2016年8月3日水曜日

74 ハーバート・クルッカー 「ハリウッド殺人事件」

The Hollywood Murder Mystery (1930) by Herbert Crooker (?-?)
 
インターネットの IMDb サイトによると、ハーバート・クルッカーはシナリオ・ライターやプロデューサーとして活躍した人らしい。本作もシナリオ・ライターが語り手で、その友人である探偵クレイ・ブルックがハリウッドの若手女優殺人事件を解決する。

話の筋をごく簡単にまとめておく。元ダンサーの、とある若手女優がカメラ・テストを受けたあと、スタジオ内で殺される。スタジオにはいろいろな人が出入りしていたが、その隙を縫っての事件だった。死体から宝石がなくなっていたため、物取りのしわざかとも思われたが、スタジオの別の部屋から宝石が見つかったため、ただの強盗殺人事件ではないことがわかる。

探偵のクレイ・ブルックは地方検事の要請を受けて捜査に参加する。

殺された女優は高慢ちきだが、なかなか魅力があって、いろいろな男性と関係があった。彼女の映画出演を金銭的に支えていた百万長者、映画界に進出する前にダンスでパートナーを組んでいた若い男、秘密裡に結婚していた男などなど、彼らは嫉妬や関係のこじれといった動機で女優を殺したのではないかと疑われたが、決定的な手掛かりは見つからなかった。

そのうちに事件関係者が殺されたり行方不明になったりして、地方検事は無能っぷりを新聞にたたかれて頭を抱えるのだが、しかし探偵のクレイ・ブルックはすでに真相を見ぬいているかのように平然として捜査を進めて行き、最後に犯人をおびきだすための大芝居を打つ。

これは素人の作品ではない。文章作法を心得た、プロの書き物だ。しかしミステリとしての出来はどうかというと、まあ普通といったところだろう。最後まで面白く読めるけれども、あまり印象に残らない。

いや、一点だけ妙に気になることがある。それは文学者や文学作品の名前が頻出する点である。探偵のクレイが仮装パーティーに出席して「ぼくは年甲斐もなくイートンの生徒の恰好をしているんだ。『トム・ブラウンの学校時代』は読んでいるだろう?」と言う部分がある。英文学の知識がない人向けに説明すると「トム・ブラウンの学校時代」は学生生活を描いた小説のはしりとして名高い作品である。それを読みながら、私はあれっと思ったのだ。そういえばこの作品には妙に文学作品の名前が出てくる。殺された女優はベリリン・ボバリー、そう、あの「ボバリー夫人」のボバリーだ。彼女は生前、モンテ・クリスト鉱山の株を買っていて、それが事件を解く一つの鍵となる。オー・ヘンリーやらシェイクスピアやらリチャード・ハーディング・デイヴィスとかの名前も出てくる。もちろん語り手はシナリオ・ライターなのだから、文学にはある程度通じているのだろう。しかし探偵のクレイまで「物語」を意識しているのはどういうことだろう。
 「ぼくは狡猾なヴィドック流の推理方法、まだ見つかっていない犯人を捜すために帰納法的推理を用いるよ。これまでは目の前にあらわれた手がかりから論理的に犯人を追い詰めようとしてきた。これからは犯人や動機などを想定することで捜査を進める。犯人はああしただろう、こうしただろう、こんな動機を持っていただろうと想定する。それからぼくの想定が正しいことを証明するのさ」
ヴィドックは実在の人物で「ヴィドック回想録」(1827年)で有名な人である。あるいは探偵はこんなことも言う。
 「君は笑うかもしれないけど、殺された女優ボバリーについて、ぼくはデュマの『三銃士』に出てくるある挿話を思い出しつづけているんだ。アルマンティエールの近くで行われたミレディの血なまぐさい殺害の挿話を覚えているかい?」
なぜこんなに「物語」を意識しているのだろう。ことあるごとに物語を引用して人間の振る舞いの意味を説明しようとする作者は、まるであらゆる現実・人間行為は、パターン化・物語化されているとでも考えているみたいである。それほどたいした作品ではないと思うけれど、しかしこういうふうに物語を意識している物語というのは妙に気になる。