2015年11月25日水曜日

25 ローレンス・トリート 「死亡のD」 

D as in Dead (1941) by Lawrence Treat (1903-1998)

本作は心理学者カール・ウエイワードが探偵役を務めるハードボイルドである。カールはこんな具合に事件と遭遇する。

心理学教授の職をクビになり私立探偵になることを考えていたカールは、ニューオーリンズのホテルで美しい女を見かける。彼女は落ち着かなげに手袋をいじりまわし、しきりに目をしばたたいている。彼女はつと立ち上がってホテルを出た。

カールは私立探偵になったつもりで彼女のあとをつけることにする。それはほんの出来心にすぎない。ゲームでもするように彼は彼女を追ったのだ。

彼女はフレンチ・クオーターにある薄暗い建物の中に入っていく。その直後に突然銃声が鳴り響いた。

カールが建物の中に入ると、足元のコンクリートの床に、あとをつけてきた女が横たわっていた。彼女の身体の先には、通路をふさぐようにして手押し車がおいてある。その中には銃が置いてあり、その銃口はカールのほうを向いていた。

さらに手押し車と壁のあいだには、小柄な男が身をかがめていた。一瞬カールと男は目を見合わせたが、後者はいきなり飛び出してくると、カールを突き飛ばし外の通りへ飛び出す。

カールは予想もしなかった出来事に呆然としていた。しかし気を取り直して女を抱きかかえる。女は「わたしを……わたしを……呼んで……」と謎めいた言葉をつぶやいて息絶える。

その後カールは女が名前をミリセント・キースターといい、ニューヨークの億万長者アルバート・マスタートンの妹であることを知る。彼女にはシス(娘)とソニー(息子)というティーンエイジャーの子供がいた。夫は交通事故で死亡していたが、彼女はまだ再婚していない。その美しさに惹かれて彼女に言い寄る男は多いのだが、なぜか夫のジェレミー・キースターは死んでいないと信じていた彼女は、誰をも夫として受け入れることはなかったらしい。

さあて、ミリセントを殺した犯人は誰か。実は私は、ハードボイルドを読むときは最初に出てきた美女にまず疑いの目を向ける。彼女が私立探偵の依頼人であろうが、一見脇役のように見えようが、とにかく「美女を疑え」。そして最初に出てくる女は、ミリセントの娘のシスである。この小説でもっとも精彩を放っている人物だ。彼女は母親の死後、急に子供から大人に変貌し、その清純であると同時に妖しい魅力で大人の男をも魅了する。彼女は明らかにある事実を隠している。しかし決してそれを言おうとしない。探偵役の心優しいカールも無理矢理彼女から情報を引き出そうとはしない。読んでいるほうはカールの甘い態度にいささかいらいらするが、小生意気なガキとは言え、彼女は未成年者だ。しかたがない。

もう一人の美女はミス・トレヴィスだ。彼女はバーで踊りをおどっている。そしてバーの経営者ベニングに惚れていて、彼との結婚を考えている。どことなく退廃的な翳のある女だ。

正直、私はこの二人のどちらかが犯人だろうと思って読んでいた。しかし読み進めば読み進むほど、ほかにも疑わしい人物がでてくるのである。なにしろ殺されたミリセントは美しく、付き合っていた男が何人もいる。感情のもつれが殺人につながることは充分に考えられるので、真犯人候補はいくらでも出てくる。私はあれも怪しいぞ、これも怪しいぞ、とほとんど出てくる人物全員を疑うことになってしまった。謎解きという面ではよくできた作品だと思う。

一つ残念だったのは、私がカール・ウエイワードものの第一作を読んでいないことだ。読んでいれば、たとえば次のような箇所はもう少しわかりやすくなったはずなのだ。私立探偵になったつもりでカールがミリセント(マダムX)のあとをつけるところにこんな描写がある。
 カールは足をはやめて距離を縮めようとした。霧はいっそう濃くなり、彼らを世界から切り離した。そのため彼らはいわば二人だけの親密な空間を形づくりながら、光を投げかける街灯から街灯へと進んでいった。彼は前にいるのは妻のガブリエルで、妻がこの暗くて霧の立ちこめる通りを、家を探して歩いているのだ、と考えようとした。しかしもしもガブリエルがここにいるなら、目の前のマダムXは彼らが出てきたホテルの部屋で待っていることになるだろう。
 ガブリエルとマダムX。彼らは彼の心の中で奇妙な具合に混乱し、ほとんどどちらが彼の数ヤード前を歩いているのかわからなくなった。
私はこの不思議な描写に魅了された。カールと妻のガブリエルは、彼が活躍した前の事件で出遭ったらしい。しかも妻はそのときの容疑者だったようだ。おそらく事件の直前に探偵と被害者が移動するこの奇妙な空間の描写は、前作も読まなければ十全に理解できないのではないだろうか。前作 B as in Banshee を読んでからもう一度考え直したい。