2015年9月30日水曜日

12 ハーバート・フラワーデュー 「山荘の怪」

The Villa Mystery (1912) by Herbert Flowerdew (1866-1917)

教科書に載せられてもおかしくないようなお行儀のいい、優等生的な文章で書かれた作品である。文章の第一の役割は達意にあるべきなのだから、その点ではまったく不満はない。しかしこういう文章の作品を読むのは非常に不安である。得てして認識がナイーブで、型にはまった人物造形や、予定調和的な筋立てに陥りやすいからだ。

悪い予感は当たってしまった。この作品にはネヘミヤ・グレイルという金持ちが登場する。おそらく名前からしてユダヤ人ではないだろうか。彼は稀代の強突く張りで、仲のいい友人からも、結婚した妻からも金や宝石をだましとる。じつは彼は大がかりな詐欺事件を起こし、警察は彼を逮捕しようとしていたくらいなのだ。態度は高圧的でぶっきらぼう。すこぶる感じが悪い。しかしユダヤ人の通俗的イメージに寄り掛かったこういう人物設定は、この作品が書かれた頃の時代背景を考慮したとしても、あまり感心しない。

他方、本編のヒーローとヒロイン、すなわち善玉を演ずるほうは、見事なまでにさわやかな若い美男美女である。いやはや。ミステリが登場人物に、こんなにコントラストをつけていいのだろうか。あいつも怪しい、こいつも怪しい、というのでなければ読者は犯人当てを楽しめない。しかし一九一〇年代にはまだこういう素朴なストーリーが存在したのである。

この作品のもう一つの欠点は、教科書的な文章なためにサスペンスが盛り上がらないということである。たとえば静まりかえった夜のロンドンで、ヒーローが警官に見られぬよう物陰に身を潜める場面とか、真犯人が家の中に侵入し、それをヒーローがこっそり見守る場面とか、よくわかるのだけれど、緩急のない、一本調子の文章で、あまり緊迫感を感じない。

しかしこの文章は、説明は得意である。ヒーローが陥るモラル・ジレンマは丁寧すぎるほど丁寧に、わかりやすく説明されている。

筋を紹介する。

ヒロインはエルザ・アーマンディという十八歳の美少女で、科学者だった父親がグレイルに金をだまし取られ、今はもう一文無しという状態だ。物語は彼女がロンドンから汽車に乗ってグレイルに会いに行くところからはじまる。三か月前に亡くなった父親の蔵書を調べていたら、その中に父親がグレイルに六千ポンドを貸した際に交わした借用書が挟まっていたのである。それを盾に彼女は父親が貸した六千ポンドを返してもらおうと思ったのだ。

もちろん我利我利亡者のグレイルが金を返すわけがない。しかも彼はエルザが来たとき、逃亡の準備で大忙しだった。詐欺がばれたため、有り金をバッグに詰め込んでとんずらしようとしていたのである。

しかしエルザとしても追い返されて、はい、そうですかとは引き下がれない。なにしろ手許には六ペンスしかないのだから。彼女は意を決して屋敷の中に忍び込み、グレイルの書斎に入り込む。そしてそこにあった金の詰まったバッグをひったくり逃げ出すのである。

彼女が逃げ出してすぐのことだ。食事部屋に入った召使いが主人グレイルの死体を発見する。銃で撃たれ、なぜか足を骨折していた。

警察はグレイルに会いに来た謎の少女が犯人ではないかと、彼女の捜索に乗り出す。ところが事件が起きた頃グレイルの屋敷にはもう一人の女性がいた。それがグレイルの妻である。妻は宝石をグレイルにだまし取られてから家を出ていたのだが、召使いから宝石の隠し場所を教えられ、グレイルが殺害される晩、こっそりと家の中に入っていたのだ。

さて、犯人はエルザなのか、グレイルの妻なのか。一方の無実が証明されれば、他方の容疑が濃くなる。グレイルの妻の息子、つまりグレイルのまま息子であるエズモンドは、逃亡中のエルザと恋に陥るのだが、母の無罪を主張することにも、恋人の無罪を主張することにも躊躇する。このあたりの心の揺れ動きは、よくわかるように書かれているのだが、優等生的な説明口調で書かれていて、なんだかカントのアンチノミーの解説でも読んでいるような気分になった。

このアンチノミーを解消する方法はただ一つ。第三の人物、母でも恋人でもない真犯人を捜すしかない。そしてここでまたこの作品の弱点を指摘することになるのだけれど、殺された我利我利亡者グレイルのほかに、憎々しげな登場人物は一人しかいないのである。ヒーローとヒロインは真犯人を知って驚くけれども、読者は作品の三分の一を読んだ地点でその男に目星をつけ、読み進めば読み進むほど、その男が犯人だと確信するだろう。善人は善人らしく、悪人は悪人らしく描かれるという単純さが、最後までたたる一作である。