2015年11月21日土曜日

24 エリザベス・ジル 「クライム・コースト」

The Crime Coast (1931) by Elizabeth Gill (? - ?)

ちょっと長くなるが、こんな場面を想像して欲しい。

あなたは画家である。あなたの絵を買いたいというお客(パトロン)に誘われ、あなたは彼女が泊まっているホテルの一室へ行く。交渉をしているときに、たまたま新しいパトロンが短い時間、席を外す。彼女が戻るのを待っていると電話が鳴り、あなたはパトロンに替わってその応対に出る。すると電話の向こうから男の声が「エイドリアンが会いに行く。彼女にそう伝えておいてくれ」と伝言を頼む。エイドリアンはあなたの親友である。しかし電話の声は聞き慣れたエイドリアンの声ではない。なんだか変な状況だが、ご理解いただけるだろうか。

翌日あなたはパトロンがホテルの部屋で殺されたことを知る。あなたが帰った後、誰かが彼女を殺したのだ。あなたはどんなことを考えるだろう。エイドリアンが殺人を犯したのだと考えるだろうか。しかし「エイドリアンが会いに行く」と言ったのは、エイドリアン以外の人物である。

本書「クライム・コースト」に登場する若い女の画家は以上のような状況に置かれて、てっきりエイドリアンが犯人だと思い込む。その話を聞いた友人も、エイドリアンが犯人だと思い込み、翌日になってようやく、エイドリアンは名前を使われただけかもしれないという可能性に気がつく。現代の読者なら、そんなことはまっさきに気がつけよ、と突っ込みを入れたくなるが、二十世紀の前半に書かれたミステリの中には、こんなナイーブな人間が登場することは結構あるのだ。

本書に出てくるスコットランド・ヤードの刑事も、われわれがミステリで活躍する刑事に期待するような行動とはおよそかけはなれたことをしてくれる。彼は殺人事件が起きてすぐに容疑者の尾行をはじめる。それはいいのだが、この容疑者が、誰でも参加できる大きなダンスパーティーを開くと、なんと刑事は「仕事と同時に楽しみのため」と称して、ノコノコとこのパーティーに出かけていくのである。「仕事と同時に楽しみのため」!

しかしこういうナイーブさはまだ許せる。許せないのは本書において探偵役をつとめるベンヴェヌートの次のような台詞である。
 ……殺人の大部分は精神的、肉体的、あるいは道徳的に堕落した人間によって犯されていて、こうした人々は(死刑や終身刑によって社会から)排除されたほうがいいのである。しかしその他に少数の、稀な殺人がある。それは本質的に心根の優しい、法に従って生きている、まともな人間が、何かよくわからない動機、あるいは倫理的ですらある動機から犯す犯罪である。場合によっては法を越えた知恵、慈悲深い支配者が許しの手を差し伸べることがあるだろう。しかし長引く裁判に苦しんだり、胸の痛い思いをすることは避けられない。
 法律の下僕ではないわれわれにとって大切なのは法律の字面ではなく、その精神であるはずだ。それが正しいなら、一般原則を個別のケースにあてはめるだけの判事や陪審よりも、普通にものを考える人間のほうが正義のなんたるかをより正しく理解するという状況だってありうるだろう。
言葉遣いは仰々しいが、しかしこれはナイーブな思考の典型例である。堕落した人間とそうでない人間の区別ができると考えるところ、さらに「まともな」とか「普通の」といった曖昧きわまりない言葉を用いるところにそれがあらわれている。まともな、普通の意見や考え方というものは、よくよく点検してみると、どれもバイアスがかかっているものである。また「一般原則を個別のケースにあてはめる」というのは罪刑法定主義のことを言っているのだろうか。だとしたら、私は近代国家の基本原則の一つを軽んじるような世界などには住みたくはない。

ベンヴェヌートは上の言葉の通り、愛する人間を守るためやむを得ず人殺しとなった本当の犯人をのがし、別の男を犯人に仕立て上げる。その別の男は確かに悪いことばかりをしているのだが、ホテルの殺人とは直接には関係がないのだ。なのに、ベンヴェヌートは、あんな男がいなくなったって別に痛くも痒くもないとうそぶき、にせの証拠品を彼のポケットに忍び込ませて警察に彼を逮捕させ、それによって本当の殺人者をわざと逃がすのだ。こんなとんでもない話がどこにあるだろうか。H.C.ベイリーの「ガーストン殺人事件」をレビューしたとき、弁護士であり探偵でもあるクランク氏は警察の乱暴、横暴な捜査をただすのだと書いた。しかし本書の作者エリザベス・ジルは、国家権力である警察がベンヴェヌートと同じ考えを持ち、恣意的な刑罰権を行使することになったらどれだけ怖ろしいことが起きるか、そういうことには思いが至らないらしい。

本書はフランスの輝かしい海辺を舞台に若い男女のロマンスも描かれるのだが、その明るさの中でとんでもない認識が語られるという危険な物語である。ナイーブな登場人物があらわれ、ナイーブな語り方がなされているからといって安心してはいけない。得てしてそういう話のなかにはナイーブな認識が臆面もなく顔を出す。そしてナイーブな認識というのは予想以上にたちが悪いものなのだ。