2016年8月7日日曜日

75 J.S.フレッチャー 「ボルジアの箱」

The Borgia Cabinet (1932) by J. S. Fletcher (1863-1935)

フレッチャーといえば「ミドル・テンプルの殺人」(1922)とか「パラダイス・ミステリ」(1921)とか、それなりに人気のある作品を書いた人だ。しかし私自身はさほど興味を持っていない。はっきりいって凡庸な作家だと思う。「ボルジアの箱」を読んでもその印象は変わらなかった。

「ボルジアの箱」というのは最初の殺人が行われるサー・スタンモアの屋敷にある毒薬を納めた小箱のことである。サー・スタンモアの妻の父親が軍医で、なんと死んだときに毒薬の箱を娘に残したのである。奇人の側面を持つサー・スタンモアは、それを面白がって妻の反対にもかかわらずそれをガラスの戸棚に入れて飾っていた。ボルジアという名前はもちろん悪名高いイタリアのボルジア家から来ている。とくに政敵たちを毒殺したことでよく知られている。

この物語の核となる部分を要約すると、サー・スタンモアは遺書の内容を変更しようとしていたのだが、それによって不利益をこうむると思われる人々(これが結構大勢いる)の誰かが彼を、「ボルジアの箱」に入っている毒で殺し、遺書の変更を許さなかった、ということである。スコットランド・ヤードの若手刑事チャールズワースは、サー・スタンモアの親族たちを調べ上げ、さまざまな手がかりからある女性を犯人と見込むのだが……もちろん、最後にはちょっとしたどんでん返しが待っている。

フレッチャーは物語ることが上手な作家である。事件を展開させる部分と、一度立ち止まってそれまでの進展を振り返り要約する部分が、ちょうどいい具合に按配されている。読者はなんの負担も感じることなく、すらすらと作品を読み進めることができる。

しかしこの「すらすら」にはある種の物足りなさも付きまとう。たとえばサー・スタンモアが殺されて検死をした医者は、「これは毒殺である。みずから毒をあおったのではない。誰かに毒をもられたのだ」と断言する。読者は当然、どうして医者はサー・スタンモアの死を他殺と判断したのだろうと、その根拠を知りたいと思うだろう。自殺か他殺かでは、事件の様相が大きく異なることになる。その肝心な点を検視官はいかに確信したのか。ミステリ小説なら当然、そのことを説明すべきである。ところが作者は、医者がそう判断した、ということを繰り返し書くだけで、具体的な医者の判断内容についてはなにも教えようとしない。

また、サー・スタンモアが遺書の内容を変更しようとしていることが、なぜ外部の人にもれたのか、とか、毒物の箱が、誰もが手に触れられるような場所に置かれていたのはなぜなのか、などといった、この本を読めば誰もが感じる疑問も、サー・スタンモアが奇癖の持ち主であったということで説明されてしまっている。サー・スタンモアは性格的にまことにいい加減なところがあり、遺書の内容を記した紙を机の上に放り出しておいたり、貴重な宝石を預かっても無造作にポケットにつっこんで持ち運んだりする。毒物の箱も、ただ珍品であるというだけで、客にも見せるし、鍵もかけてない棚に放置してあったのである。私もずさんなタイプなので、こういう人間がいないとは言わないが、しかしサー・スタンモアは現役ばりばりの法律家なのだ。法律の専門家が遺書のような重要な書類を机の上に投げ出しておくだろうか。

もう一つ、作者はなぜサー・スタンモアが遺書を変更しようとしたのか語ろうとしない。一応、最初の遺書で多額の遺産を与えることになっていた人々が、実は彼が思っているような人々ではなかったことがわかり、かっとなって遺書を変更したのだ、ということになっている。しかしその点が問題になるたびに作者は口を濁し、とにかくそういうことらしい、といって済ましてしまう。それが繰り返されるたびに、なぜ作者はこんなあいまいな書き方をするのだろうと不思議な気になった。

「ボルジアの箱」は簡単に読めて、一応最後にはどんでん返しというミステリらしさもそなえている娯楽作品だが、そのわかりやすさはある種の強引な省略や、不自然さを基いにしてつくられたものだと思う。