2016年8月17日水曜日

77 エドガー・ウオーレス 「銀の鍵」

The Clue of the Silver Key (1930) by Edgar Wallace (1875‐1932)

どういうわけかエドガー・ウオーレスの本は、その量に比して翻訳が出ていないという印象がある。たしかに現代のミステリに慣れた目で見ると時代がかっているけれど、ウオーレスの生きのよさ、活気あるストーリー・テリングは十分に今でも楽しめるはずだ。彼は「文学」などといった高尚なものには目もくれず、ひたすら大衆受けのするB級作品を書き続けた男である。それゆえ彼の作品には社会批評などといったものはなく、時代のイデオロギーに迎合した作品も少なくない。しかし読者を物語りに引き込まずにはいないある種の熱気に満ちていて、それはいまの読者にも十分伝わるのではないだろうか。

「銀の鍵」もウオーレスらしさが全開の一編で、非常に楽しかった。彼は一八九八年にはじめて詩の本を出版し、一九三二年に亡くなっているから、本作は晩年の作品ということになる。しかし晩年でもこれだけ勢いのある作品を書くというところがウオーレスのすごいところだろう。(「書く」というのは正確じゃないかもしれない。ウオーレスは多くの作品を口述していたらしいから)

本作のプロットを要約するのは難しい。結構筋が入り組んでいるのである。そこで思い切って枝葉を刈り取って幹の部分だけを紹介する。金貸しをして大金持ちになったハーベイ・リンという老人が殺害される。彼は足が不自由で、車椅子に乗って召使と公園を散策していたのだが、その最中に銃で背中を撃たれて死んだのである。撃った人間はわからない。では、なぜ殺されたのか。それはシュアフット・スミスという、「デカ」という呼び名がいかにも似つかわしい刑事によって徐々に判明するのだが、じつは何者かが金貸しの銀行口座から金を騙し取っていて、それがばれそうになって犯人がリン老人を殺害したのである。金をだまし取る機会を持っていた人間は誰か。また公園で金貸しを撃つことのできた人間は誰か。二人の重要容疑者が捜査線上に浮かんできた。一人は突然休暇をとって行方をくらました銀行家である。もう一人は、リンから金を借り返せないで困っている貴族のドラ息子である。ところがスミス刑事の捜査の結果わかった真犯人は……。

私はてっきり銀行家が犯人と思っていたのだが、真犯人は一秒も考えなかったある男だった。これにはびっくりした。手がかりがすべて提示されているパズル・ストーリーではないので当てることは難しいのだが、しかしそれでもうまくやられたという感じがする。ゲームやスポーツで相手にうまくやられたときは悔しくなるものだが、ミステリにおいてうまくやられたときは気分が爽快になる。私は久しぶりの爽快感を味わった。

私のまとめだけを読むと単純な話のように思えるが、さっきも言ったように、このメイン・プロットにはさらにいくつかのサブ・プロットがくっついてくる。ロンドンのある劇団を金銭的に支援する奇特な金持ちの話、犯人の正体を知ったために殺された浮浪者の話などである。こういう脇筋がからみあって展開するので、話は決して単調にはならない。

ちょっと面白いのはウオーレスですらミステリの紋切り型を厭わしく思っていたような記述がみつかることだ。
 シュアフット・スミスは溜息をついた。「これじゃまるで小説みたいだな。俺は小説みたいなのが嫌いなんだ。ロマンチックなんだよ。ロマンチックなものは胸くそ悪い。だけどこれはしょうがない、お嬢さん、あんたの言う通りにするよ」
あるいはスミスが犯行現場で犯人が落としたボタンを発見した場面。
 彼は不意に立ち止まって屈み込み、床から何かを拾い上げた。真珠でできたチョッキのボタンだ。「こういうことは小説の中でしか起きないものだ」彼はボタンをひっくり返して見ながら言った。
こんな具合にメロドラマ的なロマンスや偶然を毛嫌いしているのだが(そしてスミス刑事がハードボイルドを気取るのもメロドラマ的なものから離れようとする作者の意図のあらわれのように思われるのだが)、しかし結局ロマンスも偶然も起きてしまう。ウオーレスは暴力的だとかコロニアリズムだとか批評性がないとかいろいろ非難されるけれども、私がいちばん物足りなく思うのは、なんだかんだ言ってもやっぱりメロドラマの枠内に収まってしまっていて、その枠を変質させようとか、変更する気がまるでないところなのである。まあ、大衆的な作家というのはそういうものだけれど。