2015年9月9日水曜日

7 ヘンリー・カットナー 「エレナー・ポープ殺人事件」

The Murder of Eleanor Pope (1956) by Henry Kuttner (1914‐1958)

この小説が面白いのは、現実の殺人事件の捜査と、その犯人かもしれない男の精神分析が同時に進行する点である。

殺人事件というのはエレナー・ポープという女性がサンフランシスコのとある賭博場を出たあと、暗がりで撲殺されたというものである。財布から金が盗まれていないことから単なる物取りの犯行ではないだろうということになっている。

事件が起きてすぐに精神分析医マイケル・グレイのもとにハワード・ダンという男が訪ねてくる。彼は精神状態が不安定で、マイケルに治療をしてもらいたいのだ。直らないと妻の兄、つまり義理の兄に施設送りにされると怯えている。

ハワード・ダンは決して狂人ではないが、ひどく不安定で、時々錯乱したようになる。グレイは彼の家族が治療に協力することを確認してからダンの分析に取りかかる。

さて、このハワード・ダンは殺されたエレナー・ポープと非常に深い関係にある。まずエレナー・ポープは先ほど述べた義理の兄の奥さんだった。次にダンはエレナーと肉体的関係を持っていた。ダンは義理の兄を父親のように見なしていたので、精神分析の知識のある人ならここにエディプス的な関係が潜んでいることを見抜くだろう。つまり義理の兄(父)、エレナー(母)、ハワード(子)という関係である。

さらにエレナーは賭博中毒とでもいうものにかかっていて、ダンから金をせびり取っていた。そしてもしも金を渡さないなら、自分たちの関係を義理の兄にばらすと脅したのである。つまりハワード・ダンはエレナーを殺す動機を持っているのである。

しかしダンは本当にエレナーを殺したのだろうか。グレイのオフィスで展開される分析治療は、その興味のために異常なサスペンスにあふれている。ただし、ダンが安楽椅子の上で語ることはきわめて混乱している。ダンと妻の関係、ダンと父の関係、ダンと義理の兄の関係、さらにダンとエレナーの関係が重層的に重ねられ語られるからだ。さらに無意識のうちに彼はある事実から目を背けており、それを頑固に語ろうとしない。

そのためこの場面では読者に辛抱と冷静さが要求される。わかりにくいと本を投げ出さずに、そのわかりにくさを心に留め置いて、後の解決を待たなければならない。

グレイが最後に語る殺人事件の全貌とハワード・ダンの心理パターンの説明は、理論的な洗練さを欠いていて、充分満足のいくものではないが(とくにダンの特殊な性的傾向を指摘するくだりは説得的ではない)、しかしジャンル小説としてはまずまずの出来だと言えるのではないか。

私は一九五〇年頃のアメリカに於ける心理分析がどのように行われていたかまったく知らない。おそらくここに描かれている治療のやり方は、実際とは大いに異なるのではないか。しかしそれを言ってこの作品をとがめるのはヤボというものである。ミステリはゲームであって、この本に提示されているゲームの規則に従ってわれわれは遊ぶべきなのである。

しかし心理的な推理と、物的証拠から展開される演繹的推理の相性の悪さはこの作品にも見られる。心理的な推理はどうしても「そうも考えられるが、証拠がない」となってしまう。決定力が不足しているのである。

精神分析学の開始とミステリ隆盛のきっかけが歴史的にほぼ同時期ということもあって、両者の間には少なからぬ縁があるのだけれど、精神分析の論理とミステリの演繹論理を組み合わせた作品というのはそんなに多くない。それがめざましい効果を上げている作品となると、少なくとも私は目にしたことがない。逆に精神分析学者がミステリ作品を読み解くときに、興味深い議論が展開されるようだ。たとえばジャック・ラカンがポーの「盗まれた手紙」を分析した論文とか、スラヴォイ・ジジェクのスティーブン・キングやパトリシア・ハイスミスの作品分析などはじつに鋭く興味深い。いったいこの非対称性はなんなのだろう。案外深い意味がありそうな気がする。

作者のヘンリー・カットナーはロサンジェルスに生まれたアメリカ人。SF作家かと思っていたら、精神分析医マイケル・グレイを主人公にしたミステリを四冊書いているようだ。本書の他のタイトルは
The Murder of Ann Avery (1956)
Murder of a Mistress (1957)
Murder of a Wife (1958)
である。作者が心臓発作で死ぬ直前に書かれた四編の長編小説はみなミステリだ。もう少し長生きをしていたらもっとミステリを書いていたかもしれない。残念だ。