2015年9月25日金曜日

11 H.C.ベイリー 「ガーストン殺人事件」

The Garston Murder Case (1930) by H. C. Bailey (1878-1961)

本編の主人公クランク氏はロンドンにクランク・アンド・クランクという法律事務所を構える弁護士である。いたって気のいい人物で、にこにこ笑顔を浮かべ、小唄をしょっちゅう口ずさみ、糖尿病になりはしないかと思うくらい甘いものを食べている。もう結構お年のようで、彼自身は新聞種になるような有名事件でなければ裁判所で弁護をすることはないようだ。しかしいったん法廷闘争となると、普段の穏やかな彼からは想像もつかないような烈々火を吐く弁論が飛び出してくる。

クランク氏は犯罪者の弁護を積極的に引き受けるため、スコットランド・ヤードにはすこぶる評判が悪い。しかし彼は悪徳弁護士というわけではない。 

この小説で驚くのは警察の捜査のずさんさである。もちろん一九三〇年頃のイギリスの警察がどんな捜査をしていたかなど、私は知らないし、この小説が当時の捜査方法を忠実に反映しているとも思わないが、とにかく素人目に見ても無理筋と思えるような捜査、逮捕をしているのである。なるほどビリー・ボーンズは名代のコソ泥で、ミス・モローの宝石箱が紛失したときおなじホテルに泊まっていた。警察が怪しいと思うのは当然であるし、捜査をするのは彼らの義務だろう。しかし怪しいだけで逮捕はできない。クランク氏はビリー・ボーンズの弁護をして、警察になんら物的証拠がないことを突き、無罪を勝ち取る。当然のことだ。

また警察は証拠をつかんでいるわけでもないのにとある男の身柄を拘束したり、べつの女性に向かって「おまえが殺人犯じゃないのか」というようなことを言う。確かに彼らは不審な行動を取っているし、実際に犯罪をやらかしていると思われる。しかし警察には何の証拠もないのである。だからいずれの場合もこっぴどく容疑者から反論されてしまう。

クランク氏はこういう粗雑な警察の捜査を批判する形で物語に登場する。本来なら警察は彼らの不備を指摘するクランク氏に感謝すべきなのだが、警察が自分たちを批判する人々を悪とみなすのは大西洋の彼岸と此岸、あるいは洋の東西を問わないようだ。

クランク氏は警察の手法のまずさを指摘するだけでなく、彼らの捜査が間違った方向を向いているときはそれを正しさえする。たとえばミス・モローの宝石箱が盗まれたとき、警察は盗んだ人間にばかり注目するのだが、クランク氏は宝石箱には手紙が入っていたこと、手紙を必要としていた人間は誰なのか、それが事件を解く重要な鍵になることを、裁判の場でそれとなく警察に教えるのである。

まるでクランク氏は警察の先生のようである。彼は警察に捜査のあるべき姿を示し、推論する際の慎重な態度を教え、彼らの誤解を正す。クランク氏は彼が見抜いている事件の真相を決してそのまま警察に明かすことはない。すぐれた教師が生徒に対してするように、ヒントのみを与えてできるだけ生徒自身に考えさせ(「頭を使いたまえ」とクランク氏は何度も言う」)、生徒が自分の力でゴールにたどり着けるようにしむけるのだ。しかしいかんせん警察はできの悪い生徒であって、なかなか先生の意をくむことができない。そこでクランク氏はときにはわざとらしい手を使って警察を動かしたりもする。たとえばクライマックスの直前には、意図的に大声を出して自分の行く先を警察に教え、自分の跡を追跡させる、という場面がある。あそこでは、クランク氏は警察に黙ってフォークストンに向かってもよかったのである。彼には優秀な手下が何人もいるのだから。しかし彼は警察を動かしたかった。あくまで警察に捜査をさせさたかった。本来なら生徒に時間を与えてじっくり考えさせるべきなのだろうが、あの場合はこのチャンスを逃したら事件は迷宮入りするという重要な局面だった。それなのに警察は何も気がつかずにのほほんとしている。先生としては芝居じみた真似をしてでも生徒を外に引っ張り出すしかなかったのである。

探偵と警察が別個に事件を捜査する、という物語はたくさんある。クライマックスで探偵が警察の思いも寄らなかった真犯人を指摘する、という物語も多い。以前このレビューでジョン・T・マッキンタイアの「美術館殺人事件」という作品を紹介したが、あれなどはその好例である。警察が間違った人間を逮捕し、探偵は逮捕された男の無実を証明するために真犯人を捜し出すという話だ。こういう物語では探偵と警察が対立的に描かれる。しかしクランク氏は警察に嫌われているにも関わらず、決して警察と対立しているのではない。それどころか教師として彼らを導いているのである。これが「ガーストン殺人事件」を読んで私が気がついたいちばんの特徴である。

気がついたら作品の内容に触れるスペースがほとんどない。簡単に記す。ある発明家が特殊な製鋼法をあみだしたのちに行方不明になる。その後とある会社がそれとおなじ製鋼法を使って鋼鉄をつくるようになる。当然会社は、発明を盗用したのではないかという疑いをかけられた。しかし会社は、社長の息子の一人が研究中に見つけた製鋼法を使っているだけで、盗用したのではないと答える。異なる人間が同時に同じ発明を行うということはままあることだ。しかし本当にそうなのか。二十年後、発明家の息子が成人し、父親の死に疑念を抱くことからこの物語ははじまる。作者はミステリ黄金期の立役者の一人だ。重厚で味わいのある作品だと思う。