2015年11月11日水曜日

21 アンソニー・アボット 「驚いた女」 

About the Murder of a Startled Lady (1936) by Anthony Abbot (1893-1952)

アンソニー・アボットは筆名で、本名はチャールズ・フルトン・アウズラー (Charles Fulton Oursler)。私が一時住んでいたボルチモア生まれのジャーナリストである。アンソニー・アボットはじつは本編に登場するニューヨーク警察の本部長サッチャー・コルトの秘書である。秘書が間近で見たサッチャー・コルトの活躍を小説化して発表しているという体裁を取っている。

本編には序文がついていて、そこにアンソニー・アボットがこんな一節を書き付けている。
こと巧妙な犯罪に関しては、警察はまったくの無力であるという、ロマンチックな誤解を抱いている人々が存在する。実際、我が国の警察を軽蔑しあざける人々は大勢いる。短編小説から長編小説に至るまで、不可解な犯罪はただ明敏なる素人によってのみ解決されうる、というような印象を彼らに与えようとしているようだ。
「ロマンチックな誤解」という言い方はなかなか面白い。ロマン主義が天才をもてはやしたように、十九世紀後半から書かれるようになった探偵談は、科学、化学、天文学、音楽、チェス、ワインなどさまざまな分野にわたる専門知識を有し、捜査中に謎めいた台詞を吐き、最後に優雅な指で犯人を指し示す、神の如き名探偵をヒーローにした。しかしアンソニー・アボットはそんな探偵など現実には存在しないと言う。現実の犯罪を解決しているのは警察である。彼らは組織力、忍耐、献身的努力、多少のひらめき、そしてたまに訪れる幸運によって事件を解決するのだ……というようなことを彼は序文で書いている。彼は「名探偵/警察」という対立を批判し転倒させている。しかしながら「驚いた女」の印象はあくまでも古いタイプの物語だ。十九世紀後半から一九二十年代、三十年代ころまでつづいた古い探偵談の中にある「名探偵/警察」という対立はひっくり返しているが、古い探偵談の枠組み自体は壊していないのである。名探偵の位置に警察が来ただけである。本書に近代的なミステリを期待してはいけない。

しかしこの作者は文章が上手で物語がテンポよく進む。

まず冒頭、霊媒師がインチキ興業をやったということで逮捕される。とたんにギルマンという教授が警察に飛んできて、この霊媒師はニセ者じゃない、彼女は殺人事件の被害者の霊を呼び出そうとしていただけだと言う。教授のかつての親友だった本部長コルトは、面白いとばかりに霊媒師に降霊会を開かせる。殺された女の霊に乗り移られた霊媒師は、「自分の死体はフェアランド・ビーチ百ヤード沖の海底に、箱に詰められて沈んでいる」などと言う。コルトはダイバーを派遣して海底を探らせると、本当にばらばらの骨が詰まった箱が見つかった。

コルトは箱やら箱の中にあった衣服、装飾品、頭蓋骨などを手掛かりに捜査を開始する。我々が知っている警察物はなかなか捜査が進展しないが、この作品ではたちどころに衣服から死体の正体が判明し、頭蓋骨から生きていたときの顔が精密に復元されてしまう。ニューヨークの警察が優秀なのか、幸運に恵まれすぎているのか知らないが、とにかくとんとん拍子に捜査は進展して、被害者の家族が判明し、容疑者が浮かび上がる。地区検事長、有力政治家などによる捜査の妨害も含めて結構楽しく読める。

私は以前から the third degree とはどんなことをやるのだろうと思っていた。この本では容疑者アルフレッド・ケプリンガーがこの厳しい取り調べを受けている。それによると
アルフレッド・ケプリンガーを殴るようなことは誰もしない。物理的暴力は最悪の犯罪者に対してのみ用いられる……。アルフレッド・ケプリンガーのような男に対してはいかなる物理的な暴力も用いず、長時間にわたる尋問という精神的な拷問を用いる。食べ物や飲み物が与えられなかったり、肉体的な要求が否定されたりすることはない。そういう話は大抵嘘だ。しかしケプリンガーは一晩中寝かされず、質問をされ、答えなければならない。すでに彼が答を返した質問も何度も繰り返される……。彼の証言の矛盾、言葉遣いの違いはことごとくチェックされ、厳しい疑いの目で以て矛盾、食い違いの理由をただされる。さらに彼は心理的な攻撃にもさらされる。ある尋問者は彼をいじめ、別の尋問者はやさしく、友人のように話しかける。これらはすべて彼を罠に掛けるためのものである。確かに残酷だが、しかし私はこれが必要だと考える。
フィクションに書かれていることだから、これが the third degree の実態であったとはとうてい言えないが、それにしてもひどいやり方である。一晩中寝かさないでおいて、「肉体的な要求が否定されたりすることはない」などとよく言えたものだ。こんなことをされたらいくらでも警察の誘導にひっかかる。もちろん物的証拠がなければ陪審は容疑者を無罪にするだろうけど。