2016年7月31日日曜日

73 H.L.ゲイツ 「殺人の家」

The House of Murder (1931) by H. L. Gates (1878-1937)
 
この本は過剰なくらいにメロドラマが詰め込まれているという点において、以前番外でレビューしたマックス・アフォードの「暗闇のふくろう」に似ている。一九三〇年代に入って、メロドラマ形式のミステリを書くなど、やや時代遅れな感じがするが、しかしなりふりかまわずその形式を極端なところまで突き詰められると、かえって変な魅力を感じてしまう。この季節外れの異常な通俗性はなにを意味しているのだろうか。

物語は主人公がいきなり死体と直面する場面からはじまる。バジル・タウンはアメリカ人で宝石の取引に携わっている。あるときフランスに呼ばれ、金に困ったある男爵夫人から真珠のネックレスを買い受けることになった。ところが、男爵夫人の家に着いてベルを鳴らし、ひょいと横を向いたら、窓から室内が見え、そこに男爵夫人が倒れているのである。彼を玄関まで迎えに来た女中と部屋の中に駆け込むと男爵夫人は射殺され、真珠のネックレスは奪われていた。

私はこの最初の部分を読んだとき、ちょっと顔をしかめた。殺人死体の発見場面から語りはじめることで、読者を一気に物語りに引きずり込もうとするのはいいが、なにしろ文章が荒っぽい。いかにも素人の書き方なのである。しかも設定が大時代だ。このあと男爵夫人の殺人がスワン(白鳥)と呼ばれる名代の女盗賊と、その手下「アヒルの嘴を持つ男」のしわざであるとわかると、フランスきっての名探偵ジロフが事件解決のために乗り込んでくるのである! これだけ読んでもたいていの人は辟易とするのではないだろうか。

だが、バジルをはじめ事件関係者が「死の家」と呼ばれる古びた屋敷に集められ、そこで連続殺人が展開されるようになると、作者の文章は奇妙なつやを帯び、熱気をはらみはじめる。そして臆面もないメロドラマがくりひろげられるのだ。ネタをばらしたくないからこれ以上は筋に触れるのをやめるが、これはもう話の整合性なんか度外視した、あきれるような愛と狂気の物語である。

こういうインパクトの強い物語だから、登場人物も、今風のことばで言うと、「濃い」キャラクターの持ち主ばかりである。検視官のマルサックは巨体の持ち主で、とてつもなく声が響き、不謹慎なくらいに冗談ばかりを言っている。本書のヒロインともいうべきジャックリーンはピストルの名手で、意志が強く、人を寄せ付けない凛然とした雰囲気をただよわせている。彼女の召使いギヨームは銃で手を撃たれても平気な頑健な身体を持ち、神出鬼没でまことに不気味。しかしきわめつけは名探偵のジロフである。口ひげを生やし、眉はもじゃもじゃで、顔の表情によってVの字になったり、Vをひっくり返した形になったりする。我の強い男で、なにかというと「私はジロフである」と豪語して胸をたたくのである。
 「聞きなさい。申し上げましょう。わたしが愉快そうにしているのは、これから起きる出来事を予感してのことです。今晩、この屋敷の中には女怪盗スワンがいる。彼女の命を受けてアヒルの嘴もすぐ近くにいる。わたし、ジロフは彼らを捕まえるでしょう。ムシュー・タウン、あなたはわたしの捜査を大いに助けてくれた。礼を言いますぞ。ジロフが礼を言うのですぞ」
名探偵はこんな具合にしゃべる。あまりにも芝居がかったものの言い方に、私は頭がくらくらした。

goodreads.com のサイトを見ると、この本と、この本の内容とよく似た Death Counts Five という本を読んだ人がいて、本の評価として五つ星を与えている。ゴシック風のお屋敷で起きる連続殺人事件が独特の雰囲気とともに描かれているのが面白かったらしい。たしかにこの極端なメロドラマ性には変な魅力がある。ある種のB級映画が持っているような妙な魅力が。