2016年10月2日日曜日

94 レノール・グレン・オフォード 「万能鍵」

Skeleton Key (1943) by Lenore Glen Offord (1905-1991)

オフォードは最近再発掘された作家で名前を知っている人は欧米でも少ないと思う。私は本書をフェロニー・アンド・メイヘム社から2014年に出された版で読んだ。この版にはサラ・ワインマンによる有益な序文がついている。彼女はこの作品を、第二次世界大戦から第二次フェミニズムが押し寄せるまでの期間に、女性によって書かれた「家庭的サスペンス」の一つと見なしている。その特徴はこうだ。
ハードボイルドというわけではない。すくなくともハメット、チャンドラー、ケインといった作者の作品と較べるならハードボイルドとはいえない。しかしコージーともちがう。あるいはまたメアリ・ロバーツ・ラインハートばりの、危地に陥った女性を描く「知ってさえいたら」派でもない。
そのどれでもないけれど、しかしそのいずれの特徴も一部持っているような中間的な作品というのがワインマンの考えである。このような作品としてほかにはヴェラ・キャスパリの「ローラ」とかエリザベス・サンクセイ・ホールディングの「めくら壁」とかシーラ・フレムリンの「夜明けの前の時間」などがあると彼女は書いている。

ハードボイルドに似ているけどハードボイルドではない。コージーに似ているけど、それともちょっとちがう。このワインマンの言い方には私も同意する。コージーにおいては、たとえばミス・マープルもポワロも、探偵は事件の外側にいて、事件を徴候として眺める。探偵は基本的に事件=ドラマに直接的な関係を持たない。一方ハードボイルドは主人公である私立探偵が事件=ドラマの中に入っていく。そして暴力を受けたり危険な目に遭ったりするのである。「万能鍵」にはコージー「的」な要素があるが、明らかにコージーではない。主人公が事件=ドラマのなかに入っていくからである。

「万能鍵」の主人公、雑誌のセールスをしているジョージーンは、ひょんな偶然からグレティ・ロードという小さな通りに入り込み、そこである科学者と出会い、彼の科学論文をタイプするという仕事を与えられる。報酬は百ドルという大金だ。夫を失い、娘ひとりをかかえ、病院の費用の支払いにも困っていた彼女はすぐにその申し出に飛びつく。彼女は家に帰ってからさっそく小切手を郵送し、滞っていた医者への支払いをする。そのときだ。彼女は誇らしい気持ちになってもよかったのに、かわりに得体の知れない感情に襲われる。
彼女は意に反してかつて読んだことのある恐ろしい物語を思い出した。その中である男は、その男を破滅的運命から救い得ていたかもしれないあるものをなくしてしまう。すると彼にしか聞こえない声が繰り返しこう言うのだ。「もう取り返しはつかない。二度と取り返しはつかないよ」
彼女は科学者から百ドルを受け取り、使ってしまうことで、完璧に借りをつくってしまった。彼女と事件=ドラマが展開するグレティ・ロードは関係を持ってしまったのである。こうして彼女は事件に呑み込まれていく。(「もう取り返しはつかない」)この過程はハードボイルドの導入とよく似ている。しかしハードボイルドの主人公たちはこういうふうにトラブルに巻き込まれることを「わが商売」としているわけで、そこが普通の主婦であるジョージーンとはちがうところだ。

(ちなみにジョージーンがグレティ・ロードにまよいこみ、そこの家のドアベルを次々と鳴らすが、誰も出てこないという場面が冒頭にある。そのとき彼女は「なんだか私、いつの間にか幽霊にでもなったみたいだわ。透明になった私を誰も見ることができないみたい」というおかしな印象を抱く。このとき彼女はまだグレティ・ロードの事件=ドラマの登場人物にはなっていない。彼女は幽霊、すなわち物語内に存在していない存在だったのである。それが科学者のアルチュセール的「呼びかけ」のおかげで主体として存在するようになり、さらに金銭(百ドル)の交換によって物語のネットワーク内に一定の位置を占めることになる。理論的なことに興味のある人なら面白く読める本だと思う。いやワインマンがあげているキャスパリもホールディングもフレムリンも理論的に読んだときに面白さが倍増するし、理論的な読み方に堪えうる作家たちである。)

さて、物語の出だしの部分だけを簡単にまとめておく。ジョージーンは科学者の家へ通い、タイピングの仕事をはじめるのだが、ある日仕事が遅くなり、気がついたらもう夜になっていた。しかもその日は灯火管制がしかれ(時は第二次大戦中、場所はカリフォルニアである)どこもかしこも真っ暗だ。外を見ていると彼女はその地区の空襲監視員が見廻りに外を歩く音を聞いた。それから何かががたがたと動く音、そして鈍い衝突音。外に出てみると空襲監視員が車に轢き殺されていた。いったい彼は誰に殺されたのか。その理由は。また彼は万能鍵を持っていたが(つまりどこの家にも入ることができたが)、なぜ彼はそんなものを持っていたのか。警察が捜査を開始するが、その努力もむなしく第二の殺人が行われ、ジョージーンにも危険がせまってくる……。

最後に歴史を知らない若い人のために言い添えておこう。灯火管制というのは敵の空爆の目標とならないように夜間、明かりを消すことである。そして当時アメリカの敵だったのは日本である。日本の爆撃機を怖れてカリフォルニアでは明かりを消していたのだ。