2015年11月7日土曜日

番外4 セルフ・パブリッシングについて

1 私の作品は私の死後すぐパブリック・ドメインに

著作権法では作者の死後五十年以上を経過してはじめてその著作物はパブリック・ドメイン入りする。TPPが成立すればそれは七十年以上ということになる。

私は遺言として次のことを明記している。すなわち私がアマゾンから出した本は私の死後すみやかに販売停止にし、パブリック・ドメイン入りさせることを。残念ながら日本には受け入れ先がないようなので、米国やカナダやオーストラリアなどのプロジェクト・グーテンバーグに作品を送ることになるけれど。

生きている間は自分の作品から収入を得たい。しかし死んでしまったら作品がいわゆるオーファン化する前にさっさとパブリック・ドメインに登録してしまいたいという人は結構いるのではないだろうか。クリエイティブ・コモンズなどでそうした仕組みを作ってくれるとありがたいが、法律上の問題もいろいろとありそうだ。それなら自分でやってしまおうと思ったのである。

もしも癌を宣告され余命数ケ月などと言われたら、人の手をわずらわさずにさっさと自分で手続きを取る。事故で突然なくなった場合でも家人が手続きを取れるように普段から準備をしている。

2 できるかぎり未訳作品を

私が出すものはほとんどが未訳の作品である。すでに翻訳が出ているものはよっぽどのことがないかぎり訳出しない。

既訳のもので私が訳し直したのはマリー・ベロック・ローンズの「下宿人」だけである。これはたしかハヤカワのポケットミステリから古い訳が出ていたのだが、それがひどいものでわけのわからない文章で書かれている。英語もよくわからないし、日本語を書くこともできない人の翻訳である。「下宿人」は切り裂きジャックの事件をもとに書かれた出色の心理サスペンス小説で、ヒッチコック以降何度映画化されたかわからない。このすぐれた作品がでたらめな日本語で訳されていることは私としては耐えられなかった。私は文章家ではないが、それでもあの翻訳よりはまともな文章が書けると思い、思い切って訳し直した。

アーノルド・ベネットの「グランド・バビロン・ホテル」も訳そうかな、と思っている。私は文豪や大詩人が余技に書いた娯楽作品が大好きだ。グレアム・グレーンや、サマセット・モームや、セシル・デイ=ルイスや、最近ではジュリアン・バーンズやジョン・バンヴィルのミステリやサスペンス、スパイ物は実に楽しい。ベネットもファンタジーと称してその手の物を書いており、それも非常にすぐれたものだ。「グランド・バビロン・ホテル」は一九三九年に平田禿木が訳しているが、いささか訳が古いし、入手も困難だ。それなら私が……とも思っている。しかしなぜ私が文豪・大詩人の娯楽作品が好きかといえば、その文章が見事だからである。翻って自分の文章はどうかというと……。そう、そこがいちばんの私の悩みどころなのである。

3 宣伝活動

「ハウ・ツー・セルフ・パブリッシュ」みたいな本を読むとソーシャル・メディアを利用して宣伝しろと書いてあるが、私は面倒くさくてそんなことはしない。売れたら嬉しいが、営業活動まではものぐさで手が回らない。たまたま私の本のレビューをしている人を見つけたらお礼を書くが、メールのチェックはパスワードの入力がわずらわしいし、携帯はうるさいから持たない。しかし物を書くのは好きなのでブログはつける。宣伝活動はそれだけである。当然人に知られることはなく、売れ行きもたいしたことはない。「オードリー夫人の秘密」が例外的に売れたのは、どうもどこかの大学の講義で「オードリー夫人の秘密」が扱われたかららしい。原作を読む手助けとして学生が安い私の本を買ってくれたのだろう。

4 あくまで自分が気に入った本を出す


どういう本を選んで翻訳するのか。まず長編で、ジャンルはミステリ関係中心。もちろん一般の文学作品、たとえばヴィクトリア朝時代の小説(ベンジャミン・ディズレーリの政治小説とか、カスバート・M・ビードの「ミスタ・ヴァーダント・グリーン」とか、アンソニー・トロロープの The Way We Live Now など)には食指が動かないわけではない。でもなぜかゴシック小説やセンセーション・ノヴェルやダイム・ノヴェルのほうを先に訳したくなる。

しかしミステリ小説だったらなんでも訳すかというと、そんなことはない。知的な刺激のない凡庸な作品は、百万円を積まれたって訳せない。

翻訳業がいかなるものか、知らないけれど、もしもそれがクライアントから提示された本をとにかく訳す仕事であるとしたら、私にはできない。自分で読んでそこに刺激や価値の見いだせない作品などは訳せない。自分と作品の間にある種の緊密な関係が築けない場合は、翻訳はできない。訳しても訳文が自分の一部として感じ取れない。そんな文章は書きたくない。

私のレビューにフロイトやラカンの名前がよく出てくるのは、私と作品との関係が一種 transferential な関係だからかもしれない。私はこの作品の中には絶対的な真実がある、と思えないとその作品にかかわることができないのである。

またある原作に魅了されたからといって、すぐその作品が訳せるわけでもない。前回の番外編では私の翻訳作品エリック・ナイト作「黒に賭ければ赤が」を紹介した。その中で冒頭の文章を引用し、語り手が「おれにはわかっていた」を繰り返し使うことに言及した。私はなぜ「わかっていた」と繰り返すのか、それがわからなかった。すると途端に訳文が書けなくなって、作業は中断した。私は原作を読み返し、とうとうこの作品にはフィクションの場がいくつか存在しているのだ、という解釈にたどり着いた。(詳しくは前回の番外編か、キンドル版の後書きを見て欲しい)それでようやく翻訳がつづけられるようになった。

「オードリー夫人の秘密」の場合もそうだった。あの作品の冒頭には館の前に建つ時計塔の印象的な描写があるのだが、なぜあれが私の意識にひっかかるのか、それがわからなかった。そのために七年くらい翻訳には取りかかれなかったのだ。しかしラカンの対象aの議論を迂回してそれが理解できたとき、はじめて私は自分の訳文をつくる準備が出来たと思った。

ゴシック小説の名作「ユドルフォの謎」も訳したいが、まだ作品をつかみきっていない。試しに訳文をつくってみたりしているが、どうしても歯が浮くような文章しか書けない。