2016年8月24日水曜日

79 トム・クローマー 「待てども何もあらわれず」

Waiting for Nothing (1935) by Tom Kromer (1906-1969)

日本でバブル経済がはじけたころに「清貧の思想」とかいう本があらわれた。贅沢を止め質素に暮らそう、そこにこそ自由がある、といったような内容の本だ。こういう考え方をイデオロギーというのである。

最近はほとんど聞かなくなったが、以前は仕事を得るためにスキルを身につけようとか、あなたが良い職をみつけられないのはあなたの心構えに問題があるからだ、などとよく言われていた。これもイデオロギーだ。問題はあなたの内面にあるのではない。経済、社会の構造それ自体にあるのだ。ここ数年来、そのことが誰の目にも明らかになってきたので、こうしたご託を述べる輩は減ってきた。

トム・クローマーの「待てども何もあらわれず」は一九三〇年代、つまり大不況の時代に浮浪者の身分に陥った、もともとは中流階級の(しかもかなり教養のある)男の経験を語った作品である。この中にも上にあげたのと同じようなイデオロギーが登場し、浮浪者によってこき下ろされている。
 彼はポケットの中の新聞をたたいた。「この新聞の社説によると、この不況は人々の健康にいいんだそうだ。人々は食べ過ぎているのだそうだ。この不況のおかげで人々は神への信仰を取り戻しているだとさ。不況は人々に人生の本当の価値を教えるだろうと言っている」
 「クソ野郎が」緑色に変色した肉をかんでいた浮浪者が言った。「クソったれのクソ野郎が。そんな社説を書いた野郎の姿が目に見えるようだぜ。女房とガキの姿もな。やつらは食事のテーブルに着く。制服を着た召使いが椅子の後に立って食い物を渡す。やつらは終日ロールス・ロイスを乗りまわす。そんな男が炊き出しの列に並んでいるのを見ることがあると思うか。あるわけない。でもこのクソ野郎はこういうくだらないことを書いてみんなに読ませるんだ。人生の本当の価値だと? そんなに神への信仰を取り戻したいなら、どうしてロールス・ロイスをさびついたバケツと取り替え、炊き出しの列に並ばないんだ。クソめが」
ケチの付けようがない正論である。清貧の思想に感動する人は自分が置かれた社会的状況の特殊性に気づいていないのである。イデオロギーは社会が本当に齟齬を来しているところから人々の目をそむけさせるようにはたらく。

本作はミステリとはいいがたいが、社会の暗い側面を写実的に描いているという意味で多少ノワールの味わいを持っている。それに大不況の時代の浮浪者の実態など、この小説以外にどんな記録があるだろう。私は本書をすぐれた作品とは考えないが、貴重な意味を持つものとは思う。インターネットでいろいろ調べるとアメリカの大学の授業で本書を読んだという人もいるから、それなりの重要性を持っている作品と考えていいだろう。

語り手はトムという男だが、彼は作品中で自分の詳しい経歴などは語らない。ただもともとはまともな教育を受けた中流階級以上の人間だったと思われる。そして不況で金がなくなるとともにすべてを失ったようだ。彼は十二章にわたって浮浪者の生活のさまざまな側面を語る。警察、牢屋、炊き出し、強盗、売春、いずれも印象的で痛々しいエピソードばかりである。その中から二つを紹介し、ともども私の感想を述べておこう。浮浪者たちが墓地で焚き火をし、夕食を作ったり休んでいると、武装した警官たちがあらわれ、鍋を蹴飛ばし、浮浪者たちを墓地から追い出そうとする。もちろん浮浪者たちはこの乱暴なやり方に怒り、手に手に石や棍棒を握るのだが、危険を察した警官たちは銃を引き抜き、本気で撃つ構えを見せる。浮浪者たちは仕方なく墓地から移動する。そのあとある浮浪者はこう言う。
 「おれに銃があったら目にもの見せてやるんだが。銃さえあればあいつらをひどい目にあわせてやるのに」
 「おれも昔はそう思ったぜ」べつの浮浪者が言った。「だけど銃を握っておれは何をしただろう。何もしなかった。それだよ、おれがやったのは。ただじっとしていたんだ。浮浪者に何かをしでかす肝っ玉なんてないんだ。くさい炊き出しのスープを飲んで凍え死ぬしか能がないのさ。だから浮浪者なんだ」
自分を取り巻く状況に対して何もできないという無力感はこの作品に通底する感傷である。(ちなみに私は本書の「浮浪者」という言葉を「非正規」に何度も置き換えて読んだ)しかし語り手は過度の自己憐憫には陥っていないものの、厳しい言い方をすれば、彼はやはりどこかで自分たちの無力なありようにセンチメンタルに酔っている。それがこの本をだめにしているいちばんの原因なのだ。

第八章にはバスを待つ女たちの前で、道に落ちているドーナツを貪り食って、彼らの同情を引き、金をせしめる浮浪者の話が出てくる。もちろんドーナツはあらかじめ店で買い、バス停のそばの側溝に落としておくのだ。そして女たちが集まったところで彼はドーナツを拾って食う演技をしてみせるのである。この男はたっぷり金をせしめる。そして頭を使えば炊き出しの腐れスープなど飲まずにすむのだと、堂々とした態度で語り手に言う。語り手はこの男はすごいと感心するが、自分には女性の前で落ちているドーナツを食べることはどうしてもできないと考える。

坂口安吾風にいえば彼はまだ堕落しきっていないのである。堕ちきっていないから落ちているドーナツを食べる浮浪者のような威厳を持つことができないのだ。堕ちきっていないから棍棒で人の頭を殴り金を盗むこともできない。銀行強盗にも失敗するのである。そしてその無力さにいつまでも拘泥し、拘泥することに酔っているのだ。このナルシズムが私には鼻についてならない。

アゴタ・クリストフの「ノートブック」には、ミツクチとその母が飢えと寒さで死に掛けているとき、主人公の子供たちが牧師の家に押しかけ、彼をゆする場面が出てくる。子供たちは牧師から小額の金を受け取ると、これだけでは足りない、明日また来るという。
 「明日はぼくたちを家に入れてくれるまでベルを鳴らしますよ。窓をたたき、ドアを蹴り、あなたがミツクチに何をしたか、みんなに言いふらします」
 「わたしはミツクチになにもしちゃいないよ。彼女が誰かすら知らない……(中略)」
 「そんなことはどうでもいいのです。噂になればいいのです。スキャンダルはみんな好きだから」
 「なんてことだ。きみらは自分がなにをしているのか、わかっているのか」
 ぼくらは言った。
 「ええ。おどしているんです」
 「きみらのような歳で……なんとなげかわしい」
 「ええ、なげかわしいです。ぼくたちがこんなことをしなけりゃならないなんて。でもミツクチと彼女の母親にはどうしても金がいるんです」
こうして彼らは牧師から毎週金をせしめることになるが、ミツクチと母親の生活が立て直されると、金を渡そうとする牧師にこう言う。「そのお金は取っておいてください。あなたは十分にお金を出しました。ぼくらはどうしても必要だったからあなたのお金を取りました。でも今、ぼくらは十分にお金を稼いでいて、そこからミツクチにいくらかを渡すことができます……」

「ノートブック」の主人公が「絶対的に必要だから」という理由で見せるナルシズム抜きの行為こそ、浮浪者トムに欠けているものである。