2015年9月22日火曜日

番外2 愛の関係性とキム・ギドク

1 配置と内面の関係

人間には感情があり、意思があり、主体性があるといった議論に対して、感情や意思はその人が置かれた象徴的な配置、関係性から派生するという主体を否定した考え方がある。私は後者の考え方に興味があり、Death of A Puppeteer のレビューの中で「人間は置かれる立場によって百八十度変化しうるという認識」についてちょっと触れたのも、そのためである。

たとえば恋愛感情は心の内奥から発せられるものと思われているが、関係性から内面が派生すると考えるなら次のようになる。

われわれが住んでいる空間にはさまざまな人間関係が用意されている。親と子の関係、債権者と債務者の関係、先生と生徒の関係などなど。恋愛関係もその一つで、要するにAという場所とBという場所が存在し、Aという場所はBという場所に「わたしはあなたを愛している」というメッセージを伝え、Bという場所はAという場所にやはり「わたしも愛している」というメッセージを発していると考えればいい。肝心なのは場所がメッセージを発しているのであって、人間は関係ないという点である。

この場所をなにかの偶然で人が占めるようになる。するとAの位置についた人とBの位置についた人のあいだに恋愛関係が生まれる。

これが、感情は配置から派生する、という意味だ。

このとき二つの誤認が生じる。

一つの誤認は、「愛している」というメッセージは場所が発しているにもかかわらず、その場所を占めている人間が、自分の内面から発せられたメッセージであると誤解することである。誤認ということが最初に述べた「感情や意思はその人が置かれた関係性から派生する」ということの意味である。

もう一つの誤認は、AやBという配置に人間がつくのはまったくの偶然なのに、いったんその配置についた人間には、それが必然的な結果のように思われるということだ。すなわち、わたしが彼・彼女と出会ったのは運命の導きであったというように。人間が恋愛関係に陥ることは偶然であり、理不尽な事故であるのに、そこが彼・彼女の人生を意味化する中心点になってしまう。

2 配置の多重性

キム・ギドク監督の「悪い男」には、浜辺に座る恋人の写真が出てくる。ただし恋人たちの顔の部分は切り抜かれている。恋愛から人間的実体を取り除き、恋愛の配置だけが残された写真である。映画を見た人は知っているだろうが、主役であるチンピラの男と女子大生の愛情は、二人の顔がこの写真の空白にぴたりとはまりこんだ瞬間に成立する。

しかしキム・ギドクがこの映画で問題にしているのは、人間が恋愛関係という配置につく、その偶然性のほうである。つまり、恋愛という配置につけば、二人の間には機械的に恋愛が成立するが、この二人帯びている特性が、恋愛関係にそぐわしくない場合もあるということである。それが「悪い男」というタイトルの意味だ。チンピラの男は通常の意味においては、女子大生が恋愛をするような相手ではない。本来なら憎むべき、いとわしい存在である。しかし両者がある関係にはまりこめば、そんな二人の間にも恋愛は成立する。極端に言えば、殺し・殺されるという関係にある人間同士が愛し・愛されるという関係にはまりこめば、その双方の関係が同時に存在することになる。Death of A Puppeteer には「日曜学校へ熱心に通う人も戦争になったら平気で人を殺す」と書いてあった。

人間は社会空間、象徴空間においてさまざまな関係性を他者と有しているが、その関係性を調節するような一段上の機能は誰も何も持っていない。人間がどのような配置につくかは、完全な偶然にまかされている。それゆえ関係性の関係が極端と極端の重なり合いとなることもありうるのだ。恋愛映画が量産される韓国において、キム・ギドクの作品はとりわけ悪意に充ちているが、それは彼の(1)愛は男と女の相互認識の上に成り立つものではなく、誤認の上に、機械的に成立する(2)恋愛関係は、愛とはまったく逆の、暴力的な関係と合致することもあり得る、という認識に由来する。

3 ファンタジー

キム・ギドクは「空き家」においてこの認識を三者関係としてもう一度描いている。

「空き家」の主人公である若い男は、留守宅を探して、家人が戻ってくるまでその家に住み込むことを繰り返している。ものを盗むわけではない。ただそこで生活し、家の人が帰ってくる前に家を出るだけだ。出るときは汚したものをきれいに洗濯し、家具の配置も正確に元通りに戻す。さらに壊れた玩具や時計を修理していく。すなわち「部品間の配置の調整」を行うのである。

