2016年8月13日土曜日

76 レビアス・ミッチェル 「パラシュート殺人事件」

The Parachute Murder (1933) by Lebbeus Mitchell (1879-1963)

作者の詳しい経歴はわからない。子供向きの本や、カーク・キマーソンという俳優を主人公にしたミステリをいくつか出しているらしい。一応プロの物書きなのだろうが、しかし「パラシュート殺人事件」はずさんな出来だと思う。探偵の推理は期待させるほどのものではないし、犯人が分かってから物語を振り返ると、不整合な部分がいくつかあることに気づくからである。

事件はこんな具合にはじまる。チャドウィック・モーンはニューヨークで活躍する舞台俳優で、常に自分の名前が新聞雑誌に取り上げられることを望んでいる。ここしばらく芝居でヒットを飛ばしていない彼は、売名のために一計を案じる。まず、旅行に行くために飛行機に乗る。つぎに飛行中の飛行機からパラシュートをつけて飛び降りる。着地した後は数週間行方をくらます。こういう派手な失踪劇を演じれば、彼の名前は毎日新聞に載るだろうというわけだ。

ところが計画を実行した彼は、翌朝、パラシュートに包まれた死体となって発見された。銃殺されたようである。警察は三つのシナリオを考えた。(1)モーンは着地した後銃殺された。(2)パラシュートで落下中に銃殺された。(3)飛行機内で殺され、パラシュートをつけて機外に放り出された。いずれのケースかによって犯人が変わってくるのだ。

本件の解決に当たるのは、これまた役者のカーク・キマーソンである。地方検事から探偵の才能を認められ、今回の捜査に特別に抜擢されたのだ。彼は役者らしく一風変わった推理・捜査の仕方をする。被害者と顔つきや服装やしぐさを似せて彼と同一化し、彼がどのように考えるかということを直感的に知ろうとするのである。
ぼくはモーンの立場に自分を置きたいんだ。できることなら精神的にも、感情的にも。彼に関するすべてを調べだし、それを煮込んで、上に浮かんできた灰汁を取り除き、残ったものを研究する。もしもモーンとおなじように感じることができ、彼の皮膚の内側に入ることができたら……
こういう方法論を述べる探偵はキマーソンのほかにもいろいろいるが、本作がいただけないのは、彼独特の人格研究がいっこうに捜査の役に立っていないことである。彼は作品の中で二三度、被害者のモーンに化けて召使たちをびっくりさせたりしているが、それでなにかわかったかというと、じつはなにもわからないのである。せいぜい事件の容疑者のリストに一人の女を付け加えた程度の成果しかなかった。このことは探偵自身も自覚しているようだ。
 「で、今晩チャドウィック・モーンの物まねをして、どういうことがわかったのかね」ブレイクはかすかな皮肉をこめて聞いた。
 「残念だが、ご想像の通り、なんにもわからなかったよ」
被害者あるいは犯人と心理的に同一化をはかろうとする捜査方法は、私の知るかぎり、どの作品でもつまらない結果に終わるものだが、本書においては、そもそも結果すら導き出されていないのである。探偵は何度も自分の特異な方法論を説明しているのだが、まったく期待はずれに終わってしまった。

もう一つこの作品の難をあげておこう。探偵は物語の後半に入ると姿を消す。これは敵(つまり犯人)が彼の行動を見張っていて、居場所がばれると殺される可能性があるからだと説明がなされている。私はびっくりした。一人の人間であってもその行動の一部始終を見張り続けるには相当の人力と労力がかかる。そんな金銭的余裕があり、組織力のある犯人とはいったい誰なのだろう、と。

ところが最後に指摘された犯人たちを見ると……とてもじゃないが、そんなことができたとは考えられない人々なのである。だいたい罪がばれるや、すぐさま毒を飲んで自殺してしまうような気の弱い連中なのだ。それではなぜ探偵は身の危険を感じるなどと言ったのか。これはもう、ただ単に作者が話を盛り上げようとしてそういうことにしたというだけなのである。

細かいことは書かないけれど、この作品には「そんなことはありえないだろう」と思えるようなエピソードがいくつか混じっている。文章を見ればアマチュアの書き手でないことはわかるのだが、しかし物語のつくりがあまりにもいい加減ではないかと思った。