2015年11月28日土曜日

番外5 クリストファー・モーリー 「幽霊書店」 

The Haunted Bookshop (1919) by Christopher Morley (1890-1957)

Project Gutenberg 所収

「幽霊書店」をはじめて読んだときは、なんて不思議な本があるんだろうと、本当にびっくりした。ミステリ、読書案内、戦争批判が渾然一体となった作品なのだから。だいたい読書案内をする作品なんて、はたしてどれくらいあるのだろうか。「幽霊書店」には詩を含めて百冊を超える作品名が列挙されている。すくなくとも私は後にも先にもこんな小説にはお目にかかったことがない。

 (1)あらすじ


舞台はブルックリンのとある古本屋。ここで二つの物語が交錯しながら展開する。物語の一つは若い男女のロマンス。もう一つはアメリカ大統領の命を狙うテロ計画だ。

まずは舞台である古本屋。本書の冒頭には次のような説明がある。

この本屋は「パルナッソスの家」という、いっぷう変わった屋号を持ち、店をかまえた褐色砂岩のふるい快適な住居は、配管工とごきぶりが数代にわたってこおどりしてきた場所だった。店の主人は家を改装し、古本のみをあつかう自分の商売にいっそうふさわしい聖廟をつくろうと苦労をかさねた。世界じゅうを探しても、この店ほど敬服にあたいする古本屋はない。

「聖廟をつくろう」などというところから推測できるように、店主のロジャー・ミフリンは偏執的なまでに自分の商売に誇りを持つ、一種の奇人である。世の中の人々は娯楽として映画に関心を持つようになり、本を読むことが少なくなってきたというのに、彼は頑固として書籍の大切さを説く。気が短くてかんしゃく持ちだが、からっとした性格の男である。

彼は親友の食品会社の社長に頼まれ、その娘を住み込み店員として受け入れることになる。それがティタニアという素敵な名前の美少女である。この世間知らずのお嬢さんに一目惚れしてしまったのが、ギルバートというコピーライターの青年。二人はこの古本屋で出遭い、話をし、お互いを誤解し、冒険をし、最後にはロマンチックな関係になる。

もう一つの筋はテロ計画だ。テロの首謀者たちはミフリンの古本屋に置いてある本を利用して連絡を取り合っていたのだ。ロジャーはある特定の本が本棚からなくなったり、またあらわれたりすることから異変に気がつく。

クライマックスはミフリン夫妻、ギルバート、ティタニアがテロリストたちと書店で対峙する場面である。ロジャーたちに捕らえられたテロリストはみずからの命をかえりみずに爆弾を爆発させる。ミフリン夫妻たちは書籍に守られて、命に別状はなかったが(「本が衝撃を吸収する力はたいしたものだ」)、建物自体は崩壊する。しかしティタニアの父親である社長がミフリン夫妻の仕事に金を投資し、彼らはあらたな書籍販売事業に乗り出すことになる。

 (2)破壊と創造


私が思うに、破壊(爆弾)と創造(芸術)がこの小説の中心テーマである。たとえばミフリンが皿洗いをする場面。ミフリンは最初、皿洗いを苦役として捉えている。それは無駄な時間であり、彼は台所に書見台をすえつけ、皿洗いをしながら本を読むようにしていた。当然手もとはおろそかになり、彼は何枚もの皿を割ってしまう。しかし皿を割るという破壊行為の末に、彼はふと気がつく。皿洗いこそ、自分が求めていた息抜きの作業ではないのか。そして彼はそこから独自の台所哲学を展開するのである。ここにおいて破壊行為は、古い考えを打破することであり、またあらたな考えを獲得することでもある。

ミフリンの店が爆弾に吹き飛ばされた後の部分にも、破壊と創造のテーマを見ることができる。爆弾でめちゃくちゃになった店内を整理しながら、ミフリンは自分が商売に新しいものを取り入れてこなかったことを反省する。そしてチャップマン社長の経済的援助を得て、ついには新たな事業に乗り出す。破壊行為をきっかけに、古い考えが否定され、新しい考え方が生まれ出るのだ。

ミフリンがバトラーの「万人の道」を高く評価するのは、この作品がヴィクトリア時代の因習的な考え方を木っ端微塵にし、当時の人々に開放感をもたらしたからである。破壊は単に否定的なものではなく、新しい意味を生み出す一歩でなければならない。それゆえロジャーは戦争の愚かしさを徹底的に批判しながらも、そこから新しい人間性の表現が生まれることを切望する。たしかに恐ろしいことが起きた。しかしその破壊を通して、われわれは新しいものを生み出さなければならない。それがミフリンの「口にすることもはばかられるような(戦争の)荒廃から、人間は、隣人としての国家という新しい概念にかならずや目覚めなければなりません」という信念を生み出している。人間の未来に対する肯定的な信念こそ「幽霊書店」を貫く明るさの源である。そして読書は、新しい意味を模索する知的な営為として、この小説の中で推奨されているのだ。

爆弾テロのスリラー、読書案内、戦争批判、それらはまったくばらばらのようでいて、実は一つのテーマでつながっている。

歴史的現実としてはウイルソン大統領の平和構想は挫折し、第一次大戦からは第二次大戦が生まれ、われわれは人間性に深刻な懐疑を抱くようになる。ホロコーストを含めた第二次世界大戦の破壊のあと、創造を口にすることはいささか不謹慎ですらあっただろう。アドルノはホロコーストの後で詩を書くことはできないと言った。

しかしながら私はこの作品を読みながら、それであっても人間は破壊的な現実の中から何か創造的なものが生まれてくることを希望せずにはいられないと思った。暴力的な衝動を避けようとすればかえってその餌食になるというフロイトのペシミスティックな認識は知っているが、それでも希望を持たずにはいられない。希望を捨てたら我々は本当に状況の奴隷になってしまう。スラヴォイ・ジジェクも言っているが、啓蒙の企図には欠陥があるが、しかしそれは啓蒙の企図を放棄する理由にはならない。