この主人公がある家で発見したのは、壊れた夫婦関係だった。金持ちらしきその家の主人は、いっこうに自分を愛そうとしない美しい妻に物理的暴力をふるう。妻の身体はその暴力で痣だらけだ。この映画の眼目はいかにして壊れた愛情関係が修復されるかという点にある。キム・ギドクの答はいつもながら残酷だ。彼は壊れた玩具や時計のように直せばいいという。なぜなら愛情とは正しい恋愛の位置に人間を配することなのだから。

若い男と逃避行に出た美しい妻は、次第に男に気を惹かれていく。結局若い男は警察に捕まり、美しい妻は暴力的な夫の元に帰されるのだが、刑務所の中で自分の気配を消し、幻と化す術を会得した若い男は、こっそりと真夜中に彼らの家に忍び込む。鏡を見ていた美しい妻は、自分の背後に若い男がいることを知る。(別の言い方もできるだろう。彼女は鏡の中の自分を見つめる。そして自分の中に理想の恋人を見出す)彼女が振り返ったとき、たまたまそこに夫があらわれ、彼女と若い男を結ぶ直線上に立つことになる。そのときに妻は「愛しているわ」と言うのだ。夫はその言葉が自分に発せられたものと勘違いし、感激する。夫は妻をかき抱くが、妻は夫の肩越しに幻のような若い男と接吻を交わしている。

翌日の朝、夫婦は向かい合わせにテーブルに座って食事をする。妻は夫に笑顔を向けるが、じつは夫のすぐ背後には若い男が立っているのだ。彼女は若い男に向かって愛を表現しているのだが、夫はそれを自分に向けられたものと誤解する。

  この三者の配置こそが恋愛関係の配置、「悪い男」に見られたモデルよりもはるかに精緻なモデルである。女は理想の恋人に向かって愛をささやく。しかし女と理想の恋人を結ぶ直線上には穴が開いていて、その穴に誰かが偶然はまりこむと、女はそれを理想の恋人と誤認する。穴にはまり込むのが誰であろうとかまいはしない。ドメスティック・バイオレンスの常習犯であろうが、けちなチンピラであろうが、熱愛の対象になってしまうのである。しかし愛はつねにすれちがいであり、誤認である。

若い男はこのような配置、すなわちジャック・ラカンの言うファンタジーを巧みに構成することで壊れた愛を回復させたのである。彼の趣味はゴルフだが、彼がやったことはまさに暴力的亭主というボールを、恋愛関係を成立させる正しい配置の穴に落とし込むことだった。





4 キム・ギドクの不幸

アン・ソンギはキム・ギドクから「サマリア」という映画に主役で出てくれないかと問い合わせがあったとき、すぐさま断ったという。「サマリア」は援助交際をしている娘を父親が殺すという話だが、アン・ソンギは韓国においてはそのようなことは文化的に起き得ないと返事をしたそうだ。キム・ギドクはそれはあり得ると考えている。それは単に配置の問題である。韓国的な親子の関係が、殺し殺されるという関係に重なることは、関係の偶然性を考えるとき、ありえないこととはいえない。それどころか、それこそわれわれ人間の生のありようであると認識すべきである。

普段親切でやさしい人間が残虐な人殺しを行い、新聞をにぎわす。人間に内面があると考える人々は、このような両極端の一致を、病的で異常なものとみなすだろう。しかし人間の主体性を否定する考え方からすれば、そのような一致はわれわれの生を構成する条件からして、当然生じ得ることである。逆にヒトラーのような男が毎日大勢の人を虐殺しながら、しかし夕方家に帰って情愛あふれる、人間的な行為を行っているかもしれない。それも少しも異常なことではない。私の知り合いが、世界の誰もが知っているある億万長者に出会い、そのいい人ぶりに感銘を受けたなどと言っていたが、私に言わせれば彼は認識が甘い。

しかしキム・ギドクや私のような考え方は一般的には受け入れられない。儒教思想の色濃い韓国において主体性を否定するのはヒロイックな振る舞いではあるけれど、そして私は「悪い男」も「空き家」も傑作だと思うけれど、キム・ギドクはそれなりに痛い代償を支払わなければならなかった。