ところがそれ以後バーンレイ邸には幽霊が出るようになった。こつこつと足音が邸内に響き、その足音はドアが閉まっていてもそこをすり抜けてしまうのである。これは長男だけではなく、召使いもセシル卿も実際に見て、いや、「聞いて」知っていることだった。

長男は精神を病んで自殺し、それ以後邸は入口を閉ざされ、管理人に管理されているだけだったのだが、最近その管理人から奇妙な報告がきた。何者かが入口の閉ざされた邸の中に入り込んでいるようだというのだ。しかも中に入った何者かが、その後、外に出てきた気配はない。セシル卿はこの邸をリニューアルするだけでなく、邸にからんだ謎を解明してもらおうとライカーに白羽の矢を立てたのだった。卿がライカーに外部との接触を禁じたのは、邸に入り込んだ賊が彼らを見張っているかもしれないと、警戒したからなのである。

話の出だしはこんな感じだ。もちろんすぐに読者は、ははあ、この邸には秘密の通路があるのだな、ということがわかるだろう。先の展開が非常に読みやすい小説ではある。

では、この後、ライカーが建築家=探偵として邸の謎を解明するのかというと……そうはいかない。彼は屋敷に着くなり、管理人の娘に恋をしてしまうのだ。しかもこの娘というのが事件といちばん深い係わりを持っている、怪しい、謎の娘なのである。つまり、このところ私が言い続けている事件=ドラマの外部/内部という問題に照らすなら、彼は内部に強い靱帯でもって(恋愛くらい強い靱帯もないだろう)関係をもってしまうのだ。探偵はあくまで外部に留まらなくてはならない。ライカーは内部に足を踏み込むことで探偵としての位置を失う。すなわちこれ以後、物語はメロドラマとなるのである。

こういう作品が二十世紀の前半に「ミステリ」としてたくさん書かれたことは、このブログをつけながら私はいやというほど再確認した。ここを通過して、探偵が外部にいる本格的なミステリが、型として成立するのである。

しかしこう言ったからといって、私がメロドラマを好まないわけではない。それどころか、メロドラマ的な要素がない作品は、正直ちょっとつまらないと思ってしまうくらいだ。毒々しい色彩のメロドラマは、立てつづけに読むと飽きが来るが、たまによむと面白い。じつはこのブログのあとはヴィクトリア朝の最後期からエドワード七世時代にかかれたメロドラマや、その時期を扱った研究書を読もうかと思っている。(もっとも研究書は大学の図書館が貸してくれないので何冊読めるかはわからない)

そんなことはともかく、物語のほうに戻ろう。メロドラマであることがわかってもこの作品は充分に面白く読める。管理人の娘の不可解な行動、娘を好いているライカーのフラストレーション、神出鬼没な幽霊、邸の秘密を知っているはずなのに、決してそれを話さない召使いたち、暗闇の中で展開するライカーと幽霊の闘争。馬鹿馬鹿しいと言えば馬鹿馬鹿しい話だ。真相がわかった読者は、物語を振り返って、登場人物たちがあんなに謎めいた振る舞いをしていたのは、ちょっとやり過ぎ、大袈裟すぎじゃないかと思うだろう。まったくその通りだ。しかしそういう「やり過ぎ」なところがいいのである。バルザックを読むと、なんというのだろう、ある種の満腹感が得られるが、それはこのように極端にまでつきつめられた情念や人間性に対する満腹感ではないだろうか。